🕯180)181)─1─モノ供養。物・道具は神であり物の怪・妖怪である。『付喪神絵巻』。〜No.377No.378No.379No.380 

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 供養は、サンスクリット語のプージャーまたはpūjanā(プージャナー)の訳で、仏、菩薩、諸天などに香、華、燈明、飲食などの供物を真心から捧げること。
 日本の民間信仰では、死者・祖先に対する追善供養のことを特に供養ということが多い。これから派生して、仏教と関係なく、死者への弔いという意味で広く供養と呼ぶこともある。また動物等に対する供養、さらには針供養や人形供養のように生き物でない道具等に対する供養もある。
 物品などの供養
 真珠貝供養塔(三重県志摩市
 日本では、生き物でない物品も、単にごみとして廃棄するのでなく、供養の対象とする例がある。使った道具への感謝を表すほか、人を撮影した写真や人に似せた人形、他人との縁を示す手紙や名刺、携帯電話、故人の思い入れがある遺品の整理時などが対象になる。仏式の供養のほか、神社でお焚き上げされる場合もある。また寺社への手続きを代行する企業も登場している。
 物品以外にも炎上したSNSの画像や発信など情報の供養も行われている。
 針供養 - 淡島神社や淡島神を祀る寺院で行われている。
 鋏供養
 鏡供養
 眼鏡供養 - 葛城神社
 写真供養
 表札供養
 仏壇供養 - 仏教においては仏像や位牌などを焼却する儀式は「浄焚式」と呼ばれる[13]
 経典供養
 印章供養
 人形供養 - 淡嶋神社
 茶道具供養 - 茶筅など
 怪獣供養 - 円谷プロダクションでは厄払いとして始まった。
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 付喪神、つくも神とは、日本に伝わる、長い年月を経た道具などに神[要出典]や精霊(霊魂)などが宿ったものである。人をたぶらかすとされた。また、『伊勢物語』の古注釈書である『伊勢物語抄』(冷泉家流伊勢抄)では、『陰陽記』にある説として百年生きた狐狸などが変化したものを「つくもがみ」としている。現代では九十九神と表記されることもある。
 概要
 「つくもがみ」という言葉、ならびに「付喪神」という漢字表記は、室町時代御伽草子系の絵巻物『付喪神絵巻』に見られるものである。それによると、道具は100年という年月を経ると精霊を得てこれに変化することが出来るという。「つくも」とは、「百年に一年たらぬ」と同絵巻の詞書きにあることから「九十九」(つくも)のことであるとされ、『伊勢物語』(第63段)の和歌にみられる老女の白髪をあらわした言葉「つくも髪」を受けて「長い時間(九十九年)」を示していると解釈されている。
 『付喪神絵巻』に記された物語は次のようなものである。器物は百年経つと精霊を宿し付喪神となるため、人々は「煤払い」と称して毎年立春前に古道具を路地に捨てていた。廃棄された器物たちが腹を立てて節分の夜に妖怪となり一揆を起こすが、人間や護法童子に懲らしめられ、最終的には仏教に帰依をする。物語のなかで語られている「百年で妖怪になる」などの表現は厳密に数字として受け止める必要はなく、人間も草木、動物、道具でさえも古くなるにつれて霊性を獲得し、自ら変化する能力を獲得するに至るということを示しているのであろうと解釈できる。
 「つくもがみ」という存在を直接文中に記している文献資料は、『付喪神絵巻』を除くと、『伊勢物語』の古注釈書に「つくも髪」の和歌の関連事項としてその語句の解釈が引かれる以外には確認されておらず、その用例は詳細には伝来していない。『今昔物語集』などの説話集には器物の精をあつかった話が見られたり(巻27「東三条銅精成人形被掘出語」)、おなじく絵巻物である『化物草紙』では、銚子(ちょうし)などが化けた話、かかしが化けた話などが描かれているが、「つくもがみ」といった表現は見られない。江戸時代の草双紙などにもほとんど「付喪神」という表現は使われていない。
 小松和彦は、器物が化けた妖怪の総称としての「つくも神」は中世に最も流布したものであり、近世には衰退した観念であった。幕末になり浮世絵の題材として器物の妖怪は再浮上したものの、それは「つくも神」の背景にあった信仰とは切り離された表現だった、と考察している。
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 『付喪神絵巻』(つくもがみえまき)は、日本に伝わる絵巻物。付喪神記、付喪神付喪神絵、付喪神絵詞(つくもがみえことば)、付喪神縁起絵巻、非情成仏絵巻(ひじょうじょうぶつ えまき)などの題でも呼ばれている。崇福寺岐阜県岐阜市)などに所蔵されており、いくつかの伝本が確認されている。多くは上下2巻の構成となっている。
 内容は、康保のころ(964年-968年)年末の煤払(すすはらい)の日に捨てられた古い道具たちがつくもがみ(付喪神)となって人間を襲い享楽を尽くすが、護法童子や尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)、如法尊勝大法といった密教の法力によって調伏されてしまい、悪行への反省から出家して真言宗をまなび、深山で修行したのちに成仏するという物語作品である。
 成立
 室町時代に成立した物語であると考えられており、現存作品のうち最古とみられる崇福寺に所蔵されている絵巻物は、16世紀のものである。崇福寺本は内題に『非情成仏絵』とあるが、物語冒頭にある「付喪神」についての文から『付喪神絵巻』と一般に呼ばれる。
 三条西実隆の日記『実隆公記』の文明17年(1485年)9月10日の記事に「於御学問所付喪(裳)神絵上下拝見」とあることから、それ以前(15世紀)にも存在していたと考えられているが、現在確認されている絵巻物と同一内容であるかははっきりしていない。寛文6年(1666年)に頼業という人物が写しとったという奥書きのある原本の「摸本」も複数確認されている(国立国会図書館京都大学附属図書館所蔵本など)。これらは図の構成や描写などが崇福寺のものとは異なっており成立過程は異なると見られている。
 付喪神
 日本において、古い道具が変化したものを広義につくもがみ(付喪神)と呼ぶのは、この絵巻物の冒頭にある「陰陽雑記云、器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑す、これを付喪神と号すといへり」という詞書きによるものである。しかし『陰陽雑記』という書籍は確認されておらずその正確な出典および字義は不明である。
 付喪神という表記が出て来るのはその冒頭のみで、詞書き中では「妖物」「妖物ども」「化生のもの」「器物の妖変」などの呼称のみが使われている。また、それらの姿は「男女老少の姿」(人間のかたち)「魑魅悪鬼の相」(鬼のかたち)「狐狼野干の形」(動物のかたち)などをとっていると表現されている。
 非情成仏
 道具たち(非情物)は深山での修行の結果、因徳本生王如来・長寿大仙王如来・妙色自在王如来・法界体性王如来という名で成仏する。
 この物語の主眼は真言宗の説く「草木非情 発心修行 成仏」(命あるものが発心修行して成仏できるのであれば、どうして山河草木瓦石瓶盆など命のない物にそれができないといえるだろうか)という教えを示しており、下巻の内容は特に仏法的なものでほぼ占められている。本文中に「吾宗」(われわれの宗派という意味)という言葉が登場しており、国文学者・平出鏗二郎 などは真言宗の僧侶によって文章が編まれたのではないかとしている。
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 弔いスタイル
 京都の針・櫛・数珠・陶器・茶筅 供養イベント一覧
 2019-05-21
 大切に使っていた物には「付喪神(つくもがみ)」が宿ると信じる日本人の精神を象徴するイベントが、京都では数多く開催されています。
 人に対してだけでなくお世話になった物も供養したいと思うのは、日本人の「弔い」の精神の現れですね。
 今回は、職業や趣味などでお世話になった道具を供養するイベントをご紹介します。
 針供養 
 虚空蔵法輪寺 
 虚空蔵法輪寺(こくうぞうぼさつほうりんじ)は通称「嵯峨の虚空蔵さん」として親しまれています。
 法輪寺での針供養は、皇室で使用された針をご供養せよとの天皇の命により始まったといわれています。
 現在でも毎年12月の針供養の際に、皇室からお預かりした針のご供養をしています。
 針供養当日には、一所懸命働いてくれた針に休んでもらおうという意味を込めて、蒟蒻に使用済みの針を刺して供養します。
 櫛供養
 櫛供養は安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)にて「櫛まつり」の時に開催されており、使い古した櫛やかんざしに感謝を込めて供養するお祭です。
 安井金比羅宮には昭和36年9月に境内北側に久志塚(櫛塚)が建立されました。
 櫛塚には女性の髪の美しさを引き立てる櫛を祀っており、女性の美容美顔美髪にご利益があるとされています。
 櫛まつりは、13時開始の神事と14時開始の時代風俗行列巡行に分かれて行われます。
 数珠供養
 数珠供養は赤山禅院にて11月23日に行われます。
 大阿闍梨*による加持祈祷、珠数のお焚き上げをしお世話になった数珠を供養します。
 *三密:仏教用語。 主として密教でいわれ、身・口(く)・意の三業(さんごう)のこと。手に印を結ぶ身密、
 陶器供養
 陶器供養は千本釈迦堂大報恩寺(だいほうおんじ)にて陶器市の期間中に開催されます。
 本尊釈迦如来の方便化身とする地天尊を迎え、日常の生活に欠かすことのできない「せともの」類を祀り、家内安全や健康増進を祈ります。
 陶器業界発展のための祈願法要も行います。
 茶筅供養
 興聖寺(こうしょうじ)の茶祭りにて、茶筅のお炊き上げを行い、茶の発展に尽くした栄西禅師・明恵上人(みょうえしょうにん)・千利休ら3人の茶祖への感謝を示し、宇治茶の隆盛を祈る行事です。
 筆供養
 筆供養は「筆の寺」と呼ばれる東福寺正覚庵(とうふくじしょうかくあん)にて行われます。
 東福寺正覚庵は、鎌倉時代(1290年)に奥州伊達家4代当主・伊達政依(だて まさより)が開基しました。
 江戸時代には使い古した筆を供養する「筆塚」が築造され、書家 川浪青漣、日本画家 西山翠嶂、日本画家 西山英雄、大形筆塚などの筆塚があります。
 版下供養
 京都広告懇話会*が広告原稿や印刷の元である版下に感謝するため、毎年本能寺で開催しているのが版下供養です。
 現在はデジタル制作が中心のため、広告データの入ったディスクなどを収める方が多いとのことです。
 デザインの下絵や小さい頃に読んでいた絵本なども供養の対象となります。
 古本供養
 古本供養は京都古書研究会が母体となって実施する「秋の古本まつり」の一貫として行われています。
 供養は法要のみ行われ、役目を終えた本は燃やさずに次の読み手に受け継ぐことで供養される仕組みです。
 カード供養・名刺供養
 カード感謝祭
 カード感謝祭は期限切れや使用済みのカードに感謝し、カードによる様々な災いから身を守るお祭です。
 カード型お守り発祥の地である市比賣神社(いちひめじんじゃ)で行われます。
 「ハッピーカード」というカード型のお守りが女性を中心に人気で、境内に「カード塚」が存在します。
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 公益社
 葬儀の公益社トップ 葬儀の知識 きっと役立つ!葬儀の知恵袋 ゴミにするのはしのびない……処分しづらい「物」の供養について
 生前整理や遺品整理を進める中で、数の多さから作業が大変といわれているのが衣服や書籍などです。その一方で、写真や寝具、手帳など、数が少なくても思い出深く、なかなか手放すことができないものもあるでしょう。そのような場合には、「物」を供養するという方法があります。物はどこでどのように供養できるのか、その方法についてお伝えします。
 処分しづらい物は供養されてきた
 生前整理や遺品整理をしていると、中には処分するにはしのびないものが出てくることもあるでしょう。特別な思い出があって捨てにくい、故人が毎日のように使っていたから処分するのがためらわれるなど、ゴミとして処分することに抵抗を感じるようなものです。
 古くから、日本では物に持ち主の思いが宿ると考えられ、物の供養がおこなわれてきました。特に人形は、身代わりに災いを引き受ける役割を持つとされる場合もあり、役目を終えるときには捨てるのではなく、感謝の意味を込めて今も供養され続けています。
 そのほかにも、針供養や包丁供養、着物や帯の供養、くし供養など、さまざまなものが供養されています。近年では、ご縁を感じさせる写真や手紙、名刺などに加えて、パソコンや携帯電話の供養を希望する人が増えつつあるようです。
 処分に悩むものの種類が変わっても、そこにある思いに変わりはありません。捨てるのが難しいと感じるものについては、供養してからの処分を検討しましょう。
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 小さな葬儀
 葬式の事なら「小さなお葬式」 小さなお葬式のコラム 雑学 物にも魂が宿っている?様々な「物」の供養について
 物にも魂が宿っている?様々な「物」の供養について
 様々な物に対する供養があることをご存知でしょうか。
 供養とは仏や菩薩、諸天などに供物を捧げることを指し、仏教で使われている言葉です。例えば人形やぬいぐるみなど、愛着のあるものをそのまま捨てるのはなんだか偲(しの)びないと考える人も多く、神社や祭りごとで供養を行うことがあります。
今回は「物」の供養についてご紹介します。
まとめ
 日本にはこれ以外にも箸供養、はさみ供養、鏡供養、財布供養など様々な供養があり、物を大切に考えていることが分かります。
 神道では「八百万(やおよろず)の神」というように、どこにでも神がいるという考え方があり、物にも魂が宿るという考え方をしますし、それを付喪神(つくもがみ)としてまつることもあります。「物を大事に扱いなさい」と言われてきたのは、日本に古くから続く信仰が根付いているためと言えます。
こういった考え方はとても尊いものですので、感謝の気持ちだけは忘れないようにしていきたいですね。
 株式会社ユニクエス
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 モノ・フラッシュ
 携帯やロボット…もの供養で償い 消費社会に罪悪感
 2018/7/7
 久月が開いた「人形報恩祭」(東京都台東区
 人や生き物ではなくモノを弔う「もの供養」。あらゆるものに魂が宿るという信仰心が背景にあるが、実は広まったのは戦後だ。人形からロボット、メガネ、携帯電話まで。日本特有の事情を探った。
 4月26日、千葉県いすみ市の光福寺の祭壇にソニーの犬型ロボットAIBO(アイボ)約110台がずらりと並んだ。今年で6回目となるアイボの供養だ。これまで千台以上の修理を手掛けてきた元ソニーの技術者、乗松伸幸さんが社長を務めるA・FUN(習志野市)が主催している。
 乗松さんは「修理」ではなく「治療」と言う。「部品としていわば『献体』してくれるオーナーも多い。アイボの魂をオーナーにお返しする儀式」と話す。
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 もの供養で圧倒的に多いのが人形だ。5月19日、東京都台東区の第六天榊神社で久月が開いた「人形報恩祭」。約300体の人形を前に横山久吉郎社長は「人形は家族の災いを背負ってくれる。感謝を込めたい」とあいさつした。
 人形供養は平安の昔からある。しかし大きな行事となってきたのは戦後のこと。久月の供養も7回目だ。それでも毎年1割ずつ供養する人形は増えている。横山久俊専務は「人形を飾らない家庭が増え、役割を終えた人形が多くなっている」と分析する。
 こうした供養は記念日に行うことが多い。ハサミの供養は8月3日の「ハサミの日」。メガネの供養は1001の形に似ていることから「メガネの日」である10月1日。目の神様として知られる葛城神社(徳島県鳴門市)には1998年に「めがね塚」が建立、毎年供養している。
 供養の文化は日本特有だ。日本ケンタッキー・フライド・チキンは74年から毎年「チキン感謝祭」を開く。東は東伏見稲荷神社(東京都西東京市)、西は住吉大社大阪市)だ。今年で45回目と古い。「世界中で展開しているが供養をするのは日本だけ」(広報部)という。
 なぜこうした供養が広がっているのか。背景の1つが高齢化だ。新潟県最古といわれる古刹、国上寺(燕市)では、3年前から郵送で供養を受けている。山田光哲住職は「遺産整理で出てきたものの供養を依頼されることが増えた」と話す。手紙や手作り品、子供が大切にしていたヘルメットを託す母親もいる。
 「みんなのお焚(た)き上げ」という供養代行サービスを昨年から始めたクラウドテン(東京・港)。同社の調査では98.6%の人が「供養したいものがある」と答えた。写真やレコードのほか、携帯電話も増えているという。山盛潤社長は背景に「丁寧に手放す精神だけでなく、ゴミとして捨てた時の罪悪感や『罰が当たりそう』という恐れの気持ちがある」と話す。
 「メリーさんの電話」という都市伝説がある。少女が古くなった人形「メリー」を捨てる。その夜「あたしメリー。今ゴミ捨て場にいるの」と電話が。怖くなって切るが「今駅にいるの」「家の前にいるの」と電話の度に近づいてくる。そして最後。「今あなたの後ろにいるの」――。
 国上寺の山田光哲住職は「本来仏教には罰当たりやたたりという考え方はない」と言う。宗教的な背景というよりはむしろ、戦後の大量消費社会の中で「ものを大切に」という現代的な教訓が、供養を広げた背景にあるようだ。
 「お焚き上げ」という言葉の使い方も、時代とともに変わってきた。
 「元カレをお焚き上げ」。ネットの恋愛相談サイトでは「失恋を克服して新しい恋に進むこと」をこう記す。文章を書く行為を自分を客観視するという意味で「お焚き上げの一歩」と表現する人もいる。供養やお焚き上げは「気持ちの整理をして前を向くための行為」(山田住職)だ。現代的ではあるが、案外適切な使い方なのかもしれない。
 ◇  ◇  ◇
 共生の意味 問いかける
 鎌倉・建長寺の虫塚
 昆虫採集好きで知られる解剖学者の養老孟司さんが建てた「虫塚」が、神奈川県鎌倉市建長寺にある。虫かごに見立てた外観は、建築家で新国立競技場の設計者、隈研吾さんのデザインだ。
 「現代人はおびただしい数の虫を殺してきた。『命は大切だ』とよく言われるが、毎日何万匹の虫を車や電車で無意識にひき殺している。その加害者であることに自覚的であろうと思い、虫塚をつくった」と養老さんは言う。
 日本人の「もの供養」好きは、「ものにも魂が宿る」という考え方に加え、「一緒に生きてきた仲間という意識がある。生き物は共生しないと絶えてしまう」と話す。もの供養は「共生の意味」を問いかけている。
 (大久保潤)
[NIKKEIプラス1 2018年7月7日付]
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 J-CASTニュース
 経済
 携帯電話やプレゼント、軍服... 神社の「もの供養」は人形だけじゃない
 2017年09月09日11時00分
 日本人ならではの宗教観が背景に
 {「月に100件ほどの依頼が寄せられます。人形やぬいぐるみのほかで多いのは、パワーストーンや、亡くなった方の遺品などでしょうか」}
J-CASTニュースの取材にそう語ったのは、結城諏訪神社茨城県結城市)の山川誠人宮司だ。「勝負事の神様」としても知られ、最近では、県内出身の稀勢の里関が参拝に訪れたこともあるとか。
