🌈82)─1─日本民族神話の洗う文化が台湾・朝鮮を清潔に洗い浄めた。~No.142No.143 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年5月29日 読売新聞「文化 本
 <洗う>文化史 『きれい』とは何か 
 国立歴史民俗博物館花王株式会社編 吉川弘文館
 日本人の命と心を保つ
 評・梅内美華子
 本書は国立歴史民俗博物館花王株式会社とが2017年からおこなってきた『清潔と洗浄をめぐる総合的歴史文化研究』という産学共同研究の成果をまとめたものである。日本人の『あらう』行為と意味に焦点を当て通史的に捉えたものこれまでになかったのではないか。感染症拡大の時期にも重なり、衛生と心性を考える上でも興味深く、画期的な書である。
 『あらう』の語源は『新(アラ)』、新たにすることから来ているという説がある。古代神話では穢れを除き新たな力を得る意味として『洗う』が用いられていた。奈良時代正倉院文書には官人が写経前に沐浴をしていたことが記録され、休暇理由として浄衣(じょうえ)の洗濯を記していたそうだ。近世になると参勤交代で江戸に滞在していた地方武士は煤(すす)や市中の埃(ほこり)による汚れを嘆き、手水(ちょうず)や町の湯屋で意識的に清浄を保っていた。この頃になると勤務中のみだしなみの意識が加わっている。
 近代国家では公衆衛生が政策に加わり、台湾と朝鮮の植民地支配では町や学校の寄宿舎み浴場を設置し、日本の入浴習慣を浸透させた。ここには清潔観念による支配と被支配があり、民族への差別がうまれたという。清浄の意識や方法の違いは蔑視や排除をはらみかねない。
 石けん一般家庭に普及していったのは昭和初期。1940年にはノベルティがついた『花王コドモ手洗い会』が全国に広まるなど企業の啓蒙運動の効果も大きい。戦後には給食前に『手洗い歌』が校内放送され、歯みがきの指導が始る。こうして清潔に意識の高い国民が育ってゆく。
 身体を洗う肌への刺激が脳内物質の分泌を促しストレスをやわらげるという。一方で民俗伝承としての禊(みそ)ぎや祓(はら)えは心身の穢れを清める行為として今も残っている。科学と非科学的なものの間に日本人の『洗う』があり、『洗う』とは命と心を保つためのものだと気づかされる。」
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ミツカン水の文化センター
 機関誌『水の文化』11号
 洗うを洗う
 TOP水の文化センターの活動機関誌『水の文化』機関誌 11号洗うを洗う
 清潔感を洗う
 編集部
 「洗う」で何が見えてくるのか
 京都・清水寺を訪れると、音羽の滝で水を飲む人々の姿を見ることができる。アルミのひしゃくを使い、みんなが代わる代わる水をすくい取って飲む、日本ではおなじみの風景である。しかしよく考えてみると、抗菌グッズが売れ、ミネラルウォーターに金を投じる時代になった現在、一方で他人が口をつけているひしゃくを汚いとも思わないのは、少し不思議な気がしてくるものである。人は、音羽の滝の聖性にそのようなことは気にならない力を感じるのか。それとも、多くの人が飲んでいることに安心感を覚えるのか。大いに気になるところである。
 手を洗う、心が洗われる、身を浄める、布巾を洗浄する、垢を落とす、洗車をする、野菜を洗う‥‥。「洗う」という行為一つをとっても、そこには多様な「水とのつきあい方」が存在する。すべての文化が、気候、風土や地域、民族などの背景を持って形成されてきている以上、「洗う」文化も例外ではありえない。
 今号のテーマは「洗うを洗う」。洗うことをいろいろな観点から掘り下げてみると、その多様性に驚かされ、それは同時に洗うという言葉の持つ多様性ともなってくる。これらを交通整理することで、重なりあって見えにくくなっていたものを浮き上がらせる試みをしてみた。洗うというからには、落とさなくてはならない「汚れ」があるはずだ。その落とす行為が「洗う」ことである。「洗う」が多様性を持っているのは、この「汚れ」に多様性があるゆえである。
 2つの「汚れ」を洗う
 1つは、単純な泥汚れ、油汚れ、垢じみた汚れなどである。汚れが落ちた状態は、目で見て「きれい」になっている。この汚れは不純物が付着したと考えられ、付着物の性質に応じた落とし方が開発されてきた。その手段、方法は、高度経済成長期に飛躍的に変化して、現在に至る。
 もう1つは、「穢れ」(けがれ)である。穢れは精神性の汚れであり、宗教や信仰とも密接な関係を持つ。穢れが意識されると、その穢れを払う宗教的な機能も発達していったことは想像に難くない。穢れを払った後の状態は「清い」と表現される。
 日本では清めの儀式に広く使われる塩は、実際に防腐効果も持っている。葬式の帰りに玄関先で蒔く塩は、「家の中に穢れを持ち込まない」と同時に「腐敗した死体、あるいは伝染病の死体に接したあとの消毒」のためでもあると考えられる。
 この点について検討したのが文化人類学者のメアリー・ダグラスであり、今や古典となっている『汚穢と禁忌』(塚本利幸訳、思潮社、1995)(原題はPurity and Danger :An Analysis of Concepts of Pollution and Taboo )やMary Douglas & Aaron Wildavsky,Risk and Culture ”(University of California Press,1983)の中で、リスク感覚と穢れと秩序の関係に注目している。
 穢れたものは危険なものでもあったが、その穢れや危険と捉える感覚と意思決定は文化により異なることを指摘している。これを彼女は世界各地の原住民の生活等から導き出した。要は、「公衆衛生」観念が誕生する前は、安全の保証と「穢れを浄める」ことが、同じレベルで用いられていたのである。では、高度経済成長期に飛躍的に進化を遂げた、目に見える汚れについても追ってみよう
 『汚穢と禁忌』
 清潔感は新しい
 私たちが常識と思っている清潔感の歴史は、実は意外と新しい。例えばフランスの社会史家ジャン=ピエール・グベールの『水の征服』(パピルス社、1991)を読むと、19世紀フランスの富裕層でも毎日身体を洗うことが例外的習慣であったことがわかる。お湯の入った小さな壺が運ばれてきました。
 「今日はどこを洗おうかしら。」
 「そうですね。」
 アルザス出身の女中が、ためらいながら、お国なまり丸だしで答えた。
 「顔にしますか、首にしますか」
 「首ですって。だめよ。そこは昨日洗ったもの」
 「そうですね。じゃ腕を肘まで洗ってはどうでしょう・それじゃ袖をまくってください」
 ここには「清潔」を、ことさら気にする風情は感じられない。まあ匂いがしないぐらいに洗っておこうという程度なのだろう。水が豊かな日本とフランスでは比較できないだろうと思われる方も、日本の入浴史を見れば納得できるはずだ。入浴は日本でも日常的な行為ではなかったことに変わりはなかった。日本の風呂は、空間的にはハレの場として位置づけられており、現在に近い「きれいになるための入浴習慣」が現れたのは、近代風呂が家庭に普及する大正時代になってからのことである。
 その風呂もけっして清潔というわけではなかったらしい。民族学者の吉田集而は『風呂とエクスタシー』(平凡社、1995)の中で、風呂の本来の用途をシャーマニズムにおける「恍惚感」を得るためと推測し、かつては「風呂に入る」ことと「きれいになる」という価値とは切り離されていたと述べている。
 この大正時代頃からの風呂の在り方の変化は、家の間取りにも現れている。例えば、1910年(明治43年)に箕面有馬電気鉄道(現阪急電鉄)が大阪郊外の池田町で開発した住宅の平面図を見ると、風呂はどこも北の片隅の台所に隣接して置かれ、外から入るようになっている。外風呂が家に隣接しているという感覚だ。これが住宅営団(後の住宅都市整備公団)規格の集合住宅の間取り(1942年、昭和17年)になると、ほぼ現在の風呂のイメージと変わらなくなり、部屋の一つとしての内風呂になっている。おのずと、風呂の役割としての「ハレ性」は薄れ、部屋に求められる「清潔性」が風呂にも現れるようになってきた。どうも、風呂における清潔感覚の常識は、大正時代頃に端を発しているようだ。
 それでは、洗濯はどうなのだろうか。
 『水の征服』 『風呂とエクスタシー』
 左:『水の征服』右:『風呂とエクスタシー』
 ライフスタイルの変化は清潔感を変える
 ライフスタイルが激変すると、人々の清潔感も変わってくる。かくして洗濯の技術も、変遷を余儀なくされるのである。
 かつては、ほどほどに汚れが落ちれば良かった。服の素材は綿が主であったし、油性の汚れも家庭ではそれほど多くなかったことだろう。ところが、洗濯機と洗剤が普及し、汚れが目に見えて落ちるようになった。なおかつ、その白さはきらきらと光る「真っ白」、漂白された白さであったし、青味付けして強調された白さであった。清潔な「匂い」もついていた。いつのまにか消費者は「白く」ならないときれいになったと思わなくなり、「きれい」を判断する術が失われていった。
 「何を見て清潔と感じるか」という点について、スーエレン・ホイは『清潔文化の誕生』(紀伊国屋書店、1999)の中で興味深い指摘をしている。19世紀後半から、アメリカ人の生活の中で清潔感が衛生感と同じ意味で使われ、白もの信仰が蔓延するようになったというのだ。この書は、白もの信仰が、アメリカン・ライフスタイルと密接なつながりがあることを教えてくれる。
 『清潔文化の誕生』
 「清潔感」とは
 ここまで何気なしに「清潔感」という言葉を使ってきたが、広辞苑の「清潔」の項には、「茶の湯は清潔にしてさはやかなるを本とし」という、1665年に浅井了意により書かれた『浮世物語』の用例が引用されている。清潔の「清」は「きれい」という意味で、英語の pure と beautiful の両方の意味をもっている。また、「潔」は、「潔斎」という言葉からもわかるように、心身の穢れを断ち、清浄を保つことを意味している。「茶の湯は清潔・・」というのは、この三つの意味がミックスされて用いられているのだ。ここで、冒頭で述べたきれいと清いが登場する。日本語の清潔の言葉の中には、両方の意味が込められているのだから、洗う概念が整理して受け止めにくいのもうなずける。
 もう一つ「清潔」と同じ意味で用いられている言葉に、「衛生」という用語がある。おおざっぱに言うと、病原菌や有機物、有害物質などを限度以上に含まないことである。この「衛生観念」が広く日本に持ち込まれたのは、実は明治時代になってからのこと。衛生という言葉も、英語のhygiene を、長与専斎が漢字に直したものだ。
 長与専斎といえば、幕末、緒方洪庵適塾に学び、明治維新にあたっては岩倉遣欧使節に加わり帰国後は内務省衛生局長を歴任して、コレラ予防など日本における医療、衛生行政の設計者となった人物である。水道の整備も、元はと言えばコレラ予防が発端となっている。水道水には衛生的な意味で清潔であることが求められる。大腸菌はゼロ、一般細菌も規準以上含んではいけない衛生的な水道水は、結果として「安全さ」を保証した水となる。この「衛生的な清潔」は約150年前の明治時代になってから入ってきた観念だ。
 衛生観念の誕生
 そもそも、明治維新まで庶民と汚れの距離は非常に近かった。『洗う風俗史』(未来社1984)の著者、落合茂は、江戸時代末期の洋学者佐久間象山による妻の心得を説いた言葉を紹介している。「夫の衣類をば心に入れて度々見及び垢つきたるをば濯ぎ清め、損ねたるをば取り繕い、いささか粗末なきようあるべし」(『女訓』)「夫の衣類が汚かったら、きちんと洗いなさい」と説いているのだが、わざわざ諭すぐらいなのだから、逆に暮らしの現場では汚れがごく身近であったことがよくわかる。
 『洗う風俗史』
 日本の洗剤の歴史について記した文献は数少ないが、その中でも秀逸なものに花王(株)が創業83周年記念に制作した『日本清浄文化史』(1971、非売品)がある。それによると庶民は灰汁などを石鹸の代わりに用いてきたが、文明開化の1873年明治6年)には民間最初の石鹸工場・堤石鹸製造所が創業を開始。以後、続々と石鹸メーカーが現れ、日本中に石鹸が普及していく。「美洗粉」と呼ばれる現在でいうシャンプーも登場する。
 大正〜昭和時代になると家庭生活も近代化し、1930年(昭和5年)に東京芝浦電機(現東芝)が国産電機洗濯機第1号(回転式)を発売する。これは1940年(昭和15年)までの間に5千台を製造したというが、庶民向けのものではなかった。
 その後第二次世界大戦、敗戦、戦後復興をはさむこととなるが、何と言っても洗濯に革命的な変化をもたらしたのは昭和30年台の水道普及・家電革命・高度成長だった。高度成長によるライフスタイルの激変は、洗濯における清潔感をも大きく変えることとなったのである。
 上:日本の洗剤消費と人口、世帯数の推移 洗剤の国内消費高推移は日本石鹸洗剤工業会 『石鹸・洗剤・油脂製品・原料油脂年報2000 年版』より 下:家電及び乗用車の普及率
 家電革命と家事省力化
 まずは、水道の普及。上水道が日本の各家に普及したのは昭和30年代(1955年〜1965年)だ。1960年には約40パーセントだった普及率が、10年後の70年には80パーセント近くまで伸びた。
 家に水道が引かれるまで、水がどこから来てどこへ流れていくのかということは、生活者と身近な関係にあった。しかし、上下水道の普及により蛇口と排水口以外に水は見えなくなってしまった。かつては、用途に合った水を、井戸、川、わき水、天水など異なる水源から求めていたが、現在は常に衛生的にきれいな水を、用途おかまいなしに水道が供給してくれる。
 この水道普及に合わせるように、洗濯機も爆発的に普及した。世帯当たり普及率も1960年からのわずか10年間に倍増し、70年には10軒に9軒が保有するまでになった。
 同様に、洗剤の消費量も爆発的に増えた。戦後の洗剤史は合成洗剤の時代とも言えるもので、その国内消費高も洗濯機と同様、急カーブで増加した。
 まさに家電革命と言われた時期。それは特に主婦に何をもたらしたのだろうか。NHK放送文化研究所の『日本人の生活時間2000』(NHK出版、2002)は、主婦の家事時間(洗濯、炊事、掃除)の推移をまとめている。1960年、主婦は4時間26分を家事に費やしていたが、40年後の2000年には3時間49分と37分下がっている。
 家電製品が女性の家事省力化をもたらしたことは確かだが、家事時間がその分減ったというよりも、むしろ、洗濯をしながら「掃除」「炊事」などをする、「・・ながら行動」が可能になった。このため、並列的に家事をこなすことができるようになり、家事の省力化が大いに進み、洗濯は手軽になった。手軽化したというとは、清潔な水を得ることも手軽になったし、汚れの程度を判断する必要もなくなったということだ。
 『日本人の生活時間2000』
 清潔感のバランスを取り戻すことはできるのか
 風呂も、洗濯も、洗いものも、トイレも、すべて衛生的な水道で得られる膨大な生活用水がまかなってくれる。そして、いつのまにか衛生的にきれいな水でないと、すべての用途に対しても満足できない人々が増大してしまった。このことは、衛生感が客観的な装いを持っているだけに、歯止めをかけるのが難しい。
