🌏41)─5・B─対露防衛戦目的の北海道開拓を犯罪行為として否定し消し去る日本人とアイヌ人達。〜No.134 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 弱小国日本は、超大国ロシアとの絶望戦争で生き残る為に、境界線・中間地点で生活していたアイヌ人を犠牲にした。
   ・   ・   ・   
 過去を正しく評価しない者や昔を素直に理解しない者には、未来はないし将来はない。
   ・   ・   ・   
 2022年6月5日・12日号 サンデー毎日牧太郎の青い空白い雲
 日本ハムの『北海道は、開拓者の大地だ。』は間違っているのか?
 前回、『知床観光船の悲劇』に関連して、」
 〈『アイヌ文化』と『開拓を夢見た本土文化』が混ざり合った北海道の歴史は150年余。いま道民は『札幌一極集中の始まり』に右往左往している〉
 と書いたら、物書き仲間の友人から『北海道ものを書く時は気をつけないとヤバいぞ』と言われた。
 彼の念頭にあったのは多分、北海道日本ハムファイターズの巨大広告の話だろう。
 2015年11月、北海道・新千歳空港に張り出された日本ハムファイターズの巨大広告『北海道は、開拓者の大地だ。』にアイヌ協会などが『遺憾だ!』と抗議した騒ぎだろう。あの時、球団は『配慮に欠けたことはお詫びすべきとの理由から可及的速やかに取り下げる判断に至りました』と巨大広告を撤去した。
 確かに、長い歴史の中でアイヌ人が差別されたことは事実だ。
 国会審議でも『我が国が近代化する過程において、多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を、私たちは厳粛に受け止めなければならない』などと決議している。
 だからといって『北海道は、開拓者の大地だ』が歴史誤認で、アイヌの人々を傷つける表現とは思わない。
 前回、たび重なる水害に苦しんだ『福井県大野郡』の人々が日本海を渡り、北海道の大地に足を踏み入れて未開の地を開拓し、その中心地に『幸福』という名の駅ができた!と書いたが、明治以降、我々の祖先は汗と涙で原野を開拓して豊かな北海道を築いた。
 僕の父方の祖父・小林幸三郎、祖母・小林古めの夫婦は、故郷の石川県鳳至(ふげし)郡島崎村(現・穴水町)を捨て、北海道に渡っている。我々祖先にとって、北海道は間違いなく『開拓者の大地』なのだ。
 ごく普通に考えて、我々の祖先は少数だったが、アイヌの人々と、時に敵対し、時に協力して生き続けた。事実、江戸時代の松前藩の資料には、アイヌとの『付き合い』が克明に記録されている。
 もう一度、我々は『土地の歴史』を学ぶ必要があるのではないか。
 というのも、ロシアの中道左派の野党『公正ロシア』のミロノフ党首が『日本はロシアに対して、繰り返しクリル諸島北方領土と千島列島)に関する主張を繰り返してきたが、一部の専門家によると、北海道の全権はロシアにあるという』『現時点でもモスクワではこの話題は提起されていないが、東京の対決路線がどこに向かい、ロシアがどう対応しなければならないかは不透明だ』などと〝脅し文句〟を用意しているからだ。
 ロシアが、『北海道はアイヌ人と我々のもの』なんて言い出すと面倒ではないか?」
   ・   ・   ・   
 5月24日 MicrosoftNews 朝日新聞デジタル「「北方四島をロシア名に」 元ロシア副首相、軍艦名などへの変更提案
 © 朝日新聞社 ロシアの宇宙機ロスコスモスのロゴジン総裁=ロイター
 ロシアの宇宙機ロスコスモス総裁で元ロシア副首相のロゴジン氏が23日、北方四島の名称を、日露戦争で戦ったロシア軍艦の名称などのロシア名に変更することを提案した。国内のラジオ番組で発言した。
 北方四島はロシアでも日本での名称と同様に呼ばれている。ロゴジン氏はラジオで「これらの島々はロシアに帰属しているにもかかわらず、なぜロシアの名前がついていないのか」と異議を唱え、日露戦争で戦ったロシアの巡洋艦ワリャーグ」や砲艦「コレーツ」といった名称に変えることを提案した。
