🏕5)─1─自然災害多発地帯の宗教は、多様性のある多神教で絶対性と相対性を融合させ、直感と客観そして寛容と協調で対応した。~No.8No.9 @ ②

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 自然多発地帯では、絶対神の奇跡も恩恵も恩寵も無力で、救世主も存在しない。
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 自然災害は、絶対神の御業。
 自然災害は、キリスト教を拒絶する日本民族日本人への天罰。
 日本民族日本人は、拭えない罪悪を誕生するはるか以前から背負っている。
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 日本国と日本民族日本人の特性・特徴を決定付けたのは、世界でも有数の自然災害多発地帯という逃亡不可能な閉鎖された絶海の孤立した列島という自然環境であった。
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 自然災害は、一つだけではなく、幾つも複数で表れ事もある。
 絶対神に幾ら祈っても、自然災害の一つも消える事はない。
 巨大台風は来るし、火山は大噴火して溶岩が流れ出し火砕流が起き。大雨が降れば洪水や山崩れが起き、大雪になれば雪崩が起き、大地震が起きれば大津波が襲う。、
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 寺田寅彦「国家の安全を脅かす敵国に対する国防策は現に政府当局の間で熱心に研究されているであろうが、ほとんど同じ様に一国の運命に影響する可能性の豊富な大天災に対する国防策は政府の何処で誰が研究して如何なる施設を準備しているかはなはだ心許ない有り様である」(『天災と国防』)
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 天地創造絶対神は、このうち一つでも一瞬で消し去る事は出来ない。
 自然災害の神々は、霊験で祈願した者に御利益を与えた。
 日本には、普遍宗教的な信仰は根付かない。
 日本に生まれたのは、畏敬の念で祀り信頼して崇拝する事であって、教祖・教義・戒律で絶対服従を誓って信仰する事ではなかった。
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 唯一絶対神の世界では、絶対神が人より偉く、絶対神の法に支配され、絶対神との契約で信仰し、絶対神の法と信仰を守る事で最後の審判で救われ天国に召された。
 古代的中華世界では、神より人が偉く、完璧な聖人君主が天子とり、善悪の基準を定めて社会を統治した。
 唯一絶対神社会は神中心の「法治」社会であり、古代中華社会は人間中心の「人治」である。
 日本には、唯一絶対神の法もなく、人間中心の善悪基準もなく、自然の掟があるだけであった。
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 自然災害多発地帯に生きる日本人は、神に幾ら祈った所で救われないし、死から逃れられない事をを実感で知っていたが、発狂したくなるような現状への恐怖心から、目の前に現れた見ず知らずの宗教や縁もゆかりもない神仏に、信じ、信仰していないにもかかわず、自分の知らない霊力・神力で救ってくれるようにと「おもわず」と祈ってしまう。
 自然災害の猛威の前で如何なる神仏も無力と知っていた日本人は、それでも、如何なる神仏も無条件で信じていた。
 他人が信仰している神仏には何処か取り柄があるのだから、自分もその「おこぼれ」に預かりたいが故に、神仏と言われるのだからたぶん「寛容」なのだから粗末にしなければ、ちらりと横目で見て微笑んでくれるに違い無いという「ゲス」の下心で祈った。
 日本人の信仰心とは、その程度の事である。
 古田博司「私が生きているのは、私という個体の『向こう側』に行かされているのです。『こちら側』だけで生きている意味を見出すことは、恐らくできません」(『使える哲学』)
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 自然は、「在るモノ」ではなく。「成るモノ」であった。
 植物の種は、如何なる環境の地にでも、風任せで舞い降り、根をはり成長して花を咲かす。
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 日本民族日本人は、自然災害多発地帯で生きてきた為に、我を通して自己主張して相手を論破する事が苦手だが、同時に観念的論理で「ああでもない、こうでもない」と訳の分からない理屈を捏ねくり回して時間を費やす事が性に合わなかった。
