🕯116)─1─最強の死穢・怨霊とは日本天皇である。風葬と火葬の殯(もがり)。仏教国家への宗教改革。~No.249No.250 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本神道は、死を恐れ、血を嫌った。
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 日本神道では、死んでも霊魂・魂は死体から離れても祖先神・氏神として祖先が祀られている氏神神社に入り、この世に留まると考えられていた。
 ゆえに、天国や地獄・極楽浄土や地獄の様な死後の世界はなかった。
 日本仏教では、死ねば霊魂・魂は死体から離れ、苦界のこの世(此岸)から彼岸である西方浄土・極楽浄土に旅立ち、この世に留まらないと説いた。
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 仏教が主・神が従の仏教国家に改造する為の宗教改革
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 反天皇反日的日本人は、反宗教無神論者として、神代から125代続く祭祀王・日本天皇の存在を完全否定し、2000年近くの歴史を持つ最高祭祀王家である日本皇室の完全廃絶を目指している。
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 日本神道は、ローカルな多神教としての民族宗教であって、グローバルな一神教としての普遍宗教ではない。
 ゆえに。日本神道の何でも無条件で受け入れる無節操な宗教観は、世界に通用しないし理解されない。
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 疫病=疫神。
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 加地伸行「……
 殯(もがり)はなにも皇室だけの行事ではなく、一般人においても行っているのである。……
 喪儀(葬は、喪儀中の一行為)を体系化したのは、西暦前の儒教である。その儒教喪儀のルーツは風葬にある。
 インドのような高温地帯では、死後、腐敗がすぐ始まり異臭を放つ。そこでそれを火葬で解決した。火葬後、ガンジス川に散骨するので墓は作らない。こうした行為を背景に輪廻転生が生まれた。仏教を含めてインドの諸宗教の死生観がそれだ。
 一方、中国の黄河流域は北方で低温なので死後腐敗が遅い。死者はさながら眠るがごときなので別れ難い。しかし、死は死なので離別の儀式を作った。それが喪儀であり、そうした文化を担ったのが儒教である。
 儒教はこう考えた。呼吸停止を死とせず、死に至る最初とする。そこで呼吸停止者を共同墓地に風葬(野晒し)し、白骨化したときをもって死とし、白骨を回収して土に葬る。その場所が、墓。このときに凶である死が完成し、死者は祖先になり、吉となる。この〈呼吸停止から白骨化(死)までの期間〉が殯なのである。その期間すなわち白骨化するまでが約2年であることを経験的に知っていた。そこで3年の葬(2年プラス1日後
墓葬)の儀式を行ない、それを重んじた。中国仏教・日本仏教はこれを取り入れて三回忌とした。
 この殯は東北アジア儒教文化圏の人々の観念であり、皇室はそれを独自に守り続けてきた。しかし、儒教文化圏の人々はその期間を短縮してきた。日本人大半は、それを日本仏教の中で49日という期間で実質化してきた。だから、満中陰(まんちゅういん)をもって納骨する。
 以上の話も、端折(はしょ)ったもの。今回は、まずは殯の意味を読者の方々に知っていただきたかったのでそこへ話を集中した。
 殯の意味を知らず、あたかも殯は皇室固有のもののような口振りの雑論が世上に跋扈(はびこ)っている。それも事実を誤認した上である。……」(2017年2月号 Hanada)
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 794年 桓武天皇は、母や皇后の病死の原因を、謀殺した早良親王が「怨霊」となって祟った為と信じ、帰化秦氏が所有する土地に新たな都を造営した。
 神の裔である天皇が、怨霊から逃げる為に造営を命じたのが平安京である。
 天皇とは、奇跡を起こす霊力を持たない、非力な宗教的権威であった。