 北方四島の地位について、ロシアは第2次大戦の結果旧ソ連の領土になったとする立場だ。ロシアのネットメディア「サハリン・インフォ」はロゴジン氏の発言について「改名の実現性は現時点で定かではない」とした上で、「影響力のある人物の力を借りて反応を見極めるのはロシア政府のよくやる手段である一方、ロゴジン氏個人の意見である可能性もある」と指摘した。
 ロゴジン氏は副首相時代の2015年、日本政府が当時のメドベージェフ首相による択捉島訪問に反発したことを受け、ツイッターに「彼らが本物の男であるならば、伝統に従いハラキリをして落ち着くべきだ」と投稿して物議を醸した。(根本晃)」
   ・   ・   ・   
 論座 > 文化・エンタメ > 記事一覧 > 記事
 文化・エンタメ 「北海道150年」事業への疑問
 北海道開拓150年、和人がアイヌに加えた非道
 杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)
 2018年08月01日
 アイヌ|北海道150年
 「北海道150年事業」のロゴマーク =北海道提供
 「北海道150年」の本質は「北海道開拓150年」である
 今年は、アイヌモシリ(アイヌの静かな大地)に「開拓使」が置かれ、アイヌモシリが「北海道」と名づけられてから、150年目である。そのため北海道ではこれを意識した「北海道150年事業」が行われ、8月5日には、大規模な記念式典が札幌で開かれる予定である。
 道外に住む人は、安倍政権が推進する「明治150年」(正確には「明治150周年」)に意識が向いていると思うが、ぜひ北海道に関心をよせていただきたい。「北海道150年」を考えることは、「明治150年」の最重要側面の一つである内国植民地化を考えることである。
 北海道150年事業の「テーマ」の第一は「北海道151年目の新たな一歩を踏み出す」であり、「基本姿勢」の第一は「未来志向」である。いずれも結構。だが未来志向は、体よく過去を忘れるための魔法の言葉であってはならない。未来に向けて新たな一歩を踏み出すために重要なのは、過去を見つめることである。見つめるべき過去もいろいろあろうが、「北海道」にとってその筆頭におかれるべきは、先住民アイヌに関わる過去である。『北海道150年事業 事業計画』を見るかぎり、この点での配慮の足りなさが気になる。
 事業にはアイヌに関わる企画も含まれる。だが私は、この事業は全体として無神経すぎないかと感じる。いかに北海道の「命名」(今回はこれが強調されている)および実質的な命名者である幕末の探検家・松浦武四郎を前面に出そうと、「北海道150年」の本質は――100年前の「北海道開拓50年」、50年前の「北海道開拓100年」と同様に――、結局は「北海道開拓150年」だからである。
 アイヌモシリには人が暮らしていた。なのに、そこを「無主の地」と見なし、一方的に北海道と名づけ、アイヌになんの相談もないまま「開拓」に乗り出した150年前の歴史の意味を、深刻に考えてみるべきであった。そうしさえすれば、今回のようなお祭り気分に満ちた計画は立てられなかったであろう。
 なるほどこの四半世紀の、「先住民」をめぐる世界および国内での動きをふまえれば、道庁の姿勢は決して「開拓」に偏したものとは思わない。だが、どういう形で2018年を祝おうと、その底流に北海道開拓という事実があり(「開拓」とは、土地に生きる人々への配慮と無縁なのがふつうである)、だから「北海道150年」は、北海道開拓を歴史的に評価した上での事業でしかないことは、明らかであろう。
 以下、おのずとアイヌに論及する。各種報告書類は、これまで「アイヌ」に付された差別的な意味をふまえて「アイヌの人びと」と記すが、ここではその本来の語義、すなわち「人間」、しかも「誇りある人間」(新谷行『アイヌ民族抵抗史――アイヌ共和国への胎動』三一新書、1972年、56頁)を踏まえて、なんの付加語もつけずにそのまま「アイヌ」と記す。
 「民族共生象徴空間」整備でよいのか?
