🎑71)─1─伝統的日本建築と西洋式耐震建築。赤煉瓦。日本は砂岩・砂山列島である。~0No.161No.162 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本は狭く・少なく・小さいのに、狭さを利用して広く見せ、少なさを利用して多くあるように見せ、小さいを利用して大きく見せた。
 日本は「わび・さび」を求め削れる物は削り、金銀財宝をちりばめた豪華絢爛を避けた。
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 578年 寺社建設を専門とする建設業者「金剛組」が創業する。
 金剛組は、世界最古の企業と言われている。
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 法隆寺に使用されていた「斜材」は、それ以降の木材建築に使われなくなったが、強度が求められる橋、火の見櫓、建築現場の足場などには用いられていた。
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 明治25年 震災予防調査会は、木造補強として、垂直と水平の伝統的木造建築に西洋建築の斜めに入れる「筋違(すじかい)」を活用する事を打ち出した。 
 大正8年 市街地建築物法で、これまでは建築家や大工棟梁の個人的判断に巻かれていた「筋違」が、耐震の構造として木造新築に入れる事が義務付けられた。
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 昭和8年 ドイツ人建築家ブルーノ・タウトは来日し、絢爛豪華な日光東照宮より飾り付けのない無駄を省いた桂離宮に日本文化の真髄を見いだした。
 「桂離宮こそがシンプルで純粋な日本の美であり、東照宮の如き醜いゴテゴテならどこにでもある」
 西洋礼賛の国際派日本人は、国際的に高く評価された伝統的日本文化を野卑と蔑視し、職人の匠で作られた木造家屋・古民家を洋館に建て替え、美観のある町並みを破壊して醜悪な風景に変えて羞じなかった。
 閉塞した伝統的日本に、西洋の高度な文化を吹き込んで日本色を一掃して西洋風に作り替える事こそ、進歩、近代化と確信していた。
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 2016年1月14日迎春号 週刊新潮「私の奈良 法隆寺 笹岡輶甫
 奈良県北西部の斑鳩の里。その中心は聖徳太子が創建した法隆寺で、矢田丘陵南端の山裾を背に立ち並ぶ金堂・五重塔などの伽藍は、現存世界最古の木造建築と言われている。
 その北側に水を湛える天満池の堤に佇むのは、京都の華道『未生流笹岡』三代家元の笹岡輶甫さん。集落の向こうに聳える金堂の反り屋根や五重塔の姿を瞥見(べっけん)しながら、
 『これだけの建築物がよくぞ残ったもの。日本人として本当に誇らしく思うます』
 と溜息をつく。
 華道家元の家系に生れ、祖父からいけばなの奥義を伝授された笹岡さんだが、大学で建築学を学び、論理的思考を磨いた。大学院では日本建築史を専攻。改めて日本の寺社などの古建築にしたしむうち、『西洋建築は自然の脅威から身を守るシェルターだが、日本建築は自然に溶け込むようにデザインされている。庭屋一如(ていおくいちにょ)を旨とする日本建築』
 という思いを強めてゆく。やがて、いけばなと日本建築を結ぶ『共通項』を発見。それがだ『白銀比』った。白銀比とは、正方形の一辺と対角線の比率、1:√2のこと。正五角形の一辺と対角線の比率を表す『黄金比』が動的なのに対し、白銀比は静的とされる。
 『法隆寺の西院(さいいん)伽藍を上空から見ると、回廊の長方形の比率が、白銀比になっています。一方、いけばなの世界では、江戸時代、〝直角二等辺三角形に収まるように花をいければ美しく見える〟という法則が編み出されました。直角二等辺三角形の短辺と長辺の比はまさに白銀比。日本の美を語る上で欠かせない一つのキーワードを与えてくれたこの斑鳩の地に感謝を捧げたいですね』」
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 2016年3月3日 週刊新潮「建築そもそも講義 藤森照信
 接客中心主義
 ……
 接客空間の起源
 冷静に近代以前をたどっても、書院造も寝殿造も、接客空間の充実発展の結果として成立している。千利休の茶室だって最も重要なおもてなし空間として生み出されたからこそ、あんな地味で小さなビルディングタイプが今まで生き延びてきた。
 古来、住宅建築の発展をうながしたのは接客だった。
 そうした外の存在を内に迎えるための作りの、日本列島での起源をたどると、国が生まれた古墳時代はむろん、弥生時代、おそらく縄文時代まで行くだろう。
 縄文住宅のことは具体的には不明だが、アイヌの昔の住宅を見ると、ゴザ敷の土間の一部が広い棚状に持ち上げられ、その上が窓から入ってくる〝神〟の座とされた。
 神さまを迎え、もてなしたのが接客空間の起源で、以来、神さまが仏教と僧に、僧が武士や大名に、大名が外国人に、と入れ替わりながら続いてきた 」