 迷信深い日本人は、恨みを抱いて非業の死を遂げてた人が、怨霊となって祟り呪う為に疫病や天変地異などの災いが起きると信じていた。災難を避ける為に、怨霊を神として神社に祀り、祭りを行って祟りを鎮めた。怨霊と化した人を神とする信仰心は、本当の信仰心ではないと否定されている。
 日本の民族宗教は、普遍宗教の絶対神に自分一人の「奇跡と恵み」を求める信仰とは違って、祖先を神とする怨霊や亡霊への恐怖信仰である。けっして、救済してくれる救世主の到来を願うメシア信仰でもない。
 日本には、妖怪や魑魅魍魎や物の怪やあやかしは数多く存在するが、悪魔や魔女は存在しない。鬼は、悪を憎み罰しようとする仏の化身であり、絶対神に逆らって悪を行う悪魔ではない。
 政治的には、半島系仏教の強い奈良を捨て、藤原氏天皇に忠誠を誓う半島系帰化人(良民・公民)達を連れて平安京に遷都したといえる。
 平城京は、世界の常識では考えられない、城壁のない無防備な都であった。
 大陸の首都は、例外のない閉鎖空間の城塞都市であり、一度ならず数度の虐殺と略奪を経験している。
 平安京は、攻め易く守り辛い無防備な都の為に、幾度も戦火に焼かれたが、世界的な虐殺と略奪を経験していない。都は、城壁を持たなかった為に、出入りが自由で、戦いや災害が起きればどこからでも逃げ出せた。その意味において、日本は世界の非常識で生きてきた。
 欧米に憧れる知的エリートの日本人は、日本的なもの全てを無条件に未開で野蛮であるとして否定している。 
 この後は、天台宗真言宗曹洞宗などの大陸系仏教が隆盛を誇り、半島系仏教は衰退した。
 天皇への忠誠心なき渡来人は、経済的理由で平安京の辺地に移り住み、天皇と日本への憎悪を抱き、いわれ無き差別に激怒して復讐を誓った。
 忠誠心なき朝鮮系渡来人が、「まっろわぬ民」として軽蔑され、「賤民」として差別を受けた、現代の同和問題に発展する部落民の祖先である。
 伝教大師最澄比叡山延暦寺で、弘法大師空海高野山金剛峰寺で、朝廷の許可を得て「国家安隠」と「万民豊楽」の密教の加持祈祷を行っている。
 朝廷の許可を得ない祈りは、如何に大言壮語名な言葉を呪文化したとしても、自己満足の個人的趣味の祈りにすぎなかった。
 日本において、政治権力や宗教権威に公的効力を持たせるのは祭祀王である天皇の神性であった。
 神の裔・天皇霊性がある限り、日本では宗教力や軍事力や経済力を背景とした独裁者は生まれない。
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 日本民族は、気が弱い民族であるだけに死を「死穢(しえ)」と恐れ、死につながりのある遺体の「肉と血」を穢れとして忌避し、肉と血を扱い生業とする職業の人間を賎民(非人・エタ)として差別した。
 日本神道は、死穢に触れたり近づくと穢れるとして徹底して身近から排除した。
 日本天皇の皇祖である天照大神は、イザナギが黄泉国から逃げてきて身についた死穢を清流で洗い清めて「禊ぎ」を行って生まれた。
 日本天皇の貴さとは、宗教的権威を持つからではなく、巫女的な神との仲介者だからではなく、禊ぎを行い死穢を伴わない不可侵な聖体だからである。
 飛鳥・奈良時代は、皇族や豪族達の権力闘争が絶えない時代であった。
 天皇も即位する前は、武人として武器を持ち、兵士と共に朝敵と戦い敵兵を殺していた。
 天皇崩御すると排除不能の最も恐ろしい「死穢(しえ)」が発生するとして、新しく即位した天皇は邸宅を替えた。
 偉大な先帝であれば都全体が死穢に包まれると恐れて、遷都を行った。
 古代日本人は、生前の先帝の威徳を称える事より、死後の先帝が発する祓い清められない死穢を恐れた。
 桓武天皇が、奈良を捨て京都に遷都したのは、歴代の先帝達が発している死穢が渦巻く穢れた地から死穢のない浄い地に逃亡したからである。
 つまり、怨霊信仰がその元である。
 天皇はもとより皇族や公家は、浄らかな地で心穏やかに生活する為に、政から死穢を遠ざけ、死と血にかかわる一切の穢れ仕事を下級貴族に押し付けた。
 平安時代に死刑がなかったのは、罪を憎んで人を憎まずといった人道的倫理観からではなく、死穢の恐怖からであった。
 何時の時代でも、犯罪者を尽きないし、天皇や朝廷に弓引く国家犯罪者も後を絶たなかった。
 国家の仕組みを、唐(非漢族の王朝)の律令制度に倣って造った。
 都内の犯罪者に対しては、武装警察的な検非違使を置いて治安を維持した。
 地方の犯罪者はその地を治める国守に一任し、国主は穢れ仕事を地元豪族に押し付けた。
 天皇や朝廷に弓引く朝敵を平らげる為に、征夷大将軍などのを任命して一切の軍事指揮権を委任した。
