🏞83)─3─文政のコレラ大流行。水戸藩の忠五郎事件と大津浜事件。第一次英緬戦争。シーボルト事件。宝島事件。1817年~29年~No.349No.350No.351 @ ㉙

シーボルトの日本報告 (東洋文庫)

シーボルトの日本報告 (東洋文庫)

  • 発売日: 2009/03/01
  • メディア: 単行本
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 1817年 浜松藩水野忠邦は、京都所司代を経て老中に就任した。
 コレラはインドの風土病で、コレラ菌はガンンジス川流域からベンガル湾一帯に存在していた。
 ベンガル地方コレラが大流行して、カルカッタ近くの村を全滅させ、駐留していたイギリス軍に伝染した。
 イギリスの植民地政策とともに、コレラが世界中に広がっていった。
 世界的流行(パンデミック)として、22年(文政5年)に朝鮮から対馬を経由して日本に上陸した。
 文政の大流行は、中国地方の流行で終わった。
 そして、ヨーロッパやアフリカへと拡大した。
 アメリカ・タイム誌は、ヴァシリー・ゴロヴニンの『日本幽囚記』を紹介した。
 『日本幽囚記』が、各国語に翻訳されて出版され、国を閉ざしている日本は異教徒による暗黒の国ではなく、日本人はキリスト教を迫害している野蛮な民族ではない事が知れ渡った。
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 1819年 幕府は、オランダから購入した最新鋭の空気銃の修理を国友村のある彦根藩に依頼した。
 彦根藩お抱えの鉄砲鍛冶職人・国友一貫斎は、独学で修理すると共にその製造方法を学んで同じものを作った。日本初の気砲である。
 更に、独自に改良を加えてオランダ式空気銃よりも早打ちできる日本式速射気砲を製造した。 
 その過程で、空気に重さがある事に気付いた。
 幕府は、速射気砲の威力が殺傷能力を高めた事に恐怖し、暗殺道具になる事を恐れてお蔵入りとした。
 開国と共に来日した外国人は、日本の技術力の高さに一様に驚き、そして恐怖した。
 イギリス・東インド会社トーマス・ラッフルズは、マレー系漁民が僅かに住むシンガポールに上陸し、東南アジアの海上交通の要衝にすべく開発に着手した。
 労働力が不足した為に、中国人やインド人を移住させて使役した。
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 1820年 アメリカのキリスト教会は、ハワイ王国キリスト教化する為に宣教師を派遣した。
 アメリカ政府は、ハワイを自国領にする為に、ハワイ先住民から土地を奪ってプランテーション農場を拡大した。
 カメハメハ王朝の若き王子や王女が相次いで謎の死を遂げ王位継承者を失い、民族宗教を信奉するハワイ王国の衰退が始まった。
 国王への忠誠心と愛国心を持つハワイ先住民は、にこやかに接してくるアメリカ側の王国乗っ取りとして警戒した。
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 1820年頃から60年頃まで、日本近海で操業していたアメリカの捕鯨船は年平均100隻と言われている。
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 1821年 イギリスは、フランス・ロシア帝国と共同してオスマン・トルコ帝国の内紛に介入し、ギリシャを独立させた。
 そして、さらなる利権と植民地と富を得る為に内部分裂を画策した。
 欧米列強は、異教徒の国の内紛を煽り、衰弱させたところで征服し、植民地として奴隷とした。
 11月17日 平戸藩第九代藩主・松浦静山は、大名・旗本から市井まで見聞きした事や伝え聞いた事で面白い話を『甲子夜話』(全278巻)に書き記した。
 正篇「巻之60」第14条。「当申年(文政7年、1824年)より7カ年前(1817年)より、横磯の外に異国船6、7艘位宛、夏初より秋頃まで見請候」
 異国船は、水戸沖約50里の横磯に留まって捕鯨を行っていた。
 水戸漁民にとって横磯は漁場で合った為に、漁民達は異国船が停泊している事を知っていたが公儀の鎖国令に従って近寄ろうとはしなかった。
 幕府は、キリシタンを排除する為に、大名や庶民が勝手に異国船や異人と接触する事を禁止し、禁令に背く者を厳罰に処すと布告していた。