 しかし、こうした衛生感の膨張は、水道普及、家電革命など、かなり人為的な条件が重なり作られたものであることもわかってきた。ならば、時代に応じてわれわれ自身のライフスタイルやものの見方を少し変えてみることで、「洗うこと」における人と水とのつきあい方も変えることができるのかもしれない。
 まず、自分たちが洗う場面における「清潔」感覚や、そこに使う水を点検してみる。洋式トイレの便座は毎回消毒しなくはいけないのだろうか。車は毎週洗わなくてはいけないのだろうか。売られている野菜には泥がついていてはいけないのだろうか。なぜ日に干した洗濯物の太陽の香りは心地よいのだろう。なぜ、なぜ・・求められる清潔感が一様でないことにちょっと気づくだけで、水とのつきあい方は違ってくるだろう。
 第二は、水が地域の共有資源として認知されていると、自ずと「汚いものは出さないように」とか「無駄な水は使わないように」などと、水に気を遣うようになる。汚い水を排出しないようにルールも生まれるし、自分の水の使い方が地元に適しているのかチェックさせられる。滋賀県長浜市でつい10年ほど前までは井戸番が生きていたし、温泉をコミュニティとして守り管理している例は、地域として求められる清潔感を残していくことにつながるだろう。
 第三は、衛生感覚が膨らみすぎた個々人の清潔感を、バランスのとれたものにする試みである。衛生観念の誕生は、明治からたかだか150年。それ以前は、経験値から得られたいわば生活の知恵の範囲内で、きれいな状態のバランスを保っていた。数値や流動する価値観に惑わされず、自分の物差しと余裕が欲しい気がする。
 住宅の外壁を洗う商売があるが、付いた汚れは洗い流せても、外壁そのものが紫外線や風雨に曝されて変質してしまえば、その汚れは落とすことができない。これを「劣化」と呼ぶ。ところが面白いことに、劣化と同様に素材本体を変質させながらも美しく変身する例が「経年変化」である。
 何百年もの歳月を風雪に耐えた神社仏閣の欅(けやき)の柱、はき込んで体に馴染んだジーンズ、髪の脂が染み込んで飴色に変わった柘植(つげ)の櫛。これらを劣化した、きたない、と感じる人間がいるとは考え難い。落とすべきものは汚れであるのだから、経年変化したものに落とすべきものは見当たらないし、劣化してしまった素材のきたなさは落とす手段が見出せない。したがって、これらは洗えない汚れなのである。洗う必要がないものまで洗うことを見直し、洗わなくてもすむものを使っていくことも、これからの時代は選択肢に入れるべきであろう。
 清潔嗜好が助長されつつある現在、洗うことに欠かせない水が、いかに重要な存在であるかが改めて認識される。用途に合った水利用に気づくこと、水を共有財産として意識すること、きれいに対する自分の物差しを持つことの3つが、とりあえず今の段階で私たちができることなのではないだろうか。
 清潔感が社会の水の消費を左右するならば、少しばかり「洗う文化」、「洗う感覚」を見直して、バランスの取れたものにしていきたいものである。
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 日本列島の気候は高温多湿で、季節的な乾燥した大風が吹く埃・ゴミ・砂塵が舞い上がる事があり、そして菌や苔、微生物やウイルスが数多く生殖し、有益なよいモノもいればそれ以上に有害な悪いモノもあった。
 日本民族が真面目に大量の汗を掻きながら重労働をする為に、毎日1回から数回、入浴して身体を洗い清潔にしないと皮膚病や感染症で健康を害し、最悪、病死する危険性が高かった。
 それが、黄泉(死者)の世界から逃げ出してきた伊弉諾尊イザナギノミコト)が穢れた身体を清らかな川で洗い浄めたという記紀神話天皇家・皇室の神話)である。
 沐浴した伊弉諾尊の身体から生まれ出たのが天照大神(女性神天皇家の祖先神)、月読尊(つきよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。
 つまり、同じ沐浴でも、日本神道ユダヤ教では意味が全然違う。
 日本に入浴文化が生まれたのは江戸時代で、それ以前の時代で庶民は入浴を習慣としていなかった。
 日本民族の洗う文化と言っても、家庭内・銭湯による入浴文化と温泉地における湯治文化は違い、湯に浸る文化には幾つもの種類がある。
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⛩20)─5・C─出汁文化。和食の決め手の出汁は日本の軟水しか出せない。〜No.43 

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 2022年5月26日 MicrosoftNews まいどなニュース「外国人「アメリカじゃダシなんか出ねぇよ!」 日本の「出汁文化」と「軟水」のすごさが話題に
 日本の出汁文化と水の硬度の関わりがSNS上で大きな注目を集めている。
 水の硬度と出汁文化の関わりが話題になっています(イメージ画像)
 きっかけになったのは
 「今さっき、日本に来ている外人に聞いたんだが、
 『日本の水、軟水なのすげぇな!ダシがめっちゃでるよ。アメリカじゃダシなんか出ねぇよ!』と言われて、日本の出汁文化が珍しいのこれ、軟水のせいじゃねぇのと思うなど。」
 という島国大和さん(@shimaguniyamato)の投稿。
 確かに出汁を煮出すのに使う水は硬度0~30くらいの軟水が適していると言われる。日本の水は沖縄を除きほとんどが軟水であるのに比べ、アメリカやヨーロッパの水は硬水であることが多いので、水の硬度と食文化の成立には大いに因果関係がありそうだ。
 島国大和さんの投稿に対し、SNSユーザー達からは
 「硬水だと出汁でないんだ…初めて知ったであります」
 「同じ日本でも地域・水系によって水の硬度が違うので、お茶や料理は地域によって微妙な味の差が出るそうです(なお、米国でもたとえばニューヨークの水道水は軟水だと)」
 「特に昆布出汁は硬水に含まれるカルシウムと昆布のミネラルが結合し、アクと磯臭さがでて旨味がうまく出ません。関東は硬水寄りのため昆布出汁が美味しく出ないので、鰹出汁文化が定着したとの事でした」
 「沖縄は浄水場で硬度低減化が図られているようですね。井戸水を使っていた頃の料理文献を見ても、特に硬水で困っていた様子は見られないので、従前よる海外の硬水と比べたら硬度が低かったのでしょうね」
 「同じ感じでお茶も硬水で入れるとクソ不味くなるよな この前コントレックスで1L分の茶作ってみたけど不味すぎてすぐ捨てたわ」
 など数々の声が寄せられている。
 今回の反響について「特につぶやいたままですが、予想以上に多くの反響があったので以外でした」と島国大和さん。
 島国大和さんはこの他にも以下のように考察しているが、読者のみなさんはどのようにお考えだろうか。
 「逆に言うと、肉煮込む料理は硬水向きだよね。(トンポーローとか)塊肉を硬水で煮込むと柔らかくホロホロになりやすい。
 (中略)
 硬水はアクが出やすいから、日本食が軟水ベースで繊細な味を追うのはなんとなく理解できる」
 「日本茶がミルクも砂糖も入れないのが基本なのも軟水だと渋くならぬってのが大きそう」
 スーパーマーケットやコンビニエンスストアではさまざまな硬度の水が売られているので、料理をする際に使い分けてみると面白いかもしれない。
   ◇   ◇
島国大和さん関連情報】
Twitterアカウント
https://twitter.com/shimaguniyamato
(まいどなニュース特約・中将 タカノリ)
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 特定非営利活動法人 うま味インフォメーションセンター
 日本が誇るだし文化
 だし:おいしさは、
 だしのうま味で決まる
 バリエーション豊富で視覚的にも美しい和食ですが、目に見えないところにも、その魅力を支える要素があります。それは、「だし」と呼ばれる一見シンプルな要素です。だしは和食の基本ともいえるスープで、見えない形で多くの日本料理に使われています。
 和食の画像
 だしが他のスープと異なるのは、西洋のブイヨンのようにシンプルな材料を長時間煮込むのではなく、時間をかけて熟成させた材料を厳選して使い、水に浸すだけ、または、短時間火にかけるだけで、素材が持つ風味のエッセンスそのものを抽出するという点です。
 昆布だしの画像
 だしには昆布とかつお節を組み合わせて使うのが、もっとも一般的です。だし作りに使われる材料には、他に椎茸や煮干しがあります。だし作りは長い年月を経て進化してきました。煮るという調理法は、日本では縄文時代(紀元前13000年~300年頃)から利用されていたことが分かっています。貝や魚の骨から取ったスープを、他の料理の味付けに使っていたようです。
 かつお節だしの画像
 7世紀頃には、昆布とかつお節を使っただしが登場しました。これがさらに改良され、日本になくてはならない調理用スープとなっていったのです。一般的に、一番だしと二番だしという二つの形で使われています。 だしは陰で支える役割でありながら、和食の中心的存在といえます。だし自体の味が特別なのではなく、他の材料の味を引き立て、調和させる力に優れているからです。和食の秘密は、味を引き立てつつ調和させるこの技術にあります。
 うま味 だしの味の鍵
 だしの不思議な力の鍵を握るキーワードが、うま味です。 1908年、東京帝国大学の池田菊苗教授が、昆布だしに、基本味の甘味、塩味、苦味、酸味のどれを組み合わせても説明できない味があることを発見しました。池田教授は、この味のもととなる成分がグルタミン酸であることを突き止めます。そして、この味を「うま味」と名付けました。
 池田菊苗の画像
 その後、1913年にはイノシン酸、1957年にはグアニル酸もうま味成分であることが発見されました。1980年代以降、さらなる研究が進み、うま味は第五の味覚として世界中で幅広く認められるようになりました。だしの材料はどれも、うま味のもととなる物質を多く含んでいます。昆布は、世界中の食材の中でもトップクラスのグルタミン酸含有量を誇ります。
 かつお節と煮干しにはイノシン酸が、干し椎茸にはグアニル酸が多く含まれています。うま味の効果は複合的です。それ自体が5番目の味でありながら、相乗効果もあるのです。二つのうま味成分を組み合わせると、うま味が増し、食材の単なる足し算以上の効果を生み出します。うま味には、他の味を引き立てる役割もあり、その染み込んだ食材に豊かで新鮮な味わいをもたらします。
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 この国の味、ここから。
 にんべん
は日本独自の食文化ではなく海外にもあった! 海外のだしについて
 「だし」は日本独自の食文化ではなく海外にもあった! 海外のだしについて
 最終更新日:2021年11月22日
 公開日:2019年4月2日
 「だし」は日本独自の食文化ではなく海外にもあった! 海外のだしについて
 だしは海外でも「料理のキモ」
 だしは日本が世界に誇る文化のひとつです。しかし、だしが日本のものだけではないことはご存知でしょうか。例えば、ヨーロッパであれば、ストックと呼ばれるスープを料理に使います。ストックは骨付き肉や野菜、ハーブなどの香辛料を、時間をかけて煮だしたものです。また、フランス料理でも料理の決め手となるのはソース。ソースはフォンと呼ばれるだしをベースに作ります。だしのうま味は世界で共通して愛されているのです。
 目次
 海外にもあった「だし」
 「おいしいのに簡単」な日本のだしを堪能しよう
 海外にもあった「だし」
 だしは決して日本固有の調理ではありません。しかし、日本料理の真髄はだしにあるといっても過言ではないでしょう。日本文化への注目度が高まるなかでも、だしは特に世界的な評価をされています。
 海外へ進出する日本食店のなかには「だし」をウリにしたところも
フレンチではソースが重視されるのと同様、日本料理ではだしが全てと言われることもあります。日本のだしの風味は日本人にしかわからないかというと、そうとは限りません。実はアメリカの中心、ニューヨークでもだしが注目されはじめているのです。まるでコーヒーをドリップするように丁寧に抽出しただしは、カジュアルなドリンクのようにニューヨーカーたちに愛飲されています。海外に進出する日本食店では、だしをイチオシにしているお店も登場しました。
 まただしの存在はアメリカの家庭料理にまで波及しはじめています。あるアメリカの料理教室では昆布とかつおぶしを使っただしの取り方を教えています。参加者の中にはだしを飲むこと自体が初めての人もいるでしょう。しかし、だしは手軽に作れるスープとして徐々に受け入れられるようになりました。だしを使った料理にはさまざまなバリエーションがあります。うどんやみそ汁など日本料理の普及にもだしが貢献しています
 日本食は海外ではレストランでしか食べられない特別な食事です。しかし、近年では世界中の食品がスーパーで販売されています。外食から家庭料理まで、日本のだしが世界中で受け入れられる日はそう遠くないかもしれません。
・日本の「だし」が人気の理由は「旨味の質」の違い
 だしであれば日本に限らず、ヨーロッパや他のアジア圏でも食べられています。しかし、どうして日本のだしが注目されているのでしょうか。その理由はうまみの質にあると言われています。和食の基本となるのは、かつおぶしと昆布の一番だしです。これは西洋のスープと同様、グルタミン酸イノシン酸が含まれるだしです。西洋のだしはじっくりと煮だすため、強くて厚みがある旨味が特徴です。一方で、日本のだしはスッキリとした旨味が特徴となっています。この2つを上手に組み合わせることによって、それぞれの足りない部分を補うこともできるのです。
 「おいしいのに簡単」な日本のだしを堪能しよう
 日本のだしが注目されるのは、家庭でも再現が簡単なことも理由でしょう。西洋料理のだしは野菜や肉を炒めて、長時間野菜を煮込む工程があります。テクニックが必要なうえ、家庭では鍋に付きっきりで火加減を調節してアクをとり続けることは難しいでしょう。
 一方、日本のだしは手軽に作ることができます。簡単に作るのであれば、昆布のだしは水につけるだけ、鍋を火にかけて引き上げるだけでもおいしいだしが取れます。かつおぶしだしも、電子レンジでとることができます。にんべんの商品には「だしポット」をはじめとした手軽にだしを取れるアイテムも多く取り揃えています。ぜひ、日本の伝統が生み出した繊細なうまみを家庭でも体感してみましょう。
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 業務用だし開発.com
 日本が誇るダシと、美味しいダシの歴史!
 目次
1. 世界に誇る日本のダシ!
2. 日本のダシが生まれるまで
3. なぜダシは日本の食文化に不可欠になったのか?
4. 乾物が生み出す極上の出汁
5. 世界に羽ばたく和食とダシ
 世界に誇る日本のダシ!
