🌈34)─1─江戸っ子の粋・いなせ・気風は下賤な川の民・海の民の精神文化。辰巳芸者。深川っ子。川並鳶。富岡八幡宮。~No.66No.67 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族の歴史は、マルクス主義史観・キリスト教史観そして中華(中国・朝鮮)史観では説明できない。
 何故なら、マルクス主義史観もキリスト教史観も中華史観も全て唯一絶対価値観に基づいた大陸民史観で、相対値価値観に基ずく日本民族の海洋民史観とは相容れない。
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 日本民族日本人とは、農業を生業とする大陸由来人と海や川の狩猟を生業とする海由来人=縄文人が雑居し雑婚して生まれた、混血・雑種の不純な弥生人の子孫である。
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 日本民族日本人は、「あきらめる人」であり、「足るを知る人」であった。
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 海洋民の子孫である日本民族日本人と、大陸民の子孫である漢族中国人や半島民族朝鮮人とは全く違う民族であり人である。
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 野際陽子「私は自分に期待していないから、無駄なストレスや絶望がないんです。自分が持っているものが、すべて。足りなかったら、しゃーない」
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 紀伊国屋文左衛門は、黄金の神輿を富岡八幡宮に奉納した。
 庶民の間に、金を使って美を競い遊ぶ黄金文化が花開いた。
 幕府は、度々、節約令をだして庶民の贅沢を禁止し弾圧を行った。
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 2017年12月2日号 週刊現代「アースダイバー 中沢新一
 東京下町篇 第六回 『いき』の考古学(1)
 辰巳芸者の来歴
 深川(富岡)八幡宮門前町を活躍の舞台としていた、江戸にその名を知られた『辰巳芸者』は、『いき』で『きっぷのよい』を本領としていた。座敷でも羽織をはおったまま、切れ味のよい男っぽいことばをしゃべり、芸は見せても色は売らないという、いきでおきゃんでじつに律儀な『遊女』たちである。
 どうして深川にこんなタイプの遊女たちが集まってきて、一大伝統をなすにいたったかについては、諸説がある。ある説によれば、気が強すぎて他の岡場所に居づらくなった芸者たちが、埋め立て地にできたばかりの新興の深川花街ん、流木のように流れ集まってきて、自然と気の強い女ばかりの世界を形作ったという。
 また別の説によれば、深川は海に面した岡場所であったから、金華山沖で鯨を仕留めて俄(にわ)か成金となった豪快一途の漁師やら、近くの木場で働く『川並』のような強面の、川の民由来の任侠連中(男性版の『きゃん』な連中)を相手に、愛嬌商売を続けているうちに、自然こんな荒い気風が育ってしまった、などと言う。どちらの説も間違ってはいないだろうが、それだけではいまいち説得力に欠ける。
 私はむしろ、深川門前仲町で発達した、独特な遊女の経営形態に注目する。辰巳の芸者は、座敷を提供する料理茶屋お抱えの遊女ではなく、置屋という一種の芸能プロをエージェントにしてお座敷に出て行く、個人営業者としての遊女である。この点が、同じ深川でも料理茶屋お抱えの『伏玉(ふせだま)』という娼妓や、新吉原の花魁(おいらん)をはじめとするさまざまなタイプの娼妓たちと、辰巳芸者の大きく違うところである。
 辰巳の芸者は、料理茶屋の経営者が性商品として売りに出す、伏玉や花魁のような女性ではなく、自らの芸を自分の意志で披露して、交換にお金をいただくという、れっきとしたパフォーマーなのである。じつはこういう形態こそ、古代・中世以来の日本の遊女の、ほんらいの商売のあり方である。
 神聖な遊び女
