🌈32)33)─1─江戸っ子気質は、佃島の漁師や江戸魚河岸の魚商人が源で、その原点は関西・摂津佃村の身分低き海の民であった。〜No.62No.63No.64No.65 @

   ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 江戸の活気は、御上のリーダーシップによるトップダウンの指示・命令・通達で意図的に作られたのではなく、身分低い庶民の生活空間や仕事現場から何となくボトムアップとして立ち現れていた。
 そこが、島国の日本と大陸の西洋や中華(中国・朝鮮)との大きな違いである。
 大陸では、生きて行く為には優秀・有能なリーダーを必要とした。
 日本では、優秀・有能なリーダーは煩わしいとして嫌われ、悪政や失政をして世間に迷惑をかけない無能に近いぼんくら・ぼんぼんの御上が好かれた。
 ファッション・流行は、大陸では支配者や上流階級の贅沢として大金を浪費して広まったが、日本では身分低く貧しい下々の間から広まった。
   ・   ・   ・   
 2017年3月4日号 週刊現代「アースダイバー 築地市場編 中沢新一
 (アースダイバー:アメリカの先住民神話に登場する水鳥。水中に潜って土を取り、おかげで最初の大地が出来た。アビともカイツブリとも言われる)
 第11回 日本橋魚河岸 (2)
 日本人の伊達なファッションは、中世以降つねに魚河岸から生まれてた。日本橋魚河岸に働く若衆こそ江戸ファッションの発信源だった。(洒落本『当世風俗通』より)
 森孫右衛門の死
 寛文2(1662)年4月4日、森孫右衛門が郷里の摂州佃村でなくなった。当時としては驚異的な、94歳の長寿であった。
 孫右衛門は、じつに多くの出来事を目撃してきた。……大坂の陣における徳川方の勝利を見届けたのち、江戸へ移住して白魚漁を開発。さらに摂州漁民の拠点となる佃島の造営にとりかかり、最後の大事業として、埋め立てなった日本橋に魚河岸を開設した。そのどれをとってみても、人並み外れた力量を必要とする、大仕事ばかりだった。
 日本橋に本格的な魚河岸が開設されて三十有余年、佃島の造成完了から20年、孫右衛門は江戸における森一族と佃・大和田両村の仲間の子孫たちの隆盛を、遠く大阪で耳にしながら、静かにその冒険的な一生を終えた。
 じっさい、元禄の大消費時代をむかえて、日本橋魚河岸は魚河岸史上最高の繁盛期に入っていたのである。建設ラッシュにわく江戸で、最初に巨富をなしたのは材木商であり、ついで急激に増大する都市人口をまかなうため、米屋が台頭して豪商を張った。しかし、三田村鳶魚(えんぎょ)の『江戸っ子』によると、元禄期にいちばん威勢がよかったのは、日本橋魚河岸の魚商人であったという。
 もちろん日本橋の狭い土地にひしめきあう問屋たちは、由緒ある摂州出身の御用商人といっても、特別な大金持ちというわけではなく、魚河岸にいわゆる豪商や大財閥はいなかった。それでもやけに景気がよく、むやみと威勢がよいので、人々の目には大繁盛と映っていたらしい。
 魚河岸ファッションリーダー
 とにかく魚河岸の雰囲気は派手なのである。まずは魚商人たちのいでたちから。
 元禄期に大流行し、その後の江戸風俗の基礎をかたちづくったという『本多髷(ほんだまげ)』という髪型をはじめたのは、本小田原町の魚問屋の若衆や仲買人たちであった。月代(さかやき)をやたら広く剃り上げ、髷は『ねずみの尻尾のように』細く作って、元結(もとゆい)で高く結い上げておいて、一気に頭頂部に落とすのである。こうすると剃り上げた頭と髷の間に隙間ができる。これを当時の粋人(ダンディ)たちは、やけにかっこよいとてはやした。