 漁師達は、最初は異国船が攻めてくるのではないかと怯えたが、その気配がないので安心した。
 安心すると、毎年現れる異国船に興味を持ち、何故同じ海域に長期間滞留しているかを知りたという知識欲が沸き起こった。
 謎を解きたいという好奇心がある忠五郎は、異国船に近づき、そして乗り込んだ。
 「一人漁舟に打乗、異国船近く漕寄せ候。船中より縄梯子下し候。」
 異国船船員も、話には聞いていたが有った事がなかった日本人を目の当たりにして大歓迎して迎え入れた。
 両者は言葉が通じなかったが、同じ海の男という親近感から沸いて意気投合し、お互いが何国人であるかを明らかにする為に世界地図で自国の場所を指し示した。
 忠五郎は、その後も幾たびか異国船を訪れて、言葉に慣れ、異国人がイギリス人であり、捕鯨の為に留まっている事を知り、帰る時には土産物の異国品を貰った。
 漁師達は、無事に帰ってきている忠五郎の話を聞き、異国船に行くと珍しい異国品が貰えると知るや、こぞって水・酒・食べ物を持って異国船に殺到して、宴会を始めた。
 異国人と会っている事が水戸藩や御公儀に知れるとどんなお咎めを受けるか分からない為に、隠れてイギリスの捕鯨船団の船に乗船した。
 忠五郎は、親しくなって片言の英語を覚え、時には数日も船内に泊まり込んで船員と意見交換し、捕鯨の仕方を教えて貰った。
 イギリス人船長は、忠五郎ら漁民に乗船する度に銀貨一枚ずつ与えていた。
 漁民達は、イギリス人から貰った異国品を高額で売って現金収入とした。
 目敏い商人達は、密かに水戸の漁民達が異国船から異国品を仕入れて売ってると聞きつけるや、商いでボロ儲けする為に漁民達に仲介を頼んだ。
 水戸領内に見なれざる異国の品が出回っているという噂は、すぐ広まった。
 水戸藩は、漁民・商人が異国人と密かに商売をしていると聞きつけたが、事なかれ主義的に異国船とのトラブルを起こす事を恐れて、異国人を日本に上陸させない為に沖合いで異国船に水や食べ物を与えているだけと誤魔化して見て見ぬ振りをした。
 水戸藩士らは、異国船来訪の情報を天下に知らせた。
 儒学者・浅川善庵は、この噂を松浦静山に伝えた。
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 1822年 日本の人口は、2,660万人に増加し、さらに増えつつあった。
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 1823年 白河藩主・松平定信の次男・幸貫は、真田家の養子に入って松代藩主となる。
 欧州諸国は、自国の植民地が独立するのを恐れて、南米諸国をスペインの植民地に戻そうと圧力をかけた。
 アメリカは、モンロー宣言を発し、欧州列強による南北アメリカ大陸への干渉を拒絶した。
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト「おそらくアジアのどんな国においても、旅行という事が、日本におけるほとんどこんなに一般化している国はない」
 「大名の絶え間ない行列・活発な国内商業・その貨物の集散地大阪には此の国のあらゆる地方から売り手や買い手が殺到するし、また巡礼旅行も非常に盛んにである」
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 1823(文政6)年 鶴屋南北は、庶民の異国船への危機感から、「天竺徳兵衛聞書従来」を書き改めて「法懸松成田利剣(けさかけまつなりたりけん)」として上演した。
 鶴屋南北が、「東海道四谷怪談」を書いて上演したのは1825(文化8)年であった。
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 1823年 漁師忠五郎事件。水戸藩領内の漁民は、水戸藩や幕府に見つからないように密かにイギリス捕鯨船接触していた。
 漁師達は、鯨のバラバラ死体が沿岸に打ち上げられていた原因が、異国の捕鯨船であった事を知って合点がいった。
 水戸藩は、領内にご禁制の異国の品が密かに出回っている事に不信を抱くのと同時に、その事が幕府に知られて咎められる事を恐れて極秘に探索した。
 水戸藩は、異国船の乗り込み異国人と接触して異国の品物を貰っている漁師300人以上を召し捕らえて話しを聞いた。
 異国船は捕鯨船捕鯨が目的で近海に出没している事は分かったが、それ以外に目的はないかと詮索して漁師達を厳しく取り調べた。