 大坂の淀川べりに、平安時代にたくさんの遊女が集まってきて、不夜城のごとき歓楽街をつくったときも、芸と色を売る遊女たちは、自立した個人経営者であった。彼女たちは夫でもある傀儡子(くぐつし)をエージェントとして、貸座敷の持ち主とシビアな交渉をした末に、お座敷に上がったものである。
 こういうのが遊女ほんらいのあり方であって、のちの時代のように、遊郭お抱え遊女として身の自由を失ってしまうなどというのは、神聖な遊び女である遊女のあり方としては身の失墜である。彼女たちはもともと神々っともに公界(くがい)に生きる女性なのであって、苦界(くかい)に落ち込んだ女性などとわけが違う。こういう遊女の伝統派、戦国時代をつうじても廃れることなく、江戸時代も初期の頃には、まだ自立性が高く鼻息の荒いタイプの友情たちは、各地の花街でにぎやかに愛嬌商売を続けていた。
 しかし、そういう神聖な遊び女の伝統につながる、プライドの高い自由な遊女たちは、しだいに管理化がきつくなっていく江戸時代の社会では、だんだん生きづらくなっていった。彼女たちは自由が奪われていく各都市の岡場所を嫌って、新興の深川花街に集まってくるようになった。『流木が流れ着くように』ではなく、そこにはまだ遊女の伝統が残っていそうだという直感にしたがって、自分の意志で集まってきたのである。
 おまけに客筋は、海の民、川の民が主流である。この連中は船や材木を操って生きている。板子一枚の下は死の世界、文字どうり『浮世』としての人生を過ごしている。彼らの心性は、農業や資本主義にはあまりなじまない。どちらかちうと狩猟民の世界に近いところをもっている。儲けたお金を次の投資のために貯蓄しておくのではなく、『宵越しの金は持たねえ』とばかりに、ひと夜の散財に蕩尽しつくすのをダンディズムとする。
 古代・中世以来の遊女の精神的伝統につながっていたがために、管理化の進む江戸時代の他所の花街になじまなかった、『伝法(でんぽう)』で『きゃん』な芸者たちが、こうして富岡八幡門前町に集まり、こそに独特の花柳界のスタイルを築き上げていった。
 ようするに、浅草の田んぼの中につくられた幕府管理の新吉原と、海辺の洲崎にできた深川の花街とは、同じ遊里といっても、本質が違うのである。新吉原が農業に支えられた封建社会の似姿そのもののような遊里であるのにたいして、深川のそれは海民・川民の心性を土台とする、非農業的な岡場所である。じつはここに、東京下町の世界の本質を探る鍵が潜んでいる。
 海民のフェミニズム
 江戸軟派文学にしょっちゅう登場してくる、きっぷのよい辰巳芸者の姿を目の当たりにするたっびに、私は海民文化のなかに育っていた、健康なフェミニズムのことを思わざるをえない。日本列島の話に限らず、世界中で海民の女性たちは、家の中での権威においても経済力においても、きわめて自立性が高かった。彼女たちは、古代からすでに、男たちの獲ってきた魚介類の行商に出かけている。
 古代・中世の大阪雑漁場や京都六角町の魚市場には、広めの大きな籠や盥(たらい)を頭にのせた女商人が群れ集まり、地面に敷いたムシロの上で、魚や貝や海藻を売ったのである。そのとき彼女たちは、地面に座り込むのではなく、立膝(たてひざ)を抱えて座ったという。この座り方は、今日でも世界各地の海民の女性たちの間に、見らことができる。
 このとき魚介を売って得たお金は、まず女商人たちの財産となり、それから男の漁師たちに分配された。こと貨幣経済に関するかぎり、海民社会で主導権を握っていたのは、女性である。じつはこのことが、遊女という存在の発生に深くかかわり、ひいては江戸文化に大きな影響を与えた、辰巳芸者の形成にもつながっていくのである」
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 12月9日号 週刊現代「アースダイバー  中沢新一
 東京下町篇 第七回 『いき』の考古学(2)
 材木の商業団地
 富岡(深川)八幡宮の周囲にできた花街に独特の雰囲気をつくりあげるに力あった。もう一つの重要な要因がある。深川の東のはずれ、大横川の河岸にあった『木場(きば)』の存在である。木場は各地からの材木を集積して販売するのを目的として、我が国で最初に作られた巨大商業団地である。家康は各地の木材生産地の有力な材木商人たちに、積極的な参加を呼びかけた。この呼びかけに応じて、天竜川河口の浜松、木曽川河口の岐阜、紀ノ川河口の和歌山などから、目先のきく何人もの材木商が、江戸に居を構えて商いを開始した。