  そんな神社が、「もの供養」を始めたのは「5~6年ほど前から」。元々、多くの神社と同じように「人形供養」を手掛けていたのだが、あるとき知人から、不要になったパワーストーンなどを無碍に捨てられず、困っている人が多い、という話を耳にした。そこで、広く「もの」の供養を受け付けることにすると、全国各地から依頼が舞い込むようになった。
 {「日本人は古くから、大きな木や岩など、自然に神様がいると考えてきました。そこから、『八百万の神』というように、ありとあらゆる物にも魂が宿るという宗教観が生まれたのです」}
 冒頭に挙げたガラケーの例のように、人それぞれ思い入れのある愛用品を、むやみに捨てることができない、というのは、こうした宗教観によるものだと山川宮司は解説する。
 指原莉乃さんのジャージをお焚き上げしたことも
 供養するものは宅配で受け付けており、玉串料(供養料)はサイズに応じて3000~1万円だ。公式サイトでは、供養を受け付けるものの例を以下のように掲載している。
 {「人形、ぬいぐるみ、アルバム、写真、手紙、年賀状、絵画、掛け軸、おもちゃ、ランドセル、服、印鑑、アクセサリー、電化製品、携帯電話、こいのぼり、はく製、盆提 灯、しめ縄、神棚、仏壇、位牌、だるま、お守り、御札、タロットカード、オラクルカード、パワーストーン等のヒーリンググッズ」}
 これだけでも範囲がかなり広いことがわかるが、これ以外でも不要になった愛用品、故人の遺品など、「常識の範囲内」であれば、基本的にはあらゆるものを受け付けている。2016年には「気になるお客サマ」(日本テレビ系)の企画で、HKT48指原莉乃さんのジャージを「お焚き上げ」した。
 {「変わったものもいっぱい来ます。最近では、『旧日本軍の軍服』が送られてきました。理由などは聞いていないので、詳しい事情はわかりませんが......。また、芸能事務所や漫画家の方から、ファンレターやプレゼントをお願いされることもあります」}
 確かにファンレターなどは、いろいろな思いが込められていて簡単には処分できなさそうだ。だからと言って、すべてを保管しておくのも難しいだろうし......。
 これらの「もの」は社殿でお祓いをし、「長年お世話になりました」と祝詞(のりと)をあげる。その上で、燃えるものはそのまま焚き上げ、燃えないものは専門の業者に回収してもらうという。
 ちなみに、筆者のような携帯電話の申し込みも、際立って多いわけではないが「結構ある」そうだ。ボロボロのガラケーを眺めながら、筆者はその「供養」を真剣に考えている。
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🌏10)─7─尊皇ファーストの徳川慶喜が自己犠牲で日本天皇・日本国・日本民族を救った。~No.33 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 弥生時代後半から日本国を動かしているのは、日本天皇と尊皇派・勤王派日本民族であった。
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 第121代孝明天皇 天保2(1931)年7月22日 仁孝天皇の第4皇子として誕生した。。諱は統仁(おさひと)。称号は煕宮(ひろのみや)。
 攘夷派、佐幕派
 弘化3(1846)年3月10日 15歳 践祚、即位。
 嘉永3(1850)年5月19日 「万民安楽、宝祚長久」の祈りを七社七寺に命じた。
 慶応2(1866)年1月30日 36歳で崩御平安神宮祭神。
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 徳川慶喜
 天保8(1837)年9月29日 御三家水戸藩の藩主徳川斉昭の7男として誕生。
 弘化4(1847)年9月  11歳で御三卿のひとつ一橋家を継ぐ。
 安政5(1858)年    22歳。安政の大獄
 文久2(1862)年7月  26歳で将軍後見職に就任。
 慶応2(1866)年7月  30歳で将軍家茂が死去した為に徳川宗家を相続し、12月に第15代将軍に就任した。
 慶応3(1867)年10月 31歳。二条城で大政奉還して徳川幕府を終焉させたが、一大名として徳川家を存続させ、ロシアに対する後攘夷を実行する為に新国家建設、殖産興業・富国強兵・近代教育普及という近代化に邁進する決意を示した。
 慶応4(1868)年1月  32歳。鳥羽伏見の戦い
 明治元年2月           上野寛永寺、次いで水戸、静岡で謹慎生活。
 明治2(1869)年9月  33歳。謹慎解除。
 明治31(1898)年3月 62歳。天皇・皇后に拝謁して「逆賊」の汚名が晴らされた。
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 日本民族は、石器時代縄文時代から農耕漁労を生業とする海洋民で、土地を神聖視し、土地と共に生きてきた。
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 2021年6月18日/25日号 週刊ポスト「大論争 徳川慶喜
 『切れ者』か『臆病者』か
 放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で草薙剛が好演する徳川慶喜。おそらく彼についての一般的な認識は、『徳川15代目、最後の将軍』『大政奉還をした人』の2つではないだろうか。
 もちろんそれは事実で、江戸から明治という難しい時代の転換点の舵取りをした英傑であることは間違いない。
 ただ一方で、実は長らく彼は『臆病者』という誹(そし)りをうけた、評価の分かれる人物だった。
 その背景には、彼の複雑な性格と『天皇』への思いがあった。
 生まれた年に飢饉を背景にして幕府への反乱『大塩平八郎の乱』が発生。数え17歳の年に黒船が来航。徳川慶喜は日本社会が大転換を迎えるそんな『内憂外患』の時代に生まれた。
 彼が育った水戸藩には、『水戸黄門』として知られる第2代藩主・水戸光圀が歴代天皇を記した『大日本史』の編纂を初めて以来『尊皇』の伝統があり、とりわけ高いカリスマ性を持つ父・斉昭は強硬な尊皇攘夷主義者だった。しかも母は有栖川宮家の出で、天皇とも血が繋がる。そのため彼は『生まれながらにして尊皇家であることを運命づけられていた』(歴史学者・家近良樹氏)。
 英邁との評判を聞いた第12代将軍・家慶の意向もあって、数で11歳で一橋徳川家を継ぎ、やがて政治の舞台へ躍り出る。周辺の大きな期待を一身に背負い、激動の時代の舵取りを託されたが、ある事件を境にその評価が一変することとなる。
 鹿島茂
 すべての根源にあった『尊皇』思想
 幕府に愛着も未練もなかった徳川将軍
 日本の近現代史徳川慶喜ほど毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばし、評価の定まらない人物はいない。一見したところ、行動や決断に一貫性がないと思えてしまうからだ。
 たとえば、元々慶喜は水戸学の弟子筋にあたる長州の尊王攘夷派にシンパシーを抱き、主要敵は薩摩と思い定めていた。だから、元治元年(1864年)、長州藩兵が大挙上洛したとき、禁裏御守衛総督(御所を警備する責任者)だった慶喜は、朝廷の会議で『長州が朝敵とならないよう理を尽くして説得し、京から退去させるべきだ』と主張していた。ところが、途中で長州を掃討する方針に転じ、薩摩藩にも協力を求めて御所を死守することにし、長州が市街戦を起こすと見事な指揮で鎮圧した(禁門の変)。
 最大の謎は鳥羽・伏見の戦いにおける行動だ。慶喜の側近中の側近だった渋沢栄一も、25年の歳月をかけて編纂した『徳川慶喜公伝』(大正7年=1918年刊)の序文で次のような疑問を呈している。『大政奉還したのになぜ鳥羽・伏見で戦闘をおこなったのか』『大軍で上洛すれば薩摩軍との戦闘が避けられないことは覚悟していたはずなのに、なぜ大阪から江戸へ軍艦で帰ってしまったのか』。
 こうした謎は『徳川慶喜公伝』を精読すると解ける。結論から言えば、慶喜は徹底した尊皇第一主義者なのである。慶喜に大きな影響を与えた父・徳川斉昭と異なり、慶喜の思想の第一は『尊王攘夷から攘夷を引いたもの』であり、開港から攘夷かは二の次三の次。しかも、頭で考えた抽象的な尊皇ではなく、生身の天皇に対する尊皇なのだ。自分の考えが天皇の意向に反しているとわかったときは必ず天皇に合わせる。それゆえ禁門の変のとき、孝明天皇明治天皇の父。1831~67)が長州に怯えて征伐の勅命を下すと方針を一転させたのである。
 大政奉還も純粋な尊皇第一主義のなせる業だった。慶喜には幕府に対する愛着、未練がない。
 尊皇第一主義者ゆえの敵前逃亡
 鳥羽・伏見の戦いは当初は薩摩側と旧幕側の私戦のはずだった。ところが、旧幕側に対する征夷大将軍に任命された嘉彰親王に朝敵討伐の錦の御旗が与えられ、官軍VS賊軍の戦いにされてしまった。これは慶喜にとって耐えられない事態である。だから総大将の敵前逃亡という、日本の歴史において前代未聞、空前絶後の珍事を起こしてしまった。
 慶喜江戸城に戻ると、フランスの援助で軍隊の近代化を手掛けた小栗忠順をはじめとする旧幕臣が次々と慶喜主戦論を唱えた。フランス公使レオン・ロッシュも何度も登城して慶喜に再挙を促した。旧幕側は最新鋭の多数の艦船や万単位の銃を保有し、歩兵部隊も近代化し、十分に戦える戦力を有していた。
 だが、慶喜はついに首を縦に振らなかった。『自分こそ本物の尊皇主義者だ』という信念があったから『君側の奸を討つ』という理屈を掲げても良かったはずだが、尊皇第一主義ゆえに慶喜にはそれができなかった。
 仮に慶喜が江戸で挙兵していれば歴史は変わっていたに違いない。実際の戊辰戦争以上の激しい内乱になった可能性があり、新政府軍は箱根を越えて侵攻できず、箱根を挟んで旧幕軍と新政府軍が睨み合う状況になったかもしれない。東西分裂である。内乱ないし膠着状態が長引けば、南北戦争を終えて外に向かう余裕の生まれていたアメリカの介入を招き、状況はさらに複雑になっていただろう。
 そうした事態にならず、戊辰戦争は短期で終結し、日本は近代化の道を走り始めることができた。そう考えると、近代日本の運命を決めた『明治維新の最大の功労者』は慶喜なのである。」
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 もし徳川慶喜が、如何なる手段を使っても薩摩・長州を中心とした倒幕派・官軍・新政府に勝つ決断をすれば、蝦夷地(北海道)・南樺太北方領土をロシア、フランス、イギリスに売り、その大金を軍資金として最新武器を装備した軍隊と強力な艦隊をつくり、足利尊氏に先例に習って輪王寺宮を新帝と奉じ錦の御旗を押し立て、京都を攻めれば勝利は間違いなかった。
 その場合、幕藩体制下で領地とされなかった琉球小笠原諸島など多くの島嶼が欧米列強に占領されて日本領土ではなくなった。
 事実、戊辰戦争時、財政難で追い詰められていた佐幕派奥羽越列藩同盟は軍資金を得る為に蝦夷地を西洋列国に売る計画を進めていた。
 徳川慶喜の失敗は、天皇を政治・戦争の為の便利な道具として使わなかったからである。
 対して、薩摩や長州、倒幕派、新政府は天皇を単なる使い勝手のいい道具として利用したがゆえに勝利した。
 「天皇は便利な道具」という考えは、大正デモクラシーにおける「天皇機関説」となり、戦後の「天皇は統合の象徴」という日本国憲法にハッキリと残っている。
 それが、近代的天皇制度の正体である。
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 ウィキペディア
 奥羽越列藩同盟
 会津庄内藩の動向
 容保は謝罪状を提出したものの、仙台・米沢からの降伏勧告を受け入れなかった。新政府軍は会津がなお抗戦を諦めていないと見ていた。
 会津は南摩綱紀を庄内藩に派遣、4月10日に庄内藩重役の松平権十郎らと会合を持ち、会庄同盟を結成する。なお、松平権十郎米沢藩が同盟に加われば仙台藩も同盟に加わると意見を述べており、この時期に「奥羽列藩同盟」構想の萌芽が現れていたと言える。そのころ庄内藩は、当時日本一の大地主と言われ藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入するなど軍備の強化を進めており、それが会津藩を勇気づけることとなった。
 また、両藩はプロイセン代理公使・マックス・フォン・ブラントを通じて、領有する蝦夷地(現在の北海道)の根室や留萌の譲渡と引き換えにプロイセンとの提携を模索していた。しかしプロイセン宰相・オットー・フォン・ビスマルクは中立の立場から会庄両藩の申し出を断っている。一方でプロイセン戦争大臣兼海軍大臣・アルブレヒト・フォン・ローンは日本の混迷が続けば、領土確保を考慮するべきではないかと意見を述べている。
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 徳川幕府は、オランダからの外国事情書簡で欧米列強の強欲な動静を知っていた。
 それ以上に深刻な問題は、ロシアの侵略から如何にして日本を守るかであった。
 その為には、開国と軍事力強化しかない事は薄々わかっていたが、踏ん切りが付かずにいた。
 徳川幕府の国防方針が定まらぬ間、日本国内で下層からの尊王攘夷運動が過熱化し流血事件が多発した。
 ロシアの日本侵略が停滞したのは、ナポレオン戦争とトルコ戦争が原因であった。
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 西洋列強は、国家を分裂するほどの激しい内戦を起こすように、幕府・佐幕派と官軍・倒幕派に大量の武器弾薬を法外な値段で売り込んでいた。
 そして、日本を植民地とし、日本人を奴隷にしようと企んでいた。
 つまり、日本人を奴隷として売る買い為ていた中世戦国時代の再演である。
 白人キリスト教徒にとって、日本人は文明度の低い野蛮人・獣・黄色い猿(イエローモンキー)にかわりがなかった。
 それは、現代でも息づいている。
 日本は世界で信用され、日本人は世界で愛されている、は馬鹿げて話で、ウソである。
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 徳川慶喜の尊皇主義は、明治以降の日本では否定され、当然の事ながら現代の保守派や右翼・右派・ネットウヨクにもない。
 もし徳川慶喜の尊皇主義を標榜する日本人が現れたら信用しない事である、何故なら本心は反天皇反日本であるからである。
 つまり、現代日本には尊皇第一主義は存在しないし、復活する下地はないし、そもそも天皇家・皇室はそれを望まない。
 昭和・平成・令和の皇室は、「弱者・障害者に寄り添い、国民に親しまれ信用され、国家に安心と安定をもたらす」立場を堅持しているからである。
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 イギリスは、ムガル帝国内の親英国派を味方につけ、中立派を沈黙させ、国内混乱を理由にして皇帝派・反英派・民族派を殲滅した。
 イギリス王国ヴィクトリア女王は、インド皇帝に即位し正当な統治者となりインドを植民地化した。
 イギリスは、ムガル皇帝を流罪にして追放し、男性皇族を虐殺し、女性皇族をイギリス兵士、インド人庶民、ビルマ人などの外国人と結婚させて高貴な血筋・血統を断絶させた。
 そして、宗教対立・民族対立・地域対立を煽って合理的な植民地支配を行った。
 同じような事をビルマ(現ミャンマー)王国征服後、ビルマ王家にも行い王家の血筋を消滅さ、親英派を使って宗教対立や民族対立をつくり出して効率のいい植民地支配を行った。
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 日本が近代化で歴史的教訓とすべきは、衰退した清国の中国ではなく滅亡したムガル帝国のインドである。
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 アメリカは、ハワイ王国を自国領に知る為の陰謀をめぐらし、宣教師とアメリカ人移民を大量に送り込んでハワイの政治・経済・軍隊を支配し始めていた。
 アメリカのアジア侵略は着々と進み、その先で障害物として横たわっていたのが日本である。
 つまり、日米戦争は避けられない運命であった。
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 明治新政府は、対ロシア戦に備えて徳川幕府の後攘夷戦略を踏襲し、民生より軍事優先として、殖産興業・富国強兵・近代教育普及という近代的軍国主義政策を反対派を弾圧してまでも強権を持って暴力的に推し進めた。
 大陸における積極的自衛戦争の為の近代天皇制度と近代的軍国主義化を否定する日本人には、歴史を語る資格はない。
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 何時の時代でも、国難から日本を救ったのは10代・20代・30代の血気盛んな青少年達であった。
 40代上の世代は、経験が乏しい若輩な青少年達の決定に不平不満を言わず従い、青二才に命じられるままに武器を取って戦場に赴き命を捨てて戦った。
 何故か、壮年・中年や老人は今・現代を生きるが、青少年は未来・将来を生きるからである。
 その為に、進んで壮年・中年や老人は変化・進化・進歩を続ける青少年の犠牲となった。
 日本の自然において、森林の命を繋ぐ為に、倒れた老木は次世代の新芽の苗床になり、若木が大きく育つ栄養となった。
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 現代日本に急増した醜悪・卑猥な壮年・中年や老人は、石器時代縄文時代から続く日本民族の歴史で初めての異常現象である。
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 江戸時代後期の日本の危機は、北から侵略してきたロシアであった。
 徳川幕府は、東北諸藩に蝦夷地(北海道)、南樺太北方領土防衛の派兵を命じていた。
 ロシアの日本侵略という存亡の危機が目の前に存在する以上、国を二分する内戦を起こすわけには行かなかった。
 もし、徳川幕府佐幕派と新政府・倒幕派がイギリス、フランスそしてロシアの軍事支援を受けて激烈な戦争を続ければ、日本は衰退した清国(中国)ではなくムガル帝国(インド)の様に滅亡した。
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 江戸時代後期。日本が直面した国際情勢は、白人キリスト教列強による帝国主義植民地拡大時代であった。
 そんな残虐無比時代で日本を救ったのが、日本国と天皇・皇室を一心に無私無欲と尊皇・勤王を貫いた徳川慶喜であっか。
 徳川慶喜の無私無欲とは、名誉も名声も地位も、領地も大金・資産も何もかもいらないという、強欲の塊のような分別を捨てた現代の日本人には考えられない・思いも寄らない事である。
 徳川慶喜の哲学・思想、志向・思考を突き詰めれば、天皇家・皇室を身命犠牲にした護り安泰を謀り弥栄を祈る事であった。
 そこには、くだらないマルクス主義共産主義)の様な血に飢えた醜悪なイデオロギーは存在しない。
   ・   ・   ・  
 現代日本で、徳川慶喜に匹敵する日本人はいない、その足元にも及ばない愚鈍・愚昧な高学歴な知的インテリや進歩的インテリが掃いて捨てるほど跋扈している。
 特に、リベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた優秀・有能なグローバル的次世代に多い。
 現代の日本人は、民族的な武士・サムライではないし庶民(百姓や町人)でもない。
 それは、左翼・左派・ネットサハの反天皇反日的日本人達やジェンダーの女系母系天皇擁立派・女性宮家設立派にもいえる。
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🕯178)179)─1─人形供養、ぬいぐるみ供養は日本特有の宗教祭祀である。〜No.373No.374No.375No.376 