 幾人から捕鯨船の船長から貰った英語で書かれた板切れが出てきたが、水戸藩の中に英語が読める者はいなかった為に何が書かれているか分からなかった。
 異国・異国人との交際を禁じている幕府に知られる事を恐れ、板切れは蔵入りとして隠匿した。
 儒学者・朝川善庵は、物好きな趣味で異国船との密会を調べ板切れを手に入れ、顛末と板切れを知り合いの元平戸藩主・松浦静山に送った。
 松浦静山は、浅川善庵に英語が読める幕府・天文方出仕のオランダ通詞・吉雄忠次郎を紹介した。
 幕府は、1808年のフェートン号事件を教訓から、国際情勢の変化に適応し海外の情報を収集する為にはオランダ語・ロシア語・フランス語の他に英語も必要と判断し、長崎奉行所に属するオランダ通詞6名に英語習得を命じた。
 吉雄忠次郎は、初歩英語ができた。
 浅川善庵は、英語で書かれた板切れを吉雄忠次郎に見せ判読を依頼した。
 吉雄忠次郎は翻訳し、英語が分かる者の来訪を求める内容である事を浅川善庵に伝えた。
 捕鯨船は、上陸できない為に望遠鏡で、銚子沖から仙台沖までの沿岸部を観察し、危険がなければ海岸から数キロまで接近した。
 そして、難破し仕掛けていた仙台の船を拿捕し、詳しい常陸沖の海図を見せて銚子までの航路を教えて解放した。
 太平洋沿岸の近海は、日本人船乗りよりも異国人の方が詳しかった。
 日本の船員や漁師達は、遭難して遠洋に流されても異国船に救助を頼めば助かる可能性がある事と知ったが、藩や幕府に知られると厳罰に処せられるとして仲間内だけの秘密にした。
 幕府は、東日本の沿岸に出没する異国船と地元の漁民とが密かに接触しているという情報を得て、北方紛争の苦い経験から異国船が侵略目的ではないかと危惧して、隠密を派遣して詳しく調べた。
 調査結果は、異国船は捕鯨の為であり、平和的交易を求めているが侵略目的の敵情調査ではない、とされた。
 幕府は、オランダを通じて、北から南下してくるロシアと海から接近してくるイギリスとアメリカの情報を収集し分析した。
 そして、オランダ語・フランス語に続いてロシア語とイギリス語が出来る語学サムライの育成を急いだ。
 尊皇攘夷思想の朱子学を学んでいた水戸藩士達は、近海に出没する捕鯨船を外患とし、異国船に乗船して異国人と親しく接する漁民達や異国品を大金で取引する庶民を内患として、神国日本の危機感と感じた。
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 1824年 第一次英緬戦争。コンバウン朝(アラウンパヤー朝)ビルマ王国は、隣国のムガール帝国との間でベンガル地方の領有権をめぐって幾度も戦っていた。インドを支配したイギリスに対して、ベンガル地方の割譲を要求した。
 イギリスは、大英帝国の名誉に賭けてビルマの割譲要求を拒否した。
 ビルマは、武力でベンガル地方を手に入れるべくインドを侵略したが、イギリス軍に撃退された。
 ビルマとインドは、隣国であるがゆえに仲が悪く、昔から領土をめぐって戦争を繰り返していた。
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 5月28日 水戸藩大津浜事件。イギリスの捕鯨船2隻の船員12名は、水と食糧をえる為に常陸国多賀郡大津は間に上陸し、捕縛された。
 鯨漁船、インディン号(乗組員38人)、アン号(乗務員28人)
 5月29日 捕鯨船は、不当に捉えられて船員を釈放させる為に、備え付けの大砲を威嚇として撃った。
 大津村の役人は、異国船が大砲を撃っている事を水戸藩と幕府に急報した。
 6月1日 水戸藩と近隣の諸藩は、異国船の侵略に備えて兵を9はして警戒に当たった。
 6月3日 水戸藩は、領内に於ける事件として解決するべく、片言のオランダ語・ロシア語が分かる彰考館総裁代理の会沢正志斎と飛田子建を派遣した。
 会沢正志斎は、リーダーと見られるゲビスンとメトトンら数人を取り調べたが、英語が分からなかった為に、少し英語が話せる漁師の勇三郎に通訳を命じた。
 捕鯨船の事から国際情勢ま多岐にわたる質問をし、イギリスが各地を植民地化しながら日本に迫っている事を知った。
 特に衝撃的な事実は、インドのムガル帝国がイギリスの侵略を受け属国化しつつある事であった。
 「神州服従せしめんと云の意なるべし悪むべきの甚きなり」
 水戸藩に於ける祖国存亡の危機であるという攘夷運動は、江戸の目と鼻先で起きた大津浜事件を契機として始まった。
