🕯113)─1─勝者は、死に追いやった敗北者の恨みが祟る事を怖れて人神として祀った。怨霊信仰と人神信仰。~No.241No.242 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ニーチェ「深淵を覗き込む時、深淵もまたこちらを見つめる」
 神なき世界を見てしまった人間は、神なき世界を生きなければならない。
 日本には、天地創造絶対神は存在しない。
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 日本の夏祭りは、例外なく、亡くなった家族・親族・知人・親友・隣人の御霊を、生き残っている者が慰霊する華やかで楽しい賑やかな祭りである。
 つまり、自分だけが、自己満足的に楽しむバカ騒ぎではない。
 死者の霊魂を怨霊に変えない為に、死者の気持ちを汲み弔おうとした。
 それが、祖先神・氏神の人神信仰の一つである。
 そして、自然災害で運良く生き残った日本人は、助かった事に感謝するよりも、運悪く犠牲になった者達に対する後ろめたさを抱いていた。
 心を苛む慚愧の念を「水に流す」為に、黄泉の国につながっている川で精霊流しを行い、空の上を飛び、大地に下に潜み、身の回りに彷徨う霊魂の為に盆踊りと夏祭りを行った。
 日本人は、心の中に、不幸にして命が断たれた人々の生への執着を持った霊魂に対する、生き残ている自分という「水に流しきれない」過去への想いを秘めている。
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 日本では、敗者が怨霊となって自然災害を起こすと信じて恐れていた為に、勝者よりも敗者を丁重にそして懇ろに弔った。
 勝者よりも敗者を、強力な霊力を持った怖ろしい神として崇めた。
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 室井康成『首塚・胴塚・千人塚 日本人は敗者とどう向き合ってきたのか』
 「歴史好きな人でも英雄や成功者につい目が行きがちです。敗者に注目する事は民俗学者の仕事だと思っています」
 「膨大な数の戦死者たちの上に、今の社会があるとあらためて認識します。塚は祟りや都市伝説との絡みで語られがちです、私はむしろ日本人の優しさを感じるのです」
 「戦場で命を落とした人の亡骸(なきがら)は、故郷の地で親しい者に埋葬されるのが望ましいと考えられ、それゆえ出身地や長く暮らした場所から離れた土地で死亡する『客死』を忌む思想がありました。だから、理想的な処遇をされなかった死者は、祟りをもたらす存在として畏怖され、怪異譚も伝えられてきたのです。不遇な死者達を塚をつくって供養してきたのは、戦死者と無縁な地元の人たちでした。そのような日本文化のおおらかさを、いまこそ見直すべきではないでしょうか」
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 水木しげるオオクニヌシが個人の名前ではなく代名詞とか役職名とかで……すなわちオオクニヌシと名のっていたのは5〜6人いたんじゃないか」(『水木しげるの古代出雲』)
 怨霊信仰の日本では、優れた知性や抜群の見識や人間離れした体力を持ちながら政争や戦闘に敗れて不幸な死に方をした敵・敗者には、その魂が怨霊となって祟りを起こさないように称号を与え祀って鎮魂した。
 ヤマト王権が、出雲王国の国主であるオオナムチに大国主命オオクニヌシノミコト)という最高位の王号と最上級の神号を与えたのは、スサノオ素戔嗚尊)一族を滅ぼしたからである。
 スサノオ神話、オオクニヌシ神話、出雲神話スサノオ信仰、オオクニヌシ信仰、出雲信仰は、スサノオオオクニヌシの系譜が怨霊化して祟らないように鎮魂の為に創作され、日本に禍を起こさないために全国に広められた。
 同様な事は、聖徳太子厩戸皇子日本武尊小碓尊(おうすのみこと)、天満天神の菅原道真神田明神平将門でも行われた。
 怨霊鎮魂は、神号・称号を与えるほかに、『源氏物語』『平家物語』といった小説の主人公に方法が取られた。
 源義経の悲劇的な物語は多いが、源頼朝の成功した物語は少ない。
 武士の世となった鎌倉時代以降は、朝廷の貴族風は廃れ宮中での政治権力争いに敗れて非業な最後を遂げた者ではなく、悲運に戦に敗れて死んだ武将や滅亡した一族の怨霊鎮魂が加え合った。
 武士らしい命名として、御霊との音通する「五郎」の字があてられた。
 生き残った者は、負けて不運な結果で非業な死を遂げた霊魂が恨み抱き怨霊と化して災いを起こし祟らないようにする為に、神として祀り御霊にかえる鎮魂祭や御霊会を繰り返した。
 鎌倉権五郎社。
 怨霊信仰から、弱者への判官贔屓や敗者の滅びの美学が生まれた。
 日本で、もて囃されるのは敗者であって勝者ではない。
 御霊会は、863年5月20日に清和天皇平安京神泉苑真言宗東寺派の直轄地)で執り行われたのが最初である。
 京に於ける御霊信仰の総仕上げは、政権争いに敗れ太宰府に左遷されて失意で急死した菅原道真の怨霊を北野天満宮に祀った事である。
八坂神社の祇園祭も、元は祇園御霊会と言って、荒ぶれるスサノオの怨霊を鎮める神事であった。
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怨霊信仰としての『源氏物語
 藤原氏は、諸王家や古代豪族など数多くの政敵を倒して権力を取ったという後ろめたさがある為に、滅ぼした者の怨霊が一族に取り憑いて災いを及ぼすことを恐れて、せめて物語の上だけで藤原氏を超えて栄える事を許した。
 怨霊信仰を持つ日本において、権力者を匿名で倒して栄える物語が流行っていた。