 その頃はまだ江戸も、草ぼうぼうの空き地がいたるところにあったので、材木商たちは日本橋や京橋のそういう空き地に、材木を集積しておくことができた。ところが明暦3年(1657)1月、江戸下町を焼き尽くし、江戸城に甚大な被害をもたらした『明暦の大火』が発生した。このとき火勢をことさらに強くしていたのが、街中に集積されている材木の山であることが問題になった。幕府は日本橋界隈にある材木問屋の置き場を、隅田川の東にまとめて移転させ、そこに木材の商業団地をつくることにした。
 最初に木材置き場がつくられたのは、深川(富岡)八幡宮の西南に広がっていた、人の住まない広大な埋立地であった。しかしそこがどういういきさつか、さる大名家に与えられることになり、またまた移転を求められることになった。そこで、八幡宮近くの土地(そこはごく最近まで『元材木町』と呼ばれていた)を追い出された材木商たちは、そこから東方に去ること数キロにあった、開削されたばかりの運河沿いの荒蕪地に、新しく木材置き場を設けるように求められた。その頃は『築地』と呼ばれたその土地が、『木場』と名前を変えて発展しだすが、17世紀の終わり頃の話である。
 豪商と川並(かわなみ)
 とにかく江戸では材木が飛ぶように売れた。江戸城の築城という大仕事が終わったあとも、多くの材木商が江戸に留まって商売を続けた。江戸では信じられないほどの人口増加にともなって、新築ラッシュが続いた。火事も起きやすかったので、大火事や地震が発生すると、そのたびに材木商たちは大儲けすることができた。木材は幕府による一種の保護商品であったので、談合、買い占め、人為的な価格のつり上げなどが横行した。その結果、木場には何人もの巨大豪商が出現することになった。
 代表的な豪商は、紀伊国屋文左衛門(紀文)と奈良屋茂左衛門(奈良茂)の2人。彼らは深川に豪邸を構えて、そこから夜毎(よごと)門前仲町の花街に出かけては、有名料理屋で盛大な宴会を開いた。商談という名目もあったろうが、大半はただのどんちゃん騒ぎの蕩尽の宴である。じっさいそれは、たまげるほどのゴージャスな宴会であったと、語り継がれている。
 この豪商たちの太っ腹のおかげで、深川八幡の門前町の繁栄は確保されていた。彼らが豪華に遊んでくれたせいで、料理茶屋も辰巳芸者たちも娼婦も仕出し屋も菓子屋も酒屋も、大いに潤った。紀文大尽などは豪華な生活の果てに破産の憂き目にあい、豪邸を追い出されて、深川の仕舞屋(しもたや)のような小宅に余生を過ごすことになったが、お世話になった深川住人は恩を忘れず、紀文神社の祠を建てて、このお大尽の偉業を讃えたものである。
 しかし、アースダイバーにとっては、それよりも重要なのは、材木問屋にまつわる商売がらみの話ではなく、木場で働いていた労働者たちの来歴と彼らが創造した文化のことである。この労働者たちは『川並』とか『川並鳶(とび)』と呼ばれた。
 その名称は中世の『川並衆』から来ている。尾張と美濃の境を流れる木曽川沿いに勢力を張っていた土豪たちが、ひとくくりにして川並衆と呼ばれたらしい。読んで字のごとく、伊勢湾に定着した海民を祖先とする川民の集団である。戦国時代を生き抜いた彼らは、豊臣秀吉に仕えていたという。
 操船技術に巧みであった川並衆は、木曽の山中から切り出される原木を、筏(いかだ)に組んで激流を漕ぎ渡り、木曽川河口部まで運び出す技を持っていた。鳶口(トビという鳥のくちばしに似ていたことからその名がついた)という道具を、自由自在に使いこなして、水に浮かんだ原木を手操り集め、水流の静かな溜まりにきれいに並べ置くことができた。水に浮かんだ材木から材木へと、まるで飛鳥のように跳んだので、トビという鳥の名前で呼ばれたとも言われる。
 この川並衆が、江戸へと大量の木曽の材木が、海上を使って運搬されるのと一緒に、江戸のやってきた。彼らは木曽や紀州出身の材木問屋に雇われて、木場で働くことになった。この川並こそ、深川界隈で発生し江戸下町の全域に広がっていった『いき』の文化を形成した、辰巳芸者と並ぶ、もう一人の立役者なのである。
 川並鳶
