🎑46)47)─1─近代的民族国民国家大改造計画は、統一的日本国語の造設と普及に力を入れ、西欧語の公用語化を拒否して成功した。1900年~No.111No.112No.113No.114 @ 

十五年戦争期の天皇制とキリスト教 (シリーズ近現代天皇制を考える 3)

十五年戦争期の天皇制とキリスト教 (シリーズ近現代天皇制を考える 3)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 新教出版社
  • 発売日: 2007/05/01
  • メディア: 単行本
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本国語には、数多くの方言が存在していた。
 薩摩の国の薩摩弁と陸奥の国の津軽弁が、幾ら話し合っても話は通じなかった。
 それは、あたかも英語とドイツ語の会話ににている。
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 日本の底力は、日本民族のみが話す日本国語という単一言語である。
 日本国語という単一言語が、日本を崩壊、消滅、絶滅、滅亡から救った。
 国内言語の多様化が国家を発展させ生活を豊かにするというバラ色の話は、真っ赤であり、陰険な悪巧みである。
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 母国語を失った人間は無国籍人となり、母国語で歴史、文化、宗教、伝統を語れない人間の心は空虚になる。
 母国語の劣化は、民族消滅の始まりである。
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 「世論」とは、現在ただ今の世間に流行している人気のある説で、その時々の社会の雰囲気で風見鶏のように一瞬で変わる。
 「輿論」とは、社会の輿(こし・荷台)の層にいる一般民衆の歴史的に形成されて来た常識で、容易に変わる事はない説。
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 岡潔「日本人は、懐かしさの中に生きている」
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 アレキサンダーグラハム・ベル「時には踏みならされた道を離れ、森の中に入ってみなさい」
 人間の能力である、能動的な独創力は20歳が最高潮で後は年齢とともに衰えるが、受動的な分別力は失敗と成功の経験を数多く積んだ50歳以上にある。
 人間形成で重要なのは10代で、空想的に好奇心を持って、どれだけ自分から「疑い」「考え」「探究したか」である。
 能動的に大人から与えられ事だけをそつなくこなす子供は知識を得るが、個性は育たず、野心もなく、独創性は身に付かない。
 それは、人に嫌われても自分で道を切り開くクリエーターではなく、人に好かれる与えられた動きに合わせて忠実に動くドールにすぎない。
 パスツール「チャンスは、準備をした人達に訪れる」
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 台湾統治。学校で話す言語は日本語と定められ、台湾人がうっかり台湾語を話すと罰として正座させられた。
 台湾人にとって、祖国である台湾で台湾語を話すと罰せられる事に屈辱を覚え、内心に日本人を憎んでいた。
 日本人も、日本語を話せない台湾人を劣等人種として軽蔑し差別していた。
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昭和天皇は、日本の将来を見越してバチカンとの友好関係を築こうとしていた。
 ローマ教皇庁は、世界中に情報網を張り巡らしていて、膨大な情報がバチカンに集められていた。
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 新渡戸稲造は、『武士道』の中で、ベルギーの法律家ド・ラヴレーに日本は学校教育の場で宗教教育を行っていないと話した。
 ラブレーは「宗教教育こそが、人に正しい道徳を授け、善い人間形成を行うもの」だと反論したとの会話を書き記した。
 日本の近代教育の中には、世界常識である宗教教育は含まれていなかったと言われている。
 古代から、政治権力は、政治の場に宗教権威が介入する事を嫌っていた。