   ・   ・   ・   
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 はままつ図書館だより
 2018・5・10No.150
Q.人形供養はいつ頃から行われるようになったのでしょうか?
A. 歴史は浅く、戦後急速に広まったそうです。
 【参考文献】「供養のこころと願掛けのかたち」小学館 p79~
 「日本民俗宗教事典」東京堂出版 p559『もの供養』
  プライバシー保護のため、質問内容は一部修正してあります。
   ・   ・   ・   
 弔いスタイル
 HOME 「物」供養
 京都の人形供養イベント4選
 2019-05-07
 日本には、大切に使っていたものに「付喪神(つくもがみ)」が宿るという考え方があります。
 長年愛情を込めていたものを捨てることに、心苦しさを感じる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 そういった「大切に使っていたものを無下に捨てたくない」という想いを尊重し、物に感謝し供養する行事があるのをご存知でしょうか。
 針や着物など対象の物は多くありますが、今回は京都の「人形供養」についてご紹介します。
 人形供養とは
 人形は、古くは信仰の対象や呪術に使われるなど、宗教的な意味を強く持つ道具のひとつだったそうです。それがやがて子どもの玩具として発達し、江戸時代以降は信仰や行事と結びついて、「子どもに降りかかる厄災を人形が代わりに受けてくれる」という考えが人々の生活に根付きました。子どもの誕生を祝い、家族が子どもにひな人形や武者人形を贈るという日本独自の風習は現代も続いています。
 そして、子どもの身代わりに厄災を被ってくれた人形に感謝の思いを込めて供養したのが「人形供養」です。
 画像: 人形供養とは
 人形供養と聞くと、「髪が伸びる恐ろしい日本人形を処分したい」「呪いの人形を供養したい」なんて恐ろしいイメージもあるかもしれませんが、住職によればそのような依頼は稀で、ほんの一部だそうです。(少ないとはいえ実際にはあるそうですが……)
 人形供養の目的として多いのは、「これまで健やかに成長をさせてくれてありがとう」という人形への感謝、幼くして亡くなった子どもが遊んでいた人形の供養、他者から贈られた人形の処分、などだそうです。
 また、「人の形をしているものを捨てることに抵抗がある」「長い間愛情を注いだものだからゴミとして捨てられない」といった理由も多いそう。これは「つくもがみ」に代表されるように、「長く使った物には命が宿る」と考える日本人ならではの考え方かもしれませんね。

 実際に人形供養を体験しました
 本寿院さんでは、毎月第二日曜日に人形供養の合同法要を行っており、予約をせずに参加することができます。また、人形やぬいぐるみの受付はいつでも可能で、このように毎日受け付けているお寺は珍しいそう。郵送や宅配便での受付も行なっています。
 合同法要の際にはさまざまな種類の人形たちがずらりと並び、それぞれの持ち主たちが法要に参加されます。また、個別の法要も承っているので、想いの詰まった人形と個別でしっかりお別れしたい方にはオススメ。今回はこの個別法要をお願いすることにしました。
 画像1: 実際に人形供養を体験しました
 まずは申込書に必要事項を記入します。申込者の情報とともに、人形との思い出を同席していただいた僧侶に伝えさせていただきました。今回供養するのは、筆者が撮影の仕事で使用してきたぬいぐるみや民芸人形などです。
 画像: ▲渋谷の駅前で500人以上を街頭調査してきたカエルくんたち
 ぬいぐるみとはいえ、長い間ともに仕事をしてきた戦友たち。物置に入れたままなのもかわいそうだし、ゴミとして処分するのも忍びなく、この機会にしっかりと供養することにしました。
 画像2: 実際に人形供養を体験しました
 仏様の前に人形たちが並べられ、いよいよ法要がはじまります。住職と僧侶がお経を唱えてくださるなか、参列者は順に焼香していきます。
 画像: ▲人形たちに感謝しながら焼香する筆者
 画像: ▲人形たちが穏やかな表情になっていく……ように見えました
 住職と一緒に筆者も般若心経を声に出して唱えます。人形供養というものがどのようなものなのか最初はイメージがつきませんでしたが、その内容は故人の供養と代わりなく、住職や僧侶たちが私の人形のためにしっかりと供養してくださっているのがとても嬉しく感じました。これで悔いなく彼らとさよならできるかな。
 画像3: 実際に人形供養を体験しました
 40分ほどで法要は終了し、その後三浦住職による法話を聞くことができます。参加者の皆さんはこの法話にとても感動されるようで、取材として来たにも関わらず、筆者も心がすっきりと軽くなっていることに気がつきました。
 供養した人形たちはこのあとお寺でしっかり管理され、処分されます。その一部は年に一度、栃木県日光にある尊星王院にてお焚き上げされます。
 まとめ
 法要の前室での鈴木僧侶との談話の中で、とても印象に残る言葉がありました。それは、「人形供養に限らず、供養というものは人の心をケアするための儀式」という言葉。持ち主が抱えている苦悩や哀しみから脱するための「きっかけ」をお渡ししているのだとおっしゃっていました。たしかに40分という法要の所要時間は、心の中を整理するには長すぎず短すぎない丁度良い時間だと感じました。
 みなさんも、心の片隅にしまっているものをお寺さんで供養されてはいかがでしょうか。当企画では、これからも全国のさまざまな供養を取材していきます。
 本寿院(ほんじゅいん)
 東京都大田区南馬込1-16-2
 03-3772-8889
 受付時間AM9:00〜18:00(年中無休)
 ご供養料についてはホームページをご確認ください
 https://honjyuin.com/ningyoukuyou/
 ライター/サカイエヒタ
 写真/高山諒
 編集/ヒャクマンボルト
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 一般社団法人日本人形協会
 日本人と人形
 人形に生命(いのち)を見いだす日本人
 日本人にとって、人形ははるか昔からひとつの《文化》でした。人形は、時には人々の畏敬や信仰の対象であり、時には子供たちのよき遊び相手であり、また時にはその美しさを愛でる愛玩の対象でもありました。
 さらに、四季折々の節句の風習から生れた《ひなまつり》や《端午の節句》からは多くの節句人形が誕生するなど、独自の人形文化が育まれました。こうして長い歴史の中から、さまざまな人形が作られましたが、いつの時代も、日本人が人形を敬い愛する心に変わりはありませんでした。日本人にとって、人形は単なる飾り物や遊び道具ではなく、つねに生命あるものとして扱われてきたのです。
 人形感謝祭
 人形に対する日本人独特の感性を象徴するものに、全国各地の社寺で行われる「人形感謝祭」あるいは「人形供養」があります。そこには各家庭での役割を終えた人形たちが集められます。由緒のある昔の人形から、最近のぬいぐるみまで、集まる顔ぶれはいろいろですが、いずれも、持ち主が捨てるに忍びないと思ったものばかりです。
 これらの人形たちは、感謝の気持ちに見送られて手厚くまつられた後、燃やされるなどして処理されて行きます。こうした儀式は、時として、外国の人々にとっては理解しがたいと言われることもあるようです。人形に対して心や命を感じる感性が、広く受入れられるという風土は、どうやら日本ならではのもののようです。
 節句人形が伝える日本の伝統と美意識
 節句人形は、江戸時代に盛んになり、現代に至っています。江戸時代の人々は、人形にあこがれを託し、より美しく、より華やかなものを求めました。そんな人々の希望に応えるように、人形工芸は次第に発達し、素材も贅沢になっていきました。あまりの過熱ぶりに幕府は度々禁令を出しましたが、人々の人形を求める気持ちを静めることはなかなかできませんでした。しあわせを祈って飾る人形への熱い思いは、現在の節句人形にも脈々と伝えられています。
 人形はもちろん付随する道具類も、すべて熟練した技から丁寧に作られ、さらに織物や染色、木工、漆芸、金工などの技術もふんだんに用いられます。配色やデザインなどはその時代時代の流行を反映してはいるものの、そこには伝統的な日本の美意識が息づいています。
 こうして作られた節句人形は美しく魅力的ですが、それはあくまで季節の行事の中に生かされる存在です。それはまた、子供たちに、四季に根ざした日本の生活のありかたを無言のうちに教えてくれます。
 節句人形は、日々の生活から薄れていく日本の文化や美意識、手仕事の技とその心を次の世代へと伝える大切なかけ橋といえるでしょう。
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 Coeurlien 
 クリアン=心(coeur)と絆(lien)
 【人形供養】最後まで愛をこめて。供養の方法やかかる費用
 2020年12月14日 更新2020年12月14日 公開お葬式のマナー・基礎知識
 私たちにとって身近な存在である雛人形五月人形、ぬいぐるみ。人形供養とは、そんな人形を手放すときに今までの感謝の気持ちを込めておこなう祈りの儀式です。古くから、さまざまな寺社で人形供養がおこなわれてきました。こちらの記事では人形供養の意味や方法、流れや費用とともに、人形供養で有名な寺社を紹介します。
 人形供養について
 大切な人形とお別れするときは、今までの感謝の気持ちを伝えたいもの。人形供養の意味や始まりを知ると、ものを大切にする日本人の心が感じられます。
 人形供養の意味
 供養とは、死者のあの世での幸せを祈ることです。古くから「人形には魂が宿る」という考え方があります。人形供養は人形やぬいぐるみを、まるで亡くなった人と同じように神社やお寺で供養して、お別れをします。
 愛着のある人形を供養することで、手放すときの心の痛みや葛藤が和らぐ人も多いようです。
 人形供養の始まり
 人形供養の歴史は浅く、戦後急速に広まったと言われています。
 人形供養のほかにも人形感謝祭などと呼び、供養を受け付けている寺社は全国にあります。特に有名なのは和歌山県淡嶋神社(あわしまじんじゃ)で、3月3日の雛流しの神事で知られています。紀州徳川家から奉納された雛人形など、歴史ある人形が残っています。
 供養される人形の種類
 供養される人形の種類と、それぞれの旅立ちの理由を紹介します。
 雛人形
 雛人形は女の子が生まれたときに成長祈願で用意し、3月3日の雛祭りに飾るものです。元々は「人形(ひとがた)」として、その子の厄災を人形に移すことを目的としているため、1人にひとつ必要です。姉妹でシェアすることや代々受け継ぐものではありません。しかし、核家族で広さのあまりない住環境やもったいない精神のある現代では、親から子へ壇飾りや道具類などを引き継ぎ、お人形だけはその子のものを用意するなどで対応することが増えています。
 雛人形は、女の子が大人になるとその役目を終えます。ですが、愛着のある場合は飾り続けて構いません。結婚や引っ越しなどをきっかけに飾らなくなったら、供養を検討するべきかもしれません。
 五月人形
 男の子が誕生したときに求められるのが五月人形や鎧兜(甲冑)です。5月5日のこどもの日に、男の子の健康と幸福、立身出世などの願いを込めて鯉のぼりと一緒に飾ります。雛人形と同じく、親から子へと引き継ぐことはしません。兄弟が複数いる場合も、基本的には1人ひとりにひとつずつ用意します。
 ほかにも、お正月に飾る羽子板や破魔弓も人形の一部とされています。これら節句を祝う人形類は、子どもが成人を迎えたときや就職・結婚などで家を離れたときに供養されることが多いです。
 日本人形
 製法や材料、作られている地域などによって、いろいろな種類があります。雛人形に多いのが木目込人形や衣裳人形です。このほか、黒髪と振り袖姿が印象的な市松人形、木で作る『こけし』や『奈良人形』、土で作る『博多人形』など、実に多彩です。これらは代々受け継がれている価値の高いもの、祖父母や親に旅先などで買ってもらった思い出の詰まったものであることが考えられます。簡単に手放せないものであり、愛着が湧いているからこそ、供養が心の整理とお部屋の整理につながるという人もいます。
 ぬいぐるみ
 どんなときもそばにいてくれて、幼い頃から大事にしてきたぬいぐるみ。「亡くなったときに自分と一緒に棺に入れて欲しい」と願う人も多いですが、大きさや素材、火葬場の判断などによっては棺に入れる「副葬品」にできないことがあります。その場合は、後日人形供養に出す段取りをつけておくといいかもしれません。
 人形供養の方法と流れ
 人形供養をする方法は、寺社、葬儀社、代行サービス、自分、の4種類があります。こちらでは、それぞれの流れを紹介します。
 お寺・神社で供養する
 お寺や神社で供養するときの一般的な流れは以下の通りです。
 1.申し込みをする
 2.人形を預ける
 3.他の人形と一緒に並べられ、読経がおこなわれる
 4.お焚き上げされる
 寺社によって常に受けつけているところと、感謝祭のように期間限定のところがあるので、事前に確認してください。郵送も可能な寺社なら、離れていても供養を依頼できます。
葬儀社に依頼する
 人形供養をおこなっている葬儀社もあります。家族葬のファミーユでは、各ホールで不定期に「人形供養祭」を開催。僧侶を招き、ホール内の祭壇に人形を並べ、焼香をおこなってからお別れ(供養)します。
 ホールによっては人形への感謝の気持ちを綴る「ありがとうカード」を配っており、お焚き上げのときに一緒に納めることも可能です。
 新型コロナウイルス感染症の拡大状況などによって、スケジュールを変更することがあります。最新情報は公式HPをご確認ください。
 業者などの郵送・代行サービスを利用する
 人形供養をしている業者や、一般社団法人「日本人形協会」を利用する場合は、申し込み後に届くキットで人形を郵送します。なかには出張引き取りをおこなっている業者もあるようです。
 自分で供養する
 自分の手で供養する方法もあります。以下は一例です。
 1.人形を綺麗に拭いて、乱れた髪を整える
 2.白い布や和紙で人形を包む
 3.感謝の気持ちを込めながら粗塩をふりかける
 この後は、自治体のルールに従ってゴミ収集日に出します。結局はゴミとして捨てるので、気持ちが落ち着かない場合もあるでしょう。その際には寺社や教会などを訪れて、再度お別れのお祈りをすると少しは気が晴れるかもしれません。
 感謝の気持ちを込めて人形とお別れしよう
 同じ時間を過ごしてきた人形は、人生を見守ってくれた存在です。いろいろな思い出が詰まっているからこそ、最後まで愛を持ち、手放すときは感謝の気持ちを存分に伝えたいところです。納得のいく方法で人形供養をすることは「心のけじめ」にもつながるでしょう。本当に今手放して良いのかも含めて、よく考えてから供養してくださいね。
 『Coeurlien』とは
 『Coeurlien(クリアン)』は、家族葬のパイオニアであるファミーユがお届けする終活や葬儀に関する情報メディアです。サイト名は、フランス語の"coeur"(心)と"lien"(絆)を繋いだ造語。家族の絆、人との絆の"バトン"を繋ぐきっかけになれば幸いです。
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 ■問い合わせ先(メール)
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 対応時間:平日10 時 ~16 時
 ©家族葬のファミーユ
   ・   ・   ・   
 日本民族の伝統的ローカル崇拝宗教は、全て、例外なく、皇室が執りおこなう宮中祭祀をみなもとしている。
 宮中祭祀は、一子相伝として、最高神天照大神からの正統な血筋である男系父系天皇「御一人」が神の裔・祭祀王として主宰する。
 正当な女系母系天皇では、如何なる宗教祭祀を執りおこなう資格はない。
   ・   ・   ・   
 科学偏重宗教無神論マルクス主義、排他的不寛容一神教キリスト教、神仏弾圧の儒教は、日本民族特有の魂崇拝宗教を認めず否定し消滅しようとしている。
   ・   ・   ・    

