⛩98)─1─日本人は自然を大事にするというのはウソである。神殺し・仏殺し。~No.215No.216No.217 ㉑ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 無宗教無神を自慢する現代日本人と神仏を信じた宗教心篤い昔の日本人は別人の日本人である。
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 現代日本では、反宗教無神論・霊魂否定・科学万能のマルクス主義で「神殺し」と「仏殺し」が進んでいる。
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 2021年6月17日 MicrosoftNews 読売新聞「国の天然記念物の樹林207本、ばっさり…人為的に傷つけられる
 © 読売新聞 切り倒された樹木=山口県提供
 山口県は15日、光市の県立室積公園内にある国指定天然記念物の峨嵋山(がびさん)樹林で、樹木207本が人為的に傷つけられる被害にあったと発表した。県は文化財保護法に基づき、文化庁に「毀損(きそん)届」を提出、光署が文化財保護法違反などの疑いで調べている。
 県自然保護課によると、今月1日午後2時半頃、公園内を巡回した県の自然公園指導員が、ヤマモモやスダジイなど多数の木が倒れているのを発見。調査の結果、207本がのこぎりのようなもので切り倒されたり、ドリルで幹に穴を開けられたりしていた。
 樹林約14ヘクタールのうち、約0・5ヘクタールの範囲で被害が確認された。指導員が2月中旬に巡回した際には異常はなかったという。県は今後、被害を受けた木の保全を進め、枯死した木は撤去する。」
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🌏10)─6─勝海舟による江戸開城の真意は挙国一致・国民皆兵国家(強制的徴兵制度国家)の創設であった。~No.32 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 現代の日本人は、自分が読みたい知りたい架空・創作の時代劇は好きだが、自分が理解できない知りたくない現実の事実に基づいた歴史劇は嫌いで見向きもしない。
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 昔の日本人と現代の日本人とでは別人のような日本人である。
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 日本の人口比では、武士・サムライとその家族を含めても10%未満であり、庶民(百姓や町人)は90%強であった。
 巷で言われる武士道は、日本社会には存在しなかった。
 現代日本で流行っている武士・サムライ、武士道とは、大正時代以降に歴史小説家・時代劇作家が創作した架空の絵空事の物語である。
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 2021年6月25日号 週刊朝日司馬遼太郎もうひとつの幕末史
 『花神』から『胡蝶の夢』へ
 ……
 これは医学とは関係ありませんが、ポンペ先生と一緒に長崎に来た人でカッテンディーケという海軍少佐がいました。のちに海軍大臣になる人です。ポンペ先生が医学を教えてくれと頼まれたように、カッテンディーケ少佐は、幕府から海軍を教えてくれと正式に招かれた人でした。
 ……
 江戸開城の真意は国民国家の創設
 そのカッテンディーケさんが日本に来て、情熱的に海軍を教えたのですが、その生徒会長役だったのが勝海舟でした。
 カッテンディーケには長崎時代の回想録があります。
 海舟のことをずいぶん褒めてますね。革命的な人物だと、好意を込めて危険人物のようにも書いています。
 この当時の海舟は、世の中に対して非常に不満があったんでしょう。
 幕臣としては取るに足りない身分でありながらも、学問の力でのしあがってきた。しかし幕藩体制には大変な不満をもっていた。
 カッテンディーケの回想録には、ある富裕なる町人が登場します。カッテンディーケが町人に質問しています。
 『この長崎はほとんど無防備ですね。もしヨーロッパの強国が軍艦一隻と陸戦隊100人を連れてきたら、1日で占領できる。そのとき、あなたたちはどうなさいますか』
 町人は答えました。
 『私どもは町人です。それは幕府のなさることです』
 カッテンディーケは腰を抜かすほど驚いた。一国の防衛をまったく考えない、無責任でいる階層があると書いている。彼は毎晩のように勝海舟に会っていたようですから、この話を海舟にしないわけがありませんね。
 カッテンディーケは語ったと思います。オランダは国民国家なんだ。国民国家とは、憲法があって、デモクラシーがあって、みんな平等なんだという意味だけれども、国民全部でオランダを防衛しているという意味もあるんだと。
 海舟の後年の江戸開城は、カッテンディーケの思想があったと思います。
 薩長はまだ何をするかわからない勢力であったけれど、ここは江戸を清算する。国民国家ができあがることを希望するというのが、江戸開城の真意だったのではないか、私はそう考えています。」
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 日本人はブラックな人間で、心穢く強者、勝者、権力者に対して卑屈なまでに媚び諂いお零れを有難く頂戴し、弱者、敗者を軽蔑し馬鹿にし差別しイジメて奪えものは何でも暴力的に奪っていく。
 例えれば、羅生門の鬼女である。
