江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか (青春新書インテリジェンス)
- 作者:中江 克己
- 発売日: 2016/06/02
- メディア: 新書
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
江戸っ子は愛着のある徳川将軍家と江戸を天皇軍・官軍・倒幕軍から守る為に庶民軍を自主的に組織した。
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家近良樹「西郷は基本的には常識人なのですが、慶喜は高貴な無常識人です。2人が碁を打つとして、AIに勝てる可能性があるのは慶喜でしょう。突然、結論を出して実行する。私はかって、〝ドカン病〟と名づけたことがあります。大政奉還もドカン病ですね。政権返上は会社を潰すのと同じですから、ふつうは従業員の将来を考えるものです。幕臣がかなり失職するわけです。ところが慶喜にはそれを考えた痕跡がありません。人望がなく、無常識だからトップダウンで断行した。もっとも、そのために全面的な内乱を防ぐことができた。常識的な将軍なら、政権に固執して内乱になっていたからもしれません」
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旗本・御家人は、サムライとして、俸禄を与えてくれた主君・徳川家に「忠誠心」を誓って死を覚悟した。
魚河岸若衆、町火消し、木戸番などの江戸っ子は、江戸で生きる庶民として、将軍家の御膝下という誇りと徳川家への「愛着の感情」から戦争を覚悟し、攻めてくる討伐軍と戦う為に庶民軍を組織した。
江戸側は、攻めてくるのは天皇の官軍ではなく薩長の賊軍と認識していた。
日本民族日本人であれば、誰一人として、逆賊となって神の裔・日本天皇に刃を向ける大逆罪を犯す意志を持ってはいなかった。
全ての日本民族日本人であれば、神の裔・日本天皇は身命を犠牲にしても護ろうと決意していた。
日本民族日本人が神の裔・日本天皇に対する感情は、儒教的な絶対服従としての忠誠心ではなく、日本神道的な理屈抜きのなんとなくという曖昧な愛情の感情である。
日本民族日本人が抱く愛情の感情は、古層に根ざした深い念いであった。
いかに堅固であっても、忠誠心などは打ち砕かれやすく裏切る。
上っ面な浅い愛着の感情は、浮気的に移ろいやすく消え去る。
洗脳に、忠誠心や浅い愛着は脆く、深い愛着は強かった。
日本民族日本人の深い愛情の感情は、決して変わる事がない。
庶民である江戸っ子は反権力に近く、いかに御上とは言え理が通らない事や意に沿わない事には不服をもって行動していた。
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愛着ゆえに立ち上がった庶民。
愛着は、不寛容で排他的な対立を生み出す宗教や主義ではなく、個人の没個性的な「好み」に過ぎない。
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日本の庶民は、欧米の民衆や中国の人民のような虐げられ搾取される貧困階級のプロレタリアでなかった。
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2017年4月1日号 週刊現代「アースダイバー 築地市場編 中沢新一
第14回 日本橋魚河岸 (5)
魚河岸と徳川家
日本橋魚河岸には、日本型システムの考えを、理想的な形で実現した市場ができあがっていた。それは徳川幕府のつくりあげた日本型の政治システムと、ある意味でとても相性がよかった。幕府の権威主義と魚河岸の反権力主義は、ちょっと見には対立しているように見えるが、じつはおたがいを補い合う関係にあった。
河岸の兄いたちは、『強きを挫き、弱きを助ける』と粋がっていたが、こういう江戸っ子気質があったからこそ、反権力主義の要素を自分の内部に組み込んで、なんとかバランスを保っていることができた。このことは、魚河岸のヒーローである一心太助の伝説などに、よく示されている。
そのため、18世紀の半ばをすぎた頃、幕府の財政がほんものの危機に陥るようになってくると、日本橋魚河岸までなんとなく元気を失っていった。家康が江戸城の蔵に蓄財した莫大な金銀は、5代将軍綱吉の頃までには、あらかた使い果たされ、そのあとは長期にわたる慢性的な債務超過の状況に陥ってしなっていた。ようするに、借金まみれの政権となってしまっていたのだ。
とうぜん、そうなるとお城のお台所にも、しわよせがくる。城内の大奥には、1,000人を超える女性たちが勤務していた。彼女たちには、お給金としてのお米は支給されるが、おかずは自前で調達しなければならない。親の家が裕福ならば問題はない。しかしそうでない家の娘たちの食膳はがいして貧しく、月に数回しか魚がつかないこともあったという。
幕府の財政を立て直そうと、財政健全化と徹底的な倹約を打ち出した政治家などは、自分から手本を示さなければならない立場上、食生活をこれみよがしにしみったれたものにした。そのあげく、倹約派老中松平定信のある日の夕食に供された魚が腐っていたという、魚河岸にとって不名誉な事件まで起きるようになった。この条件では、魚河岸側に手落ちのなかったことが判明して事なきを得たが、新鮮な海の幸と正しいご政道とが結びついているという、家康以来の理想を傷つける、象徴的な出来事となってしまった。
魚河岸軍出撃!