🕯176)─1─橿原市の久米寺 虫たちの霊を慰める法要。〜No.369No.370  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2021年6月25日 MicrosoftNews 奈良テレビ放送橿原市久米寺 虫たちの霊を慰める法要
 害虫として駆除され犠牲となった虫たちの霊を供養する法要が、橿原市久米寺で営まれました。
 人の手によって駆除された病害虫などの霊を慰める虫霊法要。農薬や殺虫剤などを扱う業者が集まる団体が1982年から毎年行っています。新型コロナの影響により参列者を限定した境内では、虫の霊を祭る虫塚の前で、久米寺の密門泰範住職がお経を読み上げました。
 家庭用の殺虫剤などは、コロナ禍の巣ごもり需要もあって売り上げが伸びているといいます。参列者は、快適な暮らしと引き換えに命を落とした虫の冥福を祈りながら、静かに手を合わせていました。
 奈良県虫霊碑奉賛会 会長・堀本文男さん
 「小さな虫も、一つ一つに魂を持っているはずです。虫の魂をねんごろに供養する。その一念です。」」
   ・   ・   ・   

🌏14)─2・A─賊軍・奥羽越列藩、会津藩、長岡藩は明治維新・近代化という空気の生贄にされた。~No.47 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族の歴史とは、思想・哲学・イデオロギーではなく、敗者の物語、滅びの文学、怨霊鎮魂の宗教経典、人の道を教える道徳訓戒集である。
   ・   ・   ・    
 日本民族の歴史には、勝った者と負けた者はいたが、イデオロギー的正義はなく、よって善人も悪人も存在しない。
   ・   ・   ・   
 日本の物語は、死んだ弱者・敗者に同情し生き残った強者・勝者を憎む判官贔屓で、儒教朱子学の勧善懲悪は江戸時代からである。
   ・   ・   ・   
 明治時代以降の西洋礼賛作家による時代劇・時代小説は、江戸時代を暗黒時代として明治維新・近代化を「時代の夜明け」と表現した。
 その代表作が、徳川幕府新選組を悪として描いた大仏次郎の『鞍馬天狗』であった。
   ・   ・   ・   
 勝者が歴史を書く為に史書にはウソが多い。
   ・   ・   ・   
 2021年6月18日号 週刊朝日司馬遼太郎もうひとつの幕末史 
 敗者たちの戊辰戦争
 司馬さんは会津藩松平容保を主人公にした小説『王城の護衛者』を書くなど、東北への思いが強い。容保や原敬山本五十六の『戊辰戦争』を語り、東北人へエールを送る講演となった。
 ……
 ですから私はずいぶん前から、東北びいきなんです。好きというのはなかなか直らないもので、今日は、その東北びいきの立場から、戊辰戦争の話をしたいと思っています。
 まず奥州が戊辰戦争に負けた理由なんですが、これははっきりしています。要するに鉄砲が悪かったんです。
 薩摩の銃は新式の元込(もとごめ)銃です。東北諸藩の銃は、火縄銃によく似たゲベール銃でした。まだ火縄銃を使っている藩さえありました。鉄砲の精度からすれば、とても比較になりません。奥州の鉄砲10丁があつまっても、薩摩の鉄砲1丁に勝てたかどうか。
 これでは勝負にならない。
 では薩摩や長州はなぜそんなに洋式銃を買い込んでいたんでしょうか。やはり私は彼らが脅威を感じていたからだと思います。長崎や対馬、そして鹿児島、山口にいると、外国の船舶を目のあたりにする。このままでは日本は植民地になってしまうと肌身にしみました。
 外国が侵略してきたら、各藩がそろって戦わなくてはならない。そのためには火縄銃ではだめだ。西国の雄藩は洋式にしようと躍起になって走り出した。
 日本は大きい国なんですね。その西国の肌身に迫る切迫感が東北には伝わりませんでした。やはり東北は日本の奥座敷なんでしょうか。それもずいぶん大きな家の奥座敷です。玄関口の騒ぎがなかなか伝わらない。知的情報としては、これまでのゲベール銃が役に立たないことは伝わっていても、切迫感はなかった。銃を全部変えようというところまではいかなかった。
 もっとも薩摩藩全体が幕府を武力で倒そうとは思っていませんでした。保守派もいました。しかし、国元の薩摩にいる大久保利通、そして京都にいる西郷隆盛の2人は、はっきり思っていました。2人は早い段階で鳥羽伏見の戦いを想定します。鳥羽伏見が、戊辰の幕開けですね。
 京都の薩摩藩邸にいる西郷は、大山巌という自分のいとこに鉄砲の買い付けを命じます。大山巌日露戦争のときの陸軍の総司令官です。京都から横浜まで1年間に20回以上も往復させて、新式銃を買わせた。どうして西郷はそんなにお金を持っていたんでしょう。盟友の大久保が国元の金庫からひそかに運んできていたんです。島津の殿様はそんなことは知りませんでした。
 何丁買ってきましたと、西郷は懐からソロバンを出し、帳尻があっているか、いつもソロバンをはじいたそうです。
 西郷隆盛という人はソロバンが上手な人でした。べつにソロバンが好きだったのではなく、当時、薩摩の下級の侍たちは藩からもらっている石高、お米だけでは食べていけませんでした。西郷家は兄弟も多く、西郷は長男です。なんとか早く就職というか、お役について役料をもらおうとした。だいたい侍というのはソロバン仕事を嫌がります。地味な仕事ですからね。
 西郷はソロバンを習って、18歳のときにソロバンをはじく仕事につきました。これが家計を楽にし、さらには西郷が世に出るきっかけになりました。
 こうして京都に積み上げた銃器が、戊辰戦争で火を噴きます。
 鳥羽伏見の戦いなど、幕府方の人数は、薩長、土佐よりも圧倒的に多かったのに負けてしまう。戦火は広がり、東北に及んできて、白河口で激戦となります。奥州のお侍さんは強かったそうですね。強かったと思います。
 しかし、戦死者の数は10倍で足りるでしょうか。これはひとえに薩摩の最新兵器にやられた。負けたのはそれだけの理由です。しかし考えてみれば、西国の雄藩が時勢に鋭敏だったのも、東北の諸藩が奥座敷にとどまっていたのも、ひとつの風土ですね。多様性のひとつでした。
 江戸文化の良さは多様性にありました。たとえば小さな藩というのは、一生懸命に学問をしました。
 山陰の津和野藩がそうですね。
 ここは頭上の台地に強大な長州藩がそびえています。長州が怖くて仕方がないんですが、戦っても勝てる相手ではない。そうなら学問をしようということになり。明治の森鷗外西周を出すことになります。
 宇和島藩もそうです。仙台の伊達家の分家ですね。10万石のご家中は大変学問が盛んで、幕末には西洋技術の導入に熱心な藩でした。ついには蒸気船まで自力でつくっています。
 ……
 戦争に負けて東北人は考え始めます
 もう少し戊辰の話を続けます。
 大正デモクラシーの時代、総理大臣になった人で原敬がいます。南部藩の出身です。
 原敬の家は南部藩重臣でした。おじいさんは家老職もつとめています。南部藩が降伏したのちのことです。ある日、少年だった原敬は報恩寺という寺の周りを何度も歩き回ったそうです。その日、この寺で戊辰戦争の責任をとって、筆頭家老の楢山佐渡切腹することになっていました。
 南部藩はいわば義理で戊辰に参加し、痛烈な罰を受けた。南部藩は無念でした。尊敬する家老が切腹する時間に、原敬は寺の周りを歩き続けた。
 その日の痛切な思いが、その後の原敬の精神の何事かを形成したに違いありません。原敬が総理大臣になる前に、山県有朋という人物が、ローマ法王のごとく君臨していました。ご存じのように、長州の足軽出身です。内務官僚もにぎり、陸軍をにぎり、双頭の鷲のごとく君臨していた。
 その山県の家に原敬があいさつに行かなくてはならなくなり、行くと果たしてなにか嫌なことを言われた。その場で言い返すほどのことでもなく、黙っておったんですが、お腹の中ではこう言ったそうです。
 『この足軽め』
 やはり原敬にも戊辰戦争は濃厚にありました。
 太平洋戦争に反対し続けたのは海軍だったと言われています。全海軍が反対したわけではなく、主に反対したのは海軍の中の東北人ですね。アメリカの生産力のデータ、アメリカ海軍のデータなどを見て、日本は身を動かしてはだめだと、はっきりした結論を持っていた。そういう考えを持っていたのは東北出身の海軍軍人に多かった。なにかハイカラな感じがします。米内光政もそうですし、井上成美もそうです。長岡の山本五十六もそうでした。
 ……
 長岡藩が官軍と戦った北越戦争は、戊辰戦争のなかでも激戦でした。 
 当時の横浜にいた外国人たちの間で、明治政府の信用が非常に落ち込むほどの激戦でした。長岡藩および会津藩が勝つと思っていた外国人たちも多かった。長岡藩を率いていたのは、総督(筆頭家老)の河井継之助です。この人は、ひとつの民族の歴史のなかで何人も出てこないほど、政治感覚の鋭い人でした。この人が長岡藩を一所懸命、近代化した。しまいには藩士に刀を捨てさせることまでして、小さいながらも強力な、近代的な軍隊をもつ藩になりました。武装中立を貫くのを夢見ていましたが、戊辰戦争が起こった。負けることは分かっていたのに、応ぜざるを得ない状態に追い込まれた。奮戦しましたが、ついに敗れます。河井継之助の一生は水の泡と消えました。長岡藩が降伏する前に、河井は戦死します。
 山本五十六は太平洋戦争に負けると分かっていましたが、真珠湾攻撃だけは勝つ可能性につながると考えた。
 真珠湾攻撃を立案して実行し、そして最終的な敗北を知ることなく戦死します。なんだか似てますね。……やはり戊辰は尾を引いています。
 東京というところに渦巻いている文化を見続けているのが、日本の地方人のくせでした。しかし、東北の選ばれた人たちというのは世界を見ていたんじゃないかと思うときがあります。
 太平洋戦争に負けたとき、マッカーサーに『日本人の精神年齢は12歳だ』と言われましたね。腹が立ちましたが、たしかにそのころの日本人が持っていた世界認識というのは、非常に子供ぽいものでした。世界の一員とか、世界市民といったセンスは全くありませんでした。太平洋戦争に負けてから、われわれはようやく世界の中で一人前の顔ができるようになったという感じがあります。
 戦争に負けるということは大事なんですね。徳川家康が言っています。勝つを知って負けるを知らない人はだめだと。家康はよくわかっていた人でした。苦労人で、勝ったり負けたりを繰り返し、そして最後のほうになってだんだん勝つ態勢ができ、ようやく天下を握った人の言葉です。
 もちろん戦争というのは、しなければいいに決まっています。しかし負けてよかったというのではなく、負けたおかげでましになったというか、わかったこともある。東北の戊辰戦争でいえば、負けて東北人は考え深い人間になった。全員がそうなったわけじゃありませんが、東北の選ばれた人たちは考え深くなったんじゃないか。
 最後に、会津藩のことを話さなくてはなりません。
 戊辰戦争というのは、結局、革命戦争でした。革命戦というのは、皇帝の首をはねなくてはなりません。フランス革命でルイ16世の首をはねるように、徳川慶喜の首をはねる必要がある。
 今のようにマスコミがない時代です。時代が変わったのだと宣言するためでした。攻め上がってきた西郷にとって、慶喜の首は絶対の目標でした。
 これは徳川慶喜が憎いというわけではありません。西郷という人は礼儀正しい人でした。のちに江戸城を受け取りにいくときでも、西郷は刀を全部渡して、丸腰で行っています。 ……
 ところが徳川慶喜は才人です。逃げて逃げ逃げまくる。政治能力も、政治感覚も、歴史感覚も、すべてを使って逃げまくります。
 出身の一橋家は水戸学を奉じています。後世に賊名を残すことを、なにより慶喜は恐れました。しまいには恭順、恭順で、江戸城にいても危ないと考え、水戸に帰ってしまう。
 しかも江戸城は西郷、勝海舟の話し合いで無血開城です。これでは世の中が変わったと、なかなか世間に納得してもらえない。だいたい自分たちが納得できません。
 革命の血祭りが必要でした。振り上げた刃の相手の慶喜は逃げた。そこで刃は松平容保に向けられました。
 会津若松こそ、いい面の皮であります。だいたい会津藩は、幕末に松平容保京都守護職になったときに、この結果が分かっていた。
 時勢が沸騰している時代でした。攘夷浪人が集まり、雄藩の外交官が暗躍している京都です。とてもそんな政治的な仕事はできませんと、主従ともに断るのですが、聞き届けてもらえませんでした。人一倍徳川幕府に忠誠心の強い藩でしたから、ついに京都に行くことが決まる。これで会津藩も終わりだという気分があったのでしょうか。松平容保重臣たちも運命を思って泣いたと伝えられています。
 火中の栗を拾うといいますね。
 まさに京都守護職となった松平容保がそうでした。容保は自分の手を火の中に入れ、その焼け焦げるにおいをかぐことになります。新選組を手先に使ったものですから、ますます長州の恨みを買っていきました。
 本来、容保という人は、若くて容貌がやさしげで、誠実な人でした。京都に行って、孝明天皇の大変な信頼を得てしまいます。孝明天皇という人は、強烈な徳川びいきでした。天皇みずからが、勤王ではなくて佐幕だったんです。
 暴れ者の長州は好まれず、会津藩が数千の軍を率いて京都に来たのを非常に喜ばれていた。
 孝明天皇は喜びのあまり、おまえを二なき者だ、信頼しているという、御宸翰(ごしんかん)を書いた。
 容保は感激しました。この人のためならと、『蛤御門の変』などで容保は活躍します。孝明天皇はやがて急死し、明治天皇の時代になります。
 それからは世の中が急速に変わっていきます。鳥羽伏見の戦いに敗れ、大坂の天保山から船に乗って江戸に帰ると、江戸城の雰囲気は容保に冷たいものでした。慶喜は水戸に帰ってしまい、自分も会津若松に帰るしかなかった。こうして、戊辰から明治に至るまでの会津の悲劇が始まります。
 ……
 亡くなられて、はじめてそれが孝明天皇の御宸翰だったことがわかりました。いかに容保が悔しかったかがわかります。精神の安らぎがなかった晩年だったかもしれません。歴史の中で自分が置かれている場所というのが、きわめて不満足な位置だと思っていたのでしょう。自分が置かれるべき歴史的な場所は本来違う。御宸翰はその証拠なんだと言いたかったのでしょう。
 その容保の無念を思いますとですね、たしかに明治維新は革命でした。革命には革命の敵がいります。しかし日本中、どこにも革命の敵などいなかったんです。
 やはり日本はそういう国ですね。加害者であって被害者であるような社会で、フランス革命のようなわけにはいきません。容保の場合、仮の革命の敵にされてしまったということで、会津の悲劇というのはそういうことです。それ以上にあまり悲劇的に考えないほうがいい。
 東北人の悪いくせは、悲劇主義を持ちすぎるところにありますね。ときにはマゾヒスティックになったりする人までいます。東北はつまらない目にあってきたとか。たしかにつまらない目にあってきましたが、あまり言わないほうがいい。
 そうじゃないほうが偉大なる東北ができあがる。大きな国土ができがる基になるんじゃないかと思うです。
 昔から東北びいきとして、東北という歴史と伝統のある風土に自信をもたなくて、どうして東北が存在できるのかと、いつも思っています」
   ・   ・   ・   
 『平家物語祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
 遠くの異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の禄山、これらは皆、旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
 近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心もたけきことも、皆とりどりにこそありしかども、間近くは六波羅の入道前太政大臣朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ、心も詞も及ばれね。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、戦後の歴史教育という嘘を教えられて民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力を奪われた為に、捏造・歪曲・改竄された嘘の真実を信じ込んで現実に起きた歴史の事実を正しく理解する事ができない。