 単純明快、単刀直入、善し悪しや白黒をハッキリさせないと落ち着けないという「せっかち」な性分から、宗教、哲学、思想、主義主張は生まれなかった。
 日本人は、頻繁に起きる自然災害で何時死ぬかも知れない不幸な身の上なだけに、今生きているこの瞬間が如何に大事であるかを実感する為に、歴史的な神話、寓話、物語を求めた。
 だからといって、歴史を教訓としても教条的に忠実に再現しても甚大な自然災害が発生すれば役に立たない事を知っていた。
 自然災害では、歴史を学び備えても、生き残るにはその時その場所で最善の道を瞬時に見極め躊躇わず行動するしかなかった。
 思い付いたら、あれこれ深く考えずにとにかく実行する。
 行動しながら不備が出たら調整し、間違えば即別の方法に切り替えて行動する。
 それが、自然災害多発地帯で生きる術であった。
 故に、日本には神話、寓話、物語が生まれても、宗教、哲学、思想、主義主張は生まれず根付かなかった。
 自然災害で生き残る為に、一人の神童や天才やではなく、その他大勢の、努力を続ける秀才や凡才が求められた。
 日本列島で頻繁に起きる自然災害の前では、大陸的な宗教、哲学、思想、主義主張は糞の役にもたたなかった。
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 自然災害多発地帯である日本では、幾ら努力しても災害に遭えば全てが無駄になる。
 災害から生き残る為に考えられるだけの事をして備えるが、やれる限りの事をした後は運任せであった。
 ものぐさな庶民は、自分の能力ではどうにも出来ないことに対して無駄な努力をせず、自分の才能で出来る限りの事に精を出したが、後は自分の趣味を見付けて生活を楽しんだ。
 百姓や町民には、サムライとは違って心豊かな趣味人が多かった。
 現代日本にはブラック企業が数多くあるが、昔の日本にはブラック商店はなかった。
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 自然災害多発地帯では、人としての「希望」を大事であったが、神の「奇跡」などは信じてはいなかった。
 自然災害は一つだけではなく幾つも同時に多方面で発生する為に、生き残るには、その全に対して危険を予測する「直観力」と予兆の段階で察して対処する「知能力」と発生後に処理する「行動力」が必要である。
 人智を越えた自然は具体的な脅威でる以上、自然の中に神を観じ、自然を機嫌を損なわない様に穢さず敬った。
 自然が多様に富んでいる為に、災害を起こす必然事象と災害を防ぐ偶然事象があり、更にそれに関わらない第三者的事象もある。
 日本神道は、そうした事象全てに神を立てた多神教である。
 神道における信仰とは、荒れ狂う荒神を鎮め、鎮めようとする和神を励まし、傍観している無意識神に救援を要請する事である。
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 広範囲で発生する甚大な自然災害では、全ての村やムラ人全員を救う事はできない。
 自然災害多発地帯では、どこで被害が起きるか分からず、被害の発生に従ってどの村を犠牲にし、被害の広がりに即してムラ人を見捨てるかを、人の感覚や心理を捨てて瞬時に決めねばならなかった。
 容赦なく多発する自然災害では、その都度、人命に優先順位を付けなければならなかった。
 被害が出た事に対して「初めての経験で仕方がなかった」という政治家などの指導者は、頭脳明晰で人が善くとも、状況の変化に対しも人の感性についても鈍感であり、無能であり有害なでけである。
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 日本民族は、これ以上先には逃げられない世界の最果ての、大陸から離れた狭い列島で生きていた。
 島国とは、非情にも逃げ出せないという閉鎖世界であり、残酷にも耕作地として利用できる土地がごく僅かという閉塞した環境である。
 神道国日本は、古代から人口密度が高い国であったが、神懸かり的自然崇拝宗教のもとで再生可能な生産体制で自給自足社会を維持していた。
 絶えることなく襲い来る異常気象や自然災害で、命の糧である農産物の生産量が減少すれば、否応もなく飢餓におちいり、被災者以上の餓死者を出した。
 「人はパンのみで生きる者に非ず」などと、理知的にしたり顔で済ましていられるほど島国気候は生やさしい自然環境ではなかった。
 日本の農地は、甚大な災害の多い過酷な自然ゆえに、一度破壊されると再生するに多くの労力と時間と費用を必要とした。