 非皇族の権力者は、祭祀王である天皇から一切の権限を剥奪し、権限のない「象徴」として政治の場に座らせていた。
 世界史に於いては、宗教権威は政治権力の上にあり、専制君主の正統性を承認する事で共存していた。
 大陸の初等教育は、宗教教育に力を入れていた。
 宗教を教えない教育はあり得ない、と言うのが世界常識とさていた。
 日本は、全ての面で、世界の非常識であった。
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 桶谷秀昭「意志と努力による現実への働きかけは、人に眼に見える何かの成果をもたらすことがある。あるいは何のむくいも手に入れることができないかもしれない。しかし、そのいずれでもない場合がある。まさにそういう意志や努力によって復讐されるとき、そこから芸術や文学の運命がはじまる。漱石はたしかに逃げまくったが、いかに逃げても自分を追ってくる何ものかから逃げ了せることができなかった。そして彼が小説を書きはじめてということは、もはや逃げ場はない、動くまいという決心であった。ここがいちばん辛い嫌な場所なら、ここを動いてはならぬという不動の覚悟のようなものである。
 いや、それは不動の覚悟などといえるようなしろものでさえなかった。逃げ場を失った者が最後の場所で、動くまいと覚悟を決めることが同時に立ちくらみを強いられるような位相である。それを逃げたといおうと、いや逃げたのではない、たたかったのだといおうと五十?百?である。そういうところへ硝石は自分を追いつめていって斃れた。……
 わたしのモチーフは、一言でいえば、存在恐怖者漱石と日本の近代の文明の変質過程との交叉する場所に、漱石を描くことであった」(『夏目漱石論』)
 オットー・ボルノウ「最も低い段階として、『生の感情』あるいは『気分』が、精神生活全体の基礎に位置する。それらは、人間の生の自己自身を──しかも常に一定の色付けられた方法で、一定の性格の価値付けや立場を伴って──知るに到る最も単純で最も根本的な形態である」
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 日本は、西洋語の公用語を拒否し、国際金融資本の投資・融資・支援を拒絶し、外国人の科学者や技術者の指導を極力避けて近代化に成功した。
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 日本が、白人キリスト教文明の西洋圏以外のアジア・アフリカ地域でなぜ、近代国家を建設し、政治、経済、軍事、科学、その他で成功できたのか?
 それは、多種多様な価値観を混同させる柔軟性に富んだ言語と、固定観念に囚われない斬新な発想で新語・造語・変換語を変幻自在に生み出す創造力豊かな言語にあった。
 日本の成功は、外来語を頼らなかった日本語にあった。
 日本の近代化の成功は、貧しい家庭の子弟が、世界的な高レベルな専門語を日本語で正確に読み解く理解力であって、一般的な西洋文学を西洋語の正しい発音で読み上げる事ではなかった。
 サムライ日本人は、欧米語を支配言語として盲信せず、神代からの大和言葉に信仰的な揺るぎない自信を持っていた。
 日本民族とは、日本語といっても過言ではない。
 日本語は、閉鎖的で排他的な単一言語というのは似つかわしくない。
 地方事に独自に発達した方言でムラ社会を形成していたが、発音は異なっても文法的には公用語的な大和言葉に似通っていた。
 例えれば、文法はにかよっていても発音や文字が異なる英語やドイツ語やフランス語その他の西洋語の様なものである。
 中世ヨーロッパでは、外交における共通言語はキリスト教会のラテン語で、学問や技術などの専門用語もラテン語であった。
 ラテン語公用語としていた時代、中世ヨーロッパは王侯貴族と庶民による貧富の格差は酷く、イスラム教世界に比べて文明度の低い貧困世界であった。
 西欧世界が発展したのは、ルネッサンスキリスト教会が支配する言語であるラテン語を捨て、辺境の田舎言葉であった地方語を自国語として採用してからである。
 地域の統一王朝が、王家の言葉を公用語と定め、王家の文字を国語として強制した事による。
 国家のまとまりは、言語・文字の統一が重要課題である。
 近代ヨーロッパまで、文字を支配していたのは僧侶・王侯貴族・商人・地主・学者・役人で、庶民は文字が読めない文盲であった。
 読み書き算盤ができる者は富み、できない者は貧しかった。