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 明治時代まで、合戦・戦争をするのは正規の武士や足軽と臨時雇いのサムライや雑兵のいくさ働きで、百姓や町人は安全な山・丘の上や大きな川の反対岸・堤上に陣取って観戦し、時には宴会を開きながら見物し、勝敗が付けば戦場荒らしとして死者を丸裸にして大穴に埋め、負傷者で勝った側は助けて恩を売り負けた側は殺して褒美を貰い、山野に逃げた敗残兵は落ち武者狩りで殺して報奨金を得た。
 敗残者を殺すのは、武士・サムライではなく、金目当ての庶民であった。
 百姓や町人を雑兵・人足で駆り出すと、戦いが始まれば一目散に逃げ、勝ち戦となれば乱取りを行って女子供を捕まえて奴隷として売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会や白人キリスト教商人は、戦場で乱取りを行った庶民から日本人奴隷を買って海外に輸出していた。
 武士・サムライにとって、神妙に土下座をして控える庶民(百姓や町人)は何を考えているからわからに得体の知れない不気味な人間で、いつ一揆を起こして寝首を掻きにくるか判らない恐怖の対象で、その怖さ故に軽蔑し差別し虐げ、助けず、見放し、見捨てた。
 幕府は、百姓一揆を失政・悪政の理由にして大名を改易し藩を取り潰し領地を召し上げようと狙っていた。
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 明治新政府は、庶民(百姓や町人)が新政府軍の攻撃から領地を守る為に領主・大名と共に戦わない事を痛切に感じたのは、会津戦争からであった。
 会津藩は、藩祖・保科正之以来名君が領地を治め、領民の為に善政を施してきたが、それでも領民は戦えば負けると分かっていたも戦おうとした会津松平家を助けず見捨てて逃げた。
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 国家・政府は、国民を信用せずいざとなれば国を裏切る可能性、強力な敵に靡く危険性がある事を実感し、その事を考慮し強権を持って国民を縛る為に大日本国憲法教育勅語軍人勅諭、その他を公布した。
 明治憲法は、国家・政府を監視する為ではなく、天皇の自由を縛り、国民を監視する為につくられた。
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 日本民族は、武力で政治権力を手に入れ日本を支配し統治する国家や政府を信用せず、非力だが利他の陰徳を積んできた天皇を信用していた。
 同時に、教団を組織する宗教権威も信用していなかった。
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 現代の日本人は、昔の日本人に比べて民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力はなく、そして戦争と平和を知らず戦術・戦略が理解できない。
 当然、幕末、尊皇攘夷明治維新、近代化、大政奉還江戸城無血開城戊辰戦争なども理解できない。
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 日本民族には尚武の気風はなく、気弱ひ弱で非力な人間であるだけに血を穢れとし、死を恐怖して、幾ら金儲けの為とは言え他人と戦う、競う、殺し合う事が苦手であり嫌いな人間である。
 日本民族とは、武士・サムライではなく百姓や町人などの庶民である。
 命優先の現代日本人は、先祖が入りとして、小金を貯めて今の生活に満足して変化を排除した安住する江戸時代の中流以上の愚昧な小庶民になりつつある。
 その最たる日本人が、リベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた優秀・有能な次世代である。
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 日本には、歴史的にアイデンティティなど存在した事がなかった。
 日本国・日本民族・日本人が誕生したのは、明治維新・近代教育以降の事で、それ以前には存在しなかった。
 日本文明や日本文化など日本を現す全ては、明治以降に国家が急いで創り出したに過ぎない。
 日本国語も、国家が対外戦争ができる強力な軍隊を育成する目的で創った新語・造語に過ぎない。
 日本の近代化とは、軍国主義国家建設であった。
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 日本人は自分の生活に害を為さなければ、日本国を支配する権力者や統治者が誰であっても気にはしない。
 それが、アメリカ人やユダヤ人であろうが中国人や朝鮮人であろうと、人ではなく犬や猫、猿や鹿などの動物や巨木の植物でろうと、生き物ではない巨石や大河や霊山であっても構わない。 
 それが日本人の多種多様性である。
 その象徴が、敗戦後にGHQ占領支配された日本である。
 それは、現代日本でも同じである。
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 明治維新・近代化の目的は、ロシアの侵略から日本天皇と神国日本を守る軍事力強化であった。
 当時の世界は帝国主義植民地時代で、日本に味方してくれる友好国、日本に援軍を送ってくれる同盟国、日本を侵略する相手を非難してくれる親善国は、何処にもなかった。
 清国(中国)や朝鮮は、敵日・反日として日本を侵略するロシアに味方していた、味方しないまでも日本が滅びるのを傍観して楽しんでいた。
 徳川幕府は、対ロシア戦略として日本・清国・朝鮮の3カ国攻守軍事同盟を切望していたが、しょせんはムダな、無意味な願望であった。
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 日本の近代的重工業の目的は、軍隊の近代化、侵略してくるロシアの大軍を撃破する最新式武器を装備する事であった。