 侵略されるという恐怖から、敵を知る為にオランダ語以外にロシア語と英語の語学習得が急がれた。
 会沢正志斎は、水戸の彰考館総裁の藤田幽谷に自分の結論「日本侵略」を伝えた。
 6月6日 藤田幽谷は、江戸藩邸に在住する主君・徳川斉脩に上申書を送り、幕府が事なじゃれ主義的手緩い処分(追放)をする前に、水戸藩として厳しい処分(斬首)を下すように求めた。
 「捕鯨とは申は全く屯田(情報収集)の意にてゆるゆる逗留仕候内此方の隙を窺候には相違い無之候」
 6月7日 幕府の吟味役一行、代官・古山善吉、英語が話せる通詞・吉雄忠治郎、天文方・高橋作左衛門、外国事情に明るい探索方・間宮林蔵らが、大津浜に到着し、イギリス人船員等の吟味を始めた。
 徳川斉脩は、藤田幽谷の過激な意見と処罰に同意できず、幕府が示す処分を待つ事にした。
 会沢正志斎は、藤田幽谷に、前年起きたイギリス捕鯨船と水戸領内漁民忠五郎らとの秘密交易事件の例から、放置すると利益の為にイギリス人に靡く不埒者が増える恐れがあるとして書状を送った。
 当時の漁民や百姓達には、自分という個人と家族のようなムラ仲間という地域的集合意識はあっても、民族や国民という広域的集団意識はなかった。
 何時の時代でも、庶民にとっては、生活が楽になり金が貯まるのであれば支配者が日本人であろうがイギリス人であろうが誰でも良かった。
 藤田幽谷は、漁民達がイギリス人船員と親しくなる事は日本の為にはならないどころか存続の危機とし、主君の命が下るまで待てないとして片を付けるべく、息子の藤田東湖にイギリス人船員達の殺害を命じた。
 『回天詩史』「近年は毎年のように醜虜とでも言うほかない穢らわしい異国人ども神聖なるこの国の近海をうろつき、時に大砲を鳴らして、人民を脅かしている」
 「異国人の振る舞いはあまりに傲慢無礼である。ところが世はこぞって姑息だ。事を荒立てたくない。その一心だ。今回の大津浜の一件も、幕府の事なかれ主義が発揮されて、異国人を釈放してしまうのではないか。刹那の平穏を求めて、やがて国の根幹を失うのではないか。同様の事が繰り返されてゆくうちに神州日本は異国に浸蝕されつくすのではないか。そんな理屈を日本人が誰ひとり分からないと異国人になめられては神州の恥である」
 6月11日 古山善吉は、イギリス船員達の食糧と水を補給する為に上陸したという証言を受け入れ、求める物を与えて捕鯨船に返してこの問題を解決させた。
 幕府は、オランダからイギリスが各地で植民地を広げているかとうい報告を受けていた為に、斬首などの厳しい処分を行って侵略の口実を与える事を警戒していた。
 藤田東湖による、攘夷は失敗した。
 7月 イギリス鯨漁船の船員が、薩摩藩宝島に上陸し、牛を望んだが断られ代わりに野菜などの食べ物を与えられて追い返された。
 島民にとって、牛は農作業に必要な家畜であって食糧ではなかった為に牛を渡すわけにはいかなかった。
 イギリス船員達は、野菜ではなく肉が欲しかった為に、再度上陸して牛を殺して肉を奪おうとしたが、薩摩藩警備員に一名が射殺され為に死体を残して逃げ去った。
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 8月 宝島事件。鹿児島と沖縄のあいだに浮かぶトカラ列島に属している宝島にイギリス捕鯨船は来島し、食糧を求めて上陸したイギリス人と薩摩藩の役人との間に起きた銃撃戦事件。
 イギリス人乗組員は、宝島に上陸して島民に牛を食料するべく引き渡しを要求したが薩摩藩の在番及び郡司が拒否した。
 拒否された為に、イギリス人乗組員は20〜30名が上陸して牛3頭を略奪した。
 在番所の横目・吉村九助は、強奪犯のイギリス人1名を射殺した。
 流人として島にいた本田助之丞と田尻後藤兵衛の2名の武士も争いに参加した。
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 1825〜30年 ジャワ島における反オランダ闘争。オランダ軍は、植民地支配の為に20万人以上のジャワ人を虐殺した。
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 1825(文政8)年 水戸の会沢正志斎は、キリスト教価値観を振りかざす西洋列強の侵略から神国日本・天皇中心の国體を守るべきであるという『新論』(2巻)を発表し、藩主徳川齊脩(なりのぶ)に上呈した。
