💎31)─1─ベビーカー初詣の賛否。日本社会は、信用しない、油断しない、隙を見せない、人を疑う社会になっていく。~No.153No.154No.155 @ ㉖ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 外国人移民・難民が増えれば、日本民族的な同調圧力や場の空気は消え、日本は全く新し何かに変貌する。
   ・   ・   ・   
 2017年3月号 SAPIO「日本のホコロビ 深川峻太郎
 ベビーカーに小学生かよ!
 ベビーカーは今や日本における対立構造のシンボルである。混んだ電車やバスでの使用をめぐる論争が5年ほど前に勃発して以来、断続的に浮上するこの問題には、『右対左』『男対女』『高齢者対若者層』といった多様な対立が集約されている気がしてならない。
 是非そのものは個々のケースで違うだけの話だと思うが、まあ、一般的には、ベビーカーに冷たいと『不寛容』や『ミソジニー(女性蔑視)』サイドの人間だと見なされる。ものすごーくテキトーに分類しちゃうと、『トランプ風味の人』ですかね。
 そんな先入観がもたらしたのが、年明け早々に発生した勘違い騒動であった。都内のあるお寺が、初詣での『ベビーカーご利用自粛のお願い』を掲示したところ、これがネットで拡散。『差別だ!』『そんなことだから少子化になる!』と大炎上したのだが、後日、実はその寺が2年前まではベビーカーや車椅子での参拝を優先し、専用通路を用意していたことが判明したのである。
 だが、その優遇システムを悪用して抜け駆けする連中がいた。1台のベビーカーに大勢の家族がゾロゾロと連なったり、小学5年生くらいの子をベビーカーに乗せて参拝したり。そのためトラブルが続発し、お年寄りがベビーカーに躓いて怪我をする事故も起きたため、警察からの要請もあって、ベビーカーを規制することにしたという。トランプ風味どころか、本来は『弱者にやさしいお寺さん』だった。
 それはいいのだが、図らずもこの話は、ベビーカー論争が象徴する従来の対立構図とは別の対立軸を炙り出した。それは、コレである。
 『ズルい人対マジメな人』
 思想性も政治性もへったくれもない学級会みたいな話で申し訳ないっす。だが、私はこのニュースに本当にビックリしちゃったのだ。
 マジメな日本人は、日頃からズルい日本人の影に怯えている。駅のホームでもスーパーのレジでも、いつ『横入ラー』が現れるかわからない。とにかく他人を信用できない世の中だ。せめて正月の寺社ぐらい、出し抜かれる心配せずに過ごしたいと思うが、もはやそんなことも言っていられないらしい。イヤだなぁ、疑心暗鬼でギスギスした初詣。
 隙あらばルールの盲点をついて得をしようと考える人間がいるのは今に始まったことではないから、それは別に驚かない。サッカーの『マリーシア』のように、ポジティブに評価されるズル賢せもあるだろう。
 しかし、なにしろそこは寺である。目的は初詣だ。みんな、家族の健康やら商売繁盛やら学業成就やら世界平和やら人類の繁栄やらをお願いしに行っている。
 そんな立場で、寺の善意の裏をかいてどうするというのだ。
 だって、考えてもなさい。
 『へへっ。〈赤ん坊を乗せたベビーカー〉とは書いていないからな!』とドヤ顔で5年生をベビーカーに乗せる夫を、『さすがパパ、アッタマいい〜!』などと妻が称賛しながら優先通路をヘラヘラと進んで行く一家に、仏様のご加護などあるものか。
 そんな卑劣な手段で参拝するのは、盗んだ金を賽銭箱に投じるのと変わらない。早い話が、バチ当たりである。願い事なんか叶うわけがないから、そんなに急ぐなら初詣なんかしなさんな。
 これはもう『合理主義という病』『効率フェティシズム』と呼んでいいだろう。効率よく合理的に行動する行動することだけに執着するあまり、そもそも自分が何をしたいのかを見失う。周囲の不安や迷惑も目に入らない。『マリーシア初詣』を笑えない企業経営者も少なくないはずだ。
 『ベビーカーに小学生かよ!』
 今後、ズル賢く儲けて顰蹙を買うバチ当たりな輩は、そんな言葉で罵ってみたい。『猫に小判』『馬の耳に念仏』みたいな語呂がいいよね。ベビーカーに小学生。平成29年は、新しい慣用句が誕生した年として記憶されるかもしれない」
   ・   ・   ・   
 現代は、江戸時代中期以来の民族的同質性から、世間という同調圧力・場の空気で大人しく行儀良く列に並び、自分の順番が回ってくるのを辛抱して待ち、長く待って自分の前で終わっても不平も愚痴も言わず「仕方がない」として諦めた。
 未来は、異質な外国人を移民として大量に受け入れて、絆や繋がりといった民族的同質性は霧散し、世間を1つにまとまっていた同調圧力・場の空気は脆弱となり、共同体は融解し、集団は個に分裂し、個は孤へと分離していく。
 孤の世界とは、煩わしいしがらみや些細な拘束からも完全に解放された、息苦しさが全くない、開放的で自由な勝手気ままな、気が向いた時に思うがままに取り放題の楽しい世界である。
 日本人は、サムライの様に「生まれつき規則や決まり事を守り自分を律する賢い者である」とは真っ赤なウソで、本当は隙あらば狡賢く立ち回ろうとする下心を秘めたひねくれた庶民である。
 江戸時代の人口は、武士が5〜6%で、9割強が庶民(百姓、町民、職人、商人)と非人・エタなどの賤民であった。
 多数派の庶民にとって、武士の武士道など興味もなく、武士が押し付けるクソ面白くもない儒教など関心もなかった。
 幕府が官吏登用試験「科挙」を採用しなかった為に、庶民には中華世界(中国・朝鮮)のような高位高官への栄達の道がなく、人間性の教養を高めるより日々の刹那的な楽しみを優先し、論語などの四書五経ではなく瓦版・物語本・旅案内本・いかがわしい下世話集などの俗本を貸本屋から借りて読んでいた。
 庶民は、建前として儒教を尊重しながら、本音では自分の生活には役に立たないとして馬鹿にしていた。

   ・   ・   ・