✨7)─1─タスキギー梅毒人体実験。昭和天皇は核爆発の説明を聞い知っていた。日本軍の毒ガス兵器製造。1927年~No.21No.22 @  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 1927年 タウンゼント「1927年から28年、中国領土にいた8,000人に上る外国人宣教師のうち5,000人が退去させられている。
 どこへ退去したのか。日本である。
 しかし日本に避難したものの、日本人が好きになれない。可哀想な人間がいないからである。
 アメリカ人とは不思議なもので、可哀想だと思えない相手は好きになれない人種である。
 宣教師は、特にこの傾向が強い。
 可哀想な人間を見ると、我が身の危険をも顧みず、救ってあげたいという殉教精神が湧き上がるのである。
 だから、中国人は全く有り難い存在なのだ。
 ところが日本は、ドイツに似て、規律正しく、町は清潔で落ち着いている。
 これでは、宣教師の出る幕がない。
 だから、宣教師に好かれないのである」(『暗黒大陸 中国の真実』)
 12月25日 先帝祭(大正天皇祭)として祝日となる。
 人々は、24日夜をクリスマスイブとしてドンチャン騒ぎを行った。
 クリスマスイブの大騒ぎは、1937年に日中戦争を理由にして全面禁止された。
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 1928年 理化学研究所仁科芳雄研究員は、イギリスやドイツで最先端の理論物理学量子力学を勉強して帰国し、原子核素粒子を研究する仁科研究室を理研内に開設する。
 日本における、原子力研究の幕開けである。
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 艦隊本部は、海軍の伝統的戦法である攻撃重視防御軽視の思想と、日本技術より欧米技術の方が優秀という盲目的欧米礼参信仰から、八木秀次宇田新太郎らが開発した画期的な指向性レーダーを不採用として、アメリカ海軍に紹介した。
 最大の防御は、攻撃である。
 アメリカ軍は、日本の科学者が開発した電探技術を兵器として採用した。
 日本人は、明治から現代に至るまで偏狭的欧米賞賛思想に支配されていた。
 現代日本の国際派は、さらに欧米礼参志向が強烈である。
 日本の失敗を、遅れた日本ルールの固執し、優れた欧米のルールを導入しなかったからである。
 日本が発展し優れた国になるには、日本ルールを全て捨てて、欧米ルールを無条件に受け入れるべきであるとしている。
 そして、日本を欧米流に根底から大改造す為に、日本的なモノは全て払拭すべきであると。
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 パリ不戦条約。アメリカのケロッグ国務長官とフランスのブリアン外相は、勝者なき不毛な戦いであった第一次世界大戦を反省として、国際紛争の解決に戦争ではなく平和的手段をもちうるという多国間条約を提唱した。日本を初めとした主要国家15ヵ国は、署名して成立した。
 後に、ソ連などが署名し、批准国は63ヵ国となった。
 ケロッグ長官は、議会における条約批准の是非を問う審議で、「戦争ができない条約ではなく、侵略戦争を防ぐ為の条約である」と答え、侵略に対する自衛戦争は認められると答えた。
 侵略については、「他国が軍隊をもって国境を越えて攻めてくる事だけが侵略ではなく、経済的に重大な被害を受ける事も侵略に晒された事になる」と定義した。
 つまり、資産凍結などの金融制裁や輸出入遮断などの経済封鎖をも侵略行為と認め、自衛として武力行使が出来ると断言した。
 イギリスや多くの国も、アメリカと同じ見解をとっていた。
 アメリカは、大国の傲慢で、中南米大陸を自国の勢力圏と見なして不戦条約の適用外と宣言した。
