🌏41)─5・C─北海道開拓100年記念塔解体計画の賛成と反対。和人の開拓は侵略か。〜No.134 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 江戸時代のアイヌの人口は、記録上最大約2万6,800人であったが、天領とされて以降は感染症の流行などもあって人口は減少した。
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 日本の総人口は、江戸開府の1600年頃では約1,200万人~1,800万人で明治5(1872)年には約3,295万人(琉球人とアイヌ人を除く)に増加していた。
 日本国内でも、西国に比べて東北は人口が少なくあまり増えなかった。
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 日本の北海道開拓とアメリカの西部開拓・ロシアのシベリア開拓とは、未開地開墾といってもその意味や目的が全然違う。
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 2015年5月31日 アナーキー小池の反体制日記「世界中のひとが 仲良く助け合い ほほえみながら 平和に暮らしていくために (イマジン)
 #1652 負の遺物の清算
 ⑥開基百年記念塔
 市内の話題
 このマチの負の遺産といわれるものの大半は、3代前の市長の時代に造られたものです。
 昭和50年代、名市長として名をはせたのです。
 3期か4期か市長をしたと思うのだけど、最後の1期は尋常ではない活躍ぶりでした。
 今回の開基百年記念塔もそうですが、その他、次回予定しているオンボロ飛行機展示館を建てたり、公園内に大きな観音菩薩像を造ったり、迎賓館(げいひんかん)と揶揄(やゆ)される市民会館なるものを建てたりと、ボクは当時市長は常軌を逸している、と叫んでしまっちゃうほど驚いたものです。
 茶坊主ばかりを配した取り巻き連中はなんら諫言(かんげん)を呈することなどなく、議会だって独裁者の暴走を止めるという重要な役割を結果的になさなかったのです。
このマチの体制は、昭和50年代の市長の影をずっと引きずっています。
 その時代にその時の市長に薫陶(くんとう)を受けた職員が延々と中枢部に居座っているのですから、変わりようがないのです。(この頃ようやく一掃された感がありますが)
 本題に入ります。
 このマチの開基百年とは、屯田兵が入植した年から数えて百年に当たる年を言います。
 大盛り上がりで、いろいろ式典をしたり、歌ったり踊ったり、大はしゃぎでした。
 本当はその前からこの地に先住者がいたのに係わらず、侵略百年とは言わず開基百年ですから笑っちゃいますが。
 またまた話がそれてしまいました。
 とにかく市長が率先して発奮しているものだから、取り巻き達もハッスルしていろいろアイデアを吹き込んだのでしょう。
 開基百年記念塔を建てる、と言い出したのです。
 北海道には北海道開基百年記念塔というものが札幌の野幌にあるのです。(これも同様、侵略百年記念です)
 百年にちなんで標高100mが塔の突端の高さになるものを建て、上部に展望台を設け市域を見渡し、先人の労苦に思いを馳(は)せようとのことだったのでしょうか。
 展望台に上るのに有料のエレべーターを設置し、五稜郭タワーのように観光客が訪れることの期待もあったようです。
 半年も経過したら、案の定、利用する人はごくわずかになりました。
 市民だって一度見たら、もう見ようと思いません。
 まして観光客なんて来るわけがありません。
 エレベーターの故障を理由に、展望台の公開を止めてしまいました。
 誰でもが予想できたことです。
 今では、それでもこの塔はマチのシンボルタワーだ、と強弁するのがいますが、負の遺産なことは間違いありません。
 特殊なところに特殊な建造物が建っていて、メンテナンスもせず老朽化が進んでいて、いずれ多額な費用をかけて撤去しなければならないのです。
 老朽化した建造物は壊さなければなりません。
 市は民間の使用していない老朽建物を防災・防犯上も景観上もよろしくないとして、撤去させる条例まで制定しているのです。
 不要な公共建造物は率先して取り壊さなければなりません。
 たとえ、多額な費用がかかるとしても。」
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 日本には、歴史記録遺産というべき記念塔が二つあり、一つが宮城県の平和の塔(旧称・八紘一宇の塔)でもう一つが北海道の北海道開拓100年記念塔である。
 明治天皇は、ロシアの軍事侵略という今そこに迫っている現実の脅威から日本を防衛する為に、国家元首として北海道開拓を、大元帥として軍事拠点建設を求めていた。
