💍26)─1─核兵器廃絶でノーベル平和賞を受賞したNGO代表ベアトリス・フィンの「3発目も日本」発言。〜No.100No.101No.102 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年6月9日号 週刊新潮「変見自在  高山正之
 3発目も日本
 少し前、核兵器廃絶を訴えてノーベル平和賞をもらったNGOの代表ベアトリス・フィンが来日した。
 趣旨からいって唯一の被爆国、日本には同情的かと思いきや、この女はやたらと棘々(とげとげ)しかった。
 彼女のお勧めの核兵器禁止条約を日本がシカトした。それが気に食わなかったからか。
 ただ日本はマッカーサー憲法のせいで核もまともな軍隊も持てない。
 国を守るためには米国の核の傘が必要なのに核禁止条約に入れば核の傘からも出なくてはならない。
 批准しないもう一つの理由は『唯一の被爆国の権利』だ。再び核の脅威に曝されないよう、日本はどの国よりも優先して身を護る核をもつ権利がある。
 それに非人道的な原爆を投下した米国に対し、日本は今も2発の核の復讐権を留保している。
 トルーマンが投じた原爆で死んだ20万のうち8割は国際法で言う非戦闘員の女子供だった。
 しかも長崎では『プルトニウム型の人体実験』(米エネルギー省)もやった。米国はその蛮行を未だに謝罪もしていない。
 日本人はあのとき必ず仇(かたき)を取ると誓った。それを自ら放棄する理由はこれっぽちもない。
 フィンはそんな事情を理解もしないで、私の顔を潰すような不貞腐れは許さないと怒って言い放った台詞が凄い。『広島、長崎に加えて日本は3発目を食らうだろう』だと。
 彼女に差別意識がなければ日本で暇つぶしなどせずに、今ならモスクワにすぐ飛んで核使用を仄めかすプーチンにその思いをぶつけているところだろう。
 実に姑息な女だが、ただ彼女の言った。『日本が3発目を食らうだろう』は決して非常識な言葉ではない。
 根拠は実は国連憲章の『敵国条項』だ。
 先の大戦で連合国と戦った日、独、ハンガリーフィンランドなどを指す。
 この前歴がどれほど重いかは憲章53条の『武力制裁』を見ればいい。
 例えば目下ウクライナ侵攻中のロシアだ。この国は以前、日本が降伏したあとに日本に攻め込んで今ウクライナでやっているのと同じに強姦、略奪、殺戮を恣(ほしいまま)にした。挙句に南樺太から北方4島まで日本の領土を奪っていった。
 ロシアは東欧でも共産化を拒む市民に躊躇(ためら)いなく発砲し、戦車で轢き殺して喜んでいた。
 そういう悪い国に憲章53条は『各国が協力して軍事制裁を科す』ことにし、ただその発動には安保理の承認を求めている。今回もそうなるはずだったが、常任理事国のロシアが拒否権を使うから通らない。
 ただ53条には後段があって、ならず者国家が日本やドイツなど旧敵国だった場合、脅威を感じた国々は『安保理の承認なしでも武力制裁をしていい』ことにしている。
 旧敵国とはロシアの如き生来のならず者国家で、非行に走れば勝手にリンチしていいと言っている。
 例えば日本が敵基地攻撃用ミサイルを装備したとしよう。それを支那北朝鮮日帝復活の兆しと勝手に判断したら日本に核を降らせてもいいとしている。
 しかもそれは国際憲章で認められた正当な行為など判断される。
 いやいや旧敵国条項は30年前の国連憲章で廃止が決まった、もはや死文化の条項だという声がある。
 しかし安保理はなだ廃案を決めていない。
 それどころか支那楊潔篪尖閣に絡んで『旧敵国のくせに支那の領土を取る気か』と、旧敵国条項を使う気すら見せている。
 北も然り。そんなならず者国家敵国条項は『正義の刃』を持たせている。
 そんなのに日本では首相が『非核三原則があるから核論議はしない』と核報復権を否定し、敵基地攻撃はいかがなものかとバカな野党が声をそろえる。
 日本は3発目をぶち込んでも報復する気もないとなれば支那も北も躊躇いはないだろう。
 そういう狂気が日本海の向こうから確かに伝わってきていないか。」
   ・   ・   ・   
 朝日新聞
 核禁条約、不支持の日本に失望 ICANフィン事務局長
 有料会員記事核といのちを考える
 聞き手・松井健2020年10月25日 10時42分
 ベアトリス・フィンICAN事務局長(ICAN提供)
 核兵器禁止条約の批准国・地域が24日、50に達した。条約の採択を推進し、2017年のノーベル平和賞を受賞した国際NGO核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のベアトリス・フィン事務局長(37)が、直前の21日にオンラインでのインタビューに応じ、条約の意義を改めて強調した。
 核兵器禁止条約、発効条件満たす 50の国・地域が批准
   ◇
 私たちにとっては大きな瞬間だ。批准国・地域が50に達するのは、今年の数少ない前向きな出来事の一つだ。
 この条約は巨大な影響を与えることになるだろう。一日で世界をすぐに変えるわけではないが、私たちが言ってきたように、これは核兵器の終わりの始まりだ。核兵器は今や国際法で禁止され、後戻りはない。
 批准のプロセスが国によって大きく違うことを考えると、採択から時間がかかったとは思わない。核保有国が批准しないように圧力をかけた例もあるが、無視して批准へ進んだ国も多い。
 歴史的に見て、化学兵器や対人地雷、クラスター爆弾などが禁止されると、それらを拒否する国際的な反応が起きる。条約に加わっていない国でもだ。人々の目には受け入れられないものと映る。核兵器でも同じことを起こすことができる。私たちがすぐにもできる具体的なこととして、核兵器の製造企業からの投資の撤退(ダイベストメント)の銀行への働きかけがある。
 また、見逃されがちだが、条約の定める具体的な義務の一つに、核兵器の使用や実験による被害者への援助や環境被害に対する改善がある。私にとっては重要な点で、この条約で一人でも救うことができれば、それは価値のあることだ。
 (原爆を投下された)日本の経験を考えると、日本が核兵器を合法のままにしようとしていることに失望している。日本は核兵器がどういうものかをよく知っている。条約を支持しないことで、政府は同じことが再び起きるのを許そうとしている。
 日本の人々が参加を強く支持していることは知っている。しかし、条約に加入しないならば選挙で選ばないと声を上げるなど、政府に要求する必要があると思う。
 核兵器禁止条約とは? 日本は未署名、法的拘束力なし
 被爆者は核兵器の実態を知っ…
 この記事は有料会員記事です。残り518文字有料会員になると続きをお読みいただけます。
   ・   ・   ・   
 しんぶん赤旗
 2022年1月24日(月)
 世界の揺るぎない支持
 核禁条約 交渉会議のホワイト議長語る
 (写真)国連本部で記者会見するホワイト議長=2017年3月、ニューヨーク(島田峰隆撮影)
 【ワシントン=島田峰隆】22日に発効から1年を迎えた核兵器禁止条約の国連交渉会議で議長を務めたエレン・ホワイト氏(コスタリカ)は、2017年の採択から今日までの世界を振り返り、「条約に対する揺るぎない支持のメッセージが送られている」と強調しました。米民間団体「プラウシェアズ基金」が同日までに公開したインターネット番組の中で述べました。
 ホワイト氏は、新型コロナウイルスの影響や複雑な国際情勢にもかかわらず署名・批准国が増え続けてきたと指摘。「世界の大多数の国々が人類のために核兵器の全面廃絶に取り組む決意を確認したということだ」と語りました。
 また3月に開催予定の第1回締約国会議は、核廃絶の実践に向けた「実質的な議論の出発点」になるとして期待を表明。「人類の大多数はすでに核兵器のない安全保障の枠組みの構築へ明確な選択をしている」と指摘しました。
 ホワイト氏は、交渉会議が成功したのは、市民社会、中小国、国際機関などの「強力な連携」が形成されたからだと指摘。「この連携は、大国の指導や関与を待つことなく、人類の幸福になると確信したプロセスを主導した」とし、「この形が21世紀の国際政治の明確な特徴だ」と強調しました。
 また核爆発がどのような影響をもたらすかについての科学的知見を政治と結び付けたことが、核兵器の法的な禁止を求める歴史的流れを強めたと指摘。「核兵器の禁止を求める声は広島と長崎での原爆投下の直後から上がっていた」と述べました。
 ホワイト氏は交渉会議に被爆者、会議事務局、市民社会などの代表として女性が多く参加したことを強調。「私が一緒に働く機会を得た多くの素晴らしい女性たちがリーダーシップを発揮した。そのことが特に会議を成功に導いた」と語りました。
   ・   ・   ・   
 軍縮会議日本政府代表部
 核兵器の禁止
 2021/9/30
1 核兵器の禁止の概念(2017年の核兵器禁止条約の採択に向けた動きが高まるまで)
 「核兵器条約」(NWC:Nuclear Weapons Convention)の構想は、民間団体「核兵器に反対する法律家協会(IALANA)」、「核戦争防止国際医師の会(IPPNW)」、「拡散に反対する科学者国際ネットワーク(INESAP)」により発表され、1997年にコスタリカがモデル核兵器禁止条約として国連に提出した。2007年にはコスタリカ及びマレーシアが、2010年NPT運用検討会議第1回準備委員会に対し作業文書として同条約案の改訂版を提出し、また、国連にも提出した。同条約案は、核兵器の完全な禁止及び検証を伴う廃絶を規定したものであり、締約国の一般的義務として、(1)核兵器の開発、実験、生産、貯蔵、移譲、使用及び使用の威嚇の禁止、(2)核兵器国の核軍備(核兵器、核施設)廃棄、(3)核兵器に利用可能な核分裂性物質の生産禁止、(4)運搬手段の廃棄、(5)検証措置の実施を規定している。「核兵器条約」については、2008年に潘基文国連事務総長(当時)が、講演の中で発表した5項目の提案の1つとして、「強力な検証システムに裏付けられた核兵器条約の交渉が検討できる」と述べ、2010年NPT運用検討会議の最終文書で、「核兵器条約の交渉に関する検討を含む事務総長の5項目提案に留意する」 と言及している。
 以下2の「核兵器禁止条約」と区別するために、核兵器国に対して核兵器を物理的に廃棄することを義務付け、それを検証する措置を備えることを定める「核兵器条約」は「包括的核兵器条約」とも呼ばれる。
 なお、「核兵器条約」とは別に、その前段階として、核兵器の使用及び威嚇を禁止する「核兵器使用禁止条約」を交渉すべきとの考え方もあり、1996年第51回国連総会以降、インドが国連総会に対し、核兵器の使用又は使用の威嚇を禁止する国際協定締結のための交渉を開始することを要請する決議案を提出し、2020年にも採択されているが、核兵器使用禁止の要素は2021年1月に発効した核兵器禁止条約にも含まれている。
2 「核兵器禁止条約」をめぐる近年の動き
 核兵器の非人道性に関する議論やこれに関する国際会議の結果、また、核軍縮の進展の遅さへの不満もあり、核兵器国が参加しない形であっても、核兵器の使用、開発、保有など核兵器に関するあらゆる側面を法的に先行して禁止する「核兵器禁止条約」を策定すべきとの主張が強まった。2015年NPT運用検討会議においては、法的条文を含めNPT第6条の「効果的措置」について議論するオープン・エンド作業部会(OEWG) の設置が議長の最終文書案に盛り込まれたものの、最終的には、中東問題が直接の原因となって同文書案は採択されなかった。このOEWGは、その後、同年10月からの第70回会期国連総会第一委員会において、メキシコが、核兵器のない世界を達成・維持するために締結される必要のある具体的かつ効果的な法的措置、法的条文及び規範を実質的に検討するためのOEWGを設置する「多国間核軍縮交渉前進」決議を提出、採択された。
 同決議に基づいて、2016年2月~8月にジュネーブにおいて、OEWGが三回開催された。OEWGでは、核兵器のない世界に向けた具体的かつ効果的な法的措置、法的条文及び規範についての実質的議論が行われ、核兵器禁止条約の交渉開始を勧告する報告書が賛成多数で採択された(日本は、OEWGの議論に積極的に参加し、現実的かつ具体的な核軍縮措置としてFMCT、CTBT、透明性措置などを示し、これらは報告書に反映されたが、核兵器国の参加がなかった中で、核兵器禁止条約の交渉開始を勧告することは効果的な核軍縮措置とはいえないとして、報告書採択の際には棄権を投じた。なお、他の核兵器の抑止を認める国の多くも反対または棄権の立場を取った)。この報告書の採択を受けて、2016年10月からの第71回会期国連総会において、オーストリア、メキシコ、南アなどが、OEWG の報告書を歓迎しつつ、核兵器の廃絶につながる核兵器を禁止する法的拘束力のある文書の交渉会議を2017年にニューヨークで招集する「多国間核軍縮交渉前進」決議を提出、採択された。
 同決議に基づいて、2017年3月、6月~7月に、核兵器禁止条約交渉会議が、コスタリカ議長の下で2回開催され、100以上の政府、市民社会が参加し、7月7日に核兵器禁止条約が採択された(122か国が賛成、オランダが反対、シンガポールが棄権。)。同条約は、第1条で、(a)核兵器その他の核爆発装置(以下「核兵器」という。)の開発、実験、生産、製造、取得、保有又は貯蔵、(b)核兵器又はその管理の直接的・間接的な移転、(c)核兵器又はその管理の直接的・間接的な受領、(d)核兵器の使用又は使用の威嚇、(e)この条約が禁止する活動に対する援助、奨励又は勧誘、(f)この条約が禁止する活動に対する援助の求め又は受入れ、(g)自国の領域又は管轄・管理下にある場所への核兵器の配備、設置又は展開の容認等を禁止することについて規定している。NPTとは異なり、同条約では一部の国に核兵器国としての地位を認めておらず、条約の義務は全締約国に適用される。同条の規定にかかわらず、核兵器保有する国が核兵器を可及的速やかに破棄することが義務付けられている。同条約は、2017年9月20日に署名のため開放され、50か国の批准後90日で発効するとされており、2020年10月24日、50番目の締約国としてホンジュラスが同条約を締結したことを受け、2021年1月22日に発効した。同条約には2021年1月6日現在、86か国が署名、51か国が批准している。なお、日本は2017年3月の第1回核兵器禁止条約交渉会議ハイレベル・セグメントにおいて、核軍縮を進めるには核兵器使用の非人道性と安全保障の両方の認識に加えて、国際社会の対話と協力が不可欠だが、今回の交渉は核兵器国の協力を通じ、核廃絶に結びつく措置を追求する交渉のあり方が担保されていない旨表明し、それ以降の交渉には参加しなかった(核兵器国は参加せず、核抑止の下にある国の中ではオランダのみが参加した。)。
3 「核兵器の威嚇又は使用の合法性」に関する国際司法裁判所(ICJ)勧告的意見
 1993年、IALANA、IPPNW等が形成した「世界法廷プロジェクト」運動の結果、世界保健機関 (WHO)総会において、健康及び環境の見地から、核兵器の使用の合法性につきICJ勧告的意見を要請する決議が採択された。また、翌1994年、インドネシアが国連総会に、核兵器の使用の合法性につきICJ勧告的意見を要請する決議を提出し、採択された(多くの西側諸国が反対する中、日本は、唯一の戦争被爆国として、核兵器は二度と使われてはならないものの、本件が各国間の対立を助長することになりがちであるとして棄権した。)。
 ICJはWHOの請求は却下したものの、1996年7月、国連総会からの要請に対して次のとおり勧告的意見を出した。「(中略)核兵器の威嚇又は使用は、武力紛争に適用される国際法の要件及び特に人道法の原則及び規則に一般的に違反することとなる。しかしながら、国際法の現状及び入手可能な事実関係に鑑み、裁判所は、国の生存そのものが問題となるような極限状況における核兵器の威嚇又は使用が合法か違法かを確定的に結論することはできない(賛成7-反対7、裁判長の決定票)」 としつつ、「厳格かつ効果的な国際管理の下におけるあらゆる側面での核軍縮を目指す交渉を誠実に行い、かつ妥結させる義務が存在する(全会一致)」とした。