 木場は、材木問屋、川並、筏師、木挽き、荷揚げ人足などで構成された、一つの町をなしていた。江戸時代の川並といえば、木場の目利きを意味する。木場で原木の善し悪しを身分けて、仕分けや検品をする人たちで、木場でももっとも重要な職人である。筏師はもとは川並の仲間で、原木を鳶口を使ってまとめて筏を組み、運んでいく作業をする。木挽きは製材職人で、立て並べた原木を、大きな鋸(のこぎり)を手作業で挽いて、材木にする。この川並、筏師以下の職人を総称して、俗に川並と呼ばれた。
 材木問屋(中には紀文、奈良茂のような豪商も含まれる)たちの商談を兼ねた門前仲町での遊びは、上品で贅をこらしたものではあったが、『いき』という江戸庶民がもっとも重要視した美意識や価値観からすると、どこかしら野暮である。遊びを人生のスタイルにまで高め、『いき』として造形しえたのは、まことに川並たちの手柄であった」
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 江戸時代の庶民(百姓や町人)と現代の日本人(市民)とは別人である。
 現代日本の企業家・経営者と、江戸時代の商人・豪商とは別人である。
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 江戸時代の豪商・豪農などの世間や地元を大事にするお大尽様と、日本国や日本民族に関心を持たない現代日本の資産家・富裕層・裕福層などの金持ちも別人である。
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 人々は「金の切れ目が縁の切れ目」として、金のある所・金を持っている者の周囲に集まりおべっか・ゴマをすってお零れを頂戴し、凋落して貰える金がなくなれば手の平を返したように冷淡になり嘲って遠ざかって行った。
 日本とは、貧乏人が油断している金持ちを煽てて放蕩三昧の豪遊をさせ、浪費させ、全財産を巻き上げて丸裸にする世間・社会であった。
 庶民は、凋落して死んだ紀伊国屋文左衛門の偉業を讃えて霊魂を神として紀文神社に祀り、そのお大尽ぶりにあやかりたいと信仰した。
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 現代の日本人には、江戸時代の日本人が持っていた「粋」や「いなせ」、「気風」や「男気・侠気」といった町人文化・町人精神はない。
 同時に、武士・サムライが持っていた「伊達」や「婆娑羅」さらには「士道の心得」や「武士道精神」もない。
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 江戸時代は、建前では5%の武士が権力を持って支配する封建制であったが、本音では庶民(百姓や町人)の自己責任として自主性が重んじられていた。
 日本の精神性は、サムライの武士道ではなく、庶民の職業における職人道であった。
 幕府・大名などの御上は、領民である庶民が、如何なる災害に遭おうが、飢えようが病気に罹ろうが、困窮しようが貧困に苦しもうが、自助救済・相互扶助の原則に従って助けず放置した。
 もし助けるとすれば年貢を納める百姓のみで、無税の上に住居移動と職業選択の自由がある町人は見捨てた。
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 木曽川川並衆の頭が蜂須賀小六で、後の徳島藩初代藩主となる。
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 幕府は、大名さえ助けなかったし、大名が領地経営に失敗すればその罪を責めて改易し領地を召し上げて放逐した。
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 江戸時代は、武士の時代ではなく庶民の時代であった。
 それ故に、日本では、西洋のような革命が起きなかったし、中華のような社会崩壊が起きなかった。
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 江戸時代のプランを考え実行したのは徳川家康であり、それを発展させていったのは徳川幕府の歴代の幕閣(老中・若年寄・諸奉行ら)であった。
 日本の総人口は、江戸初期では約1,600万人であったが、江戸末期では約3,000万人に増えていた。