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 蒋介石は、第二次北伐を終えて中国統一が実現した。
 国民政府外交部長・王正廷は、「革命外交」という概念を打ち出し、国際法に基づく正式な手続きを無視して一方的に不平等条約無効を宣言した。
 蒋介石は、不平等条約の即時破棄と国際合意・ワシントン条約の無効を宣言した。
 軍国日本に対しては、日清戦争以降の1896年と1904年の条約の無効と国際法による交渉で獲得した諸権利は否認し、投資と犠牲で築いた全ての中国権益を没収すると通告した。
 ファシスト中国は、国際合意であったワシントン条約を破棄して、軍国日本が中国に保有している全権益を没収すると通告してきた。
 コミンテルンは、国民党と日本軍を戦わせる為に、中国本土及び満州に於ける日本の権益を全面否定する法令を次々と制定した。
 中国共産党は、各地で抗日運動を暴動に煽り立て、日本人居留民を襲って重軽傷を負わせ、日本人商店を襲撃して略奪と放火を行った。
 幣原喜重郎外相は、国際協調外交を標榜し、中国との戦争を避けるべく、軍部を宥め、日本人居留民に泣き寝入りさせ、中国側に配慮し譲歩して妥協を重ねていた。
 その結果、逆に中国人による抗日暴動は激しさを増し、日本人居留民の被害も増えた。
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 1929年 世界大恐慌
 昭和天皇は、戦艦長門艦上で、周囲の反対を押し切って、世界的に有名な粘菌研究の植物学者で同時に変人・奇人と悪評が高い南方熊楠から25分の進講を受けた。
 日本陸軍は、広島県竹原市沖の大久野島にある芸予要塞に兵器製造所を建設して、国際条約で禁止されている毒ガス兵器を太平洋戦争終結までの約15年間にわたって密かに作り続けていた。
 毒ガス兵器を作り技術の国の軍隊は、例外なく作っていた。
 何故か、敵国が毒ガス兵器を使えば報復として使い為であった。
 戦時国際法では、同じ兵器による報復攻撃は禁止していなかった。
 もし、軍国日本が原爆を持っていたら、アメリカは日本に対して原爆攻撃はしなかった。
 アメリカは、原爆による報復攻撃がない事が分かっていた為に、軍国日本に2発の原爆を投下したのである。
 相手と同じ兵器を持つ事が軍事常識であり、相手が持てっていない兵器を先に開発するのが軍事戦略であった。
 事実、ファシスト中国軍はソ連から提供された毒ガス兵器を使用した為に、日本軍は報復攻撃として毒ガス兵器を使用した。
 両軍は、数回毒ガス兵器をしたらしいが、それ以降は使用しなかった。
 6月3日 昭和天皇は、和歌山県山県地方をご巡幸され、大島に立ち寄られエルトゥールル号遭難碑を訪れて挙手の礼をもってお参りした。
 11月 東京朝日新聞投書「図書館の書籍が大変不自然に破損されているのをしばしば見受けます。多数の人に読まれるのですから、日がたつにつれて自然に汚損するのは当然ですが、黒や赤や青のシルシは故意としか思えない程乱暴なものです。殊に他の迷惑も顧みず、ある部分のページを切取るなどは全く言語道断です」
 ムラ意識の強い日本人には、罪の意識も道徳心も低く、見付からなければ、バレなければ、自己本位的に悪さをする。
 その為に、禁止の標語を到る所に張り出し、違反者には罰則を設け、口が酸っぱくなるほど喚起して道徳向上運動を行うが、成果は薄かった。
 禁止標語の張り紙が多いのは、現代に於いても変わらない。
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 1930年代 スターリンは、国内における宗教弾圧の徹底を命じた。
 ウラジオストックでも反宗教運動が吹き荒れ、日本人居留民が住む日本人地区の浄土真宗寺院などが被害を受けた。
 スターリンは、日本軍の強さを恐れ、軍国日本を刺激する事を避ける様に命じた。