 このICJによる勧告的意見を受け、マレーシアは、1996年の第51 回総会以来現在に至るまで毎年、国連総会に対し、ICJ判事の全会一致の意見である核軍縮交渉を妥結する義務についてフォローアップを要請する「核兵器の威嚇又は使用の合法性に関するICJ勧告的意見フォローアップ」決議を提出し、2017年以降は、同決議の中で核兵器禁止条約の採択を歓迎し、同条約に基づくものも含めて核軍縮に向けた多国間交渉への関与を要請している。
 なお、2014年4月には、マーシャル政府が核兵器保有すると考えられる9か国・ 地域(米国、ロシア、英国、フランス、中国、インド、パキスタンイスラエル及び北朝鮮)について、 核軍縮に向けた交渉を誠実に追求せず核戦力を増強しているのは、核兵器不拡散条約(NPT)第6条に明記されている核軍縮の(誠実交渉)義務及びそれに基づく国際慣習法に違反しているとして、国別にICJに提訴する動きも見られた。
4 日本の立場
 我が国は、核兵器禁止条約が掲げる核兵器廃絶という目標は共有している。一方、同条約は、その交渉に当たりいずれの核兵器国等の参加も得られず、また、現実の国際社会における安全保障の観点を踏まえて作成されたものとはいえないことから、核兵器国のみならず、核の脅威にさらされている非核兵器国からも支持を得られていない。現実の国際社会においては、いまだ核戦力を含む大規模な軍事力が存在しており、そのような厳しい安全保障環境の下で我が国として安全保障に万全を期するためには、核を含む米国の抑止力に依存することが必要である。我が国としては、核兵器のない世界の実現に向けて、核兵器の非人道性と安全保障の二つの観点を考慮しながら、現実的かつ実践的な核軍縮のための措置を着実に積み上げていくことが重要であると考えている。同条約に署名しないのは、同条約の考え方がこうした我が国の立場とは異なるものであるためである。(令和2年10月2日「参議院議員小西洋之君提出核兵器禁止条約に関する質問に対する答弁書」)
 なお、2017年3月に行われた核兵器禁止条約交渉第1回会議ハイレベル・セグメントにおいて、高見澤將林軍縮代表部大使(当時)は、「(核兵器国を含む国家間の信頼醸成や安全保障環境を整備するなどの)努力を核兵器国・非核兵器国を含む全ての国の行動を通じて積み上げ、核兵器の数が十分に減少した時点、我々が提案してきた進歩的アプローチで『最小限ポイント』と呼んだ状態の達成を見通せるようになって初めて、核兵器のない世界を達成し、維持するための『最後のブロック』として、核兵器を廃絶するための実効的で意味のある条約を作ることができる。そして、その段階において、包括的核兵器条約(NWC)を含め、非差別的で国際的に検証可能な核軍縮のための適切な枠組みにつき、更なる検討をすることが可能になると考える。」と発言している。
   ・   ・   ・   
 長崎大学核兵器廃絶研究センター
 第53回国連総会:新アジェンダ連合(NAC)決議
 核兵器のない世界へ:新しいアジェンダの必要性
 1998年12月4日採択、A/53/77Y
 共同提案国:ベナンボツワナ、ブラジル、カメルーン、チリ、コロンビア、コンゴコスタリカエクアドルエジプト・アラブ共和国エルサルバドル、フィジーグアテマラアイルランドレソトリベリア、マレーシア、マリ、メキシコ、ニュージーランド、ナイジェリア、パナマ、ペルー、サモアスロベニア※、ソロモン諸島南アフリカスワジランドスウェーデン、タイ、トーゴウルグアイベネズエラザンビア
追加提案国:ケニア
 ※共同提案から撤退。
 総会は、
 核兵器の存在によって課された人類の存続そのものへの脅威に警告され、
 核兵器が無期限に保有されるという展望を憂慮し、
 核兵器能力をもちながら核不拡散条約(NPT)に加盟していない3カ国が、核兵器の選択肢をひき続き保持していることを憂慮し、
 核兵器保有しつつ、偶発的にも決定によってもそれを使用しないことが可能であるという議論は、信頼性を欠くものであり、唯一の完全な防御は、核兵器を廃棄し、核兵器が再び製造されないと保証することであると信じ、
 核兵器国が、自国の核兵器を廃棄するという誓約を、迅速かつ完全に履行してこなかったことを憂慮し、
 核兵器能力をもちながらNPTに加盟していない3カ国が、核兵器の選択肢を放棄していないこともまた憂慮し、
 大多数の国が、核兵器およびその他の核爆発装置を、受領あるいは製造せず、その他の方法で入手しないということについて法的拘束力のある約束をおこなったこと、そして、 このような試みは、それに対応するような、核軍縮を追求するという、核兵器国の法的拘束力のある約束を背景として、なされたものであることに留意し、
 1996年の勧告的意見における、国際司法裁判所(ICJ)の全員一致の結論、すなわち、厳格かつ効果的な国際管理の下において、すべての側面での核軍縮に導く交渉を誠実におこない、かつ完結させる義務が存在することを想起し、
 限りない将来にわたって核兵器保有が正当であるとみなされるような見通しを持って、国際社会は3000年期に突入してはならないことを強調し、現在の岐路が、核兵器を永久に禁止し廃絶することに着手するまたとない機会を提供していると確信し、
 核兵器の完全な廃棄のためには、もっともたくさんの核兵器保有する核兵器国が最初に措置をとることが必要であると認識し、また、より少ない核兵器保有 する核兵器国が、近い将来において切れ目のない形でこれらの国々につながってゆかなければならないことを強調し、
 STARTのこんにちまでの成果および将来の約束を歓迎し、またそれが、核兵器の廃棄をめざして企図された、核兵器の実際の解体および破壊という目的をもった、すべての核兵器国を含む多国間の機構として発展する可能性を示していること歓迎し、
 保有核兵器を現実に廃棄し、そのために必要な検証体制を開発する前に、核兵器国が即座にとることができ、またとるべきである多数の実践的措置があると信じ、これに関連して、最近の一方的な措置およびその他の措置に注目し、
 ジュネーブ軍縮会議(CD)において、「核軍拡競争の停止と核軍縮」というそのアジェンダ(議事次第)の第1項の下で、専門コーディネーターの報告書 (CD/1299)とそこに含まれている委任権限に基づいて、差別的でなく、多国間の、国際的かつ効果的に検証可能な、核兵器およびその他の核爆発装置用の核分裂物質の生産禁止条約を交渉するための特別委員会の設置に関する合意が最近得られたことを歓迎し、また、このような条約は、核兵器の完全な廃棄に至る過程をさらに下支えするものでなければならないと考え、
 核兵器の完全な廃棄が達成されるためには、核兵器の拡散を防止する、実効的な国際協力が不可欠であり、とりわけ、核兵器あるいはその他の核爆発装置用のすべての核分裂物質に対する国際的管理の拡大を通じて、そのような協力は増進されねばならないことを強調し、
 現在ある非核地帯諸条約の重要性、およびそれら諸条約の関連議定書の署名と批准の重要性を強調し、
 1998年6月9日の共同外相宣言に注目し、またそれが、2国間、数国間、多国間のレベルにおいて、相互に補強し合う一連の措置を並行して追求することを通じて、核兵器のない世界を達成するための新しい国際的アジェンダを要求していることに注目し、
 1. 核兵器国に対して、それぞれ自国の核兵器を迅速かつ完全に廃棄するという明確な誓約を示し、また、遅滞なく、核兵器の廃棄に通じる交渉を誠実に追求し締結に至らしめ、それによって、NPT第6条の下での義務を履行することを要求し、
 2. 合衆国とロシア連邦に対して、これ以上の遅滞なくSTARTⅡを発効せしめ、即座に続いて、STARTⅢについて、早期締結の見通しをもって交渉を続けることを要求し、
 3. 核兵器国に対して、核兵器の完全な廃棄に通ずる過程に、5つの核兵器国すべてが切れ目なく統合されてゆくために必要な措置をとることを要求し、
 4. 核兵器国に対して、非戦略核兵器への依存度を弱めること、および、包括的な核軍縮のとりくみの中の重要な一部分として、非戦略核兵器の廃棄の交渉を行うことを、強く追求することを要求し、
 5. 核兵器国に対して、暫定的措置として、自国の核兵器の警戒態勢を解除し、また、運搬手段から核弾頭をとり外すことに着手することを要求し、
 6. 核兵器国に対して、戦略的安定性を高めるための措置など、さらなる暫定的措置について調査し、それに従って、戦略ドクトリンを再検討することを要請し、
 7. 核兵器能力をもちながらNPTにいまだ加盟していない3カ国に対して、明確にかつ緊急に、すべての核兵器の開発や配備の追求を転換し、地域および国際の平和と安全や、核軍縮核兵器の拡散防止に向かう国際社会の努力を害するような、いかなる行動も慎むことを要求し、
 8. いまだそうしていないすべての国に対して、NPTに無条件にかつ遅滞なく加盟し、また、条約加盟に伴って必要とされるすべての措置をとることを要求し、
 9. いまだそうしていないすべての国に対して、国際原子力機関IAEA)と全面的保障措置協定を締結し、また、1997年5月15日のIAEA理事会で承認された模範議定書に基づいて、それら保障措置協定の追加議定書を締結することを要求し、
 10. いまだそうしていないすべての国に対して、包括的核実験禁止条約(CTBT)に無条件にかつ遅滞なく署名および批准し、また、条約が発効するまでの間、核実験の一時停止を行うことを要求し、
 11. いまだそうしていないすべての国に対して、核物質防護条約に加盟し、また、それをさらに強化すべく務めることを要求し、
 12. CDに対して、「核軍拡競争の停止と核軍縮」というそのアジェンダの第1項の下で、専門コーディネーターの報告書(CD/1299)とそこに含まれている 委任権限に基づいて設置された特別委員会において、核不拡散および核軍縮という2つの目的を考慮しつつ、差別的でなく、多国間の、国際的かつ効果的に検証可能な、核兵器およびその他の核爆発装置用の核分裂物質の生産禁止条約の交渉を追求し、遅滞なく交渉を締結させることを要求し、また、その条約が発効するまでの間、(すべての)国に対して、核兵器およびその他の核爆発装置用の核分裂物質の生産の一時停止を行うことを要請し、
 13. CDに対して、核軍縮をとり扱う適切な補助的組織を設立すること、また、そのために、適切な手段およびとりくみ方についての集中的協議を、遅滞なく決定に達するという見通しをもって、優先的事項として追求することを要求し、
 14. 核軍縮および核不拡散に関する国際会議は、他の場でとりくまれている努力を効果的に補完することになり、核兵器のない世界のための新しいアジェンダの整備を促進しうると考え、
 15. 1995年のNPT再検討延長会議で採択された諸決定と決議の重要性を想起し、「条約の再検討過程の強化」を完全に履行することの重要性を強調し、
 16. 核兵器のない世界を維持するためには、検証体制の開発が必要となることを確認し、IAEAに対して、関連の他の国際機関や国際組織とともに、そのような制度の構成要素について探求することを求め、
 17. 核兵器の使用および使用の威嚇がおこなわれないということを、NPTの締約国である非核兵器国に実効的に保証するような、国際的に法的拘束力のある条約の締結を要求し、
 18. 非核地帯を、とりわけ中東や南アジアなどの緊張状態にある地域において、自由にとり結ばれた協定に基づき、追求し、拡大し、設立することは、核兵器のない世界という目的に向けて大きく貢献することを強調し、
 19. 核兵器のない世界が、究極的には、普遍的で多国間で交渉された条約や、相互に補強し合う1組の条約体系による下支えが必要であることを確認し、
 1. 事務総長に対して、現にある手段の範囲内で、この決議の履行についての報告書を作成することを求め、
 21. 第54総会の暫定議題に「核兵器のない世界へ:新しいアジェンダの必要性」と題する項目を入れ、この決議の履行について検討することを決定する。
   (翻訳:特定非営利活動法人ピースデポ)
 nu-nea_project2021-2023 Scenario_Project_J 75thProject J-PAND RECNA図書
 世界の核弾頭データ
 世界の核物質データ 北東アジアの平和と安全保障に関するパネル(PSNA) 北東アジア非核兵器地帯への包括的アプローチ ニューズレター ポリシーペーパー レクナの目 市民データベース Dispatches from Nagasaki Monitor BLOG 核兵器廃絶長崎連絡協議会 核兵器廃絶市民講座 ナガサキ・ユース代表団
   ・   ・   ・    
 世界で、核武装権利権と核兵器使用権利を正当権利として持っているのは、唯一の被爆国である日本だけである。
 その法的根拠は、「目には目を歯には歯を」という同じ兵器による同じ規模の被害を相手に求める報復権・復讐権である。
 国連や国際機関は、日本が正当な権利を行使する事を恐れている。
 が、それを否定し放棄したのは昭和天皇である。
 日本を封じ込める為に作られたのが、国連憲章敵国条項マッカーサー平和憲法であった。
   ・   ・   ・   
 非核保有国家日本は、日本に核ミサイルを撃ち込み、数十万人・数百万人の日本人を虐殺する作戦を保持する中国共産党北朝鮮そしてロシアの核保有国に包囲されている。
 ウクライナ戦争の最中、日本を取り巻く危機的状況を知りながら、それでも、反核、反米、反安保、反自衛隊護憲派がリベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、学者・教育者の中に存在する。
 日本は、アメリカの核抑止戦略による核の傘で守られている為、同盟国のアメリカや友好国のイギリス・フランスの核兵器を否定できない。
 日本を守っているのは、第9条の平和憲法ではない。
   ・   ・   ・   

💍25)─1─天皇家はお金持ちで特権階級・上級階級という日本人の勘違い。〜No.97No.98No.99 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 昔の日本人と現代の日本人は別人の様な日本人である。
 昔の日本人は、明治天皇と昭憲皇后を祭神とする明治神宮を創建し、神宮の杜を作った。
 明治神宮・神宮の杜は、奈良・東大寺の大仏造営に似ている。
   ・   ・   ・   
 2022年6月5日 MicrosoftNews 文春オンライン「「天皇家はお金持ちだし、秋篠宮家だって財産はあるんだから」眞子さん夫婦は“仕送り”を頼ればいいと思う日本人の勘違い
 秋篠宮さまは痩せ、母娘の関係は疎遠に…小室圭さんとの結婚が「円満な秋篠宮家」に招いた異変 から続く
 昨年、結婚に伴う国からの一時金を辞退した元皇族の眞子さん。そんな眞子さんを心配してか、「天皇家秋篠宮家から援助してもらえば贅沢な暮らしは十分できるんじゃないの」という声もあったが、残念ながらそれは的外れである。
 いったいなぜ小室眞子さん・圭さん夫婦が「天皇家の財産」を頼ることは難しいのか? ジャーナリストの奥野修司氏による新刊『 マコクライシス 』より一部抜粋してお届けする。(全3回の3回目/ #1 、 #2 を読む)
 ©JMPA© 文春オンライン 「天皇家の財産」を頼ることはなぜ難しいのか
   ◆   ◆   ◆   
 皇籍を離脱した者に支給される「一時金」とは何か?