 尊王攘夷論の原点として、吉田松陰靖国神社)ら憂国の志士を天皇中心の過激な勤皇へと駆り立てた。
 幕府は、水戸藩領で起きた大津浜事件の外国船員と日本人漁民の交流は、奥州・三陸から房総・九十九里浜までの太平洋沿岸で広く行われている可能性があると判断し、もしイギリスなどの欧州諸国が日本侵略を企てたとき日本人漁師が金に目が眩んで手引きする危険があると恐怖した。
 沿岸の諸藩は、日本近海に接近している西洋の大型帆船に警戒した。
 2月 異国船打払令。外国船打払令。無二念打払令。文政の打払令。
幕府は、常陸国大津浜での英国捕鯨船船員上陸事件の再発を防止する対応策として、異国船打払令を公布した。
 外国船に対する取り扱いとして、沿岸に近づく外国船は見つけ次第打ち払い,上陸しようとする外国人は逮捕または打ち殺すことを命じた。
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 1826年 イギリスは、西オーストラリアに囚人を入植させ、29年に全オーストラリアを正式に植民地とした。
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 1828(文政11)年 シーボルト事件。世界でコレラが大流行していたが、シーボルト事件で外国との接触を元金とした為に、日本での流行は食い止められた。
 リュトケ船長のロシア船セニアビン号は、無人島である小笠原諸島を探検した。
 鳥類学者キトリックは、小笠原諸島の鳥類を採種し剝製を作り、風景を版画に残し、自然情報を論文として報告した。
 小笠原諸島に最初に上陸したのはロシア人であったが、住み着く事はしなかった。
 最初に住み着いたのは、1830年に捕鯨基地として利用するべく移住した欧米人開拓民とハワイ人使用人達であった。
 日本人は、小笠原諸島を知っていても移住する者は誰もいなかった。
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 1828年 人種隔離政策として、アボジリニを絶滅するべく野獣狩りとして自由に捕らえて殺害した。
 アボジリニの人口は、約6万7,000人に激減した。
 タスマニア島タスマニアン・アボジリニ約3万7,000人は、白人によって皆殺しにされた。
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 江戸時代の相続は、親の面倒をみ、家と田畑と先祖の墓を守る者が全てを引き継いだ。
 次男以下は相続できなかった為に、江戸、大阪、京などの都市や城下町、宿場町、門前町など地方の町に流れ込み、食べる為に働いた。
 各大名は、城下町や宿場町を大きくする為に彼らを受け入れ、年貢を増やす為に荒れ地を開墾して田畑を増やして入植を促さした。
 宿場町や門前町は、現金収入を増やす為に旅行客を増やす工夫を凝らした。
 江戸や大阪などの都会でも、宿場町や門前町の地方の町でも、未婚男性は多く結婚適齢期の女性が少なかった。
 女性が圧倒的に少なかったために、結婚できず一生を終える男性は珍しくなかった。
 町には、性欲の塊のような男達が性犯罪に走らないように、吉原や岡場所(遊郭)などが開設されていた。
 旅先の宿場や門前町では、旅籠に飯盛り女が旅人達の相手をしていた。
 同じように。女性客相手の逢い引き屋も存在していた。
 日本は、宗教的タブーがなかった為に大ぴらに公娼が存在していた。
 そこには、「ふしだら」や「みだら」といった陰湿・淫靡さは無縁であった。
 そもそも。日本の神話や文化は、性愛の物語であり、男女の痴話話が大半である。
 「操」に対する神道観念が「貞淑」を重んずる儒教観念より濃かった為に、人間本来の「情愛」は素直な気持ちとして肯定されていた。
 この公娼制度があったお陰で、女性は性犯罪に巻き込まれる事件は少なく、日本全国で女の一人旅が可能であった。
 女達も貞淑観念が低かった為に、年頃のになり色気づくと部屋に男を入れる夜這いを行い、神社仏閣の夜祭りに出かけて見知らぬ男と一晩だけ楽しんだ。
 日本の性文化は、良く言えば開放的で大らかであるが、悪く言えば一年中発情している淫乱であった。
 『春画』が表現するように、男女の差別なく、老爺も老婆も死ぬまで、貴賤を問わず自分の性欲を抑制する事なくむしろ素直に謳歌していた。
 老人は、布団の中で一人寂しく死ぬくらいなら、若い女の上で死ぬ事を望んだ。