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 ロシアの侵略軍を撃破するには、従来の武士・サムライと百姓の志願兵・義勇兵からなる少数精兵では不可能で、総力戦としてロシア軍に負けないだけの多くの兵士を戦場に送り出す必要があり、その為には全ての国民を兵士として強制的に徴兵する事であった。
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 江戸無血開城とは、武士・サムライの身分制度時代が終わった事を天下に示す儀式であった。
 外国の侵略から日本天皇と神国日本を命を懸けて守るのは、日本民族の歴史的使命であり、命を捨てて戦う主体が武士・サムライから庶民(百姓や町人)に移ったという事である。
 それは水戸学の攘夷思想と吉田松陰草莽崛起(そうもうくっき)である。
 事実、死を覚悟して日本天皇を守護して戦った尊皇派・勤王派の主流は、「天皇の御威光」を信奉する身分が低く貧しい下層民達であった。
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 当時の日本人は、平和的な近代国家建設の為に攘夷を捨てたわけではなく、「今攘夷」で軍事力差のある夷狄と戦えば確実に日本は敗北して滅亡するため、「後攘夷」として開国・近代化・軍事国家として強力な軍隊をつくって侵略者・ロシアを撃退する、と国防基本方針を定めた。
 自力で日本一国を守るには、日本に侵略して来るロシアに味方・協力する清国(中国)と朝鮮を処分する必要があり、その為に中国大陸や朝鮮半島を攻撃し反日・敵日を一掃して、強圧的強制的暴力的に親日・知日へと大改造した。
 それは、領土拡大目的の侵略戦争ではなく、母国防衛の積極的自衛戦争であった。
 が、国際法は平和に対する犯罪・戦争犯罪と断定した。
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 何故、日本が、江戸幕府が異常なほどに外国勢力に警戒したのか。
 それは、中世キリスト教会と白人キリスト教商人が、非キリスト教徒・異教徒の日本人を奴隷として商船の船底に閉じ込め家畜や獣として扱い世界中に売って金儲けしたからである。
 江戸幕府による、日本の鎖国には正当な理由があった。
 現代日本歴史教育は、鎖国を愚かな行為と否定し、人権侵害の日本人奴隷交易を消し去っている。
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 大正期・昭和初期における日本の存亡の危機とは、天皇制度日本を破壊消滅しようとしたソ連中国共産党・国際共産主義勢力であった。
 そして、反天皇反日本の外国勢力の手先として昭和天皇と皇族を惨殺する為につけ狙っていた日本人共産主義テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
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🏞107)─2─近代的西洋平等主義市民革命は大阪の適塾と長崎のポンペ医学伝習所から始まった。1855年~No.414No.415 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 近代化できた、日本民族と漢族系中国人・朝鮮人との違い。
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 現代の日本人は、昔の日本人に比べて民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力はない。
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 2021年6月25日号 週刊朝日司馬遼太郎もうひとつの幕末史
 『花神』から『胡蝶の夢』へ
 ……
 緒方洪庵という人は、オランダ人を見たこともないような人でした。ただ漢文を読むようにしてオランダ語を読み、そして大坂に出てきまして塾を開いた。そして患者を診ました。
 ……
 洪庵の塾では小さな西洋が誕生します
 この塾に学んだ人を挙げますと、福沢諭吉大鳥圭介大村益次郎、長与専斎といった人々ですね。
 その近所に紀州華岡青洲ゆかりの塾がありました。その塾と適塾の塾生同士は仲が悪かったそうですが、それはともかく、華岡青洲という人は天才的な外科医でした。麻酔を用いて手術をしたことが有名ですが、蘭方医ではありません。漢方医でした。
 漢方は、もともと門外不出のものでして、華岡青洲もその文化の中にあります。塾で学んだことは親兄弟といえども明かしてはならない。そういう一札を入れて、塾に入れてもらうことができる。無論、もっとも秘密のことは、一子相伝にする。
 ところが洪庵の塾は違いました。当時は学会というようなものはありませんが、洪庵およびその弟子たちは、学んだものは広めよ、医術というものは困った人のためにあるんだ、そういうところがありました。
 有名な話しですが、塾生に越前の橋本左内という人がいました。この青年は夜になると橋の下に行き、夜鷹と呼ばれていた女性たちの治療をしていたといいます。
 洪庵先生も、コレラが流行(はや)るとコレラの対処法を書いた本を自費出版しています。自分の経費で、お金儲けではなく出版しています。門外不出どころか、実にオープンなのです。
 さっき長与専斎の名前が出ましたが、専斎は東京大学医学部の創設者の一人でしたね。彼は肥前大村という小さな藩から洪庵の塾に来たのですが、のちにこう言われました。