 本来なら眞子さんが小室圭さんと結婚して皇籍を離脱すれば、一時金として1億数千万円が支給されたはずなのに、一時金を受け取ることに猛烈な批判があったことを配慮して、眞子さんは受け取りの辞退を決めた。結局、政府と宮内庁はこれを追認するかたちで、一時金を支給しないことを決定している。
 おそらく眞子さんにある程度の貯蓄があったからだろうと思われる。仮に眞子さんが成年後に受け取ってきた皇族費915万円(年間)をすべて貯金していたとすれば1億円近くになっているはずである。少なくとも預貯金がなければ問題になっていただろう。
 とはいえ、一時金は、「皇族であった者としての品位保持の資に充てるために」支出するお金である。皇族にはお付き合いから衣装まで、われわれ庶民には想像ができない金額が必要になる。
 例えば、ヨーロッパに行けば、皇室と親交のある王室もあり、きっと元内親王の眞子さんは招待されるだろう。そのとき、まさかカジュアルな服装で訪問するわけにもいかないだろうからそれなりの衣装は必要だ。それも元皇族としての品位を落とさないためにどうしても高額になる。一時金とは、一般人になっても、元皇族としての品位を保つために渡される資金なのだ。
 眞子さんが結婚して、皇族から一般人になったからといって、公人である皇族から完全に私人になったわけではない。「元皇族」という性格を併せ持つ、いわば準公人なのだ。一時金は、もらう、もらわないではなく、受け取るべきお金だったのである。それなのに、自ら辞退しなければならないところまで追い込まれた眞子さんは、お気の毒としか言いようがない。
 一時金をもらうことが「税金泥棒」とまで言われ、果ては「税金で生活しているくせに」と、ひどい言われ方をしてきた。要は、皇族は税金をもらって生活しているんだから国民の言うことを聞けということらしい。税金で生活しているのは政治家もそうなのに、政治家に対しては、「ろくな政治活動をしていないんだから税金を返せ!」なんて抗議はしない。税金をもらったら国民の言うことを聞かなくちゃいけないなら、公務員はまともに結婚できないことになる。こんな風潮が広がっていけば、税金で支えられている人間は「国民の言うことを聞け」から、やがて「政府の言うことを聞け」になってしまうだろう。
 典型的な例は日本学術会議の任命拒否だ。税金をもらっているなら国民の代表者である政治家の言うことを聞け、でないと任命できませんよというわけである。これも眞子さんへのバッシングと五十歩百歩だろう。これらバッシングする側に共通しているのは、使われた税金が自分のお金だと錯覚していることである。
 眞子さんと小室さんがこれほど非難されたのは、眞子さんが皇族だったからだ。おそらく憲法第1条に「天皇は……主権の存する日本国民の総意に基く」とあるのを誤解したのだろう。つまり、天皇と同じように皇族も国民の総意に基づくのに、眞子さんの結婚相手は国民の総意に反しているではないか、と。しかし、これは天皇制というシステムのことを定めたのであって、一皇族の生活に言及しているわけではない。それを曲解されたのだ。「眞子さんに一時金を払うな!」なんて本気で思っていた国民がどれほどいたのだろう。
 なぜ皇室は税金で維持されるようになったのか?
 それにしても、なぜ皇室は税金で維持されるようになったのだろうか。
 日本が戦争に負ける直前の皇室には、現在の金額で数兆円といわれる財産があった。戦争に負けたことで、皇室に大金を持たせては権力を乱用するから危ないというわけで、日本を占領したGHQは、莫大な皇室財産に課税して解体し、国に移管させた。戦後の国民は、その財産を享受してきたはずだ。例えば、皇居外苑を散歩したとする。自由に出入りできるのも国に移管されたおかげなのである。
 皇室が税金で支えられるようになったのはわずか75年前のことである。それも皇室が自ら望んだことではなく(昭和天皇は認めたが)、GHQという外国の軍隊によって強制されたことを、当時の国民が認めたということだ。その結果、「皇室の藩屏」といわれた旧宮家臣籍降下させて直宮家だけにシェイプアップし、天皇家を中心とした皇族の生活と皇室の維持を税で賄うことにしたのだ。最初から税金で賄われていたわけではない。
 ちょうど眞子さんは一時金を辞退すべきだといった意見がかまびすしかった頃だったが、「天皇家はお金持ちだし、秋篠宮家だって財産はあるんだから、援助してもらえば贅沢な暮らしは十分できるんじゃないの」といったようなことが言われた。
 たしかに皇嗣になった秋篠宮さまの新居は、33億円もかけて増改築が進められていたし、新居が完成するまでの「御仮寓所」だって、なんと10億円もかけて建てたものだ。
 総面積が1378平方メートルというから、われわれ庶民からすれば、とてつもない大邸宅である。それも東京の一等地にあるのだから、いかにも資産家に見えるが、結論からいうと、秋篠宮家の住まいはすべて国有財産であって、私有財産ではない。
 秋篠宮家が動かせるのは皇族費だけである。秋篠宮家の皇族費は、いわば国から秋篠宮家に払うサラリーのようなものだ。
 余裕がない秋篠宮家の家計
 余談だが、かつて田島宮内庁長官が、孝宮さまの結婚について昭和天皇から持参金らしき金子を尋ねられたらしく、〈只今の所では納采の儀前に二〇万位、御婚儀近きまして三〇万位かと存じます〉と答えている。合計で50万円。1950(昭和25)年頃の50万円は、公務員の給与で比較するとざっと今の2000万円ぐらいだろう。
 もし秋篠宮さまも、同じように眞子さんに持参金を持たせたとしたら、どれくらいだろうか。おそらく高額な金額ではなかったと思われる。
 皇嗣になる前の秋篠宮家の皇族費は年間6710万円だった。皇嗣に就任して1億2810万円にアップした。一見高額のようだが、それほど余裕があるわけではないといわれる。
 皇嗣になる前に秋篠宮家で働いていた職員は24人(平成30年度)だった。それが皇嗣になって51人(皇位継承後)に増えているが、これは公的予算からまかなわれているとはいえ、それ以外に雇う運転士や料理人などの私的使用人も同じように増えるから、給料や社会保険料等は皇族費から負担しなければならない。
 また天皇家では接待費や通信費、水道光熱費といったものは国の費用(宮廷費)で支払うが、宮家では公務で使われた費用以外はすべて皇族費から払うことになっている。当然、皇嗣になってこうした私的使用人も増えていることだろう。
 悠仁さまは皇位継承者だから教育費は宮廷費から支払われるものの、眞子さんや佳子さまの教育費は、当然、秋篠宮家の皇族費から負担することになる。
 そんなことを考慮すると、持参金を含めて、秋篠宮家が眞子さんに十分な援助ができるほどの余裕があるとは思えないのである。
 皇室経済法施行法では、天皇が賜与できる金額は1800万円までで、それ以外の皇族は年間160万円以内と決まっている。しかしこれは一般的な場合であって、眞子さんに渡す場合は縛られないとしても、余裕を持って仕送りするのは簡単ではないかもしれない。
 皇族費は自由に使ってもいいとはいえ、われわれのように海外旅行をしたり、気分次第で車を乗り換えるといったふうに使えるお金ではなく、必要な予算が一定額あって、自由にできるお金はそれほど多くないはずである。もちろんそこから仕送りはできなくはないが、それほど潤沢ではないということだ。
 「でも、陛下か上皇さまのだれかが援助するでしょ?」という声もあるようだ。
 では、上皇上皇后ご夫妻に支援する余裕はあるだろうか。
 そもそも天皇家には「私有財産」がない
 そもそも天皇家には基本的に私有財産というものがない。日本国憲法第88条で「すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない」と定められていて、生活費を含めた天皇家を維持する必要経費はすべて国の予算をアテにしているのである。
 例えば、天皇ご一家がお住まいになっている皇居は、不動産価値20兆円ともいわれていて、天皇家が所有しているように思われがちだが、実は所有者は国であって、「皇室用財産」として皇族に無償で提供しているにすぎない。那須や葉山の御用邸も同じだ。
 戦前の皇室は違った。三井や三菱といった財閥もかなわないほど莫大な財産があり、敗戦後に日本を占領統治したGHQが、実質的に没収することで政治的権力を奪う方針を立てたことは述べたが、そのために日本国憲法の施行によって特別に財産税が課せられ、ほぼ9割が物納というかたちで国に移管されたのである。
 昭和天皇のお手元には1500万円の預貯金(現在の価値で数十億円か)だけが私有財産として残された。このお金を「内廷会計基金」に入れ、有価証券などで運用して増やしてきたのである。また、天皇家の私的費用である内廷費が余ればここに戻し、臨時で大きな出費があったときなどに流用してきたようだ。
 1959(昭和34)年の皇太子殿下と正田美智子さんの「ご成婚」もそうだ。
 詳しくは拙書『美智子さま ご出産秘話』(朝日文庫)を参照していただきたいが、宮内庁はこの日のために、内廷費(天皇の私的生活費)を節約したり、例の1500万円を元手に有価証券で増やしたりしながら、当時の金額で5000万円(現在なら5億円以上か)を貯めたというエピソードがある。国民にはあずかり知らぬことだった。
 正田美智子さんが結婚を受諾したとき、皇太子殿下は「柳行李ひとつで来てください」と言ったと伝えられているが、実際は柳行李ひとつどころか、持参した荷物は2000万円とも5000万円とも噂された。もちろん当時のことだから持参金もあっただろう。戦後の天皇家の財布は決して潤沢ではなかったのである。
 皇族も「相続税」からは逃げられない
 話を戻すが、眞子さんがアテにできるとすれば内廷会計基金のお金しかない。
 先にも述べたが、昭和天皇の遺産総額は約18億7000万円だった。このほとんどが戦後のお手元金1500万円を運用して増やした金融資産で、遺産相続人は新しい天皇(現上皇さま)と香淳皇后のおふたりである。香淳皇后の分は非課税だったが、上皇さまが相続した分から4億2000万円を相続税として納税している。
 2000年に香淳皇后が逝去されたが、上皇さまが相続した額は公開されていない。1989年に株価が史上最高値をつけて以来、半分以下に下落しているから、所有していた有価証券が想像以上に下落したのかもしれない。相続税額が公示されていないことから、おそらく上皇さまが相続した額は推定1〜2億円だろう。基本的に皇室が購入した有価証券はほとんど売買しないから上皇さまが相続した分も同じように下落している可能性がある。すると昭和天皇香淳皇后から相続した額は数億円程度まで減少している可能性がある。眞子さんに援助したくても、これでは余裕のある援助はできない可能性がある。
 余談だが、イギリスのロイヤルファミリーは戦前の皇室と同じで、個人資産や領地からあがる収入が数百億円といわれ、これはすべて非課税(現在は所得税を払っている)だった。日本の場合は相続税が大きく、このままでは代替わりのたびに内廷会計基金が目減りしていって、限りなくゼロに近づく。ゼロになればすべて税に依存するのだから貯蓄する必要もなくなってすっきりするという説もあるが、一歩間違えば、眞子さんのように、納得しない国民から反発をくらったときは身動きがとれなくなる可能性もある。
 こうしてみると、天皇家秋篠宮家も決して潤沢な資金があるわけではないことがわかる。短期間ならともかく、長期にわたって眞子さんを支援することはむずかしいということだ。 (奥野 修司)」
   ・   ・   ・   
 昭和天皇「本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまう。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。自分の任務は祖先から受け継いだ日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらいたい、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はない。そのためなら、自分はどうなっても構わない」(1945年8月10日聖断)
 天皇にとって民(日本民族)は「大御宝(おおみたから)」である。
   ・   ・   ・   
 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
   ・   ・   ・   
 仁徳天皇「私はすっかり富んだ。民が 貧しければ私も貧しい。民が豊なら私も豊ななのだ」(かまどの逸話)
 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。 
   ・   ・   ・  
 紛れもなき日本民族日本人の切なる願いはただ一つ、数万年前・数千年前の祖先と数千年後・数万年後の子孫の為に、民族中心神話所縁の正統性世襲男系父系天皇制度と神の裔である現皇室の天皇・皇族を守り残す事のみであった。
 日本民族日本人が天皇に向ける畏敬・敬愛・親愛は、情緒、情愛よりも強く深く濃い「情念」である。
 ゆえに、日本民族日本人は天皇・皇族・皇室、国體=天皇制度を守る為ならば死を厭わず、武器を取って戦った。
   ・   ・   ・   
 皇室の血族優先(ネポティズム)は、血縁・地縁による依怙ひいき、縁故、身びいきとは違う。
   ・   ・   ・   
 日本の歴史には3種類あって、1,日本民族の民話・伝承・寓話・宗教によるローカルな神話物語、2,アフリカを源流とする人類進化・文明発展史、3,記録が残る人間英雄伝説である。
 ローカルな神話物語とは、古事記日本書紀を正統根拠とする日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話、つまり女性神天照大神最高神とする天皇神話である。
 それが、皇国史観であった。
 グローバルな人類文明史には、科学的経験的正当性はあっても宗教的合理的正統性はない。
 神話物語・人類文明史・人間英雄伝説の3つを均等に持つのは、民族としては日本民族琉球民族アイヌ民族だけで、国家としては日本国だけで、その歴史に正当性を裏書きしているのが正統な天皇の神格である。
 その意味で、日本は特殊で特別であるが、日本国と日本人が優れているとは無関係である。
 天皇は正史で日本を武力統一して日本建国宣言の詔を発していない為に、日本には建国年と建国記念日は存在しない。
 現代日本建国記念日は、天皇神話物語であって人類文明史・人間英雄伝説ではない。
   ・   ・   ・   
 デュルケーム「(宗教の役割の一つは)共同体を維持する装置」(『宗教生活の原初形態』)
   ・  ・   ・   
 天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇制度である。 
 天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
 現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
   ・   ・   ・   
 日本民族が崇拝してきた八百万の神々が正統な神である事を保証しているのは、最高神・女性神の血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇の神性である。
 つまり、民族宗教、神話物語でる天皇神話である。
 近代の憲法や法律の宗教法人法が認定する神仏には、合憲・合法に基づいた正当性がっても、神性・神聖の正統性はない、つまり金儲けの為に作られたウソの神仏である。
 当然、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇には神仏を認め保証する神力はない。
 日本の八百万の神々は天皇家の祖先神である伊邪那岐命イザナギノミコト)と伊邪那岐命イザナミノミコト)から生まれた、それが天皇神話である。
 八百万の神々の正統な神性は、天皇神話は保証している。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
 戦後民主主義教育を受けた高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、特にマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない為に、日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いである。
 現代の国際常識、世界正義は、男女平等、女性権利の向上、フェミニズムジェンダーで、正統性男系父系天皇制度は悪とされている。
   ・   ・   ・   
 日本の天皇制度は、閉じた王家として、即位する正統必須条件は、日本民族であり、民族宗教、神話物語で語られる最高神・女性神からの血筋を神聖不可侵の絶対根拠とする血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇家・皇室の家族・一族のみである。
   ・   ・   ・   
 日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、1,神の民族神話、2,人類の文明発展・進化・進歩、3,人間の英雄伝説の3つを持っている。
 神の宗教的民族神話とは、古事記日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
   ・   ・   ・   
 神代の民族固有神話を持っている国家や国民は、古代の古層を受け継ぐ日本以外に存在しない。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた。
 天皇家・皇室は、数千年前の弥生時代古墳時代に、内戦や争いを避け平和と安定を取り戻し、幸せと豊かさを求めたムラ論理で、古代の有力豪族達による長老者会議において衆議の結果として「天皇下駄論」・「天皇人身御供説」・「天皇生け贄説」で作られた、責任を押し付けて逃げるという無責任な生存論理である。
 その神聖不可侵の裁可者・天皇という地位を護る為に考え出されたのが、「政治的無答責の君主」、つまり政治権力も宗教権威も持たない天皇の権威つまり「天皇の御威光」である。