 長年、日本政府はアイヌを先住民であると決して認めてこなかった。
 1991年、国連による国際先住民年(1993年)への準備の過程で、政府関係者がそれを消極的に認めた事実はあるというが(公益社団法人北海道アイヌ協会アイヌ民族の概説――北海道アイヌ協会活動を含め』改訂版、2017年、5頁; 以下『概説』と略記)、やはり2007年の「先住民族の権利に関する国連宣言」(以下「先住民族の権利宣言」)が決定的なきっかけとなり、翌2008年、衆参両院において「アイヌ民族先住民族とすることを求める決議」がなされ、これを下に日本政府もそれまでの姿勢を改めるようになった。
 そうした姿勢の下に行われてきたアイヌに関する各種事業(後述)は、ひとまずそれ自体として評価してよいだろう。アイヌに対する「和人」(ヤマト民族)の見方に与えた影響も、小さくなかった。
 だが今、「北海道(命名)150年」を祝い、東京オリンピックパラリンピックにあわせ急ごしらえで、政府主導で行われている「民族共生象徴空間」の開設――有力なアイヌコタン(集落)があった、苫小牧に近い白老(しらおい)の広大な敷地にいまこれを建設中であるが、
 ・・・ログインして読む
(残り:約2796文字/本文:約4526文字)
   ・   ・   ・   
 財界さっぽろ
 社長ブログ
 北海道開拓の先覚者達(81)~アイヌ民族―6
 2016/11/01(火)

 梅毒などの性病は17世紀後半から蝦夷地で発生している。この時期はシャクシャインの戦い(1669年)と重なっており、戦いに敗れたアイヌに対する和人のさらなる弾圧が始まった時期でもある。18世紀中盤ごろから、河口でアイヌを使役した魚肥(しめかす)生産が始まる。1773年に飛騨屋久兵衛がアッケシ・キリタップ・クナシリの場所を請け負うと、アイヌへの酷使は悲惨を極めた。男性は安い賃金で強制的に酷使され、過労で病気に対する抵抗力が極度に衰えていった。一方で女性は番人たちに辱めを受け、性病を移された。これにより、各種伝染病はさらに広がっていくことになる。
 明治に入り、開拓使が北海道を統括するようになってからも、アイヌと伝染病との関係は心を痛める哀しい歴史が続く。
 1875(明治8)年に締結された「樺太・千島交換条約」は、樺太アイヌに塗炭の苦しみを与えた。この条約は日本が樺太から全面的に撤退し、ロシアが千島から退くという内容。当時樺太には約2400人のアイヌが住んでおり、ロシア国籍を得るか日本に移住し日本国籍を持つか、判断を迫られた。日本政府はこの樺太アイヌの人々を日本に移住させることにした。
 同年9月、108戸841人が北海道に移住し、宗谷に住み着いた。翌年、開拓使は彼らを農業開拓に従事させるべく、石狩の対雁(ツイシカリ・今の江別)に強制移住させる。当時の対雁はあまりの自然環境の厳しさに東北(仙台)からの移住者も逃げ出したという場所だ。漁労で生きてきた樺太アイヌの人々が、無理矢理連れてこられ慣れぬ農耕を強いられることとなった。その困窮はいかばかりだったことだろう。さらに、強制移住後の1876年には大洪水、1879年にはコレラが流行。30人の死者を出した。1886年には対雁から石狩川河口へ再度移住させられたが、再びコレラ天然痘が流行し、翌年には370人が病死。移住した841人のうち、400人以上がわずか7年で亡くなったのだ。
 1905年、日露戦争後のポーツマス条約で樺太の南半分が日本の領土となり、樺太アイヌは故郷に戻ったが、生き残って帰郷できた人はわずかだった。
 明治政府は北海道の開拓にアイヌの力が必要であるとし、農地を付与したりしたが、その方針はあくまでも「同化政策」であり、畑作に専念させ、従来のアイヌの狩猟を中心とした生活と文化を葬り去ることだった。1878年開拓使は戸籍上のアイヌ呼称を「旧土人」という差別的表現に統一し、子供達は「旧土人学校」で学ぶことを義務付けられた。