 『君、僕のところに来てもだめだ。僕はもう古いんだ。長崎にポンペという先生がきているから、そこへ行きなさい』
 洪庵は偉い人ですね。
 自分が古いとは、なかなか言えないものです。
 江戸時代の、外国に行ったことのない人なのに、医学書を通じて、ヨーロッパの良いところを知っていた。適塾で、ひとつの小さな西洋が誕生していた感じです。
 専斎は言われたとおりに長崎から出てきて、また長崎に戻って、出島のポンペ先生に学ぶことになります。
 当時は階級社会でしたから、ポンペ線性の弟子は、幕臣の医師である松本良順ただひとりでした。
 この松本良順の弟子に、形式的に諸藩から来た学生があります。結局は一緒にポンペ先生の話を聞くのですが、通訳が必要となります。松本良順はオランダ語の読み書きは当然できたのですが、もっと上手な、佐渡の少年が通訳になりました。
 のちの司馬凌海、このころは伊之助と呼ばれていた少年ですが、まだ10代でした。
 ……
 しかし、ポンペ先生は偉大でした。
 日本の医学というか社会に、大きな影響を与えました。
 ポンペ先生は長崎で『病院』を始めています。まだ病院という言葉がなかったために、養生所と呼ばれましたが、これは一種の革命だったのです。
 病院という西洋の箱ができて、みな戸惑いました。
 病者という、平等に苦しみを持った者がここに集まるのだということが入院患者には最初はわからなかった。
 長崎の町人社会にも、たくさん階級がある。身分社会そのものでしたが、患者として病院に入ってくれば、同じように扱われる。
 しかも診てくれる医者が侍です。松本良順は幕臣ですから、平素は殿様と呼ばれている人です。
 諸藩から来ているポンペ先生の弟子たちも、その藩に帰れば身分の高い人が多かった。
 その殿様たちが、長崎の町人の熱をみて、世話をする。
 小さな世界ではありますが、日本の近代というのは長崎の養生所から始まったといえるかもしれません。
 つまり、ここで市民社会が始まったわけで、ポンペ先生の病院は、たしかに革命を起こしたのです。」
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 ウィキペディア
 ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829年5月5日、ブルッヘ - 1908年10月7日、ブリュッセル)は、オランダ海軍の二等軍医。ユトレヒト陸軍軍医学校で医学を学び軍医となった。幕末に来日し、オランダ医学を伝えた。日本で初めて基礎的な科目から医学を教え、現在の長崎大学医学部である伝習所付属の西洋式の病院も作った。また、患者の身分にかかわらず診療を行ったことでも知られている。日本には1862年文久2年)まで滞在し、その後はオランダに戻った。後年、日本での生活を振り返って「夢のようであった」と発言している。
 長崎奉行所西役所医学伝習所において医学伝習を開始した1857年11月12日(安政4年9月26日)は、近代西洋医学教育発祥の日であり、現在長崎大学医学部の開学記念日とされている。
 医学伝習所時代
 ポンペを囲む医学生、前列ポンペの左は松本良順
 ポンペは長崎海軍伝習所の第二次派遣教官団であったカッテンディーケに選任され、松本良順の奔走により作られた医学伝習所で、教授として日本初の系統だった医学を教えることになった。彼の元で、明治維新後初代陸軍軍医総監となった松本良順を始めとして、司馬凌海、岩佐純、長与専斎、佐藤尚中、関寛斎、佐々木東洋、入澤恭平など、近代西洋医学の定着に大きな役割を果たした面々が学んだ。
 1855年安政元年)に第一次海軍伝習の教師団が来日し、軍医のヤン・カレル・ファン・デン・ブルークが科学を教えたが、この授業はまだ断片的なものであった。この時、筑前藩の河野禎造は、オランダ語化学書である『舎密便覧』を著している。 その後、1857年(安政3年)に第二次海軍伝習によりポンペが来日し、松本良順の奔走により医学伝習所ができ、ポンペはその土台となる基礎科学から一人で教え始める。1857年11月12日のことで、長崎大学医学部はこの日を創立記念日としている。この時は長崎の西役所内で、松本良順と弟子12名に初講義を行った。後に学生の数が増えたため、西役所から、大村町の高島秋帆邸に教室を移した。 ポンペは物理学、化学、解剖学、生理学、病理学といった医学関連科目をすべて教えた。これはポンペがユトレヒト陸軍軍医学校で学んだ医学そのままで、その内容は臨床的かつ実学的だった。最初は言葉の問題も大きかったが、後になると授業は8時間にも及ぶようになった。また、日本初の死体解剖実習を行った。1859年(安政6年)には人体解剖を行い、このときにはシーボルトの娘・楠本イネら46名の学生が参加した。解剖が許可される以前は、キュンストレーキという模型を用いた。1860年(万延元年)には海軍伝習が終了するが、ポンペは残った。ポンペは1862年11月1日(文久2年9月10日)に日本を離れるまでの5年間、61名に対して卒業証書を出している。また教育の傍ら治療も行い、その数は14,530人といわれている。オランダへ戻ってからは開業し、赤十字にも関与した。
 長崎医科大学(現長崎大学医学部)
 1857年(安政4年)末には公開種痘を開始した。1858年(安政5年)に長崎市中で蔓延したコレラの治療に多大な功績を挙げた。また、1861年文久元年)、長崎に124のベッドを持った日本で初めての近代西洋医学教育病院である「小島養生所」が建立された。ポンペの診療は相手の身分や貧富にこだわらない、きわめて民主的なものであった。日本において民主主義的な制度が初めて採り入れられたのは、医療の場であったともいえる。他にもポンペは、遊郭丸山の遊女の梅毒の検査も行っている。 後に松本良順が江戸へ戻り、ポンペに学んだ医学を大いに広め、順天堂の講義が充実したといわれる。良順はまた西洋医学所の頭取となるが、奥医師はポンペ直伝の西洋医学を西洋かぶれと不快がった。しかし伊東玄朴の失脚により、良順は奥医師のリーダー的存在となる。またポンペの保健衛生思想に共感を覚え、その後、新選組の屯所の住環境改善にそれを役立てた。