 祖先と国と民族に対して重い責任を負うのは、益荒男・日本男児の責務であって、手弱女・大和撫子ではなかった。
 故に、日本天皇は、最高神の女性神による民族神話、神話宗教、血筋・血統の家世襲万世一系で受け継ぐ事で正統性を与えられていた。
 民族神話で正統と認められた宗教的万世一系の男系父系天皇制度とは、いつ終わるか分からない弥生の大乱に辟易とした古代日本民族が、争いを避け、起きた争いを短期間で終わらせ、偽りでもいいから平穏無事を維持する為の歴史的叡智である。
 つまり、白黒を、善悪を、正邪を、ハッキリ区別しない為の宗教的正統な万世一系の男系父系天皇制度であった。
   ・   ・   ・   
 天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説とは、日本民族にとって面倒な事や厄介な事を困った事を「否応もなく」天皇と皇族に引き取って貰う事である。
 つまり、押し付けられる損な役回り・貧乏くじを嫌だと言わず拒否せず無条件に「引き受けて貰っている」、「やって貰っていただいている」、という事である。
 それが、天皇の御威光、天皇の権威、天皇の御稜威・大御心である。
 日本民族天皇・皇族・皇室を護ったのは、「責任逃れをする為に犠牲を強要していた」からである。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
   ・   ・   ・   
 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
   ・   ・   ・   
 徳川幕府は、目の見えない視力障害者・検校が行う高利貸しを保護していた。
 検校の中には、御家人株を買って子供を武士にし、上司や同輩に賄賂を贈っていた幕臣にしていた。
 百姓や町人も、金を使って武士の身分を手に入れ、才覚で町奉行勘定奉行などの役職について出世した。
   ・   ・   ・   
 数千年前の弥生時代古墳時代から、日本国・日本民族を1つにまとめている3つの力が存在している。
 1つ目が武力の政治権力、2つ目が経済力の宗教権威、3つ目が文化力=畏れの天皇の御威光・権威・御稜威・大御心であった。
 日本の歴史において、政治権力と宗教権威は人間の強欲・私欲・個人欲で栄枯盛衰を繰り返し目まぐるしく入れ替わっていたが、その中で文化力の天皇の御威光だけは変わらなかった。
 そんな文化力の天皇の御威光を滅ぼうと忍び寄ってきたのが、キリスト教の宗教とマルクス主義共産主義イデオロギーであった。
 そして、現代日本人は日本のグローバル化の為にローカルな日本の文化力をゴミのように捨てようとしている。
 反天皇反民族反文化的行動を行っている日本人の多くが高学歴な知的インテリや進歩的インテリ達である。
   ・   ・   ・   
 世界の王侯貴族は他国からの軍人征服者であったが、日本の天皇は民族の伝統・文化・宗教の権威者であり保護者であった。
   ・   ・   ・   
 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
    ・   ・   ・    
 日本の自然は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境を生きてきた。
   ・   ・   ・    
 日本民族は、石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
 それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
 「自分がやらなければ始まらない」それが、粋でいなせな江戸っ子堅気の生き様であった。
 江戸時代は、自助努力のブラック社会であった。
 田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
 植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
 平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
 「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
 最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」
   ・   ・   ・    
 日本文化とは、唯一人の生き方を理想として孤独・孤立・無縁、わび・さび、捨てて所有しないを求める、「何も無い所」に時間と空間を超越し無限の広がりを潜ませる文化である。
 それが、日本人が好む「色即是空、空即是色」である。
 日本文化は、中国文化や朝鮮文化とは異質な独立した特殊な民族的伝統文化である。
  ・  ・  
 日本の宗教とは、虚空・虚無という理想の境地に入る為に自己や自我など自分の存在を肯定も否定もせず、ただただ「はかなく無にして消し去る=漠として死を見詰める」事である。
 それ故に、日本文化や日本の宗教は男が独占していた。
  ・  ・  
 日本民族の伝統的精神文化は宮仕えする男性の悲哀として、行基西行、一休、鴨長明兼好法師芭蕉葛飾北斎など世捨て人・遁走者、隠者・隠遁者・遁世者、隠居、孤独人・孤立人・無縁人への、求道者として一人になりたい、極める為に一人で生きたいという憧れである。
 如何なる時も、オンリーワンとしてナンバーワンとして我一人である。
 そして日本で女人禁制や女性立ち入り禁止が多いのは、宗教的社会的人類的民族的な理由によるジェンダー差別・女性差別・性差別ではなく、精神力が弱い日本人男性による煩わしい女性の拘束・束縛からの逃避願望である。
   ・   ・   ・   
 女性は、子供を産み、子供を育て、末代まで子孫を増やしていく、つまり「命を喜びを持って育み、有を生みだす」存在である。
 日本における女性差別は、「死を見詰めて無を求める男」と「命を生み有りに生き甲斐を感じる女」、ここから生まれた。
 つまり、男尊女卑と一口で言っても現代と昔とは全然違う。
   ・   ・   ・   
 日本民族心神話において、最高神天皇の祖先神である女性神天照大神で、主要な神の多くも女子神である。
 日本民族は、あまた多くの女性神に抱かれながら日本列島で生きてきた。
   ・   ・   ・   
 人類の誕生と大移動は運命である。
 日本人の祖先はアフリカのサルであるは宿命である。
  ・  ・  
 600万年前~700万年前 人類(ヒト属)の祖先はチンパンジーボノボの祖先である類人猿から別れて進化していき、幾つかの人類種が枝分かれするが一つの系統を残して全て絶滅した。
 10万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は、アフリカで誕生し、世界中に移住していった。
 数万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は日本列島にたどり着き、上陸した、漂着した、流れ着いた。
 数千年前 揚子江流域民である弥生系渡来人が山東半島から朝鮮半島を経由し、続いて中国旧満州地方に住んでいた古墳系帰化人が朝鮮半島を経由して日本列島に移住してきた。
   ・   ・   ・   
 日本土人である縄文人ヤポネシア人=石器人の子孫)は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部太平洋沿岸まで、西は朝鮮半島南部、日本海縄文人の海)を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
 縄文人は、手漕ぎ丸木舟で北米大陸の太平洋沿岸まで移動していた。
 中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と偏見を持って軽蔑し差別していた。
  ・  ・  
 日本文明は、揚子江流域(江南地域)にあった漁労農耕の温和で平和志向の長江文明の後継文明であって、黄河流域で軍事優先で栄えたの領土拡大・侵略志向の好戦的黄河文明の亜流文明ではなかった。
 朝鮮文化は、黄河文明の亜流であった。
  ・  ・  
 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
 数万年続いた日本列島の石器時代縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
  ・  ・  
 日本民族琉球民族アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
  ・  ・  
 日本民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
  ・  ・  
 アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)にシベリア・沿海州樺太北方領土4島・千島列島・カムチャツカ半島などオホーツク海沿岸に住んでいたオホーツク文化人が南下してきて、混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
 アイヌ人は住んでいる島・地域によって幾つかに枝分かれして、それぞれ他の人種・民族と乱婚を繰り返し混血度を濃くして独自の微妙に違う生活スタイルで生きてきた。
 蝦夷地・北方領土アイヌ樺太アイヌ、千島列島アイヌカムチャツカ半島アイヌ、その他。
  ・  ・  
 琉球民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)に揚子江流域・東南アジアから渡って来た人々と混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
   ・   ・   ・     

🎑108)─9・B─台頭する中国アニメ作品が日本でも人気。衰退する日本アニメ。~No.243 ㉓ 

  ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 6月2日 MicrosoftNews 新華社通信「台頭する中国アニメ作品 日本でも人気に 
 © 新華社 台頭する中国アニメ作品 日本でも人気に
 【新華社天津6月2日】中国天津市の国家アニメ産業パークではここ数日、アニメ作品「大理寺日誌」のプロデューサー、辺曦(へん・ぎ)氏がレンダリング(データの画像化処理)の進捗(しんちょく)状況が表示されたパソコンの画面を見つめている。同作品の続編「大理寺日誌2」の格闘シーンだという。20秒に満たないシーンだが、動作をより滑らかにするため半月以上試行錯誤している。
 中国で人気を博した「大理寺日誌」は、2020年8月から続編の制作が続いている。年内には本編が完成するという。
 「大理寺日誌」は海外でも注目を集め、作品を観た多くの人がツイッターやユーチューブなどで同作品を拡散した。日本の動画投稿者は英語で紹介動画を作り、韓国の大学生は自身のアカウントで作品登場人物の二次創作作品を投稿した。辺氏は、唐の時代の中国を舞台にした作品が世界に広まるとは思ってもいなかったと語り「中国アニメの国際的影響力の高まりを反映している」と指摘した。
 中国では1950年代、60年代に「大暴れ孫悟空(大閙天宮)」「お母さんを探すオタマジャクシ(小蝌蚪找媽媽)」などのアニメ作品が世界で高い評価を受けた。80年代には「アーファンティーの物語(阿凡提的故事)」「黒猫警部(黒猫警長)」などが国内アニメ制作にピークをもたらした。ただ、その後は収入や将来性などの要因で、国内アニメーターの多くが外国制作会社の動画加工を手掛けるようになり、中国アニメは20年に及ぶ断絶期に入った。
 © 新華社 台頭する中国アニメ作品 日本でも人気に
 続編の制作に打ち込む「大理寺日誌」制作チーム。(資料写真、天津=新華社記者/趙子碩)
 転機を迎えたのは2014年前後で、政府がアニメ産業の発展を支持したことで、浙江、江蘇、山東、広東など各地でアニメ産業が重点誘致・支援産業リストに加えられた。中国の企業情報サイト「企査査」のデータによると、14年のアニメ関連企業の登記数は2万社超と前年の2倍となり、19年には6万社。21年には27万社になった。
 国内市場も活発になった、15年公開の「西遊記ヒーロー・イズ・バック(西遊記之大聖帰来)」は9億5600万元(1元=約19円)の興行収入を記録。中国アニメは転換点を迎えた。19年に公開された「ナタ魔童降臨(哪吒之魔童降世)」の興行収入は50億3500万元に達した。 
 海外市場では、アニメ映画「羅小黒戦記(ロシャオヘイせんき)」の日本での成功が、中国アニメの海外進出における象徴的な出来事となった。字幕版と吹替版を合わせた日本での観客動員数は延べ35万人超、興行収入は5億5千万円となり、中国アニメ映画の海外興行収入記録を塗り替えた。「クレヨンしんちゃん」を手掛けた本郷みつる監督や「鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST」を手掛けた入江泰浩監督など、多くの日本アニメーターも絶賛した。特に入江泰浩監督は自身のツイッターで作品を勧めながら「今後、これを作った人達と競っていかないといけないのか、という気持ち。感服。」と評価した。 素晴らしい作品が生まれる一方で、国内には「中国アニメはまだ創成期にあり、世界一流になるには50年かかる」と指摘する声もある。ただ、辺氏は「技術の差は縮まっている。画面の美しさやストーリー表現などソフト面の実力も追いつきつつある」と前向きな見方を示した。(記者/王井懐、梁姊)」
   ・   ・   ・   

🏞92)─3─士道・武士道は明治時代から日本に広がった。~No.382 * 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 江戸時代は、天下泰平で、庶民の時代であって武士・サムライの時代ではなかった。
   ・   ・   ・   
 日本の封建社会封建制度は、西洋的思考・知識・教養では理解できない。
 だが、現代の日本は、西洋の思想や哲学を近代学問として日本の歴史を解剖している。
   ・   ・   ・   
 総人口の、1割弱が武士で、8割が百姓で、残りが町人・宗教関係者・その他であった。
 江戸時代は、庶民が9割で、武士は1割で、武士の時代ではなく庶民の時代であった。
 江戸の庶民は、西洋キリスト教の民衆ではなかったし、中華儒教の小人でもなかった。
   ・   ・   ・   
 『葉隠れ』は、1716年頃に佐賀鍋島藩士・山本常朝の話を同藩士・田代陣基が筆録して作成した書である。
 佐賀藩は、『葉隠れ』を藩外に持ち出し禁止の禁書とし、さらに藩校の教本にも採用しなかった。
 『葉隠れ』は、藩の重臣・要職などごく一部の者のみが読み、一般藩士は読む事ができなかった。
 世間に知られるようになったのは、1906(明治39)年以降であった。
 それまで誰も『葉隠れ』を知らなかった。
   ・   ・   ・   
 新渡戸稲造は、1900(明治33)年に英語版の『武士道』を刊行した。
   ・   ・   ・   
 庶民の子孫である日本人が、自分は武士・サムライの子孫であり、自分には武士道があると勘違いしたのは大正時代に入ってからである。
 日本人が自分は武士だと勘違いしたキッカケは、立川文庫が爆発的に読まれたからである。
 そして、判官贔屓と勧善懲悪が時代小説の主題となった。
 ウィキペディア
 立川文庫は、立川文明堂大阪市東区博労町、後に南区安堂寺橋通へ移転)が1911年(明治44年)から1924年(大正13年)にかけて196篇を刊行した。 
   ・   ・   ・   
 大正時代の歴史小説から、武士・サムライの姿・イメージが変わった。
   ・   ・   ・   
 現代で語られる武士・サムライは、本当の武士・サムライではない。
 つまり、偽者である。
   ・   ・   ・   
 武士とは、人と殺し合う兵士であったが、平和な時代になると戦いがなくなり用済みとなった。
 解雇されて、浪人になるか、百姓に戻るか。
 あるいは、解雇されず武士を続けるか。
 解雇されずに武士を続ける為には、家禄をもらって働くサラリーマンになるしかならなかった。
 だが、武士を続ける事は、1600年頃の祖先が与えられた家禄と自分の役職手当で生活するしかなく、生活は苦しかった。
 役職手当がなく、祖先の家禄だけでは生活は苦しかった。
 武士は、苦しい生活を補う為に現金が稼げる「副業」を行っていた。
 役職に就けず副業がない武士は、武士株を庶民(百姓・町人)に売って武士を辞めて庶民となった。
   ・   ・   ・   
 江戸時代の日本には武士道など存在しなかった。
 日本人が武士道を知ったのは、負けると信じられていた日露戦争に勝利してからである。
 武士道は、大正時代に意図的に歪曲・捏造・改竄された。
 武士道は、昭和時代に入るとに偽物が広まり本物が消された。
 明治初期の武士・サムライは、庶民の間に武士道が広がる事を危惧して、1889(明治22)年に大日本帝国憲法と共に統帥権を作って、軍隊に自由な行動を封じ込めた。
 統帥権の真の目的は、軍部を政府から切り離して特権を与える法律ではなく、軍部が政府を無視して暴走・独走しないように抑えるためであった。
 武士・サムライは、庶民(百姓・町人)のおぞましく恐ろしい本性を知るだけに、庶民に武士道を持たせる事は日本の危機・破滅に繋がると警戒した。
 昭和前期の戦争の悲惨と敗戦の惨劇は、正しい武士道を持った武士・サムライではなく、偽物の武士道を振り回す庶民によってもたらされた。
 明治までは分別ある武士・サムライの時代であったが、大正以降は分別なき庶民の時代であった。
   ・    ・   ・   
 本物の武士・サムライは、教養が高かったが故に「臥薪嘗胆」と「会稽の恥」の故事を知っていて、国力のなさからロシア・ドイツ・フランスの三国干渉を涙を呑んで受け入れた。
 日本は、軍事力と経済力を強化して、ロシアと日露戦争で戦って勝利し、ドイツと第一次世界大戦で戦い勝利し、フランスにたいしては仏印に軍隊を派遣して復讐した。
 日本には、ロシア、ドイツ、フランスに対して報復権・復讐権があった。