 今『日本のだし』が世界中から注目されています。
 2013年12月に「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録され、その和食の基本である『だし』は世界に知られるようになりました。丁寧に取られただしが素材の味を引き立て、「うま味」を引き出すのが和食の特徴。出汁なくしては、和食を語ることはできません!
 ではこの世界に誇る『日本のおだし』はいつごろ生まれたのでしょうか?
 ここでは日本の美しいお出汁について、お話ししたいと思います!
 日本のダシが生まれるまで
 日本のだしの歴史については各時代で文献に残されています。
 年代ごとにさかのぼって出汁の歴史を見てみましょう!
 だしの代表的な素材である『昆布』と『かつお』の歴史はとても古く、なんと700年ごろ(奈良-飛鳥時代)にはその名前が文献に登場しています。1,000年以上前ですね!
 文献を見ると当時からどちらもかなり重宝されていたことがわかります。ただこちらの文献の中にはまだ「だし」という言葉はなく、「だし」という意味の言葉が文献に登場するのは、まだまだ先なんです。
 出汁の記載が見られる料理書が登場するのは江戸時代初期のあたりで、料理書には出汁について書かれています。
 この料理書には調理方法をはじめ魚や鶏の取扱い方法、飲食の作法などについても紹介されているのですが、その中で調理する際にかつお節を使った「だし」についてや出汁をとる時にだし袋を使っていたと書いてあるんです。
 江戸中期には昆布と鰹節との「合わせ出汁」が文献に登場します。
 この頃には昆布のうま味とかつお節のうま味、2つを合わせることでさらに出汁のうまみが増すということが人々に知られていたんですね。
 この頃江戸では蕎麦が広まり、関西ではうどんが広まったことから、さらにダシの利用が定着していったようです。
 ですがま昆布や鰹はまだまだ高級品だったので、庶民には手が届かない存在。今でも昆布やかつお節に高級なものはありますが、この頃は今よりもずっとずっと高級品として扱われていたんですね。
 実際に一般庶民に出汁が普及していったのは明治ごろで、明治時代の料理書の中には一番だしと二番だしの取り方が紹介されています。
 なぜダシは日本の食文化に不可欠になったのか?
 出汁が日本の食文化に欠かせない存在というのは皆さんが感じるところだと思いますが、なぜそんなに大切な、必要不可欠なものになったのでしょうか?
 その理由のひとつに日本特有の食に対する考え方があったと思われます。
 日本では江戸時代初期ごろまで、家畜を食べる習慣がほとんどありませんでした。これは日本に仏教の肉食禁止の考え方が広まっていた事や、肉食禁止令が度々発令されていたことが原因にあると考えられます。なので、明治天皇が肉食を解禁するまでは肉食禁止は国策だったというわけです。
 ただ禁止令が出ている中でも庶民を中心になんだかんだで食肉を食べていたんですが、やはりそれでも他の国々に比べて極端に肉を食べない民族であったことは間違いありません。
 その結果、日本人の主要食材は米を中心とした穀物と魚介類、野菜となったというわけです。
 ですが、これらの穀物・野菜といった菜食!という感じの食材は肉のうま味に比べるとどうしても劣ってしまいます。そこでこのうま味を補うために発展したのが「だし」だったんです。
 日本人の食に対する熱意はハンパないですね!
 宿坊などで食べられる精進料理は神社仏閣の厳しい教えにならって作られたお料理ですが、近年宿坊に泊まってこの御膳をいただくというツアーなどもありますよね。この非常にシンプルな精進料理が美味しく感じられるのも、日本人の食材に対するリスペクトがあるからかもしれません。
 乾物が生み出す極上の出汁
 世界を見てみると素材自体が強い旨味を持つ料理が多く、肉料理には肉からとったダシを、魚料理には魚からとったダシを使って調理するというように、同じ素材からとったダシを使うことがほとんどです。
 そういったお料理に使われるダシは動物系の肉や骨を何時間もかけて煮出して旨味を積み上げて作っています。
 一方で日本ではかつお節や昆布など乾燥加工された素材を使って短時間でダシを取っています。短時間でダシをとる…というと手抜き?なんて気がする方もいるかもしれませんが、それは違います!
 このダシをとるかつお節などの原料の生産には非常に時間と手間がかかるんです。
かつお節で半年、昆布で2年以上かけるものもあります。その乾物として完成されたうま味の塊から出汁を取り出し、食材と組み合わせることで美味しい料理ができあがるということなんです。
 スープが主食となる海外に対して、お吸い物なども含め徹底して脇役に徹して素材の味を引き出すのが日本の“おだし”で、これはまさに世界に誇れる日本独自の食文化が生み出した宝だと思います!
 世界に羽ばたく和食とダシ
 寿司やラーメンとはまた違って世界中で注目されている和食とダシ。
 かつお節に興味を持って仕入れるフランスのシェフや視察に来る海外からの食品関係者も増えています。
 手間ヒマをかけてつくられた節や煮干し、昆布などからつくられるダシは日本の料理全般に使われています。実はラーメンにも確実に使われているんです。
 長い歴史の中で品質と味を保ち続けてきたダシなので、お店の味をアップするため、おいしさを際立たせるためにぜひ使ってください!
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🌏41)─5・B─対露防衛戦目的の北海道開拓を犯罪行為として否定し消し去る日本人とアイヌ人達。〜No.134 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 弱小国日本は、超大国ロシアとの絶望戦争で生き残る為に、境界線・中間地点で生活していたアイヌ人を犠牲にした。
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 過去を正しく評価しない者や昔を素直に理解しない者には、未来はないし将来はない。
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 2022年6月5日・12日号 サンデー毎日牧太郎の青い空白い雲
 日本ハムの『北海道は、開拓者の大地だ。』は間違っているのか?
 前回、『知床観光船の悲劇』に関連して、」
 〈『アイヌ文化』と『開拓を夢見た本土文化』が混ざり合った北海道の歴史は150年余。いま道民は『札幌一極集中の始まり』に右往左往している〉
 と書いたら、物書き仲間の友人から『北海道ものを書く時は気をつけないとヤバいぞ』と言われた。
 彼の念頭にあったのは多分、北海道日本ハムファイターズの巨大広告の話だろう。
 2015年11月、北海道・新千歳空港に張り出された日本ハムファイターズの巨大広告『北海道は、開拓者の大地だ。』にアイヌ協会などが『遺憾だ!』と抗議した騒ぎだろう。あの時、球団は『配慮に欠けたことはお詫びすべきとの理由から可及的速やかに取り下げる判断に至りました』と巨大広告を撤去した。
 確かに、長い歴史の中でアイヌ人が差別されたことは事実だ。
 国会審議でも『我が国が近代化する過程において、多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を、私たちは厳粛に受け止めなければならない』などと決議している。
 だからといって『北海道は、開拓者の大地だ』が歴史誤認で、アイヌの人々を傷つける表現とは思わない。
 前回、たび重なる水害に苦しんだ『福井県大野郡』の人々が日本海を渡り、北海道の大地に足を踏み入れて未開の地を開拓し、その中心地に『幸福』という名の駅ができた!と書いたが、明治以降、我々の祖先は汗と涙で原野を開拓して豊かな北海道を築いた。
 僕の父方の祖父・小林幸三郎、祖母・小林古めの夫婦は、故郷の石川県鳳至(ふげし)郡島崎村(現・穴水町)を捨て、北海道に渡っている。我々祖先にとって、北海道は間違いなく『開拓者の大地』なのだ。
 ごく普通に考えて、我々の祖先は少数だったが、アイヌの人々と、時に敵対し、時に協力して生き続けた。事実、江戸時代の松前藩の資料には、アイヌとの『付き合い』が克明に記録されている。
 もう一度、我々は『土地の歴史』を学ぶ必要があるのではないか。
 というのも、ロシアの中道左派の野党『公正ロシア』のミロノフ党首が『日本はロシアに対して、繰り返しクリル諸島北方領土と千島列島)に関する主張を繰り返してきたが、一部の専門家によると、北海道の全権はロシアにあるという』『現時点でもモスクワではこの話題は提起されていないが、東京の対決路線がどこに向かい、ロシアがどう対応しなければならないかは不透明だ』などと〝脅し文句〟を用意しているからだ。
 ロシアが、『北海道はアイヌ人と我々のもの』なんて言い出すと面倒ではないか?」
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 5月24日 MicrosoftNews 朝日新聞デジタル「「北方四島をロシア名に」 元ロシア副首相、軍艦名などへの変更提案
 © 朝日新聞社 ロシアの宇宙機ロスコスモスのロゴジン総裁=ロイター
 ロシアの宇宙機ロスコスモス総裁で元ロシア副首相のロゴジン氏が23日、北方四島の名称を、日露戦争で戦ったロシア軍艦の名称などのロシア名に変更することを提案した。国内のラジオ番組で発言した。
 北方四島はロシアでも日本での名称と同様に呼ばれている。ロゴジン氏はラジオで「これらの島々はロシアに帰属しているにもかかわらず、なぜロシアの名前がついていないのか」と異議を唱え、日露戦争で戦ったロシアの巡洋艦ワリャーグ」や砲艦「コレーツ」といった名称に変えることを提案した。
 北方四島の地位について、ロシアは第2次大戦の結果旧ソ連の領土になったとする立場だ。ロシアのネットメディア「サハリン・インフォ」はロゴジン氏の発言について「改名の実現性は現時点で定かではない」とした上で、「影響力のある人物の力を借りて反応を見極めるのはロシア政府のよくやる手段である一方、ロゴジン氏個人の意見である可能性もある」と指摘した。
 ロゴジン氏は副首相時代の2015年、日本政府が当時のメドベージェフ首相による択捉島訪問に反発したことを受け、ツイッターに「彼らが本物の男であるならば、伝統に従いハラキリをして落ち着くべきだ」と投稿して物議を醸した。(根本晃)」
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 文化・エンタメ 「北海道150年」事業への疑問
 北海道開拓150年、和人がアイヌに加えた非道
 杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)
 2018年08月01日
 アイヌ|北海道150年
 「北海道150年事業」のロゴマーク =北海道提供
 「北海道150年」の本質は「北海道開拓150年」である
 今年は、アイヌモシリ(アイヌの静かな大地)に「開拓使」が置かれ、アイヌモシリが「北海道」と名づけられてから、150年目である。そのため北海道ではこれを意識した「北海道150年事業」が行われ、8月5日には、大規模な記念式典が札幌で開かれる予定である。
 道外に住む人は、安倍政権が推進する「明治150年」(正確には「明治150周年」)に意識が向いていると思うが、ぜひ北海道に関心をよせていただきたい。「北海道150年」を考えることは、「明治150年」の最重要側面の一つである内国植民地化を考えることである。
 北海道150年事業の「テーマ」の第一は「北海道151年目の新たな一歩を踏み出す」であり、「基本姿勢」の第一は「未来志向」である。いずれも結構。だが未来志向は、体よく過去を忘れるための魔法の言葉であってはならない。未来に向けて新たな一歩を踏み出すために重要なのは、過去を見つめることである。見つめるべき過去もいろいろあろうが、「北海道」にとってその筆頭におかれるべきは、先住民アイヌに関わる過去である。『北海道150年事業 事業計画』を見るかぎり、この点での配慮の足りなさが気になる。
 事業にはアイヌに関わる企画も含まれる。だが私は、この事業は全体として無神経すぎないかと感じる。いかに北海道の「命名」(今回はこれが強調されている)および実質的な命名者である幕末の探検家・松浦武四郎を前面に出そうと、「北海道150年」の本質は――100年前の「北海道開拓50年」、50年前の「北海道開拓100年」と同様に――、結局は「北海道開拓150年」だからである。
 アイヌモシリには人が暮らしていた。なのに、そこを「無主の地」と見なし、一方的に北海道と名づけ、アイヌになんの相談もないまま「開拓」に乗り出した150年前の歴史の意味を、深刻に考えてみるべきであった。そうしさえすれば、今回のようなお祭り気分に満ちた計画は立てられなかったであろう。
 なるほどこの四半世紀の、「先住民」をめぐる世界および国内での動きをふまえれば、道庁の姿勢は決して「開拓」に偏したものとは思わない。だが、どういう形で2018年を祝おうと、その底流に北海道開拓という事実があり(「開拓」とは、土地に生きる人々への配慮と無縁なのがふつうである)、だから「北海道150年」は、北海道開拓を歴史的に評価した上での事業でしかないことは、明らかであろう。
 以下、おのずとアイヌに論及する。各種報告書類は、これまで「アイヌ」に付された差別的な意味をふまえて「アイヌの人びと」と記すが、ここではその本来の語義、すなわち「人間」、しかも「誇りある人間」(新谷行『アイヌ民族抵抗史――アイヌ共和国への胎動』三一新書、1972年、56頁)を踏まえて、なんの付加語もつけずにそのまま「アイヌ」と記す。
 「民族共生象徴空間」整備でよいのか?