 1878年当時のカメラ
 後年、明治に入って、森鷗外がヨーロッパに留学中に赤十字の国際会議でポンペに出会い、日本時代の感想を聞いた時、「日本でやったことは、ほとんど夢のようであった」と語っている。晩年は牡蠣の養殖にも手を出したといわれる。ポンペの噂を聞きつけた緒方洪庵が、適塾の学生であった長与専斎をポンペのもとに送り込んだことからしても、その当時最新の医学教育であったことがわかる。 現在長崎大学医学部にはポンペ会館と良順会館が設立されている。
 ポンペが医学を学んだユトレヒト陸軍軍医学校は、フランスによるオランダ支配当時、ライデンの陸軍病院付属という形でて建てられ、その後フランスの支配が終わってからも教育が続けられた。ユトレヒト大学医学部との関係を築きながら教育が行われ、軍や植民地への医官を養成するものだった。1850年代はその最盛期で、幕末維新に来日したオランダ人医師のかなりの人数がここの卒業生であった。また、ユトレヒト大学の化学の水準は高く、緊密な関係にあった陸軍軍医学校経由で、日本に高いレベルの化学がもたらされたといわれる。明治7年(1874年)医制が制定されて医師の養成は大学のみにて行われることとなり、翌明治8年(1875年)に廃校となる。現在、この学校の建物はホテルとなっている。
 ポンペは湿板写真の研究についても熱心であった。当時、長崎でポンペについて科学を勉強していた上野彦馬も共に写真の研究に着手した。感光板に必要な純度の高いアルコールには、ポンペが分けてくれたジュネパ(ジン)を使った。
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⚔43)─1─タイオワン事件と鎖国令。浜田弥兵衛と末次平蔵。寛永5(1628)年。~No.173No.174 ⑭ 

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 マルクス主義史観とキリスト教史観に基づく日本人は加害者であるという日本史教育を書き換えるべきである。
 現代の歴史教育は、日本民族の歴史が嫌いになるように作成されている。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)
 浜田弥兵衛 はまだやひょうえ
 生没年不詳。江戸初期の朱印船貿易船船長。江戸初期、日本の輸入品中最大の中国産生糸は、おもに中国商人との台湾での出会(であい)貿易によりもたらされていた。しかし1624年(寛永1)オランダは台湾にゼーランディア城を築いて根拠地として以来、日本の貿易船に対し新たな課税を行うなど、圧迫干渉を加えるようになった。25年長崎代官末次平蔵(すえつぐへいぞう)の朱印船船長として弥兵衛が台湾に渡航した際、長官マルティヌス・ソンクはその貿易を妨害したので、彼は同地の住民を連れて帰り幕府に訴えた。その後オランダ側の事情説明のため新長官ヌイツが大使として来日したが、目的を果たせず帰った。28年、弥兵衛は、平蔵の持船二隻に貿易資金のほか多くの武器・火薬を積み、470人の乗組員を率いて、武力に訴えても貿易を強行する意志で台湾に渡った。ヌイツは弥兵衛を城内に抑留し、貿易も差し止められた。しかし弥兵衛らは機をうかがい、逆にヌイツを捕らえ人質としたので、オランダ側と和議が成立し、同年7月長崎に戻った。幕府もオランダの態度に不満をもち、来日オランダ船の抑留、蘭(らん)館の封鎖、貿易禁止などを行い緊張したが、オランダ側が32年責任者ヌイツを幕府に引き渡すなどして事態は好転し、貿易も再開された。弥兵衛とその子新蔵は、その後島原の乱に際して功をたて、のち新蔵は細川家に仕官した。
 [沼田 哲]
 『川島元次郎著『朱印船貿易史』(1921・巧人社)』▽『永積洋子著『平戸オランダ商館日記』(『日記記録による日本歴史叢書7』所収・1981・そしえて)』
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 朝日日本歴史人物事典「末次平蔵」の解説
 末次平蔵  すえつぐ・へいぞう
 没年:寛永7.5.25(1630.7.5)
 生年:生年不詳
 近世初頭の朱印船貿易家,長崎代官。父は末次興善,兄は与三郎広正宗得といい博多の豪商。元亀2(1571)年ごろ長崎に移り,金屋町(のち興善町)に住み,乙名役であった。町方の有力者として,長崎貿易に従事し,財力を蓄積していた。元和2(1616)年代官の村山等安の支配を憎んで,幕府に告発した。等安はもともと末次の配下の者であったが,奸計によって豊臣秀吉に信任され,主人を追いこして長崎代官になり,平蔵は快く思っていなかった。そこで,等安の長崎における苛政と,大坂の陣で等安の息子が大坂方に味方したこと,海外に追放されかかったキリシタンを途中で連れ帰り,自宅にかくまっていたことなどを告発,対決の結果等安は江戸で斬罪となった。こうして元和4年平蔵が長崎代官に任命され,長崎外町を支配し,外交・貿易・市政に関与した。元和・寛永期(1615~44)には朱印船貿易の主流のひとりであったが,末次船の台湾渡航のことから,台湾のオランダ商館長P.ヌイツと関税のことで紛争となり,平蔵は幕府に強硬外交の展開をすすめ,寛永5(1628)年自分の持ち船2艘に武装船員470人余を乗り組ませ,船長浜田弥兵衛に対決を命じ,ついに台湾事件(浜田弥兵衛事件)を引き起こした。この事件直後平蔵は狂って病死。春徳寺に葬られたが墓石は現存しない。子孫は代々代官職を継承したが,4代にして延宝4(1676)年不正があってお家断絶となった。平蔵以後幕府の外交政策が消極化し,外国とトラブルを起こさぬよう寛永鎖国となっていく。<参考文献>『増補長崎略史』上下,『長崎市史』,『長崎県史』,川島元次郎『朱印船貿易史』,岩生成一『新版朱印船貿易史の研究』,幸田成友『日欧通交史』,中田易直『近世対外関係史の研究』