 昭和天皇明治天皇への尊敬の念が強いだけに、明治天皇の偉業である北海道開拓と琉球処分には並々ならぬ想いを持っていた。
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 現代の北海道で進行している深刻な問題とは、反天皇反民族反日本的日本人とアイヌ人独立派らによる北海道開拓史を侵略史・罪悪史として歴史からの抹消、北海道と天皇・皇室との繋がり・絆の分断である。
 そして、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者と学者・教育者も含まれる。
 日本の存続を危うくさせる毒は、薄く、浅いが、確実に日本全国に染み渡り増えつつある。
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 令和4年6月号 正論「『北海道開拓』何が悪いのか 海堂巧己
 北海道の東部の江別市北広島市にまたがる広大な道立野幌森林公園に『北海道100年記念塔』と呼ばれる塔が建っている。昭和45年に『北海道100年』の中核事業として建てられた。高さ100メートル。全体を耐候性高張力鋼、通称コルテン鋼によって覆われた二次元双曲線による美しい塔である。コルテン鋼は錆の被膜が内部の腐食を防ぐ当時の先端技術だ。北海道100年記念塔はコルテン鋼を用いた大規模モニュメントとして世界最大の可能性が高い。ところが、塔の所有者である北海道は、平成30年12月に解体を決めた。令和3年に解体工事実施設計が行われ、11月に解体費7億2,000万円と報告された。4年度予算に計上され、今年度に解体工事が行われる見通しだ。
 北海道100年事業と記念塔
 開拓である北海道のなりたちは民間企業に似ている。無から事業を起こそうとする『創業の志』があり、『創業の苦しみ』があって、それを乗り越えたところに『今』があり、『将来』がある。太古から空気のように『歴史』が存在していた本州とは異なり、北海道において『歴史』とは自ら〝造るもの〟であった。
 企業が創業10年、50年、100年をメルクマールにするように、北海道も周年ごとに記念事業を盛大に行ってきた。大正7年の『開道50年』では、50日間にわたって『開道50年記念北海道博覧会』が開かれている。札幌市中央区中島公園を会場に15のパビリオンが並び、道内外の物産2万6,000点が集められていた。内陸部ではまだ入植者たちが原生林を相手に開墾を行っていた時代に開墾の成果を内外に示したと、想像を絶する苦労でパビリオンを建て、物産を集めたのだ。札幌の市電はこの時のレガシーである。
 戦争を挟み、迎えた昭和43年、『北海道100年』は空前の規模で行われた。真駒内公園では50年前に倣って『北海道大博覧会』が行われ、……。9月2日に円山陸上競技場に約2万人の道民を集めて行われた『北海道100年記念祝典』で道民は、昭和天皇から『開拓者精神をうけつぎ、一致協力して北海道の発展を推進するよう切に希望します』との『おことば』を賜った。
 こうした中、北海道100年記念塔は『道民の総意で建てたい』との町村金吾知事の意向から、記念事業と切り離して『北海道100年記念塔建設期成会』によって建立された。建設費約5億円の半額は道民の寄付である。期成会による『記念塔建設趣旨』はこう述べている。
 《我々が今日の生活を享受できるのは、有名無名の先人たちの叡智と血と汗の賜物である。開拓の先人に対し、感謝と慰霊の誠を捧げ、永くその偉業を讃えたい。
 北海道開発の可能性をさらに伸張させるものは、我々道民である。たくましい郷土建設の意欲を表明したい。
 このような道民の感動と感謝と決意の象徴として北海道100年記念塔を建設する》
 昭和42年に北海道で初となる設計コンペが実施され、建築家・黒川紀章氏はじめ全国299作品から選ばれたのが、当時久米建築事務所(現・久米設計)札幌支店に勤務していた29歳の青年、井口健氏の作品である。井口氏は明治28年に今金町に入植した徳島移民の子孫であった。
 『解体ありき』の疑問
 道は平成30年12月の『ほっかいどう歴史・文化・自然「体感」交流空間構想』(以下、空間構想)という検討会議で北海道100年記念塔の『解体』を決定したと言っている。この構想は、昭和47年の北海道100年記念事業で建設された『北海道100年記念塔』『北海道博物館』(旧北海道開拓記念館)、『北海道開拓の村』を含む『記念地区』のあり方を検討したもので、『学ぶ、触れる、集う、繋がる』をキーワードにした交流空間として再生するのだという。
 前段として、有権者による平成28年10月開始の『北海道の歴史文化施設活性化に関する懇談会』があり、平成29年11月の同懇談会報告を受け、平成30年5月から3回行われた『空間構想』検討会議を経て、『利用者の安全確保や将来世代への負担軽減等の観点から、解体もやむを得ないと判断』(報告書、空間構想9頁)したとする。