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 自然災害多発地帯に生きる日本人は、現場第一とした超現実志向で、実利を重んじて計算高く、指導者に言われなくても自ら率先してその状況に合わせて判断して行動した。
 休む暇なく災害が起きやすい環境ゆえに、ムラ人は、自ら行動せず神や仏を頼りに一心に祈った所で奇跡が起きて助からない事は知っていた。
 日本人は、反宗教無神論者ではなく、その逆に人一倍神や仏を大事にして敬っていたが、宗教では救われない事を肌身で知っていた。
 災害に遭えば、共同作業として、悪人でも善人でも人としてお互いを信じ、苦楽を共にする「仲間」として助け合い庇い合い励まし合いながら、人として自分ができる事・やれる事・やれるべき事を人に言われなくとも全力で行い、あとは運に任せて天命を待った。
 ムラ者社会は、「自助、共助、公助」が大原則である。
 お互いに災害に遭った者として、お互いに支え合いながら切り抜けるが、まずは他人をあてにせず自分で努力する事が求められた。
 自分が助かり、余裕があれば他人を助ける。
 どうにもならない者にはムラ人全員で助けるが、努力をしない怠け者や余裕のある怠慢な者は助けない。
 ムラ人は、皆と一緒に生きようとした。
 ムラ人の楽しみは、村人全員で一つの大鍋を囲んで輪になって座り込み、一緒に飲み食いし、歌い、笑い、そして踊って過ごすことである。
 ゆえに、人々が一つの輪になり心を通わして踊る盆踊りと、西洋の個人技的な社交ダンスとは本質が違う。
 君主・指導者の前で、忠誠の証しとして合同で踊るマスゲームとも異なる。
 盆踊りは仲間内として、支配者や被支配者という上下関係はなく、命じられたままに踊るのではなく、自主的に輪に加わりそして離れる自由がある。
 社交ダンスや合同のマスゲーム的踊りには、その場を支配するオーナーとしてのリーダーシップが存在する。
 盆踊りは、「お互い様」「相身互い」という苦難を共に歩いて乗り越えるという日本文化そのものである。
 自然災害の少ない大陸では、自分だけの信仰を守って一人でも生きて行ける。
 自然災害多発地帯である日本では、一人で生きられず、家族やムラ人と共にでなければ生きて行けない。
 ムラ人が尊敬するのは現場で自ら活動する者であり、最も嫌うのが現場に出ず部屋の籠り観念的空理空論を弄ぶ者である。
 ゆえに、窮民救済に汗水垂らす仏教は受け入れられたが、百姓や職人を小人として愚弄する正統派儒教は拒否した。
 日本では、実社会に役立つ実利的な科学技術の学問が尊ばれて根付いたが、災害対策や社会に貢献しない思想哲学などは見向きもしなかった。
 その意味で、意味のない階級闘争を振りまくマルクス主義者や祈りばかりして金儲けに走る一部のキリスト教会及び宗教団体を嫌悪して、日本から排除した。
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 大陸では。災害が起きれば、迷うことなくその被災地から逃げ出して二度と戻らなかった。
 世界の古代文明は、大半が廃墟の中に放置され、瓦礫と化した遺跡で文明の子孫が生き残って住んでいる所は少ない。
 大陸の文明の大半が現実社会で生きている例は少なく、ほとんどが死滅した文明の遺物として博物館などに陳列されている。
 世界の常識として。被災地の政府は、国内の大混乱に付け込んで侵略してくる敵国の軍隊に備えて、城門を閉め軍隊を集めて臨戦態勢に入り、被災者の救済は絶対神の奇跡に任せて祈って放棄した。
 キリスト教会は、政府にかわり、絶対神の隣人愛から被災者を助け、死に行く者の魂を救済し、死後の世界での永遠の命を保証した。
 しかし。救済対象は改宗者であって、絶対神への信仰を拒否した異教徒ではなかった。
 大陸の祈りとは、天地を創造した絶対神の隣人愛による奇跡と恩寵を期待するものである。
 つまり。救済されるかされないかは、生まれる前から絶対神の御意思で決められているというものである。
 そこには、日本的な「敵に塩を送る」という情に於いて忍びないという情緒が入り込む余地がなかった。
 日本の祈りとは、自分の努力に自然神の恵みと祖先神・氏神の加護を期待するものであり、奇跡と恩寵を期待するものではなかった。
 日本の常識と世界の常識は、異質である。
 当然。日本の神道的常識と中国・朝鮮の儒教的常識も、水と油の様に異なる。
 自然災害多発地帯の飢餓と他人を助けない薄情な日本人。





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