 ゾーヤ・モルグン「ソ連では冷酷な反宗教キャンペーンが展開されていた。……
 日本の仏教寺院の土地、建物、仏具や蝋燭でさえも没収された。しかし、後にそれら全ては寺院に貸し出される事になり、布教を続ける事が許された。
 おそらく、日本の仏教がロシア人の為ではなく、日本人の為だけにあったからであろうと思われる」(『ウラジオストク 日本人居留民の歴史 1860〜1937年』)
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 1930年 安達峰一郎は、オランダのハーグにある常設国際司法裁判所の判事に最高得票で当選し、翌年にアジア人で初めて同裁判所の裁判長(所長)に就任した。
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 1931(〜36)年 ポーランド人マキシリアノ・コルベ神父は、ゼノン・ジェブロフスキ修道士(ゼノ修道士)と共に、長崎で伝道活動行った。
 コルベ神父は、ポーランド孤児を救出した軍国日本をこよなく愛し、それを許した天皇に感謝した。
 ゼノ修道士「孤児を助ける為に一番よく働いたのは日本の赤十字です。その時、ポーランド人は始めて日本の国を知りました。ポーランドの司教様は、日本の国のため祈るようすすめました。コルベ神父様は、日本人に聖母マリアを知らせたいと思いました」
 ゼノ修道士は、長崎の原爆で被爆しながらも被爆者の救護を続け、戦後は戦災孤児や恵まれない人々の救援活動を続けた。
 平成14(2002)年 今上陛下皇后両陛下がポーランドを公式訪問された際、ポーランド大統領夫妻主催晩餐会で、コルベ神父とゼノ修道士の日本国民に対する献身的な活動を讃え、国民に代わって感謝のお言葉を述べられた。
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 1932年1月8日 警視庁前桜田門爆弾テロ事件。上海系朝鮮人テロリスト(キリスト教徒)は、国家元首昭和天皇を狙って爆弾テロを行うが、失敗した。
 国民党系新聞は、暗殺に失敗した事にがっかりしたとの記事を掲載して、昭和天皇を貶して日本人の神経を逆撫でした。
 国粋主義者は、朝鮮人テロリストを庇う中国への制裁を要求した。
 軍国主義者は、国家元首昭和天皇はもちろん皇族の命を守る為に、大陸侵略を計画した。
 朝鮮人テロリストのアジトは、上海のフランス租界にあり、全員が洗礼を受けてキリスト教会に出入りしていた。
 中国政府は、朝鮮人テロリストを極秘で支援していた。
 フランス租界も、薄々とは知っていたがキリスト教会が関係していた為に放置し、日本政府の協力要請を治外法権を理由にして拒否していた。
 キリスト教会は、神の裔・天皇の神性を廃止すべき邪悪と憎悪していた。
 2月 チャーリー・チャプリン「日本人は皆、正直で親切だ。何をやるに際しても信頼できる。その為、日本人に非常に好感を持つようになった。やがて、こんな素晴らしい人々をつくり出している日本という国に行ってみたくなった」
 5月15日 五・一五事件
 人種差別主義の軍人達は、馬鹿げたユダヤ人世界征服の陰謀説を信じ、来日中のチャプリンを殺害しようとしたが失敗した。
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 1932(〜72)年 タスキギー梅毒人体実験。アメリカ公衆衛生局は、黒人の性生活を調査する為に人体実験を長期間実施した。
 アラバマ州タスキギーに住む黒人小作農夫600人を被験者としてに梅毒を注射し、399人を実験体として治療せず、201人には治療を施し、梅毒の進行過程を観察した。
 1950年代にペニシリン使用が可能になったが、注射せず死ぬに任せ100人を見殺しにした。
 1972年7月26日 ニューヨーク・タイムズ紙は、タスキギー梅毒人体実験を報道した。