 特に、リベラル派戦後民主主義世代の頭脳は反天皇反日本の歴史教育で修復不可能な状態まで洗脳され壊されている。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人には、江戸後期・幕末・明治維新明治新政府日露戦争まで存在した尊皇攘夷は理解できない。
 それは、マルクス主義者・共産主義者、左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派はもちろん右翼・右派・ネットウヨク、保守派も同様である。
   ・   ・   ・   
 政治家、官僚、経営者・企業家、学者、メディア関係者など高学歴教養人の多くが司馬遼太郎歴史小説を読むが、それはしょせん「論語読みの論語知らず」である。
   ・   ・   ・   
 西国の倒幕派・官軍はテロリスト集団で、東北の佐幕派・賊軍は常識集団であった。
 天皇は、倒幕派にとって道具・象徴であり、佐幕派にとって帝・天子様であった。
 日本が2つに分裂して内戦が起きたのは、清国におけるアヘン戦争ではなくロシアの日本侵略が原因であった。
   ・   ・   ・   
 日本人は恩義を忘れず義理堅い、はウソである。
   ・   ・   ・   
 いつの時代でも、東北は救われない、報われない。
   ・   ・   ・   
 東北は幾度も日本を救ったが、関東以西に住む裕福な日本人ら東北人に恩を感じるどころか不当な偏見・差別・イジメで返してきた。
   ・   ・   ・   
 昔のテレビや映画では、東北人を標準語が話せず聞くに耐えないド田舎言葉の「ズーズ-弁」を話す教養度・文化度が低い日本人と表現して嘲笑って優越感を満足させていた。
 それが、日本人の本性である。
   ・   ・   ・   
 日本の儒教中華主義における夷狄=外国とは、琉球アイヌは将軍のもとにご機嫌伺いに伺候して来る無害な隣人であったが、中国や朝鮮の儒教諸国、ロシア・イギリス・アメリカ・フランスなどのキリスト教諸国は侵略してくる危険性な敵であった。
 尊皇攘夷で排除すべき夷狄とは、無害な隣人ではなく、侵略してくる外敵である。
   ・   ・   ・   
 日本民族とは、日本列島に流れ着いた、漂着した、逃げてきた、逃亡してきた、その他雑多な理由で移り住んだ人々が乱婚を繰り返して生まれた血が汚れた混血の雑種民族である。
 日本民族にとって海から訪れる人とは、東と南から訪れる善の賓(まれびと)神か西と北から訪れる悪の災神、忠誠の帰化人か反逆の渡来人であった。
 日本民族がこよなく愛し憧憬する外国とは、中国・唐王朝玄宗皇帝時代と仏教の聖地である天竺のインド・ガンダーラチベット中央アジア(現ウイグル)であり、それ以外の時代や国・地域は魅力を感じず嫌いか無関心である。
   ・   ・   ・   
 日本民族尊皇攘夷運動は、江戸後期から日露戦争までが前半で、シベリア出兵から太平洋戦争敗北までが後半である。
 ある意味、日本民族が生存する限り日本天皇と日本国を護るという尊王攘夷運動は存在し続け、現代日本でも存在する。
   ・   ・   ・   
 尊皇の対とは、民族中心神話・血の神話(Y染色体神話)における、最高神の女性神天照大神の血・命・身体、心・志・気概を正しく受け継ぐ正統な血統・皇統である万世一系の男系父系天皇である。
 その尊きY染色体神話の血筋は、石器時代縄文時代の太古の人々まで繋がり、その源流は長江・琉球で、さらに遡れば、現生人類・ホモサピエンスとして南方海洋そしてアフリカである。
 つまり、日本列島に住む日本民族Y染色体は一筋・一系しか存在しない。
 それ故に、Y染色体尊皇神話とは世界に一つしかない貴重にして絶滅危惧種ジャポニカ・ジャパン物語(日本民族物語)である。
 愛国皇国史観である、神国日本、神州不滅、惟神の道、その他、はここから生まれた。
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 日本人による東北への偏見・差別の最たる例が、東日本震災における東北魂・東北熱・東北根性・東北人は我慢強いなどという忍耐を強いる精神論的報道と福島第一原子力発電所事故における放射能に関する科学的根拠を無視した悪意あるデマ・風評被害である。
 それは、リベラル・革新の左翼・左派・ネットサハでも保守の右翼・右派・ネットウヨクでも同罪である。
 現代日本人の心には、民族特有の同情心や惻隠の情などなく、排他的不寛容な私利・自愛・個人欲に毒されおぞましいほどに穢れている。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、「勝てない強敵・大軍・多勢だから戦わない」という事はあり得ず、「弱兵で小勢の為に戦えば負けて死ぬ」事が分かっていても、戦争しか手段がないと覚悟したときは戦争を始めた。
   ・   ・   ・   
 官軍の首脳部・指揮官の多くは、20代30代の貧しい下級武士・下士郷士(半農半武士)・足軽であった。
 賊軍の多くは、由緒正しい大名や名門の重臣などの高級武士とその家族と家臣や下僕達であった。
 大名や高級武士らは避戦で、下級武士・下士郷士(半農半武士)・足軽は好戦であった。
 明治新政府藩閥政治の権力を握って横暴・専横を極めたのは、薩長などの学識・教養・品格・品位の乏しい下品な下級武士・下士郷士(半農半武士)・足軽、庶民の出身者であった。
 明治の近代化と身分制度廃止によって、武士階級・士族階級が消滅したのは当然の事であり、それは武士が自主的に刀を捨てて廃業したのではない。
 明治新政府藩閥政治を牛耳った権力者は、愛国の尊皇派・勤王派ではなく、天皇明治天皇)を権力行使の為の便利な道具としか見ていなかった。
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 現代日本は、一様、画一、単一、一元、単数、標準語で一つの日本文化しか持っていない。
 昔の日本は、多種、多様、多元、複数で領主事に違う方言・地方語を使い微妙に違った地域文化を持っていた。
 つまり、現代日本の鉄道における主要駅は特徴の乏しい似たり寄ったりの駅舎であるが、江戸時代の城は個性豊かで一つとして同じ天守閣はない。
 昔の日本民族が多様性豊かな複合文化であった証拠は、コミュニケーションが取れなかった方言・地方語が数多く存在していた事である。
 その意味でも、琉球語アイヌ語は日本列島における方言の一つである。
 現代日本語における標準語は、明治新政府が対ロシア防衛戦という大陸侵略の積極的自衛戦争に勝利する為に新しく創った新設日本語である。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は高学歴者が多いが本質は幼稚で、当時の日本人の足元にも及ばない。
 つまり、当時の日本人が現代の日本に来ればそれなりの仕事ができるが、現代の日本人が当時の日本に行っても邪魔になるだけで役に立たない。
   ・   ・   ・   
 日本民族が怖れたのは、キリスト教の宗教・精神・心の侵略と海外勢力の領土侵略であった。
 徳川幕府明治新政府が怖れたのは、ロシアの日本侵略に協力する清国(中国)・朝鮮の敵対行動であった。
 大正時代から昭和前半の日本政府が怖れたのは、反天皇反日本・反宗教無神論ソ連中国共産党・国際共産主義勢力によるイデオロギ侵略であった。
   ・   ・   ・   
 東北諸藩は、薩摩や長州などの西国諸藩に比べて貧しく恵まれず、冷夏による凶作が発生すると食べる物がなくなり夥しい数の餓死者を出していた。
 幾ら金があっても食料がない為に、身分・地位に関係なく、富裕層でも貧困層でも、男女・老人から子供まで、智慧、体力、健康、我慢強さ・精神力そして強運・幸運がなければ呆気なく飢えて死んだ。
 飢えて死ぬ事において、日本では例外なく完全平等であった。
 各藩は、何があってもお家が大事として、主君を守る為に領民を切り捨てた。
 領民は、大名を見限って、食べ物がある豊かな町・城下町や江戸を目指して離村した。
 その結果として、西国は人口が多く、東国とくに東北は人口が少なかった。
 名君と言われた大名は、領民の離村を防ぐ為に、特に年貢(税)を納める百姓を助けた。
 東北雄藩は、数々の深刻な天災の被害で財政逼迫して西国雄藩に比べて近代化が遅れ、その結果、西洋式軍隊の官軍に惨めに敗北した。
 その点においても、東北諸藩は不運であった。
 戊辰戦争時、東北諸藩が敗北したのは国内外の情報に無知で時代遅れだったからではない。
   ・   ・   ・   
 戊辰戦争における東北の悲劇は、江戸時代末期のロシアの日本侵略から始まった。
 東北諸藩は徳川幕府の命令に従って、蝦夷地・北方領土南樺太をロシアから守る為に手分けして数千人の軍隊(武士)を現地守備に派兵した。
 だが、東北諸藩の派兵の経費自腹で、幕府から出兵と兵站(兵糧米・軍備調達・その他)の軍資金が支給されるわけではなかった。
 そして、貧乏な東北諸藩は武家諸法度に従って参勤交代の巨額な費用も賄う必要があった。
 それが、常在戦場・臨戦態勢・いざ鎌倉という幕藩体制の実体であった。
 国防の最前線は、アヘン戦争による南ではなくロシアの南下という北にあった。
   ・   ・   ・   
 幕府は、専守防衛戦略から、海岸を持つ諸大名に外国との戦争に備えて砲台を建設する事を命じ、砲台の数は全国で1,000基規模に達していた。
 専守防衛の意味は、グローバルな現代の日本人以上に鎖国を貫いた徳川幕府の方が正しく理解していた。
 その点で、徳川幕府現代日本よりも賢かった。
   ・   ・   ・   
 水戸斉昭・水戸藩吉田松陰宮部鼎蔵憂国の士は「尊王攘夷」を叫び、夷敵(ロシア)の侵略から日本天皇と神国日本を守るべく東北へ走り、国防強化の為に軍国主義化を急いだ。
 現代の右翼・右派・ネットウヨクが如何に自分の愛国心を自慢しても、彼らの足元にも及ばない。
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 南から来日してきたアメリカ・イギリス・フランス・オランダなどの西洋列強は、目の前の豊かな西国雄藩との交易を求めたが、貧しい東北諸藩など相手にしなかった。
 但し、武器商人である彼らは、大金を出して洋式の銃・大砲・軍艦などを買いに来れば、内戦の危険性を承知で最新兵器を売った。
 つまり、大金が動く戦争がカネ儲けになるの事は歴史的世界経済の常識であった。
 薩摩や長州など倒幕派=官軍が最新式の元込銃や大砲を装備し、仙台や会津など佐幕派=賊軍が旧式の火縄銃・先込銃や大砲を装備していたのはこの為である。
 けっして、東北地方・東北諸藩が時代を読めない時代遅れであった為ではない。
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 薩摩藩長州藩と東北諸藩の違いは、西洋に軍隊と戦争をしたかどうかであった。
 薩摩はイギリスと、長州は4カ国艦隊と、攘夷で戦い敗北して現実を知った。
 東北諸藩は、軍隊を派遣して臨戦態勢を敷いたが実際にはロシアと戦争をしなかった。
 ロシアが日本と戦争をしなかったのは、ナポレオン戦争やトルコ戦争の為であったが、それ以上に反天皇反日本として味方し反乱を起こす売国勢力が日本国内にいなかったからである。
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 現代日本のマルク主義史観とキリスト教史観で意図的に創作された偽日本の歴史は、東北を襲った悲劇という歴史的事実を無意味として切り捨てている。
 現代流行りの左派系時代劇も、戦前の軍国主義国家日本の正当性を証明する事実をタブーとして取り上げない。
 左翼・左派・ネットサハやリベラル派・革新派には、日本の歴史など分からない、理解できない。
 つまり、マルク主義史観やキリスト教史観などのグローバル史観ではローカルな日本民族の歴史など役に立たない。
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 キリスト教の宗教・精神・心侵略を怖れた原因は、中世キリスト教会と白人キリスト教商人が日本人奴隷交易したからである。
 海外勢力の領土侵略を怖れたのは、日本天皇の処刑、神国日本の破壊、日本民族の虐殺である。
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 徳川幕府は、日本国の平和と日本民族の安寧の為に、開国して富み栄える事を諦めて鎖国して貧しくなる事を選んだ。
 つまり、貧乏になり貧困と飢餓で苦しもうと穢れなく「清く・正しく・美しく」生きる事を選んだ。
 現代日本は、徳川幕府の貧しさを受け入れる清貧思想による選択を「愚かな考え」と否定している。
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✨15)─2・B─戦争犯罪。九州大学生体解剖事件。昭和20年5月17日。~No.53No.54No.55 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 心清き善い日本人は2割、心穢れた悪い日本人は3割、心が清くもなく穢れてもいない同調圧力・空気に流される根なし草のような自我が弱い日本人は5割。
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 2021年6月20日 MicrosoftNews 朝日新聞デジタル「戦時中に処刑された米兵ら43人、日米関係者が慰霊
 © 朝日新聞社 犠牲になった米兵を悼み、焼香する旧陸軍将校の遺族、冬至克也さん=2021年6月20日、福岡市城南区
 76年前の6月20日、福岡市にあった旧陸軍の西部軍管区司令部に捕らわれていた米兵8人が軍律会議を経ずに処刑された。8月にも同様の処刑があり、5月と6月には九州帝国大(現九州大)での実験手術の末、米兵が殺された。これら計43人の米兵を慰霊する法要が20日、福岡市城南区の油山観音であった。
 法要には処刑に加わって戦犯となった軍人2人の遺族や、米国のジョン・C・テイラー在福岡首席領事らが参列した。大分県の航空戦史研究者、深尾裕之さん(50)の働きかけで実現した。犠牲者の写真や日米の国旗が飾られた本堂で読経や焼香があり、犠牲者の遺族からのメッセージも読み上げられた。
 参列者の一人、冬至克也さん(67)=福岡市中央区=の父、堅太郎さん(故人)は6月20日の処刑に加わった。堅太郎さんは処刑の前日に空襲で母を亡くしており、処刑された米兵は、いずれもこの空襲とは別の日に墜落した米軍機の乗組員だった。
 終戦後に米軍がBC級戦犯を裁いた横浜裁判で死刑判決を受け、減刑されて出所した後、自宅に4体の地蔵を置いて自身が手にかけた4人の米兵を慰霊した。地蔵はいま油山観音の本堂裏にある。法要でも出席者が地蔵に手を合わせた。
 克也さんは「あの戦争は何だったのか。戦争なくして、この平和をもたらすことは出来なかったのか。この国の主権者として深く思う」と話した。
 左田野渉さん(62)=東京都荒川区=の父、修さん(故人)は8月10日の処刑を命じられた。修さんは生前、当時の心境などを詳細な手記に残した。その中には「処刑した相手はまだ若く、自分には悔いがある」との記述もみられるという。渉さんは法要後、「遺族として米国側の人と接したのは今日が初めてだった。息子として、父の代わりに慰霊の場に出られてよかった」と述べた。
 テイラー首席領事は「第2次世界大戦で日本人の苦しみは多かったと思う。それなのに今日、このような集まりに参加できて米国の代表としてうれしい」と話し、「私たちの責任は二度とこのような戦争を起こさないことだ」と語った。(吉田啓)」
   ・   ・   ・   