(中田易直)
 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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 浜田 弥兵衛(旧字体:濱田彌兵衞、旧仮名遣い:はまだ やひゃうゑ、生没年不詳)は、江戸時代初期の朱印船の船長。長崎の人。1627年に起こったタイオワン事件(ノイツ事件)の実行者。1915年(大正4年)、贈従五位
 タイオワン事件
 詳細は「タイオワン事件」を参照
 寛永の頃までに日本では朱印船貿易が盛んになっていたが、その交易先のひとつで明国との非公式な貿易を行う際の中継基地的な重要性があったのが高砂(台湾)だった。そこにオランダ東インド会社が進出してこれを占領(1624年)、ゼーランディア城を建てこの地における交易には一律10%の関税をかけはじめた。
 寛永4年(1627年)、長崎の貿易商・末次平蔵の朱印船の船の船長だった弥兵衛は、幕府の後援をうけて、オランダ総督ピーテル・ノイツを人質にし、オランダに関税撤回を要求。オランダはこれをのみ、高砂自由貿易地にすることに成功した。
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 タイオワン事件、別名ノイツ事件は、1628年(寛永5年)に長崎代官の末次平蔵とオランダ領台湾行政長官ピーテル・ノイツとの間で起きた紛争。
 「タイオワン」とは台南市安平区の当時のオランダ名で、「台湾」という国名の由来。台湾では浜田弥兵衛事件(濱田彌兵衛事件)と呼ばれる。
 経緯
 朱印船貿易と台湾
 朱印船貿易が行われていた江戸時代初期、明(中国)は朱元璋以来冊封された国としか貿易を行なっていなかった上に朝鮮の役による影響により日本商船はほぼ中国本土に寄港することはできなかった。そのために中継ぎ貿易として主な寄港地はアユタヤ(タイ)やトンキン(ベトナム)などがあり、また台湾島南部には昔から明(中国)や日本の船などが寄航する港が存在した。
 当時、日本、ポルトガル王国ポルトガル)、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)、イギリス第一帝国(イギリス)の商人が日本貿易や東洋の貿易の主導権争いを過熱させる時代でもあり、1622年(元和8年)には明(中国)のマカオにあるポルトガル王国居留地ネーデルラント(オランダ)が攻撃した。
 しかし敗退したネーデルラント(オランダ)は対策として台湾の澎湖諸島を占領し要塞を築いてポルトガルに備えた。このことに明(中国)は大陸から近い事を理由に澎湖諸島の要塞を放棄することを要請し無主の島である台湾から貿易をすることを求めたため、2年後の1624年(寛永元年)、ネーデルラント(オランダ)は台湾島を占領、熱蘭遮(ゼーランディア)城を築いて台南の安平をタイオワンと呼び始める。オランダはタイオワンに寄港する外国船に10%の関税をかけることとした。中国商人はこれを受け入れたが、浜田弥兵衛(長崎代官で朱印船貿易家の1人でもある末次平蔵の配下)ら日本の商人達はこれを拒否した。これに対し、オランダはピーテル・ノイツを台湾行政長官に任命し、1627年(寛永4年)、将軍徳川家光との拝謁・幕府との交渉を求め江戸に向かわせた。
 ノイツの動きを知った末次平蔵も行動に出る。同1627年、浜田弥兵衛が台湾島から日本に向けて16人の台湾先住民を連れて帰国。彼らは台湾全土を将軍に捧げるためにやって来た「高山国からの使節団」だと言い、将軍徳川家光に拝謁する許可を求めた。しかし当時の台湾は流行り病が激しく皆一様に疱瘡を患っていたため理加という者のみを代表として拝謁させ、残りは庭に通すのみの待遇となった。彼らはあまりにも汚れていたため、城の者から2度と連れて来ないようにと言われたという話もあり具体的な話が進められたわけではなく、遠路から労いも含め皆、将軍家光から贈り物を授かり一旦帰国の途に着いた。しかしながら、結果としてノイツの家光への拝謁を阻止することに成功し、ノイツは何の成果もなく台湾に戻った。
 タイオワン事件
 フランソワ・ファレンタインの著書『Oud en Nieuw Oost-Indiën』より
1628年6月(寛永5年5月)タイオワン(台南・安平)のノイツは平蔵の動きに危機感を強め、帰国した先住民達を全員捕らえて贈り物を取り上げ監禁、浜田弥兵衛の船も渡航を禁止して武器を取り上げる措置に出た。この措置に弥兵衛は激しく抗議したがそれを拒否し続けるノイツに対し弥兵衛は、終に隙をついてノイツを組み伏せ人質にとる実力行使に出た。
 驚いたオランダ東インド会社は弥兵衛らを包囲するも人質がいるため手が出せず、しばらく弥兵衛たちとオランダ東インド会社の睨み合いが続いた。しかしその後の交渉で互いに5人ずつ人質を出しあい互いの船に乗せて長崎に行き、長崎の港に着いたら互いの人質を交換することで同意、一路長崎に向けて船を出した。無事に長崎に着くとオランダ側は日本の人質を解放、オランダ側の人質の返還を求めた。ところが、長崎で迎えた代官末次平蔵らはそのままオランダ人達を拘束、大牢に監禁して平戸オランダ商館を閉鎖してしまう。