 フランス革命は、一種の、文字が読めない貧しい庶民による叛乱であった。
 庶民が文字を支配階級から奪って手にする事によって、国民国家として国家の発展が可能となった。
 日本は、早い時期から一般庶民でも読み書きができ、中には身分低い子供でさえ論語の様な簡単な漢籍が諳んずる事ができた。
 読むのに高度な教養が必要とされる漢字から、庶民でも読み書きできる平仮名や片仮名を新たな文字を創造した。
 特権階級が独占していた文字が日本全土に普及すると共に、身分低い庶民階級は国内外の高度な知識を日本語として理解できた。
 時代によって、国外からは入ってくる新たな専門用語を日本語に変換し、日本全国に書物にして広め、地方にいる日本人の好奇心を満足させていた。
 幕末から明治にかけて、サムライ日本人は「語学的たぐいまれな独創性」をもって西洋の近代的専門用語を日本文字に転換した。
 西洋語の中にあるキリスト教価値観をできうる限り省き、純然たる非宗教の科学的近代的専門用語に独立させた。
 政府高官から一般庶民までが、苦労して西欧語を学ばなくても日本語だけで文明開化ができた。
 アジア・アフリカの諸民族が、西洋化して近代国家を建設しようとして、なぜ失敗したか。
 言語の統一と外来専門用語の自国文字化を行わず、西欧言語と自国言語の二重言語使用、外来専門用語を自国語化せず外来語で身に付けようとしたからである。
 優れた語学能力を持った極わずか者は西欧語を身に付けたが、圧倒的多数の者は理解できなかった。
 日本人は、高等教育を受けて欧米語を学ばなくても、ある程度の事は日本語で理解できる。
 日本人の語学下手の原因は、ここにある。
 日本人は、興味があれば、高度な教養を必要とする世界最先端の専門書を日本語で翻訳した書籍を購入して読む事ができた。
 アジア・アフリカ諸国は、一般庶民の自国語では西洋を学べない為に、無理をして高い授業料を払って学校に通って高度な西欧語を習得する必要があった。
 知識は極一部の能力者の独占となり、冨は勝利者となった能力者に集中した。
 社会は、語学ができる少数派の裕福層と語学ができない多数派の貧困層に二分された。
 能力至上主義社会では、富める者は際限なく冨を独占し、貧しい者は貧困から抜け出せずさらに貧困へと追いやられた。
 日本は、民族言語・日本語で、西洋から地球全体さらには宇宙まで、有りとあらゆるものを学び理解した。
 日本以外の国は、国際言語であるキリスト教価値観の欧米語を学んで近代化をしようとして、未だに成功しきれていない。
 日本は国全体がある程度均一に教養と冨を共有したが、近代化できなかった国は言語というキーワードで少数派と多数派に二分化していた。
 サムライ日本がいた昔の日本は、富める者が先に富むという能力至上主義社会ではなく、多少の差はあっても国民と国家が同時に豊かになった。
 他国は、極一部の国民が外国語を話す事で豊かになったが、国家と圧倒的多数の語学能力のなかった国民が貧しかった。
 キリスト教に改宗し、キリスト教価値観を身に付けても、民族性を殺しては近代化はできなかった。
 だが。グローバル化という、民族言語による発展するという日本モデルは通用しなくなった為に、21世紀に日本が生き残る為に語学教育は大転換され日本語より英語教育に重きを置こうとしている。
 真実を言えば。現代日本人の語学転換能力は、幕末期のサムライ日本人に比べて劣化しているという言う事である。
 日本も貧富の格差が広がる事によって、国民は勝ち組・少数派と負け組・多数派によって分離する。
 将来の日本は、法律違反すれすれで世渡りが上手い者が得をして、正直者が馬鹿を見る世界的に当たり前な社会となる。
 日本語が、日本民族を証明できなくなっている。
 日本の和製漢字が、アジアを近代化にもたらした。
 中国や韓国の国家の発展や個人の富みは、日本の恩恵がなければ達成できなかし、今後に於いても日本がなければ維持できない。
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 異なった言語や文化や風習を排除する事なく受け入れる柔軟性は、江戸時代の参勤交代で培われた才能である。
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 金田一京助「大地の胸に湧くのは清水であるが、言葉は人間の胸に湧く清水であろう」
 民族言語は、単なる道具ではなく心を伝える媒体として、民族固有の文化や宗教の全てである。
