🌈30)31)─1─南方海洋民文化としての佃島と魚河岸、漁師から魚商人。刺青文化。~No.58No.59No.60No.61 @

刺青・性・死 逆光の日本美 (講談社学術文庫)

刺青・性・死 逆光の日本美 (講談社学術文庫)

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 武士=伊達者=死の美学=死装束。
 町人=粋=逃げる美学=反逆装束。
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 2017年2月11日号 週刊現代「アースダイバー 築地市場編 中沢新一
 第8回 佃島と魚河岸 (1)
 漁師から魚商人へ
 埋め立てで新しくできた日本橋界隈に、生魚市場(魚河岸)を最初に開設した人々こそ、ほかならぬ佃島の漁民たちであった。
 もっとも日本橋に魚河岸ができた頃、佃島はまだ未整備の干潟で、人の住める島ではなかったために、摂津の佃島から移住してきた漁民たちの多くは、日本橋小網町のあたりに住んで、漁師をやりながら、生魚の販売にも手を伸ばそうとしていた。
 森孫右衛門はすでに中年をすぎて、隠居の身分だったとはいえ、あいかわらず精悍で、佃・大和田両村の漁民の統率を続けていた。
 ……
 江戸には彼ら以外にも、すでに魚の販売でなりわいを立てようと、小田原や房総などから多くの漁師や魚商人たちが、集まってきていたことである。そういう魚商人たちの開いた私設の生魚市場なら、日本橋小網町にもあって、けっこうなにぎわいを見せていた。そこは芝の漁民が開いた魚市場だったので、芝河岸の名で呼ばれていた。摂州漁師たちは、そこに割り込んでいこうとしていたわけである。
 こういうときに、将軍様の食する白魚を江戸城に独占納入している、御用商人であるという立場が、大いに効力を発揮した。芝の魚商人たちは、佃漁民の進出に反対して、陳情を繰り返したが、とうとう撤退のやむなきにいたった。
 ……
 佃島の海民文化
 ……
 日本橋に魚河岸を開いたのは、佃島を彼らの『王国』とする海民の一族であり、その海民の心性、習俗、心意気、独特な思考法などが、その後の魚河岸の中に、強力な伝統として行き続けた。しかも話は魚河岸の中に止まらないで、その伝統は江戸の下町に住むいわゆる『江戸っ子』の心意気(エートス)や習俗の形成にも、大きな影響を与えている。江戸っ子にはどこか海民的なところを感じるが、その海民的な風は、じつは佃島から吹き寄せていた。
 そしてその伝統は、今日の築地市場にまで、消えることのない残響を響かせ続けている。魚河岸文化の本質を考えるとき、江戸湾に浮かぶ小さな点のような佃島が、じつに大きな存在感をもっている。佃島には、2000年を超える日本列島の海民文化が、層をなして堆積している。その文化の堆積物が、江戸と東京に向けて、海民的野性の風を送り続けてきたのである。
 農民と漁民のいちばん大きな違いは、『自然』との接しかたにあらわれている。農民は田をつくり、そこで稲を育てて、米を収穫する。田に水を引いてくるまでに、自然の水流は用水路によってたわめられ、池に溜められ、用心深く調整しながら田に流し込まれる。そこにじつに従順な植物である稲が栽培され、その稲の生育にああせて、農民の生活サイクルが設計されてきた。つまり、農民は制御され、媒介された自然と、長いことつきあってきたのである。
 海民の心性
 ところが、漁民のつきあう自然は、もっと荒々しい。養殖場でもないかぎり、漁民は自然状態のままの海を、相手としなければならない。自然のままの海に、けっして安全といえない船に乗って、漕ぎ出していかなければならない。波に揺られ、海中に釣り糸を垂れ、網を打つ。けれど水中に生きる魚たちは、稲のように従順でない。魚には魚の生存があり、彼らからすると、船の上の漁民はにっくき敵なのだ。
 まして、日本列島に住み着いた漁民は、倭人と呼ばれた先祖いらいの、潜水の伝統を忘れてはいない。海に潜(かず)くとき、漁民の肌は海の自然力に直接さらされ、揉まれ、流されていく。漁民の肌は、すでに自然の一部なのだ。漁民は農民と違って、野性的な海の自然力と直接触れあう体験の中から、漁民特有の心性とエートスを形成してきた。その海民文化が、佃島に保存され、それは日本橋魚河岸に移植され、成長をとげ、ついに現代の築地市場にまで生き延びた。
 ここに、そのことを如実にしめす一枚の写真がある。佃島漁民を中心につくられた『彫友会(ちょうゆうかい)』に属した人々の姿を撮影した、明治初年頃の写真である。{佃島住吉神社の神主を代々務める平岡家に保存された『彫友会』の記念写真。倭人的な海民文化は、江戸時代に独特の『江戸っ子』文化に発展した。 写真は佐原六郎『佃島の今昔』より}男たちの職業は、漁師、生魚商人、鳶職人、車夫などさまざで、いずれも江戸時代に流行の、伊達(だて)なファッションの真正な継承者たちである。
