💄12)─1─斎王・斎院。女性天皇。女性は不浄・穢れではない。女人禁制。男子禁制。何人も立ち入り禁止。~No.25No.26 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の最高神は、女性神天照大神天皇家の祖先)である。
 天皇は、唯一の祭祀王である。
 女性が天皇に即位すれば、女性天皇が唯一の祭祀王になる。
 最高位の祭司は、伊勢神宮の斎王(女性・内親王)である。
 皇道は、女性を蔑視しない。
 神道には、女性差別はない。
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 女性は、不浄ではないし、穢れでもない。
 穢れは、女性ではなく活力・生命力を損ない奪う血と死である。
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 血と死を扱う者が不浄・穢れでとするなら、男性も不浄であり穢れである。
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 女性が不浄なら、皇后陛下、皇太子妃殿下、内親王、女性宮、斎王さらには女性天皇さえも不浄となる。
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 女性天皇は、不浄天皇ではない。
 最高神の女性神は、不浄の神ではない。
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 女性を穢れ・不浄と決めつける事は、最高神・女性神の裔を正統な皇統とする天皇家・皇室のバッシングである。
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 天皇制度の根源は、母性・女性的である。
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 女性を不浄と決めつける日本人こそが不浄であり、女性蔑視であり、女性差別である。
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 5月18日号 週刊文春「私の読書日記 遊女のドラマ、斎王のドラマ 酒井順子
 斎王とは、伊勢神宮賀茂神社に、天皇に代わって仕えた、未婚の内親王または王女のこと。伊勢に仕えたのが斎宮、賀茂に仕えたのが斎院と言われる。
 『斎王研究の史的展開』(所京子 勉誠出版  3600円+税)によると、伊勢斎宮の制度が整えられたのは、天武天皇の頃、以降後醍醐天皇の時代に廃絶するまで、六百数十年間にわたって続いた。卜定(ぼくじょう)された内親王または王女が、数年から、長い場合は数十年にわたって、神に仕えたのだ。
 平安文学においてもしばしば感じる、斎王の存在感。賀茂斎院では『和歌文芸サロンが形成され、これが和歌の隆盛に寄与』していた。彼女達もまた、一種の『芸』の担い手だったのだ。
 中でも私にとって印象的な存在は、平安時代に57年間もの長きにわたって斎院を務め、『大斎院』と呼ばれた、選子内親王。選子のサロンは、文芸の面でも非常に優れていたらしい。中宮彰子の女房、すなわち彰子サロン所属であった紫式部も、その日記で選子サロンをライバル視している模様が見てとれる。
 選子より前の徽子内親王も、特異な人生を送っている。斎王退下後は独身を通すケースが多い中で、徽子は退下後に村上天皇と結婚。娘もまた斎宮にト定され、娘と共に再び伊勢に下向したのだ。
 そして紫式部は、徽子内親王の人生に『これは』もと思って模様。『斎宮となった娘と共に伊勢へ』という徽子の行動は、源氏物語における六条御息所のモデルとなった・・・。」
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 女性蔑視・女性差別の宗教は数多く存在する。
 キリスト教イスラム教・ユダヤ教などの一神教はもとより、多神教の部類に入る仏教も、全てが女性蔑視・女性差別の宗教である。
 そして儒教共産主義さえも、女性蔑視・女性差別の学問・思想・主義である。
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 人類史・世界史・大陸史は、父性・男性的で動いていた。