 民族の国語を大事にしない民族は、全てを失って亡びる。
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 日本政府や教育指導者は、天皇の為・国家の為・社会の為・民族の為・国民の為、将来の日本を担える優秀な人材を育てる為に容赦なき厳しい教育を行った。
 国立・公立・私立に関係なく大学や各種専門学校は、国のエリートを養成する機関であった。
 戦後の大学と戦前の大学に通う学生の、自覚や覚悟には雲泥の差が存在し、人格としての人間性、自己で判断して行動するという自己責任における人間力にも自ずから差が存在する。
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 第一次世界大戦。連合国にせよ同盟国にせよ、軍律に背いて敵前逃亡した兵士や敵に情報を流すなどのスパイ行為を行った自国民を銃殺刑にした。
 キリスト教会は、祖国を裏切るような行為をして処刑された者や自殺した者は絶対神に背いた者として、絶対神の許しも祝福も慰霊も与えず、地獄に落ちた背徳者として教会管理の墓地での埋葬を許さなかった。
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 欧米列強は、植民地で地元住民の言語以外に、支配者の西洋語を公用語として強制した。
 西洋語の公用語とは、地元住民を西洋キリスト教価値観で文明人に再教育するのではなく、家畜化・奴隷化の為の洗脳にすぎなかった。
 生活言語から民族言語を消滅させ西洋語を公用語化する事は、民族言語による文化・宗教・価値観・習慣を完全消滅させ、高度教育を行うように見せながら知能レベルを低級に落とす事であった。
 数千年という長い時間かけて身に付けた民族言語による思考や習慣は、支配者の公用語・西洋語に転換できない以上、翻訳ができなければ不適用として捨てなければならない。
 当然。植民地の住民は、日常会話と一般常識を西洋語で覚える事で一生を終えてしまう為に知能の低下は避けられない。
 つまり、小中学校程度の教育は受けられるが、最高学府の大学の教育など受けられるはずがなく、小数の優秀な若者のみが何とか高校か専門学校の勉強にやっとついていける。
 植民地の住民は、何を措いても公用語・西洋語の日常会話を覚える事が先で、その後に西洋語の専門語を覚えなければならない。
 西洋語の専門語を覚えられる植民地の住民は、ほんの極々少数しかおらず、圧倒的大多数は絶望的に無理である。
 公用語・西洋語を受け入れた民族・国家は、国際市場はおろか地域市場でも競争力を失い、遂には国力を低下させ、宗主国に依存しなければ生存できなくなる。
 明治新政府は、日本の国際化と超エリートを育成する為に、帝国大学やナンバー高校で完全な西洋語授業を行う為に高額で優秀な外国人を雇った。
 西洋語の授業は、エリート育成には役だったが、日本の国際化と近代化にはたいして役に立たなかった。
 大学や高校で悪戦苦闘して何とか日常会話を習得しても、その先の最高レベルで難解な専門学問を学ぶには更なる言語の壁が存在していた。
 非西洋の国々が近代化に失敗して最貧国に転落し先進国になれなかったのは、公用語・西洋語に拘りすぎてこの言語の壁を克服できなかったからである。
 公用語・西洋語による言語教育は、地のレベルを高めるのではなく低下しか生まない。
 日本が近代化し先進国になれたのは、外国語専門学部以外での西洋語教育を止め、外国人教師を解雇して帰国させてからである。
 外国語教育を、外国文を意訳せず正確に日本語に翻訳するという読解力に特化させ、高度な文章や名文を音読する直読直解に力を入れた。
 エリートを目指す学生に、聴解力を鍛える為に原書を読み聞かせ、発音力を鍛える為に原書を読ませ、発話力と作文力を鍛える為にその場での翻訳を強制した。
 最高学府の大学生には、単なる話せるだけの外国語教育を認めなかった。
 日本の原動力は、母国語に拘り抜いて、全ての最新専門用語を日本語に翻訳し、中高校生に高レベル知識を大量に詰め込んだからである。
 その代わり、西洋語教育は基礎学力に留め、それ以上の語学力が欲しい学生は自費で自主的に学んだ。
 日本の国際的優位性は、西洋語の公用語化を放棄して、母国語である日本語に拘り抜いて生まれた。
 日本の原点は日本語であり、日本の繁栄は古今東西の古典と最新学問のバランスが取れた高度な教養による。