 しかし、道の検討プロセスには当初から『解体ありき』との批判がつきまとっていた。厚別区選出の菅原和忠道議は『空間構想』の中間報告を受け、平成30年9月議会で『過程がアリバイ的で解体との結論をイメージすることができません』と道を批判している。同じ疑惑を抱いた我々は、道の情報公開制度を利用し、解体を決定した『空間構想』検討会議の議事録を求めた。3回の会議はいずれも有識者の講話を聞くだけで終わっており、『検討』の実態はまったく見えなかった。
 さらに情報公開をすすめ、平成26年1月31日付け『平成25年度北海道100年記念塔維持管理調査報告書【第5次】』(以下『五次計画』)を入手した。驚くことにこのなかで、記念塔の『解体計画』が工程表、経費と共に示されていたのだ。
 100年記念塔では、昭和45年の完成以降およそ10年毎に維持管理調査とそれに基づいた10年間の管理計画が策定されてきた。平成23年11月に『四次計画』が令和3年度までの維持管理計画として策定されており、これに基づいて塔は管理されていると我々は理解していた。ところが、その2年後に『五次計画』が策定されていたのである。このことは、情報公開を通して初めて明るみに出た事実だった。
 この『五次計画』は、『維持する場合』と『解体を行う場合』の2つの計画を示したもので、解体の場合は、4年間の『最低限の保守管理』を行ったあと、平成30年に解体を行うとなっている。そこで年度ごとの維持管理費の推移を求めると、はたして平成26年から『四次計画』の年間修繕費が半額に減額されていた。しかも、平成29年からは修繕自体が売り切られていたのである。
 ……
 情報公開を通して見えたことは、『五次計画』の予算化を通して平成26年1月から3月の間に記念塔解体の組織決定がなされ、その後『解体ありき』の調査や計画がアリバイ的に積み重ねられていったという実態であった。
 大変反省すべき歴史
 なぜ道は、こうまでして解体を強行するのか。ここで北海道100年記念塔解体の説明資料には全く登場しない『アイヌ政策』という文言を出さなければならない。
 平成21年7月、官房長官の諮問機関『アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会』が報告書を提出した。前年6月に採択された衆参両院の『アイヌ民族先住民族とすることを求める決議』を受けたもので、後に『アイヌ政策推進法』(民族共生象徴空間)を生み出す報告書である。
 報告書は『今後のアイヌ政策を考えるにあたっても、歴史と正面から向き合うことは不可欠である』と旧石器時代から現在までアイヌ史を概観する。明治の開拓時代はこうだ。
 『明治に入ってからは、和人が大規模に北海道へと移住し開拓が進展する。その陰で、先住していたアイヌ人の人は、文化に深刻な打撃を受ける。近代的な土地所有制度の導入により、アイヌの人々は、狩猟、漁撈、採集などの場を狭められ、さらに狩猟、漁撈の禁止も加わり貧窮を余儀なくされた。また、民族独自の文化の制限・禁止やアイヌ語を話す機会の減少は、アイヌ人の人々の和人への同化を進め、その文化は失われる寸前にいたった』(報告書17頁)
 この懇談会は平成20年8月から21年7月まで10回の会議と3回の現地視察意見交換会が行われた密度の濃いものだった。メンバーは佐藤幸治京都大学名誉教授を座長に、加藤忠北海道アイヌ協会理事長など8人。中に高橋はるみ北海道知事がいた。
 『北海道100年』の50年後の平成30年、『北海道150年』事業が行われた。高橋知事は『事業構想PROJECT DESIGN ONLINE』で記念事業の向き合い方を尋ねられ、有識者会議のメンバーらしく次のように答えている。
 『広大な北海道の自然環境をしっかりと維持をしながら、それを守って来てくださったのもアイヌの方がたでした。そういう歴史があったにもかかわず、15世紀には、和人が本州などから北海道に入ってきて、開拓を進められ、北海道の近代化がなされる過程で、先住民族であるアイヌの人たちに対するいわれのない差別や低賃金労働、伝統的な生業の制限などにより貧窮を余儀なくされるなど、大変に反省すべきことを多々行ってきたという歴史的な事実があります』
 北海道の過半は明治以降の開拓によって築かれたが、この歴史を知事は『反省すべき歴史』と言うのだ。
 北海道開拓によってアイヌ文化は消滅寸前にいたった──この歴史に正面から向きあわなければアイヌ政策は進められない、アイヌ政策有識者懇談会はそう提言した。これから多額の補助金をもたらすアイヌ政策を進めようとするとき、開拓の象徴である100年記念塔をそのままにしておくことはできない、と道は忖度したのではないか。
 引きずり下ろされた『開拓者の大地』