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 日本における不浄の極みに追いやられ、最も穢れた日本人は「武士」である。
 平安時代、武士ほど軽蔑され差別された虐げられた階層はない。
 平安貴族は、武士を人間以下の獣として嫌悪し身近から遠ざけていた。
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 日本男児は、男気・侠気(きょうき)として、荒魂・荒事・大和魂と和魂・和事・大和心の二面性を持っている。
 大和撫子(女性)は、女気(おんなぎ)・期手弱女(たおやめ)として、和魂・和事・大和心の一面性しか持っていない。
 この日本民族特有の宗教性はローカルなものである為に、グローバルな国際認識では理解されないし、未開で野蛮な原始的な宗教性として嫌悪され否定される。
 その実例が、相撲の土俵や山岳信仰に存在する「女人禁制」である。
 現代日本の中でも、「女人禁制」を否定し廃止する事を求める日本人が少なからず存在する。
 当然のことながら、日本には「男子禁制」や「何人も立ち入り禁止」が厳しく定められた神域・聖地が数多く存在していた。
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 血や死を嫌う王朝文化において、人を殺し死体に触れ血にまみれる武士は非人・エタなどの賤民同様に穢れた不浄の輩であった。
 穢れた不浄な武士は、神聖な殿上に昇殿できない、獣や虫のように地べたを這いずり回る下級役人であった。
 世襲制度の日本では、武士は血と死で心身と共に穢れ、如何なる手段を講じても浄化できないゆえに、未来永劫、武士の子孫は不浄役人として軽蔑され差別されていた。
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 相撲とは、神聖な男達の裸喧嘩祭り=神事である以上、男裸祭の神聖な場所「土俵」は女人禁制であって当たり前である。
 土俵は、参拝する臨時の神社であり、祭りを行う臨時の境内であり、そして担ぐ代わりに裸足で踏み鳴らす臨時の男神輿である。
 土俵という男神輿の上で、裸の男達が力限りのドタバタと取っ組み合いをして暴れまる事が神事である。
 故に、男神輿である土俵には女人が上がれない。
 女性で、女人禁制とされる男裸喧嘩神事の現場「土俵」に立って高揚感・快感を得たいというのは、異常な性欲か、病的な色欲か、男への復讐心か征服欲か独占欲と言うしかない。
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 2018年6月号 正論「武田恒泰 君は日本を誇れるか
 第49回 女性は本当に『不浄』なのか?
 神事を支えるのは女性たち
 京都府舞鶴市で行われた4月4日の大相撲春巡業で、土俵上で挨拶をしていた多々見良三市長が倒れた。救命しようと女性が土俵に上がったところ、行司が『女性は土俵から下りてください』と複数回アナウンスするという、実にお粗末な事件が起きた。伝統的に女性が上がってはいけないことは多くの人が知るところだが、救命救急の際は別であることくらい当たり前の話である。
 日本相撲協会八角信芳理事長は『行司が動転して呼びかけたものでした』とウェブサイトで釈明したが、その説明も不可解だ。目の前で人が生死を彷徨っているのに『女性は下りてください』と何度もアナウンスするなど、ずいぶん冷静だったではないか。本当に動転していたら、女性が上がったらいけないことすら忘れていなければおかしい。
 それはさておき、迷惑を被ったのは日本の神社をはじめ、伝統文化を守っている人々である。この事件により、日本の伝統的価値観では女性は『不浄』な存在という間違った認識がまた広がってしまった。
 例えば、東京新聞は社説で『「女人禁制」も「女性は不浄」といった神事に関連する考え方があるようだ』と書き、しんぶん赤旗も『「不浄」なものとして女性を土俵に上がらせない』とした。また、フジテレビ系『バイキング』では徳光和夫アナが『女性が不浄だなんていうこの価値観は取り払わなければ』と指摘し、また日本テレビ系『ミヤネ屋』でもやくみつる氏が『そもそも女性が不浄だという感覚が根本にあるわけですよ』と発言している。