 長年、日本政府はアイヌを先住民であると決して認めてこなかった。
 1991年、国連による国際先住民年(1993年)への準備の過程で、政府関係者がそれを消極的に認めた事実はあるというが(公益社団法人北海道アイヌ協会アイヌ民族の概説――北海道アイヌ協会活動を含め』改訂版、2017年、5頁; 以下『概説』と略記)、やはり2007年の「先住民族の権利に関する国連宣言」(以下「先住民族の権利宣言」)が決定的なきっかけとなり、翌2008年、衆参両院において「アイヌ民族先住民族とすることを求める決議」がなされ、これを下に日本政府もそれまでの姿勢を改めるようになった。
 そうした姿勢の下に行われてきたアイヌに関する各種事業(後述)は、ひとまずそれ自体として評価してよいだろう。アイヌに対する「和人」(ヤマト民族)の見方に与えた影響も、小さくなかった。
 だが今、「北海道(命名)150年」を祝い、東京オリンピックパラリンピックにあわせ急ごしらえで、政府主導で行われている「民族共生象徴空間」の開設――有力なアイヌコタン(集落)があった、苫小牧に近い白老(しらおい)の広大な敷地にいまこれを建設中であるが、
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 北海道開拓の先覚者達(81)~アイヌ民族―6
 2016/11/01(火)

 梅毒などの性病は17世紀後半から蝦夷地で発生している。この時期はシャクシャインの戦い(1669年)と重なっており、戦いに敗れたアイヌに対する和人のさらなる弾圧が始まった時期でもある。18世紀中盤ごろから、河口でアイヌを使役した魚肥(しめかす)生産が始まる。1773年に飛騨屋久兵衛がアッケシ・キリタップ・クナシリの場所を請け負うと、アイヌへの酷使は悲惨を極めた。男性は安い賃金で強制的に酷使され、過労で病気に対する抵抗力が極度に衰えていった。一方で女性は番人たちに辱めを受け、性病を移された。これにより、各種伝染病はさらに広がっていくことになる。
 明治に入り、開拓使が北海道を統括するようになってからも、アイヌと伝染病との関係は心を痛める哀しい歴史が続く。
 1875(明治8)年に締結された「樺太・千島交換条約」は、樺太アイヌに塗炭の苦しみを与えた。この条約は日本が樺太から全面的に撤退し、ロシアが千島から退くという内容。当時樺太には約2400人のアイヌが住んでおり、ロシア国籍を得るか日本に移住し日本国籍を持つか、判断を迫られた。日本政府はこの樺太アイヌの人々を日本に移住させることにした。
 同年9月、108戸841人が北海道に移住し、宗谷に住み着いた。翌年、開拓使は彼らを農業開拓に従事させるべく、石狩の対雁(ツイシカリ・今の江別)に強制移住させる。当時の対雁はあまりの自然環境の厳しさに東北(仙台)からの移住者も逃げ出したという場所だ。漁労で生きてきた樺太アイヌの人々が、無理矢理連れてこられ慣れぬ農耕を強いられることとなった。その困窮はいかばかりだったことだろう。さらに、強制移住後の1876年には大洪水、1879年にはコレラが流行。30人の死者を出した。1886年には対雁から石狩川河口へ再度移住させられたが、再びコレラ天然痘が流行し、翌年には370人が病死。移住した841人のうち、400人以上がわずか7年で亡くなったのだ。
 1905年、日露戦争後のポーツマス条約で樺太の南半分が日本の領土となり、樺太アイヌは故郷に戻ったが、生き残って帰郷できた人はわずかだった。
 明治政府は北海道の開拓にアイヌの力が必要であるとし、農地を付与したりしたが、その方針はあくまでも「同化政策」であり、畑作に専念させ、従来のアイヌの狩猟を中心とした生活と文化を葬り去ることだった。1878年開拓使は戸籍上のアイヌ呼称を「旧土人」という差別的表現に統一し、子供達は「旧土人学校」で学ぶことを義務付けられた。
 一方、アイヌの人々が、和人に土地を奪われ差別と迫害に苦しんでいることを知り、その救済と生活改善のために、各地に学校(愛隣学校)を設立したのが、英国人宣教師のジョン・バチェラー博士だ。1890年には幌別町にアイヌ児童教育施設「愛隣学校」を開設し、1892年には函館にも設立した。
 アイヌ民族に関しては本ブログ2013年10月1日号と15日号に詳細を記しているが、明治以降、先住民族(実際に認められたのは2008年の「アイヌ民族先住民族とする国会決議」)であるアイヌを救済・保護する活動をおこなったのが、日本政府ではなくイギリスのキリスト教宣教師であったことに、何か言い表しがたい思いを抱く。
 2013年6月1日から約2年半、81回にわたって「北海道開拓の先覚者達」を連載してきました。ここで一旦本編は筆を置きます。次回からは総集編をお届けしながら、次のテーマにも取り組んでいきたいと思います。もうしばしお付き合いください。
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 日本共産党の政策
 各分野の政策(2021年)
 70、アイヌ民族(2021総選挙/各分野政策)
 ➡2021総選挙 分野別政策一覧
 70、アイヌ民族
 先住民族としてのアイヌの権利を守ります
 2021年10月
 アイヌ民族は、北海道を中心とする日本の先住民族であるにもかかわらず、明治期以降の国の同化政策によって、土地や資源、文化や言語、民族の権利や尊厳を奪われ、今なお差別や偏見の中、生活環境や進学において格差に苦しんでいます。
 2007年に国連総会で「先住民族の権利に関する国際宣言」が決議され、翌年に衆参の両院で「アイヌ民族先住民族とする国会決議」が全会一致で採択されました。この国会決議を受けて日本政府も「政府として先住民族として考えている」(町村官房長官談話)と表明しました。アイヌ自身の粘り強い運動が政府の態度を変えるまでに至り、2009年には政府の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」がアイヌの生活向上と権利を回復するための新法制定を求める報告書を提出しました。
 それから10年を経て、2019年4月に、「アイヌ先住民族」と規定したアイヌ新法が成立しました。同法は、「民族の誇りを持って生活できる環境整備」や、差別や権利利益の侵害の禁止を明記していますが、生活の実態は深刻であり、貧困の連鎖も、差別も解消されていません。
――新法も力に、アイヌ民族の生活向上と権利保障をすすめます。
――同化政策をはじめ民族の権利を侵害してきたことに対して、国として謝罪し、そのことを国民に周知することを求めます。
 明治期よりアイヌ人墓地から研究目的と称して遺骨が持ち出され、今なお1000体以上が返還されていません。これはアイヌ民族に対する差別的処遇の象徴です。アイヌ遺骨は受け入れ先との協議のうえ、元の地に戻すことを基本に、返還作業を進めます。
 アイヌ民族の権利や歴史を正しく教えることにより、アイヌ民族の存在や歴史について正しい理解を広げ、奪われた先住民としての権利や、民族としての尊厳を回復できるよう、教育をはじめあらゆる施策を強めます。
 2016年制定の「ヘイトスピーチ解消法」を実りあるものにする努力も強めます。
 国として緊急に、文化・歴史の保護・伝承と合わせて古老・高齢者の生活保障、アイヌ女性が気軽に相談できる窓口の拡充、誰もが受けられる給付制奨学金の創設などの実施を求めます。
 次の、日本共産党北海道委員会の政策のうち、「3-4 アイヌ民族の先住権の回復を目指し、同化政策に対する公式の謝罪を行います」をご参照ください。
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 明治日本は弱小国であった為に、世界的植民地大帝国ロシアの侵略から日本を防衛するべく北海道の開拓を急ぎ、大苦戦するであろうロシアとの戦争に勝利する為に国民でもアイヌ人でも犠牲にした。
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 日本の北海道開拓は、アメリカの西部開拓やロシアのシベリア開拓とは違い、平和開拓ではなく軍事開拓として北海道全土を軍事要塞化する事であった。
 つまり、生きるか死ぬかの対ロシア戦の為の軍国主義政策の一環であった。
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2018-05-28
🎵16:─1─日本は、ロシアの侵略に備えて、蝦夷地を北海道と改名し、アイヌ人を日本人とした。~No.31 @ 
2019-01-17
🎵29:─1─囚人道路建設は後の泰緬鉄道敷設に似ている。鎖塚。網走監獄。網走刑務所。~No.68No.69No.70 @ 
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 ウィキペディア
 囚人道路とは、明治20年代ごろの北海道各地において、囚人たちの労働力によって建設された道路の俗称である。
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 鎖塚(くさりづか)は、北海道で行われた苛酷な囚人労働を物語る史跡である。
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 屯田兵は、明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士とその部隊である。1874年(明治7年)に制度が設けられ、翌年から実施、1904年(明治37年)に廃止された。
 前期屯田の進展
 初期の屯田兵募集は身分上募集が制限されていた。身分や年齢の制限を満たすための便法として養子縁組を行なうものを屯田養子といったが、募集当局に平民を拒む意思はなかったので、身分制限から問題が起きることはなかった。後に原則が取り払われると、新兵の身分比はほぼ人口中の身分比に等しくなった。よって、前期と後期で屯田兵の時代区分をすることがある。
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 囚人街道・囚人の道・囚人道路。
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 屯田兵とは、対ロシア戦における北海道防衛の農民開拓兵士の事で、日露戦争に勝利して千島列島に続いて南樺太を新たな防衛陣地として軍隊を駐留させた為に北海道の戦略的重要性が薄れて非近代的な屯田兵制は廃止された。
 が、アイヌ人は依然としてロシアに味方する危険性があるとして監視の対象とされた。
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 中国共産党は、尖閣諸島・沖縄、沖ノ鳥島そして北海道を狙っている。
 事実として、中国資本は北海道の土地を買い漁っている。
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 アイヌ人独立派や反天皇反民族反日本的日本人は、北海道をアイヌ自治区として日本から切り離そうと画策している。
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 歴史的事実として、日本国・日本人には、祖国防衛の為に、北海道とアイヌ人に対して言い尽くせないほどの感謝しきれないほどの恩義がある。
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 日本の北海道開拓とアメリカの西部開拓・ロシアのシベリア開拓とは意味が全然違う。
 蝦夷地・北方領土は、ロシアの侵略から日本を守る最前線の軍事拠点であり、その為に開拓は平和未開地開拓ではなく軍事戦略開拓であった。
 よって、日本の近代化とは敵の周辺諸国による侵略から日本を守る為の軍国主義政策の事であった。
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 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がない為に、蝦夷地・北海道そして北方領土4島の歴史が理解できない。
 その傾向は、高学歴な知的エリートや進歩的インテリに多い。
 その証拠が、アイヌ先住民族認定とアイヌ新法成立におけるリベラル派・革新派そして一部の保守派による国会審議、人権派によるメディア報道や学校教育である。
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🌏54)─1─大歌人明治天皇は軍事・宗教・イデオロギーなどの侵略から日本を守っていた。~No.183No.184No.185 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族は、「うた」詠みの民族で、その「うた」の中に浄き心・清明心、素直な念い、純粋な正直さを言霊に包み込んで忍ばせていた。
 が、現代日本には、数万年前の石器時代縄文時代からの「うた」はないし、数千年前の弥生時代古墳時代からの「うた」もない。
 つまり、現代日本人は列島の自然・神話と民族の歴史・伝統・文化・宗教から溢れ出る「うた」を捨てた人間である。
 現代の日本人と昔の日本人は別人の様な日本人である。
 現代における本当の意味での惟神(かんながら)の道への「うた詠み人」とは、天皇・皇族しかいない。
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 明治天皇は、明治神宮(大正4{1915}年起工、大正9{1920}年竣成)の祭神(人神)である。
 明治神宮は、天皇崇拝神社として、初詣における参拝者日本一である。
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 明治天皇国家元首として裁可したのは、琉球処分台湾出兵日清戦争日露戦争日韓併合アイヌ土人保護法、その他である。
   ・   ・   ・  
 アメリカの軍事侵略とハワイ王家消滅。
 東郷平八郎と海軍主流派は、アメリカを主敵として、大艦隊編成する為に海軍軍縮条約に猛反対した。
2018-05-29
🎵19:20:─1─エルトゥールル号。朝鮮の反日謀略。アメリカの仲介による尖閣諸島領有。米西戦争。ハワイ王家消滅。1890年~No.39No.40No.41No.42 @ 
2018-08-09
🗽23」─3─カラカウア国王は、ハワイ王国アメリカの侵略から守る為に日本皇室との姻戚関係と日本国家との同盟を希望した。1871年~No.91No.92No.93・ @ 
   ・   ・   ・   
 2022年6月号 Hanada「詩を読んで史を語る 平川祐弘
 明治天皇
 明治の大歌人
 詩を読むことで、日本の文化を語り、あわせて世界史の中の日本を眺めるよすがとしたい。史は詩なり、というが、私は逆に、詩の中に史を見る。ふだん見慣れたのとは違う資格から歴史を見直して、世間の思い込みとは異なる意味を述べたい。もっとも、これらの一連の連載で、かく言う私が、謬見(びゅうけん)を披露し、顰蹙(ひんしゅく)を買うかもしれない。そこは足をすくわれぬよう注意するから、読者諸賢もお気づきの節はなにとぞご一報賜りたい。しかし、世間が当然視する前提や、無言の圧力には従わないつもりである。
 明治の大歌人として明治天皇(睦仁{むつひと}、1852~1912)をまずとりあげる。この連載第一回に天皇を話題とし、明治の大歌人と呼ぶと『さては平川は皇国詩観か』と顔を顰(しか)める向きもいるかもしれない。だが、『百人一首』でも最初は天皇の歌を詠みあげることはある。苦情が出ぬように実証的に話をすすめると、明治天皇は60年の生涯に作られた和歌は9万3,032首。明治の大歌人与謝野晶子が64年の生涯に作った和歌が5万というから、睦仁陛下が数の上で大歌人であることは明らかだろう。
 だとすると、平川の選択を頭から拒もうとするアレルギー的反応は、惰性的左翼にありがちな、精神の怠情でしかないことがわかる。ただし御製であるからといって、保守的右翼にありがちな、ただただ有難がることはしない。また天皇のお歌に対して漢語の御製の語を用いるべきとする漢語事大主義者の区別もとらない。天皇のお歌であるからといって構えることなく、自然体で吟味させていただく。