 人生50年と言われても、70歳であっても、90歳であっても、年甲斐もなく若い女性を求めて、杖をつきながらふらついても岡場所に通った。
 『藤岡屋日記』には、96歳の武士が21歳の妾に子供を産ませた記録が残っている。
 『艶道日夜女宝記(えんどうにちやじょほうき)』には、老婆が若い男との情愛話が載っている。
 白倉敏彦「性的欲望は、男女とも灰になるまである、というのが、江戸時代までの性的概念であった、それゆえに、男女ともの老人の性は認められてきた。……春画には、多くの老爺、老婆が登場する。これは、日本春画の一つの特徴であって、世界のエロティックアートにはほとんどあり得ない事実である」
 上野千鶴子「女が性的に無知だとか、快楽から疎外されているとか、性欲が男より少ないという偏見は、近代的なもの。江戸の人は男女ともに性欲があって当然と思っていました。年齢に問わず。
 老爺に劣らず、老婆も男妾を相手にしたり、若いカップルの情事に介入したり、巨根を相手に『いたた』などとこぼすのは、なかなかリアルです」
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 神事を行う者は、特別な人間とされた。
 奉納相撲を行う力士はこの世の人間ではなく、異界から遣わされた「客人(マレビト)」として畏れ、尊敬、憧れを持って見られていた。
 力士は、神を背負う重い勤めがあるとして、同じ人間であったも近寄りがたい存在で、多少の乱暴をしても大目に見られていた。
 なぜ力士の横暴が許容されていたかと言えば、日本の神々は完全ある善という絶対性を持たず、和霊と荒霊の二面性を持つ相対性を有していたからである。
 力士が、自分に代わって神事を行ってくれる請負人である以上、神同様に和霊と荒霊の二面性を持つ異人として接していた。
 心ある力士は、庶民から期待を一身に受けているという使命感から、肉体的稽古と精神的鍛錬に日々努め、更なる高みを目指して心身ともに精進を重ねた。
 それが、力士の風格であった。
 同様に。河原乞食の芸から生まれた歌舞伎役者も素人役者であっても芸達者であれば、舞台に上がって非日常(ハレ)を与える者として憧れを持って見られていた。
 特別視されるのは舞台に上がって演じる時だけで、化粧を落とし衣装を脱いで芝居小屋から一歩外に出ればただの人にすぎなかった。
 力士と歌舞伎俳優の違いは、祭事性の強さにある。
 相撲の土俵は、芝居小屋の舞台とは違って神が降り立つ神域であった。
 ゆえに、土俵開きには祭事が執り行われ、土俵に上がる時は身を浄めねばならなかった。
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 江戸時代から明治にかけて好奇心旺盛な日本人は、大量には輸入された西洋の書物を乱読した。
 読書して得た知識から西洋社会を想像し、日本も西洋諸国のような国家になるべき、日本人も西洋人のような文化的生活を送るべき、という希望と欲望から近代国家を建設した。
 日本人は、日本国語で分かりやすく翻訳・意訳された書籍が並べられた街中の本屋で、話題の本、評判の本、お勧め本、興味本・趣味本を自分で考えて選んで購入して読みふけった。
 日本の発展・成長は、街中の多くの本屋から本を選んで乱読した日本人の好奇心と向上心から生まれた。
 専門職での優秀な人材や職種を超えた有能な人材を育成したのは、その時の気分で何気なく読んだ分野外の書籍や雑誌にあった。
 その象徴が、街中の本屋である。
 2015年 インターネット販売の普及で、街中の本屋が減っている。
 インターネット販売で自分が好きな分野の本を手に入れられるが、それ以外の分野への興味・関心が消滅すし、特定分野以外の知識を持たなくなる。
 本屋であれば、買いたい本を探す為に店内を歩き回る事で分野外の書籍が目に入り、その書籍名を読むだけで知識は無限に広がり、知らず知らずに博学となる。
 インターネット情報は、特定分野の専門家として限定された知識を知る事ができるがるが、広範囲の平均が取れた情報を得る事ができない。
 街中から本屋が減るという事は、尽きる事のない好奇心を満たしたいという渇望を奪い、知識をえ技術を磨き他人以上に向上したいという競争心を減少させ、底力、活力を失わせる事である。
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