 潜水漁民である倭人が、背中に海の生き物の姿を描いた刺青(文身)をしていたことを知っている私たちは、この写真には驚かないだろう。この写真に表現されているのは、野性の自然に直接触れながら生きている、海民文化の精神そのものにほかならないからだ」
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 2月18日号 週刊現代「アースダイバー 中沢新一
 築地市場
 第9回 佃島と魚河岸(2)
 皮膚をキャンバスにして
 江戸っ子の心性は、江戸周辺部の農村に暮らす農民のそれと、大きなちがいを見せていた。それは、江戸っ子の形成に、海民文化が重要なファクターとなっていたためである。
 農民が相手にしたのは、人間との間にクッションの入ったおだやかな自然であるのにたいして、海民は板一枚、皮膚一枚隔てただけで、荒々しい海の自然と直接触れ合っていた。その海民の心性と文化が、江戸っ子の心性の土台をなした。
 そのちがいを、端的にしめしているのが、刺青(文身)の文化にたいする、対極的な態度である。鳶(とび)をはじめとする諸職人、火消し、漁師、魚河岸商人、駕籠かきといった、江戸っ子を代表する威勢のよい人々の多くは、背中や腕に見事な刺青を彫り込んだ。ところが、農民たちはこの刺青なるものを忌み嫌い、刺青を皮膚に施すだけで、自分らとはちがう世界の住人になってしまったとみなしたものである。
 農民たちにとって、皮膚は『文化の世界』のものだったのである。人間的な文化の世界が、外の自然に向かって防禦膜を張っている、それが皮膚であるという感じだろうか。そんな文化的皮膚に、針や小刀で傷をつけ、藍の汁を注いで着色し、動物や植物の大胆なデザインを彫り込むことは、自分たちの世界に、野性的な自然の力を侵入させるにひとしい行為ではないか。
 ところが、鳶職人や火消しや漁師や交通運輸の人々は、ちがう感覚をもっていた。この人々の出自は、多くが川の民、海の民であえうと言われる。船底の板一枚隔てて荒波に接し、潜水漁民は自分の皮膚をさらして、直に海水に洗われ揉まれている。この人々にとって、自分の皮膚は文化の世界のものではなく、むしろ自然の一部なのである。
 そうなると、そういう自然的皮膚をキャンパスに見立てて、自然力を美しく昇華した『消えない絵画』を、そこに彫り込もうという考が、海民文化の中に生まれるのは、ごくナチュラルな流れである。なにせ自分の背中に、自然よりも強力な自然を背負っているようなものだから、波や水流や風と一体になれて、なんの違和感もなく、水や火の中で安全に作業を進められることができる。
 こういう心性が、海民に特有の文化をつくった。火や水の力を恐れず、身を挺して火事の現場に飛び込んでいく、火消しの気風(きっぷ)の良さを、江戸の庶民は大いに賞賛した。刺青の美が、その心意気を象徴している。そういう海民的な心意気や思考法が、江戸っ子の心性の土台を形づくっていた。その海民文化の発源地のひとつが、江戸湾に浮かぶ佃島であり、その佃島漁民によって、日本橋魚河岸は開かれた。このことは、魚河岸文化の本質を考えるうえで、きわめて重大な事実をなしている。
 一心太助の伝説
 こういう魚河岸の存在が、じつは江戸幕府にとっても、きわめて重要だった。徳川氏の権力は、京都の朝廷のように、神話伝統によって支えられていない。武力によるだけの権力には、みずからの政治的正当性(ポリティカル・コレクトネス)が主張できない。それで徳川氏は、天下に正しい『ご政道(せいどう)』がおこなわれていると宣伝することによって、自分の正当性を主張しようとした。
 ここで面白いのは、年貢という『税』を徴収する相手である農民にたいしては、庄屋や代官や藩などの、たくさんの中間的な機関をクッションにして、媒介的に支配の力を及ぼそうとしたのに対して、都市住民である江戸っ子にたいしては、権力がまるで『肌を接するようにして』、直接に触れ合いながら、正しいご政道をおこなっている印象を与えようとしていたことである。江戸っ子のほうも、それを自分たちに与えられた特権のように考えていた節がある。
 そのことを象徴しているのが、築地在住の生魚商人、一心太助の伝説だある。一心太助は実在の人物ではないが、小田原の魚商人がモデルとなって創作され、江戸庶民に広く流布したお話の主人公である。
 ……
 ご政道と白魚