   ・   ・   ・   
 武士・サムライは、戦えば必ず負けると分かっていても、如何に不利な状況にあっても武士の一分・武士の体面を守る為に、死を覚悟して戦った。
 如何に武力差・兵力差があっても、万に一つの望みを信じ、最後は必ず勝つとの信念で戦った。
 戦の趨勢は戦ってもなければ分からない、それが武士・サムライの考え方であった。
 誰も、武力差や兵力差があっても、戦う以上は最初から負けるとは思っていなかった。
 武士・サムライは、小賢しい事は考えなかった。
 小賢しく知恵の回る者は、不利と分かれば主君や見方を裏切り、優勢な敵方に寝返り主君を殺し、その戦功で褒美を貰った。
 それが、本当の武士の姿である。
   ・   ・   ・   
 百姓・町人は、戦が始まれば主君や領主を捨てて一目散に逃げ出し、安全な山の上で弁当を食べ酒を飲んで高みの見物をし、戦が終われば戦場に降りて死んだ武士の武具甲冑から服まで全て剥ぎ取って丸裸にし、死体を無造作に穴に放り込んで埋め、落ち武者狩りで負けて逃げ出した武士を討ち取って褒美にありついた。
 勝利して新しい大名・領主となった支配者・実力者に対し、ご無理ご尤もと、愛想笑いを浮かべ、おべっかを使い、、負けた昔の大名・領主の悪事を並べ立て貶して恥じなかった。
 百姓・町人とは、そうした存在である。
 武士・サムライにとって、庶民(百姓・町人)は油断も隙もないずる賢い「奴ら」であった。
 その象徴的出来事が、GHQの日本占領支配における日本人の態度であった。
 現代日本人は、庶民の狡さを際立て、それを強め、武士・サムライからさらに遠ざかっている。
 昭和から平成へと時代が進むにつれて、その傾向はさらに強まってきている。
    ・   ・   ・   
 GHQ、マッカーサーに一人抵抗を続けたのは昭和天皇であった。
 昭和天皇の孤独な抵抗のお陰で、日本は今日の日本を残す事ができた。
   ・   ・   ・   
 負けた武士・サムライには、遮る者は手当たり次第女子供に関係なく殺して逃げ延びるか、落ち武者狩りに捕まって辱めを受けながら殺されるか、の2つしかなかった。
 捕虜となって生き残る道はなかったのである。
 武士・サムライにとって百姓・町人とは、勝てば面従腹背で従うが、負けると豹変して襲いかかってくる恐ろしい敵であった。
 それ故に、武士・サムライを自称する者は「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」を肝に銘ずる必要があった。
   ・   ・   ・   
 日本人は、中国人や朝鮮人とは違い、状況を主体的に判断し、結果はどうであれ納得して行動していた。
 それが、同じ日本国籍を持った、万死のカミカゼ特攻を選んだ日本人であり、万生の徴用工を選んだ朝鮮人である。
 日本民族日本人は、死ぬ意味も生きる意味も知っていた。
 朝鮮人は、死ぬ意味はおろか生きる意味も理解できなかった。
 その意味で、近代化と高度経済成長は、日本では成功したが、朝鮮では失敗した。
 だが、現代日本人は朝鮮人に似てきている。
   ・   ・   ・  
 日本民族日本人は、死を強要された自由のない一等国民であった。
 朝鮮人は、生と死の選択が許された自由のある二等国民であった。
   ・   ・   ・   
 日本人は教えられた事以上の事を自分で考えて行動した。
 朝鮮人は教えられて事以外はやらず、教えられた事を自分解釈で勝手に行った。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人とは、無知で低能で無能で愚鈍で救いようのない愚かな馬鹿なのか、それと賢く優れた有能なのか。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人であれば靖国神社は理解できる。
   ・   ・   ・   
 昔の日本民族日本人と現代の日本人とが一緒とは限らない。
 むしろ、昔の日本民族日本人と現代の日本人は別人と見た方が正しい
   ・   ・   ・   
 出典 三省堂大辞林 第三版について 情報
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 葉隠(はがくれ)
 江戸中期の教訓書、武士の修養書。正しくは『葉隠聞書(はがくれききがき)』、別名『鍋島(なべしま)論語』。書中の「武士道(ぶしどう)と云(いう)は、死ぬ事と見付(みつけ)たり」という一句はとくに有名。肥前(佐賀)鍋島氏の家臣山本神右衛門常朝(じんえもんつねとも)(1659―1719)が武士の生きざまについて語った談話をベースに、門人の田代陳基(たしろのぶもと)が歴代藩主や戦国武士たちの言行録や聞き書きから採録したものを加えて整理し、前後7年をかけて書冊にまとめたもの。常朝は、藩主光茂の御側(おそば)小姓に召され、御書物役に進んだが、1700年(元禄13)光茂の死にあい、追腹(おいばら)にかわるものとして出家した。しかし、元禄(げんろく)以降の鍋島武士の御国(おくに)ぶりが急速に失われていく現状をみて深く慨嘆し、1710年(宝永7)ついにこの物語を始めたという。儒教的な士道論からみれば、極端というべき尚武思想に貫かれているので、藩中でも禁書・奇書の取り扱いを受け、公開を禁じられた。明治中期以降、再認識され、広く一般にも読まれるようになった。[渡邉一郎]」
   ・   ・   ・   
 百科事典マイペディアの解説
 葉隠【はがくれ】
 正しくは《葉隠聞書》。《葉隠論語》《鍋島論語》とも。佐賀藩士山本常朝が口述し,田代陣基(つらもと)が筆録した武士の修養書。11巻。1716年成る。武士の生活意識と死の覚悟を藩公の言行等をかりて説く。〈武士道といふは,死ぬ事と見付けたり〉は広く知られる。
 →関連項目山本常朝
   ・   ・   ・   
 出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
 世界大百科事典 第2版の解説
 はがくれ【葉隠
 代表的な武士道論書。編著者は不詳であるが,山本常朝の思想的影響下に成立。成立年代も不詳であるが,11716年(享保1)完成とする写本もある。全11巻。巻一,二は,山本常朝が語った武士たる者の心構えを田代陣基が1710年(宝永7)以降に聞書きしたもの。巻三〜九は歴代の鍋島藩主および鍋島武士の言行,巻十は他藩の武士の言行を記す。巻十一は補遺。《葉隠》のほか《葉隠聞書》《葉隠集》の異称があり,写本の系統のちがいを示す。
   ・   ・   ・   
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 武士道(新渡戸稲造の著作)
 新渡戸稲造(にとべいなぞう)の英文著作。原著名『Bushido, the Soul of Japan』。1899年(明治32)アメリカのフィラデルフィアで出版され、翌年日本でも刊行された。彼は武士階級の道徳的あり方を律してきた武士道を「日本の魂」としてとらえ、道徳体系としての武士道が説く義・勇・敢為堅忍の精神、仁・礼・誠・名誉・忠義・克己等々の徳目は、単に武士階級にとどまらず広く人間形成における普遍的規範として西欧におけるキリスト教的な個人倫理に比肩されうるものであると強調している。本書は英語圏国民の間で愛読されたのみでなく、ドイツ語版、ポーランド語版をはじめ7か国語に翻訳された点で、日本人の著作として希有(けう)なものであった。[田代和久]
矢内原忠雄訳『武士道』(岩波文庫)』


   ・   ・   ・   

🏞92)─2─庶民(金上侍)・下級武士から成り上がったお奉行様。~No.379No.380No.381 * 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ツンベルク「まったく異論のない判決が出ている。法律書も世界で一番薄いだろう」
   ・   ・   ・   
 江戸中期の随筆家で俳人の神沢杜口(1710〜95年)は、御家人や下級武士から才能・才覚で勘定奉行大目付町奉行に大出世した者、百姓や町人や漁師などの身分低き者が金銭で武士となり異例の出世した者の話しを、多く書き残した。
 ムラの名主や組頭は、江戸初期は世襲制で特権階級であったが、中期以降はムラ人の推薦か入れ札で選ばれていた。村政の監査役である百姓代も、長百姓や本百姓の中から選ばれていた。
 西川如見「一生主君におそれ仕へて心の暇なく名利を第一として人の目をおどろかし、厳めしき振る舞いをたのしみとせんよりは、ただ此町人こそ楽しけん」
    ・   ・   ・  
 真っ当(正常)な庶民であれば、誰も武士に成りたいとは思わなかった。 
 武士は、西洋の騎士とは違っていた。
   ・   ・   ・   
 ・川路聖謨…父吉兵衛は、甲斐国の身分低き庶民で、御家人株の御徒を買って幕臣となり、内藤吉兵衛と名乗った。聖謨は幼名を弥吉といい、90俵3人扶持(石高105石に相当)の川路三左衛門の養子となる。勘定奉行外国奉行
 ・井上清直…川路聖謨実弟幕臣井上新右衛門の養子。江戸南町奉行勘定奉行外国奉行
 ・神尾春央…伊豆国三島の百姓出身。700俵の御家人徒士の株を買って下級幕臣となる。勘定奉行
 ・根岸鎮衛相模国若柳村の百姓の子供。幕臣根岸衛規の養子となる。江戸南町奉行勘定奉行佐渡奉行
 ・松田伝十郎…越後国の貧農の子。幕臣松田伝十郎の養子となる。箱舘奉行。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 士農工商または四民は「国中のすべての人びと」といった意味合いの儒学的表現である。日本では、近代になり江戸時代の身分制度を意味すると捉えられるようになったが、1990年代頃から実証的研究が進み、同時代的に現実に施行された制度ではないと理解されるようになった。
 身分移動
 江戸時代の職業は世襲が原則とはいえ、百姓(本百姓)・町人の間では職業(身分)の移動は比較的容易であり、武士の士分の下層(徒士)や卒の足軽との身分移動もあった。ただし、武士の士分の中層・上層(侍)には身分移動は一部を除いてはほとんどなかった。身分移動の手段としては、以下の方法が採られた。
 養子縁組・婿養子(婿入り)
 御家人株の買得。
 武家奉公人からの登用。
 用人としての雇用。渡り用人。新渡戸稲造の祖父もこれを使い藩の人間に戻り、用人として仕えるようになる。
 帰農。
 幕末・明治維新以降、佐幕側についた侍(藩士)は豪商や庄屋に婿養子(婿入り)した者もいた。徒士足軽と百姓上層(本百姓)との間にある程度の流動性があることに着目し、この階層を(「身分的中間層」徒士足軽、本百姓)と呼ぶ考え方もある。この他、百姓が苗字帯刀の特権や「士分格」という格式を得ることがある。しかし、この特権・格式は必ずしも武士化ではない。また、士分とその他の身分の間の通婚は禁じられていたが、養子縁組によりこれを回避することができた。
 このような身分移動を根拠に、江戸時代にある種の「自由」を見る考え方もあるが、身分制度は、枠組みとしては強固であり、個別の事例において、ある程度の流動性を前提にした柔軟性を有するシステムと評価される。身分移動の存在は、身分制度の弛緩や形骸化を意味しているわけではない。個別の事例をもとに、身分制度の強固さを否定しようとする論説も存在するが、それは誤りである。
 差別用語としての「士農工商
 「士農工商穢多非人」の語は江戸時代には存在しなかったとされており、明治7年(1874年)に初めて使用されて以後、昭和初期の融和教育の中で頻繁に使われるようになったと考えられている[誰によって?]が[16]、「士農工商○○」(○○の部分には「芸能人」「予備校生」「アナウンサー」などの語が入り、しがない身分を自嘲的に表現するのに使う)との表現は部落差別の深刻さを茶化すことにつながるという主張から、1980年代以降は部落解放同盟の糾弾を受けるようになり、放送禁止用語として扱われている。具体的には、以下の糾弾事例がある。
   ・   ・   ・   
 日本の「お天道様」は、キリスト教の全知全能の神ではなく、儒教の天・天帝でもなく、ユダヤ教イスラム教の絶対神でもない。
 お天道様は、何となくの崇拝宗教であって律法・戒律の啓示宗教ではないので、信仰を契約して入信した信者・教徒はいない。
 日本民族は、お天道様崇拝者である。
   ・   ・   ・   
 現代日本では、反宗教無神論で、神殺し・仏殺しそして祖先(祖先神・氏神様)殺しが進行している。
   ・   ・   ・   
 トライイット
 ホーム社会中学社会中学歴史江戸時代武士による支配
 中学歴史
 身分別の人口の割合 幕末のごろ
 総人口約3,200万人
 百姓が全体の85% たった7%の武士はどうやって支配する?
 江戸時代における、 身分別の人口の割合 が示されています。
 一番多いのが 百姓 (農民)で、人口の85%を占めていますね。
 その次に多いのが7%の 武士 です。
 3番目に多いのが5%の 町人 ですね。
 町人には2種類あり、 工業の担い手である工人と商業の担い手である商人 に分かれていました。
 そのほかには、えた・ひにんといった被差別階級の人々1.5%
 公家・神官・僧侶、その他1.5%。
   ・   ・   ・   
 江戸時代は庶民の時代で武士の時代でなく、武士道は社会の片隅で世の中の道徳ではなかった。
   ・   ・   ・   
 ・・・ 

 日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、1,神の民族神話、2,人類の文明発展・進化・進歩、3,人間の英雄伝説の3つを持っている。
 神の宗教的民族神話とは、古事記日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
   ・   ・   ・   
 神代の民族固有神話を持っている国家や国民は、古代の古層を受け継ぐ日本以外に存在しない。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた。
 天皇家・皇室は、数千年前の弥生時代古墳時代に、内戦や争いを避け平和と安定を取り戻し、幸せと豊かさを求めたムラ論理で、古代の有力豪族達による長老者会議において衆議の結果として「天皇下駄論」・「天皇人身御供説」・「天皇生け贄説」で作られた、責任を押し付けて逃げるという無責任な生存論理である。
 その神聖不可侵の裁可者・天皇という地位を護る為に考え出されたのが、「政治的無答責の君主」、つまり政治権力も宗教権威も持たない天皇の権威つまり「天皇の御威光」である。
 祖先と国と民族に対して重い責任を負うのは、益荒男・日本男児の責務であって、手弱女・大和撫子ではなかった。
 故に、日本天皇は、最高神の女性神による民族神話、神話宗教、血筋・血統の家世襲万世一系で受け継ぐ事で正統性を与えられていた。
 民族神話で正統と認められた宗教的万世一系の男系父系天皇制度とは、いつ終わるか分からない弥生の大乱に辟易とした古代日本民族が、争いを避け、起きた争いを短期間で終わらせ、偽りでもいいから平穏無事を維持する為の歴史的叡智である。
 つまり、白黒を、善悪を、正邪を、ハッキリ区別しない為の宗教的正統な万世一系の男系父系天皇制度であった。
   ・   ・   ・   
 天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説とは、日本民族にとって面倒な事や厄介な事を困った事を「否応もなく」天皇と皇族に引き取って貰う事である。
 つまり、押し付けられる損な役回り・貧乏くじを嫌だと言わず拒否せず無条件に「引き受けて貰っている」、「やって貰っていただいている」、という事である。
 それが、天皇の御威光、天皇の権威、天皇の御稜威・大御心である。
 日本民族天皇・皇族・皇室を護ったのは、「責任逃れをする為に犠牲を強要していた」からである。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
   ・   ・   ・   
 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
   ・   ・   ・   
 徳川幕府は、目の見えない視力障害者・検校が行う高利貸しを保護していた。
 検校の中には、御家人株を買って子供を武士にし、上司や同輩に賄賂を贈っていた幕臣にしていた。
 百姓や町人も、金を使って武士の身分を手に入れ、才覚で町奉行勘定奉行などの役職について出世した。
   ・   ・   ・   
 数千年前の弥生時代古墳時代から、日本国・日本民族を1つにまとめている3つの力が存在している。
 1つ目が武力の政治権力、2つ目が経済力の宗教権威、3つ目が文化力=畏れの天皇の御威光・権威・御稜威・大御心であった。
 日本の歴史において、政治権力と宗教権威は人間の強欲・私欲・個人欲で栄枯盛衰を繰り返し目まぐるしく入れ替わっていたが、その中で文化力の天皇の御威光だけは変わらなかった。
 そんな文化力の天皇の御威光を滅ぼうと忍び寄ってきたのが、キリスト教の宗教とマルクス主義共産主義イデオロギーであった。
 そして、現代日本人は日本のグローバル化の為にローカルな日本の文化力をゴミのように捨てようとしている。
 反天皇反民族反文化的行動を行っている日本人の多くが高学歴な知的インテリや進歩的インテリ達である。
   ・   ・   ・   
 世界の王侯貴族は他国からの軍人征服者であったが、日本の天皇は民族の伝統・文化・宗教の権威者であり保護者であった。
   ・   ・   ・   
 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
   ・   ・   ・   


   ・   ・   ・   

🌏41)─5・C─北海道開拓100年記念塔解体計画の賛成と反対。和人の開拓は侵略か。〜No.134 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 江戸時代のアイヌの人口は、記録上最大約2万6,800人であったが、天領とされて以降は感染症の流行などもあって人口は減少した。
   ・   ・   ・  
 日本の総人口は、江戸開府の1600年頃では約1,200万人~1,800万人で明治5(1872)年には約3,295万人(琉球人とアイヌ人を除く)に増加していた。