 NHK ETV特集
 2015年 12月12日(土)よる11時放送
 再放送12月19日 午前0時放送(金曜深夜)
 “医師の罪”を背負いて
 ~九大生体解剖事件~
 終戦間際の1945年5月から6月にかけて、九州帝国大学医学部で米兵の捕虜を使った生体実験が行われた。世に言う「九大生体解剖事件」。墜落したB29の搭乗員8人に対し、海水を使った代用血液を注入するなどのさまざまな生体実験の手術が行われ、捕虜たちは死亡した。戦後70年間タブー視され、多く語られることのなかった「負の歴史」。生体実験に関わった医師や看護師は、すでに全員が事件についてほとんど語らぬまま亡くなってしまった。しかし、ただ一人、そのとき医学生として生体実験手術の現場に立ち会った証言者がいる。東野利夫さん(89)である。東野さんは戦後、福岡市内で産婦人科医院を営みながら、国内外で関係者に取材を重ね、多くの壁にぶつかりながらも、事件と向き合う地道な活動を続けてきた。
 事件は、関係者や私たちに一体何を残したのか。私たちは何を反省し、何を語り継ぐべきなのか。番組では、東野さんの証言や亡くなった関係者・遺族への取材を通して、「九大生体解剖事件」からの70年という歳月の意味を見つめる。
 語り:池田成志(内容59分)
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 九州大学生体解剖事件は、第二次世界大戦中の1945年に福岡県福岡市の九州帝国大学(現九州大学)医学部の解剖実習室においてアメリカ軍捕虜に生体解剖(被験者が生存状態での解剖)が施術された事件。相川事件ともいわれる。
 大学が組織として関わったものではないとの主張もあるが、B級戦犯裁判ならびにその後の関係者の証言、関係者の反倫理的行為への意図的な隠蔽と否認などから、医学部と軍部の両方による計画的実行であったとする見解もある(#九州帝国大学の組織的関与についてを参照)。 物的証拠は無くあくまで証言のみで有る。
  ・  ・  
 『海と毒薬』は、遠藤周作の小説。1957年に発表された。
 太平洋戦争中に、捕虜となった米兵が臨床実験の被験者として使用された事件(九州大学生体解剖事件)を題材とした小説。テーマは「神なき日本人の罪意識」。第5回新潮社文学賞、第12回毎日出版文化賞受賞作。熊井啓監督で同名の映画が製作された。
 作中では九州帝国大学ではなく「F市の大学病院」とのみあり、登場人物も同事件に関わった特定の実在人物をモデルにしたものでない。ストーリーの構成においても創作性の強い作品である。
 遠藤が九州大学病院の建物に見舞い客を装って潜り込んだ際、屋上で手すりにもたれて雨にけぶる町と海とを見つめ、「海と毒薬」という題がうかんだという。評論家の山本健吉は、「運命とは黒い海であり、自分を破片のように押し流すもの。そして人間の意志や良心を麻痺させてしまうような状況を毒薬と名づけたのだろう」としている。
 あらすじ
 引っ越した家の近くにある医院へ、持病を治療しに通う男。男はやがて、その医院の医師・勝呂(すぐろ)が、かつての解剖実験事件に参加していた人物であることを知る。
 F市の大学病院の医師である勝呂。彼は、助かる見込みのない患者である「おばはん」が実験材料として使われようとすることに憤りを感じるが、教授たちに反対することが出来なかった。当時、橋本教授と権藤教授は医学部長を争っていたが、橋本は前部長の姪である田部夫人の手術に失敗し、死亡させてしまう。名誉挽回するために、B29の搭乗員の生体解剖を行い、勝呂と戸田も参加することになる。
 テーマ
 成文的な倫理規範を有するキリスト教と異なり、日本人には確とした行動を規律する成文原理が無く、集団心理と現世利益で動く傾向があるのではないか。小説に登場する勝呂医師や看護婦らは、どこにでもいるような標準的日本人である。彼らは誰にでも起き得る人生の挫折の中にいて、たまたま呼びかけられて人体実験に参加することになる。クリスチャンであれば原理に基づき強い拒否を行うはずだが、そうではない日本人は同調圧力に負けてしてしまう場合があるのではないか──自身もクリスチャンであった遠藤がこのように考えたことがモチーフとなっている。
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 西日本新聞
 『海と毒薬』九大生体解剖事件 思考停止、良心はあえいで
 2020/11/9 12:00 (2021/4/15 8:47 更新)
 吉田 昭一郎
 太平洋戦争末期の1945年5月、九州帝国大(現・九州大)医学部の医師らが、米軍爆撃機B29の乗員で捕虜となった米兵8人を生体解剖した事件を題材にした劇映画「海と毒薬」(1986年、熊井啓監督、原作・遠藤周作)。ともに解剖に参加する研究生で、忠実に務めを果たす戸田(渡辺謙)と、良心の呵責(かしゃく)に苦しむ勝呂(奥田瑛二)の対話を軸に、事件の内実を解き明かしていく。
 【関連】『EUREKA ユリイカ』バスジャック被害者、ともに歩む再生の軌跡
 今から見れば、健康な人間の人体解剖実験は明らかに医療倫理に反する犯罪行為だ。体格検査だと偽ってベッドに寝かせ、気づいてあらがう捕虜を数人で押さえつけて麻酔で眠らせ、切開する。人間はどの程度の肺の切除までなら生存できるのか、解剖するのだ。
 戦時下、執刀する教授はこう正当化する。「相手は国際法違反の無差別爆撃を重ねた敵国兵だ」「大本営も8人の処置は現地に任せている。心配無用だ」「医学者として(人体実験は)願ったりの機会」。今、裁けば狂気だろうが、当時は罪悪感を抑え込むのはそう難しくなかったのだろうか。
 教授や戸田らは一つ一つ実務的に解剖を進めるが、勝呂だけはじたばたする。身をすくめて解剖室の隅っこに退いて目をつぶったり、手術台をちらちら見ては両手で目を覆い耳をふさいだり。極めて人間的である。
 なぜ生体解剖に参加したのか、勝呂は連合国側の追及に語る。「私はひどく(生体解剖に)抵抗を感じとったとですよ。ばってん、そんころ体も心もひどう疲れとって、それ以上考えるのが苦しかったとです」「もうどうでもよか、考えてもしょうのなかことと、私一人の力ではどうにもならない世の中なんだと、自分に言い聞かせて…」。思考停止に陥ったのだ。
 一方、戸田は葛藤に苦しむことはない。「良心の呵責とは、他人の目、社会の罰に対する恐怖だけ」と話す。軍国国家の社会規範、世間の筋道から外れなければ何ら問題はないというわけだ。
 実際には勝呂のように取り乱す人物はいなかっただろう。そんなことをすれば、失格者の烙印(らくいん)を押されて、医師生命を失うかもしれない。戸田の方がむしろ当時の医師らの本音や気分に近い気がする。
 戸田は「実験は捕虜を殺したのではなく、医学の進歩のために生かしたのだ」と、言い訳めいた言葉をかけて勝呂を慰めるが、その文脈に当時のリアルを感じた。捕虜の命を奪った解剖後、「なぜ俺の心はこんなに無感動なんや」とつぶやくのもまた伝わるものがある。
 ドライで切れ者の戸田と、誠実で気が優しい勝呂。渡辺と奥田は、対照的な人物をくっきりと縁取りするように演じている。
 異形に映る勝呂のためらい、おびえは医師らが心の奥に封印した良心を擬人化した姿にも思えた。良心を自由に表に出せなくなる前に、手を打たなければ取り返しがつかなくなる。国の動きと世の流れは、油断なく見ていかなければならないのだと思う。 (吉田昭一郎)
 ※「フクオカ☆シネマペディア」は毎週月曜の正午に更新しています
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 西日本新聞
 捕虜の遺体「あの感触は、今も消えない」 九大生体解剖事件【狂気のメス<1>】
 2021/4/14 12:18 (2021/4/14 12:18 更新)
 復刻連載【狂気のメス<1>】
 下崎 千加
 70年前と同じ青空が広がった5月5日、大分県竹田市の山中で慰霊祭が開かれた。米爆撃機B29が墜落した地。「殉空之碑」には死亡した米兵11人の名が刻まれている。うち8人は遠い別の場所で命を落とした。狂気のメスによって-。
 事情を知る人物が慰霊祭の会場にいた。福岡市の医師、東野(とうの)利夫さん(89)。 「解剖実習室で血の付いた床を流したときの何とも言えん気持ちは、今も忘れられんとです」。事件は1945年5月17日に起きた。
 九州帝国大医学専門部(福岡市)に入って間もないころだった。教授の手伝いで解剖学教室に詰めていると、目隠しをされた白人2人が護衛兵に抱えられ、実習室へ入っていった。
 気になってのぞくと、麻酔で眠る一人が解剖台に横たわり、白衣姿の約10人に囲まれていた。陸軍将校が説明する。「この捕虜は無差別爆撃をやったB29の搭乗員である。傷は落下傘で降りてきたときに村民から猟銃でやられたものだ」
 メスで肩から胸にかけて切開された。ポキポキという音とともにあばら骨が切り取られていく。赤紫の臓器が取り出された。「人間は片肺でも生きられる」。執刀医の声が聞こえた。中座して戻ると息絶えていた。
 もう一人の手術が始まり「君、手伝ってくれ」と透明の液が入った輸液瓶を持たされた。この捕虜には傷が見当たらない。それでもメスの動きにためらいはなかった。胸の上下動がしばらくして止まった。
 遺体が並ぶ中、バケツの水で床の血を洗い流した。上級生が「貴重だからな」と遺体から標本を採取し始めた。眼球摘出のため、頭を押さえさせられた。
 5日後にも2人の手術に立ち会った。最初から治療する気などなかったのではないか…。疑念が確信に変わったのは、自分が不在の間にも4人の手術があり、全員が火葬されたと知らされたときだった。
 あれから70年。東野さんは両手を開いて眺め、苦しそうにつぶやいた。
 「まだぬくもりのある頭を押さえたときの、あの感触は、今も消えない」
   ◇    ◇
 戦争犯罪として医師ら14人、軍人9人が死刑(後に減刑)を含む有罪となった九大生体解剖事件。判決後はほとんどの関係者が口をつぐみ、タブー視されてきた。その禁を破って語り始めた人たちがいる。思いに迫る。
悪が支配「私なら断れたか…」 墜落の村訪問 真相調べ
 九大生体解剖事件に関わった福岡市の医師、東野(とうの)利夫さん(89)は、1948年の軍事裁判で証言台に立った。その中で、手術中に持たされた輸液瓶の中身が博多湾の海水だと知る。本土決戦で負傷者が多数出ることを想定した「代用血液」開発実験だったのだ。
 自身は罪を問われず、60年に産婦人科医として開業した。命の誕生に立ち会う一方、命を奪う行為に加担した過去に苦しんだ。眠れず、心療内科に通った。
 「命を救う医者がなぜ、あんな残酷なことをしたのか」。答えを見つけなければ苦悩から逃れられない。裁判資料を読み、刑期を終えた元教授に話を聞くなどして真相を調べ始めた。
 74年には事件の始まりを探ろうと、大分県竹田市と周辺を訪ね歩いた。B29の墜落場所に行き着き、土地の所有者である工藤文夫さんに会う。「本当にかわいそうなことをした」と言われたときは、自分と同じ傷を負っていると感じた。
 墜落場所の周辺には、日本軍機に体当たりを受け、搭乗員12人が落下傘で降下した。1人は墜落死、1人は拳銃自殺、1人は住民に猟銃で射殺された。捕縛された9人が福岡市の西部軍管区司令部に移され、機長をのぞく8人が生体解剖の犠牲となったとされる。
 工藤さんの三女、田口トシ子さん(81)=大分市=はあの日を覚えている。
 当時11歳。国民学校防空壕(ごう)でドーンという音を聞いた。帰宅中、右肩に被弾した搭乗員が戸板に寝かされているのを見た。別の1人を、竹やりを構えた住民が囲んでいた。100人以上いて「あだ討ちじゃ」と殺気立っていた。
 後日、1セント硬貨を拾った。「後で返してやろうと取っておいたけど、そんな日は来ませんでした」
 戦後、連合国軍総司令部GHQ)の捜査の手は山村にまで伸びた。竹田市熊本県阿蘇郡で数百人が取り調べを受け、射殺や暴行、遺体に石を投げたりした事実が明らかになった。加害の記憶がのどかな山村に影を落とし、九大事件と同様、誰も語らなくなった。
 そこに現れたのが東野さんだった。工藤さんと資金を出し合い、墜落跡地に石碑を建てた。77年から慰霊祭を毎年開き、91年に工藤さんが90歳で亡くなってからは長男の勝昭さん(78)が引き継いできた。
 70年がたち、戦争の記憶は遠のいていく。「竹田の皆さんが忘れずにいてくれる。ここに来ると救われます」と東野さん。一方で思う。ひとたび戦争になれば人の心を憎悪が支配する。九大事件の首謀者とされ、逮捕直後に自殺した第1外科教授は医学界のエリートだった。「私だったら断れたか…。自信はない」。東野さんの自問は続く。 (下崎千加)
    ◇    ◇
 この連載は2015年6月に掲載しました。文中の年齢、肩書、名称などの情報は全て掲載当時のものです。
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💖33)─1─日本民族は敵味方に関係なく死者を等しく弔った。A級戦犯松井石根 と興亜観音。〜No.139No.140No.141No.142 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代の日本人には、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいか、ない。
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 ウィキペディア
  興亜観音(こうあかんのん)は、静岡県熱海市伊豆山にある観音像。また、同観音像を祀る宗教法人礼拝山興亜観音(らいはいざんこうあかんのん。以下「興亜観音」という)。日蓮宗から分かれた法華宗陣門流(本山: 新潟県三条市)の系ではあるが、興亜観音はこれにも属さず、日本で唯一の独自の歴史と祭祀を持った独立した寺院である。創立の趣旨から宗派を問わず参拝客を受け入れている。また、興亜観音は、創建者松井石根大将の賛同を得て、三重県尾鷲市金剛寺奈良県桜井市蓮台寺富山県入善町養照寺に現存するほか、中華民国、タイ国にも贈られたことが知られている。
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 2021年6月19日 MicrosoftNews KYODO 共同通信社「静岡空襲76年、日米の死者悼む 黒焦げ水筒で献酒
 © KYODONEWS 日米合同の慰霊祭で献酒する人たち=19日午後、静岡市葵区の賎機山
 静岡市街地に大量の焼夷弾が落とされた静岡空襲から76年となる19日、犠牲になった市民約2千人と、墜落死したB29搭乗員23人を慰霊する日米合同の慰霊祭が、同市葵区の賎機山で開かれた。市民の他、横田基地(東京都)所属の米軍人約50人が参加。米兵の遺品の一つである、黒く焼け焦げた水筒に入れたバーボンウイスキーによる献酒も行われた。
 参加者らは賎機山の山頂に立つ、日米双方を弔う二つの慰霊碑にそれぞれ献花した。
 慰霊祭を主催する同市の医師菅野寛也さん(87)はあいさつで「慰霊の行事なくして和解平和はあり得ない」と、毎年開催する意義を説明した。」
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 2019年4月2日 朝日新聞デジタル>記事「空襲1945 なぜ敵国兵士を弔うのか 「B29慰霊碑」訪ねて考えた
 中央大学(東京都八王子市)の学生が、全国にある米軍爆撃機の慰霊碑にまつわる話を本にまとめた。約2年前に出版した「日本全国B29慰霊碑物語」の続編。2冊合わせて北は秋田から南は沖縄・石垣にある計31の碑を調べた。その調査を通じて学生たちは「戦争とは何か」を考えた。
 焦土と化した日本「空襲1945」 あの日の惨禍、写真は語る
 空襲・戦火の記憶、記事一覧はこちら
 昨年12月に続編を出したのは、松野良一教授のゼミの学生たち。ゼミでは2006年と17年に、青梅市東村山市にあるB29慰霊碑を取材し、多摩地域のケーブルテレビなどで放映された。その後、「全国にどれくらいのB29に関する慰霊碑があるのか」との疑問から調査、取材した。
 総合政策学部3年の谷井健吾さん(21)は山口県柳井市の「平和の碑」を取材した。1945年7月に旧日本軍の攻撃を受けたB24の墜落地に立つ。乗務員は捕虜として広島市に連行され、ほとんどが原爆で即死した。
