⚓353)354)─1─大工・与七は、水戸藩の命で武士とり大砲などの武器を製造する反射炉を作った。1854年〜No.760/  @       

尊王攘夷の旗―徳川斉昭と藤田東湖

尊王攘夷の旗―徳川斉昭と藤田東湖

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・  
 1806年(文化3年) 文化露寇。1807年(文化4年) シャナ事件。
 ロシア軍艦は、北方領土で海賊行為を行い、各地を荒らし回った。
 水戸藩における、ロシアの日本侵略による母国滅亡の危機意識が、近代的天皇制度と日本ナショナリズムそして軍国主義思想を生んだ。
 江戸幕府は、北方領土をロシアの侵略から死守する為に東北諸藩に警備派兵を命じた。
 日本人は、ロシアと戦争をし、命を捨ててまで、国後島択捉島などの北方領土と・蝦夷地(北海道)を守ろうとした。
 それが、日本民族日本人である。
 ロシアは、ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の為に、アジアでの日本との戦争を回避した。
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 1840年 阿片戦争
 1851年 太平天国の乱。キリスト教徒による反乱。
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 1853年7月(嘉永6年6月) ペリーの黒船艦隊の来航。
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 1853年 クリミア戦争。 
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 1857年 インド大反乱
 1858年 ムガル帝国滅亡。
 1877年 イギリス国王ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ね、反英派や独立派を弾圧した。
       ロシア・トルコ戦争。
 1886年 ビルマ王国滅亡。イギリスは、ビルマとの戦争に勝利して、ビルマ王家は廃絶し、ビルマを植民地とした。
 イギリスは、親英派や少数派民族を支配階層として権力や特権を与えて反英派や多数派民族を弾圧させた。
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 時代は、弱肉強食の近代的帝国主義の時代であった。
 近代化とは、侵略してくる敵を撃退し母国と自国民を守る事であって、平和的に発展する事ではなかった。
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 2018年5月号 新潮45「水戸学の世界地図 片山杜秀
 34 水戸の文明開化
 水戸に反射炉を作るために薩摩へ留学生として送られたのは、那珂湊の大工与七だった。
 与七という大工が水戸の領内に暮らしていた。1833(天保4)年生まれ。徳川斉昭が水戸の藩主になった5年目。初めて江戸からお国入りをした年でもある。
 与七の生まれ育ちは那珂湊。太平洋際の海岸から少し内陸の水戸の町には那珂川が流れていて、川はじきに大海に注ぐ。その海岸沿いが那珂湊である。
 父の与衛門も大工。木彫がうまいので、宮大工として名をなした。子の与七も親譲りで、幼少期から部屋に籠っては木を削り込んでいたという。
 与七が16歳の頃というから、天保も終わって弘化を過ぎて嘉永の初めの頃か。水戸徳川家で高禄を食む雑賀家の屋敷が火事になった。雑賀氏はもともと鈴木の姓を名乗り、紀州の雑賀の鉄砲衆を纏めて、石山本願寺に与し、織田信長と戦い、勇名を馳せた。その一族が徳川に仕え、水戸徳川家初代の頼房の家臣となり、水戸に住んだ。