 外国のメディアも同様である。ワシントン・ポスト(電子版)は『相撲では女性が儀式上、不浄と見なされている』と指摘するなど、春巡業のアナウンスと、女人禁制のことを絡めて批判的に報じるメディアが多く、女性蔑視の誹りを受けた。
 では、東京新聞しんぶん赤旗徳光和夫氏ややくみつる氏に問いたい。もし女性が不浄なら、なぜ現在、伊勢の神宮の祭主を女性である黒田清子様が務めていらっしゃるのか。全国の神社の中心ともいわれる伊勢の神宮では、大祭において陛下からの幣帛(へいはく)を御正殿(ごしょうでん)の中に納める役割を担うのが祭主である。天皇陛下や皇太子殿下ですらお入りになれない最高位の神域に奉職するのは『女性』なのである。もし女性が不浄な存在なら、そのような神域に女性が奉職することはできないはずだ。
 現在は廃止されているが、古代から南北朝時代にかけて、未婚の皇女が斎王(さいおう)として伊勢に就任し、神宮の大祭に奉職した。
 そして、歴史的に宮中祭祀もまた女性が行うものだった。三種の神器の1つである御鏡(みかがみ)を奉安する内侍所(ないしどころ)に詰めるのは内侍と呼ばれる女性に限られ、内侍が御神体である御鏡を監守していた。内侍所は男子禁制だった。明治以降は江戸城が皇居となり、内侍所は賢所(けんしょ)と呼ばれるようになり、女性である内掌典(ないしょうてん)という巫女が行う祭祀と、男性である掌典が行う祭祀の両方が行われるようになった。そして、宮中の賢所では今日も大勢の巫女たちが御鏡に仕えている。
 伊勢の神宮をも凌駕するほどの清浄を保つ宮中の内侍所で、御鏡に仕えるのは巫女たちだったという事実は、女性が不浄であったら成立するはずがない。また、全国には男子禁制の祭りも多々あるし、全国の神社には数多くの巫女さんが奉職している。巫女さんの姿を見たときに『不浄』を思い描く日本人がどれほどいるであろう。また、近年は女性の神主も急増していて、男性神主と同じ仕事を女性神主が担っている。日本の伝統的価値観において、女性は不浄ではないのである。
 女性が土俵に上がれない理由
 ……
 なぜ男は女風呂に入れないか
 ともあれ、相撲協会が土俵の上には女性は上がれないと言っているなら、それはそれで尊重すればよいではないか。公益法人だから女性を土俵に上げないのはおかしいという人もいるが、相撲は伝統であり、その伝統を守り継承する「のも」相撲協会の大きな役割である。そして、伝統を守ることには公益性がある。
 『相撲は男の世界だから土俵には女性は上がれない』という様式文化が形成されているのであるから、それはそれで守る価値がある。相撲の土俵を問題にする人は、女性が歌舞伎を舞うことができないことも問題にすべきだし、男が宝塚に入れないことも問題にしなければおかしいが、そういう声は聞こえない。さらには女人禁制が問題なら、男が女風呂に入るれないことだって問題にすべきであり、逆もまた然りではないか。
 歌舞伎には男が女を演じる様式文化があり、また宝塚には女が男を演じる様式文化がある。好き嫌いは自由だが、主催者にもそれを決める自由がある。嫌いなら見なければよいだけのこと。なぜ主催団体に詰め寄ってそれを変えさせる必要があるのだろうか。お節介も甚だしい」
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 4月22日 産経ニュース「【iRONNA発】大相撲 土俵の「女人禁制」私の解決策 太田房江
 京都府舞鶴市の大相撲春巡業で多々見良三市長が倒れた際、土俵に上がる女性(動画投稿サイト「ユーチューブ」から)
 土俵の「女人禁制」が波紋を広げている。静岡県では力士が土俵で子供に稽古をつける「ちびっこ相撲」でも、日本相撲協会からの要請で女児が土俵に上がれない騒ぎが起こった。賛否が渦巻くこの議論に解決策はないのか。(iRONNA)
 土俵の「女人禁制」が今も尾を引いている。これは、私が大阪府知事に就任した平成12年から8年間、「大阪場所での府知事賞は自分の手で優勝力士に渡したい」と発言したことが発端になっている。現在、自民党女性局長を務めている立場から、この問題について改めて再考したい。