 谷井さんは「なぜ敵国の兵士を弔うのか」という疑問を抱いていた。碑建立に携わった人や、被爆死した米兵の親族……。そこで出会ったのが歴史研究家の森重昭さんだった。
 2016年5月にオバマ米大統領(当時)が現職として初めて広島を訪れた際、抱擁した相手だ。「敵国の人間としてではなく、一人の人間として」という森さんの言葉に心を揺さぶられた。「市民同士では敵も味方もないと気付かされた」
 総合政策学部2年の佐藤仁紀さん(20)は、宮崎県沖に墜落したB29の慰霊祭を取材した。印象に残るのは、元特攻隊の男性と、墜落機から唯一生還した米兵との慰霊祭での出会い。「戦後70年以上経て仲良くなる。恨むべきは戦争で、兵士ではないとわかった」
 本は中央大学出版部からで1部300円。問い合わせは同出版部(042・674・2359)へ。(滝口信之)」
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 日本民族は、今日の友は明日の敵・今日の敵は明日の友、という無常にして非情な人間関係を当たり前の事として自然に受け入れ、戦争が終われば戦場で自分の親兄弟を殺した相手に恨み辛みを捨て、遺恨を残さず、長年の友人の如く和気あいあいと酒を酌み交わし心の底から親交を深め、意気投合したら婚姻を結んで家族となった。
 その好例が、日本とアメリカやイギリスとの関係である。
 隣国の中国共産党政府、韓国・北朝鮮、ロシアとはそんな関係はないし、歴史的事実としてそうし関係を築く事は絶対に不可能である。
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 反天皇反日本にして反宗教無神論マルクス主義者・共産主義者、左翼・左派・ネットサハには、何故、日本人が家族や身内を容赦なく無慈悲に殺した敵兵士を仏として弔い供養し神として祀り拝礼するのか、その民族固有の宗教・伝統・文化・風習が理解できない。
 何故なら、彼らにはローカル的な民族の心・志・精神・思い・気持ちがないからである。
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 死んだ敵兵を慰霊するのは、日本人が心優しいからではなく、怨みを持つ怨霊・荒神・魔物となって祟られるのが怖いからである。
 つまり、恐ろしい憎悪エネルギーを爆発させた死者が残虐な亡霊となって復讐しに来るという恐怖である。
 恐怖の亡霊を鎮める為に、日本人が殺した敵兵士を仏として弔い供養し神として祀り拝礼するののである。
 全ての死者を弔うという日本宗教の正統性は、仏教・儒教キリスト教ユダヤ教・その他ではなく、日本神道であり、日本神話・血の神話を源とする神の血を根拠とする祭祀王である万世一系の男系父系天皇が有する神格である。
 神の血を引かない正当な女系母系天皇では、怨念の塊となった亡霊を鎮め、怨みを持つ怨霊・荒神・魔物を癒やす事はできない。
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 日本民族は、平和愛好民族として戦争を憎いとは思ってはいないどころか、その時、いざとなったら戦争を辞さず、自ら進んで武器を手に戦場に出て敵と殺し合った。
 が、差別主義者や戦争狂の過激な右翼・右派・ネットウヨクとは違う。
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 2017年8月15日 デジタル記事「敵味方に関係なく戦死者を弔う日本の伝統精神
 テーマ:個人的なこと
 靖国神社の敷地内には、国籍を問わず全世界すべての戦没者の霊を祀る「鎮霊社」が建てられています。
 日本国のために命を捧げた方々を顕彰する、靖国神社の境内に、靖国本殿に英霊として祀られている方だけでなく、国籍を問わずに全世界すべての戦没者の霊を祀る「鎮霊社」があるという意味はとても大きく、僕は凄く心に想うことがあります。
 鎮霊社の前に立て札があり、こんな由来が書かれています。
 「明治維新以来の戦争・事変に起因して死没し、靖国神社に合祀(ごうし)されぬ人々の霊を慰めるため、昭和四十年七月に建立し、万邦諸国の戦没者も共に鎮斎する。例祭日七月十三日」
 靖国神社には、白虎隊や西郷などは祀られていません。そこを批判する方もいらっしゃるようですが、それを補う意味でも、この鎮霊社はあるんですね。
 ただ、この鎮霊社は、靖国神社ができてから、約百年後に本殿とは別に建てられたこともあり、なんらかの政治的作為があるのでは?などという方もいらっしゃるようですね。
 でも僕は、素直に鎮霊社の精神、戦争で命を落とした万邦諸国の戦没者を弔いたいという気持ちを信じたいと思います。
 というのも、日本には、古来から、敵味方なく戦死者を弔う伝統精神があったと僕は信じているからです。
 それは、やっぱり人間は魂の世界から、魂の修行のためにこの世に生まれてきて、生きているうちは魂の修行だから、色んなことがあるにしても、死んで魂の世界に戻ったら、魂の世界は一緒だという、神道以前の古神道の精神に繋るものが、日本には息づいていると僕は思うからです。
 また、古来からの怨霊鎮魂の考えも関係しているのかもしません。
 たとえば、元寇の時。
 元寇で命を落とした人たちを弔うために、北条時宗は、1282年、円覚寺を創建しました。
 開山は、時宗南宋から招いた禅僧・無学祖元。
 ここで注目したいのは、両軍の戦死者を供養していることです。凄いでしょ?
 九州各地には、元軍の戦死者を弔う「蒙古塚」が今でも残っています。
 敵味方なく「死後は神になる」という死者に敬意を表す伝統精神は日本人の誇りで、そうゆう伝統精神があったことを日本人として僕はとてもうれしく思います。
 僕は、日本の古来からある、敵味方なく死者を弔うという日本の伝統精神を世界に向けてもアピールするために、横綱白鵬日馬富士と安倍首相が一緒に、九州の蒙古塚を慰霊に行ってほしいなって思います。
 また、日露戦争の後は、日本は旅順近郊の激戦地・案子山にロシア兵戦没者の慰霊塔を真っ先に建てました(なんと!自国の日本兵を弔う慰霊塔よりも先に!)
 ロシア人にとっては信じがたいことで、ときのロシア皇帝ニコライ二世は涙を流して感激したといいます。
 また第二次世界大戦中、敵国アメリカのルーズヴェルト大統領が死んだとき、日本の鈴木貫太郎首相が弔意の談話をアメリカ国民に向けて発表しています。(同時期、ドイツのヒトラーは訃報に狂喜乱舞していたといいます・・・)
 僕はもっともっと日本人自身が、日本には古来から、敵味方に関係なく戦死者を弔う日本の伝統精神があったことを知り、誇りに思ってほしいと思う。
 そして、日本には古来から敵味方に関係なく戦死者を弔う日本の伝統精神があったことを諸外国にも知らせるべきだと思う。だって、諸外国にはそうゆう伝統精神はなかったのだから、きちんと知らせないとわかってくれるはずもないのだから。
 僕は、この日本の伝統精神は素晴らしいものだし、これからの日本人も大切にしないといけないと思います。
 そして、このような伝統精神は諸外国にはなかなかないものだと思うので、これは日本の伝統精神なんだということは、しつこいぐらいに諸外国にアピールすべきだと思います。
 最後になりますが、そうでないと、せっかく日露戦争の後、敵国ロシアの戦没者の霊を真っ先に日本が慰霊したことに、ロシアも感謝したということがあったのに、その後シベリア抑留というような不幸な出来事が起こったりもしてしまいますから。
 あんな悲劇が繰り返されないように、靖国にある鎮霊社の精神、敵味方に関係なく戦死者を弔う日本の伝統精神は日本人自体がもっと大切にし、誇にほりに思い、そして諸外国にもっとアピールすべきだと僕は思いますが、皆様いかがなものでしょうか?
 日本古来からの怨霊鎮魂、敵味方に関係なく戦死者を弔う精神。
 敗戦国家日本をさばいた東京裁判を不幸にも日本国民は経験しました。
 日本の復讐を恐れてやったGHQのウォーギルトインフォメーション。
 それを経験してしまった日本だけに、「いや、日本には敵味方に関係なく戦死者を弔う精神が古来からあったんだぞ」ということは訴えたいものだと思います。
 @広島の原爆が落とされた二日後の8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告、満州南樺太に侵攻する。さらに終戦の日から三日後の8月18日、千島列島北端の占守島に上陸し、千島列島を次々と占領していく。その後、8月28日には択捉島、9月1日には国後島色丹島、9月5日には歯舞群島まで占領する。
 おいおい、日ソ中立条約はまだ失効していない。しかも、日本はポツダム宣言を受諾している。終戦の日を過ぎてもなお侵攻を続け、多数の日本人を虐殺するソ連。・・・」
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 デジタル記事「明治維新150周年【いざなう維新】
 新年編6 恩讐を越え 「敵」の戦死者弔う
 拡大薩摩藩の戦死者の墓の前で法要を営む福島県白河市の丸の内町内会の人たち=昨年8月27日、丸の内町内会提供
 写真:薩摩藩の戦死者を弔ってきた丸の内町内会長の箕輪正男さん=福島県白河市
 拡大薩摩藩の戦死者を弔ってきた丸の内町内会長の箕輪正男さん=福島県白河市
 写真:西南戦争での政府軍、薩軍戦没者を弔う慰霊塔=鹿児島市の南洲墓地
 拡大西南戦争での政府軍、薩軍戦没者を弔う慰霊塔=鹿児島市の南洲墓地
 倒幕、明治維新という大きな時代の変革は、多くの流血を伴った。戊辰戦争の激戦の舞台となった東北では、「敵」だった薩摩藩の戦死者らの弔いが今なお続く。さらに節目の年を迎えて、敵味方を超えて戦没者を追悼する動きが進んでいる。
 福島県白河市。JR白河駅から10分ほど歩いたところにある「鎮護神(ちんごじん)山」という小高い丘に登ると、「戊辰薩藩戦死者墓」と書かれた高さ3メートルほどの墓石があった。1868年6月に始まった「白河口の戦い」で戦死した約60人の薩摩藩士たちが眠っている。
 会津攻略をめざす薩摩、長州などの新政府軍と仙台、会津藩などの旧幕府軍白河城をめぐって激突したこの戦いは約100日間にわたって続き、約1千人以上が戦死。戊辰戦争で最大の戦いと言われる。
 墓石に刻まれている薩摩藩の戦死者の一人、「二番隊小頭見習 河崎休右衛門良経(よしつね)」は、鹿児島市の河崎良和さん(92)の祖父、良光さんの兄だ。
 良光さんは良経、良実(よしざね)の2人の兄とともに白河口の戦いに参加。良経は銃撃を受けて死亡したという。次男の良実は戊辰戦争後の1877年に起きた西南戦争にも加わり、激戦地となった熊本・田原坂で戦死。良光さんだけが二つの戦争を生き抜いた。
 良和さんは小学生のとき、戊辰戦争で戦死した良経のことを聞かされた。そして5年ほど前、鹿児島市で開かれた戊辰戦争戦没者慰霊祭で白河に薩摩藩士の墓があることを知り、借りた墓碑銘の写真から「良経」の名前を見つけた。
 約80年ぶりに知った大伯父の「消息」。当時24歳だった良経がたけだけしく奮戦する姿が思い浮かんだ。
     *
 薩摩藩戦死者の墓の近くにある長寿院の島村宗忍(そうにん)住職によると、白河口の戦いの後、町中に放置されていた新政府軍の戦死者の遺体を当時の住職が引き取り、藩ごとに墓を建てて丁重に弔った。1915年にはいわき市や三春町にあった薩摩藩士の墓と合葬したという。
 毎年8月下旬、地元の丸の内町内会の有志が集まり、墓の掃除をした後、長寿院の僧侶が読経する。法要は少なくとも20年ほど前から続いているという。町内会長の箕輪正男さん(69)は「両軍とも国のためを思って一生懸命戦い、命を落とした気の毒な若者。故郷から離れた敵地だからこそ丁寧に弔ってあげたい」と話す。
 今年は戊辰戦争から150年。白河市は7月中旬に、薩摩や長州、大垣など「敵軍」だった自治体から首長や歴史研究家、子孫などを招いた慰霊祭を計画。長寿院も6月10日に慰霊祭を催す予定だ。
 「敵地」で続けられてきた弔いに、河崎さんは「本当にありがたく、死ぬまでに一度は訪ねたい。薩摩藩士の墓に手を合わせることで、肩身の狭い思いをしたかも知れないと思うと、胸が痛む、子や孫にもこの気持ちを伝えたい」と話す。
     *
 西郷隆盛らが眠る鹿児島市の南洲墓地に昨年9月、新しい慰霊塔が建てられた。西南戦争戦没者薩軍、政府軍の区別なく弔うもので、塔の碑文には「西南之役官軍薩軍恩讐を越えて」と刻まれた。
 南洲墓地に政府軍の戦死者を慰霊するものが置かれるのは初めて。記念式典に招かれた大久保利通のひ孫で東京都世田谷区の大久保利泰(としひろ)さん(83)は「140年の月日を経て、ようやくここまで来たことに感慨無量」と語った。
 式典には西郷のひ孫で川崎市の西郷吉太郎さん(70)も出席。明治政府に反抗した西郷と、盟友の討伐を指揮した大久保の子孫が握手を交わした。
 慰霊塔の建立を呼びかけた同市の大雄山南泉院の宮下亮善(りょうぜん)住職は「歴史を振り返って和解するというだけではない」と強調する。
 「今、世界ではいがみあいが続き、『許す』という気持ちがなくなっている。『和をもって貴しとなす』という日本の文化を未来志向でアピールしたい」 (大崎浩義)」
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 松井石根 と興亜観音
 山田雄司
 はじめに
 明治 11年 (1878)7月27日、愛知県牧野村(現名古屋市)で 生を受けた松井石根は、陸軍士官学校陸軍大学校を卒業。日露戦争に従軍した後、北京・上海などでの駐在を経て、ハルビン特務機関長、台湾軍司令官を勤め、陸軍大将となったが、昭和 10年 (1935)8月、陸軍省内で統制派の永田鉄山軍務局長が皇道派青年将校に共感した相沢二郎中佐に惨殺されるという相沢事件が起きたため、軍の責任を感じた松井は現役を退いて予備役 となった。
 中国駐在中、孫文の大亜細亜主義に強く共鳴した松井は、昭和8年3月に大亜細亜協会が設立されると、この運動に進んで参カロし、予備役となった後は会長となり、亜細亜の独立解放など「興亜」の理想を実現すべく活動に邁進した。
 しかし、昭和12年8月の第二次上海事変をきつかけに、中国通の松井は現役復帰を命ぜられ、8月15日上海派遣軍司令官となって、9月29日には苦難の末に大場鎮を占領、10月30日には上海軍と第 10軍とを統轄する中支那派遣軍司令官も兼官することとなったが、12月4日朝香宮鳩彦中将が上海派遣軍司令官 となったため、松井は兼任を解かれた。そしてその後南京攻略戦の指揮にあた り、12月10日に総攻撃を開始、13日に南京城は陥落し、17日入城式が行われた。
 12月22日には上海に戻り、新政府樹立のための工作に奔走していたがうまく事は運ばず、翌年2月23日海路帰還した。帰国後の松井は傷病兵の慰問や全国の護国神社の参拝などを行い、退役軍人として英霊の冥福を祈り、遺族から依頼された墓碑銘の揮墓などを行つた。その後松井は大森の官舎を引き払い、熱海伊豆山に移り住み、ここに興亜観音 と名づけた観音像を建立し、日本。中国両国戦死者の菩提を弔つた。そして松井は観音堂への参詣と朝夕の観音経の奉唱を欠かさず、あわせて全国の傷病兵の見舞いに努める一方、上海、南京、北支、中支などの戦跡を巡歴して慰霊を行うのとともに、興亜総本部総裁 ・大日本興亜会総裁として「亜細亜の独立」のために奔走した。
 敗戦後の松井はほとんど仏門のような生活であつたが、昭和20年10月19日、A級戦犯容疑となり、肺炎のために遅れて昭和 21年3月6日巣鴨プリズンに入獄した。そして極東国際軍事裁判において死刑判決を受け、昭和23年12月23日、7人のうち最初に処刑された。そのときの辞世は次のようである。
 天地も人もうらみずひとすじに無畏を念じて安らけく逝く
 いきにえに尽くる命は惜かれど国に捧げて残りし身なれば
 世の人にのこさばやと思ふ言の葉は自他平等誠の心
 衆生皆姑息
 正気払神州
 無為観音力
 普明照亜洲
 本稿では、このような松井石根によって建立された興亜観音が、いかなる思想により発案され製作されたのか、またどこにどのような経緯で建立されたのか、さらには興亜観音が人々にどのような影響を与えたのか明らかにしたいと思う。
 南京戦後の慰霊
 昭和12年12月13日、南京は陥落し、17日に入場式が行われたが、翌 18日に南京戦において亡くなった 日本軍戦死者の慰霊祭が行われた。この慰霊祭について、東京裁判中山寧人参謀の宣誓口述書では以下のように述べ られている。