 アメリカもソ連も、非人道的な人体実験を極秘で行っていた。
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 1933年 『明治天皇紀』編纂責任者は、軍国主義化している社会風潮に合わせる為に、昭和天皇に、明治天皇が日清日露両戦争に不賛成であった事を書かない方針である事を奏上した。
 昭和天皇は、侍従長に「明治天皇が戦争になる事をお好みにならず平和裡に解決したいという思し召しこそ、天皇の平和愛好の御精神が現われていて、これこそ後世に伝えるべきであり、むしろ御年代記の中に特に書き入れた方がいいんじゃないかと思う」と述べた。
 皇室が求めるのは、戦争ではなく平和であると。
 ドイツの建築家ブルーノ・タウトは、ナチス・ドイツの迫害を逃れて日本に亡命した。
 「伊勢神宮には古代そのままの詩と形が今なお保存されている。ここにはヨーロッパ人の言う意味の宗教はない。しかし、伊勢神宮に対する崇敬の念を誰が拒み得ようか」
 「日本国民はひとしく、悠久なこの国土と国民を創造した精神の宿る神殿としてこれに甚深な崇敬を捧げているのである。遙かな古に遡り、しかも材料は常に新しいこの荘厳な建築こそ、現代における最大の世界的奇跡である。建築家はもとより、いやしくも建築に関係ある人々は、是非ともこの建築の聖殿に詣でなければならない」(『日本美の再発見』)
 伊勢神宮の宮域は、約5,500ヘクタールで現代の東京都世田谷区の面積に等しく、内宮と外宮の他に大小125社が点在しそれぞれ異なる祭神を祀っている。
 690年 持統天皇から、材料も外観も原型と寸分違わず再現するという式年遷宮が行われている。
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 1934年 日産コンツェルン総裁・鮎川義介は、「ふぐ計画」の原型とも言える「ドイツ系ユダヤ人5万人の満州移民計画について」という論文を発表した。
 「5万人のドイツ系ユダヤ人を満州に受け入れ、同時にユダヤアメリカ資本の誘致を行う事により、満州の開発を促進させると共に、同地をソ連に対する防壁とする」
 ヒトラーは、29年に原子爆弾の開発を認めた。 
 同理論は、1863年にマイヤーとイエンザンが発表してノーベル物理学賞を受賞した。
 日本海軍航空部は、将来の洋上戦の勝利は航空戦で決まるとの信念から、諸外国軍に負けない航空部隊を編制する為に、三菱に対して最先端技術による競争試作機を発注した。
 三菱の設計主任堀越二郎は、欧米列強の軍用機を摸倣もデッドコピーせず、日本が持っている航空技術を自由に思い切って例しながら全く新しい独自の試作機・九試単座戦闘機を完成させた。
 海軍は、試作機を九六式艦上戦闘機(九六艦戦)として制式採用した。
 後のゼロ戦零式艦上戦闘機)は、九六式艦上戦闘機を空中戦を想定し、実戦には用のない無駄を排除するという改良を行い拡大発展させたに過ぎない。
 日本軍は、中国とは事なり、兵器を欧米諸国の兵器産業に依存せず純国産に拘っていた。
 何時の時代でも国際的主要取引製品が兵器である以上、国際的武器商人にとって純国産政策で世界市場での取引を拒否する軍国日本は目障りな存在であった。
 欧米の国際資本にとって、兵器及び軍需物資を売り込む事はその国を完全支配し、その国の国民から冨を奪う事であった。
 だが。日本の民族資本による航空技術及ぶ生産能力は、アメリカの国際資本に比べて遙かに劣っていた。
 特に。エンジン技術において日本はアメリカには劣り、馬力などの性能面でも日本のエンジンはアメリカには勝てなかった。
 アメリカは、数百人の設計技術者を集め更にイギリスなどから優秀な技術者をスカウトし、有り余る資金で完全分業体制で兵器を作っていた。
 日本は、各企業ごとにせいぜい数十人の設計チームを編制して、乏しい資金を遣り繰りして、幾つのも部門を掛け持ちしながら製品開発を行っていた。