 ゼロサムゲームとは一方が加点すると他方が必ず失点するゲームを言う。アイヌ政策有識者懇談会が、アイヌ政策と北海道開拓の歴史を結びつけたことで『アイヌ』と『開拓』はゼロサムゲームになった。アイヌ政策推進法によりアイヌ復興が進むのに併せて開拓の歴史の排斥がすすんでいく。
 平成24年5月、100年記念塔と同時につくられた記念施設『北海道開拓記念館』から『開拓』が削除され、『北海道博物館』になることが決まった。そして平成27年4月『北海道立アイヌ民族文化研究センター』が北海道博物館に統合された。新しい博物館では、開拓記念館時代に過半を占めていた『開拓』が展示から実質的に削除された。……
 ……
 平成27年6月、プロ野球球団、日本ハムファイターズ新千歳空港に『北海道は、開拓者の大地だ』とするタペストリーを掲げた。11月にアイヌ団体から『配慮に欠ける』と抗議があり、球団は謝罪して取り下げた。このことはマスコミ、ネットで繰り返し報道、増幅され、『開拓』は差別語リストに加えられていく。
 『開拓』とは、『未開』の大地を切り開くこと。北海道『開拓』と言えば。先住民族であるアイヌ民族の存在を無視した言葉となる──。
 これは公益財団法人アイヌ民族文化財団が発行する学校副読本『アイヌ民族:歴史と現在』の『教師用指導書』(37頁)の一節である。北海道の事業として毎年道内全生徒に配布されている副読本の指導書であるだけに、この言葉は重い。北海道においてアイヌ民族の民族性に疑問をもつことは、戦前の『不敬罪』に匹敵するものになっているが、この指導書によって『開拓』をポジティブに捉えることも同罪だと子供たちは教育されるのである。
 道南や海岸沿いのまちを除く圧倒的多数の市町村が開拓によって拓かれたまちである。教室から開拓の歴史、郷土史が消え、北海道の子供たちは自分がどこからきたのか、郷土アイデンティティを育めないまま成長する。
 『おことば』なき記念式典
 アイヌ政策有識者懇談会のメンバーである高橋知事にとって任期中に迎えた『北海道150年』は扱いの難しいものであっただろう。
 まず『北海道150年』という呼称が問題となった。北海道の歴史が150年前に始まったかのように受けとめられる。アイヌ民族の歴史を無視したものだ──という声がアイヌ学者・支援者から上がった。これを受け道は平成30年を『北海道命名150年』と呼ぶことにした。実際にはこの呼称は普及せず、なし崩し的に『北海道150年』と呼ばれるようになったのだが。
 『未来志向』の呼びかけの下、過去を全く振り返らない異例の周年祭となっていた。100年前の中島公園や50年前の北海道100年記念塔のようなレガシーは一切つくられることなく、博覧会のような記念事業も行われなかった。
 そして迎えた8月5日、『北海道150年記念式典』は、高橋知事の式辞から始まり、北方担当大臣の祝辞、道議会議長の『未来への宣言』、高校生による『青少年の誓い』と50年前と同一のフォーマットで行われたが、登壇した誰一人として『開拓』の2文字を口にしなかった。
 昭和43年9月2日の北海道100年記念祝典で道民は昭和天皇から開拓者精神を受け継ぐよう『おことば』をいただいたが、50年後の平成30年、式典に臨場された上皇陛下は、どのような『おことば』を我々に下さるのか──。
 上皇上皇后両陛下はただ式典を眺められるだけだったのである。北海道ちう日本の大州の50年に一度の式典において『おことば』がないというのは極めて異例だ。北海道開拓は明治天皇の強い思し召しによって始められた。父である昭和天皇は道民に開拓者精神を受け継ぐように求められ。一方、アイヌ政策のもとで開拓の歴史を称えることは決してできない。こうした状況を前に陛下は『おことば』を失われたのではないだろうか。
 誰が塔を倒すのか
 道内では歴史学者アイヌ民族支援者を中心に、北海道は日本帝国主義の植民地となり、アイヌ民族帝国主義侵略の被害者であるとする言説が古くから流布している。そうした説を支援する者たちの中には、北海道100年記念塔はアイヌ侵略の象徴であり、植民地主義から脱却する証としてこの塔を解体されなければならないという者もいる。一昨年米国で、英雄の銅像の撤去活動などを繰り広げたBLM運動の根底には、歴史をいかに捉えるかという問題があった。これは北海道100年記念塔を巡る状況に通底するものがあろう。文化の違いか、かの地では大衆運動として繰り広げられたが、日本では沈黙のなかで進行するのだ。
 道の公文書にアイヌ民族と記念塔解体を結びつける文言は見られないが、非公式に現れては消える。記念塔問題がテーマになると予想された12月議会を前にした11月24日、道議会自民党控室に『先住民・アイヌを無視した「北海道100年記念塔」を早期解体させよ!』と題したビラが撒かれた。誰が持ち込んだのか、明らかではないが、自民党議員もしくは秘書でなければこのビラを撒くことはまずできない。ビラにはこう書かれていた。
