🌈3)─1─日本文明は支那文明(中華文明)に対する対抗文明(批評文明)である。~No.4No.5 

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 日本文明は、中華文明で説かれていた「天命論」を拒否した。
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 日本には、中華世界とは全く違う生き方で生活していた。
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 2017年9月号 正論「追悼 岡田英弘
 『歴史は文化』 近代史学へのアンチテーゼ 小川榮太郎
 ……
 『中国史』のウソを暴く
 『中国』といふのは中華民国以降の国号に過ぎず、その歴史を通覧するには支那といふ呼称を取るべきだといふ、いはばごくナイーブな主張だけでも、現代の保守層には歓迎されるだろう。さらに、氏は『中国5千年』と言ふが、そんな数字には何の根拠も無いと言ふ。『実際には、支那というものの成立は比較的新しく、エジプトやメソポタミアとは比べ物にならない。紀元前221年に秦の始皇帝が北の黄河の流域から南の長江の北岸に至るまでを統一し、その地域に散在していた都市を統合した。これが支那の起源である、それ以前、つまり支那統一以前に支那は存在せず、都市の住人も現在我々が考えているような漢人(中国人)ではなかった。』(『シナとは何か』83頁)
 この主張の延長上に、支那の歴史が漢人による一貫した歴史では全くない事、特に後漢が滅んだ後、五胡十六国時代に人口が10分の1に激減し、事実上、民族の入れ替へへが起こった。その後支那の広域を統一した隋も唐も北魏出身の鮮卑族が建てたものだ。更に、元はモンゴル、清は満州族だが、それのみならず漢人の国と言われる明でも、その漢人は古代の継承者ではなく、五代十国時代に漢族だと自称し始めた人達に過ぎない。元は中原に本拠地を置いたといふよりは、モンゴルが遊牧生活のまま中原まで支配を及ぼしただけであつて、元といふ支那の国家が誕生したりしたわけではない。モンゴルの側から言へば、領土が中原まで拡大した時期の、中国に該当する部分が元といふだけだ。──要するに、氏によれば支那史には巨大民族の一貫した歴史や国家の継承はない。
 かうした中華イデオロギーの否定は、朝日新聞系の反日媚中の言論空間では殆どタブーに近いのだらう。朝日新聞で全く歓迎されざる人だつたのは致し方ないかもしれない。
 保守派からの疑念
 が、一方、保守派からの喝采もここまでである。
 氏の支那論から、日本史論に目を転じれば、保守派が容認できない議論が幾つも見られるからだ。
 ……
 日本古代史論を見れば、保守派の中で、岡田史学への疑念が生じるのもまた止むを得ないのである。
 氏の説や視点は、斬新で、盲点を衝くものがある一方で、個々の考証に関して疑義の生じる断定が見られるのはなぜなのか。
 ……
 歴史は科学ではない
 しかし、時に目につくかうした見解の奇矯さに躓(つまず)くのは余りにも勿体ない。
 なぜならば、氏の史学には、全く類例のない構想力があるからである。世界記述の先端を行く──あるいは従来の歴史の見方そのものを根底から覆す巨大な知的マグマが蔵されているからだ。
 岡田市は『歴史は文化だ』と断じずる。
 これは、近代史学の『歴史は科学だ』といふ臆断への強いアンチテーゼである。氏によれば、歴史とは、過去の事実の集積ではなく、それを生み出す社会に固有の文化なのだといふ。
 氏はその考へを次のように定義して見せる。
 『歴史とは、人間の住む世界を時間と空間の両方軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で把握し解釈し、理解し説明し、叙述する営みの事である』(『世界史の誕生ちくま文庫、32頁)
 一見、当り前に見えるかもしれない。
 が、全くさうではない。
 歴史が『人間の住む世界』を、『直接体験』を超えた『時間と空間の両方軸に沿った』、解釈し、理解し、叙述するものだとすれば、時間と空間の設定からして、妥当性が絶えず問はれる不安定な営みだといふ事にならざるを得ないからだ。
 大多数の歴史学者が、西洋史や中国史、日本史といふ枠組み──いや、歴史学の専攻範囲は年々狭くなり、江戸時代などの単位どころか、たつた数十年、また一つの藩の帳簿や農民一揆の詳細などへと狭小化し続けている──の中で思考するのに対し、氏は、歴史を記述するとはそもそもどういふ営みなのかを抜きには歴史家である事ができぬ人だつた。