 子の伝説には、江戸城の権力と江戸っ子の生活が、まるで海水と魚のように、肌を接して触れ合っている(あるいは触れ合おうとしていた)ことが、語られようとしている。徳川権力は、農民にたいしては農民の心性の構造と同じ権力の構造をもって接しようとし、海民の子孫にたいしては、海民の心性にふさわしいやり方で、刺青的な直接性をもって接しようとしていた。
 そう考えると、家康以来、江戸城の食卓の必需品が白魚であったということには、なにか象徴的な意味がこめられていたのではないか、と思えてくる。透明に光る白魚が、正しいご政道のおこなわれていることの象徴であるとするならば、そこには家康の悲願のようなものが込められているのが見えてくる。ちなみに、一心太助の二の腕には『一心如鏡、一心白道』との刺青が、彫り込まれていたという」
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 武士が一廉の伊達者と認められる為には、文武両道として、武芸に秀でていると同時に優れた文才も必要であった。
 つまり、剣道・馬術・弓術・遊泳の術、政治・経済・軍事・外交、社交、土木・建築、美術・芸術・芸能、礼儀作法・儀礼典範、学問など武芸百般の中で、幾つかの面で標準以上の才能もしくは素養が求められた。
 武士には、特権階級として自堕落に遊興に耽る事は許されず、人倫の道を外せば切腹か家禄没収のうえ追放されお家は断絶させられた。
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 2017年4月号 歴史通「猛氣英風──士魂あるいは士風について最終回 日下潜
 残滓は天の赦すところ
 文禄元年(1592)3月17日、太閤秀吉が企てた征韓の戦いに出で立つべく、肥前名護屋を目指して第一次遠征軍が京都に勢揃いした。第一番は前田利家、続いて徳川家康、そして三番が伊達政宗だった。政宗率いる一統は3,000人、軍装はこの5枚胴具足だった。
 ……
 政宗のこの行装から、『伊達者』の言葉ができたとする説もあるが、この行列前後に『だて』という言葉があったと研究者はこれを否定する。試みに『伊達』なる項目を『日本国語大辞典』で 引いてみると、冒頭にこうある。
 『人目をひくような、はでなふるまいをすること。意気、侠気をことさらに示そうとすること。また、そのさま』
 この『意気や侠気をことさらに示そうとする態度』は、男を立てることであり、男伊達なる存在を誇示する言葉であった。
 一方、『伊達の薄着』や『伊達をこく』など、現代にも通用する言葉が濃厚に表すのは、日常の些細なことに拘る態度のことであろう。これだけを見れば、単なる洒落者にすぎない。これを粋といいかえてもよかろう。
 『伊達』と『粋』と同義語だろうか。決してそうではない。一言でいえば、『粋』は町人の美学、『伊達』は武士の美学であろう。別の言葉で言えば、『粋』は逃げる美学、『伊達』は死装束というべきだ。絹の着物を禁じられた富裕な町人が、表は木綿、裏地は絹で、表面上は畏(かしこ)まっていながら裏で舌を出す類、これを『粋』というのである。
 『いきの構造』で、著者の九鬼周造はこの『粋』なる美意識について縦横に論じている、突き詰めていえば、『粋』とは、消極的な反抗心に支えられた町人の処世術に発する生活上の美意識に過ぎない。伊達家の行列に讃嘆を惜しまなかった京町衆の意識とは別に、軍装とは身体の防禦を第一に考えられたものであるとはいえ、畢竟すれば死装束で、武人の死生観を色濃く反映したものである。華々しく戦い、武運尽きれば討死せざるを得ない武士たちの舞台衣裳であった。伊達者も傾奇者も、己の威勢を立て誇示するなら、当然他者と衝突する局面が出来(しゅったい)する。究極的には命を懸けざるを得に状況をさえ、顧みないのがこの男たちであった。
 それでは『伊達』なる美意識に先蹤(せんしょう)はあったのかといえば、『婆娑羅(ばさら)』を想起せざるを得ない。婆娑羅とは、鎌倉時代末から南北朝初期にかけて忽然(こつぜん)と出現した新しい美意識である。文化の爛熟が極まって頽廃に堕せんとする時、前代の規範を破壊して新たな価値観を創造するためには、『過差』なる振舞が必要である。その典型が婆娑羅であった。婆娑羅とは、『硬くて何物をも砕く金剛石』を意味するというサンスクリット梵語)の『バージラ』あるいは『バージャラ』に由来し、派手で豪奢な衣服や振舞を意味する南北朝時代特有の美意識であった。この美観が沈潜して桃山時代に改めて姿を現したのが、傾奇者であり、伊達者であったというのは、あながち妄想ではあるまい。
 さて『伊達』なる美意識を体現した伊達政宗は、『貞山公(ていざんこう)集』と名付ける文集を遺している。そこには詩30首、文一篇、和歌255首、紀行一篇、和文二篇あ収録されている」