 技術情報が乏しい中で試行錯誤を繰り返し悪戦苦闘しながら技術革新を行っていた日本は、しょせんはアメリカの後追いでしかなかった。
 日本の国力は、国際的総力戦には耐えられるほど強靭ではなかった。
 兵器を強靱化するレアメタルや燃料となる石油などの戦略物資がない日本は、労働者不足に苦しみながらも、家内工業的工業力を大動員して絶望的戦争を「最後の勝利」を信じて戦った。
 日本人は、中国人や朝鮮人とは違って、1万分の1に近い奇跡的な「絶対にあり得ない勝利」を信じて戦っていた。
 その時の朝鮮人・韓国人は、日本の味方であったのか、日本人の敵であったのか。
 アメリカが旧世代から次世代の兵器に切り替えに戸惑っている時、日本が旧世代の改良型を投入して一時優位に立つ事がある。
 ゼロ戦は、たまたま成功した旧世代の改良型戦闘機に過ぎず、アメリカが最新の次世代戦闘機を投入してからは劣勢に立たされた。
 アメリカの次世代戦闘機が、イギリス空軍機として欧州戦の実戦に投入され、その結果として幾つかの改良点が指摘されて太平洋戦線への配備が42年夏まで遅れた。
 それが、ゼロ戦無敵神話の真相である。
 改良型次世代機は、旧世代機改良型のゼロ戦に比べて性能や戦術など全ての面でにおいて圧倒的な優位に立っていた。
 44年以降は、緒戦の圧勝が嘘のようにゼロ戦は劣勢に立たされ撃墜されていた。
 42年のニューギニア・ソロモン空中戦では、ゼロ戦の熟練搭乗員は、アメリカ軍の改良型次世代機を操縦する未熟搭乗員に撃墜されていた。
 だが。ゼロ戦が完成度の高い世界的優秀戦闘機であった事には変わりはなく、欠陥や故障が少ないという信頼性の高かさから終戦までに1万機が量産された。
 日本人の学者、研究者、技術者が如何に優秀であったとしても、学問や現場では依然として人種差別意識が支配していて、白人同士では国境がなくとも非白人との間には見えない壁が存在し、非白人の日本人は排除されていた。
 日本が科学技術を重視して総力を挙げても、国力の差を超える事が出来ず、アメリカには勝てなかった。
 日本が精神主義でいきり立ったのは当然の事であり、勝てない事が分かっていたがゆえに精神論を振りかざしたのである。
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 1935年 菊池武夫「絶対的な存在である天皇を機関として扱う天皇機関説は不敬である」
 立憲政友会の政治家は、政権を取る為に軍部と協力して、議会で天皇機関説を攻撃した。
 この頃から、天皇の神格化が急速に強められ、人ではなく現人神として扱われ始めた。
 昭和天皇は、天皇機関説を支持していた。
 「本庄だったか、宇佐美だったが、私を神だというから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そう言う事をいわれては迷惑だといったことがある」
 この時から、天皇は神とされた。
 日本政府は、大本教教祖出口なおが唱える「素戔嗚尊が現成して世の中が終わる」という「終末論の予言」は、万世一系男系天皇制度(直系長子相続)は滅びる事がなく永遠に続く、という天孫降臨神話を壊す危険思想として否定し弾圧した。
 記紀神話に基づく建国神話において、日本の誕生はあっても終末・滅亡はなかった。
 普遍宗教の必修条件は「創生と終末」と「死後の世界としての天国と地獄」であったが、神道には「誕生」しかなかった。
 日本神道は、血を穢れとし、死を忌み嫌い、世の中が終わるという「終末論」「世紀末論」「黙示録」を徹底して否定した。
 8月3日 政府は、軍部と右翼の圧力に屈して、天皇機関説を排斥する「国體明徴声明」を出した。
 10月15日 第二次国體明徴声明が出された。 
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 1936年 浄土真宗大谷派は、宗祖親鸞の伝記である『御伝鈔』から、親鸞を弾圧した天皇を批判した箇所を拝読禁止とした。