 国家反逆罪で処罰しても、天皇や朝廷に弓を引く者の霊魂は強力であると恐れて死刑にせず、罪は本人一人として地方へ流刑とした。
 天皇も公家も、死穢に触れ怨霊に祟られると事を最も恐れ、軍事権を持つ事は穢れの元として嫌い、朝廷の中心から遠ざけた。
 血と肉を扱う穢れ仕事をする身分して、中級貴族の中から武者階級が生まれた。
 殿上人となり出世が望めない中級貴族は、都落ちし、地方の荘園に土着して、手を血に染めて土地・財産を自ら守る為に集団を形成した。それが、武士集団である。
 武士が賤民同様に差別されたのは、死穢に近い穢れ集団だからである。
 天皇や公家は、身を守る為に武士を利用した。
 天皇家が滅びず存続してきたのは、死穢と怨霊を恐れる穢れ信仰ゆえである。
 日本を死と血で穢さない為には、死穢から切り離された絶対不可侵の神聖な血と霊魂を持つ皇室しかなかった。
 鎌倉時代以降、武士が天下をとり暴力で天皇と公家を排除できなかったのは、出自が穢れていると考えられていたからである。
 その御陰で、日本は中国、朝鮮、欧米など大陸で繰り返された大虐殺という悲劇は起きなかった。
 日本民族が、優秀な民族だったからではなく、特殊な「穢れ」という信仰を後生大事に持っていたからである。
 だが、それはローカルな信仰であってグローバルではない以上、日本以外では通用しないし、世界では理解されない。
 天皇と国を守るのは武力ではないとという、島国的閉鎖された平和信仰はこうして生まれた。
 明治維新によって西洋流武力至上主義が入るまで、日本を守るのは武力ではないと言う考えから、神風神話が生まれた。
 ゆえに、元寇で日本を救ったのは武士ではなく「神風」とされた。
 平安時代天皇と公家は、死穢と怨霊を生産する武力・軍事力を悪・穢れと嫌った。
 江戸時代までの日本民族日本人は、武を貴んだとしても、好戦的な民族ではなかった。
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 最大にして最悪の死穢は、天皇の死であり、その遺骸であった。
 その最も恐ろしい天皇の死穢を滅する葬礼として、仏教の火葬を取り入れた。
 伝統的神道式葬礼からすれば、天皇の玉体に傷を付けたり御遺体を焼いて遺骨・遺灰とすることは冒涜として忌避されていた。
 持統天皇は、葬儀は神道式の土葬ではなく仏式の火葬とするようにとの遺言を残した。
 文武天皇は、周囲の反対を退けて、702年に先帝・持統太上天皇の御遺体を荼毘(仏典・パーリ語)にふし、遺骨・遺灰は天武天皇の御陵の脇に葬られた。
 京・平安京が、奈良・平城京のように天皇の死穢で穢れない為に、これ以降の天皇の葬儀は仏式で執り行われ、ご遺体は火葬された。
 火葬して葬られた天皇には神性はないとされ、祭神として神社に祀る事なく、霊魂として寺院で供養された。
 その為に、歴代の天皇と皇后の位牌は寺院で保管された。
 外来宗教である仏教の炎で、最も恐ろし「天皇の死穢」を焼き尽くした。
 日本の大地は、神道の水の儀式で洗い清められ、仏教の炎の儀式で浄化された。
 仏教が日本に受け入れられたのは、神道と同様に多神教であった事と同時に、両宗教が血と死を忌避し生け贄を禁止していた事にある。
 つまり、狩猟採取の肉食文化ではなく農耕漁労の植物食・魚介食文化である。
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 824年 第53代淳和天皇は、大干魃と各地の飢饉から庶民を救済する為に、空海と西寺の守敏(しゅびん)法師に「雨乞い」の勅命を与えた。
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 863年5月20日 天皇は、神聖不可侵の最高位祭祀王である。
 第56代清和天皇。怨霊と疫病を鎮める為に、京で最初の御霊会が神泉苑で執り行われた。
 869年6月7日 全国で蔓延した疫病を鎮める為に、八坂神社で祇園御霊会が行われた。
 6月14日 洛中の男児が神輿を神泉苑に送った。
 この疫病祓いの祇園御霊会は、山鉾(やまほこ)を立て町を巡行する京の町衆の祭りとなった。
 それが現在の祇園祭である。
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 963年8月23日 空也上人の発願で、鴨川畔に600人の僧を集め、金泥(きんでい)で浄写(じょうしゃ)した般若心経を供養し、夜に滅罪を願う万燈会(まんどうえ)を催された。