 なるほど歴史記述の学的流行の変遷は絶えずある。が、例へばこの数十年の、西洋の主流史学に対するアナール学派ミシェル・フーコーらの意義申立ては、歴史の解釈権──歴史記述の権力──を巡る闘ひに過ぎないと私には思はれ、歴史とは何かといふ根源に遡及する問ひの力を、読んでいて感じた事はない。
 岡田氏の『歴史』への異議申立ては、寧ろ、さうしたあるイデオロギーに立つた歴史の書き換へではなく、『歴史』といふ営みそのものの見直しに他ならなかつた。
 一言で言へば、『歴史』記述といふのは、決して人類にとつて普遍的な営みではない、それは寧ろ特殊な営みだつたのだといふ自覚に遡れとうふのが氏の主張の核心なのである。
 歴史といふ文化
 なるほどさう言はれれば、さうである。
 『歌謡』や『舞踏』は人類に普遍的な営みである。どんな民族でも、固有の歌や踊りを持つている。『神話』もさうだ。何らかの意味で民族や部族の由来、それも神的な由来を持たない民族は存在しなかろう。また、歌謡や神話の錬成から生じる『詩』も、書き言葉の有無を超えどの民族もが所有している。
 ところが、歴史はそうではない、それどころか岡田氏は繰り返し次のように主張する。
 『18世紀までの世界では、自前の歴史という文化を持っている文明はたzつた二つしかなかった。一つは中国文明で、もう一つは地中海文明だ。……司馬遷ヘロドトスの二人は、それぞれまったく独自に、それ以前にはなかった歴史というジャンルを創った天才である』(『歴史とは何か』文春新書、33頁)
 『史記』は『大史公の記した文書』の意だが、大史公は史家ではなく、司馬遷自身は宮廷占星術師長だつた。逆に、この書物によつて、『史』に『歴史』の意味が付されたのである。
 事情はヘロドトスの『ヒストリアイ』でも変わらない。ヒストリアイの意味は調査・研究だつたが、この書物が出現した事によつて、以後、ヒストリアイに『歴史』といふ意味が付されるやうになつたのである。
 岡田氏の重大な指摘はまだ続く。
 この二人の出現は両文明の歴史記述のあり方そのものをも規定したといふのだ。
 支那の歴史把握は、その後、司馬遷の記述方式のみならず、歴史観そのものを踏襲する事になり、地中海世界が崩壊した後それを継承したヨーロッパも、ヘロドトス的な歴史記述の枠組みを現在まで踏襲する事になつたといふのである。
 司馬遷が発明した史観は『天命を受けた正統な王朝が歴史を継ぐ』といふものだつた。
 〈神話の皇帝と現実の武帝とを?ぐものは、正統という観念である。これを司馬遷が採用してから、正統は中国文明歴史観の根本になった。中国文明歴史観は正統の歴史観だ。……その正統は五帝の時代には禅譲によって、賢い天子から賢い天子へと譲られて伝わってきた。それがその後、夏王朝、殷、周、新という風になると、天子の位は放伐、つまり追放や征伐によって奪い取られ、勝った方に天命が与えられ、負けた方からは天命が取り去れらる。これが本来の革命で、『革』は取り去るという意味である。〉(前掲書35頁)
 司馬遷は、『史記』で歴史を正統と易姓革命の循環として記述し、現在の統治者である武帝が、さうした正統を継ぐ天子だとした。現天子の正統性の正統性の立証が史書の役割となれば、修史は国家事業となる。また、そうなれば歴史記述が現王朝の正統性といふ目的に強く拘束されるのは当然である。歴史は政治の下位い置かれる。司馬遷には歴史理念を自ら創出した思想的緊張と、人物を描く迫真のリアリティーがあつたが、そういふものは後になれば必ず形骸化する。寧ろ形骸化した歴史記述ほど政治的に強い武器はない。
 一方、ヘロドトスの『ヒストリアイ』の歴史観は岡田氏によれば次のように要約できる。
 『その一は、世界は変化するものであり、その変化を語るのが歴史だということ。
 その二は、世界の変化は政治勢力の対立・抗争によって起こるということ。
 その三はヨーロッパとアジアは永遠に対立する二つの勢力だということ。』(前掲書59頁)
 岡田氏は、『史記』の場合と同様、この歴史記述の枠組みそのものが、その後の西洋の歴史記述を決定したとする。なるほど、近代史学は世界の変化に着眼する。そして、変化が政治的対立によって起きるとすれば、記述者はどうしても対立のいづれかの側に立つ事になる。ランケのやうなドイツ実証史学はかつて政治的保守主義と結び付いたが、概して近代の歴史記述は変化を促進する側を是とする進歩史観が優勢である。さうすると、第3のヨーロッパ対アジアの図式が、19世紀以来今日までの、進歩する欧米対変化を嫌ふアジアという形で、現代の西側主導のアカデミズムや国際ジャーナリズムを強く拘束している事も、ヘロドトスに由来する気の遠くなる程遠大なイデオロギーの一部なのだと理解できよう。