 人口増加の原因は、食糧生産の増加、物流網の整備、貨幣による商いの発達によって社会と生活が安定し、その余裕が庶民文化を爛熟させたからである。
 江戸時代の最大の特徴は、ヒト・モノ・カネが自由に制限なく活発に日本全国を動き回っていた事である。
 稲作の石高を唯一の財源とした幕府や諸大名は財政赤字に陥り、豪商・豪農に借金をし、莫大な借財の返済に苦しんでいた。
 為に、幕府や諸藩に仕える中級以下の武士は例外なく貧しく、町人に頼んで内職を分けて貰うか、家族で荒れ地を開墾して百姓仕事をして、何とか食いつないでいた。
 武士の家禄は、時代と共に物価が高騰しても1600年頃と変わらなかった。
 武士は、家柄による役職固定と家禄保証の終身雇用であったが、年功序列でもなかったし、毎年給料アップでもなく、いつ切腹や上意討ちを命じられるか分からない命の保証がないブラックな身分であった。
 故に、「武士は食わねど高楊枝」であった。
 庶民は豊かで、武士は貧しかった。
 橘曙覧(たちばなあけみ、越前藩士)「たのしみはまれに魚煮て子ら皆が うましうましと言いて食う時」
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 藩初から続く名門の藩士や由緒正しき武士は、失敗しても御役御免で隠居を命じられるくらいで切腹やお家断絶はなかった。
 が、中途採用藩士や庶民から成り上がった武士が失敗しら、その処罰は切腹・死に直結していた。
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 武士道精神は、名誉・体面の為に諦めて生きる、「死を覚悟」して生きる、今ある貧しき我が身を受け入れて生きる、事であった。
 つまり、自覚し納得して「あきらめ」る事である。
 だが、戦国時代以降のサムライ・武士の祖先を辿ればその大半が出自定かでない庶民出身である。
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 庶民から成り上がった俄武士が多かった為に、主君に忠誠を誓わせる儒教教育が徹底して行われ、士道や武士道を叩き込むべく死を感じさせる程の厳しい武道修練が課せられた。
 本当の武士であれば、士道や武士道を説く必要はなかった。
 教育は、持っていない者にするのであって、持っている者にはしない。
 故に、儒教教育は、儒教的な価値観や教養を持っていない野蛮人・未開人を教化・徳化する為に行われた。
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 12月23日号 週刊現代「アースダイバー 中沢新一
 東京下町篇 第9回 『いき』の考古学(4)
 九鬼周造の『いき』論
 深川木場の川並鳶の穿(は)く股引き股引き(パツチ)がオツなのは、股引きと足袋の間からチラッと足首ののぞくのが、たまらない男の色気を醸し出すからである。その股引きは、ひどく細身に出来ていて、まるでゴム製ででもあるかのように、ぴったりと股に穿きこむ。そうすると、座り込むのも難しいほどだが、そのほうが断然イナセだから、無理をしてでもそのスタイルで押し通す。
 辰巳芸者が、真冬でも足袋を履かずに素足で過ごしたのも、そのほうがきりっとしていて、イキだからである。足袋を履いて、暖かく快適にやり過ごすことを、彼女たちは嫌ってみせた。寒いからといって、ぬくぬくしていては、辰巳芸者の名にもとると言うのである。
 そんなのはやせ我慢だと悪態をつく野暮天も、当時からいることはいた。たしかにやせ我慢と言えないこともないだろう。しかしそのやせ我慢には、この世へのきっぱりした思いっ切りが込めている。
 名著『「いき」の構造』の中で、哲学者の九鬼周造は、『いき』を定義して、『運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である』と書いた。九鬼は『いき』をもっぱら、男性への巧妙なアピール(媚態)という方向から観察して、こういう結論を得ている。
 たしかに人が異性に対して媚態を見せるのは、たとい自分を不自由にしてでも、愛情や人生での安穏を得たいがためであろう。しかしそんな不自由にはまっていくよりも、いっそ自由に生きていきたいという、『意気地』を発揮しようと思い切ったとき、立ち居振る舞いのすべてに、『いき』が染み渡るようになる。