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 日本の入れ墨・刺青は、ヤクザ・暴力団・犯罪者ではなく堅気で玄人の粋・伊達・男気を象徴する証であった。
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 日本の入れ墨・刺青は、世界のタトゥーとは異なる。
 邪馬台国時代。倭人達が身体に彫っていた入れ墨・刺青は、文明・文化に無縁な未開人の呪術的な要素だけではなく、南方系海洋民の風習の名残でもあった。
 南方系海洋民の生業は漁業で、海で遭難して死亡し、遺体が見知らぬ浜辺に打ち上げられた時に、波で揉まれれば衣服や装飾品は全て失う。
 漂流している間に、顔の目玉や唇などの柔らかい部位は魚などに食べられ誰なのか見極めが付かなくなる。
 遺体の身元を確認する為に、入れ墨・刺青を彫ったのである。
 入れ墨・刺青は、呪術に頼る未開人の証しではなく、自然災害の中で生きる海洋民の死生観・人生観から生まれた。
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 戦国時代に、入れ墨・刺青が流行した。
 武将は、討ち死にすると首を取られて、鎧をまとった遺体は戦場に放置された。
 地元の住人達は戦場荒らを行い、首なし武将と戦死した侍や足軽の身包みを剥いで裸にして遺体を戦場に打ち捨てた。
 地元の僧侶や百姓達は、引き取り手がなく野晒しにされた死体の霊魂が怨霊となって祟る事を恐れて、懇ろに弔った。
 戦いに出る者も、戦死後、自分の魂が御霊となって災いを引き起こさないように供養され成仏できる事を願い、身ぐるみ?がされても自分を特定できる手段として入れ墨・刺青を彫った。
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 徳川幕府は、武家社会にあった戦国時代の悪しき風習である入れ墨・刺青をなくす為に儒教を利用した。
 「身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く。」敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり」の孝養訓によって、武士の間にあった入れ墨・刺青の習慣はなくなった。
 旗本奴は、入れ墨・刺の代わりに奇抜な服装で「男伊達」を表現し、百姓町人に対して特権を誇示した。
 町奴(下町奴)や火消しは、入れ墨・刺青を彫る事で旗本奴に対抗し、「粋」「気風」「男伊達に」に名誉と命を賭けた。
 徳川幕府は、泰平の世を末永く続かせる為に、武士には社会的な名誉や格式を与えても実生活では厳しく制限を加えたが、町人には真逆に名誉や格式を与えないから代わりに身分の垣根を越えて公序良俗を乱さない限り一定条件での自由を与えた。 
 町人は、自己責任として、一定の自由を与えられた分、幕府・公儀・御上からの災害に見舞われても金銭・食料・住宅・衣服などの支援・救済は期待できなかった。
 入れ墨・刺青は、全ての責任は自分が負うという覚悟のもと反権力の象徴として町人文化になった。
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 お江戸(江戸)は、消費中心の経済都市であり、消費を支えていたのは幕府や諸大名の武士であった。
 関東の江戸文化は、夢も希望もなく、先の事を考えずその日その日を面白可笑しく生きる事を大事にして、「宵越しの銭を持たない」「日当稼ぎの大工を殺すに三日の雨で事足りる」的な刹那的文化であった。
 生産は地方の農村地帯であり、百姓は今年の五穀豊穣と末代までの子孫を信じて生きる農村文化を作り出していた。
 京大阪は、文化と芸術と芸能、古き伝承と先取の伝統による生産、実利を重んずる、独自の上方文化を創り出していた。
 江戸時代の百姓町人文化は、「粋・男伊達・侠気」の江戸文化、「雅・艶」の上方文化、「質実剛健・不撓不屈」の農村文化が相互補完共生した総合体文化である。
 幾ら努力しても報われる事はないかもしれないが、必ずや努力は報われる事を信じ切って、今自分ができる努力は諦めず行う。
 善い事をしても良い事は起きず悪い事が起きるかも知れないが、善い事を行えば良い事が起き、悪い事を行えば災いが起きると信じ切って、自分が後悔しない為に悪い事を避けて善い事を行うように心掛けた。
 それが、自然災害多発地帯日本で生きてきた日本民族日本人の生き方であった。





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いれずみの文化誌

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