  雑賀の家の徴(しるし)は三足烏だという。中国でも朝鮮でも古来、太陽と関連づけられて崇められる。もちろん三本足の烏とは空想の産物。日本では八咫烏(やたがらす)と呼ばれる。神武天皇八咫烏の導きで、南九州から大和国に至り、橿原で即位して皇国日本が始まったという。神話の伝えるとこりだ。神武天皇は太陽神の天照大神の直系の子孫だから、八咫烏に導かれるのは、太陽からの連想という点で、理にかなっている。
 そして、東海に面して日の立つ国、常陸を治め、天皇中心史観による『大日本史』の編纂を続ける水戸徳川家重臣の家の徴が八咫烏というのも、深い趣(おもむき)を感じさせるだろう。
 とにかく雑賀の屋敷の火事で、屋敷のどこかに彫ってあった御家の重宝の八咫烏も焼けてしまったらしい。雑賀家では、屋敷の新築を与衛門と与七の父子に任せ、新たな八咫烏の木彫りも頼んだ。彫ったのは息子の与七。出来栄えが素晴らしかったという。左甚五郎も驚くほどであったと伝わる。
 しれからしばらく経った1851(嘉永4)年。ペリーの黒船が来航するまでついに2年に迫っているが、早くから先鋭な危機意識を持っていた人々以外は、まだまだ天下泰平の世が続き得るのではないかと、最後の夢想に耽っていた頃である。徳川斉昭は腹心の藤田東湖とはかって、薩摩藩に国内留学者を1名送ろうとしていた。薩摩でこれから反射炉を作ると、薩摩藩主の島津斉彬から水戸の斉昭に知らせがあった。そこで様子を逐一見聞させ、学習させて、水戸でも反射炉を作ろうというのが、斉昭と東湖の計画だった。その留学生に、見事な八咫烏がきっかけで雑賀家から推薦から推薦されて選ばれたのが、優れた才能の持ち主とはいえ、身分制社会では地位の低い一介の大工にすぎない、那珂湊の与七だった。
 反射炉はなぜ必要か
 そもそも反射炉とは何か。製鉄のための炉の一種である。鉄という元素はそのまま純粋に自然に存在してくれてはいない。他の元素とくっついている。特に炭素である。炭素の多い鉄ほど脆い。炭素の含有率が2パーセントから7パーセント弱までの鉄を銑鉄と呼ぶ。そのくらいの純度の鉄なら、日本で古くから用いられてきたこしき炉でも出来た。鉄の鋳物は銑鉄で作れば十分だった。
 ところがもしも大砲を鉄で作るとすれば銑鉄では弱い。砲身の中で火薬を炸裂させて弾丸を打ち出す。銑鉄よりも純度が高く炭素含有率が2パーセントを下回る、いわゆる鋼鉄でなければ、砲身が裂けて大砲ごと爆発する事故がしょっちゅう起きてしまい。同じ鋼鉄でもよほどの純度でなければ、大砲は壊れるリスクからついに免れはしないのだが、とにかく鋼鉄で鋳造しなければ、鉄製の近代的火砲としては物足りない。
 島津斉彬徳川斉昭も、欲しいのは攘夷決行のための強力な大砲であった。開国後なら、西洋商人からの仕入れも可能になってくるが(といっても最新式・最新鋭の武器は西洋諸国も日本に対する軍事的優位を保つためになかなか売ってはくれないのだけれど)、もちろんまだ鎖国中である。鎖国を保つための自衛の武器として、西洋の武器のコピー品を、向こうから買わずに自藩で鋳造したい。
 そのためにはまずは鋼鉄が要る。銑鉄を鍛えて鋼鉄にする炉がなければならない、そこで反射炉。石炭を燃やし、炎を強風で煽り上げて、炉内の温度を1,200度くらいまで上げる。原料の銑鉄に熱をしっかり当てて、よく熔かす。しかも銑鉄に当てるのは熱だけで、燃えている石炭と銑鉄はよく隔てられて直接触れない仕掛けだから、せっかく熔けて炭素を飛ばしている銑鉄に新たな不純物を加えてしまう心配は少ない。おまけに、なるたけ高い煙突をつけて熱気と煙の流れをスムーズにすることも、熔けた銑鉄を掻き混ぜて成分のムラを少なくすることもできる。反射炉の効能である。