 その思い切りの根底には、現世的な価値への『あきらめ』がなければならない。安穏で安楽な暮らしに『温く温く』とおさまっている生き方は美しくないと感じるような精神である。九鬼周造の考えでは、辰巳の芸者やさまざまな職人衆が、このような『いき』のスタイルを発展させた根底には、現実を軽いものと見なす傾向の強い、武士道の理想主義と仏教の非現実主義がある。
 この優れた定義に、それ以外付け加えるべきものはない。しかし、欲を言えば、『いき』の根底に横たわっている『あきらめ』は、九鬼周造の言うような、異性方面への媚態の問題に限定されるものではない。『いき』にもアースダイバー的深層があり、それはなぜそのような精神が隅田川河口部に発達したか、という疑問に答えるものでなくてはならない。
 『あきらめ』の深層
 辰巳芸者や川並鳶や魚河岸衆といった、下町文化の精神的な中核を担った人々は、いずれも川の民、海の民の系譜に属する人たちである。この人々は、日本人の原型である弥生人が、稲を栽培する農の民と、海や川での『狩猟』を生業とする海の民に分かれていったときに、水辺近くに住んで魚貝を採る生活を選んだ人たちの末裔である。
 彼らは自分の田畑をもたない。田んぼに植え付けられて収穫を待つという生き方ではなく、川や海の自然が与えてくれるものを、なかば受け身、なかば積極的な態度で、いただいて生きるのだが、これは基本的に、縄文人などと同じ、狩猟民の生き方に通じる。
 自然の富は無限ではないから、むやみに乱獲することはできない。技術が向上したからといって、獲物を一網打尽にすることは許されない。そこから狩猟民に特有な環境倫理が発達してきた。狩猟民は有限な富を前にして、まず『あきらめ』を知らなければならなかった。この『あきらめ』に裏打ちされた倫理があったればこそ、人類は数万年もの間、地球環境を壊さないで生きてこれた。
 農業革命が、このバランスのとれた生き方を壊してしまった。農では、大地に種籾をまいて『投資』をおこなうと、大量の『利潤』をともなった収穫が可能になる。そうなると、耕作地を増やし、労働力を投入していくと、いくらでも富の生産が拡大していくと思われる。農業革命をきっかけとして、人類はそれまでの狩猟民的な、『あきらめ』を知る生き方を捨てて、貪欲を追求する動物に変わっていった。この根源的な貪欲さが、現代の資本主義にまでつながっていく。
 ところが、海民的な心性を持つ続けた人々の中には、こういう考えを受け入れ難いと感じる感性が行き続けた。どんなものであれ、欲望のあくなき追求はむなしい、と感じる心情である。なによりもそれは美しくない。内心にもってりとした欲望を抱いていると、生き方の切れ味は鈍くなる。
 こうして後世、芸妓や鳶の心に、『あきらめ』に裏打ちされた人生のスタイルを、美にまで高めていこうとする心情が発達することになった。じじつ江戸っ子が『イキだねえ』と称賛するもののすべてに、思いっ切りのよい、ある種の『あきらめ』が浸透している。じつに『いき』は、江戸下町に生きる庶民の間に発達した、精神の貴族主義なのであった。
 『いき』の野生化
 しかしじつを言うと、イキが新吉原などで遊ぶ、札差の旦那衆や大名旗本などに育てらた、高級な趣味であったのに対して、深川界隈のプロレタリアたちに育てられ発達したのは、イナセのほうである。イナセのお仲間と言えば、キャンだことのイサミだことの、少々下品なところが混じっている。
 イナセの代表格が、新内(しんない)流しやコハダ寿司の売り子であったと聞けば、なんとなく事情が見えてくるだろう。『坊主だまして還俗させて、コハダ寿司でも売らせたい』とは、そのころの流行歌である。深川界隈に発達したイナセは、イキの上品化に反抗して、それを野生に連れ戻したうえで、一挙に美にまで高めようとする生き方の趣味である。それとよく似た精神をもって、言語芸術に一大革新をもたらそうとしていた1人の芸術家が、元禄の頃、深川に住んでいた。ほかでもない、桃青(とうせい)松尾芭蕉、その人である」

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