 明治天皇は父孝明天皇から天皇家のおつとめをいろいろ習われた。和歌をたしなまれたのも、その一つで、近世の天皇の基本的教養は和歌だった。ではその歌はいかがなる性質を備えているのか、代表例を掲げる。
  さしのぼる朝日のごとくさはやかに
        もたまほしきはこころなりけり
 清らかな、光かがやくこの歌は、日の丸の旗を歌にしたようだ。単純で美しい。日本の白地に赤い国旗が神道美学そのものであるように、このお歌もまた神道風である。そこには清らかさを尊ぶ美的・倫理的感覚が働いている。この歌一首にも、同時代の他国の皇帝とは異なる日本の天皇の宗教文化的背景が感じられるではないか。これが日本のお国柄というべきであろう。
 ■祭祀王としての明治天皇
 明治天皇は、同時代のドイツ皇帝やロシア皇帝のように政治に露骨に容喙(ようかい)しなかった。ヴィルヘルム2世は直接自分で英語の手紙を書いてニコライ2世に送り、外交的提案をした。黄禍論を唱えて日本に対し三国干渉をけしかけたりもしたが、そこにはヴィルヘルム外交と呼ばれるものがあった。
 それに対して、幕末維新に際して、一部の公家や神道家が唱えたような天皇親政の路線に向って、明治天皇は積極的に進まなかった。そこは後醍醐天皇とは違う明治天皇である。維新により天皇は形式的には政治の中心に据えられたが、朝廷には行政機関も立法機関もない。江戸幕府に代わった西南雄藩が実権をしっかり握っていた。天皇は重要会議には出席したが、直接国事に関与する事を控えた。天皇は軍服も着用したが、軍を率いて親征することはなかった。鎌倉時代以降の天皇家が置かれた地位が、いわば長いならいとなって、それが『君臨スレドモ統治セズ』の立憲君主主義になじみやすい慣行ともなっていたのではあるまいか。
 明治天皇専制君主ではない。一見西洋風の皇帝のようでありながら、それでも比較的自然に、大日本帝国憲法によって定められた、立憲君主の地位の枠内におさまられた。ただ明治以前と違って御簾(みす)の中から出て、民の父母として国中を行幸する君主となられ、その新しい伝統は引き継がれて今日に及んでいる。
 日本の天皇について次に、19世紀西洋の皇帝とは異なる比較枠も用いて、その特性を見ておきたい。中近東の古代の王がおおむねそうだったように、わが国の天皇も、宗教文化的背景から眺めれば、国政を司(つかさど)る国王Kingとしての面と祭祀を司る祭祀王Priest Kingとしての面とを一身にそなえていた。それは『大君は神にしませば』と歌われた神権政治ともいうべき『万葉集』の古代だけの話ではない。祭祀一致は維新の前後にも唱えられた。
 では明治天皇にとってお勤めの『まつりごと』とはなにか。それはまず祭祀王として、国民の為に祈ることだった。子供のころ私はこのお歌を習った。
  とこしへに民やすかれといのるなる
        わが世をまもれ伊勢のおほかみ
 この『いのる』が天皇のお気持であり、かつお勤めである。普通の個人が私事として祈るのとは違う、これが天皇の広義のまつりごとなのである。天皇天照大神の御子孫であり(*3)、神道のいわば大祭司として御先祖に対してお勤めをしなければならない。その事は日本人にとっては自明だから憲法にも書かれていないのだろう。しかし明記しておかないと、何が大切か、祭祀という『まつりごと』の順をとりちがえる皇室関係者や、歴史を知らぬ憲法学者や法学士が出てくるかもしれない。また世間が認識を過つかもしれない。故意に誤誘導するマスコミもあるだろう。
 *3『神のすゑなり』は伝説であるが、明治天皇が『わが国は神のすゑなり神祭る昔の手ぶり忘るなよゆめ』と歌われたお気持ちは自然である。そのお言葉を尊重したく思う日本人は多いのではあるまいか。日本人は神棚に柏手を打ち、祖先を神として崇めるからである。
■祭事と政事
 天皇は昔から神事(しんじ)を先にし、他事(たじ)を後にした。明治天皇
  かみがみの伊勢の宮居(みやゐ)を拝しみての
        後こそきかめ朝まつりごと
 『まつりごと』は漢字で『祭事』とも『政事』とも書く。上の命を受けて、その職に仕え奉ること、の意味である。上はあるいは神でありあるいは君であろう、天皇にとり『まつりごと』とは『祭事』が第一のお勤めで、それだから『伊勢の宮居を拝みて』の後に『まつりごと』の第二のお勤めである『政事』の面で仕事に国王として耳を傾ける。このことは明治天皇がよく学ばれた順徳天皇の『禁秘抄』の昔から言われてきた。これから先、新しい法の制定に際しては、陛下にはこの二つのお勤めがあることを明文化しておくことが大切なのではあるまいか。
 なおこの順序に言及されたお歌が、国事(政事)が多忙多端をきわめた日露戦争の直後の明治39年の作であることに関係者は留意すべきだろう。明治は大変化の時代だったが、明治天皇は御自身の役割の重要性の順位をしっかりと理解されていた。
神道的伝統の継承者
 万世一系天皇は、このように神道の宗教文化的伝統の中心的継承者であり、それゆえに天皇は、たとえ政治的君主としての権力がなくなろうとも、権威を保たれてきた。天皇家は続くことと祈ることに第一義の意味があるのはこうした背景に由来する。
 代々続く天皇には、優れた方もそうでない方もおられよう。体の強くない方が皇位につかれることもありましょう。世襲制天皇能力主義的価値観を持ち込んではならない。その能力の有無により退位するとか譲位するとかいうことがあってはならない。天皇は、世俗の国事行為や公務を軽減しても、皇居におられるかぎり、有難いのである。そのことは昔も今も変わらない。その順序を間違えてはならない。
 2016年11月7日、有識者会議の席で私は比較文化史家として天皇のお役目の中での重要性のプライオリティーについて、世間が見落としがちな点についてご注意申上げた。
天皇は歴史により定義される
 天皇は、日本の歴史上の存在で、大日本帝国憲法や1949年憲法で定義される以前から連綿と続いてきた。日本人もその長い歴史の中で、天皇様のことを感じ考えてきた。今の憲法の文言によって法学部出身者が下す解釈がとかく前面に押し出されるきらいがあるが、それだけでよいはずはない。占領下に作られた、旧敵国日本の天皇制を弱体化を謀ったともいえるアメリカ製の現代憲法に、万世一系の字がないからといって、昨今の法学者がそのことを説明せず、官僚は言及せず、新聞もあまり報じない。だが、天皇が日本の象徴であるのは、由来、日本国民の永生の象徴である。
 人は個人としては死ぬが民族としては生き続ける。一系の天子は代々民族の命が続くことの象徴で、だからこそ有難く尊い。日本人はそれだからこそ『天皇陛下、萬歳』を叫んだのである。まただからこそ皇統の維持は大切と天皇様はじめ多くの人が感じるのである。
 人は祖先の霊に祈ることにより祖先とつながる。人は手を合わせる時、家族はじめ生きている人の安寧平和だけでなく、亡くなった父や母や祖先のことも思い浮かべる。皇室が国民統合の象徴であるとは、生きている日本人だけの統合でなく、死んだ祖先を含んだ上での統合だからである。伝統とは生者と死者からなるデモクラシーであり、それだからこそ私たちは心をこめて祈り、故人の声に耳を傾けるのである。
■文明開化の時代
 睦仁天皇は1867年に践祚(せんそ)、王政復古の大号令を下した。明治天皇は多くの政治という政事(まつりごと)に関係した。その天皇家が西洋と開国和親の方針で向かい合ったのは明治維新からである。
 『智識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スベシ』と明治元年『五箇条ノ誓文』は新日本の国是を定めた。わが国は西洋化の時代に入った。明治天皇は日本が採るべき文化政策について、
  よきとりあしきをすてて外国(とつくに)に
        おとらぬくにとなすよしもがな
 と『採長補短(さいちょうほたん)』の対外姿勢を、明治の末年にいたるまで、きちんと尊重された。この歌を詠まれたのは明治43年、崩御の2年前である。そのことに私は感服する。明治天皇は終生、天皇となって最初に誓った『五箇条ノ誓文』を守ったのである。人間、若い時は外国を理想化し、その良きを採ろうとつとめるが、年をとると不精になる。私の大学の旧同僚の中にもそうして自己中心的となり、精神の老化症状を呈する者がいた。中には初めから不精な者もいて、日本だけがいいと言い張る偽愛国者もいた。いまもいる。だがそんな人たちが大声で叫ぶのは、第二次大戦の前の日本がそうだったが、井の中の蛙の大合唱に似て、滑稽ではないか。
 日本の欧化熱の絶頂は明治10年代末、外国の貴顕淑女を招いた鹿鳴館の舞踏会だった。それもまた、滑稽だったかもしれない。だが、鹿鳴館がどう批判されようと、それは生まれたばかりの近代国家がやむなく試みなければならなかった化粧であった。明治天皇ご夫妻はそのパーティーに参加されなかったが、その夜の風景に非常な関心を示された。美子(はるこ)皇后はこう歌われた。
  そらたかく花火ぞみゆる貴人(あてびと)の
        よるのうたげにまひあそぶらむ
文明開化の19世紀後半、アンリー・ルソー(1844~1910)の絵にあるような、そんな風景は同時期の日本にもあった。軽気球が空に浮かんでいるのが皇居からも見えた。
  かぎりなき大海原をみおろして
        雲わけのぼる船もありけり
 ……
日露戦争
 日露戦争の最中に天皇はこんな歌を詠まれた。銃後の民の苦労をいたわる歌である。私は第二次大戦中の日本の小学校でお習いした。
  子等はみな軍のにはにいではてて
        翁やひとり山田もるらむ
 ……
 明治天皇は勝利の報に喜ばれたけれども、次のような心情も吐露された。
  むかしよりためしまれなる戦に
        おほくの人をうしなひけり
 ……
神道の復活
 『忠君』の『君』は徳川時代には各藩の大名であった。『大君』は徳川の将軍の外国に対して用いられた敬称で『タイクン』と発音した。それが明治維新を経て『君』は、徳川の将軍や地方の領主でなく、日本の天皇となった。『愛国』の国も各藩でなく、中央集権国家日本の国そのものとなった。忠君愛国の念に富む日本は帝政ロシアに勝利した。明治は西洋化の時代であったが、同時にナショナリズムの高揚した時期であり、天皇の威光はひときわ燦然(さんぜん)と輝いた。それはひろく神道国民感情がよみがえった時期でもあった。
 国民の崇拝の的であった明治天皇が亡くなるや、天皇を記念して、緑の森に囲まれる明治神宮が民間の発意で造られた。その事業は明治天皇とその時代に対する日本国民の敬愛追慕の念のあらわれであり、国民的な宗教感情の盛り上がりでもあった。天皇の徳を慕(した)い、聖代を偲ぶの情が、生き生きと働いて、多数の人が自発的に奉仕し、それによって神宮とその周辺の造営はなったのである。私は代々木の森は昔からの自然の森だとずっと思っていた。それが人の手で造り出された、常緑広葉樹の自然の森だということを、森造りを担当した本多静六林業博士の孫の本多健一と長年つきあいながら、知らないでいた。
 明治以来の日本は和魂洋才を国家目標とした時期である。近代の日本人は工場も軍艦も造ったが、代々木には神域の森に囲まれる神宮も造った。皇室を中心に神道の感情は昔から息吹(いぶ)いていたが、この見事な造営こそわが国に底流する神道的感情の生きた証(あか)しだろう。その和魂は当然に愛国感情と結びつく。
 はるか千数百年の遠い昔に創られた伊勢神宮と並んで、過去100年の近い昔に造られた明治神宮は日本の聖地の一つとなったが、外苑がパークであるのに対し、内苑は聖なる空間である。外国の賓客もこの東京にある明治神宮にあるいは参拝しあるいは表敬する。その聖域であることはおのずと外部の人にも了解された。
 『万葉集』の時代、『大君は神にしませば』と歌人はうたった。そのような天皇を神と仰ぐ感覚は庶民の間にはずっと底流していた。明治天皇と皇后を御祭神して祀ることは自然であった。
 ただ、日本人はふだん身近な神社にお参りする際、その御祭神が誰か知らず、また気にもせず、柏手を打つように、三が日の明治神宮参拝に際しても、多くの人には明治天皇や皇后のことを必ずしも念頭になく、お詣りしているのではあるまいか。それが日本の神道の宗教風俗というものだろう。
 昨今は御祭神に人を祀ることが次第に難しくなっている。しかし神道の命は、神社が新しく造営されることにより、よみがえる。昭和の御代を偲ぶの情が、単なる公園の整備だけに終わってしまっていいのだろうか。
明治天皇のお人柄
 明治天皇について、良い伝記がないから、日本人は明治天皇のことをよく知らない、『日本史上、もっとも有名で謎の多い天皇』という趣旨をアメリアの日本研究者が言ったことがある。ドナルド・キーンの『明治天皇』(新潮社、2001)の表紙の帯には、広告のためもあろうが、そう出ている。なるほど一個人の手になるこののような立派な、包括的な、大著はなかったかもしれない。
 だが、日本人は明治天皇のことをよく知らない、そう言われたとき、『いや、そんなことはない。日本人は天皇のお人柄をかなりよく知っている』と反射的に私は思った。それというのは、現存する日本人で、昭和の大戦前に生まれた人なら、小学校の教科書などで明治天皇の御製(ぎょせい)をお習いしたからである。天皇はいかなる方であったか、そのお人柄は歌でおのずから伝わる。
  あさみどり澄みわたりたる大空の
        廣きおのが心ともがな
 堂々とした、心の真っ直ぐな、王者の風格のある和歌である。美の感覚と道徳の感覚が一体となっている。そのすがすがしさが神道のお歌たる所以だろう。この和歌一首で明治天皇の内面のお気持ちがしたしく国民に伝わる。歌の徳といおうか。
 この歌には神道の気持が満ちている。朝の空という感じがするのは言葉の音の連想だけではないだろう。胸いっぱいに朝の澄んだ空気を吸い、大空を見上げる。そのあさみどりは単なるblueではない、みどりのうすきものだろう。私たちもその中にいる透明な大気である。自然との一体化を願う気持ちが神道にはあるが、その自然崇拝と祖先崇拝とは日本人にとっては別ではない。この朝の天に対する願いはほとんど宗教的である。上なる者に対する畏敬の念が感じられる。
 神道は、伊勢の皇大神宮に祀られた天照大御神を祖神と仰ぐ天皇家の宗教で、日本の民族宗教といわれる。だが普通の宗教とは次元を異にするから、世のいわゆる宗教と共存し得る。経典がないから、お寺で仏典による坊様が仏の道を説くような、あるいは教会で聖書により牧師がキリスト教を説くような、説明がない。それで神道とは何か、と外国人にあらたまって問われると、たいていの人はとまどう。日本語でも説明できない。ましてや外国語ではさらにできない。返事に詰まって『自分は無宗教だ』と言ってその場を誤魔化す人もいる。だがそんな人も、神社の社頭では、立ち止まって柏手を打つ。
 宮司祝詞(のりと)は唱えるが、余計な説教はしないし説明もしない。言挙(ことあ)げはせずとも神道の存在は感じられる。それを神ながらの道だと口喧しく説き出す人もたまにいる。
 私は神道の説明の一助として、この『あさみどり』の歌を朗唱することをすすめたい。勅語を筆写させるよりも、御製を暗誦させるがよい。神道の心地とはこれだ、と言えば、多くの日本人はうなずくのではないか。
 『神道とは日本に仏教が伝わる前の神話や漠然とした祖先崇拝や自然崇拝に対し与えられていた名前で、しばしば宗教として言及されるが、その名に値する資格はほとんどない。神道にはまとまった教義も無ければ、聖典も無い、道徳律も無い』
 とバジル・・ホール・チェンバレンは『日本事物誌』の《神道》の項目中でくさしたが、そう無くもない、神道には鋭い道徳の感覚が働いている。
 ■神道の詩情
 この『あさみどり澄みわたりたる大空の』の歌には、美学とともに倫理の感覚がはっきり感じられる。人として生きる心がけも示されている。
 ところがこの明治天皇の代表的なお歌の英訳を示しても、外国人がそれで納得したか、というと、はなはだ心もとない。
 ……