 反射炉といえば、伊豆の韮山に、幕府の韮山代官、江川太郎左衛門が建てたものが、後世の修繕・修復を経つつも現存し、『世界遺産』にも登録されて、観光地として人気を博している。だが、それが幕末日本最初の反射炉ではない。最初に建設を始めて、実用化にも成功したのは、鍋島家の佐賀藩だった。薩長土肥の肥(肥前)である。
 佐賀藩は、西洋諸国ではオランダにだけ通商を許してきた長崎の地の警固を、幕府から長年命じられていた藩であり、結果、海外事情に精通しとくのも、佐賀藩の常なる仕事になっていった。欧米のアジア進出が急ピッチになっていりことを、この藩はよく感じ取っていた。佐賀藩は長崎の沿岸警備のために大砲を自ら製造すべく、1850(嘉永3)年から反射炉の建設をはじめた。最初は、温度も低目で、そのぶん建設も容易な、青銅精錬用の反射炉を作って青銅の大砲を鋳造し、それから鋼鉄の精錬と大砲作りに進んでいった。それに続いたのが、薩摩であり水戸であり韮山であるということになる。当然ながら佐賀も薩摩も西洋の技術者の指導を仰いだわけではない。まだ鎖国中だったのだから。ほとんど唯一の頼りは文献だった。『ゲシットギテレイ』と呼ばれた蘭書が『鉄煩全書』とか『西洋鉄煩鋳造篇』とか『鉄煩鋳鑑』とか蘭学者たちによって何通りにも訳されて、嘉永の前半にはよく流通していた。それだけ関心を呼ぶ需要があった。その『ゲシットギテレイ』の複数の訳やオランダ語の原書を読み合わせながら、各地で反射炉の建設と運用の試行錯誤が続いたのが、嘉永から安政・万延・文久といった元号の時代になる。たとば水戸藩では、長崎にわざわざ使者を出して、出島のオランダ人をつかまえて質問したりもしていたようだが。
 『ゲシットギテレイ』とは砲の鋳造といった意で、原著者はヒューゲニン。刊行は1826年。水戸学の歴史で言うと、会沢正志斎が『新論』を著した翌年にして藤田幽谷の没年になる。オランダでの当時最新の大砲鋳造技術を、工場施設全般の建設法・運用法から金属学の知識に至るまで精確に詳延し、1850年代になっても内容が古びていない。適切なテキストだった。
 最先端の水戸藩
 さて、大工の与七に話を戻す。彼は徳川斉昭藤田東湖に選ばれて薩摩に留学した。そのとき、もう身分は大工ではなかった。藩から藩に人を送る。預かって面倒を見てもらう。士農工商の身分制社会において、士の身分に取り立てられずに水戸藩からの正式な留学生になるということではおかしいだろう。大工の与7は嘉永4年に侍になった。名字帯刀を許され、飛田与七と名乗った。薩摩に行って、島津斉彬の主導する反射炉建設の試行錯誤を、現場に加わって詳細に覚えた。1,200度の高熱に耐える煉瓦の作り方も研究した。高層の煙突の建て方も学んだ。薩摩に滞在すること2年。ついに浦賀にペリーの黒船がやってきまった。水戸でも反射炉うぃ作らねば。飛田与7は薩摩から呼び戻され、那珂湊での反射炉建設の現場監督のような立場になる。
 これが水戸の文明開化のかたちと言ってもよい。西洋流の反射炉建設も文明開化だが、大工が侍になるのも文明開化である。本当に時代が差し迫り、新たな知識や才能が緊急に必要となり、真の適材適所を可及的速やかに実現しなければ間に合わぬというとき、身分への拘泥(こうでい)は邪魔になる。武家に権力や名誉を集中し続ける社会構成を守ろうとすれば、たとえば水戸藩が薩摩に送る留学生も最初から武士の中から選抜すべきだ。それが当たり前だ。農工商から選ぼうとは思わない。士農工商身分制度がいちばん大切だとすれば。ところが水戸はそうしなかった。能力のある大工を選んで、臨機応変に武士に仕立て、責任ある大業を任せた。
