🏯6)─1─悪意に満ちた徳川暗黒史観。~No.10No.11・ @ 

国家戦略とインテリジェンス いま日本がイギリスから学ぶべきこと

国家戦略とインテリジェンス いま日本がイギリスから学ぶべきこと

  • 作者:奥田 泰広
  • 発売日: 2016/04/15
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
   ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 欧米の日本学系譜。知日派の、多数派は反日で、親日は少数派である。
   ・   ・   ・   
 日本が、西洋と出会って得たモノは光り輝く貴重なモノが多かったが、その裏で恐怖に声を失い腰を抜かす事も多々あった。
 戦国時代の、日本人を奴隷として中国・東南アジア・インド・メキシコなどに売り飛ばした日本人奴隷と火縄銃・大砲・火薬の交易であった。
 男は、労働奴隷か傭兵として。
 女は、性奴隷か召使いとして。
 東南アジアに突如として出現した日本人町とは、奴隷として売られて行った日本人達の下層民部落であった。
 江戸幕府後期の、ロシア帝国北方領土で行った海賊行為と日本人及びアイヌ人への殺傷事件である。
 徳川幕府は、日本人奴隷売買を禁止する為に限定的鎖国を断行した。
 明治新政府は、狂暴にして凶悪なロシア帝国の侵略に備えて、平和共存路線の徳川幕府を打倒して軍国主義国家へと暴走した。
 ロシアの日本侵略に手を貸す反日派朝鮮を併合し、ロシアと秘密反日軍事協定を結んだ清朝(中国)を敗北させた。
 そして、日本をロシアなどの外敵から防衛する為に、反日派諸国を攻め滅ぼし親日派政権を樹立して、親日派諸政権と攻守同盟を結ぼうとした。
 それが、大東亜共栄圏構想であった。
 天皇制度国家日本にとって、限定的鎖国の断行も軍国主義国家への暴走も攻守同盟の大東亜共栄圏構想も全てが、ロシア及びソ連中国共産党共産主義勢力に対する自衛行為であった。
 現代の日本の日本史学界はもちろん諸外国の日本学界も、この紛れもなき真実である暗黒史を日本罪悪史観・日本侵略者論を正当化する為に抹殺し、世界の正義と人類の平和の大義の為に歴史の闇の彼方に追放した。
 非白人非キリスト教徒の日本人は、他のアジア人やアフリカ人同様に奴隷として売られて当然である、と。
 天皇制度国家日本は、ロシアに侵略され国土を奪われて当然である、と。
   ・   ・    ・   
 2017年2月号 Hanada「昭和の戦後精神史 (6) 西洋日本史学者の中のノーマン  平川?弘
 マードックとサムソンとノーマン
 ここでかぎられた私の知見だが、ハーバート・ノーマン(1909ー1957)を広く西洋の日本史学者の間で位置づけたい。
 西洋の日本史研究の権威だった英国の外交官ジョージ・サムソン(1883ー1965)はチェンバレン、サトウ、アストン以来の英国が誇る日本学の後継者であった。大正末年ジュネーヴに隠棲(いんせい)しているチェンバレン(1850ー1935)を訪問したとき、76歳のチェンバレンから『日本のことを解釈して西洋へ伝える事業は、これから先は君に期待する』といわれて33歳年下のサムスンは感激した。
 そんなことがあっただけに1940年、E.H.Normann,Japan’s Emergence as Modern State が出たときは、今度は自分がそれと同じ言葉を26歳年下のノーマンに向けて言いたいと思った。サムソンはノーマンのほかの小著に序も寄せており、1950年、67歳になった時の自著『西欧世界と日本』では再三ノーマンの『日本における近代国家の成立』の名をあげている。
 だがノーマンに対する期待は結局は失望に終わったらしい。サムソンは82歳で亡くなるが、その前年の1964年に三巻本A History of Japan(Cresset Press)の最終巻を出した。ところがそこで後輩の日本学者で特に言及したのは『坂本龍馬明治維新』のマリウス・ジャンセンと『日本人の西洋発見』のドナルド・キーンであり、先輩の日本学者としてあげたのは(前にはきわめて否定的に言及したことのある)ジェームズ・マードック(James Murdoch、1856ー1921)であった。サムソンはこの三巻本『日本史』を書き始めた時に、外国人の日本史学者としての自分の任務を次のように限定した。

 最近、歴史の哲学についていろいろとたくさんの文章が書かれ、結構面白い読み物となっている。しかしその種の文章は、自分が属している文化とは違う、現在の他の文化を叙述しようとする歴史学者にとっては実際上なんらの指針も提供してくれない。問題にぶつかって格闘している東洋学者は哲学者たちが扱う領域内に姿を現わしたりはしない。実際問題に取組んでいる東洋学者は、人間社会について理論的な想定を下すことを慎み、もっぱら叙述的に語る方が賢明なのではあるまいか。(第一巻 preface)。