 教団本部は、当局に配慮して、機関誌に「法主は神社はもとより天照大神ですら拝む必要なはい」という趣旨の論文を書いた大谷大学の河野法雲学長を更迭処分とした。
 法主は、宗祖親鸞の「神祇不拝」の教えに背いて伊勢神宮明治神宮靖国神社などに参拝した。
 浄土真宗は、他の仏教教団同様に、国家方針として始まった侵略戦争を全面的に支持し、教団の各寺院に「国論統一」の為の法話を行うようにとの「論達」を出した。
 ローマ教皇庁は、日本側の神社参拝仁関する説明を聞き、国の為に死んだ人間を悼み弔う事は神の道に叶う行為として、日本のカトリック教徒に対して靖国神社参拝を推奨した。
 神の前では「善人はもとより悪人でも平等」に扱われ、神は「罪に関係なく人を救う」のである、と。
 ローマ教皇は、国の為に死んだ者を追悼するのは国民の義務であり、靖国神社の魂を鎮魂するのは人として当然の行為であり、死者の尊厳を踏みにじる所業は神が許さないと、通達した。
 人を裁くのは神であり、人ではない。
 極悪犯罪人であっても、神は許すであろうと。
 だが、プロテスタントは神社参拝を拒絶した。
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 1937年 文部省は、「天皇は人の姿としてこの世に現れた神である」という内容の『国體の本義』を出版し、国を上げて天皇の神格化を推進した。
 「我が国は皇室を宗家として奉り、天皇を古今にわたっる中心と仰ぐ君民一体の一大家族国家である」
 「忠君なくして愛国はなく、愛国なくして忠君はない」
 「現御神(明神)或いは現人神と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいうが如き意味の神とは異なり」
 和辻哲郎「(天皇は)即位なくば全然現つ神ではない」
 キリスト教「主にありて一つ」
 右翼と軍部は、キリスト教における絶対神に対抗する為に、天皇天孫降臨神話を根拠として現人神に祭り上げる国體明徴運動を始めた。
 だが。日本の歴史を正しく理解する日本人は、天皇を日本神話に出てくる神に近い尊き人と崇拝しても、神の王国に君臨し天国を主宰する完全無欠な唯一の神そのものとして信仰はしなかった。
 海の外から訪れた全ての人間を、客人神・客人権現と歓迎し、誠心誠意で遺漏なく、粗相がない様に細心の気を遣ってもてなした。
 神道に於いては、日本人が祖先神の子孫なら、祖先を持つ人も又祖先神の子孫であり、虫や草などの生き物も、山や川や風さえも、姿があろうとなかろうと、思いつく全のモノ・事柄が同等の神聖な神であり上下や優劣はなかった。
 昭和天皇は、自分は人として祖先の皇祖皇宗の御霊を祀る存在としての祭祀者であると自覚していただけに、キリスト教天地創造の神と同列の現人神として崇拝される事に困惑したが、国民が国體明徴運動に参加するやその期待にそって振る舞うしかなかった。
 皇室祭祀の本質は、天皇家・皇室の祖先を神として祀る事である。
 氏族社会の日本民族日本人にとっても、祖先神・氏神信仰が漠然として印象が薄く理解できなかった為に、古式ゆかしき清涼な祭祀である皇室祭祀・宮中祭祀を見習うべき手本とした。
 祭祀王・天皇は、神代から受け継がれる伝統的儀式・儀礼を、血筋を根拠にして正統に受け継ぐ尊き人として崇拝されていた。
 祖先神・氏神信仰の根拠は血筋にあり、血筋でない者は霊的能力が優れていても資格はない。
 皇室の血を受け継がない者は、総理大臣であれ、大統領であれ、独裁者であれ、政治権力があろうと、宗教的権威があろうと、莫大な資産を持とうとも、巨大な軍事力を持とうとも、皇室祭祀を主宰する事はできない。
 血筋を重要視する意味に於いて、日本神道は排他的であり閉鎖的である。
 万世一系男系天皇(直系長子相続)は、ローマ教皇に様に信仰を根拠にして誰でもが即位できるものではない。
