✨14)─4─天皇の島・ペリリュー島玉砕、1944年9月15日~11月25日。平成の天皇・皇后両陛下の鎮魂。2015年。~No.49・ @ 

旧題名・「ユダヤ民族と日本民族は同族か? 天皇の祖先はユダヤ人か?」
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 全ての戦没者の慰霊が出来る日本人は、日本天皇のみである。
 日本天皇がいなくなると、全ての戦没者の慰霊ができなくなる。
 それが、日本の伝統的祭祀である。
 理屈ではなく、2000年という民族宗教の歴史でそうなっているからである。
 キリスト教では、ごく一部の慰霊ができても、全部の慰霊は不可能であり、異教の祭祀はできない。
 反宗教無神論マルクス主義では、宗教儀式は一切できないし、全ての霊魂がその前では消滅してしまう。
 日本天皇否定論者や天皇制度廃止論者は、全てを慰霊できる唯一の存在としての日本天皇を十分理解した上で自己主張を行っている。
 共産主義者は、日本天皇が行う如何なる慰霊の祭祀も認めてはいない。
 彼らは、日本人の「心」や日本民族の「まごころ」を持ってはいない。
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 尋常小学唱歌「故郷」1914(大正3)年
 作詞・高野辰之。作曲・岡野貞一。
 歌詞
1,兎追ひし彼の山
  小鮒釣りし彼の川
  夢は今も巡りて
  忘れ難き故郷
2,如何にいます父母
  恙無しや友がき
  雨に風につけても
  思ひ出づる故郷
3、志を果たして
  いつの日にか歸らむ
  山は青き故郷
  水は清き故郷
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 日本軍兵士は、地獄の様な戦場で、生還は不可能な戦闘で、よく堪えて戦った。
 戦う兵士は、死を覚悟して戦っても勝利を掴む事はできない事は知っていたが、一人でも多くの敵兵を倒し、敵軍を一日でも長く釘付けにする事が、祖国防衛の役に立ち、本土に残した家族が危険から遠ざかる事げできると信じていた。
 助からない境遇で自暴自棄となり命を無駄に捨てる為に玉砕したのではなく、一日一時間でも長く生き戦況を克服する為に、冷静に冷徹に合理的な戦術を練っていた。
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 南洋群島海域における戦没者総数は、約24万7,000人。
 軍人(大半が徴集兵)・軍属(日本人・朝鮮人・台湾人)は、約23万人。
 一般邦人は、1万5,000人。サイパンでの死者は、約1万人。
 撃沈された海軍軍艦や輸送船など一般船舶は、約530隻。
 沈没に伴う戦没者は、約10万8,000人。
 軍人・軍属の他に、一般邦人や朝鮮人の避難民、さらには日本人女性や朝鮮人女性などの慰安婦も含まれていた。
 フィリピンでの戦没者数は、約34万人。
 ビルマなどでの戦没者は、約20万人。
 軍国主義者日本人は、朝鮮人とは違って最後の最後まで戦って玉砕した。
 神道・武士道・日本仏教に基づく素養を日本人は、家族や仲間はもちろん赤の他人も見捨てなかった。
 ましてや、女子供や老人さえも助ける為に戦った。
 其れが、日本の公に生きて死ぬという「志」であった。
 それ故に、降伏せず戦って玉砕した。
 自分を犠牲にしても、他者を待ったのである。
 それは、狂信的な信仰ではなく、人としての誠を尽くす事であった。
 中国や朝鮮のように何かを成して名を後世に残す事ではなく、自分として今を如何に生きたかを大事にする日本的な死生観であった。 
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 2015年5月4日 産経ニュース「【皇室ウイークリー番外編】