 『正しい歴史認識をもっと考えよう‼
 1968年アイヌの長老山本エカシは「北海道100年記念事業」を批判し、その象徴の100年記念塔に憤っていました。また、当時20歳だったアイヌ民族の詩人○○○さんも「100年記念塔の土台の下に我々アイヌの流した悲しい血がしみわたっていることを忘れないでほしいのです」と道新(北海道新聞)紙上で訴えていました』
 記念塔の解体経費を盛り込んだ令和4年度予算を審議する3月議会では自民党から2人の退席者が出たものの賛成多数で予算は可決された。
 北海道開拓とは絶対的に否定しなければならない悪事だったのか。開拓と先住アイヌ民族は両立してはならないのか──。公然の議論もないまま、100年記念塔に込められた北海道開拓の大義は風前の灯となっている。」
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 北海道開拓100年記念塔とは、超大国ロシアの軍事侵略と西洋キリスト教の宗教侵略から、万を越える戦死者を出す苦しい戦争に勝利して北海道と日本国、天皇日本民族を守り通したという戦争と平和の記念碑である。
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 北海道の近世史・近代史において消してはならない重要な事実は、日本人とアイヌ人の関係史と日本人による北海道開拓史である。
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 アイヌ民族とは、日本の味方かロシアの味方で日本の敵かであって、現代とは違って当時の国際状勢で日本にもロシアにも組みせず中立の立場などあり得なかった。
 その象徴が朝鮮王朝・大韓帝国で、表面は中立を宣言していながら、裏では敵日反日としてロシアに味方し日本軍の情報を流していた。
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 ロシアは、江戸幕府との戦争に備えて敵とも味方とも言えない千島アイヌ人をカムチャツカ半島強制移住させ、その後消滅させた。
 当時、北方領土択捉島の先にある得撫島(ウルップ島)以北の千島列島はロシアの支配下にあった。
 ロシアは、日本の支配が強い南樺太に住む樺太アイヌ沿海州強制移住はしなかった。
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 北海道において、「開拓」はアイヌ民族に対する差別用語リスト候補となっている。
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 近代日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
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 日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
 日本の開国・幕末・明治維新戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
 日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
 軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
 熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義民族主義ではなく、正しい軍国主義国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
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 神国日本を守る為の攘夷対象は、軍事侵略を企むロシアと宗教侵略を繰り返すキリスト教であった。
 徳川幕府の経教分離の原則を受け入れて交易を行っていたオランダは、排除すべき攘夷の対象ではなかった。
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 現代にいても、ロシアと中国共産党は北海道を日本から分離独立させ自国の領土もしくは支配地として影響下に置こうと陰謀をめぐらし謀略を仕掛けている。
 国連や国際機関もアイヌ民族を日本の中の先住民族と認定し、日本政府に対して圧力を掛けている。
 反天皇反日本・反米反安保の琉球民族に対する人権問題も、日本分断が目的である。