 この事態に対応したのはオランダ領東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン。クーンは状況把握のためバタヴィア装備主任ウィルレム・ヤンセンを特使として日本に派遣したが、平戸藩主松浦隆信と末次平蔵はヤンセン江戸幕府3代将軍徳川家光に会うため江戸へ行くことを許さず、将軍家光の名を騙った返書を作成してヤンセンに渡した。その内容というのは主に、「先住民を捕らえ、日本人の帰国を妨害したことは遺憾である。代償としてタイオワンの熱蘭遮(ゼーランディア)城を明け渡すこと。受け入れれば将軍はポルトガルを憎んでいるのでオランダが貿易を独占できるように取り計らう」というものでヤンセンは将軍に会えないままバタヴィアにこの返書を持ち帰った。
 しかしヤンセンバタヴィアに戻ると総督クーンは病死しており、彼を迎えたのは新なオランダ領東インド総督であり、かつて平戸オランダ商館で商館長(カピタン)を勤めていたヤックス・スペックスだった。長年日本で暮らし日本と日本人を研究していたスペックスは、これが偽書であることをすぐさま見抜きヤンセンを再び日本に派遣した。
 収拾
 以後の具体的な内容を記録するものは日本側に残されていない。長崎通詞貞方利右衛門がオランダ側に語ったのは「平蔵は近いうちに死ぬだろう。」というもので、末次平蔵はこの後、獄中で謎の死を遂げている。当時の日本は鎖国体制に入ろうと外国との揉め事を極力嫌っていたうえ、オランダ側の記録には将軍が閣老達に貿易に関わる事を禁じていたが閣老は平蔵に投資をして裏で利益を得ていたため切り捨てられたらしいことが噂されているなどの記述がある。
 オランダは「この事件は経験の浅いノイツの対応が原因であるためオランダ人を解放してさえくれれば良い」とし、ノイツを解雇し日本に人質として差し出した。日本側は、オランダ側から何らかの要求があることを危惧していたが、この対応に安堵し、これが後に鎖国体制を築いた時にオランダにのみ貿易を許す一因ともなった。なお、ノイツは1632年から1636年まで日本に抑留されていた。
 1636年(寛永13年)、ニコラス・クーケバッケルの代理として参府したフランソワ・カロンは、5月3日[いつ?]の拝謁の際に将軍家光に銅製の灯架を献上。家光はこれを非常に気に入って返礼として銀300枚を贈った。この時、以前より平戸藩主からノイツの釈放に力を貸すよう頼まれていた老中の酒井忠勝がノイツの釈放を願うとすぐに許可された。カロンが献上した灯架(燈籠)は、その後日光東照宮に飾られ、今も同所に置かれている。
 1632年(寛永9年)閉鎖されていた平戸オランダ商館は再開。1634年(寛永11年)には日本人が台湾に渡ることは正式に禁止され、その後は鄭氏政権が誕生するまでネーデルラント(オランダ)が台湾を統治している。
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 末次 政直(すえつぐ まさなお、天文15年(1546年)ごろ - 寛永7年5月25日(1630年7月5日))は、江戸時代初期の博多貿易商人・長崎代官。通称の平蔵(初代)の名で知られる。室は飛騨高山藩金森可重の娘。
 生涯
 平戸出身の博多の豪商末次興善[2]の次男として生まれ、元亀2年(1571年)に長崎に移住。朱印船貿易で安南・シャムなどと貿易を行う。
 元和4年(1618年)に長崎代官の村山等安を訴える。翌元和5年(1619年)に等安が処刑され、代わって長崎代官となる。
 政直は「ジョアン」という洗礼名を持つキリシタンだったが、キリシタン禁教時代には棄教して仏教に転宗し、長崎奉行の長谷川藤正に協力してキリシタンの弾圧に手を貸す。そしてキリシタン探索の目明を各地に派遣し、キリシタンを公職から追放した。寛永3年(1626年)に長崎の地にキリシタン棄教令が発せられた時に、同じく棄教した長崎町年寄の高木作右衛門と共に、長崎奉行の水野守信に協力してキリシタンの弾圧を激しく行なう。
 タイオワン事件(ノイツ事件)を起こし、寛永7年(1630年)に江戸の牢獄に幽閉され、幕臣により斬殺される。幽閉・斬殺された理由は、幕府の重臣が禁止されている貿易に手を出していたことを知ったためとされるが、詳細は不明である。
 法名は雲証院殿華岳浄皎居士。菩提寺は華嶽山春徳寺。延宝4年(1676年)、4代茂朝の代に密貿易が発覚、一族は処罰され、政直の墓石も失われた。
 なお、政直が名乗った「平蔵」という名は、2代代官末次茂貞・3代代官末次茂房・4代代官末次茂朝も名乗っている。
 『長崎名勝図絵』には、末次茂房が父政直の石郭を造ろうとして、長崎氏の鶴城本丸跡にある竜頭巌と呼ばれる岩の一部を切り出そうとしたところ、岩の間から血が滲み出たと記されている。
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💄29)─1─江戸時代の宮廷文化は女性の不義密通を美化する。~No.60No.61 

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 日本人の女性差別と日本の女性に対する偏見・蔑視・差別の原因は、武士道にある。
 現代日本には、女性差別のニセ武士道神話が蔓延している。
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 2021年6月4日号 週刊ポスト「POST Book Review
 山内昌之
 『恋する日本史』 『日本歴史』編集委員会 編
 吉川弘文館
 不義密通が美化される宮廷文化の名ごりは現代にも
 山県有朋らは江戸占領後に新吉原に遊んだ時、野暮なことに、彰義隊贔屓の芸者といざこざを起こした。新政府軍を嫌い旧幕府や彰義隊の男たちを好いた江戸の遊女や芸者の気っぷは今に語り継がれている。箱石大氏の『勤王芸者と徳川贔屓の花魁』は、22の論文全体の魅力を代弁する佳品である。