政治・経済から魚河岸にいたるまで、日本的システムによって作動してきたものの全体が、なんとなく元気をなくし、不調に陥ってしまった。日本橋魚河岸などでも、保身のために旧来のやり方を踏襲するばかりで、草創期のあのわきたつような活気は、すっかり消え失せてしまっていた。
この状態を打破するために、魚河岸でも何度か、制度改革が試みられた。しかしいずれの改革も、小手先の手直しにとどまっていたため、魚河岸システム全体の動きは、いっそう滞っていった。そんな状況に嫌気がさしたのか、一回の商売で実入りの大きい『活鯛(いけたい)』業者の何人かは、この時期に日本橋を捨てて、大阪や堺への転出を図っている。彼らには潮目の変わり始めていることが、はっきりと見えていたのである。
それでも、魚河岸と徳川家をむすぶ固い縁(えにし)は、最後まで途切れることがなかった。魚河岸は江戸城にたいして、重い納魚の義務を負っていたが、その反面、いっさいの税は免除されていた。幕府は魚河岸を直接に握っていた。この関係は、魚河岸の側に、徳川家に対する愛着の感情を、育て上げてきた。
そのため、西日本から、薩長軍が錦の御旗を押し立てて、幕府討伐の戦いのために江戸に向かっているという報を得た日本橋魚河岸では、問屋といわず仲買人といわず店員といわず、皆がこぞって江戸防衛のための民衆軍を組織すべく、立ち上がったのである。この江戸防衛軍は、南北の奉行所を頭とし、町火消四千数百人、木戸番千七百人を中核とし、そこに千人近い魚河岸衆が駆け込んできて構成された民衆軍である。
そのときの魚河岸衆のいでたち、白だすきにうしろ鉢巻、まぐろ包丁や刀を差し、竹槍、目つぶし、筋金入り棒などを武器として、江戸に潜入してきた薩長の工作員によって市中に仕掛けられる放火や暴動を抑えながら、品川宿あたりまで出張って、東海道を進撃してくる倒幕軍を、今や遅しと待ち構えた。
そこに江戸城無血開城の知らせが飛び込んでくる。もう戦争はないとわかると、奉行所の連中は、早々と姿を消してしなった。町火消軍や木戸番軍も、いつのまにか散会していき、あとに残されたのは、威勢だけはすこぶるよろしい魚河岸の面々のみ。そのとき魚河岸軍の中から『ナンダア、ツマラネエ』という不満の声が上がり、それを潮に皆ぞろぞろと江戸に戻っていった、と当時の随筆には書かれている。
新政府にちょんぼされる
慶應4年(明治元年)7月17日、新政府は江戸を東京と改称し、新しい首都と定めた。ただちに、市民生活の正常化にとりかかった新政府は、魚河岸と青物市場に、徳川家にたいしておこなっていたのと同じように、魚貝と野菜の納入を命じた。つい数ヶ月前、倒幕軍に立ち向かおうと出陣した魚河岸にとって、なんとも気の進まない御用であった。
日本橋魚河岸と新政府との仲は、なかなかしっくりとはいかなかった。魚河岸は江戸時代に、幕府から納魚の義務とひきかえに、納税の義務を免除される特権をえていたが、新政府はその特権を消滅させて、魚河岸にも納税義務を負わせることにした。その税率たるや、売上高の10分の1という、信じられないほどの高率で、魚河岸には徳川様の世を声高になつかしむものが増えていった。
新政府には、東京の玄関口である日本橋の大通りを、生魚の市場が占拠しているような状態が、がまんならなかったようである。しじゅう道がぬかるんでいて汚い、河岸の連中のたたずまいが野蛮でおよそ文明的でない、などと文句を並べ立てたあげく、大通りに面した市場を裏通りにむりやり移転させた。こうして、新政府にちょんぼされた形の魚河岸は、明治20年を過ぎるまで、まったく振るわなくなる」
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官軍側には、天皇に愛着を持つ非人・えた・河原乞食などの賤民や十津川郷士などの山侍が尊皇派・勤皇の志士として参加していた。
天皇制度の真の守護者は、サムライの儒教的政治権力や寺院の仏教的宗教権威から見捨てられていた最下層の貧民達であった。
最下層の貧民が神頼みとして頼ったのは、神道の日本神話・日本心(和心)の核となっていた真心・誠心を象徴する日本天皇の神格であった。
日本社会は、政治権力、宗教権威、真心・誠心の象徴の三元論で、内なる狂気で自暴自棄に陥らない自律と外からの扇動で発狂しない自制を働かせ、騒動・暴動・騒乱の抑えていた。
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三元論の要は、血・命・心・志・気概の繋がりを絶対条件とした個人的な祖先神・氏神の人神信仰であった。
人は、祖先との血・命・心の繋がりとして人から生まれるのであって、志・気概を共にしても祖先が違う他人の中に人として生まれるのではない。
血・命・心はムラ共同体を閉鎖的にしたが、志・気概はムラ共同体を開放的にした。
価値観を数多く含む日本神道は、没個性に陥らず、排他的攻撃的を「穢れ」とそて忌避し、寛容的で懐が広く全てを包容した。
日本天皇の真心・誠心の象徴は、政治権力から弾き出され下層民や宗教権威から忌み嫌われた衆生を分け隔てなく掬い上げていた。
二元論である絶対的正邪のキリスト教や独善的善悪の共産主義が、日本の庶民はおろか下層民に受けいれられなかったのはこの為である。
公認される前の原始キリスト教は、最下層や奴隷の宗教であった。
ロシア革命以前の共産主義は、貧困階級や農奴の解放思想であった。
二元論は支配者と被支配者しか存在しない為に、キリスト教は公認されると絶対価値観による支配宗教に変容し、共産主義は革命に成功するや暴力と死の恐怖支配を正当化する一党独裁体制思想に変貌した。
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日本民族日本人の行動原理は、固い忠誠心ではなく深い「愛着の感情」であった。
それが、「已むに已まれぬ大和心」の心情である。
ゆるやかで開放的な身分制度の日本と、雁字搦めで閉鎖的な身分制度の中国や朝鮮とは違っていた。
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