✨2)─2─自然災害における祭祀王の天皇の務め。〜No.6  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博
 天皇と皇室が安泰である限り、日本国と日本民族日本人も心配ない。
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 日本の天皇は、世界の如何なる王侯貴族や聖職者・宗教関係者とも違う。
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 2019年4月19日 朝日新聞「平成と天皇
 一人ひとりに思いを寄せ  川島裕
 東日本震災あった3月11日。揺れが始まった午後2時46分に黙禱(もくとう)を捧げるのには実は抵抗があるのです。あの時間、犠牲になった多くの方々はまだ生きていた。あの日、皇居・宮殿で、激しい揺れの直後から天皇陛下のおそばでテレビを見ていました。津波警報が表示され、次いで画面に、漁船が映し出されました。陛下は、1993年の北海道南西沖地震での知見から『沖合まで出られれば大丈夫』と祈るように述べておられた。あの十数分は一生忘れないと思います。
 実は震災に先立ち、陛下には心臓に異常が見つかっており、バイパス手術も検討されていました。それでも7週間連続で被災者の元を訪ねられた。その後も多くの災害の地に足を運ばれた。2014年の広島の土砂災害訪問の際、肉親を亡くし、硬い表情で待っていた人々が、両陛下と話し出した途端、すーっと表情が和らいだ。こうしたやりとりの膨大な積み重ねが、象徴の意味合いを形作っていくのだと実感しました。
 両陛下は、犠牲の大きさを『統計数字』とは見ておられない。一人ひとりの悲しみを、リアリティーを持って受け止めておられる。それは、戦没者についても同じでした。両陛下は戦後70年にあたる15年4月、激戦地となったパラオ共和国ペリリュー島に赴かれれた。それに先立ち、生還したかつての日本兵2人と御所で懇談された。陛下は風のため途中退出され、皇后さまが最後までお話を聞き、御所の長い廊下を帰って行く2人の背中をいつまでも見送られていた。一人ひとりに思いを寄せてこられたことの証しだと受け止めました。
 長い天皇の歴史の中で、国民との一体感がこれほど生まれた時代は初めてだろうと思いました。(聞き手 中田絢子)」
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 2019年3月11日 朝日新聞柳美里 そもそも『3・11を忘れない』という言葉に違和感がある。ここではみな、今も3・11の中で生きているという意識。忘れ、遠ざかることは決してなく、暮らしの一部なのです」
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 東日本震災は天災であったが、その後の混乱は政府や企業による人災であった。
 現代日本の政府・国家は、国民を助けない、守らない、打ち捨てるという、無責任さを露わにした。
 悪しき言霊で、対策は後手に回り、被害を拡大し、夥しい犠牲者を出した。
 日本のリベラル派・革新派・改革派・人権派・エセ保守派・一部の保守派は、その程度でしかない。
 彼らが、被災地に入って真顔で語りかけても、被災者は歓迎しないし信用はしない。
 哀れな菅直人総理らは、被災民から温かく迎えられた天皇皇后両陛下・皇太子同妃殿下ら皇族に比べて、逃げるように被災地を立ち去った。
 浅知恵だけは良く回る教養なき政治家の、被災地や被災民の心を踏みにじるような失言が絶えない。
 それを知っているがゆえに、反天皇反日的日本人は天皇制度廃止と皇室消滅の為に動いている。
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 現代日本は、日本民族日本人の歴史を学ばず、自然災害から教訓を導き出さず、同じような失敗を繰り返している。
 江戸時代の方が、近代化現代化した戦後の日本、1990年代以降、特に2010年以降の日本よりも幾分かはマシであった。
 それは、現代日本の左翼・左派・ネットサヨクも右翼・右派・ネットウヨクも同じである。
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 日本社会は、戦争に敗北して死体の山を築こうとも、自然災害で甚大な被害が出て夥しい犠牲者を出そうとも、反社会的革命も凶悪犯罪的暴動や略奪や強姦は起きなかった。
 日本は他国とは違って、反宗教無神論共産主義者マルクス主義者)が政権を奪い、日本を統治し、死と暴力による恐怖体制を打ち立てる事はできなかった。
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