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 日本の自然は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境を生きてきた。
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 人類の誕生と大移動は運命である。
 日本人の祖先はアフリカのサルであるは宿命である。
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 600万年前~700万年前 人類(ヒト属)の祖先はチンパンジーボノボの祖先である類人猿から別れて進化していき、幾つかの人類種が枝分かれするが一つの系統を残して全て絶滅した。
 10万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は、アフリカで誕生し、世界中に移住していった。
 数万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は日本列島にたどり着き、上陸した、漂着した、流れ着いた。
 数千年前 揚子江流域民である弥生系渡来人が山東半島から朝鮮半島を経由し、続いて中国旧満州地方に住んでいた古墳系帰化人が朝鮮半島を経由して日本列島に移住してきた。
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 日本土人である縄文人ヤポネシア人=石器人の子孫)は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部太平洋沿岸まで、西は朝鮮半島南部、日本海縄文人の海)を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
 縄文人は、手漕ぎ丸木舟で北米大陸の太平洋沿岸まで移動していた。
 中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と偏見を持って軽蔑し差別していた。
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 日本文明は、揚子江流域(江南地域)にあった漁労農耕の温和で平和志向の長江文明の後継文明であって、黄河流域で軍事優先で栄えたの領土拡大・侵略志向の好戦的黄河文明の亜流文明ではなかった。
 朝鮮文化は、黄河文明の亜流であった。
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 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
 数万年続いた日本列島の石器時代縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
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 日本民族琉球民族アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
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 日本民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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 アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)にシベリア・沿海州樺太北方領土4島・千島列島・カムチャツカ半島などオホーツク海沿岸に住んでいたオホーツク文化人が南下してきて、混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
 アイヌ人は住んでいる島・地域によって幾つかに枝分かれして、それぞれ他の人種・民族と乱婚を繰り返し混血度を濃くして独自の微妙に違う生活スタイルで生きてきた。
 蝦夷地・北方領土アイヌ樺太アイヌ、千島列島アイヌカムチャツカ半島アイヌ、その他。
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 琉球民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)に揚子江流域・東南アジアから渡って来た人々と混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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