 反権力的物語に於ける焚書は、日本には存在しない。
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 日本の宗教観では、如何なる亡霊・幽霊であってもこの世から排除して地獄に落とすべき忌むべき悪霊ではなく、むしろ親しみを込めて身近に置く霊魂であった。
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 赤間神宮は、壇ノ浦の戦いで破れて死んだ安徳天皇平氏一門を祀っている。
 建礼門院徳子は、戦で命を落とした安徳天皇平氏一門の霊魂を怨霊にしない為に菩提を弔い、御霊となる様に霊魂を鎮める祈りに残りの生涯を捧げた。
 日本皇室とは、「民の平穏」と「国の安寧」と「死者の霊魂を鎮める」、神の裔という資格を持って祈りを捧げる唯一の祭祀王家である。
 民と国と死者の魂を祈りで救済できる日本人は、他に存在しない。
 生まれながらに神の裔という神聖な資格を有する人は、神代からの血を正しく引く皇統につながる日本人だけである。
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 日本の宗教及び精神を支配しているのは、怨霊信仰である。
 怨霊信仰は、敵と味方の間に滅んだ者達の存在を残していた。
 『平家物語』は、怨霊信仰から生まれた怨霊物語であった。
 琵琶法師は、音曲を加えて『平家物語』を、天皇や公家だけではなく、日本全国で庶民の間に歌い伝えた。
 『平家物語』は、幼くして亡くなった安徳天皇を鎮魂する為の怨霊物語であった。
 日本人は、涙を流しながら怨霊物語を聴いた。
 平氏を滅ぼして幕府を開いた源氏の子孫である徳川家は、平氏を讃える『平家物語』を弾圧しなかった。
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 慈円大僧正(1155〜1225)は、栄耀栄華を極めながら滅んだ平家の怨霊が日本津々浦々に取り憑いていると考え、平家の怨霊を鎮魂する為に『平家物語』を作って琵琶法師に教えた。
 目の見えない琵琶法師は、かたわ者は怨霊に取り憑かれても危険は少ないし生活の糧にもなる事から、全国を回り、平家を滅ぼした御家人や見知った公家に請われるままに平家物語を語った。
 平家物語は、承久(1219〜1222)〜仁治(1240〜1243)の間に成立したといわれている。
 室町時代には、身分卑しい世阿弥が怨霊鎮魂を能楽で表現した。
 能楽の幽玄とは、怨霊鎮魂として、能舞台という結界内での言霊を用いて霊魂と話し合う事である。
 演ずる事で怨霊・霊魂と話し合い、亡者に死んでいる事を自覚させ、御霊として鎮まっているように諭す。
 能面は、怨霊・霊魂を憑依させる依代であった。
 能面を使わず怨霊・霊魂を憑依させる方法は、歌舞伎の隈取りである。
 人形にすれば、文楽人形浄瑠璃である。
 日本の演劇は、大陸的な権力者を喜ばす為だけの娯楽ではなく、怨霊信仰に基づいた鎮魂劇であった。
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 巌流島の名前は、勝った宮本武蔵の武勇を讃える為ではなく、敗れた佐々木小次郎を忘れない為に流派である巌流から付けられた。
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 日本の歴史は、勝った者よりも負けた者の事を詳しく物語として残している。
 勝てば官軍、負ければ賊軍として、勝った者が歴史を自由に書いていた。
 日本の宗教は、勝った者を英雄として称えて神として崇拝し、負けた者も対等に扱って神として祀った。
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 戦いに勝利した強者は、殺した弱者に呪い殺される事を最も恐れていた。
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 2016年1月9日 産経ニュース「殉教公園の説明板に塗料 大分、キリシタン関連物被害続く
 黒や白の塗料がかけられていた、大分市葛木のキリシタン殉教記念公園にある説明板=9日午後
 大分市葛木のキリシタン殉教記念公園にある説明板に、黒や白の塗料のようなものがかけられているのを、昨年12月と今月4日の2度確認されていたことが9日、大分県警への取材で分かった。
 大分県津久見市では7日、戦国大名で「キリシタン大名」としても知られる大友宗麟銅像や墓石が、黒いスプレー式の塗料で汚されているのが見つかった。どちらもキリスト教に関わる設置物が被害に遭っており、県警は器物損壊事件として関連も含めて調べる。
 県警や大分市観光協会によると、記念公園には、キリスト教徒が弾圧された歴史を示す記念碑のそばに、地図や大友宗麟キリスト教を保護したことなどを記した説明板がある。4日午後1時ごろ、目撃者が「説明板にペンキが塗られている」と110番。黒や白の塗料がスプレーのようなもので乱雑にかけられており、地図が半分ほど読めなくなっていた。説明板や記念碑は、昨年12月中旬にも同じように汚されていた。」
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 多神教の日本人では、人が崇める神や仏には何らかの御利益がると信じ、分け隔てなく敬意を持って一緒になって拝んだ。
 それがたとえて敵の神や仏でも、決して冒涜しなかったし破壊はしなかった。
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