 一方、アイヌの人々が、和人に土地を奪われ差別と迫害に苦しんでいることを知り、その救済と生活改善のために、各地に学校(愛隣学校)を設立したのが、英国人宣教師のジョン・バチェラー博士だ。1890年には幌別町にアイヌ児童教育施設「愛隣学校」を開設し、1892年には函館にも設立した。
 アイヌ民族に関しては本ブログ2013年10月1日号と15日号に詳細を記しているが、明治以降、先住民族(実際に認められたのは2008年の「アイヌ民族先住民族とする国会決議」)であるアイヌを救済・保護する活動をおこなったのが、日本政府ではなくイギリスのキリスト教宣教師であったことに、何か言い表しがたい思いを抱く。
 2013年6月1日から約2年半、81回にわたって「北海道開拓の先覚者達」を連載してきました。ここで一旦本編は筆を置きます。次回からは総集編をお届けしながら、次のテーマにも取り組んでいきたいと思います。もうしばしお付き合いください。
   ・   ・   ・   
 日本共産党の政策
 各分野の政策(2021年)
 70、アイヌ民族(2021総選挙/各分野政策)
 ➡2021総選挙 分野別政策一覧
 70、アイヌ民族
 先住民族としてのアイヌの権利を守ります
 2021年10月
 アイヌ民族は、北海道を中心とする日本の先住民族であるにもかかわらず、明治期以降の国の同化政策によって、土地や資源、文化や言語、民族の権利や尊厳を奪われ、今なお差別や偏見の中、生活環境や進学において格差に苦しんでいます。
 2007年に国連総会で「先住民族の権利に関する国際宣言」が決議され、翌年に衆参の両院で「アイヌ民族先住民族とする国会決議」が全会一致で採択されました。この国会決議を受けて日本政府も「政府として先住民族として考えている」(町村官房長官談話)と表明しました。アイヌ自身の粘り強い運動が政府の態度を変えるまでに至り、2009年には政府の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」がアイヌの生活向上と権利を回復するための新法制定を求める報告書を提出しました。
 それから10年を経て、2019年4月に、「アイヌ先住民族」と規定したアイヌ新法が成立しました。同法は、「民族の誇りを持って生活できる環境整備」や、差別や権利利益の侵害の禁止を明記していますが、生活の実態は深刻であり、貧困の連鎖も、差別も解消されていません。
――新法も力に、アイヌ民族の生活向上と権利保障をすすめます。
――同化政策をはじめ民族の権利を侵害してきたことに対して、国として謝罪し、そのことを国民に周知することを求めます。
 明治期よりアイヌ人墓地から研究目的と称して遺骨が持ち出され、今なお1000体以上が返還されていません。これはアイヌ民族に対する差別的処遇の象徴です。アイヌ遺骨は受け入れ先との協議のうえ、元の地に戻すことを基本に、返還作業を進めます。
 アイヌ民族の権利や歴史を正しく教えることにより、アイヌ民族の存在や歴史について正しい理解を広げ、奪われた先住民としての権利や、民族としての尊厳を回復できるよう、教育をはじめあらゆる施策を強めます。
 2016年制定の「ヘイトスピーチ解消法」を実りあるものにする努力も強めます。
 国として緊急に、文化・歴史の保護・伝承と合わせて古老・高齢者の生活保障、アイヌ女性が気軽に相談できる窓口の拡充、誰もが受けられる給付制奨学金の創設などの実施を求めます。
 次の、日本共産党北海道委員会の政策のうち、「3-4 アイヌ民族の先住権の回復を目指し、同化政策に対する公式の謝罪を行います」をご参照ください。
   ・   ・   ・   