 今回の問題は、京都府舞鶴市の多々見良三市長が土俵上で倒れ、観客と思われる女性数人が心臓マッサージなどを施し、必死の救命措置が行われている最中に起きた。その際、繰り返し流れた「女性の方は土俵から下りてください」という場内放送が不適切であったことは、直後に日本相撲協会八角理事長(元横綱北勝海)が謝罪した通りであり、この相撲協会の対応は的確だったと評価している。「人命」と「伝統」とでは、「人命」が重いことに疑う余地はない。
 問い続けた8年間
 ただ、表彰などで女性が土俵に上がってよいかどうかは、こうした緊急時の対応とは別に熟考すべき問題である。大阪府知事として8年間、8回にわたって、相撲協会に「今回はいかがでしょうか」と問いかけを行ったのも、「日本の伝統」と「女性活躍」という社会の変化について、多くの方に考えていただく契機にしてもらいたいと思ったからであり、どうしても土俵に上がりたかったというわけではない。
 横綱審議委員も務め、東北大大学院で大相撲の研究をした脚本家の内館牧子氏によれば、「土俵は聖域」であり、そこが「女人禁制」であることを理解する知性と品性が必要、と述べている。もともとは、中国において仏教徒の修行の場を囲み、修行僧の心を乱す障害物が入らないように「区切った」ことが始まり、とも説明していた。女人禁制の寺院が、日本で今も残っているのは、その流れだろうか。
 昔は炭鉱で石炭を掘るための坑道や、石油を採取する海上のリグ(掘削装置)などにも女性は立ち入りできなかった。私は旧通産省経産省)の出身だが、昭和61年、初の女性局長として札幌通商産業局長となった先輩の坂本春生(はるみ)氏が、その伝統を変えて仕事のために坑道に入ったときには、心の中で拍手を送ったものだ。では、近い将来、女性総理が誕生するかもしれない時代に、土俵の「女人禁制」をどう考えるべきか。
 カギは「神送り」
 かつて、内館氏は取材にこう答えている。「どうしても女人禁制をやめるなら、力士、親方、行司、呼び出し以外の人間は、男女とも神送りの儀式を済ませた後の土俵に上げることです。千秋楽の式次第を変え、神送りの後に表彰式セレモニーとする案です。でも、私はそこまでする必要はないと思っています」
 府知事時代、部下の女性が解決の道がないか調べてくれたことがあるが、同じような答えだったと記憶している。千秋楽の弓取り式が、内館氏の言う「神送り」に当たると彼女は言っていた。従って、弓取り式の後は女性が土俵に上がっても問題はない。神は天上にお上がりになって、土俵には宿っておられないから、というものだったと思う。
 あの時は、それを相撲協会に提案する勇気はなかったが、あれから10年たって、改めて「伝統」と「女性」を両立させる方策はこれしかないのか、と思い始めた。「緊急時」と「知事や市長など国民が選んだ女性が、力士の表彰を行う場合」には、神送りの後に一定の間「女人禁制」を解く、というものである。
 大相撲は、(1)神事であり(2)スポーツであり(3)伝統文化であり(4)興行であり(5)国技であり(6)公益財団法人である。この6つを認識しバランスを取りながら、一つ一つ丁寧に説明していく。その姿勢が大相撲に対する国民からの信頼を取り戻すことにつながるのではないだろうか。一相撲ファンとしても、そう願いつつ、「勇気を出して」提案する次第である。
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 【プロフィル】太田房江 参院議員。昭和26年、広島県生まれ、東大経済学部卒。通商産業省(現経済産業省)に入省し平成9年、岡山県副知事就任。12年に全国初の女性知事として大阪府知事を2期8年務める。25年に参院議員として初当選し、27年、厚生労働大臣政務官に就任。自民党女性局長を務める。」
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 5月13日 産経ニュース「【新聞に喝!】相撲人以外は土俵に上げるな 女人禁制問題、男女以外の視点でも 京都大学霊長類研究所教授・正高信男
 京都府舞鶴市の大相撲春巡業で多々見良三市長が倒れた際、土俵に上がる女性(動画投稿サイト「ユーチューブ」から)
 約40年前に大学院に入学した際、副専攻で異文化研究のゼミに参加した。伝統社会における祭祀(さいし)など儀礼研究が盛んだったが、多くの調査対象地域の政情は不安定で祭祀どころではないようだった。ところがゼミの教授は「ばか野郎、人間というのは飢え死にしてでも儀礼だけは欠かさない生き物なんだ」と言った。