 モンゴルから世界史が始まる
 が、氏の凄さは、かうした指摘に留まらず、このイデオロギーの乗り越えを自ら構想してしまふ所にある。岡田氏によれば、今日までの『世界史』なるジャンルは、司馬遷を始祖とする東洋史ヘロドトスを始祖とする西洋史を不器用に接合しただけで、近代世界の時空に応じた構造をまだ獲得していない。
 そこから、岡田氏の『モンゴルから世界史が始まった』といふ構想が現れるのである。氏は、中央アジア遊牧民が東西に文明を誘発し、その後、チンギスハン以来のモンゴルの発展と巨大な膨張が、東洋と西洋とを架橋し、支那、ロシア、インド、トルコなどの国家の原型を提供し、つひに『世界史』といふ巨大な単位を生み出したのだといふ。
 かうした構想は、和漢洋の学語のみならず大陸多言語の史書を通読できる氏のやうな言語の天才にして可能なもので、私の論評能力を超える。が、これが『西洋の東漸・世界支配による「世界史」の誕生』といふ一元的な理解を覆し、寧ろ、その前に『大陸の内部で育った世界史』があつたとする、世界史記述のパラダイム転換の極めて興味深い試みである事は確かだろう。
 そしておそらく、この構想は司馬遷史観とヘロドトス史観を統合するといふ以上の意味を持つ。岡田氏は『歴史は文化だ』と言い続けたが、私は寧ろ歴史はイデオロギーであり、歴史は政治だとさへ言ひたい気持を近年強くしている。昨今の欧米、中韓の遠慮会釈ない歴史の悪用が、私の静かな歴史観──史学としてはランケ、ブルクハルトに代表され、文学者の歴史観としては小林秀雄に代表されるやうな──を激しく動揺させている。近代史をモンゴルから記述しようとする岡田史学は、その試み自体が、西洋の歴史支配へのアンチテーゼとなり、歴史のこれ以上の政治的悪用への大きな抑止となり得るのではないか。
 一方、日本史を支那文明圏の中に位置づけるべきだといふ岡田史学の構想も我々後学に残された課題である。
 岡田氏によれば日本は支那の対抗文明であるといふ。
 対抗とは批評である。批評は、いふまでもなく高度な営みであつて、それが可能だけのオリジンが日本になければ成立し得ない。対抗文明とは派生文明ではあるまい。我々は、記紀万葉や、飛鳥・天平仏教文化を、支那の理解を前提せずに、独自の価値として充分深く味はへる。無論、比較文化的な影響は幾らでも指摘できるが、価値の自律性がそのやうな影響を完全に超えているからだ。
 例えば『日本書紀』は、『史記』の単純な模倣ではない。
 何より重要なのは、書紀が易姓革命による正統の移動といふ歴史観を否定し、万世一系を打ち出している点だ。
 もし岡田氏のいふやうに『日本書紀』に創作の要素が強いならば、現王朝の正統性を強く打ち出す為に易姓革命を勝ち抜いてきたといふ歴史を捏造する事も可能だった筈である。易姓革命の勝者として天皇家の神格を打ち出す事も可能だった筈である。それによって、易姓革命を数度経た支那の現王朝に対抗する日本の王朝の正統性を主張する道もあつたであろう。
 にもかかはらず、なぜ日本では支那の原理を寧ろ否定する万世一系が主張されたのか。──かうした日本の独自性の由来は、縄文時代の研究や古墳文化の盛衰、とりわけ記紀万葉の綿密な読み、飛鳥以降の仏教文化の特異性などを、深く支那文明圏の中に置いてみなければ見えてこない。これが岡田氏の日本論から我々が与へられた宿題であろう。
 イデオロギーから自由な歴史
 さて、以上、氏の史学はモンゴル、支那、日本と極めて広域だが、その本質は司馬遷ヘロドトス──日本の場合は書記──のイデオロギー的な拘束から『歴史』を自由にする事だったと要約できる。
 そして、実はそうしたイデオロギー批判者としての岡田さんの仕事をこの度幾つか読み返しながら、私の脳裏をしきりに去来したのは、対極的な歴史の信じ方をした人としての本居宣長であり、晩年宣長を祖述し続けた小林秀雄の事だつた。宣長は、岡田氏が偽書と断定した『古事記』を生涯掛けて訓読した人だ。岡田氏は『古事記』は平安朝に成立した偽書であり、宣長の訓は創作だとし、これは優れた文学ではあるが、史書ではないと言つた。
 ここに歴史と文化といふ古典的な主題が出現する。
 宣長の営みは歴史なのか、文学なのか。
 宣長は『古事記』に寄り添ひ、これをまづ信じた。イデオロギーをひつくるめて、その内部に無条件に沈潜した。小林秀雄はその宣長の営みをこれ又無条件に信じ、宣長の中で生じた精神のドラマに沈潜した。それが彼の『本居宣長』である。ここには二重の身の重ねあはせが起きている。