 日本を取り戻すと言う事は、「日本語」の再発見である。
 日本語の優位性を捨て英語の普及は、日本を捨て去る事である。
 夏目漱石「独立した国家という点から考えると、かかる教育は一種の屈辱で、恰度、英国の属国印度と云ったような感じが起きる。日本のnationalityは誰が見ても大切である。英語の知識位と交換の出来る筈のものではない。従って国家生存の基礎が堅固にあるに伴われ、以上の様な教育は自然勢を失うべきが至当で、又事実として漸々其の地歩を奪われたのである」(『語学養成法』)
 戦前の科学オタクの中学生は、西洋語で書かれた高度な原子力専門書を読まなくても原爆の基礎知識を持っていた。
 日本では、西洋語が話せなくとも科学の進歩や技術の革新に貢献する日本人が存在し、ノーベル賞の受賞者が誕生している。
 専門学問は日本語ではなく西洋語に限定されていたら、日本の文明開化と殖産興業という近代化は失敗していた。
 国際化の為に学校教育を西洋語で統一する事は、日本の特異性・優位性を破壊しようという思考停止による無知な愚挙・暴挙にすぎない。
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 日本文明・日本文化とは、万葉の昔から、心の内から込み上げてくる想いを「やまと歌」で詠いあげる詠歌(えいか)文化である。
 最初は口伝として、次に漢字を日本語の音に当てた不自然な万葉仮名で、約400年かけて考案された女文字である平仮名で、そして最後に庶民の文字で詠い継がれてきた。
 詠歌文化の守護者として存在していたのが、歴代天皇の御製であった。
 上は天皇や将軍から下は百姓町人はおろか乞食などの下衆下郎に至るまで、日本語で和歌や俳句など人前で読み上げていた。
 神代から続く詠歌を心豊かに嗜むべく日本語を大事にし、情緒を深め、美しさに磨きをかけ、幽玄なる趣を持たせ、そして言霊を大切に守り通してきた。
 詠歌文化には、自然崇拝である日本神道の宗教観・人生観・死生観が含まれている。 
 その象徴が、伊勢神宮である。
 皇室が詠歌文化そのもである以上、詠歌文化がある限り皇室は存在する。
 皇道とは、政治権力でもなければ、宗教権威でもなく、人の思い込みで流行り廃りする倫理や道徳でもなく、唯々美しさを探究する良心という求道文化である。
 日本文化は、神代から続く古い物語の中に存在する。
 詠歌文化は、日本民族のみが独占するものではなく、広く開放され、日本人以外の外国人でも慣れ親しむ事ができ、日本人以上にその心を体得した外国人もいる。
 靖国神社にせよ、明治神宮にせよ、全ての神社は、信仰があろうがなかろうが、仏教徒であれ、キリスト教徒であれ、イスラム教徒であれ、全ての人に開放されている。
 「生まれて死ぬ」という避けられぬ原則を逃げず見詰め受け入れる事を覚悟した者のみが、詠歌文化を真に理解した。
 その「もののあわれ」の求道者が、和歌を極めようとした西行法師であり、俳句を極めようとした松尾芭蕉である。
 小野小町も、菅原道真も、与謝野蕪村も、小林一茶も、正岡子規も、種田山頭火も、
 歌舞伎も、能も、浮世絵も、掛け軸も、
 剣道も、柔道も、
 日本庭園も、
 和食も、和菓子も、
 日本玩具も、
 日本のもの全てに通じる。
 「色即是空、空即是色」
 「一期一会」
 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
 「武士道とは死ぬ事と見付たり」
 詠歌文化は、命の賛歌として、言葉の上で「生と死」「亡び」を演じる事で心に落ち着きを与え、心に苛立たない平安をもたらしていた。
 死を見詰める事で命を考え、滅びる事を覚悟し成長する。
 今この時の、儚い命を悔いなく爽やかに生き抜きる。
 亡びるかもしれないから、モノを「もったいない」として大事にする。
 日本的な、心に豊かさと安心をもたらす情緒。
 詠歌文化は、中国や朝鮮の影響を受けたが日本で生まれた日本独自の文化であり、中国や朝鮮から伝わった文化ではない。
 自然しかない日本列島で、移り変わりやすい気候風土の中で、生まれた。
 詠歌文化も日本神道も心の根の美しさを大事にして、手順としての定めがあるが固定された決まり事はない。
 言霊を持つ言葉は、目に見えないが人の心に残り、人を殺す事も人を生かす事もでき、人を助け励まし癒す事もでき、人を貶め苦痛を与え絶望させる事もできる。