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 日本の赤煉瓦建設は、西洋建築の合理的、科学的、機能的、実用的な無駄のない調和の取れた美的センスに、日本文化の微細に拘る無駄・無用な「遊び」と「美感」を加えて独自に進化した。
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 2016年5月26日 週刊新潮「建築そもそも講義 藤森照信
 カエル股
 明治の赤煉瓦について続けよう。
 明治20年を境にフランス積みはイギリス積みに変わり、大きさも小型化し、赤煉瓦は定着する。定着すると、さらなる高度化を求めるのが日本の建築界の常。
 機能的、実用的に満たされると、次は〝美〟。そう、粘土を低い温度で焼いただけの素焼きの植木鉢と同質の赤煉瓦を美的にどう洗練するか。
 ツルツル表面の中空煉瓦
 明治19年にドイツ人御雇建設家のエンデとベックマンが建設した最高裁判所の解体に立ち会った時、奇妙な煉瓦と出会った。昔ながらに大型だったことではない。厚い煉瓦の壁の表面の一層だけ、煉瓦の内に四角い穴が通っている。中空煉瓦。軽量化をねらったにしては、厚い壁の表一層だけでは効果はない。
 もう一つ変わっていたのは中空煉瓦の表面の仕上げで、普通のザラザラした感じはなく、光沢こそないもののツルツルの真っ平。
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 美面術、頂点に達す」
 中空技術はドイツからの導入にちがいないが、布による拭いは、果たしてドイツでもやっていたのか。
 明治半ばに始まった赤煉瓦西洋館の美面術が頂点に達したのは、大正3年に完成する辰野金吾設計の東京駅にほかならない。
 辰野は、すでに確立していた日本人向きの小型の煉瓦を使い、さらに最高裁で試みられていた構造用と仕上げ用の分離を踏襲し、仕上げ用はもちろん布拭い。
 最高裁は、仕上げ用だから中の構造用煉瓦と組み合わせる必要がないにもかかわず、ツートン、ツートンのイギリス積みに見せかけていたが、それも止め、ツーなしのトントントンを壁全面に施した。こうなるともはや煉瓦というより煉瓦の厚みを持つタイル貼りに近い。
 欧米ではこんな煉瓦仕上げは見たことはないから、あるいは辰野もしくは日本人建築家の新工夫なのかもしれない。
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 蟇股とは特殊目地
 辰野と日本の煉瓦積み職人の意気込みは目地(めじ)にまで及ぶ。目地とは煉瓦と煉瓦のモルタル継ぎ目を指し、普通なら細刃のコテで押さえて平らにすれば性能上は十分なのに、それでは面白くない。
 目を近づけて眺めた時、味わい深さを煉瓦の壁に加えた。そのために使われたのが〝蟇股(かえるまた)〟とよばれる超特殊目地で、目地を極細のカマボコ状に盛り上げるだけでも大変なのに、水平の目地に垂直の目地が丁字状に突き当たる時、二つのカマボコの接線を、カエルの脚が開いたときのように納めた」
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 隈研吾「世界各地で仕事をしていると、世界の建築界における日本人建築家の存在感は、日本にいて想像するよりもずっと大きく、特にここ10年ぐらいは世界で一番活躍していると言ってもいいかもしれません。中国や韓国のような親日的とは言えない国でも、日本人建築家への信頼は高いですから。日本人建築家は他国の建築家と比べ、木、土、コンクリートなど素材に対する感性がセンシティブで、自然環境との調和を大切にするんですね。そうした感覚は、自然が変化に富み、四季が豊かな土地に暮らすことで育まれ、磨かれてきたのだと思います。また、やや専門的に言うと、日本語の構造が建築に似ています。建築は『空間の流れ』と捉えることができるのですが、漢字、仮名交じりの日本語は、全体の流れの中に漢字、仮名が漂う『空間的な言語』なんですね。子供の頃からそういう言語を使う事で、空間に対する独特のセンスが育まれるような気がします。
 今ならば料理が突出していますね。料理においても、素材に対する日本人のセンシティブな感性が発揮されていると思います。今、世界がフランス料理に典型的なアーティフィシャルな(人工的な)ものに飽き足らず、素材の特性や自然の力をどう引き出すかを重視する方向に向かっている。建築、料理で日本人が活躍している背景には、そうした時代の流れがあると思います。
 一般の人の知的レベルが高いことと、自己主張を抑えて全体のために貢献しようとする性質とで、日本人のチームワークは世界一です。僕の設計事務所は東京、パリ、北京、上海にオフィスがありますが(全200名ほど)、日本人が中心となる東京オフィスが仕事の生産性が高い。外国人が中心の他のオフィスは個人プレーが目立ち、効率がちょっと落ちます。それはそれで楽しいですが。」


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