 歴史は、イデオロギーから自由にし、より広範なリアリズムの世界に広げてゆかうとする岡田史学に対して、宣長=小林は、対象の世界に寧ろ完全に一体化する道を行つた。
 では問ひたい、信仰はつひには文学であつて歴史の真実には通じないのか。
 だが、そもそも、岡田氏の史学は歴史の文化性への着目に始まつた筈である。実際に、我々人間は、歴史が叙述するやうな時間を生きてはいない。自分の年表を書きつけている人はさういまい。日記は書いていても、それを時系列で纏(まと)めて自己把握する人間も殆どいない筈だ。我々自身は時間に埋没して生きている。時間軸に沿った世界理解は、どこまで行つても我々人類にとつては特殊な技術に属し、しかも消えた過去を蘇らせる事は、主観的な営みにならざるを得ない。畢竟、歴史は時間の記述といふ極度に不安定な基盤に立つた営みなのだ。
 ならば、歴史を俯瞰する最も巨大な構造を手に入れようとする岡田氏と、逆に徹底的に俯瞰を拒否して過ぎし日の言の葉に沈潜する宣=小林とは、その不安定さの両極を歩いた人だつたとは、言へまいか。・・・
 拙い文で恐縮だが、氏の学恩に感謝しつつ筆を擱く。」
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 天皇制廃絶を目指す反天皇反日的日本人は、万世一系天皇中心とした民族史観ではなく、民族主体性を否定した天命を正統性とする中華史観の信奉者である。
 反天皇反日的日本人は、日本民族的な思考・発想を持たず、漢人=中国人に限りなく近い思考・発想で行動している。
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 天命は、中華世界の主宰者・皇帝としての正統性を、漢民族だけではなく異人種異民族にも平等に下した。
 ゆえに、漢人ではない、トルコ系鮮卑人、モンゴル人、満州人でも中華皇帝に即位し王朝を開いた。
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 日本民族的思考・発想と漢人=中国人の思考・発想は、お互いが幾ら話し合ったとことで理解し交わるところは決してない。
 漢人=中国人の思考・発想に近いのは、日本民族ではなく朝鮮人・韓国人である。
 それ故に、朝鮮人漢人=中国人の下僕のように属国人・従属人になったが、日本人は自主独立国の住人とて自立していた。
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 2017年8月15日 産経ニュース「【終戦の日】反天連デモに抗議の声200人 「帰れ!」「つぶせ!」靖国神社近くで飛び交う罵声
 「天皇制反対」などと書かれた赤いバナーを掲げてセブンイレブン前に陣取った右派系団体の人々の前を通り過ぎる反天連のデモ隊=15日、東京都千代田区(三枝玄太郎撮影)
 72回目の「終戦の日」を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が開かれた東京都千代田区日本武道館からほど近い九段下の交差点に、右派系団体のメンバーら約200人が集結した。毎年8月15日に靖国神社近くで「天皇制いらない」などとシュプレヒコールを上げてデモ行進する反天皇制運動連絡会(反天連)のメンバーに抗議する、いわゆる「カウンター」と呼ばれる人たち。英霊を慰める終戦の日靖国神社近くではシュプレヒコールや怒号が飛び交った。
 午後5時ごろ、九段下交差点を通りかかった反天連のデモ隊約80人は口々に「天皇制反対」「安倍はやめろ」とシュプレヒコールを繰り返しながら前進。これをかき消すように交差点そばの歩道に陣取った「行動する保守運動」のメンバーら約200人が「帰れ」「反天連つぶせ」「国賊」などと怒号を上げて抗議した。
 警視庁は一時、交通を遮断し、歩行者をくぎ付けにする方法でデモ隊を通過させた。デモ行進の際、所々で「行動する保守運動」以外の右翼団体の関係者らが怒号を浴びせる中、大きな混乱もなくデモ隊はデモを終えた。
 日本第一党桜井誠党首(45)は「数の問題ではないが、今回の反天連のデモ隊は前年より減って70〜80人ほどだった。私たち抗議運動は当初、数十人で始めたが、今はこれだけの人が抗議の声を上げるようになった」などと演説すると、沿道から「桜井」コールが起こった。(WEB編集チーム)」



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