「両国は影響与えあってきた」両陛下お迎えしたパラオの人々が寄せる「歴史」への深き思い
 パラオ国際空港に到着し、地元の子供たちの出迎えに手を振って応えられる天皇、皇后両陛下=4月8日午後(代表撮影)
 戦後70年の節目に、戦没者慰霊で天皇、皇后両陛下が訪問された南洋の島国、パラオ共和国。両陛下ご訪問より一足早く同国入りして渡ったペリリュー島では、改めて親日ぶりや日本由来の文化に加え、日本以外にも多彩な歴史を受け止めてきたパラオの懐の深い文化が広がっていた。「島全体がお墓」ともいわれるかつての激戦地だった島にはさまざまな人が集い、多くの出会いもあった。その体験の一端をお伝えする。(今村義丈)
 七色の海、「パラオ松島」…果てしない自然美
 サンゴや水深によって乳白色、緑、群青など、まさしく七色に変わる海。かつての日本人が3千キロ離れた故国を想い、宮城県景勝地になぞらえ「パラオ松島」と呼んだ、多数の小島が連なる景観−。
 両陛下ご訪問3日前の4月5日。パラオ本島側と呼ばれるマラカル島から、日本兵約1万人、米兵約1600人が犠牲となった激戦地・ペリリュー島まで、モーターボートで海上を駆けていく約40キロの道中には、美しい光景が視界の果てまで広がっていた。
 両陛下もその後、ご移動のヘリコプターでこの景観も目にされたはずだ。「南洋」の夢を追ってパラオに向かった戦前の日本人も見たこの自然美と、その後の厳しい戦いを思うと、思わず目頭が熱くなった。
 約1時間10分でペリリュー島北端「ノースドック」に到着。港で出迎えてくれたのが宿泊先ホテルのオーナー、マツタロウ・デセンゲイさん(41)だった。島で旅行会社やカフェも経営。「マツタロウ」の名が表すとおり、母方の曾祖父が日本人という日系人だ。一方、父方の祖母は中国人とパラオ人のハーフという。
 姓名が“スイッチ”?
 「父の名前はデセンゲイ・マツタロウ。スイッチしただけだ」とおどける。冗談かと思ったが、パラオでは、親の名を姓のように使うのだという。デセンゲイさんの場合は祖父譲りの名前を父がつけたため、結果的に姓と名が“スイッチ”する形となった。
 デセンゲイさんが話すのは、同国の公用語となっている英語とパラオ語。私は英語の聞き取りはあまりできず、単語帳などを使いながらの拙い片言のような会話だったが、多くの島民はこちらのレベルを理解した上で「ダイジョーブ」「モンダイナイ」などと日本語由来の現地語で励ましながら、言葉を根気強く何度も繰り返してくれた。
 おかげで、心理的な「言葉の壁」はあまり感じなかった。これが、多様な歴史を受け入れてきた島の優しさ、懐の深さと実感した。
 歴史への真摯(しんし)な姿勢
 話しているうちに、デセンゲイさんは実は37歳までペリリュー州議会議員で、議長まで務めた人物だと知った。日本の遺族関係者らが島内の戦争博物館に関し、展示内容が米国側の視点に立ちすぎているとして日本関連の展示の拡充を求めた際には、議長として調整を取り持った経験を持つ。
 「私たち自身のためでもあった。博物館には、パラオの歴史の展示もなかったんだ」。日本側の要請を受け入れた思いをこう話す。
 戦争では、デセンゲイさんの一族も影響を受けた。母方の祖父は米軍機に銃撃されて負傷。島民を守ろうとした日本軍の指導で他島に疎開し命は助かったが、「戦いが終わって島に戻ると、何もなかった。本当に何もかも」(デセンゲイさん)。住み慣れた家も畑も美しい緑も、焼き尽くされていた。島がゼロから再建しなければならなかった状況を、デセンゲイさんは人々と自然が「ベリーベリーハート」(深く、深く傷ついた)と率直に表現する。
