通化事件―共産軍による日本人虐殺事件はあったのか? いま日中双方の証言で明らかにする
- 作者: 佐藤和明
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ご存じでしたか 2014/01/03 02:36
戦後、中国、朝鮮人が日本人へ行った虐殺の数々の事実!!!
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記事抜粋
<中国共産党軍の単独進駐以降>
ソビエト軍の撤退後、通化の支配を委譲された中国共産党軍は、
「通化省行政」の幹部を連行し、拷問や人民裁判の後、中国人幹部を全員処刑した。
また、中国共産党軍は「清算運動」と称して民族を問わず通化市民から金品を掠奪。
9月22日には、中国共産党軍が中華民国政府軍を攻撃し、通化から駆逐した。
10月23日、正規の中国共産党軍の一個師団が新たに通化に進駐。
11月2日、中国共産党軍劉東元司令が着任する。
11月2日、中国共産党軍は17000名を超える遺留民に対して、収容能力5000名以下の旧関東軍司令部への移動命令を出した。
遺留民1人につき毛布1枚と500円の携行以外は認めないとした。
通化は氷点下30度になる極寒の地であり、無理な要求であった。
11月初旬、中国共産党軍は「遼東日本人民解放連盟通化支部(日解連)」を設立。
日本人に対して中共軍の命令下達や、中国共産党で活動していた野坂参三の著作などを使用した『共産主義教育』を行った。
日本人民解放連盟は中共軍の指令に従い、日本人遺留民に対し財産を全て供出し再配分するよう命じた。
日本人遺留民たちが嘆願を続けると、中共軍は移動を見合わせる条件として、
日本人全員が共産主義者になることへの誓約、
全財産の供出と中国共産党および日本人民解放連盟への再分配を要求した。
11月17日、中国共産党軍は大村卓一を満鉄総裁であったことを罪状として逮捕。
また中国共産党軍は武器捜索を名目に、日本人家屋に押し入り、(蜂起当日まで)連日略奪をおこなった。
男女を問わず日本人を強制的に従軍・徴用(無償の強制労働)した。
<虐殺>
拘束から5日後に部屋から引き出されると、日本人は「朝鮮人民義勇軍」の兵士たちに棍棒で殴りつけられ、多くが撲殺された。
撲殺を免れた者の多くは手足を折られるなどした。
その後、中国共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した渾江(鴨緑江の支流)の上に引き出されて虐殺が行われた。
川岸に一人ずつ並べられた日本人が銃殺されて行く姿は皇弟妃浩によっても目撃されている。
渾江の下流の桓仁では、中国共産党軍の兵器工場で働いていた中村良一が連日に渡って 上流から流れてくる遺体を目撃している。
女性にも処刑されるものがあった。
川の上には服をはぎ取られた裸の遺体が転がっていた。
男性たちが拘束されている間、中国共産党軍の兵士には日本人住居に押し入り、
家族の前で女性を強姦する者もあり、凌辱された女性からは自殺者も出ている。
また事件後に蜂起の負傷者に手当を施した者は女性・子供であっても容赦なく銃殺された。
林少佐には銃殺命令が3度出されたが、そのたび政治委員黄乃一の嘆願によって助命された。
<人民裁判>
処刑の決定には、「人民裁判」と称する手続きがとられることもあったが、法的な手続きとはいえないものであった。
次のような証言がある。
「中国共産党の本拠地である延安から派遣された若い裁判官の前で、台の上に日本人が立たされる。
満州時代の罪状を民衆に問う。
黒山の野次馬の中から「俺達を酷使した、俺達を殴った」という声が上がる。
裁判長が「どうする」と問うと、「打死!打死!(殺せ殺せ)」と民衆が叫び、
これで裁判は終わり。
その日本人は背中に「南無阿弥陀仏」と書かれ、馬に乗せられて市内引き回しの上、
河原に連れて行かれて次々と銃殺された」。
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- 作者: 松原一枝
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