 このような筋立ては、小説家、司馬遼太郎の大好きなパターンでもあろう。司馬はなぜ『燃えよ剣』や『新選組血風録』で土方歳三近藤勇沖田総司にこだわったか。司馬は別に佐幕派ではない。新選組の政治的立場に思い入れがあるわけではない。農民が自らの剣術の能力によって動乱期ならではの階級移動を成し遂げる。そのあとによってくる四民平等の予告をなしている。そこに新選組の魅力を見ているのだろう。『花神』で長州の村医師の村田蔵六が、近代国軍建設の父、大村益次郎に化けてしまうありさまをたっぷりと描いたのも同様である。差し迫って何とかしなければいけないときに、旧秩序にこだわっていては人材が不足する。武士なんて全日本人の数パーセントしか居なかったのだから。司馬遼太郎は水戸にはあまり興味をもたなかったと思うが、司馬好みの世界を、時代的には長州や新選組より早く、ペリー来航前後から、もっと早く天保の時代から実現しつつあったのが、水戸藩だったとも言える。水戸はある意味で最先端を行っていた。
 藩内で大工を士分に取り立てるばかりではない。ペリー来航に直接的刺激を受け、水戸藩反射炉建設をついに始めようというとき、徳川斉昭藤田東湖と語らって、技術的指導者を藩外から得た。他藩に所属する武士を、斉昭がそれぞれの主君の藩主に交渉して水戸に借り受けた。ペリー来航の年やその翌年の話である。これも驚くべきことだ。幕末土壇場までの薩摩と長州の啀(がい)み合いを思い出していただきたい。藩の仕切りはそれほど高く、他藩の藩士水戸藩のために献身するというのは、幾ら幕末とはいえ、かなり異例の事態であったろう。
 きっかけは藤田東湖である。彼は、ペリーについての情報交換のため、東湖のもとを訪れた福島の三春藩士の蘭学者、熊田嘉門宗弘に反射炉建設に協力してくれるように頼んだ。熊田はそれを喜んで了承し、ついては南部藩の大島総左衛門高任を仲間に入れてくれるようにと推挙した。大島は長崎で蘭学を学び、製鉄技術に関心が深く、『ゲシットギテレイ』に原書で通じている。南部は鉄の産地で鋳物の先進地でもあり、大島の知識と学問は南部の伝統と実践に裏付けられ、現場での応用力の高いものだった。
 この大島がもうひとりを推挙する。薩摩藩士、竹下清右衛門矩方である。彼は大島と席を並べて長崎で蘭学を勉強した仲間で、長崎では出島にたびたび非合法的に出入りし、オランダ人と密接に交際して、西洋最新の火砲の研究に邁進していた。しかも竹下は、薩摩に留学していた水戸の大工の与七 の飛田与七と親しかった。
 こうして、水戸の那珂湊反射炉の建設と運用を差配することになったのは、三春藩士と南部藩士と薩摩藩士と水戸の大工ということになった。幕藩体制時代の話とはとても思えない。明治維新にはまだ十何年かある。水戸の早すぎる文明開化である。
 和魂洋才の割り切り
 この水戸の自由さはいったいどこから来ているのか。少し遡って1840(天保11)年から翌年にかけて幕閣周辺で起きた論争をみてみよう。
 長崎の町年寄の高島秋帆が、オランダ経由で西洋最新の流儀の砲術や戦闘法を学んで高島流の兵学とでも呼ぶべきものを創案し、そのような行き方で日本の軍制や戦闘法を変革うしなけえば、日本も近い将来、アヘン戦争における清国の二の舞になると、長崎奉行に建言した。その意見は幕府の中枢いまで上がった。はて、どう受け止めたらよいか。老中筆頭の水野忠邦が周囲に意見を求めたとき、忠邦の側近の鳥居忠耀は次のように答えた。
 武士は刀と槍で戦うことによって武士である。日本の戦闘法はあくまで接近戦である。士農工商の士としての誇りは、そのような戦闘技術の修得から生まれてきもする。ところが、高島流は鉄砲と大砲が基本である。軍は歩兵と騎兵と砲兵の三種から構成されるというが、どの兵も結局、主たる武器は火砲であって、刀槍が重んじられていない。要するに飛び道具に偏っている。しかも、兵の動きやすさを顧慮するとどうしてもそうなるのだと称して、胡服(洋服)を着用し、指揮官は兵の集団的運用に当たってオランダ語で命令するという。陣形や機能性ばかりを重んじ、個の誇りや気概や精神性を重んじない。これでは日本の伝統、武士の魂が失われてしまう。