 だがこうも続けた。「日本とパラオは長い歴史の中で、さまざまな影響を与えあってきた。米国との間でも。われわれは、総合的な経験で物事を捉えるのです」。そして「天皇陛下は晩餐(ばんさん)会で、先の戦争で亡くなった『すべての人々』に追悼をささげてくださった。実に感慨深い。ペリリューに来ていただけて、本当に光栄です」と語った。パラオの人々の歴史への真摯な姿勢に心打たれた瞬間だった。
 日本への親近感、若い世代でも
 日本の信託統治時代に日本語教育を受けた経験を持つ70代後半以上に日本語を話す人が多いのは自然だが、デセンゲイさんと同じ40代でも、日本語を理解する人もいた。
 ニヘイジ・オキヤマさん(44)もその一人だ。ペリリュー島酋長のイサオ・シゲオさんの長男だ。「ジェリー」という現地名もあるが、「オキヤマ」の名は、日本兵遺骨収集や慰霊碑管理に尽力して日本の戦友・遺族から「パラオの母」と慕われた祖母、トヨミ・オキヤマさんから受け継いだものだ。
 日本の慰霊団をもてなして支えた祖父母にならい、自らも慰霊碑清掃に関わった。それだけではなく20歳ごろには両国交流事業で日本に滞在し、川崎市に6カ月住んだこともあるという。「天皇陛下が来てくださってベリーハッピー。私も日本にできればまた行きたい」。ニヘイジさんはほほえんだ。
 一方、両陛下を歓迎する横断幕を手作りしたペリリュー小学校の生徒会長で、「桜の花びらの色を一生懸命塗りました」と笑顔を見せた6年生のチャド・キム君は、韓国人とパラオ人のハーフ。さまざまな人が生きる島国だった。
 「オキャク」「ベントー」歴史写す多彩な言葉、一方で…
 「オキャク」(お客)。ペリリュー島のホテル関係者から、そう呼ばれた。朝は道行く人が「オハヨ」と話し、片言の英語で話しかけていると「ソーリー、ワカラナイ」。ストアには「ベントー」(弁当)が当たり前に並んでいる。日本語由来の言葉や文化が多数根付いていることは聞いていたが、その自然さは想像を超えるものだった。
 一方で、外来語が多いのは日本語に限ったことではないという。例えば自転車を意味する「ラット」はドイツ語由来、教会を意味する「イケレシア」はスペイン語由来。おそらく、両国由来の他の言葉も日常的に飛び交っているのだろう。
 パラオは19世紀末にスペインの植民地、次いでドイツの植民地となる。第一次世界大戦でのドイツ敗北を契機に、今度は日本が約30年間、信託統治を行う。戦後は、米国の信託統治となったが1994年についに独立−と複雑な歴史を持つ。デセンゲイさんが「歴史」に深い思いを寄せるのも、こうした背景からだ。
 「パラオ」もそもそも英語で現地語では「ベラウ」、ペリリュー島も「ベリリオ島」だ。英語教育の期間が長いため、ベラウ語を話せる若者が減っているといい、デセンゲイさんは「知ることから始まる。教育は重要だ」と話した。
 両陛下ご慰霊が引き寄せた、世代超えた日米の出会い
 両陛下のご慰霊が、日米の世代を超えた邂逅(かいこう)を生み出していた事実も、期せずして知ることができた。
 同じホテルに宿泊した米国人、エヴァン・マカフィーさん。40歳でソニーの社員だという彼になぜペリリューに来たか尋ねると、祖父がサイパンや沖縄、そしてペリリューでも戦った、米海軍軍人だったというのだ。激戦を生きた体験談を幼いころ聞いていた彼は、祖父の戦いの地を少しずつ巡る旅を続けており、たまたま両陛下ご訪問のタイミングに合ったのだった。
 「祖父の戦いは名誉なことであると同時に、とても悲しいことだったと思う。私はその歴史を知らなければならない」。そう語る彼に、ペリリュー島守備隊で生還した数少ない一人、元海軍上等兵曹の土田喜代一さん(95)が島を訪れていることを話し、土田さんが終戦後も1年8カ月にわたって抵抗のため潜伏した、荒々しいサンゴ質の岩でできた狭い自然壕に私が入って撮影した写真を見せると、「ツチダさんはとても勇気ある人だ。尊敬する」と繰り返した。