 空也は、醍醐天皇の皇子で、末法の世に僧として生きる為に血筋を捨て、「市聖(いちのひじり)」として生きた。
 鴨川の、西側は生者の世界であったが、東側は死者の世界であった。
 六波羅は、髑髏原(どくろはら)と呼ばれ、遺体は野晒しにされ、カラスや野犬の群が放置された骸(むくろ)を食べていた。
 994年 京都市北区大徳寺付近。洛北・紫野にある船岡山で、疫病退散と怨霊鎮魂の御霊会が営まれた。
 1001年 洛中で疫病が蔓延した為に、疫病を神(疫神)としてを祀る神殿3宇を洛北の紫野に造営して、疫病を撒き散らす荒神を疫病を治す和神にするべく信仰した。
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 1242年 第87代四条天皇崩御の際、真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)派の総本山・泉涌寺で葬儀が執り行われ、山陵(さんりょう)が築かれた。
 以来、諸天皇や皇太后などの御陵(ごりょう)は泉涌寺に造営された。
 泉涌寺は、皇室の菩提所として「御寺(みてら)」と称され崇敬された。
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 日本民族が、稲作文化を取り入れた際、コメは天界の気と大地の気の調和で生成されると言う信仰をも受け入れた。
 稲や植物は、天と地の気を受けて命を得て増殖した。
 天と地の気を充足させる為には、損なわない事である。
 命の気を損なわない為には、天と地を穢さず、死をもたし命を奪わない事である。
 肉食は、血と死を伴って命をつないだ。
 植物食は、血と死を遠ざけて命をつないだ。
 稲や植物は、血と死を穢れとして洗い清めていた産霊(ムスビ)の神霊を授かっている。
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 中華思想の二大源流である儒教道教が、歪曲され変質して日本に受け入れられたのは、血と死による易姓革命を正当化していたかである。
 キリスト教邪教として排除されたのも、血と死の生け贄の儀式を伴っていたからである。
 ぶどう酒はイエス・キリストの血であり、パンはイエス・キリストの肉体である。
 死穢を伴う血と死を忌避する日本人にとって、キリスト教の聖体拝領とサクラメントが理解できなかった以上に身の毛立つ空恐ろしい宗教儀式であった。
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 日本で死や血に関わる仕事は穢れの元として嫌われた。
 医師は、血を見、死に接する穢れた職業とされた。
 天皇や公家は、怪我をし病気に罹れば治療の為に宮中や邸宅に呼ばねばならなかった。
 その為、血と死で穢れ体を浄める為に僧侶の格好をさせ、官位も僧侶と同じ「法印」などを与えた。
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 平安時代以降 京の葬送地は、鳥辺野(とりべの)、化野(あだしの)、蓮台野(れんだいの)の3ヶ所であった。
 「野辺送り」は、葬送地名の「野」に由来する。
 六波羅は、東の葬送の地である鳥辺山(東山阿弥陀ヶ峰)山麓の一角にあり、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)、西福寺、六波羅蜜寺などがある。
 地獄の閻魔庁の冥官(みょうかん)を勤めた小野篁は、黄泉国に通じる六道珍皇寺の古井戸を使って行き来していたと言われる。
 井戸脇に生える郄野槇(まき)は、その井戸が黄泉国への入り口である証とされた。
 江戸時代に、黄泉への入口「死の六道」があれば黄泉からの出口があるはずとして、「生の六道」は西の葬送地である小倉山山麓の化野、嵯峨の大覚寺の辺りとされた。
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 1345年 足利尊氏は、京都から追い出し天皇位を奪い吉野の山中で不遇の死を迎えた後醍醐天皇の霊魂や合戦や政争で殺した楠木正成などの霊魂が、怨霊となって足利家を祟る事を恐れて天竜寺(天竜資聖禅寺)を建立した。
 表向きは、後醍醐天皇の冥福を祈るとした。
 2016年10月27日号 週刊新潮「古都再見 葉室麟
 幕が下がる、その前に
 ……