 憲法で血筋に関係のない他人が天皇に即位しても、皇祖皇宗の子孫ではない以上、法律で最高祭祀を認めても皇室祭祀は行えない。
 日本民族が、自分の命を犠牲にしても守ろうとした「国體」とはそうしたモノである。
 皇室神道が日本神道の核心である以上は、祭祀王・万世一系男系天皇(直系長子相続)と神社神道とは一心同体であり、天皇心神話・天孫降臨神話とも不可分の関係である。
 血筋としての万世一系男系天皇(直系長子相続)を失ったとき、自然信仰の日本神道は消滅し、祖先神・氏神から受け継いだ民族的な「絆」「心」「志」もなくす。
 キリスト教世界は、人を神として崇める宗教観を偶像崇拝・個人崇拝の邪教、善良な人を惑わすエセ宗教的な政治的カルトとして排除しようとした。
 4月 清水芳太郎は、土地も資源も乏しい日本は科学技術を開発して生活難の克服をであると力説した。
 「独自の科学的発想でロータリーエンジンジェットエンジン、消えるインキ、灸点探索器、高圧鍋、高速無音機関銃、長距離飛行機の開発に取り組む。」(『福岡県百科事典』)
 東条英機石原莞爾林銑十郎小磯国昭らは、清水芳太郎の科学技術重視の思想に影響されて、兵器開発や食糧増産などの技術革新に資金援助を行った。
 4月3日 清水芳太郎の「日本教」講演「キリストは汝の敵を愛せよと言った。日本教に於いてはもとより当然の事である。剣術をやっても、スポーツをやっても、論争をしても、自分が負けると参ったという」
 「自分の相手、自分の敵を愛するのでは駄目だ。参らなくては駄目だ。三拝九拝できなくては駄目だ」
 「日本教の教祖であられ、信仰の実践的中心であらせられる皇室に於かれては、常に敵を拝まれた」
 「けれども、この他民族を拝み、他民族の秀れた者、他民族の神となす者を併せ拝まれた」
 「敵をも拝まれるのは、日本宗教の本来の伝統だ。この包容あってこそ、多種多様の民族が、日本に於て融合統一されたのである。七種も八種もの民族が皇室を中心に融合したのである」
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 1937(皇紀2597・昭和12)年 三菱重工業は、陸軍の要請により速度だけを重視した戦略偵察機「97式司令部偵察機(キ15ー1)」を完成させ、飛行技術を飛躍的に高めて航空大国への扉を大きく開いた。
 朝日新聞社の神風号として、イギリスロンドンへ飛んだ。
 5月 陸軍は、97式司令部偵察機を最初の司令部偵察機として制式採用した。
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 1938年 意志決定最高機関である「五相会議」は、アメリカを満州に引き込む事は日本の国防に有利であるとして、ユダヤ人利用計画を承認した。
 軍部も、日中戦争終結満州防衛強化に有効であるとして、ユダヤ人移民計画に取り組んだ。
 日本政府及び軍部による、積極的なユダヤ人難民救済はこうして始まった。
 A級戦犯松岡洋右板垣征四郎広田弘毅と、近衛文麿
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 1939年 昭和天皇は、度々、東京文京区の理化学研究所を訪れ、仁科芳雄から小型サイロクトロンでの核分裂実験の説明を聞いていた。そして、核爆発の破壊力の知識を得た。
 5月 読売新聞投稿欄「最近電車、バスで女子供老人に席を譲る者が非常に少なくなった。学校では何を教えているのか知らないが、学生等は老人をよぼよぼしていても横を向いて知らん顔をしている」
 他人の事を慮らないのは、悪い事をしても土下座をして謝れば済まされるという、緊張感なき「甘え」という島国根性にある。
 過酷な緊張感に支配されている不自由な大陸世界では、一切の甘えは許されず、罪を認めて謝れば良くて罰金、悪くすると死刑であった。