 日本国内でも、西国に比べて東北は人口が少なくあまり増えなかった。
   ・   ・   ・   
 日本の北海道開拓とアメリカの西部開拓・ロシアのシベリア開拓とは、未開地開墾といってもその意味や目的が全然違う。
   ・   ・   ・   
 2015年5月31日 アナーキー小池の反体制日記「世界中のひとが 仲良く助け合い ほほえみながら 平和に暮らしていくために (イマジン)
 #1652 負の遺物の清算
 ⑥開基百年記念塔
 市内の話題
 このマチの負の遺産といわれるものの大半は、3代前の市長の時代に造られたものです。
 昭和50年代、名市長として名をはせたのです。
 3期か4期か市長をしたと思うのだけど、最後の1期は尋常ではない活躍ぶりでした。
 今回の開基百年記念塔もそうですが、その他、次回予定しているオンボロ飛行機展示館を建てたり、公園内に大きな観音菩薩像を造ったり、迎賓館(げいひんかん)と揶揄(やゆ)される市民会館なるものを建てたりと、ボクは当時市長は常軌を逸している、と叫んでしまっちゃうほど驚いたものです。
 茶坊主ばかりを配した取り巻き連中はなんら諫言(かんげん)を呈することなどなく、議会だって独裁者の暴走を止めるという重要な役割を結果的になさなかったのです。
このマチの体制は、昭和50年代の市長の影をずっと引きずっています。
 その時代にその時の市長に薫陶(くんとう)を受けた職員が延々と中枢部に居座っているのですから、変わりようがないのです。(この頃ようやく一掃された感がありますが)
 本題に入ります。
 このマチの開基百年とは、屯田兵が入植した年から数えて百年に当たる年を言います。
 大盛り上がりで、いろいろ式典をしたり、歌ったり踊ったり、大はしゃぎでした。
 本当はその前からこの地に先住者がいたのに係わらず、侵略百年とは言わず開基百年ですから笑っちゃいますが。
 またまた話がそれてしまいました。
 とにかく市長が率先して発奮しているものだから、取り巻き達もハッスルしていろいろアイデアを吹き込んだのでしょう。
 開基百年記念塔を建てる、と言い出したのです。
 北海道には北海道開基百年記念塔というものが札幌の野幌にあるのです。(これも同様、侵略百年記念です)
 百年にちなんで標高100mが塔の突端の高さになるものを建て、上部に展望台を設け市域を見渡し、先人の労苦に思いを馳(は)せようとのことだったのでしょうか。
 展望台に上るのに有料のエレべーターを設置し、五稜郭タワーのように観光客が訪れることの期待もあったようです。
 半年も経過したら、案の定、利用する人はごくわずかになりました。
 市民だって一度見たら、もう見ようと思いません。
 まして観光客なんて来るわけがありません。
 エレベーターの故障を理由に、展望台の公開を止めてしまいました。
 誰でもが予想できたことです。
 今では、それでもこの塔はマチのシンボルタワーだ、と強弁するのがいますが、負の遺産なことは間違いありません。
 特殊なところに特殊な建造物が建っていて、メンテナンスもせず老朽化が進んでいて、いずれ多額な費用をかけて撤去しなければならないのです。
 老朽化した建造物は壊さなければなりません。
 市は民間の使用していない老朽建物を防災・防犯上も景観上もよろしくないとして、撤去させる条例まで制定しているのです。
 不要な公共建造物は率先して取り壊さなければなりません。
 たとえ、多額な費用がかかるとしても。」
   ・   ・   ・   
 日本には、歴史記録遺産というべき記念塔が二つあり、一つが宮城県の平和の塔(旧称・八紘一宇の塔)でもう一つが北海道の北海道開拓100年記念塔である。
 明治天皇は、ロシアの軍事侵略という今そこに迫っている現実の脅威から日本を防衛する為に、国家元首として北海道開拓を、大元帥として軍事拠点建設を求めていた。
 昭和天皇明治天皇への尊敬の念が強いだけに、明治天皇の偉業である北海道開拓と琉球処分には並々ならぬ想いを持っていた。
   ・   ・   ・   
 現代の北海道で進行している深刻な問題とは、反天皇反民族反日本的日本人とアイヌ人独立派らによる北海道開拓史を侵略史・罪悪史として歴史からの抹消、北海道と天皇・皇室との繋がり・絆の分断である。
 そして、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者と学者・教育者も含まれる。
 日本の存続を危うくさせる毒は、薄く、浅いが、確実に日本全国に染み渡り増えつつある。
   ・   ・   ・   
 令和4年6月号 正論「『北海道開拓』何が悪いのか 海堂巧己
 北海道の東部の江別市北広島市にまたがる広大な道立野幌森林公園に『北海道100年記念塔』と呼ばれる塔が建っている。昭和45年に『北海道100年』の中核事業として建てられた。高さ100メートル。全体を耐候性高張力鋼、通称コルテン鋼によって覆われた二次元双曲線による美しい塔である。コルテン鋼は錆の被膜が内部の腐食を防ぐ当時の先端技術だ。北海道100年記念塔はコルテン鋼を用いた大規模モニュメントとして世界最大の可能性が高い。ところが、塔の所有者である北海道は、平成30年12月に解体を決めた。令和3年に解体工事実施設計が行われ、11月に解体費7億2,000万円と報告された。4年度予算に計上され、今年度に解体工事が行われる見通しだ。
 北海道100年事業と記念塔
 開拓である北海道のなりたちは民間企業に似ている。無から事業を起こそうとする『創業の志』があり、『創業の苦しみ』があって、それを乗り越えたところに『今』があり、『将来』がある。太古から空気のように『歴史』が存在していた本州とは異なり、北海道において『歴史』とは自ら〝造るもの〟であった。
 企業が創業10年、50年、100年をメルクマールにするように、北海道も周年ごとに記念事業を盛大に行ってきた。大正7年の『開道50年』では、50日間にわたって『開道50年記念北海道博覧会』が開かれている。札幌市中央区中島公園を会場に15のパビリオンが並び、道内外の物産2万6,000点が集められていた。内陸部ではまだ入植者たちが原生林を相手に開墾を行っていた時代に開墾の成果を内外に示したと、想像を絶する苦労でパビリオンを建て、物産を集めたのだ。札幌の市電はこの時のレガシーである。
 戦争を挟み、迎えた昭和43年、『北海道100年』は空前の規模で行われた。真駒内公園では50年前に倣って『北海道大博覧会』が行われ、……。9月2日に円山陸上競技場に約2万人の道民を集めて行われた『北海道100年記念祝典』で道民は、昭和天皇から『開拓者精神をうけつぎ、一致協力して北海道の発展を推進するよう切に希望します』との『おことば』を賜った。
 こうした中、北海道100年記念塔は『道民の総意で建てたい』との町村金吾知事の意向から、記念事業と切り離して『北海道100年記念塔建設期成会』によって建立された。建設費約5億円の半額は道民の寄付である。期成会による『記念塔建設趣旨』はこう述べている。
 《我々が今日の生活を享受できるのは、有名無名の先人たちの叡智と血と汗の賜物である。開拓の先人に対し、感謝と慰霊の誠を捧げ、永くその偉業を讃えたい。
 北海道開発の可能性をさらに伸張させるものは、我々道民である。たくましい郷土建設の意欲を表明したい。
 このような道民の感動と感謝と決意の象徴として北海道100年記念塔を建設する》
 昭和42年に北海道で初となる設計コンペが実施され、建築家・黒川紀章氏はじめ全国299作品から選ばれたのが、当時久米建築事務所(現・久米設計)札幌支店に勤務していた29歳の青年、井口健氏の作品である。井口氏は明治28年に今金町に入植した徳島移民の子孫であった。
 『解体ありき』の疑問
 道は平成30年12月の『ほっかいどう歴史・文化・自然「体感」交流空間構想』(以下、空間構想)という検討会議で北海道100年記念塔の『解体』を決定したと言っている。この構想は、昭和47年の北海道100年記念事業で建設された『北海道100年記念塔』『北海道博物館』(旧北海道開拓記念館)、『北海道開拓の村』を含む『記念地区』のあり方を検討したもので、『学ぶ、触れる、集う、繋がる』をキーワードにした交流空間として再生するのだという。
 前段として、有権者による平成28年10月開始の『北海道の歴史文化施設活性化に関する懇談会』があり、平成29年11月の同懇談会報告を受け、平成30年5月から3回行われた『空間構想』検討会議を経て、『利用者の安全確保や将来世代への負担軽減等の観点から、解体もやむを得ないと判断』(報告書、空間構想9頁)したとする。
 しかし、道の検討プロセスには当初から『解体ありき』との批判がつきまとっていた。厚別区選出の菅原和忠道議は『空間構想』の中間報告を受け、平成30年9月議会で『過程がアリバイ的で解体との結論をイメージすることができません』と道を批判している。同じ疑惑を抱いた我々は、道の情報公開制度を利用し、解体を決定した『空間構想』検討会議の議事録を求めた。3回の会議はいずれも有識者の講話を聞くだけで終わっており、『検討』の実態はまったく見えなかった。
 さらに情報公開をすすめ、平成26年1月31日付け『平成25年度北海道100年記念塔維持管理調査報告書【第5次】』(以下『五次計画』)を入手した。驚くことにこのなかで、記念塔の『解体計画』が工程表、経費と共に示されていたのだ。
 100年記念塔では、昭和45年の完成以降およそ10年毎に維持管理調査とそれに基づいた10年間の管理計画が策定されてきた。平成23年11月に『四次計画』が令和3年度までの維持管理計画として策定されており、これに基づいて塔は管理されていると我々は理解していた。ところが、その2年後に『五次計画』が策定されていたのである。このことは、情報公開を通して初めて明るみに出た事実だった。
 この『五次計画』は、『維持する場合』と『解体を行う場合』の2つの計画を示したもので、解体の場合は、4年間の『最低限の保守管理』を行ったあと、平成30年に解体を行うとなっている。そこで年度ごとの維持管理費の推移を求めると、はたして平成26年から『四次計画』の年間修繕費が半額に減額されていた。しかも、平成29年からは修繕自体が売り切られていたのである。
 ……
 情報公開を通して見えたことは、『五次計画』の予算化を通して平成26年1月から3月の間に記念塔解体の組織決定がなされ、その後『解体ありき』の調査や計画がアリバイ的に積み重ねられていったという実態であった。
 大変反省すべき歴史
 なぜ道は、こうまでして解体を強行するのか。ここで北海道100年記念塔解体の説明資料には全く登場しない『アイヌ政策』という文言を出さなければならない。
 平成21年7月、官房長官の諮問機関『アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会』が報告書を提出した。前年6月に採択された衆参両院の『アイヌ民族先住民族とすることを求める決議』を受けたもので、後に『アイヌ政策推進法』(民族共生象徴空間)を生み出す報告書である。
 報告書は『今後のアイヌ政策を考えるにあたっても、歴史と正面から向き合うことは不可欠である』と旧石器時代から現在までアイヌ史を概観する。明治の開拓時代はこうだ。
 『明治に入ってからは、和人が大規模に北海道へと移住し開拓が進展する。その陰で、先住していたアイヌ人の人は、文化に深刻な打撃を受ける。近代的な土地所有制度の導入により、アイヌの人々は、狩猟、漁撈、採集などの場を狭められ、さらに狩猟、漁撈の禁止も加わり貧窮を余儀なくされた。また、民族独自の文化の制限・禁止やアイヌ語を話す機会の減少は、アイヌ人の人々の和人への同化を進め、その文化は失われる寸前にいたった』(報告書17頁)
 この懇談会は平成20年8月から21年7月まで10回の会議と3回の現地視察意見交換会が行われた密度の濃いものだった。メンバーは佐藤幸治京都大学名誉教授を座長に、加藤忠北海道アイヌ協会理事長など8人。中に高橋はるみ北海道知事がいた。
 『北海道100年』の50年後の平成30年、『北海道150年』事業が行われた。高橋知事は『事業構想PROJECT DESIGN ONLINE』で記念事業の向き合い方を尋ねられ、有識者会議のメンバーらしく次のように答えている。
 『広大な北海道の自然環境をしっかりと維持をしながら、それを守って来てくださったのもアイヌの方がたでした。そういう歴史があったにもかかわず、15世紀には、和人が本州などから北海道に入ってきて、開拓を進められ、北海道の近代化がなされる過程で、先住民族であるアイヌの人たちに対するいわれのない差別や低賃金労働、伝統的な生業の制限などにより貧窮を余儀なくされるなど、大変に反省すべきことを多々行ってきたという歴史的な事実があります』
 北海道の過半は明治以降の開拓によって築かれたが、この歴史を知事は『反省すべき歴史』と言うのだ。
 北海道開拓によってアイヌ文化は消滅寸前にいたった──この歴史に正面から向きあわなければアイヌ政策は進められない、アイヌ政策有識者懇談会はそう提言した。これから多額の補助金をもたらすアイヌ政策を進めようとするとき、開拓の象徴である100年記念塔をそのままにしておくことはできない、と道は忖度したのではないか。
 引きずり下ろされた『開拓者の大地』
 ゼロサムゲームとは一方が加点すると他方が必ず失点するゲームを言う。アイヌ政策有識者懇談会が、アイヌ政策と北海道開拓の歴史を結びつけたことで『アイヌ』と『開拓』はゼロサムゲームになった。アイヌ政策推進法によりアイヌ復興が進むのに併せて開拓の歴史の排斥がすすんでいく。
 平成24年5月、100年記念塔と同時につくられた記念施設『北海道開拓記念館』から『開拓』が削除され、『北海道博物館』になることが決まった。そして平成27年4月『北海道立アイヌ民族文化研究センター』が北海道博物館に統合された。新しい博物館では、開拓記念館時代に過半を占めていた『開拓』が展示から実質的に削除された。……
 ……
 平成27年6月、プロ野球球団、日本ハムファイターズ新千歳空港に『北海道は、開拓者の大地だ』とするタペストリーを掲げた。11月にアイヌ団体から『配慮に欠ける』と抗議があり、球団は謝罪して取り下げた。このことはマスコミ、ネットで繰り返し報道、増幅され、『開拓』は差別語リストに加えられていく。
 『開拓』とは、『未開』の大地を切り開くこと。北海道『開拓』と言えば。先住民族であるアイヌ民族の存在を無視した言葉となる──。
 これは公益財団法人アイヌ民族文化財団が発行する学校副読本『アイヌ民族:歴史と現在』の『教師用指導書』(37頁)の一節である。北海道の事業として毎年道内全生徒に配布されている副読本の指導書であるだけに、この言葉は重い。北海道においてアイヌ民族の民族性に疑問をもつことは、戦前の『不敬罪』に匹敵するものになっているが、この指導書によって『開拓』をポジティブに捉えることも同罪だと子供たちは教育されるのである。
 道南や海岸沿いのまちを除く圧倒的多数の市町村が開拓によって拓かれたまちである。教室から開拓の歴史、郷土史が消え、北海道の子供たちは自分がどこからきたのか、郷土アイデンティティを育めないまま成長する。
 『おことば』なき記念式典
 アイヌ政策有識者懇談会のメンバーである高橋知事にとって任期中に迎えた『北海道150年』は扱いの難しいものであっただろう。
 まず『北海道150年』という呼称が問題となった。北海道の歴史が150年前に始まったかのように受けとめられる。アイヌ民族の歴史を無視したものだ──という声がアイヌ学者・支援者から上がった。これを受け道は平成30年を『北海道命名150年』と呼ぶことにした。実際にはこの呼称は普及せず、なし崩し的に『北海道150年』と呼ばれるようになったのだが。
 『未来志向』の呼びかけの下、過去を全く振り返らない異例の周年祭となっていた。100年前の中島公園や50年前の北海道100年記念塔のようなレガシーは一切つくられることなく、博覧会のような記念事業も行われなかった。
 そして迎えた8月5日、『北海道150年記念式典』は、高橋知事の式辞から始まり、北方担当大臣の祝辞、道議会議長の『未来への宣言』、高校生による『青少年の誓い』と50年前と同一のフォーマットで行われたが、登壇した誰一人として『開拓』の2文字を口にしなかった。
 昭和43年9月2日の北海道100年記念祝典で道民は昭和天皇から開拓者精神を受け継ぐよう『おことば』をいただいたが、50年後の平成30年、式典に臨場された上皇陛下は、どのような『おことば』を我々に下さるのか──。
 上皇上皇后両陛下はただ式典を眺められるだけだったのである。北海道ちう日本の大州の50年に一度の式典において『おことば』がないというのは極めて異例だ。北海道開拓は明治天皇の強い思し召しによって始められた。父である昭和天皇は道民に開拓者精神を受け継ぐように求められ。一方、アイヌ政策のもとで開拓の歴史を称えることは決してできない。こうした状況を前に陛下は『おことば』を失われたのではないだろうか。
 誰が塔を倒すのか
 道内では歴史学者アイヌ民族支援者を中心に、北海道は日本帝国主義の植民地となり、アイヌ民族帝国主義侵略の被害者であるとする言説が古くから流布している。そうした説を支援する者たちの中には、北海道100年記念塔はアイヌ侵略の象徴であり、植民地主義から脱却する証としてこの塔を解体されなければならないという者もいる。一昨年米国で、英雄の銅像の撤去活動などを繰り広げたBLM運動の根底には、歴史をいかに捉えるかという問題があった。これは北海道100年記念塔を巡る状況に通底するものがあろう。文化の違いか、かの地では大衆運動として繰り広げられたが、日本では沈黙のなかで進行するのだ。
 道の公文書にアイヌ民族と記念塔解体を結びつける文言は見られないが、非公式に現れては消える。記念塔問題がテーマになると予想された12月議会を前にした11月24日、道議会自民党控室に『先住民・アイヌを無視した「北海道100年記念塔」を早期解体させよ!』と題したビラが撒かれた。誰が持ち込んだのか、明らかではないが、自民党議員もしくは秘書でなければこのビラを撒くことはまずできない。ビラにはこう書かれていた。
 『正しい歴史認識をもっと考えよう‼