 乱暴な言い方にあきれたことを記憶している。しかしその後、自分でいくつもの伝統社会を跋渉(ばっしょう)してみて名言であったと感心する今日である。人命より祭祀を重視する文化は地球上に珍しくない。世界には、西洋近代社会の尺度で測りきれない価値観を有する地域があまた存在する。
 日本の相撲の世界もまた、西洋近代とは違う価値観を保持する場といえるだろう。大相撲の興行はいまも神を招来して始まる。土俵は祭祀の場であり、土俵の土からは過去にそこで命を落とした力士の霊が湧出するとされる。
 先月、京都府舞鶴市で市長が土俵上であいさつ中に昏倒(こんとう)したとき、救護に駆けつけた女性に土俵からおりるよう行司がアナウンスした。メディアは女人禁制をめぐる大きな問題として取り上げ、伝統重視よりも批判に比重を置いた報道が目立った。
 私は批判にさらされた行司の心中を推し量り複雑な気持ちになった。相撲の世界に生きる者としては身についた振る舞いがある。ところが物事が収まった冷静な状況になって、西洋近代社会の人間としての行動が要求される場面だったとされた。日本相撲協会の理事長から一片の擁護もなかったのは気の毒に思った。
 土俵は結界(けっかい)の張られた空間であり、神に己をささげる覚悟で上がるのが相撲界に生きる者の考えだと私は理解している。伝統のために命をないがしろにしていると非難するのはたやすいが、今回のような特殊事例を盾に女人禁制を解こうとすることには違和感がある。兵庫県宝塚市の女性市長は女性も土俵に上がれるようにしてほしいと言うが、昨年は土俵の下でのあいさつをそんなものとして受け入れたと語っていた。
 また女性が土俵に上がるのを許すかどうか、ばかりが焦点になっているが、男女の如何(いかん)を問わず相撲世界に属さない人間が土俵に上がることをやめるという方向でも議論ができるだろう。相撲文化の原点に立ち返って相撲人以外は土俵に上げず、来賓も土俵の下で遇するというふうにしておけば今回の騒動は起こらなかったはずである。
 世界を見渡せば、西洋近代の価値観と地域の伝統が引き起こす文化摩擦は、さまざまな国際問題の根底にもなっている。メディアは今回のことについて、女性の権利をめぐる問題だけではない、より大きな視点から取り上げることもできたであろう。
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【プロフィル】正高信男
 まさたか・のぶお昭和29年、大阪市生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科博士課程修了。学術博士。専門はヒトを含めた霊長類のコミュニケーションの研究。」
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世界史的な一神教の普遍宗教は男性の独占で、絶対神に仕え祭祀を行うのは男性であった。
 キリスト教ローマ教皇イスラム教の律法者、ユダヤ教のラビ、儒教儒学者などは、全て男性で女性は排除されている。
 唯一、イギリス国教会だけが女性を最高位の主宰者と認めている。
 一神教の普遍宗教では、父権が強く、家父長制が社会の基本で、男性優位・女性劣位、男性上位・女性下位で、つまり男尊女卑が原則である。
 それ故に、レディーファーストやウーマンリブフェミニズムジェンダーフリー一神教の普遍宗教圏で生まれた。
 キリスト教圏でレディーファースト、ウーマンリブフェミニズムジェンダーフリーが生まれたのはイギリス女王が即位した為であり、その源は聖母マリア崇拝である。
 救世主(メシア)であり神の子であるイエス・キリストを生んだのは聖母マリアである。
 女性は、絶対神が男性のあばら骨から創ったと考えられていた。
 レディーファースト、ウーマンリブフェミニズムジェンダーフリーは、宗教における聖母マリアの存在がなければ生まれなかったし、宗教を否定しては存在し得ない。
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 人間が尊い存在として護られのは、宗教との深い関係性からである。
 それ故に、宗教紛争での惨殺は、反宗教無神論マルクス主義特に共産主義ほどおぞましい大虐殺にはならない。  