 慰霊祭は初め"中 国軍の戦没者も併せて祈り慰霊する様にせよ、これが日支和平の基調である"と、松井大将は参謀長に祭文其の他の準備をする様に命ぜられましたが、同時の余裕なく後 日に譲ることとなりました。

松井は慰霊祭において日本軍および中国軍の戦死者をあわせて祀ることを考えていたが、師団長から異論が出て、同時の余裕もなかったため日本軍戦死者のみとし、「中支那方面陸海軍戦病歿将兵之霊標」の標柱が立てられ、南京城故宮飛行場にて松井を祭主として慰霊祭が挙行された。松井はすでにこの時点で日中両国の戦死者の慰霊を考えていたと言える。
 また、山ノ井晃道「千人針と観音さま」に以下の叙述がされている。

 (昭和12年)十月の或る日の東京朝 日新聞の夕刊は、上海戦の第一線に突撃部隊の勇名を馳せた我が鷹森部隊長の陣中生活の一面を報じてゐる。
 鷹森部隊長は日頃、法然上人の教に深く帰依する人となり、死屍なまぐさき戦線に立つては、日毎に戦場の露と消える敵味方の勇士の冥福を祈つて、法然上人の一枚起請文を誦し又南無阿弥陀仏を唱へて亡き霊に回向してゐると云ふ。

鷹森部隊長 とは、松井石根司令官配下の第 3師 団先遣隊連隊長の鷹森孝大佐のことである。彼もまた敵味方の戦死者供養を行つていることが注目される。
 さらには、『朝日新聞昭和12年12月24日には「無名戦士よ眠れ」と題する記事が写真とともに掲載されている。

 抗日の世迷い言に乗せられたとは言え、敵兵も又、華と散つたのである、戦野に骸を横たへて風雨に曝された哀れな彼ら、が勇士達の目には大和魂の涙が浮かぶ、無名の敵戦士達よ眠れ !白木にすべる筆の運びも彼 らを思へばこそ暫 し渋る優 しき心の墓標だ

そこには自木に「中国無名戦死者之墓大日本軍建之」と墨で書かれた墓標が4柱横たえている。この記事から、敵兵を弔おうとしていたのは上官だけでなく、兵卒の間でも広く行われていたことがわかる。中国との戦争の際には日本軍による慰霊がしばしば行われ、新聞でもよくとりあげられた。こうした慰霊のあり方がいつからどのような形で行われていたのか、従軍僧との関係も考慮して検討の余地があろう。
 昭和13年2月7日には南京で50日祭ともいうべき慰霊祭が挙行された。『松井石根大将陣中日誌』には以下のように記 されている。
 
 午後慰霊祭二参列ス予ハ去年南京入城翌日最初ノ慰霊祭ヲ自ラ祭主トシテ営ミ今日亦五十日祭トモ云フヘキ此祭事二遭フモノナレト異ノモノハ戦勝ノ誇卜気分ニテ寧口忠霊二対シ悲哀ノ情少カリシモ今日ハ只々悲哀其物二捉ハレ責任感ノ太ク胸中二迫ルヲ覚エタリ 蓋シ南京占領後ノ軍ノ諸不始末卜其後地方自治、政権工作等ノ進捗セサルニ起因スルモノナリ例テ式後参集各隊長ヲ集メ予ノ此所感ヲ披露シテー般ノ戒筋ヲ促セリ
 忠霊 (病死共) 一人、○○○余
 斃馬一二、○○○頭

このとき慰霊されたのは、12月18日の慰霊祭で慰霊された「中支那方面陸海軍戦病歿将兵」の「忠魂」であって、中国人の戦死者の慰霊は行われていない。なおこの時に、「忠霊二対シ」「只々悲哀其物二捉ハレ責任感ノ太ク胸中二迫ルヲ覚エタリ」という感想を残しているのは、「南京占領後ノ軍ノ諸不始末」や「政権工作等ノ進捗」しないことによるためであったとしている。南京入城後、軍紀の乱れから一部兵士による略奪・強姦・暴行・殺人が行われたことに松井は心を痛めていたことが昭和12年12月20日の日記からもわかる。そのため、慰霊祭の際に「軍紀 ・風紀ノ振粛」「支那人軽侮思想ノ排除」といった訓示を与え、規律を正そうと努めている。
 この日の夕、中国側の自治委員と会見し、新政権樹立を中国人の手に任せ、そのためには自らも協力を惜しまない旨を述べ、朝香宮軍司令官主催の夕食会では、「兎二角支那人ヲ懐カシメ之ヲ可愛カリ憐ム丈ニテ足ルヲ以テ各隊将兵二此気持ヲ持タシムル様希望」することを各隊長に述べている。中国通であつた松井は慈悲の心をもつて中国および中国人を見ていた。
 そして翌2月8日朝、兵靖病院を慰問したが、その際、日中両国僧侶参列の下、中国軍戦死者の慰霊祭を行つていることが注目される。上海派遣軍参謀副長『上村利通日記』にはその様子が以下のように記されている。

 松井軍司令官兵靖病院見舞、担江門脇二於テ支那軍戦死者ノ慰霊祭ヲロロニ取り行フ。
「敵ニハアレド亡キガラニ花ヲ手向クル武士道ノ情ケナ リ」自治委員会ノー行、日支ノ僧侶参列ス

 この慰霊祭は、南京城北西の担江門脇で行つていることから、昭和12年12月12日日本軍南京侵攻の際、中国軍兵士が担江門から脱出しようとして混乱し、約1000名の中国軍兵士が死亡した担江門事件の慰霊であろう。
 さらに2月14日には、上海郊外の呉泄元砲台跡に計画中の聖戦記念塔の地鎮祭を行つている。この地は最初の上陸作戦で多くの日本軍死者を出した激戦地であり、そこに記念塔が建設されることになったのである。また同日、上海東西本願寺に祀られている戦病死者の英霊に参拝している。『松井石根大将陣中日誌』によれば、西本願寺に収容されている遺骨総計は約2万1千で、すでに4千余を還送し、近くさらに6千を還送する予定だとい。また東本願寺の分は総計2千余で、すでに6百余を還送し、近くさらに3百を還送する予定だという。これら多数の戦病死者の遺骨を目の当た りにし、松井は自身の責任の重大さを痛感じ「痛恨ノ至りと記している。
 また2月18日には、大場鎮の戦闘で亡くなった 日本軍戦死者慰霊のため建設することになつた表忠塔の題字およびその下に刻記するための詩を書し、それは以下のようであつた。
 大場鎮陥落即吟
 悪戦力闘三閲月
 包疲抜塁斃不已
 神哉敵陣旭旗翻
 欲餞忠霊幽寂裏
 こうした納骨施設を伴つた表忠塔・忠霊塔の類は、日露戦争以後、日本軍が海外で戦闘の後、英霊を弔うため、その地に少なからず建立された。遺骨の大部分は郷里に還送されたが、残つた遺灰は付近の清浄な地に埋葬 され、納骨祠を建立して遺灰は奉安された。
 以上、南京戦後、松井の戦死者慰霊に関する記事を抜き出してみた。ここでわかることは、松井は自ら慰霊祭の祭主を務めるなど、積極的に慰霊を行つており、日本軍だけでなく中国人の戦死者慰霊も行つていることである。
 松井は2月23日に門司港に到着後、翌朝赤間神宮および乃木神社に参拝しているが、松井は同じ大将として乃木希典を非常に尊敬していた。乃木は日露戦争旅順要塞攻撃で亡くなったロシア軍慰霊のために、明治41年6月10日日露両国の代表者が参列して行われた「旅順陣歿露軍将卒之碑」の除幕式に参カロしたり、旅順要塞攻撃の際に殉じた日本陸海軍将校下士卒の遺骨残灰の一部を合葬して英霊を慰めるために、明治41年3月31日に竣工された旅順白玉山納骨祠や、日本軍戦歿者の英霊を慰めその威烈を千載に伝えるために、明治42年11月28日に竣正式が行われた旅順表忠塔にも深く関わつていることから、慰霊に関してこうした乃木のあ り方に倣つたのであろう。「旅順陣歿露軍将卒之碑」建立の意図は、戦時中は「仇敵」だつたが戦後は「友邦者」となったのであり、自国に忠義を尽くし戦歿した「英霊」が存するのであるからもちろん敵国にも戦歿した「英霊」がおり、その遺屍が「無頼土民の徒」に冒涜されないように改葬して弔い、その義烈を千載に伝えようとしたものであつたとされている。こうした慰霊のあり方は、武士道と結びついて醸成され、さらには松井石根が強調した「怨親平等」思想に基づいた興亜観音建立へ とつながっていく。

 2 興亜観音の建立
 熱海伊豆山に建立された興亜観音の経緯については、田中正明編 『松井石根大将の陣中日誌』に紹介される熱海伊豆山温泉旅館涼々園主人古島安二氏の手記 「興亜観音建立由来記」に詳しいので、それをまとめる形で紹介 したい。

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 「建立縁起」には次のように記されている。
 支那事変は友隣相撃ちて莫大の生命を喪滅す。実に千歳の悲惨事なり。然りと雖、是所謂東亜民族救済の聖戦たり。惟ふに比の犠牲たるや身を殺して大慈を布く無畏の勇、慈悲の行、真に興亜の礎たらんとする意に出でたるたるものなり。予大命を拝して江南の野に転戦し、亡ふ所の生霊算なし。洵に痛惜の至りに堪へず。方に此等の霊を弔ふ為に、彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を獲り、施無畏者慈眼視衆生観音菩薩の像を建立し、此の功徳を以つて永く怨親平等に回向し、諸人と倶に彼の観音力を念じ、東亜の大光明を仰がん事を祈る。
 因に古島安二氏其他幾多同感の人士併に熱海市各方面の熱心な協力を感謝す。
   紀元二千六百年二月
   願主 陸軍大将松井石根

 また、『朝日新聞』静岡版昭和15年2月25日「"冥福を祈つて"願主松井大将は語る」には、「興亜観音開眼式の二十四日朝、松井大将は牧少将を通じて観音建設の意向を次の如く語つた」として、

 興亜の大光明を仰ぎ度い一心からこの大業のために尊い犠牲となつた皇軍将士とこれも同じ大業のためたふれた支那の兵士の霊を併せて弔ひ度いのが自分の念願で皇軍将士は靖国の神 と祀られるのであるが皇道精神から見れば自分が観音像を建ててその冥福を祈る気持もそれに合致してゐると信じてゐる、本籍迄熱海へ移した自分はここで幾多の英「
霊を慰めながら余生を送り度いと思ふ

と記されている。
 「建立縁起」では、「怨親平等」が明確に記されており、観音菩薩の力によつて亡くなった人々の菩提 を弔い、さらに東亜民族の救済を念じている。

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 興亜観音の造立は、戦死者を悼む多 くの人々の心を動かしていった。

 3 各地に建立された興亜観音

 興亜観音は熱海のものが著名であるが、それだけではなかった。新聞記事で興亜観音について報道されるや、怨親平等思想に共鳴した僧侶が自らの寺院にも興亜観音を建立したいとの希望を松井に申し出、松井はそれに対して快諾して、他所においても興亜観音が建立されることになった。

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 台座銘には以下の「興亜観音建立縁起」が記されている。
 支那事変戦没者追悼供養の為観音大士を建立す、願くはこの功徳を以て普 く怨親平等に回向し、日華両民族倶に妙智力に依倍して速やかに東亜の大光明を仰かんことを祈る、
 昭和十六年七月吉日 金 剛廿一世観 梁曳
 「辛巳端午
  怨親平等
  祐民誼」

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 ここで も戦争で亡くなった日中両国の戦没者の供養として「怨親平等」が強調され、観音菩薩の力によつて大東亜建設がなされるよう祈願している。「怨親平等」と揮豪した祐民誼は、民国 29年 (1940)3月 、南京国民政府の行政院副院長兼外交部長となり、日本との外交折衝を主に担当し、同年12月駐日大使となつた人物である。年月からして、駐日大使として日本に赴任してい る際に依頼されて揮皐したと思われるめ。

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 おわりに
 以上、興亜観音建立の経緯について紹介した。これまでは熱海の興亜観音にのみ注目が集まり、他の興亜観音についてはほとんど忘れられていたと言つてよい。その背景には、松井石根が戦犯として処刑されたり、「興亜」という語が否定されたことにより、興亜観音も忌避されるようになったということもあろう。
 松井が興亜観音を建立したことに対して、偽善にすぎないとの見方もある。しかし、松井の人となりを見れば、そのような推測はあたらないことがわかる。松井は尊敬する乃木希典に倣い、武士道に基づいて、勇敢に戦つた敵将もたたえて祀つたのである。そしてそこには仏教思想の影響もあり、「怨親平等」を唱えるようになったと考えられる。彼の晩年はひたす ら戦死者の冥福を祈ることに費や されたのである。
 戦地に赴いた兵士の間では、弾除け観音や観音のお守りを身につけたりするなど、観音信仰が広がっていた。また、従軍僧や兵士たちによる敵味方のない戦死者の慰霊も数多 く行われた。こうしたことを受けて、松井は帰還後、興亜観音を建立し、毎日参拝して観音経を唱えた。
 従軍の後、出家した兵士も少なくない。戦争という狂気に翻弄され、生き延びた者がせめてもの思いとしてできる行為が、死者への慰霊である。そこには古代以来続く日本人の霊魂観を基層として、時代とともに変わる慰霊のあり方がある。私は、興亜観音の前に立つとき、歴史に翻弄された多くの先人たちの姿を思い起こさずにはいられない。
 (やまだゆうじ 二重大学人文学部)」
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