 詠歌文化とは、言霊を持った言葉を、荒ぶれた言葉として「怨」に悪用せず、和む言葉として「浄め」の為に正しく使う事である。
 ゆえに。意見の相違から激しく激論を交わそうとも、相手を辱めるな個人攻撃としての罵詈雑言は禁忌とされた。
 日本の民主主義による意思決定は、全員が責任を持つ全会一致であって、一人の指導者に全責任を押し付けて逃げる多数決ではない。
 現代日本に於いて、日本語の美の中核である雅で粋な情感ある「やまと歌心」は衰微し、思慮なく無分別な下品、下劣な暴言や放言など騒音の様な言葉が氾濫している。
 子供達に、国際人になるには、全てを話さなくても意思は伝わるという日本語の語感では通用せず、自我を持って思った事を相手に伝える自己主張が大切であると教えている。
 言葉は、他人の事よりも自分の事を話す事であり、集団の事よりも個人の事を表現する事であると。
 現代の政治家、官僚、企業家が得意とするのは、他人が作詞作曲し歌手がヒットさせた歌を上手く真似して歌うカラオケであって、自分の想いを言葉を選んで読み上げる詠歌ではない。
 現代日本に於いて、グローバル化の名の下に、神代から皇室を通じて大事に受け継がれた来た独創的詠歌文化は衰微し消滅しようとしている。
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 戦前の日本人は、英語に無縁で生きていた。
 英語は旧制中学校(現代の高校)から学んだが、国際外交、文化、宗教、科学、医学など多方面で世界が一目置く程の国際人が多く生まれた。
 戦前で。世界に名の知れた、世界史に名が残る日本の政治家、官僚、軍人、学者、宗教家、科学者、医者、冒険家などは数多くいる。
 それに比べて。戦後教育を受けた日本人で、世界に名の知れた日本人は数える程しかいないし、世界史に残る日本人はさらに少ない。
 児童に対して英語教育があまり熱心でなかった戦前の方が、学童に対する英語教育を徹底しようとしている現代の方が、世界が惚れ込むような国際人的日本人がいない。
 国際人になりきれない自分のダメさを隠したい現代日本の大人達は、小学校での英語教育普及に熱心である。
 国際人という点において、現代日本よりも戦前の日本の方が優れていた。
 現代の英才教育は、国際人を育成するのではなく、むしろ国際人を作らない為の教育といっても過言ではない。
 それは、政治家や官僚など、大人全体の教養低下を意味している。
 現代の日本人は戦前の日本人と全く事なり、戦前の国際人日本人を持ち出して啓蒙しようとする事は無意味であり、持ち出す事が現代人の自信のなさを証明している。
 むしろ。現代に於ける、自分のダメさ加減や恥をさらけ出し、自分の失敗例を子供に包み隠さず教える事の方が、遙かにためになる英才教育である。
 剣道や柔道などの古武道は、勝つ事よりも負けない事を最良の極意とし、失敗しない為に成功例より失敗例から多くを学んだ。
 「負けない工夫をする」という柔軟性豊かな古武道精神は、「勝ち」を唯一絶対視する硬直した現代日本にはもうない。
 だが、日本古来のモノが古臭く時代遅れで役にたたず日本人の為にならないと確信して、全てを一まとめにして捨て去る決断をしたら、それもまた時代の流れと言うしかない。
 人類史、大陸史、世界史において、そうして消滅した少数民族の伝統、文化、言語、宗教は、数多く存在している。
 日本もその運命からは逃れられない。
 単一化・画一化によって、地球上から数多くの民族が姿を消し、その民族が古く受け継いできた文化、言語、宗教も消滅した。
 伝統、文化、言語、宗教は優れているから残るのではなく、残したいと念う人が多ければ残るし、残す必要がない念う人が多ければ残らない。
 日本の伝統、文化、言語、宗教も、残したいと念う日本人が多ければ残るし、念わなければ残らない。
 民族が受け継いだ古い伝統、文化、言語、宗教が消滅しても、日本人は生き残る。
 消滅するのは日本民族であって、日本人ではない。


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昭和史の天皇―原爆投下 (角川文庫)

昭和史の天皇―原爆投下 (角川文庫)

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  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1988/11
  • メディア: 文庫