 御製の中で道歌風の教訓歌は英語になりやすいが、神道の雰囲気やその緊張感は、それが詩的であるだけに、訳することが難しい。外国の詩が訳においても詩として訳される時に、外国文化の神髄は初めて伝わる。だが、神道は外国人によって共感的に理解されたためしが、どうも少ないのではないか。日本の知識層も神道に対して冷淡なのだから、やむを得ぬことかもしれない。──本稿の読者にも、高原でキャンプして、山中で大空を見上げて深呼吸するとすがすがしい。そんな気分の歌と理解して、『神道的』な願いの気分にはとくに触れぬ人もいるかもしれない。
 同じ歌のロンバードによる訳は、五七五七七音節で英訳し、それに従って改行(かいぎょう)してあるために、一読してすっと伝わらない。そんな七面倒くさい技巧をこらしたことが裏目に出た。明治天皇の御歌はもっとすなおで、おおらかで、すんなりと自然である。これらの英訳を一瞥すれば、神道の詩情を外国人に伝えることの難しさを読者は納得するだろう。私が言いたいのはそんな否定面なので、一連の英訳は飛ばして頂いて構わない。
■府立六中の朝礼
 明治天皇は御自身の歌を世に発表されるのを好まれなかった。
 ……
  いにしえのふみ見るたびに思ふかな  
おのがをさむる國はいかにと
 ……
 キーン訳は詩というよりは散文に近く、事実プロザイック(殺風景)だが、三十一文字の大和言葉「には」自省する天皇の感慨がこめられていて自ずと詩と化している。
 ……天皇の歌を暗誦させるとは忠君愛国教育か、さては『毛沢東語録』の暗誦のたぐいか、と批判する読者もいるかもしれない。だが『百人一首』を読み上げるのと同じで、聴いても、唱えても、気持ちがよい。それは歌にこめられた気持ちがしみじみと若者の心に浸みこむからだろう。
 後に歴史学者となった林健太郎(1913~2004)も六中の生徒で毎朝、御製を三唱した。……山縣も歌人明治天皇が歌にすぐれたおとをよく承知しており、御集の編纂を助けた。……林健太郎明治天皇の『歌は教訓的ではあるが道歌風ではなく、やはり王者らしい闊達(かったつ)さと風格が溢れている』と評した。そして『朝の空気の中でこういう歌を大きな声で唱えることはなかなか気持ちのよいものであった』と回想している。」
   ・   ・   ・   
 神道が外国人に理解されないのは、神道には異郷の地で布教をこない、異教徒に真理を説いて信者を増やすという「神聖な使命」感を持っていなかったからである。
 つまり神道は分からない者に理解を求めはいない、それは自然が人間に理解を求めていないのと同じである。
 日本の自然とは、理解しない人間を平然と置き去りにして捨て去る・命を奪う地獄の一面を持った非情な自然である。
 つまり、自然を怖れるか怖れないかである。
 そこに、日本民族の伝統文化としての「うた」が自然と神話・宗教と人間との間に介在している。
 日本の海は、大津波で数千人・数万人の人の命を奪うが、生きる糧として多様で豊富な魚介類の恵を与えてくれる。
 日本の自然には2つあって、人の手が入った里山と人の立ち入りを禁止した神の領域(神域)である。
 神域と人域の境界、中間・狭間・間、際(きわ)に存在するのが里山であり、神社仏閣の鎮守の杜であった。
   ・   ・   ・   
 映画・スペック「生と死を峻別する事に意味はない。
 他者が認ずれば死者とて生命を持ち、
 他者が認ずる事なければ生者とて死者の如し」
   ・   ・   ・   
 イザベラ・バード「わたしは死んだ過去の時代の霊魂が私の背後に近づいてくる、と感じた」(伊勢神宮参宮して)
   ・   ・   ・   
 西行法師「何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」(伊勢神宮参拝して)
   ・   ・   ・   
 H・P・ラヴクラフト「人類の感情の中で、何よりも古く、何よりも強烈なのは恐怖である」
 人類は、恐怖に打ち勝つ為と真理を究める為に宗教を編み出した。
 最強の恐怖とは「死」であり、究極の真理とは「生」である。
   ・   ・   ・   
 日本で怖れられるのは、現代では嘘と騙しで争い競い奪う人間であるが、昔は穏やかな自然であった。
   ・   ・   ・   
 日本民族の歴史は、数万年前の石器時代縄文時代から始まる。
 日本天皇・皇室の歴史は、数千年前の弥生時代古墳時代から始まる。
 日本国民の歴史は、明治元(1868)年の近代国家樹立から始まる。
 現代の日本人=地球市民日本人は、1956年の敗戦後にキリスト教価値観のリベラルとマルクス主義価値観の革新が強制されて生まれ、日本の歴史となったのは1990年頃からである。
  ・  ・  
 反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルクス主義が日本に浸透してきたのは、明治後期の1900年代頃からである。
   ・   ・   ・   
 日本に対する宗教侵略とは。中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として家畜のように扱い売り飛ばして金を稼いでいた。
   ・   ・   ・    
 日本に対するイデオロギー侵略とは。日本人共産主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリストと同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
   ・   ・   ・   
 明治43(1910)年 大逆事件無政府主義者社会主義者らによる明治天皇暗殺計画。日本政府は、天皇と皇族、皇室と天皇制度を守るべく暗殺計画者や協力者・支援者を逮捕して弾圧し、幸徳秋水ら12名を処刑した。
   ・   ・   ・   
 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
   ・   ・   ・   
 軍国日本は、天皇・皇族、皇室・天皇制度という国體・国柄を守る為なら世界を相手にし、如何なる被害を受け夥しい犠牲者を出そうとも戦う・戦争をする覚悟であった。
 決して、自分が命を長らえる為に天皇・皇族を人も御供として敵に売り渡して、皆の為の命を救う為に皇室・天皇制度を犠牲にするのもやむなし、とは考えなかった。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がない為に民族の心・心情・情緒が理解できない。
 分かる日本人は2割、分からない日本人が5割、嫌いで拒否する日本人が3割。
 学校教育やメディア報道で、分からない日本人や拒否する日本人が増えてきている。
 その証拠が、国民世論の80%以上が血筋・血統を唯一の正統性とする世襲制男系父系天皇制度から憲法・法律が正当性と認める皇統の非世襲制女系母系天皇制度への制度変更要求である。
 デジタル時代の日本人が求める理想的天皇像とは中身のない薄っぺらなアイドル的ドール的天皇、人畜無害な存在で、その意味で現代の日本から急速に生きた文化・伝統・歴史・宗教が消え始めている。
 SNSや週刊誌、テレビ報道などを見れば、現代の日本人が分かる。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
   ・   ・   ・   
 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
   ・   ・   ・   
 日本の「うた」には、死と生が歌い込められている。
 生の面。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
   ・   ・   ・   
 西行法師の伊勢神宮参拝。「何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」
   ・   ・   ・   
 死の面。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
  地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
   ・   ・   ・   
 日本の甚大な被害をもたらす破壊的壊滅的自然災害は種類が多く、年中・季節に関係なく、昼夜に関係なく、日本列島のどこでも地形や条件に関係なく、同時多発的に複合的に起きる。
 それこそ、気が休まる暇がない程、生きた心地がない程であった。
   ・   ・   ・   
 仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
 神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
 神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
   ・   ・   ・   
 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
   ・   ・   ・   
 日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
   ・   ・   ・   
 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
   ・   ・   ・  
 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
   ・   ・   ・   

🌏41)─5・A─北海道開拓の父・島義勇。ロシアの侵略の脅威で札幌がつくられた。明治2(1869)年。〜No.134 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 明治日本は弱小国であった為に、世界的植民地大帝国ロシアの侵略から日本を防衛するべく北海道の開拓を急ぎ、大苦戦するであろうロシアとの戦争に勝利する為に国民でもアイヌ人でも犠牲にした。
   ・   ・   ・   
 日本の北海道開拓は、アメリカの西部開拓やロシアのシベリア開拓とは違い、平和開拓ではなく軍事開拓として北海道全土を軍事要塞化する事であった。
 つまり、生きるか死ぬかの対ロシア戦の為の軍国主義政策の一環であった。
   ・   ・   ・   
2018-05-28
🎵16:─1─日本は、ロシアの侵略に備えて、蝦夷地を北海道と改名し、アイヌ人を日本人とした。~No.31 @ 
2019-01-17
🎵29:─1─囚人道路建設は後の泰緬鉄道敷設に似ている。鎖塚。網走監獄。網走刑務所。~No.68No.69No.70 @ 
   ・   ・   ・  
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 囚人道路とは、明治20年代ごろの北海道各地において、囚人たちの労働力によって建設された道路の俗称である。
  ・  ・  
 鎖塚(くさりづか)は、北海道で行われた苛酷な囚人労働を物語る史跡である。
  ・  ・  
 屯田兵は、明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士とその部隊である。1874年(明治7年)に制度が設けられ、翌年から実施、1904年(明治37年)に廃止された。
 前期屯田の進展
 初期の屯田兵募集は身分上募集が制限されていた。身分や年齢の制限を満たすための便法として養子縁組を行なうものを屯田養子といったが、募集当局に平民を拒む意思はなかったので、身分制限から問題が起きることはなかった。後に原則が取り払われると、新兵の身分比はほぼ人口中の身分比に等しくなった。よって、前期と後期で屯田兵の時代区分をすることがある。
   ・   ・   ・   
 囚人街道・囚人の道・囚人道路。
   ・   ・   ・   
 屯田兵とは、対ロシア戦における北海道防衛の農民開拓兵士の事で、日露戦争に勝利して千島列島に続いて南樺太を新たな防衛陣地として軍隊を駐留させた為に北海道の戦略的重要性が薄れて非近代的な屯田兵制は廃止された。
 が、アイヌ人は依然としてロシアに味方する危険性があるとして監視の対象とされた。
   ・   ・   ・   
 2022年5月25日07:00 産経新聞「日本の道統
 ロシア南下政策への脅威が大都市札幌を生んだ
 有料会員記事
 故郷の佐賀に建立された「北海道開拓の父」と呼ばれる島義勇銅像佐賀市
 南は中原(ちゅうげん)の地を護り、北はよく魯戎(ろじゅう)を鎮めん 『北海道紀行』
 北海道開拓の父と呼ばれる島義勇(よしたけ)(1822~1874年)は、9歳で佐賀藩弘道館に入り、その俊英ぶりがたたえられた。
 弘道館天明元(1781)年に設立された。「寛政の三博士」として老中、松平定信を支えた古賀精里(せいり)が教授を務め、古文辞学系の儒学者、石井鶴山(かくざん)が教頭格となった。石井は弘道館設立にあたって全国各地の藩校を視察。なかでも細川重賢(しげかた)率いる熊本藩時習館が、人材育成を通じた藩政改革に効果を上げていることに強く刺激を受けた。
 こうして弘道館は、藩の改革と結びついた総合教育機関として誕生したが、途中、藩の財政難により困難に陥ることもあった。
 この当時、弘道館を率いていた精里の子、穀堂(こくどう)は『学政管見』を提出。財政難の時だからこそ、教育に力を注ぐべしと主張。また穀堂が侍講を務め、後に佐賀藩主となった鍋島直正も、弘道館の拡充と洋学の積極的な摂取を指示。この結果、これまで山本常朝(つねとも)の「葉隠」精神が支配的だった佐賀藩は、実務に秀でた多くの人材を輩出することとなる。島義勇を含め幕末維新期に活躍した佐賀藩出身の人物は、後に「佐賀の七賢人」と称されるが、そのうち、直正を除く6人は全て弘道館出身者である。
 家督を継ぐと島はすぐさま江戸に遊学。江戸幕府の最高学府、昌平黌(しょうへいこう)の学頭で、当時最も学識をうたわれていた佐藤一斎や、水戸学のイデオローグとして会沢正志斎(せいしさい)と双璧をなす藤田東湖から学んだ。
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 2016年10月4日 産経新聞「日本の源流を訪ねて
 島義勇像(札幌市) 北の大地に生きる「佐賀の七賢人」
 北海道神宮島義勇
 佐賀藩士、島義勇(よしたけ)(1822〜1874)は、幕末から明治時代にかけて、北海道の発展に尽力した。その先見性から、「佐賀の七賢人」の一人に数えられる。
 島は藩校の弘道館で学んだ。その後、安政3〜4(1856〜57)年、藩主の鍋島直正(閑叟(かんそう)、1815〜1871)の命令によって、幕府による蝦夷地(北海道)と樺太の調査に同行した。
 江戸時代、佐賀藩福岡藩とともに、長崎警備を担当した。それだけに藩主・直正は、西洋列強の脅威を肌身で感じていた。ロシアは樺太蝦夷地への進出をうかがっており、島の派遣は、ロシアに対する備えの意味もあっただろう。
 このとき島は、アイヌの生活や自然の様子などをまとめた報告書『入北記』を著した。
 維新後、明治政府は蝦夷地開拓を重視した。
 明治2年、開拓使を設置し、初代長官には直正が就いた。島もその下で働く開拓使判官となった。
 直正は就任間もなく辞任したので、島は後継の開拓使長官、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)(1834〜1912)と一緒に同年9月、函館に上陸した。
 広い北海道の開拓を本格的に進める目的で、道央に新たな拠点を建設することが決まっていた。
 島らは函館から札幌へ、道なき道を進んだ。島は「開拓三神」と称される大国魂神(おおくにたまのかみ)、大那牟遅神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)の3柱のご神体を背負った。いずれも「国造り」に関連した神様だ。
 10月、銭函(現・小樽市)に開設された開拓使仮役所に着任した島は「札幌本府」の建設に着手した。
 真っ先に3柱の神々を祭る札幌神社=現・北海道神宮=を創建した。
 島は、北側を官庁街に、南側を民間地とした碁盤の目状の街並みを構想していた。それは古都・平安京を模した壮大な都市計画だった。