 こんな具合で、鳥居忠耀は徹底的に西洋を忌避する。その兵術を認めようとしない。思想も哲学も違い過ぎ、ましてや西洋人の恰好(かっこう)や言語を取り入れるとは言語道断と息巻いている。鳥居は、幕府の儒者、林述斎の実子。そいった思想背景もよく示されている。
 対して、天下の副将軍こと水戸藩主で、尊皇の学としての水戸学者たちのブレーンとする徳川斉昭の意見はどうだったか。鳥居以上に過激な国粋主義を展開したろうか。むろんそうではない。当時既に攘夷決行のために鉄製には劣る青銅製の大砲の量産に務め、もしも財政事情が許し幕府が認めてくれるなら、反射炉を備えた武器工場を佐賀藩薩摩藩よりも早く天保年間から作りたかったのが斉昭である。彼は水野忠邦にこう書き送った。
 『言葉ハ此方の言語に訳し候ヘバ却て人も覚えやすく、服の儀も譬(たと)ヘバ股引・半てんへたすきをかけ候類にいたし候ハバ何の差支も有之間敷候』
 何たるプラグマティズム!役に立つところは全て頂戴すればいい。確かに武士が洋服やオランダ語を公然と使用するのは鎖国体制下においては問題だろう。よって、オランダ語は日本語に訳せばよい。洋服は、その方が動きやすいというのならば、和服を洋服的に活用することを考えればよい。ももひきや半纏(はんてん)を着用して、たすきがけにするなどすれば、大して手間も掛からず、日本の着物で洋服の機能性を代替できるだろう。それで何の問題もない。
 そのようにして、西洋の長所を、みてくれはいちおう日本化しつつ、あくまでテクニックとして取り込めばよいではないか。これが徳川斉昭の見解である。和魂洋才の割り切りと言える。西洋の技を取り込むと日本の武士の体面が崩れるとか、心が侵されるとかいう発想は微塵もない。水戸学も儒学の一種なのだが、水戸学者以外の儒学者が聞いたら卒倒するような話である。このような斉昭の姿勢は、大工を躊躇せず登用し、他藩の藩士に自藩の大事を任せることをさして奇妙と思わない態度へと、まっすぐにつながってゆくように思われる。
 使えるものは何でも使って当たり前。西洋に軍事的に張り合える可能性が高まるのだったら、武士の体面なんて二の次。ももひきに半纏で戦っても差し支えなし。刀や槍や羽織袴や兜や鎧といった形式を守るのが真の武士ではない。士農工商の身分的秩序を守るのも第一義ではない。これが、19世紀に入る前後から西洋の脅威に目覚めて実学化する水戸学の基本姿勢というものであろう。
 では、実際的な学としての水戸学が、体面よりも実際性を重視しつつ求めよとする実とはいったいなんなのか。武士の権威を守るとか、藩の自立を保つとかとは関係がない。天皇を至尊(しそん)とする国柄というか世界観を、将軍を筆頭とする武士が全国民を束ねつつ一丸となって護持する。それが水戸学の実である。国体護持が可能となるなら、如何なる手を使ってよい。大工の与七だろうが他藩の某だろうがウェルカムである。目標実現のためにはせべてが許される。その意味で何でもあり。
 江戸時代の武士は鳥居忠耀の思想に端的に示されているようにかたちから入る。それが武士の思想の基本であろう。身分差の問題から礼儀作法まで。外の形式を細かに守る。ところが、水戸学は天皇への忠義という道徳律が最終的に保たれれば、あとは形式を問わないところまで、徳川斉昭の時代には到達していた。そこには、水戸学がいちはやく国難に目覚め、非常時のモードに突入してしまっていたのと、水戸藩の経済的困窮が激化かつ慢性化して、日常の体裁を保つことなどもう飛び越えてしまったこととが、相俟っているのだろう。『武士は食わねど高楊枝』ではない。『bpろは着てても心は錦』。それが水戸の魂である」
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 茨城県教育委員会
 那珂湊反射炉跡(附那珂湊反射炉資料25点)