 これは当時評判のアーノルド・トインビー(1889ー1975)などの歴史哲学者風の発言や予言に対する警戒だけでなく、科学的と自称する唯物史観風の理論的アプローチに対する疑念の表明でもあったろう。発展段階説や進歩史観に基く理論的な想定はむしろ西洋人の東洋史理解の妨げになるとサムソンは思ってたに相違ない。
 暗黒の徳川か、
 平和な徳川か
 ここで学問上の隠語(ジャルゴン)は使わず、内外の日本史家たちをごく簡単に色分けしてみよう。ここで提出するリトマス試験紙はあまりに単純に過ぎて、ドイツ風のこちたき観念操作の常習者となった政治史学の先輩諸氏には気がひけるが、徳川を暗黒の時代と見るか、平和の時代と見るか、という分類である。
 徳川暗黒史観とは、明治の躍進を讃える内外の人が日本の西洋化を肯定した結果、維新の前と後とのコントラストを強調して生まれた見方でもある。文明開化を謳歌(おうか)する気持の裏返しであり、西洋近代を光の中心とするから、それに目が眩(くら)むと、東洋の封建社会はことごとく迷妄暗愚(めいもうあんぐ)の闇となる。それは西洋人キリスト教徒の宣教史観であるだけでなく、日本の西洋志向の知識人にも受け入れられた文明開化史観でもあった。
 『大に西洋文明の空気』を日本に吹き込み、日本社会の改進進歩に貢献したと自負する福澤諭吉は自伝の結びで嬉し涙をこぼしているが、福澤は進歩がまだ希望であった頃に生きた人で、その種の文明東漸(とうざん)史観は戦後のわが国を支配した進歩主義の考え方と通底していた。だが明治維新を境に黒白二分して徳川時代をただネガティヴに見る史観には危険な落とし穴もあった。
 かつてマードックは『重要な真実は、ただ単にあまりにありきたりの真実であるがために、かえって見逃されている』といって、『日本歴史』の緒論(1910年)で徳川時代の日本の明るさを同時代のヨーロッパに比べてこう説明した。
 
 徳川時代の日本はずっと静謐(せいひつ)な壺中(こちゅう)の春の、言葉にはつくせぬ恵みの数々を味わっていた。たしかに日本の御上は専制的で抑圧的であった。しかしその政府の下で日本国民の9割を構成した農工商の階級に属した人々は、平均的にいって、1789年のフランス大革命以前の西洋の貧しい階級の普通の人間よりは、ずっとましな幸福な生活を味わっていたのである。

 この指摘は人々の虚を衝くから、みな戸惑う。マードック発言はその通りなのだが、あまりにも自明な真実なので、かえって見落とされていた。英国でも辺境の地で貧乏な家に生まれたマードックは英国社会でもはずれ者であっただけに逆に明治末年、こんな少数意見を述べることができたのである。
 社会の身分制と俳諧文化の民主制
 ……
 中国の『裏切り』とマッカーシズム
 1945年8月、対日戦に勝利するや、米国ではグルー国務次官以下の知日派外交官は国務省内の親中国派外交官の手でいっせいに職を追われた。天皇の地位を保全したいという日本側の要求を認めさえすれば米国は早期に対日戦を終結することができるとかねがね主張し、天皇とその周辺に穏健派がいると語ることをやめないグルーに対しては、グルーは日本側に騙された駐日大使というレッテルが貼られた。
 敗戦後、昭和天皇の戦争責任追及を唱えたのもその親中派ジャーナリズムや国務省内の中国派である。後に国務長官となったディーン・アチソンもその意見だった。ただしプロ・チャイナ・グループもじきに割れた。蒋介石を支持するチャイナ・ロビー派と延安の毛沢東を支持する派とに分かれたからである。だが1949年10月には中華人民共和国が成立したことから風向きが変わり出し、親中派に対する風当たりがにわかにきつくなった。
 それというのは1950年2月、共和党上院議員マッカーシー国務省内の共産主義に好意を寄せる赤色分子2百余名の追放要求を皮切りに『赤狩り』を始めたからである。それがヒステリカルな猛威を振るったのは、親米のはずと思い込まされていた中国が共産党支配の下に陥(おちい)り、ソ連と同盟を結び、さらには北朝鮮軍を支援して中国義勇軍が米国軍と戦うにいたったからである。事の意外に『中国喪失』Ioss of China責任追及が白熱化した。そんな心理的側面があったからこそマッカーシー旋風は荒れに荒れたのである。
 マッカーシー国務省内の赤色分子を追求しようとした時、かねて国務省中国派に恨みのあった日本派のユージーン・ドゥーマンが活躍するが、ドゥーマンは日本の中学を出、戦前の東京米国大使館でグルー大使につぐナンバー・ツーの参事官であったのみならず、グルーの日本語通訳もつとめた。グルーは最後まで日米戦争は不必要であり、米日両国には国益上の共通点がある以上、相互の調整は可能であると信じていた人である。ドゥーマンも戦争回避のためにグルーの全幅の理解と信用を得て働いた。そのころ英国大使館参事官であったサムソンは上司クレイギー大使の理解が得られず苦しんだ人だけに、グルーの信任を得ているドゥーマンが羨ましくてたまらなかった、と回想に出ている。
 ……
 こんあこともあった。1979年であったか、米国東部地区の日本学会でドゥーマンについて発表があり、マーリン・メイヨーが『世間はマッカーシー上院議員親中派赤狩りを猛烈に非難するが、1945年当時のチャイナ・スクールによるやり口もそれはひどかった。日本の穏健派の弁護をする者は容赦なく地位を追われた』という趣旨のコメントをした。……
 21世紀にはいって米国ではマッカーシーの赤色スパイ追求は本当に間違いであったのか、という書物がまた出ている。
 ……ソ連邦の崩壊にともない西側に流出した資料、中国スパイの証言、公開されたFBI文書などを吟味すると、ラティモアマッカーシーの主張の方が正しかったようだと出ている。あり得ることかと思うが、私の知識では確信をもって是非を言えることではない。ただ日本語訳もあるハーマンのほかの著書から推していえることは、著者ハーマンは目配りのよい学者で極端なことを主張する歴史家ではないということである。
 ノーマン家の人
 ……」


   ・   ・   ・   

イギリスで「平和学博士号」を取った日本人

イギリスで「平和学博士号」を取った日本人