 極寒の中で、工事は困難を極めた。さらに大凶作で米価が高騰し、年間予算は、わずか3カ月で底を突く。
 増額を訴える島は、長官の東久世と対立し、3年1月に解任され、帰京を命じられた。
 東京に戻った島は、明治天皇の侍従を経て、5年に秋田県の初代権令(知事)となった。島はここでも八郎潟干拓する大事業を構想した。だが、このプロジェクトも反発を招き、翌6年に退官を余儀なくされた。八郎潟干拓開始は戦後の昭和31年まで待たねばならなかった。
 島は佐賀に帰った。
 新政府に不満を持つ旧藩士が結成した「憂国党」の党首に担がれた。征韓論をめぐる政争で新政府を追われた江藤新平(1834〜1874)とともに7年、「佐賀の乱」を起こす。
 政府軍に敗れ、首謀者として斬首された。
 島は明治22年に大赦を、大正5年には従四位の遺贈を受け、公的に名誉を回復した。それでも賊軍の汚名を受けたことは重く、地元・佐賀であまり顧みられなくなった。
 一方、北海道では「開拓の父」として、慕われる。北海道神宮のほか、札幌市役所(札幌市中央区)にも銅像が立つ。昭和4年には円山公園(札幌市中央区)に顕彰碑「島判官紀功碑」が建立された。
 約150年前。島が雪の舞う丘から「他日五州第一都」(いつの日か世界一の都市になるだろう)と吟じた原野は、今や人口200万に迫る大都市に成長した。札幌市中心部は島の都市計画に従った形で発展を続けている。(九州総局 中村雅和)
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 ■島義勇
 北海道札幌市中央区宮ヶ丘474、北海道神宮境内。彫刻家の宮地寅彦氏(明治35〜平成7年)が昭和49年、同神宮の明治天皇増祀(ぞうし)10周年記念事業の一環として制作した。札幌市営地下鉄東西線円山公園」駅から徒歩15分。問い合わせは北海道神宮(電)011・611・0261。
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 島 義勇(しま よしたけ、文政5年9月12日[1](1822年10月26日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての佐賀藩士、明治政府官吏。札幌市の建設に着手し、「北海道開拓の父」と呼ばれる。佐賀の七賢人の一人。江藤新平と共に佐賀の乱を起こし刑死した。
 北海道開拓
 明治2年(1869年)に蝦夷地が北海道と改称され、6月6日に新政府において藩主・直正が蝦夷開拓督務となった。島は蝦夷地に通じているということで蝦夷開拓御用掛に任命され、同年7月22日、開拓判官に就任した。直正から開拓使の長を引き継いだ東久世通禧以下の本府は、北海道で貿易港として早くから開けれていた道南の箱館にあったが、明治政府は北海道の中央部の札幌に新たな本府となる都市の建設を決定。島は同年10月12日、銭函(現・北海道小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し、南下して札幌に至り建設に着手する。当時の札幌は、アイヌのコタン(集落)と和人入植者の家が点在するほかは原野であったが、島は「五州第一の都」(世界一の都)を造るという壮大な構想を描き[2]、京都市や故郷の佐賀などを念頭に置いて、碁盤の目のような整然とした市街を目指して工事を進めた。島は数百人の職人・人足を率い、現地に暮らすアイヌの協力も得た。だが工事開始が冬場に当たり、米の輸送船が沈む危難にも見舞われ、掘っ立て小屋で犬を抱いて寝て寒さをしのぎ、食糧不足に耐えながら札幌建設に従事した。
 その年、明治天皇の詔により東京で北海道鎮座神祭が行われ、北海道開拓の守護神として開拓三神が鎮祭され、太政官訓令の中に、石狩に本府を建て、祭政一致の建前から神を祀る事を命ぜられた。そのため、島は北海道に渡る際、神祗官から開拓の三神を授けられ島は同年9月25日に函館に着き、単身開拓三神を背負って陸路札幌に向かい、10月12日に銭函に到着後、札幌市内に仮宮殿を設けた。また、銭函到着後直ちに先発隊を札幌に向かわせて神社予定地を見定め、現在の札幌市北5条東1丁目に仮宮殿を設け開拓三神を祀り一の宮とした。厳冬酷寒の雪国での都市建設は多額の費用と労力と困難を要した。また、石狩や小樽など西部13群の場所請負人を呼びつけて請負人制度の廃止を通告した。すると函館から、制度名を「漁場持」と変えて制度自体は「従前通リ」とするよう通達が回ってきた。そして岩村通俊が制度廃止を時期尚早とし、開拓費用を彼ら請負人に負担させるべきという意見書を書き送っている。結局、鍋島直正の後任である開拓長官・東久世通禧とは予算をめぐり衝突した。明治3年(1870年)1月19日、島は志半ばで解任された。そして松浦武四郎が函館に赴任した。松浦は偶然に函館の料亭で、役人が漁場持に、島同様に松浦も罷免に追い込むと口約束しているのを耳にした。松浦は陰謀を非難して1250字に及ぶ辞表を東久世に突きつけた。

⛩34)─1─初詣は「日本の伝統」じゃない!〜No.75 

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 2022年5月22日 MicrosoftNews Merkmal「初詣は「日本の伝統」じゃない! 実は、鉄道会社がつくり上げたものだった
山下ゆ(書評ブロガー)
 正月の定番でも何でもなかった
 新型コロナウイルスの流行に伴うリモートワークの広がりによって、郊外から都市部へと通う通勤客が減り、鉄道各社の収益にも大きな影響を与えている。新型コロナウイルスの流行が収まったとしても、リモートワークという働き方は一定程度は残っていくと予想され、鉄道各社は通勤以外の需要を開拓する必要が出てくるかもしれない。
 【写真】昭和風情たっぷり! 60年前の「初詣」を見る
 こうした状況の中で、今回紹介するのが平山昇『鉄道が変えた社寺参詣』(交通新聞社)だ。サブタイトルには
 「初詣は鉄道とともに生まれ育った」
 とあり、「初詣」という「伝統」は鉄道会社がつくり上げたものだという内容になっている。
 初詣というと正月の定番の行事であり、鉄道ができるずっと前から続いていたようにも思えるが、例えば、俳句の季語として初詣が立てられたのは1908(明治41)年だという。
 もちろん、江戸時代には神社仏閣に参拝しなかったというわけではなく、元日には氏神へ参詣や恵方詣が行われていた。現在、多くの初詣客を集めている川崎大師では、毎月21日が縁日であり、正月の21日は「初大師」として多くの人々を集めていた。ところが、現在の初詣は神社仏閣であればどこでもよいし、期日も正月三が日が中心だが、別に4日以降でもよい形になっている。
 初詣と鉄道の関係は初詣の人出ランキングからもうかがえる。
 1位は明治神宮が定番だが、その後に続くのは成田山新勝寺や川崎大師といった東京の郊外の寺であり、同じように京都の伏見稲荷、大阪の住吉大社、愛知の熱田神宮など、中心部から離れた場所にある神社がランクインしている。参詣客の多くは鉄道を利用しているのである。
 このうち、川崎大師(金剛山金乗院平間寺)は、1796(寛政8)年と1813(文化10)年の2度にわたる将軍家斉(いえなり)の厄払いのための参詣をきっかけに、厄よけ大師として発展していった。
 しかし、江戸・東京から川崎まで徒歩で行くのは大変であり、時間と体力に余裕のある者でなければ、なかなか行くことはできなかった。
 初詣が定着した「ふたつの要因」
 © Merkmal 提供 川崎大師と東京との位置関係(画像:(C)Google
 この状況を変えたのが鉄道の開業である。1872(明治5)年に日本で初めて開業した鉄道の途中に川崎停車場が設けられたことで、川崎停車場から川崎大師まで数kmの距離があったとはいえ、短時間で川崎大師に訪れることが可能になった。
 川崎停車場ができてしばらくすると、川崎大師の縁日には臨時列車も運行されるようになった。寺社仏閣への参詣は当時まだ珍しかった鉄道を利用するレジャーとして都市部の住民の間に広がっていったのである。
 実は初詣という言葉自体も、当初は川崎大師と結びつけて使われていた。著者によると大手の新聞に初詣という言葉が初めて登場したのは、1885年の『東京日日新聞』1月2日の、「川崎大師へ初詣の人も多かるべきなれば」、急行列車が臨時に停車したという記事である。では、なぜ縁日ではなく正月三が日を中心とした初詣が定着したのか?
 著者は
・日曜週休制
・年頭三が日の休業の慣習
 が広がったことをその要因としてあげている。
 21日の縁日に参詣しようとしても、21日が日曜でなければ勤め人には難しい。そこで毎年曜日に関係なく参詣できる元日に参詣客が集まるようになったのである。
 ただし、江戸時代の元日の参詣は「恵方詣」という縁起の良い方角の寺社仏閣にお参りに行くものが一般的であった。現在は「恵方巻き」で知られている恵方だが、これは5年周期で縁起の良い方角が回ってくるというものである。ちなみに、巳午(みうま)の方角(南南東)だけは5年に2度回ってくる。
 川崎大師はもともと江戸からおおよそ巳午の方角にあたっており、恵方詣の場所としても有名であった。
 鉄道会社に都合の悪かった恵方
 (C)谷 謙二〕)© Merkmal 提供 現在の川崎大師周辺の地図と明治初期の地図(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)
 鉄道会社も恵方の年には恵方詣の宣伝をして参詣客を集めようとしていたが、5年に1度か2度しか回ってこない恵方詣では鉄道会社にとっては都合の悪いものだった。そこで、鉄道会社が目をつけたのが明治になって登場した初詣という言葉である。鉄道会社は、恵方でない年であっても初詣という言葉を使って宣伝を始めた。
 成田鉄道は1910(明治43)年の正月を迎えるにあたって「成田山初詣」の広告を新聞に掲載し、1912年からは京浜電鉄が毎年正月に川崎大師参詣の広告を出すようになる。当初は、恵方詣ではない年に使われていた初詣という言葉だったが、次第に恵方詣を駆逐して正月の風物詩となっていくのである。
 先ほど紹介した初詣の人出ランキングの中にある成田山新勝寺、川崎大師、伏見稲荷住吉大社熱田神宮は、いずれも複数の鉄道がアクセスしている。この複数の鉄道による競争が、初詣というイベントをさらに盛り上げた。
 川崎大師では1899年に関東最初の電気鉄道である大師電鉄が開業し、官鉄川崎停車場近くの六郷橋と川崎大師を結ぶようになった。この大師電鉄は社名を京浜電気鉄道と改称し、1904年に品川(八ツ山)~川崎(現・京急川崎)~大師間を全通させた。
 当時は日露戦争が行われており、戦費調達のための通行税の導入に伴って官鉄は運賃を値上げしたが、京浜電鉄は逆に値下げをし、川崎大師と穴守稲荷を回れる巡回券を売り出した。この結果、1905年の正月には多くの乗客を集めたのである。
 一方、翌年には官鉄も対抗する。1906年の元日には新橋~川崎の往復運賃を5割引するという対抗策を打った。この後も京浜電鉄と官鉄の競争は続くが、競争がエスカレートするほど川崎大師の正月の参詣客は増えることになった。
 成田山新勝寺に関しても、やはり複数の鉄道の競争が参詣客の増加をもたらした。東京から成田への鉄道は1897年に総武鉄道(佐倉経由の路線)が全通し、1901年には成田鉄道(我孫子経由の路線)が全通した。
 どちらも距離的には同じようなものであったが、成田鉄道が日本鉄道経由で乗り換えなしで成田に行けると宣伝すると、総武鉄道もこれに対抗して臨時列車を走らせ、成田山新勝寺への参詣客は増加していった。
 「伝統」の裏にあった商業戦略
 © Merkmal 提供 平山昇『鉄道が変えた社寺参詣 ~初詣は鉄道とともに生まれ育った~』(画像:交通新聞社
 この競争は、日露戦争後の鉄道国有化によって総武鉄道と成田鉄道が国有化されたことでいったんは収まる。
 しかし、1926(大正15)年に京成電気軌道が押上~成田間を全通させると、より短い距離を走り、運賃も安い路線の登場によって再び競争は活性化する。京成は主要な新聞に初詣の広告を掲載し電車を増発すると、国鉄側も臨時列車や往復運賃の割引で対抗した。
 この結果、京成が開業前の1926年元日の国鉄成田駅の乗降客数は2万4400人であったが、京成開業後の1927(昭和2)年は京成成田駅1万6000人、国鉄成田駅2万7000人の計4万3000人に、そして、1940年には京成成田駅14万1000人、国鉄成田駅10万2000人の計24万3000人と10倍近くまで増加したのである。
 この競争は戦争によって一時中断されるが、1950年に京成電鉄が他社に先駆けて大みそか終夜運転を再開して往復運賃の割引を行うと、国鉄も割引運賃などで反撃し、さらに翌年には、京成が初詣の往復乗車券の購入者先着2万名に空くじなしの「お年玉」(1等は松坂屋の商品券10万円)を進呈するといった具合に競争が復活した。
 他にも本書では伊勢神宮の参拝客をめぐる競争、宮城県の鹽竈(しおがま)神社をめぐる競争などがとり上げられているが、いずれも鉄道会社による競争と宣伝が初詣の参拝客の増加をもたらしている。まさに鉄道によって初詣という習慣は定着したのである。
 本書を読むと、初詣という「伝統」の形成に鉄道が大きく関わっているとともに、神社仏閣という既存の名所を利用しながら、鉄道会社が貪欲に旅客需要をつくり出していったこともわかる。
 リモートワークの広がりとともに通勤客が減る中で、このようなチャレンジ精神こそが鉄道会社に求められているのかもしれない。」
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 Lets ENJOY TOKYO
 東京のお正月イベント・初詣情報
 今年の初詣は氏神様にお参りしよう!
 氏神様って何?その由来や探し方を知って、ぜひお参りに行ってみよう!
 初詣の由来や氏神様の調べ方などをご紹介!今年は「密」を避け、地域の氏神様にお参りして、健やかな1年を過ごしましょう!
 目次
 初詣は夜通し氏神様に祈願する「年籠り」が起源!
 氏神様とは?どうやって調べるの?
 正しい参拝方法は?
 参考文献

 初詣は夜通し氏神様に祈願する「年籠り」が起源!
 初詣の起源は平安時代からある「年籠り」といわれています。(※)
 年籠りとは、大晦日の夜から元旦の朝にかけて、家長たちが氏神様を祀った神社に泊まり込み、夜通し五穀豊穣や無病息災を祈願する風習でした。
 やがて大晦日にお参りする「除夜詣」と、年が明けてからお参りする「元旦詣」にわかれ、現在ではこの「元旦詣」の風習が色濃く残り、「初詣」と呼ばれるようになりました。
 「元旦詣」は、氏神様にお参りする決まりになっていたそうです。
 では、氏神様とはいったいどのような神様なのでしょうか?
 ※「恵方参り」が起源とされている説もあります。恵方参りについてはお正月豆知識をご覧ください!
 氏神様とは?どうやって調べるの?
 氏神
 氏神様とは、自分の住んでいる土地を守ってくださっている神様のこと。
 そしてその地域で生活をしたり仕事をしたりする人のことを、氏子(うじこ)といいます。
 ただし、氏神様と氏子の関係は昔からの慣例や共同体を基準とする場合が多く、必ずしも近所の神社=氏神神社ではないそうです。
 (もちろん、氏神様ではないから最寄りの神社ではダメ!というわけではありません!ぜひお参りに行ってくださいね。)
 いつも有名神社に初詣に行かれている方も、今年は身近にいらっしゃる氏神様に初詣に行かれてはいかがでしょうか? 混雑も避けられて、意外な穴場とも言えるかもしれません。
◆私の氏神神社はどこ?
 氏神様の神社を調べる方法はいくつかの方法があります。
 前述のとおり近所の神社=氏神神社でないこともありますが、まずは近所にある神社を調べてみましょう。
 ① 地図から自宅周辺の神社を探す
 自宅や職場の近辺に神社があるかどうか、地図で調べてみましょう!
 「こんなところに神社が!?」など新たな発見もあるかもしれません。
 また、各都道府県の神社庁サイトにて、住所やキーワードを入れるだけで調べられる可能性もありますので、一度訪れてみてはいかがでしょうか?