 水戸藩反射炉は、鉄製の大砲鋳造を目的として、安政年間に2基建造されました。反射炉とは、大型の金属溶解炉のことです。当時、全国に公営・民営あわせ十数箇所建造されたといわれています。しかし、元治元年(1864)の藩内抗争(元治甲子の乱又は天狗党の乱という)の際、破壊されました。やがて昭和8年(1933)頃から復元の動きが起こり、昭和12年(1937)12月、吾妻台の跡地にほぼ原形どおりに復元されました。
 水戸藩は、徳川斉昭(1800〜60)が嘉永年間に至って藩政への関与を許されるようになると、兵器の充実、とりわけ従来の銅製に変えて鉄製大砲鋳造の必要性を痛感するようになり、南部藩士の大島高任(総左衛門)らを反射炉建設の技術者として採用しました。建設地としては吾妻台が選ばれました。地盤の強固なこと、水戸城下3里の近郊で経済的にも廻船業で賑わう藩内随一の繁栄地であること、原料の鉄と燃料の石炭の調達運搬に便利であること、錐入れ水車場の建造にも便宜を有することなどの条件を満たす場所と判断されたためでしょう。
 安政元年(1854)8月、起工式が行われました。大工棟梁となった飛田与七(宮大工)の指揮のもと、入念な基礎工事を施すとともに、耐火煉瓦の原料となる粘土を得るため、那須郡小砂村(栃木県那珂郡那珂川町)の土がもっとも適していることを見究め、これに磐城産の燧石(ひうちいし)の粉末を一定の割合で混ぜ合わせることで烈火に耐える煉瓦の焼成に成功しました。大島らは、当初10基の炉の建造を計画したといわれますが、当面は2基の完成を目指すこととし、翌安政2年(1855)1月から建造に着手し、11月に1号炉(西炉)が完成しました。同3年(1865)鋳込みをしてモルチール砲(臼砲)を1号砲から4号砲まで造っています。完成した大砲は約束により幕府へ送られました。もっとも、1基では一度に溶解できる鉄の量はおよそ400貫であるから、2炉以上なければ大型の大砲鋳造はできません。そこで、2号炉(東炉)の建造に着手し、1号炉と同型ながら火廻りに改良を加え、同4年(1867)12月に完成させました。
 しかし、先のモルチール砲は、良質の鉄が得られず強度に問題を残しました。 そこで、大島は、故郷南部の釜石(岩手県釜石市)に出張し、かの地に洋式高炉を建設、良質の「柔鉄」(鉄鉱石から精錬した銑鉄)供給に見通しをつけて同5年(1858)年1月、那珂湊へ帰り、鋳造の本格的操業を開始しました。すなわち2月からは2基の反射炉でモルチール砲3門、カノン砲1門を鋳造、さらに4月からは釜石の「柔鉄」2,700貫が那珂湊に到着し、これにより3寸径カノン砲3門を鋳造できました。
 こうして鋳造作業は、約4年を費やしてようやく明るい展望が開けましたが、前藩主斉昭が再度謹慎の命を受けたとの報が届き、以後操業は事実上中止のやむなきに至りました。これが再開できたのは、万延元年(1860)12月頃とみられ、元治元年(1864)2月までカノン砲数門の鋳込みが行われたものの、同年3月に起こった元治甲子の乱の影響は那珂湊にも及び、10月にはここで激戦が展開されました。このため反射炉も水車場もその戦火のなかで焼失崩壊しました。
 那珂湊反射炉の完成は、前述のように安政2年(1855)ですから、年代的には佐賀藩薩摩藩、幕府の伊豆韮山に次いで全国第4位ということになります。しかし、大島によるわが国初の洋式高炉の建設は、水戸藩の鋳造事業に直結すること、苦心のすえ高度な耐火煉瓦の開発に成功したことは、わが国近代製鉄史上およびセラミックス工業史上に重要な意義をもつものです。また、反射炉が建造された場所に、残されていた当時の煉瓦の一部を取り入れながら復元模型を建て、その敷地を保存してきた先人の功績も忘れてはなりません。これらの点において、那珂湊反射炉は、本県の史跡の一つとして、その存在意義を十分に主張しうるものです。