 1968年アイヌの長老山本エカシは「北海道100年記念事業」を批判し、その象徴の100年記念塔に憤っていました。また、当時20歳だったアイヌ民族の詩人○○○さんも「100年記念塔の土台の下に我々アイヌの流した悲しい血がしみわたっていることを忘れないでほしいのです」と道新(北海道新聞)紙上で訴えていました』
 記念塔の解体経費を盛り込んだ令和4年度予算を審議する3月議会では自民党から2人の退席者が出たものの賛成多数で予算は可決された。
 北海道開拓とは絶対的に否定しなければならない悪事だったのか。開拓と先住アイヌ民族は両立してはならないのか──。公然の議論もないまま、100年記念塔に込められた北海道開拓の大義は風前の灯となっている。」
   ・   ・   ・   

   ・   ・   ・   
 北海道開拓100年記念塔とは、超大国ロシアの軍事侵略と西洋キリスト教の宗教侵略から、万を越える戦死者を出す苦しい戦争に勝利して北海道と日本国、天皇日本民族を守り通したという戦争と平和の記念碑である。
   ・   ・   ・   
 北海道の近世史・近代史において消してはならない重要な事実は、日本人とアイヌ人の関係史と日本人による北海道開拓史である。
   ・   ・   ・   
 アイヌ民族とは、日本の味方かロシアの味方で日本の敵かであって、現代とは違って当時の国際状勢で日本にもロシアにも組みせず中立の立場などあり得なかった。
 その象徴が朝鮮王朝・大韓帝国で、表面は中立を宣言していながら、裏では敵日反日としてロシアに味方し日本軍の情報を流していた。
   ・   ・   ・   
 ロシアは、江戸幕府との戦争に備えて敵とも味方とも言えない千島アイヌ人をカムチャツカ半島強制移住させ、その後消滅させた。
 当時、北方領土択捉島の先にある得撫島(ウルップ島)以北の千島列島はロシアの支配下にあった。
 ロシアは、日本の支配が強い南樺太に住む樺太アイヌ沿海州強制移住はしなかった。
   ・   ・   ・   
 北海道において、「開拓」はアイヌ民族に対する差別用語リスト候補となっている。
   ・   ・   ・   
 近代日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
   ・   ・   ・   
 日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
 日本の開国・幕末・明治維新戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
 日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
 軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
 熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義民族主義ではなく、正しい軍国主義国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
   ・   ・   ・   
 神国日本を守る為の攘夷対象は、軍事侵略を企むロシアと宗教侵略を繰り返すキリスト教であった。
 徳川幕府の経教分離の原則を受け入れて交易を行っていたオランダは、排除すべき攘夷の対象ではなかった。
   ・   ・   ・   
 現代にいても、ロシアと中国共産党は北海道を日本から分離独立させ自国の領土もしくは支配地として影響下に置こうと陰謀をめぐらし謀略を仕掛けている。
 国連や国際機関もアイヌ民族を日本の中の先住民族と認定し、日本政府に対して圧力を掛けている。
 反天皇反日本・反米反安保の琉球民族に対する人権問題も、日本分断が目的である。
   ・   ・   ・   
 日本の自然は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境を生きてきた。
   ・   ・   ・   
 人類の誕生と大移動は運命である。
 日本人の祖先はアフリカのサルであるは宿命である。
  ・  ・  
 600万年前~700万年前 人類(ヒト属)の祖先はチンパンジーボノボの祖先である類人猿から別れて進化していき、幾つかの人類種が枝分かれするが一つの系統を残して全て絶滅した。
 10万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は、アフリカで誕生し、世界中に移住していった。
 数万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は日本列島にたどり着き、上陸した、漂着した、流れ着いた。
 数千年前 揚子江流域民である弥生系渡来人が山東半島から朝鮮半島を経由し、続いて中国旧満州地方に住んでいた古墳系帰化人が朝鮮半島を経由して日本列島に移住してきた。
   ・   ・   ・   
 日本土人である縄文人ヤポネシア人=石器人の子孫)は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部太平洋沿岸まで、西は朝鮮半島南部、日本海縄文人の海)を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
 縄文人は、手漕ぎ丸木舟で北米大陸の太平洋沿岸まで移動していた。
 中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と偏見を持って軽蔑し差別していた。
  ・  ・  
 日本文明は、揚子江流域(江南地域)にあった漁労農耕の温和で平和志向の長江文明の後継文明であって、黄河流域で軍事優先で栄えたの領土拡大・侵略志向の好戦的黄河文明の亜流文明ではなかった。
 朝鮮文化は、黄河文明の亜流であった。
  ・  ・  
 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
 数万年続いた日本列島の石器時代縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
  ・  ・  
 日本民族琉球民族アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
  ・  ・  
 日本民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
  ・  ・  
 アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)にシベリア・沿海州樺太北方領土4島・千島列島・カムチャツカ半島などオホーツク海沿岸に住んでいたオホーツク文化人が南下してきて、混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
 アイヌ人は住んでいる島・地域によって幾つかに枝分かれして、それぞれ他の人種・民族と乱婚を繰り返し混血度を濃くして独自の微妙に違う生活スタイルで生きてきた。
 蝦夷地・北方領土アイヌ樺太アイヌ、千島列島アイヌカムチャツカ半島アイヌ、その他。
  ・  ・  
 琉球民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)に揚子江流域・東南アジアから渡って来た人々と混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
   ・   ・   ・   

🌈19)─1─日本の道徳・規律・規範は天道様崇拝であって武士道精神ではない。〜No.37No.38 ② 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の「お天道様」は、キリスト教の全知全能の神ではなく、儒教の天・天帝でもなく、ユダヤ教イスラム教の絶対神でもない。
 お天道様は、何となくの崇拝宗教であって律法・戒律の啓示宗教ではないので、信仰を契約して入信した信者・教徒はいない。
 日本民族は、お天道様崇拝者である。
   ・   ・   ・   
 現代日本では、反宗教無神論で、神殺し・仏殺しそして祖先(祖先神・氏神様)殺しが進行している。
   ・   ・   ・   
 実用日本語表現辞典実用日本語表現辞典
 お天道様が見てる
 読み方:おてんとうさまがみてる・おてんとさまがみてる
 別表記:お天道様が見ている
 人間の悪事に対して、ほかの人間が誰も見ていなくても太陽はきちんと見ているのだから、どんな時でも悪事ははたらかぬべきだと説く語。お天道様がそのまま太陽を意味することもあれば、神や仏といったものの象徴として扱われることもある。
   ・   ・   ・   
 第 53 号 令和 2 年 10 月 22 日
道 ROAD
 大阪学芸中等教育学校 校長室だより

 朝夕はめっきり涼しくなりました。樹木の緑もしだいに彩を変え、秋本番のさわやかな季節がやってきました。秋は、スポーツの秋、食欲の秋、勉学の秋などと言われるように、何をするにも事が進む季節です。日々の生活を前向きな気持ちで過ごしてほしいと思います。
 新型コロナウイルスの関係で、様々な行事が出来ない状況でしたが、できる限りの予防策を講じ、9 月 26 日の体育祭、そして先週の遠足が無事終了しました。制限の多い中で、皆さんは意欲的に取り組み、楽しい行事になったように思います。コロナの関係もまだまだ気を緩めることは出来ません。また、これからインフルエンザの流行も心配されます。感染予防を引き続きよろしくお願いします。
 さて、今号の話題に入ります。最近はあまり聞かれなくなりましたが、私が子どもの頃「誰も見ていなくても、お天道様が見ているよ」という言葉をよく耳にしました。「お天道様」の読み方は、「おてんとうさま」または、「おてんとさま」と表記する場合もあります。
 ここで「お天道様」とは太陽の事を指しますが、神様に置き換えられる場合もあります。「たとえ誰も見ていなくても、空の上の太陽はあなたの行動を見ているよ」「どんな時でも神様が見ているよ」という意味です。例えば、誰も見ていないから道にごみのポイ捨てをしてしまったり、「これぐらいはいいじゃないか」と誤った行動をしてしまったりした経験はありませんか。こんな時、「お天道様が見ているから悪いことはしてはいけませんよ」という教えです。
 この言葉は善いことにも使われます。善い行いをするとき、誰も見ていなくてもお天道様が見てくれているからと、陰徳(密かにする善い行い)を積む人もいます。いろんな成果を上げている人というのは、きっと誰も見ていない時でも地道な努力をしているのでしょう。
 また、「お天道様」は自分自身に置き換えられる場合もあります。誰が見ていなくても、自分の心はその行動をしっかり見ています。人目を盗んでサボったりするのか、人の目がないところこそ努力を重ねるのか。結果として返ってくるのも自分自身だということも忘れてはいけません。
 「因果応報」という言葉があります。「良きも悪きも自分の受ける結果のすべては自分が作るのだ」という考え方です。自分のしたことは必ず自分に返ってくるということです。
 「カリスマ経営者」と呼ばれた稲盛和夫さんという人がいます。京セラを興して世界的な企業に育て、再建不可能と言われたJALを立て直すなど多くの偉業を成し遂げられました。稲盛さんは著書の中で、自身の人生経験で得た教訓として次のように述べられています
 《 因果応報の法則は、結果が出るまでには時間がかかることがあります。原因に対して結果がすぐにでることもあるにはありますが、多くの場合にはなかなか結果が出てこないのです。しかし、20 年 30 年といった長いスパンで見ると、必ず因果応報の法則通りの結果になっています。私は昭和7年に生を享(う)けて、ずいぶんと長い人生を歩んできました。これだけ長く生きていると、いくらか長いスパンで人生を振り返ることができます。すると、悪いことをした人が、繁栄していることはまずありません。良いことをしてきた人が不遇のままでいるということもありません。人生を長いスパンで見ると、大体つじつまが合っています。》
 「誰も見ていなくてもお天道様が見ている」という言葉は、とても大切な教えだと改めて感じます。「誰も見ていないからいいや」「誰にも見られていないから良いことをしてもしょうがない」と流されそうなとき、この言葉を思い出して欲しいと思います。
   ・   ・  ・   
 トライイット
 ホーム社会中学社会中学歴史江戸時代武士による支配
 中学歴史
 身分別の人口の割合 幕末のごろ
 総人口約3,200万人
 百姓が全体の85% たった7%の武士はどうやって支配する?
 江戸時代における、 身分別の人口の割合 が示されています。
 一番多いのが 百姓 (農民)で、人口の85%を占めていますね。
 その次に多いのが7%の 武士 です。
 3番目に多いのが5%の 町人 ですね。
 町人には2種類あり、 工業の担い手である工人と商業の担い手である商人 に分かれていました。
 そのほかには、えた・ひにんといった被差別階級の人々1.5%
 公家・神官・僧侶、その他1.5%。
   ・   ・   ・   
 江戸時代は庶民の時代で武士の時代でなく、武士道は社会の片隅で世の中の道徳ではなかった。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 天道(てんどう、てんとう)とは、太陽が天空を通過する道をさすが、天体の運行には一定の規則性があるため、転じて天然自然の摂理、天理を意味するようになった。古代中国の儒教道教では、天命は天地を支配する神である天帝が定めるものとされており、天道とはすなわち人知の及ばぬ天の理であったが、これが日本にも伝わり、運命論的な天道思想として中世・近世に広まった。
 日本の天道(太陽信仰)
 日本では、太陽を天道様(おてんとさま)とも言う。世界各地で太陽は神として祀られ、太陽神の存在はよく知られる。日本の場合は、天照大神(アマテラスオオカミ)が太陽の神格化とされている。『古事記』や『日本書紀』には、スサノヲノミコトの乱暴狼藉のために、天照大神が天の岩戸に隠れて世の中が闇に包まれるとあり、太陽神の性格が顕在化する。伊勢の内宮として知られる皇大神宮には祭神として祀られている。
 平安時代末期以降の本地垂迹思想の展開によって、神仏習合の考えが深まると、本地は大日如来垂迹天照大神となった。中世には神仏習合天照大神を中心に展開し、『日本書紀』を読み替えて「中世日本紀」が生み出された。民間では、てんとうむし(天道虫と書く)を太陽に見立てた。
 千葉の「天道念仏」
 千葉県では、旧千葉郡を中心として、天道念仏と称し、村ごとに春2月・3月に出羽三山をかたどった祭壇を作り、念仏を唱え作物の豊作を祈るなど、農耕儀礼に展開した。船橋については『江戸名所図会』(1834~1836)に絵に描かれた記録が残る。春の彼岸頃に行われることが多く、浄土信仰とも混淆し太陽を拝んで到彼岸、極楽往生を願った。祭壇は出羽三山をかたどり、梵天を立て、中央に総奥の院湯殿山を配した。湯殿山は、胎蔵界大日如来を本地、天照大神垂迹としており、太陽信仰と習合した。千葉県には出羽三山講が広がり、天道念仏は修験道の影響を強く受けた民間行事となった。
 山形県の天童が起源なので天道念仏となったという俗説もある。
 播磨の「日の伴」
 西日本の播磨地方では春の彼岸に一日中、太陽の動きに従って、村の東から西に歩いて到彼岸を願う「日の伴(ひのとも)」という行事も行われていた。
 対馬の天道信仰
 対馬では独自の天道信仰が残る。太陽の光が女性の陰部に差し込んで孕み、子供を産むという太陽感精神話が伝えられ、母神と子神として祀るようになったという。母神を山麓に子神を山上に祀り、天神たる太陽を拝むことが多く、山は天道山として禁忌の聖地とされる。子神は天童や天道法師とも言われる。石塔を作って山と太陽を拝む信仰があり、対馬の南岸に位置する豆酘の東の浅藻(あざも)にあるオソロシドコロ(恐ろし処、信仰の禁足地)の、八丁郭が名高い。多久頭魂神社に奉仕していた供僧は天道を祀り、赤米の赤に託して豊穣を祈願した。供僧は観音堂に奉仕し天道を祀る神仏習合の行事を続けてきた。天道は母子神のうちの子神で、母神は観音と習合したのである。旧暦正月10日の「頭受け神事」は一年間神仏に奉仕して赤米の栽培を行ってきた頭屋が、次の年の頭屋に受け渡す行事で厳格に行われてきた。北部の佐護湊の天神多久頭魂(あまのたくつたま)神社も天道信仰で山上に御子神を祀り、山麓の水辺にある神御魂(かみむすび)神社には天道の母神を祀り、母子神信仰である。天道の祭りは、太陽を拝むと共に、天道山を崇拝し、米や麦の収穫感謝を願った。対馬の中部では、旧6月のヤクマの祭りで石塔を立てて山を拝む習俗が天道信仰の名残りで、麦の収穫祭でもあった。木坂や青海では現在もおこなわれている[15]。天道信仰は母子神が基盤にあったので、八幡信仰と習合した。太陽によって孕んだ子供を天神として祀る天道信仰の上に、母神(神功皇后)と子神(応神天皇)を祀る八幡信仰が重なった。母子神信仰は、日本神話と結び付けられて、豊玉姫命と鵜茅草葺不合命とも解釈された。しかし、母子神信仰の基層には、海神や山神の祭祀があり、太陽を祀る天道信仰が融合していた。元々は自然崇拝に発した祭祀が、歴史上の人物に仮託され、社人による神話の再解釈が導入され、明治時代以降は国家神道の展開によって、祭神が日本神話の神々に読みかえられ、式内社に比定されて祭神も天皇につながる神統譜に再編成された。
   ・  ・   ・  
 東洋経済ONLINE
 西洋は「信じる宗教」、日本は「感じる宗教」
 山折哲雄×上田紀行(その4)
 山折 哲雄 : こころを育む総合フォーラム座長
 2013/10/29 6:00
 これまで「和魂漢才」と「和魂洋才」で生きてきた日本人。グローバル化が急速に進む中で、日本人はあらためて「日本文明とは何か」「日本人とは何か」を問われている。これからの時代を生き抜くために、日本人に求められる教養とは何か――。 宗教学者山折哲雄氏が、有識者との対談を通して、日本人の教養を探る。
 第2回目は、宗教学者東京工業大学教授の上田紀行氏をを迎えて、教養と宗教の関係について語る。
(企画協力:こころを育む総合フォーラム)
 ※ 対談(その1):教養の出発点は、「日本人とは何か」
 対談(その2):日本人の「心イズム」とは何か?