 明治日本は弱小国であった為に、世界的植民地大帝国ロシアの侵略から日本を防衛するべく北海道の開拓を急ぎ、大苦戦するであろうロシアとの戦争に勝利する為に国民でもアイヌ人でも犠牲にした。
   ・   ・   ・   
 日本の北海道開拓は、アメリカの西部開拓やロシアのシベリア開拓とは違い、平和開拓ではなく軍事開拓として北海道全土を軍事要塞化する事であった。
 つまり、生きるか死ぬかの対ロシア戦の為の軍国主義政策の一環であった。
   ・   ・   ・   
2018-05-28
🎵16:─1─日本は、ロシアの侵略に備えて、蝦夷地を北海道と改名し、アイヌ人を日本人とした。~No.31 @ 
2019-01-17
🎵29:─1─囚人道路建設は後の泰緬鉄道敷設に似ている。鎖塚。網走監獄。網走刑務所。~No.68No.69No.70 @ 
   ・   ・   ・  
 ウィキペディア
 囚人道路とは、明治20年代ごろの北海道各地において、囚人たちの労働力によって建設された道路の俗称である。
  ・  ・  
 鎖塚(くさりづか)は、北海道で行われた苛酷な囚人労働を物語る史跡である。
  ・  ・  
 屯田兵は、明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士とその部隊である。1874年(明治7年)に制度が設けられ、翌年から実施、1904年(明治37年)に廃止された。
 前期屯田の進展
 初期の屯田兵募集は身分上募集が制限されていた。身分や年齢の制限を満たすための便法として養子縁組を行なうものを屯田養子といったが、募集当局に平民を拒む意思はなかったので、身分制限から問題が起きることはなかった。後に原則が取り払われると、新兵の身分比はほぼ人口中の身分比に等しくなった。よって、前期と後期で屯田兵の時代区分をすることがある。
   ・   ・   ・   
 囚人街道・囚人の道・囚人道路。
   ・   ・   ・   
 屯田兵とは、対ロシア戦における北海道防衛の農民開拓兵士の事で、日露戦争に勝利して千島列島に続いて南樺太を新たな防衛陣地として軍隊を駐留させた為に北海道の戦略的重要性が薄れて非近代的な屯田兵制は廃止された。
 が、アイヌ人は依然としてロシアに味方する危険性があるとして監視の対象とされた。
   ・   ・   ・   
 中国共産党は、尖閣諸島・沖縄、沖ノ鳥島そして北海道を狙っている。
 事実として、中国資本は北海道の土地を買い漁っている。
   ・   ・   ・   
 アイヌ人独立派や反天皇反民族反日本的日本人は、北海道をアイヌ自治区として日本から切り離そうと画策している。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、日本国・日本人には、祖国防衛の為に、北海道とアイヌ人に対して言い尽くせないほどの感謝しきれないほどの恩義がある。
   ・   ・   ・   
 日本の北海道開拓とアメリカの西部開拓・ロシアのシベリア開拓とは意味が全然違う。
 蝦夷地・北方領土は、ロシアの侵略から日本を守る最前線の軍事拠点であり、その為に開拓は平和未開地開拓ではなく軍事戦略開拓であった。
 よって、日本の近代化とは敵の周辺諸国による侵略から日本を守る為の軍国主義政策の事であった。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がない為に、蝦夷地・北海道そして北方領土4島の歴史が理解できない。
 その傾向は、高学歴な知的エリートや進歩的インテリに多い。
 その証拠が、アイヌ先住民族認定とアイヌ新法成立におけるリベラル派・革新派そして一部の保守派による国会審議、人権派によるメディア報道や学校教育である。
   ・   ・   ・