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 2018年4月23日 産経ニュース「江戸幕府、近代化へ努力の足跡 国立公文書館で特別展
 明治改元150年の今年。維新の主体となった西南雄藩の改革に注目が集まりがちだが幕府もただ手をこまねいたわけではなかった。国立公文書館(東京都千代田区)で開催中の特別展「江戸幕府、最後の闘い〜幕末の『文武』改革」は、近代化を準備した幕府側の努力を記録文書で示す。
 同館が所蔵する江戸幕府の公文書「多聞櫓(たもんやぐら)文書」を中心に、約70点を展示。いわゆる「鎖国」体制下にあった江戸時代の日本だが、明から清への王朝交代やフランス革命の発生など、誤報を交えつつも世界の情報は意外に入ってきていた。特に衝撃的なニュースとなったのが1840年に起きたアヘン戦争での清の敗北だ。展示されている幕府旗本による雑録「視聴草(みききぐさ)」には、英国のアヘン貿易に端を発する開戦経緯などが詳しく記されている。
 一方、国内でも封建的身分秩序が揺らぎ始めていた。18世紀後半から19世紀にかけ、全国で多くの藩校が誕生したほか、幕府も湯島聖堂を直轄化して幕臣や諸藩の武士を教育する昌平坂学問所を設立。学習法として広く採用されたのが、一定人数の受講者がテキストの解釈などを議論する「会読」だった。そこから対等に意見を述べ合う平等性や身分を超えた結社性が芽生え、後に大勢の「志士」が生まれる素地が作られていく。
 そして嘉永6(1853)年のペリー来航を機に、時勢が目まぐるしく転変する幕末が始まる。ペリーから渡された米国国書への対応をめぐり、当時の政権担当者だった老中・阿部正弘の目を引いたのが、蘭学を修めた旗本の勝海舟が提出した上申書(「文鳳堂雑纂(ぶんぽうどうざっさん)」収録)。軍制西洋化や教練学校の設置など、具体的で建設的な内容が提言されている。後に軍艦奉行や陸軍総裁を歴任して終末期の幕政を主導した海舟の、華々しい出世のきっかけとなった意見書だ。
 海舟が提言した西洋諸学を研究教育する学校は、安政3(1856)年にまず蕃書調所(ばんしょしらべしょ)として結実する。その中心メンバーとなったのは、昌平坂学問所で行われていた人材登用試験「学問吟味」の合格者たちだった。身分制度に縛られ硬直化していた幕府の人事制度も、幕末になると実力で要職に昇る道が開けていく。その中で育った人材の一部が、幕府瓦解(がかい)後も引き続き近代化を担っていった。
 展示を担当した同館の長坂良宏氏は「新政府が蕃書調所を接収して使用するなど、明治以降も幕府の作ったものは使われていた。幕府がどう近代化に対応しようとしていたかをを見てほしい」と話している。(磨井慎吾)
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 5月6日まで。入場無料。問い合わせは同館(電)03・3214・0621。」
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 2018年4月28日 毎日新聞・地方版「野外劇 幕末の那珂湊、飛田与七描く ひたちなかで8月11、12日 /茨城
 ひたちなか市民らで作る「那珂湊野外劇実行委員会」(磯崎満代表)は23日、幕末の那珂湊で、鉄製の洋式大砲を造るのに必要な反射炉の建設に当たった宮大工、飛田与七を描いた演劇「鎮魂と再生そして世界へ」を8月11、12日、同市湊中央1の湊公園で上演すると発表した。
 那珂湊反射炉は、水戸藩九代目藩主、徳川斉昭の命で1854〜57年に建設されたが、64年に藩内で起きた「天狗党の乱」で破壊された。
 磯崎代表は数年前、旧湊商業学校(同市)の英語教師・関一が戦前に書いた「水戸反射炉の最後」を、遺族が持つ資料から偶然発見。劇作家の錦織伊代さんがこれを基に脚本を作った。