  対談(その3):西洋に深い影響を与えた、日本人リーダー
 科学技術の世界に宗教界が何を言うかが、問われる
 山折:やっぱり今、科学技術が非常に発達してしまった時代だから、その科学技術の世界に対して宗教界が何を言うか、宗教者が何を言うかがものすごく問われている。
 私はよく科学者に問いを突きつけるんです。いやらしい問いを。
 私は生命科学の最先端の分野で話題になっている遺伝子というものを、一度も実感したことがない。生命体としては存在を実感しない。しかし、その存在は確実に実証されている。それに対して、たとえば本を読んで感動するとか、スポーツ選手のすごい演技を見て感動するとか、そういう霊的な体験は実感できる。しかし、その霊的なものの存在は証明することはできない。
 それで科学者に聞くんです。「あなた、遺伝子を実感できますか?」と。すると半分の科学者は、「実感できる」と言う。だけどこれはちょっと強弁している感じだな。私はあんまり信用していない。宗教者はこの実感のレベルで、科学に対してモノを言わなければならない。
 たとえば、「クオーク素粒子)は色がついているから色でイメージできる」と科学者は言う。色で実感しているのか、実感していると自分に説明しているのか。しかし、半分の科学者は「実感できない」と言う。私と同じですよ。
 要するに、実感できないものを研究して、しかも人間の命を左右するたいへんな発見をしていて、いろいろな薬までつくったりしている。それは科学者の倫理的な責任とどうかかわるのか。もっともっと宗教者は追及しなければならない問題です。しかし、ほとんど出てきません。
 「お天道様が見ている」という世界視線の感覚
 上田:私も東工大で必ず年に1回、学生にいやがらせの質問をするのです。
 「この中で宗教を信じている人、手を挙げてください」と言うと、200人の教室で2、3人の手が挙がる。クリスチャンとして洗礼を受けている子や創価学会の子は手を挙げる。でも、みんなにヘンなヤツだと思われるから、挙げない子もいると思うんですね。
 「じゃあ、何も信じてない人、手を挙げてください」と言うと、みんなバーッと挙げるんですよ。「その中で初詣に行ったことのある人」と言うと、手を挙げる。「その中でお守りを持っている人、持ったことのある人」と言うと、手が挙がって、カバンの中に持っている子がいるんです。「じゃあ、あなたたち、宗教を信じていないのなら、ここにハサミがあったとしたら、そのお守りをズタズタに切れる?」と言うのです(笑)。
 「宗教なんか信じてなくて、神様も信じてないなら切れるだろう?」と言うと、「ダメです。そんなことできるわけないじゃないですか」とうろたえる。「何でできないんだ?」と聞くと、「バチが当たる」と。「誰がバチを当てるんだ?」「神様のバチが当たる」って。「おまえ、神様を信じてるのか?」「いや、神様なんて信じてません」と。「じゃあ、切れるんじゃない?」って、そこで押し問答になるわけです(笑)。
 山折:ははは。
 上田:宗教的な感覚は持っているが、それは宗教ではなくて、単なる習慣としてやっているのだと考えている、その二枚舌。そこらへんから攻めていく余地はまだあると思うんですよね。やっぱりどんな子でも、家でエロ本を見るときは仏壇を閉めるというから(笑)。
 山折:それ面白いな。初めて聞いた(笑)。
 上田:そこに遺影とか位牌とかあるのに、その前でエロ本やエロビデオは見られない。やっぱり何となくあっちの世界から見られている感じがあるんですよ。
 山折:身を慎むという感覚だな。
 上田:向こうから何か見られている、そういう世界視線がある。「お天道様が見ている」という感覚、先生の世代はありますよね。
 山折:もちろんあるよ。
 上田:私の世代もまだあります。今の子たちはさすがに「お天道様が見ている」という感覚はなさそうですが、何かに見られている感覚はやっぱりあると思う。
 ルース・ベネディクトが「日本は恥の文化」だと言った。日本人の恥というのは、人の目だけではなくて、お天道様や御先祖様、そういう大きな世界からの視線の中での恥なのですね。
 山折:そうそう。
 上田:単にヘンなことをして、人に見られて恥ずかしいというのではなくて、ご先祖様から生をいただいている私としたことが、こんなバカなことをしてしまって恥ずかしい。つまり、誰も見ていないけれども、世界視線からは見られていて恥ずかしいことをしてしまったという、より大きな恥の感覚がある。
 それがどんどん縮小していって、経済人や政治家までどんどん縮小していって、また団塊の世代というヤツらが縮小していった(笑)。
 山折:はっはっは。
 上田:団塊の世代は本当に世界視線がないですよ。ほら、小学校に入ったときから60人学級とかに詰めこまれて、人口圧がむちゃくちゃあったから、人の目しか見えない。団塊の世代の教授たちには、教授会の前の晩に作戦会議をやって多数派工作をしたりすることに燃えてる人も結構いますよ。私の世代は恥ずかしくてそんなことできないけど。要するに、多数派につくことが正義。向こう側の神仏に見られている私の正義ではなくて、この100人の中でいかに多数派を取るかという、株主総会みたいな正義なのです(笑)。
 団塊の世代で大きな世界視線が失われてしまいましたが、今の子たちはもう一回それを回復する力があると私は思っています。単線的な世界観がもう骨にも肉にも血にもなっちゃったのが団塊の世代だとすれば、今の子たちは日本が右肩上がりの状況を一度も知りませんから、逆に社会が複線であるということをわかってくれる素地がある。
 教育者や経済人も、早く団塊の世代に引退してもらって、より心のある人間がトップに立ったほうがいい。でも、その後で今度はどういうビジョンが語れるのかが問題になってきます。
 西洋は「信じる宗教」、日本は「感じる宗教」
 山折:それはやっぱり3つの問いにいくんですよ。さっき宗教を信じるか信じないかという話が出ました。やっぱり西洋の一神教的世界においては、神、あるいは神と類似のものを信じるか信じないかが重大な問題なのですが、多神教的世界における日本人にとっては、信じるか信じないかではなく、神々の気配を感じるか感じないか。「感じる宗教」なのです。
 「信じる宗教」と「感じる宗教」を分けて考えると、日本人の心のあり方がよく理解できる。山に入れば山の気を感じて、そのかなたに先祖を感じたり、神々や仏たちを感じたりする。お守りをズタズタに切ることができないというのは、たたりがあるという深い深層心理が働くからでね。
 何か悪いことが現実に起こると、それは何ものかのたたりだと。神々のたたりだ、死んだ人のたたりだ、生きている人間の怨念がたたりになる。それを気配として感じる。そういう鋭敏な感覚が、逆にわれわれを育ててきた。気配の文化と言っていいかもしれない。
 それが日本人の宗教感覚、宗教意識なんだ。と、本当はこういう教え方をしなければならない。それはもうすでに鈴木大拙が『日本的霊性』(岩波文庫)で言っている。
 しかし、一神教的な宗教観念が先にポーンと出てくるから、それ以外は全部おかしいということになってしまう。やっぱりわれわれ自身の文化、つまり、「自分とは何か?」を考えるための教養が、ものすごく必要だということです。ここで教養が出てくるんだな。
 浄土真宗の果たした意味は何か
 上田:日本の宗教は牙を抜かれているところがあります。たとえば仏教における「縁起」にしても、自分がどれだけ生かされているかを異常に強調します。たとえば日本仏教の最大教団である浄土真宗とかでも、親の恩徳、師主・知識の恩徳、如来大悲の恩徳、阿弥陀様の恩徳って、後ろからどれだけ私が恩を受けているのかを強調している。
 それはいいのだけど、その恩を受けている主体としての私はどう生きたらいいのかというと、明確な答えがない。「その恩を感じながら、どんなことがあっても我慢して生きなさい。我慢して生きるのはいいんだよ」みたいなノリで説かれることが多いわけです。
 「あなたも次の先祖になるのだから、未来の社会を切り開いていく責任があるんだ」というふうな、未来を創造していく主体の形成みたいなものにも結び付かない。親鸞さんとか法然さんとかの師主・知識は断罪され島流しになっても頑張ってきたのだから、その恩に報いるためには、あなたもその覚悟を持って行動しなさい、というのが「報恩感謝」のはずなのですが、いつの間にかその主体の部分がごっそり脱落している。これは真宗に限らず、どの宗派でもそうですね。
 「どんなことがあっても、文句を言わずに与えられた場で生きていきなさい」みたいな説法の仕方をして、「南無阿弥陀仏さえ唱えていれば極楽浄土に行けるのだから、恐れず行動を起こしなさい」的な言挙げもしない僧侶が多い。まあ私の知り合いの僧侶たちは、行動派も多いけど、彼らは「他力を頼んでないで、自力だ」と非難されてしまうわけで。
 まさにそこで正義が問われないかたちでの、ある種の信心の仕方に丸め込まれている。その欺瞞性もやっぱり見逃すことはできないのではないか。
 ここで、あんまり浄土真宗だけの話をすると問題が起きますが、先生は浄土真宗について、そうとう、物議をかもす本を出しているので(笑)、この日本で浄土真宗の果たした意味はいったい何なのかをこっそり伺ってみたい。
日本の治安のよさは二大教団の役割が大きい
 山折:今、おっしゃったのは重要な問題ですよ。日本の宗教全体を見ると、本願寺教団と創価学会教団がものすごく大きな影響を与えている。対内的にも対外的にもね。信者数も非常に多い。
 この2つに共通するものは何か。一方は一向一揆、一方は法華一揆という宗教戦争を、歴史の上で体験していること。そういう点では、教義なり伝統の中に過激な思想を含み込んでいる。
 ところが、過激な宗教行動に出ると、必ず社会的な圧力を受けるので、戦略としてそれをマイルドなものにずっとしてきている。だけど、ときどき噴出するわけです。
 本願寺教団の「靖国反対」なんていうのは、一部の人間がしょっちゅうやっている。またかというようなものでね。創価学会教団の「国立戒壇」は、今は引っ込めているが、何かというと噴出する。
 そういう根を持った、宗教戦争の記憶を持った二大宗教教団。これは絶対に手を握らない。ほかの中小の宗教教団とも手を握らないという不思議な関係になっている。
 それが全体として、どういう効果を日本の社会に与えているか。安定させる効果を担っていると私は思いますね。しかも、創価学会は国際社会では日本の宗教としていちばん知られているのに、国内的には無関心です。ほとんど手を触れない。それが微妙な調和を保っている。
 日本の治安のよさは、この二大教団が非常に大きな役割を果たしていると思っています。単に警察が優れているからではない。しかし、それは誰も言わない。批評家も政治学者も言わない。
 上田:確かにそうですね。都会で暴動が起こってもおかしくないような創価学会の層に対して、あれだけ昇華させて、お題目を唱えて、なおかつ物欲を否定せず、そしてアイデンティティも与え、仲間も与えていくというね。しかし浄土真宗創価学会を並べるというのは驚きました。創価学会と似ているといったら、浄土真宗の人たちは怒っちゃうでしょうけどねえ。
 山折:過激化するとどうなるかもわかっている。それを抑え込む技術も心得ている。そういう見方を誰もしないんだ。宗教学者も人類学者も研究しない。この二つの大教団は比較して研究すべきですよ。
 上田:なるほど、そもそも抑え込む技術なんですね。本願寺教団が「他力」「他力」と言って、「他力本願」を「人任せ」と誤解されるのはいかん、それは阿弥陀さんの力だから、と言いますが、あれだけ「他力」を曲解して人々の行動の契機を削ぐ、みたいなことを大規模にやってきたわけだから、人々が「他力本願」を誤解して当然だろうと私は思います。当たり前じゃないですか、ねえ(笑)。
 山折:みんなが「他力」を誤解することによって、本願寺教団を温かく包み込んでしまうというところがある。あれ、「悪人正機」(悪人こそ救われる)だったら誰も認めませんよ。「善人正機」なんだよ。やっぱり。「善人正機」で大衆化していくわけだからね。「いい人間になりなさい、いい人間になりなさい」と言っているんだ、現実は。
 そして「おかげさま」「おかげさま」、「感謝」「感謝」と言って教えこんでいる。かつての宗教一揆のとんがった思想なんて、もう誰も継承していませんよね。だけど記憶にはある。創価学会も同じ。
 まあ、基本線は日本の社会を安定させる二大勢力。私の中ではそういう認識だな。
 上田:仏教って本来、そんなに安定させるものではないでしょう。普段、気がついてはいけないことに気がつかせちゃうものですから。
 山折:それは13世紀ですよ。13世紀の宗教者は、わが国における軸の思想を形作った。これから日本が国際的に何か存在感を強化するうえで何が必要かといったら、やっぱり13世紀なんです。自信や価値観の源泉みたいなものは、あそこにしかない。でも誰も気がついていない。これは悲劇的です。
 西洋人は知っていますよ。ソクラテスプラトン以来の伝統がいかに重要かということを。ところが日本人はそれがない。これがやっぱり教養の重大な質の違いでしょうね。
 (司会:佐々木紀彦、構成:上田真緒、撮影:ヒラオカスタジオ)
 山折 哲雄さんの最新公開記事をメールで受け取る(著者フォロー)
・・・・
 上田紀行(うえだ・のりゆき)
 東京工業大学リベラルアーツセンター教授
 文化人類学者、医学博士。1958年、東京都に生まれる。東京大学大学院文化人類学専攻博士課程修了。愛媛大学助教授を経て、東京工業大学大学院准教授(社会理工学研究科価値システム専攻)。2012年2月より現職。『生きる意味』『かけがえのない人間』など著書多数。
 山折哲雄(やまおり・てつお)
 こころを育む総合フォーラム座長
 1931年、サンフランシスコ生まれ。岩手県花巻市で育つ。宗教学専攻。東北大学文学部印度哲学科卒業。駒沢大学助教授、東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教授、同所長などを歴任。『こころの作法』『いま、こころを育むとは』など著書多数
   ・   ・   ・