 ベストセラーである井上章一氏の『京都ぎらい』(朝日新書)を読んで、なるほど、嵯峨生まれだと、京都人とは見てもらえないのか、恐ろしいなあ、などと思った。
 ……
 ところで同書の最後のあたりで、嵯峨の天竜寺は後醍醐天皇の祟りを恐れた足利尊氏が鎮魂のために建立したお寺なのだと述べられている。
 そして、怨霊信仰の話へと進む。梅原猛氏が『隠された十字架──法隆寺論』(新潮文庫)で法隆寺聖徳太子一族の怨霊を封じる寺である論じたことにもふれる。
 天竜寺が後醍醐天皇の怨霊を封じるために建立されたことと通じるものがあるからだ。
 同書によれば自らが打ち負かした者の祟りを恐れ、魂鎮(たましず)めの寺社を建てるという敗者へのおびえは中世まではあったが、その後、薄れていったという。
 特に明治維新後の政府は自分たちが亡ぼした政敵の鎮魂に努めていないことが指摘されている。
 これは、目からウロコだった。
 明治政府が成立するまでに戊辰戦争会津や越後長岡などで戦火が広がり、多くの人命が失われた。
 このようなとき、かつての政権は亡ぼした敵の怨霊を鎮めるために神社を建て、祀ってきたのだ。
 ところが明治以降、祀られるのは靖国神社のように政権のために亡くなったひとばかりだ。
 西南戦争を起こして政権への反逆者となった西郷隆盛靖国神社へ祀られないのは、不思議に思っていたが、考えてみると、上野公園の銅像は西郷さんが祟らないように建てられたのかもしれない。
 西郷の死後、21年を経た明治31年に行われた除幕式の際、西郷夫人の糸子は『宿んしはこげんお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)』と言ったと伝えられる。
 西郷の銅像は犬を連れて狩猟をしているときの姿らしいが、たしかに偉人として飾りたてている姿ではない。
 糸子夫人が言いたかったのは、実際の西郷が浴衣姿で人前に出るような無作法な人物ではなかったということなのだろう。
 なにはともあれ、政府への反逆者であった西郷を立派な軍服姿にするわけにはいかなかったのだ。
 だとすると、西郷の怨霊をなだめる意味合いも中途半端なものだったと言える。あるいは違う意図だったのか。
 それだけに軍服ではない親しみやすい西郷像が国民的な人気を永く保ったことの意味は大きい。
 西郷は時空を超えて権力者の側ではなく、庶民の側に立つことになったからだ。
 それにしても祟らないで欲しいと亡ぼした敵を祀る国家と、政権に従い、命まも捧げた者だけを祀る国家とでは大きく違う。
 国家への忠誠の尽くし方はそれぞれに違うかもしれない。政府の敵はすべて国家の敵であり、いったん敵対すれば死んでからも敵であるとするのはどうだろうか。
 怨霊を信じることは迷信なのかもしれないが、敵を切り捨てて顧みない近代の合理的な非情さよりは人間らしく思える。
 一方で、それは、ひとの不幸のうえに自分の幸福は成り立っているかもしれない、と反省する気持ちでもあるからだ。
 もし、歴史の上で敗者に対して勝者がそのような気持を持てない、とするならば、世界は勝者の楽園のまま、永遠に和解は訪れないことになる」
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 天皇や仏教の教祖など神格化された者以外の個人の墓石は、五輪塔や板碑などで個人名や法名などを刻む事はなく、その為に墓石の下に葬られた個人を特定できる証拠は残されなかった。
 個人名の墓石や家族名の墓石は、江戸末期か明治時代からである。
 人は死ぬと、この世に留まる事なくすみやかに仏の慈悲で救われ、この世とは隔絶した遙か遠くの仏の世界である西方浄土・極楽浄土に往生できると信仰していた。
 戦国時代までは。人は、苦痛が多く煩悩が渦巻くこの世には未練など微塵も持たず、死ぬ事で全てのしがらみから解放され安堵できると信じ、寿命の内は仕方がないから生きるとしてもなるべく早くぽっくりと死ねる事を神仏に祈った。
 仏教の死生観・霊魂観・世界観から、魂が抜けた死体への愛着も尊厳も抱く事はなかった。
 江戸時代に入り世の中が安定し平和になるや、良い暮らしをして人生を楽しみたいという個人欲が出てきて、霊魂となっても長くこの世に留まっていたいという生者の我欲が強くなり、法事やお盆などで故人・祖先の供養を欠かさなかった。
 だが。江戸時代全般では庶民の間で居住の自由があった為に、特定の寺を定めて個人・家族の墓石を持つ事はなかった。
 同様に、先祖の霊が集まり里人・家族を守るというムラの里山信仰も、大開墾時代が終わった江戸時代中頃から生まれた。