 土田さん側のスケジュールを確認してマカフィーさんに伝えたところ、島内巡回中に会うことができたという。英語を話せる人を介して祖父のことを話し、握手も交わしたという。「この出会いは私にとって非常に光栄で、名誉なことでした」。マカフィーさんはそう振り返っていた。
 「島全体がお墓」といわれるペリリューを始め、戦没者の墓標がある南洋各地。その島々には日本人以外もゆかりの人々が今も世代を継いで訪れ、慰霊に頭を垂れているのだ。
 島のおおらかさ
 宿泊した「アドベンチャーズイン」は今春開業の新設ホテル。といっても新築ではなく、数年前まで教会だった建物を改装したという。確かに外壁にはうっすらと「OUR LADY」(聖母)の文字が残る。
 私が「ファーストオキャク」、最初の宿泊客だったそうで、1号室に宿泊する“特権”を得た。さらに3室が並んでいたがその奥はまだ製作中で、コンクリートの塊がごろごろ。滞在期間中も工事は進み、夜に取材から戻ると、土のスロープだったホテル入り口前に石をコンクリートで固めた階段が次第にできあがり、当初はなかったブロック塀が日々、高さを増していった。重機は使わず、すべて人の手で騒音もないため、工事中でも特に困ることはない。忙しい取材のなかだったが、こうしたおおらかさに、なんだかのんびりとした気持ちになった。
 「ニツケ」も食べます、「ラーメン」はあの銘柄
 夜はハンバーガーやフライドポテト、フライドチキン、朝はメープルシロップ付きフレンチトーストやホットケーキ、スパム−。ホテル隣接のカフェで主にとった食事は、独立まで50年近く続いた米国統治の歴史を反映したものが多かったが1度、白身魚の「ニツケ(煮付け)」、葉物のみそ汁が出たことがあった。
 カフェを切り盛りするデセンゲイさんの妻、カーニーさんは「自転車で島内を取材しているイマムラを元気づけるためよ」と笑ってくれたが、日本人以外のオキャクにも日本食を出しており、島では決して珍しい料理ではないようだ。
 それは近くのストア「バレットクイックマート」の品ぞろえでも裏付けられた。
 冷蔵ケースでみそが袋売りされ、黄色いたくあんも並んでいたのだ。棚を見ると、小倉あんの缶詰や白玉粉まで。カタカナで表記された日本でおなじみの菓子も多く、ラーメン棚には「SAPPORO ICHIBAN」も。「サッポロイチバン」はラーメンを意味し、カフェでラーメンを注文すると、袋入りサッポロイチバンが作られるほどのメジャーさだ。
 日本と異なる点もあった。ペットボトル入り「緑茶」はよく飲まれるドリンクの1つだが、糖類がたっぷり入った甘い飲み物になっている。バーで「フライドトーフ」なるメニューを注文すると、厚揚げと野菜のソース風炒めが出た。のりと卵のふりかけとみられるものがトッピングされていた。
 もっと日本人訪島を
 日本以外にも、距離が近いフィリピンやインドネシア製の商品、ハングル表記の食品などもあり、多様な食文化が息づいていた。
 「総合的な経験で物事を捉える」。元州議会議長、デセンゲイさんの言葉を、文化の面からもかみしめた滞在だった。だが、帰国するパラオ国際空港では、空港の太陽光発電システムが日本の協力で完成したとの両国国旗パネルがある一方、日本の航空会社の直行便がないこと、中国系の観光客が本当に多いことに、複雑な気持ちになった。
 ダイビング客は多いというが、かつて国別で1位だった日本人訪問者数はここ数年、3位や4位に落ちているという。直行なら羽田から片道4時間半で、雄大な自然、歴史を感じることができ、初めてでも心優しい人々が手助けしてくれる。日本に深く親近感を抱いているこの国に、もっと多くの日本人が訪れることを願ってやまない。」





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