 魚河岸の衆は好んで、着物の下に真っ赤なじゅばんを着た。『紅襦袢』というやつである。派手なこのいでたちが、また流行となった。伊達な男たちはこぞって赤い襦袢をつけ、わざと着物の裾を割って、この赤い下着が見え隠れするのを、まわりに見せつけようとした。
 この時代に創作された歌舞伎十八番の『助六』は、すばやくこの流行を取り入れた。遊び人の助六が、仇にむかって『俺の股くぐれ』と挑発する。そこですかさず助六が着物の裾をひろげると、観客の前には、目にも鮮やかな紅色の下着が顕れる。このエロティシズムに、江戸娘たちはこぞって悩殺された。
 草履(ぞうり)かわらじが、ふつうの履物で、雨でも降らなければ下駄ははかなかったというこの時代に、魚河岸の衆はしょっちゅう下駄をはいた。それを見た通人(つうじん)と言われる人たちが真似をして、晴天だというのに、下駄をはいて歩くようになった(いわゆる日和下駄である)。
 三田村鳶魚の説によると、繁盛をきわめう魚河岸の路面は、板船と呼ばれる商品棚にたえず水を注いでいる関係で、いつもぐちゃぐちゃとぬかるんでいて、乾くまもなかった。そんなわけで、市場では下駄をはいて仕事するしかなかったのだが、若い衆は威勢がいいものだから、そのままのかっこうで、繁華街にくりだしていった。それに町衆が目をつけて、流行とした。おまけに魚河岸衆のはく下駄というのがまた派手で、目の細かい桐のいい台に、硬い樫の歯をはかせ、革の鼻緒をわざと目立つようにすげて歩いた。魚河岸は、まさに日本的ダンディの見本のような男衆の溜まり場であった。
 日本橋魚河岸は、こんなふうに17世紀の半ばから18世紀の前半ばまで、同時代のロンドンの金融街シティをもしのぐほどの、繁盛ぶりを見せた。その魚河岸の繁栄の基礎を築いたのが、森孫右衛門と佃島一党の漁民であったことは、いつまでも江戸の人々に語りつがれた。しかし、孫右衛門が亡くなった頃を潮の変わり目として、摂州系魚商人は、日本橋魚河岸の問屋世界の中にあって、あまり目立たない存在となっていく。かわって隆盛に向かったのが、前回お話しした、大和屋助五郎である。
 鯛の時代に
 白魚は、幕府草創期の理想を象徴しているからのように、気高い魚であったが、なにせ見てくれが地味なので、元禄の大消費時代に入ると、あまり珍重されなくなる。それにかわって浮上してきたのが、派手やかな容姿をした鯛であった。鯛は高級魚として、大枚で売買された。
 その鯛を活きたまま、大消費地江戸に運んできたのが、知恵者の大和屋助五郎である。助五郎は沼津から安良里にいたる駿河湾沿いの漁村に、『敷浦(しきうら)』の契約を結んで、活きた鯛を『幕府御用』ののぼり旗を立てた活き船の生簀に泳がせたまま、魚河岸まで運んでくるのである。
 こうして助五郎が江戸に運び込んだ活鯛は、当時の消費ムードにのって、爆発的に売れた。幕府も大和屋を活鯛納入業者の筆頭にすえ、おおいに儲けされた。その頃、魚河岸には三軒の活鯛業者がいたが、お城の御用といえば、ほぼ大和屋の独占状態となった。これには、ほかの魚商人たち、とりわけ佃島の森系統の問屋たちが反発した。
 魚河岸では、森一派と大和屋一派の抗争が発生し、双方が獲物を手にして出入りまでおこすようになった。そのたびに、お上からは大和屋に有利な裁定が下された。しだいに大和屋助五郎は、驕り高ぶりをみせるようになった。そしてとうとう、大和屋を凋落に向かわせることになる、ある事件が起こったのである」


    ・   ・   ・   

浮世絵でわかる! 江戸っ子の二十四時間 (青春新書インテリジェンス)

浮世絵でわかる! 江戸っ子の二十四時間 (青春新書インテリジェンス)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 青春出版社
  • 発売日: 2014/06/03
  • メディア: 新書