 支配者に対して従順な善人を装い、住人に善行を施さないと生きていけないのが、大陸の閉鎖的城塞都市であった。
 小津安二郎は、除隊直後に雑誌『世界』の取材を受けた。
 9月号「日本の兵隊が世界で一番強いというのは、昔から決まり切った話で、今更ここで申し上げる迄もない。
 だが、支那兵の強いのには、全く驚いた。世界一の定評のある我軍と対峙していて、もう逃げるだろうと、思う程、猛烈に攻撃しても、さっぱり逃げないのだ。平然と頑張っている。
 部隊一同が敵の応戦の執拗さに、怒髪天を衝いてカンカンになった時、必ず、支那兵は吶撃(とつげき)して来る。おのれ、と、こちらも塹壕から飛出して白兵戦になる。そうなれば、しめたもので、必ず我軍の勝利。
 戦いは『最後の5分』と称せられるが、実戦でつくづくそう思った。支那軍の強さが我軍の前で問題にならないのは、全く最後の5分である。それ迄、こいつ、何時まで頑張るのだろうと、イライラする程ねばるのだが、粘り抜いた挙句、もう5分という時に、崩れて果敢に吶撃に移り、待っていたと許り反撃する我軍の前に屈服する」
 中国人は、精神力や体力や学識においても日本人よりも優っていて、個人的に戦えば日本人に引けを取らずないどころか勝利していた。
 全ての面で日本人より優る中国人がなぜ、挫けやすい心と貧弱な体格の日本人にかなわなかったのか、それは中国人の強さは攻撃的であって防御的ではないからである。
 日本人は、自然多発地帯で生きてきた民族として、如何なる最悪な環境に追い込まれても気力や体力を温存し、状況が好転するまで挫ける事なく堪えて耐え、最後の一瞬の好機が訪れるまで無駄を省いて余力を溜め、そして待ち望んだ時が訪れたと判断するや死を恐れず最大限のエネルギーを爆発させる。
 日本人の日常動作は、物事に動じない平常心を保つ事にあり、全部を口にせず無駄口を語らず、赤裸々なまでに感情を表に出さず、今なすべき事を淡々と最小限の努力でこなし、我慢と抑制による自制を旨としていた。
 ゆえに。日本人の行動は、全てが、砕けぬ心を持つ為の精神修行であった。
 それは、静から動への移行という、弱者の生きる智恵であった。
 日本の静には、地下に溜まるマグマのように、内に秘めた爆発する瞬間を待つ激情があった。
 対して。中国人や朝鮮人は、最初から気力も体力も有り余る程に充実しているだけに、強者の生きる本能として動一本槍であった。
 派手さを好む為に、状況を無視して全てに全力投入で、表も裏もなく感情を爆発させ、五月蠅い程に喚き騒いで辺り構わず暴れ回る。
 最初の爆発的勢いは長く続かず、何時かは気力も体力も衰え、潮が引くように総崩れとなった。
 戦いは最初の瞬間の勢いで決まり、勝敗は立ち会いで決して、負けた者は蜘蛛の子を散らすように総崩れとなった。
 内に秘めた激情を持つ事を美徳とする日本人は、待つとして、禅に心ひかれた。
 全てをさらけ出す憤怒を持つ事を美徳とする中国人や朝鮮人は、待てないとして、禅を好まなかった。
 6月7日 昭和天皇は、教皇ピウス12世の即位を祝う書簡を送った。
 日本は、ピウス12世が反共産主義を表明する事に共感を寄せ、国内の天皇打倒を主張する共産主義者を弾圧した。
 バチカンは、キリスト教を反宗教無神論共産主義の破壊から教会を救う為に、ナチス・ドイツ同様に日本との協調関係を求めていた。
 夏 海軍技術研究所電気研究部は、世界の最先端科学である原子力に興味を抱き、技術将校らを集めて、京都帝国大学理学部の萩原篤太郎講師に「超爆裂性原子U235に就て」の講演を依頼した。 9月1日 第二次世界大戦の勃発。
 10月27日 昭和天皇は、専門家による偏った進講(講義)に対して不満を漏らした。
 「皇室に関する事は何も批評議論せず、万事を可とするが如き進講は、何の役にも立たず」  



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