 ② 氏子地域を調べる/教えてもらう
 候補の神社がわかったら、氏子地域を調べましょう。
 神社のサイトに掲載がある場合もありますが、掲載がない場合は神社等へ問い合わせて、氏子地域を教えていただきましょう。
 ※年末年始は混み合う時期ですので、お問い合わせには十分ご注意ください。
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 ウィキペディア
 初詣に集う人々(2019年1月1日)
 初詣・初詣で(はつもうで)とは、年が明けてから初めて神社や寺院などに参拝する行事。一年の感謝を捧げたり、新年の無事と平安を祈願したりする。初参・初参り(はつまいり)ともいう。
 歴史
 元々は「年籠り」(としこもり、としごもり)と言い、家長が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神神社に籠る習慣であった。やがて年籠りは、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」との2つに分かれ、元日詣が今の初詣の原形となった。治承5年に源頼朝が鶴岡若宮に参詣したことが初詣が広まるきっかけになったとの指摘もある。
 江戸時代末期までの元日の社寺参拝としては、氏神神社に参詣したり、居住地から見て恵方にあたる社寺に参詣(恵方詣り)したりといったことが行われた。
 「年籠り」形式を踏まず、単に社寺に「元日詣」を行うだけの初詣が習慣化したのはそれほど古い時代ではなく明治中期のことで当時の鉄道会社が神社とキャンペーンをして遠方の有名神社へ初詣する風習を作り出したとされている。また、氏神恵方とは関係なく、有名な社寺に参詣することが一般的になった。俳句で「初詣」が季語として歳時記に採用されたのは明治末期であり、実際に「初詣」を詠んだ俳句が登場するのは大正時代以降であるという。
 また現在でも、除夜に一度氏神に参拝して一旦家に帰り、元旦になって再び参拝するという地方がある。これを二年参りという。
 近代以後の変容:恵方詣りから初詣へ
 江戸時代までは元日の恵方詣りのほか、正月月末にかけて信仰対象の初縁日(初卯・初巳・初大師など)に参詣することも盛んであった[2]。研究者の平山昇は、恵方・縁日にこだわらない新しい正月参詣の形である「初詣」が、鉄道の発展と関わりながら明治時代中期に成立したとしている。
 関東では、1872年(明治5年)の東海道線開通により、従来から信仰のあった川崎大師などへのアクセスが容易になった。それまでの東京(江戸)市民の正月参詣は市内に限られていたが、郊外の有名社寺が正月の恵方詣りの対象とみなされるようになった。また、郊外への正月参詣は行楽も兼ねて行われた。平山によれば「初詣」という言葉は、それまでの恵方詣りとも縁日(21日の初大師)とも関係のない川崎大師への正月参詣を指すのに登場したといい、1885年(明治18年)の『万朝報』記事を初出と紹介している[8]。鉄道網の発達に伴い、成田山新勝寺など郊外・遠方の社寺にもアクセスは容易となり、また京成電鉄京浜急行電鉄、成田鉄道(現・JR成田線)など、参拝客輸送を目的として開業された鉄道会社も登場した。競合する鉄道会社間(国鉄を含む)では正月の参詣客を誘引するために宣伝合戦とサービス競争が行われた。当初は鉄道による有名社寺への「恵方詣り」の利便性が押し出されたが[9]、年ごとに変わる恵方に対して「初詣」という言葉がよく使われるようになり、大正時代以後は「初詣」が主に使用されるようになった。
 関西では、もともと恵方詣りは元日よりも節分に盛んに行われていた。鉄道会社の集客競争の中で正月参詣にも恵方が持ち込まれるようになり、関西の人々は節分のほかに元日にも恵方詣りを行うようになった。しかしながら、鉄道会社が熾烈な競争の中で自社沿線の神社仏閣をめいめいに恵方であると宣伝し始めたため、やがて恵方の意味は埋没した。大正末期以降、関西では方角にこだわらない「初詣」が正月行事の代表として定着した。
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🏞83)─1・B─「重力」「遠心力」「真空」などの用語を生み出した江戸の天才通訳。本木良永と志筑忠雄。~No.342 

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 江戸時代の日本人は、現代の日本人より劣っていたはウソで、幾つかの点では現代の日本人よりも優れている所があった。
 つまり、江戸時代の日本人は現代の日本人に負けてはいなかった。
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 本木 良永(もとき よしなが/りょうえい、享保20年6月11日(1735年7月30日) - 寛政7年7月17日(1794年8月12日))は、江戸時代のオランダ通詞。通称は栄之進、仁太夫、字は士清、号は蘭皐。
 オランダから輸入されたさまざまな洋書を翻訳し、西洋の自然科学などの知識を日本に持ち込んだ。オランダ語で書かれた天文書にあるニコラウス・コペルニクスの地動説を翻訳、訳書『和蘭地球図説』や『天地二球用法』において日本に紹介した。また1792年の『太陽窮理了解説』では初めて「惑星」という用語を用いた。 1793年の『星術本原太陽太陽窮理了解新制天地二球用法記』の中で、なぜ惑星と和訳したかを次のように述べている。
 {オランダ人がこの天体を惑星と名付けたわけは、この星ここに在るかと見ればかの所に在り、天文学者その位置の計算に迷い惑えるによりて惑星と命名
—本木良永、『星術本原太陽太陽窮理了解新制天地二球用法記』}
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 志筑 忠雄(しづき ただお、宝暦10年(1760年) - 文化3年7月3日(1806年8月16日))は、江戸時代長崎の蘭学者、阿蘭陀稽古通詞(のち辞職)。
 人物・生涯
 天文・物理、オランダ語文法、地理誌・海外事情といった分野を中心に、蘭書を底本とした各種和訳書を成した。
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 2022年5月22日 MicrosoftNews 集英社オンライン「「重力」「遠心力」「真空」などの用語を生み出した江戸の天才通訳を知っているか
 今やノーベル物理学賞を得るに至った日本の天文学。そのルーツは古く、江戸期の天才たちにまでさかのぼる。しかし、彼らの存在は広く知られているとは言い難い――。現代日本を代表する宇宙物理学者の池内了氏の著書『江戸の宇宙論』(集英社新書)では、日本の天文学に多大なる功績を残しながらも、歴史に埋もれてしまった江戸時代後期の在野研究者たちの活躍をたどっている。本記事では、その中で「重力」「遠心力」「真空」など現在も残る物理学用語を数多く生み出した翻訳の達人・志筑忠雄について、同書から一部抜粋、再構成して紹介する。
 「わが国物理学の祖」という評価
 蘭学研究者の杉本つとむ氏の著作に『長崎通詞』がある。
 蘭語の通訳である長崎通詞の起こりから、蘭語の学習法、優れた通詞(阿蘭陀学者)、紅毛学・博言学の達人、語学教育への献身などの項目に分けて、長崎通詞に関連する諸々の事柄がコンパクトにまとめられている。
 何人もの有能な長崎通詞の名前が出てくるが、特に本木良永と志筑忠雄(通詞を辞めてから中野柳圃と名乗る)については、その仕事と人となりが詳しく書かれており、杉本氏が強く惹かれた人物であることが窺われる。
 同氏は地動説を紹介した本木を「日本のコペルニクス」、ニュートン力学を理解して日本に持ち込んだ志筑を「わが国物理学の祖」と、特別な形容で呼んでおられる。彼ら二人が日本に近代科学のエッセンスを紹介した最初の人物として重要な役割を果たしたことへの最大級の賛辞と言えよう。
 長崎通詞は西洋の最先端の科学に日本で最初に接することができる有利さはあるものの、それが本当に重要かどうかを嗅ぎ当てる嗅覚を備えていなければ、ただの通訳で終わってしまう。この二人は、杉本氏の特別な呼称通りの仕事を残したのだが、彼らは科学のセンスだけではなく、日本語についての特別な才能も有していた。
 翻訳作業においては、専門用語を新たに発明するとともに、日本にはない概念を明確に表現することが求められたからだ。彼ら二人の才能と努力を高く評価すべきであろう。
 日本にはない概念に多くの新用語を与えた
 志筑が残した著作物としては、オランダ語の研究書が10種、世界地理・歴史関係書が6種、 天文学・物理学・数学関係の研究書が21種と分類されている(烏井裕美子「志筑忠雄の生涯と業績」、『蘭学のフロンティア 志筑忠雄の世界』所収)。失われた文献もあるようだが、これを見るだけでも彼が文系・理系の両分野に長けていたことがわかる。
 ただ生前に出版されたものはなく、彼の仕事はもっぱら写本を通じて蘭学仲間に知られたのである。言っておくべきことは、志筑は翻訳では、達者な語学の知識を基礎にしてしっかり中身を把握しているとともに、「忠雄曰く」とか「忠雄案ずるに」と注釈して、自分の意見や考えを、時には本文以上の長さで付け加えて理解の筋道を示していることだ。
 志筑は蘭語蘭学の「第一人者」であるとともに、翻訳書であっても研究的態度・批判的観点を貫いて自分の意見を述べることを躊躇しなかったのである。
 志筑忠雄は文理双方に詳しかったのだが、精力を傾けて取り組んだのが理系分野の著作であったことは確かである。本書に関連するのは、オックスフォード大学教授のジョン・ケールが書いたニュートン力学の教科書、『天文学・物理学入門』のオランダ語訳(1741年刊)を翻訳した『暦象新書』である。
 志筑は、ケプラーの法則ニュートンの運動の3法則と万有引力の法則を数学的に理解した上で、引力・求心力・遠心力・重力・分子など多くの物理用語を生み出した。「真空」を近代科学用語として使い始めたのも志筑であった。
 このように、彼は西洋で使われていて日本(あるいは中国を含め東洋)にはない概念や抽象名詞について、新用語を数多く案出して日本語(のみならず、科学の内容や科学思想)を豊かにしたのである。
 また、先に述べたように、ケールの著作が明示的でなく簡単に理解できない部分については、「忠雄曰く」として、自分の考えや解釈を述べて補っており、翻訳というより志筑忠雄のオリジナルな著作と言ってよい部分が多くある。彼の業績は今やほとんど忘れ去られているが、少なくとも日本で最初にニュートン力学を受容し紹介したという点は記憶されるべきで、日本の物理学史の重要人物なのである。
 江戸時代に世界水準の宇宙観を提示していた
 彼は天動説・地動説という言葉を発明した。
 西洋では地球・太陽のいずれが宇宙の中心にあるかに着目して、それぞれを地球中心説太陽中心説と呼んでいた。空間の唯一の点である中心を地球あるいは太陽のいずれが占めるかを示すのだから、絶対的な視点からの呼称である。
 これに対し、志筑の天動説・地動説という呼称では、どちらが動いているかを表しているだけだから、優劣がつかない相対的な視点と言っていいだろう。一神教の西洋では、中心を占めて動かない絶対神の位置を重視するのに対し、絶対的な神を持たず八百万の神が遍在する東洋では、どちらが動いているかに着目していると言えようか。西洋と東洋の視点の差異として興味深い。
 後に述べるように、よく読めば志筑は地動説に旗を上げているのだが、それでは幕府や当時の人々の常識である儒教思想に基づく天動説に歯向かうことになるので、トーンを弱めて曖昧な表現に終始している。「此にて動とすれば彼にては静とし、此にて静とすれば彼にては動とす」というふうに、地球と太陽の座標変換の問題に過ぎないのだから、天動・地動の是非は論じられないとしたのである。
 太陽系のみに限定して見る限りでは天動・地動のいずれでも同等であるのだが、さらに大きな宇宙の場で考えると地動説が正しい。宇宙全体を俯瞰すれば、不動の恒星が点々と宇宙空間に散らばり、その周辺を惑星が回っているという描像、つまり地動説の立場にならざるを得ないからだ。そのことを知りながら志筑はあえて述べなかったのであろうが、やはりより大きな観点からの議論を展開して欲しかったとは思う。
 一方で、『暦象新書』の最後(下編巻之下)に所載されている「混沌分判図説」が面白い。これはケールの原本にはないもので、志筑忠雄のオリジナルな所論がそのまま提示されている。
 宇宙の構造は永遠のものではなく、始まりがあり、時間とともに形が変化していくという見地から、具体的には、何ら実体がない「混沌」の状態から、恒星や惑星や衛星や隕石など諸々の天体に「分判」する(分かれていく、分裂する)過程の試論を提示しているのだ。いわば天体進化論・宇宙の構造形成論の試みと言える。
 志筑の「混沌分判図説」で解説されている宇宙の形成過程のイメージ図© 集英社オンライン 提供 志筑の「混沌分判図説」で解説されている宇宙の形成過程のイメージ図
この課題は、まさに現在の宇宙論で議論している、ビッグバン後の宇宙における銀河や初代の星形成の問題と基本的に同じである。志筑は太陽系の形成の問題を純粋な力学概念だけで説明しようとしたと言ってよいだろう。
 これは生成・進化する宇宙観を提示しようとしたという意味で、カント・ラプラスに匹敵する先進的な業績と言える。
 というのは、カントの星雲説(太陽系を作った星雲は、初めはゆっくり回転するガスの塊なのだが、収縮するとともに回転を速めつつ、中心の太陽と周囲の惑星を形成していく過程を論じた世界最初の太陽系形成のモデル)は1755年、それをより精密にしたラプラスのモデルが1796年であるのに対して、志筑が太陽系形成論に関する「混沌分判図説」を構想したのは1793年のようで、ラプラスより早いのである。しかも完全に独立した独自のアイデアに基づいているからだ。
 むろん、志筑のニュートン力学全般の把握には限界があり(例えば、角運動量保存則を知らなかった)、カント・ラプラス説に比べれば不十分なところが見受けられるが、科学的土壌が希薄な日本であるにもかかわらず、ここまで考察を深めた内容を提示できたことは称賛に値するのではないだろうか。
 写真/shutterstock 図版制作/MOTHER
 江戸の宇宙論
 池内 了
 © 集英社オンライン 提供
 2022年3月17日発売
 1,034円(税込)
 新書判/320ページ
 ISBN:
 978-4-08-721206-8
 19世紀初頭、実は日本の天文学は驚くべき水準に達していた――。
 知られざる「天才」たちの活躍を通して、江戸の科学史の側面を描いた画期的一冊!
 今日ではノーベル物理学賞を獲得する水準に至った日本の天文学研究。
 そのルーツを辿ると、江戸時代後期の「天才たち」の功績にまで遡る。
 「重力」「遠心力」「真空」など現在でも残る数多の用語を生み出した翻訳の達人・志筑忠雄。
 「無限の広がりを持つ宇宙」の姿を想像し、宇宙人の存在さえ予言した豪商の番頭・山片蟠桃。そして超一流の絵師でありながら天文学にも熱中し、人々に地動説などを紹介した司馬江漢。彼らはそれぞれ長崎通詞(オランダ語の通訳者)・豪商の番頭・画家という本業を持ちつつ、好奇心の赴くままに宇宙に思いを馳せたのであった。
 本書は現代日本を代表する宇宙物理学者が、江戸時代後期を生きた知られざる天才たちとその周辺人物らによる破天荒な活躍を負いつつ、日本の天文学のルーツに迫った驚きの科学史である。」
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