 江戸時代を経る事によって、日本人は日本人としての自覚を持つようになった。
 江戸時代がなければ、日本人は日本人としての形を持つ事が出来なかった。
 その中心にあったのが、祖先神・氏神の人神信仰に正統性を与えていた皇室の伊勢神宮であった。
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 高野山。2015年9月24日 週刊新潮藤森照信 建築そのもの講義 
 水の神
 岩や樹にくらべ、水に精霊の存在を認める信仰は少ない、と先に述べたが、井戸はどうなんだとの反論があるかもしれない。
 川の水と違い井戸の水は、どこから来てどこへ行くのか分からないだけに神秘性は強く、井戸には水の精霊が宿ることになっていたかのかもしれない。
 水にではなく重要な通路に
 ……
 井戸の民俗学に詳しい大島暁雄は次のように書いている。
 『井戸に刃物や金物を落とすことや、井戸のなかに向かって大声を出すことは厳しく戒められた。井戸が現世と異界とを結ぶ重要な通路として意識されていたためである。使わなくなった井戸を埋める際にも息継ぎ竹を刺す習俗があった』
 井戸の神さまが、水ではなく現世と異界をつなぐ穴としての井戸についているとするなら、『古井戸』と聞いて怪しいイメージが湧いたり、幽霊が井戸から姿を現すのも理解できよう。
 深い森の神秘を抱く
 井戸がダメだとすると、雨と水に恵まれた日本列島にもかかわず、水に依りつく神さまは意外に少ない、という結論を動かすわけにはいかない。水はあまりに日常的過ぎて有難みに欠けるということか。
 そうした日本列島のなかに異例な半島が一つある。年間降水雨量8m強という日本記録を保持する紀伊半島である。
 雨に恵まれ、深い森に包まれ、人跡未踏とは言わないまでも人跡の欠乏状態が長く続いた紀伊半島は、古(いにしえ)より特別な半島として扱われ、時には死者の魂の眠る黄泉国とも見なされてきた。そしてその中心に位置してきたのが、寺院なら高野山、神社なら熊野大社だった」
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 日本の宗教改革は、絶対神の教義による神学論争ではなく、血と死の穢れを如何に解消するかで3度あった。
 仏教伝来と鎌倉仏教と国家神道である。
 仏教伝来は、血と死から遠い天皇家と公家など一部の上流階層の救済に留まっていた。
 鎌倉仏教は、血と死に接している武士・百姓・漁師・猟師ら社会の多数の救済を行った。
 国家神道は、私的な個人救済から公的な国家救済へと変わった。
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 上御霊神社は、祟る神(怨霊・鬼)として 崇道天皇早良親王光仁天皇の皇子)・ 井上大皇后光仁天皇の皇后)・ 他戸親王光仁天皇の皇子)・ 藤原大夫人(藤原吉子桓武天皇皇子伊予親王の母)・ 橘大夫(橘逸勢)・ 文大夫(文屋宮田麿)・ 火雷神(以上六柱の荒魂。)・吉備大臣(吉備真備)を祀っている。
 下御霊神社は、祟る神(怨霊・鬼)として 吉備聖霊吉備真備とされることも多いが、吉備真備は憤死した人ではないので、神社側は六座の神霊の和魂と解釈している)・ 崇道天皇桓武天皇の皇太子、早良親王)・ 伊予親王桓武天皇の皇子)・ 藤原大夫人(伊予親王の母、藤原吉子)・ 藤大夫(藤原広嗣)・ 橘大夫(橘逸勢)・ 文大夫(文屋宮田麻呂)を祀っている。
 日本の神社は、恨みを飲んで非業の死を遂げた人の怨念を神として祀って鎮める宗教施設であった。
 特に、天皇や皇族や高貴な人の怨霊を鎮めるべくひたすら祈り続けていた。
 現代日本キリスト教徒や反宗教無神論者は、怨霊神社で執り行われる天皇や皇族の怨念鎮魂の祈りを否定している。
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 日本天皇の権威・権力・御稜威=大御心(良心・道徳・まごころ)が、神聖不可侵とされる訳。
 皇位が、万世一系(直系長子=双系養子相続)の男系天皇の皇統で継承された訳。
 それは、日本天皇天照大神の子孫としてその血を受け継いでいるからである。
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 『古事記』(現代語訳)
 黄泉の国