 磯崎代表は「市民参加型の野外劇を通して街を盛り上げたい」と意気込む。
 両日とも午後7時から。入場無料。公募で集まった小学5年〜74歳の市民らも出演する。実行委は、出演者を若干名追加募集するほか、上演当日の会場の案内・警備を行うボランティア、企業や個人からの協賛金も募っている。問い合わせは同実行委のメール(nakaminatoyagaigeki@gmail.com)へ。【吉田卓矢】」
   ・   ・   ・   
 日本の一芸に秀でた名人級の職人は、好奇心、関心があればその一芸は百芸にも広がる事があった。
 たいした技術・技能もない職人は、腕を上げる努力もせず、自分の無能を棚に上げ、仕事ができる同輩をやっかみ、将来性のある弟弟子に嫌がらせをし、親方の悪口を陰で並べて満足する。
 良い職人が増えれば日本は幸せになるが、悪い職人が増えると日本は不幸になる。
 日本の名人と言われる職人は、百芸に通じ、その全てにおいても一級であった。
 だが、奢る事なく自慢せず、偉ぶれず、控えめであり、謙虚であった。
 日本の職人は、職人を最下層の身分卑しき小人と差別される中華(中国・朝鮮)とは違い、武士同様に名誉を持って遇され、天皇につながる独自の職業神を祀り、命をかけて作品を造っていた。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、江戸末期・幕末期の日本人とは全く違う。
 特に、天皇家・皇室を否定し、天皇制度廃絶を悲願とする日本人は、日本民族日本人ではない。
 見た目が同じ日本人でも、中身は別人である。
 江戸末期・幕末期の日本人は身分を問わず全員が憂国の士・救国の士・尊皇派・勤皇派であったが、天皇を憎む反宗教無神論の反天皇反日的日本人は憎むべき亡国の徒である。
 反天皇反日的日本人が学ぶ歴史とは、日本の歴史ではなく、中国や朝鮮の中華の歴史である。
 濃淡はあるが反天皇反日的日本人は、戦後のキリスト教史観・マルクス主義共産主義)史観・日本人極悪非道の重罪人史観=自虐史観で高額点を取ってき頭脳優秀な高学歴出身知的エリー層に広がりつつある。
   ・   ・   ・   
 バブル経済崩壊後の経済人・企業家・経営者は、外国語を話し世界に通用する学識・知識を持っていても江戸末期・幕末期の武士や職人に比べてはるかに劣る。
 彼らは、現実を改革する為にイノベーションが欠かせないと熱っぽく語るが、思考も行動もイノベーションを実現しようという現実味がない。
 現代の科学者や学者や技術者も、江戸末期・幕末期の学者や職人に比べて劣っている。
 目も当てられないほどに劣っているのが、現代の政治家や官僚そしてメディアの関係者である。
 現代の日本人は、総じて鳥居耀蔵化しつつある。
 儒教エリートの鳥居耀蔵が幕府の近代化を潰して滅亡させたように、現代の高学歴出身知的エリーは日本を衰退させ滅亡させようとしている。
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 日本の文明開化は、「ロシアを含む西洋列強の侵略から母国日本を守る為には軍事力強化である」という自衛戦略から始まった。
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 日本を、ロシアを含む西洋諸国の侵略から守ったのは、武士ではなく名人級の職人達であった。
 実際に戦ったのは、武士でも下級武士であり、非人・エタなどの賤民や山の民・川の民・海の民などの部落民達であった。

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幕末の天皇 (講談社学術文庫)

幕末の天皇 (講談社学術文庫)