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 共産主義国家や社会主義国家などのマルクス主義国家では、女性の党首・主席・書記長や首相などの主要閣僚そして軍隊の指揮官・高級将校はいない。
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 道徳や規律を説く聖人・偉人が現れる社会・世界は、道徳や規律がない社会である。
 儒教孔子孟子道教老子荘子そして法家の商鞅韓非子などが中国に現れたのは、彼らの教えが中国になかったからでる。
 金銀が大量に普通に大地の上に転がっている社会では、金銀は柔らかいだけで使い道が少ない金属として価値がない物質である。
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 宗教・信仰は、ないモノ或いは手に入りにくいモノを求めて祈る神聖な行為であり、あるモノ或いは手に入りやすいモノを求めて祈る愚鈍な行為ではない。
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 日本中心神話=天孫降臨神話に基づく皇道・神道は、地母神信仰と太陽神信仰を融合した未開の古代宗教を源流としている。
 地母神に仕える神官は、呪術を操る男の神官ではなく鬼道を行う女性の巫女であった。
 古代地母神と太陽神の神事を司るのが女性である以上、日本のローカルな民族宗教では女性蔑視・女性差別は起きない。
 現代日本で女性蔑視・女性差別とされている女人禁制は、日本の民族宗教とは無関係である。
 日本の民族宗教では、女人禁制はありえないことである。
 女人禁制は、グローバル知識の現代日本人では理解できない所に理由が存在する。
 日本に残る女人禁制は、文化的宗教的風習的伝統であり、理由は女性蔑視・女性差別ではなく別の所にある。
 現代日本人は、その理が見えなくなり理解できなくなっている。
 つまり、ローカルな日本民族日本人の衰退である。
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 数百年から数千年受け継がれたローカルな伝統的女人禁制を、ここ数十年で確立したグローバルな見解で宗教的道徳的法律的人道的糾弾をする事に意味はない。
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 人類史・世界史・大陸史において、グローバルは数多くのローカルな民族の伝統・宗教・文化・言語・風習・習慣を滅ぼし根絶やしにし消滅させてきた。
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 日本のメディア関係者は、日本をグローバル化する急先鋒である。
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 グローバルは、ローカルを未開、野蛮、排他、不寛容、閉鎖そしてナショナリズムの源泉として滅ぼそうとしている。
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 日本民族の伝統・文化・宗教・言語・風習・習慣は、グローバルではなくローカルである以上、時代後れ、時代に合わなくなったとして、何れは消滅する定めである。
 ただし、ネイティブ・アメリカン(インディアン)やハワイ人のように生きていたという痕跡を残すだけになる。
 民族的なローカルの消滅という兆候は、日本全国で現れ始めている。 
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 日本の伝統的祭りの大半が、天皇家所縁の日本中心神話・天孫降臨神話に繋がっている。
 天皇家・皇室に繋がらない祭りは、ローカルな民族的祭りではない。
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 天皇制度廃絶論者や反天皇反日的日本人は、善人面しもっともらしい言説を語ったとしても本心は女性蔑視・女性差別で、日本民族として信用も信頼もできない日本人である。

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