 そこでイザナギの命の仰せられるには、「私の最愛の妻を一人の子に代えたのは殘念だ」と仰せられて、イザナミの命の枕の方や足の方に這はい臥ふしてお泣なきになつた時に、涙で出現した神は香具山の麓の小高い所の木の下においでになる泣澤女(なきさわめ)の神です。
 このお隱れになつたイザナミの命は出雲の国と伯耆の国の境にある比婆(ひば)の山にお葬り申し上げました。
 ここにイザナギの命は、お佩はきになつていた長い剣を拔いて御子のカグツチの神の頸をお斬りになりました。その剣の先についた血が清らかな巌に走りついて出現した神の名は、イハサクの神、次にネサクの神、次にイハヅツノヲの神であります。
 次にその剣のもとの方についた血も、巌に走りついて出現した神の名は、ミカハヤビの神、次にヒハヤビの神、次にタケミカヅチノヲの神、またの名をタケフツの神、またの名をトヨフツの神という神です。
 次に剣の柄に集まる血が手のまたからこぼれ出して出現した神の名はクラオカミの神、次にクラミツハの神であります。
 以上イハサクの神からクラミツハの神まで合わせて八神は、御劒によつて出現した神です。
 殺されなさいましたカグツチの神の、頭に出現した神の名はマサカヤマツミの神、胸に出現した神の名はオトヤマツミの神、腹に出現した神の名はオクヤマツミの神、御陰みほとに出現した神の名はクラヤマツミの神、左の手に出現した神の名はシギヤマツミの神、右の手に出現した神の名はハヤマツミの神、左の足に出現した神の名はハラヤマツミの神、右の足に出現した神の名はトヤマツミの神であります。マサカヤマツミの神からトヤマツミの神まで合わせて八神です。
 そこでお斬りになつた剣の名はアメノヲハバリといい、またの名はイツノヲハバリともいいます。
 イザナギの命はお隱れになつた女神にもう一度会いたいと思われて、後を追つて黄泉の国に行かれました。そこで女神が御殿の組んである戸から出てお出迎えになつた時に、イザナギの命(みこと)は、「最愛の私の妻よ、貴方と共に作つた国はまだ作り終らないから還つていらつしやい」と仰せられました。
 しかるにイザナミの命(みこと)がお答えになるには、「それは殘念な事を致しました。早くいらつしやらないので私は黄泉の国の食物を食べてしまいました。しかし貴方様がわざわざおいで下さつたのですから、何なんとかして還りたいと思います。黄泉の国の神様に相談をして參りましよう。その間わたくしを御覽になつてはいけません」とお答えになつて、御殿の内にお入りになりましたが、なかなか出ておいでになりません。
 あまりお待ちだったので左の耳の当たりにつかねた髮に插さしていた清らかな櫛の太い歯を一本闕(か)いて一本火(び)を燭(とぼ)して入つて御覽になると蛆が湧わいてごろごろと鳴つており、頭には大きな雷が居、胸には火の雷が居、腹には黒い雷が居、陰にはさかんな雷が居、左の手には若い雷が居、右の手には土の雷が居、左の足には鳴る雷が居、右の足に跳ねている雷が居て、合わせて十種の雷が出現していました。
 そこでイザナギの命が驚いて逃げてお還りになる時にイザナミの命は「私に辱をお見せになつた」と言つて黄泉の国の魔女を遣やつて追おわせました。
 よつてイザナギの命が御髮につけていた黒い木の蔓の輪を取つてお投げになつたので野葡萄が生はえてなりました。それを取つてたべている間に逃げておいでになるのをまた追いかけましたから、今度は右の耳の辺につかねた髮に插しておいでになつた清らかな櫛の歯はを闕(か)いてお投げになると筍(たけのこ)が生はえました。それを抜いて食べている間にお逃げになりました。
 後にはあの女神の身體中に生じた雷の神たちに澤山の黄泉の国の魔軍を副(え)て追(おわしめ)ました。そこで下げておいでになる長い剣を抜いて後の方に振りながら逃げておいでになるのを、なお追つて、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本まで来た時に、その坂本にあつた桃の実を3つ採ってお撃ちになつたから皆逃げて行きました。
 そこでイザナギの命はその桃の実に、「お前が私を助けたように、この葦原(あしはら)の中の国に生活している多くの人間達が苦しい目にあつて苦しむ時に助けてくれ」と仰せになつてオホカムヅミの命という名を下さいました。
 最後には女神イザナミの命が御自身で追つておいでになつたので、大きな巌石をその黄泉比良坂に塞(ふさいで)その石を中に置いて両方でむかい合つて離別の言葉を交わした時に、イザナミの命が仰せられるには、「貴方がこんな事をなされるなら、私は貴方の国の人間を一日に千人も殺してしまいます」といわれました。
 そこでイザナギの命は「貴方がそうなされるなら、私は一日に千五百も産屋(うぶや)を立てて見せる」と仰せられました。
 こういう次第で一日にかならず千人死に、一日にかならず千五百人生まれるのです。かくしてそのイザナミの命を黄泉津大神(よもつおおかみ)と申します。またその追いかけたので、道及(ちしきの)大神とも申すという事です。その黄泉の坂に塞(ふさがつて)いる巌石は塞いでおいでになる黄泉の入口の大神と申します。その黄泉比良坂というのは、今の出雲の国のイブヤ坂という坂です。
 身禊(みそぎ)
 イザナギの命は黄泉の国からお還りになつて、「私は隨分厭な穢(きたない)国に行つた事だつた。私は禊をしようと思う」と仰せられて、筑紫の日向(ひむか)の橘の小門()おど)のアハギ原にお出でになってて禊をなさいました。
 その投げ棄てる杖によつてあらわれた神は衝立たつフナドの神、投げ棄てる帯で現れた神は道のナガチハの神、投げ棄てる袋で現れた神はトキハカシの神、投げ棄てる衣で現れた神は煩累(わずらいの)大人(うし)の神、投げ棄てる褌(はかま)で現れた神はチマタの神、投げ棄てる冠で現れた神はアキグヒの大人の神、投げ棄てる左の手につけた腕巻で現れた神はオキザカルの神とオキツナギサビコの神とオキツカヒベラの神、投げ棄てる右の手につけた腕巻で現れた神はヘザカルの神とヘツナギサビコの神とヘツカヒベラの神とであります。
 以上フナドの神からヘツカヒベラの神まで十二神は、お體(からだ)に付けていたあつた物を投げ棄てられたので現れた神です。
 そこで、「上流の方は瀬が速い、下流の方は瀬が弱い」と仰せられて、真中の瀬に下りて水中に身をお洗いになつた時に現れた神は、ヤソマガツヒの神とオホマガツヒの神とでした。この二神は、あの穢い国においでになった時の汚垢(けがれ)によつて現れた神です。次にその禍(わざわい)を直(な)おそうとして現れた神は、カムナホビの神とオホナホビの神とイヅノメです。次に水底でお洗いになつた時に現れた神はソコツワタツミの神とソコヅツノヲの命、海中でお洗いになつた時に現れた神はナカツワタツミの神とナカヅツノヲの命、水面でお洗いになつた時に現れた神はウハツワタツミの神とウハヅツノヲの命です。
 このうち御三方のワタツミの神は安曇氏(あずみうじ)の祖先神です。よつて安曇の連(むらじ)達は、そのワタツミの神の子、ウツシヒガナサクの命の子孫です。
 また、ソコヅツノヲの命・ナカヅツノヲの命・ウハヅツノヲの命御三方は住吉神社の三座の神樣であります。
 かくてイザナギの命が左の目をお洗いになつた時に御出現になつた神は天照大神、右の目をお洗いになつた時に御出現になつた神は月讀(つくよみ)の命、鼻をお洗いになつた時に御出現になつた神はタケハヤスサノヲの命でありました。
 以上ヤソマガツヒの神からハヤスサノヲの命まで十神は、お體をお洗いになつたので現れた神様です。
 イザナギの命は大変にお喜びになつて、「私は随分沢山の子を生んだが、一番しまいに三人の貴い御子(みこ)を得た」と仰せられて、頚に掛けておいでになつた玉の緒をゆらゆらと揺らがして天照大神にお授けになつて、「貴方は天をお治めなさい」と仰せられました。この御頚に掛かけた珠(たま)の名をミクラタナの神と申します。
 次に月讀の命に、「貴方は夜の世界をお治めなさい」と仰せになり、スサノヲの命には、「海上をお治めなさい」と仰せになりました。
 それでそれぞれ命ぜられたままに治められる中に、スサノヲの命だけは命ぜられた国をお治めなさらないで、長い鬚(ひげ)が胸に垂れさがる年頃になつてもただ泣きわめいておりました。その泣く有様は青山が枯山になるまで泣き枯らし、海や河は泣く勢いで泣きほしてしまいました。そういう次第ですから乱暴な神の物音は夏の蠅が騷ぐようにいつぱいになり、あらゆる物の妖(わざわい)が悉く起りました。そこでイザナギの命がスサノヲの命に仰せられるには、「どういうわけで貴方は命ぜられた国を治めないで泣きわめいているのか」といわれたので、スサノヲの命は、「私は母上のおいでになる黄泉の国に行きたいと思うので泣いております」と申されました。そこでイザナギの命が大変お怒りになつて、「それなら貴方はこの国には住んではならない」と仰せられて追い払ってしまいました。このイザナギの命は、淡路の多賀(たが)の社(やしろ)にお鎮になつておいでになります。
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