 本書を読めば、現代風に言うと、恋と不倫はぎりぎりで重なることに気がつく。不義密通が王朝文化として美化されるのは、日本の宮廷公家社会に独特の文化であり、現代社会にもその名ごりがみられなくもない。江戸時代に入っても幕府の厳しい禁裏統制をかわして密通はたえなかった。
 松澤克行氏が紹介するのは、明和2年(1765)の有栖川宮家で発覚した15歳の近習と40歳を越えた女房・花小路との密通である。これほど年の差を忘れた密通も珍しい。一度追放されて常盤木と改名した女は、3ヵ月ほどで病気がちの宮の看護で召し戻され、玉野井、つまり菖蒲小路(あやめのこうじ)と名乗って再勤した。しかし2年たつと花小路は1回り年下の筆頭諸大夫と関係を持ち、また外に出される。驚くのは、4ヵ月後にまた京都に戻り、まもなく宮のもとに帰ることだ。性懲りがないのである。
 花小路を戻したのは、彼女と宮との間にできた親王や女王の意志による。母がいないと父が可哀そうだという親孝行は見上げたものだ。家臣と不義を重ねた母への情を父の面子よりも重視したわけだ。
 花小路の密通は、この2回だけでなく、他にも4、5回あったというから、恋多き女というにふさわしい。しかし有栖川宮はあくまでも偉いのだ。自分が恋している女のだから、中のことは好きにさせてくれと言わんばかりに、仕える諸大夫ら家臣が花小路排斥を宮に迫っても、彼らを『敵』呼ばわりして受け入れない。寸時も彼女と離れたくなく、57歳で死ぬまで恋をしおおせた。花小路は仏門に入って93歳の天寿をまっとうした。ひたすら宮の菩提を弔ったのか、新しい出入りがあったのかまでは、松澤氏もかいていない」
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恋する日本史
恋する日本史 やまとなでしこ物語 (中経の文庫)
恋する日本史講談 (ぶんか社文庫)
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 昔の日本人男性は、日本人女性に比べて馬鹿力があっても知恵がなく口喧嘩では絶対に勝てず謝って逃げ出すしかなかった、
 昔の日本人女性は「能ある鷹は爪を隠す」の例えの如く、日本人男性よりも物覚えがよく賢く優れて、男は能天気な仕事人間であった為に宵越しの銭を持たない的に稼いだ金を散財して貧乏であったが、女は夫が稼いだ金からうまくへそくりをして(ちょろまかして)大金を隠し持っていた。
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 江戸時代、数が少ない女性は大事にされ保護されていた。
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 家の中では子供は母親に味方する為に、父親は家族から嫌われ敬遠されて哀れにひとり孤独に酒を飲むしかなかった。
 それが、亭主関白の真の姿であった。
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 江戸時代、女性を蔑視・差別したのは武士と儒教であった。
 日本の女性ブラックは、武士と儒教が原因だった。
 日本の女性差別主義者とは、武士と儒教である。
 日本のフェミニストとは、天皇と公家・商家などの朝廷と京・大阪であった。
 反天皇主義者とは、女性差別主義者である。
 武士とは女性差別主義者であり、儒教とは女性差別主義である。 
 日本人は、男尊女卑を説く武士と儒教が好きである。
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 江戸時代なかばまでの日本民族には、女性に対する偏見・蔑視・軽視・差別などはなかった。
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 天皇の宮廷文化(王朝文化・公家文化)は女人文化であり、将軍の武士(サムライ)文化は男子文化であり、民族の庶民文化は長老(翁・老女)文化である。
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 日本の伝統文化には、現代の犯罪的不倫ではない、女性の奔放な自由恋愛とフリーセックスの夜祭り・宵宮と夜這いが含まれている。
 そして、昔の家業継承権と遺産相続権は息子ではなく娘にあった。
 武士の出世頭は婿養子で、婿は武士でも庶民でも身分・出自は関係なく、才能・能力はもちろんだが、嘘を吐かない騙さない偽らない、つまり謙虚・誠実・正直そして人格・品格・品位といった本人の人間性が問われた。
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 日本に女性への偏見・蔑視・軽視・差別が蔓延ったのは、奈良時代の仏教伝来、江戸時代の儒教朱子学の官学、明治時代のキリスト教再上陸、戦後のリベラル主義とマルクス主義の浸透などが原因であった。
 天皇に即位した正統な男系父系女性皇族は存在したが、女性の最高位儒教学者、教皇枢機卿大司教・宣教師、共産主義党首はいない。
 その中で最も最悪だったのは、中世キリスト教会と共産主義であった。
 中世キリスト教会は、異教徒日本人を奴隷とした。
 共産主義者は、反革命分子を人民の敵として虐殺し個人資産を強奪して私腹を肥やした。
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 天皇に即位する資格とは、直系(正系)・傍系(支系)に関係なく天皇神話・血の神話(Y染色体神話)を絶対根拠とする正統な血筋・血統であり、それ以外には正統性は存在せず、憲法・法律には正当性はあっても正統性は存在しない。
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 日本の最高神は、天皇家・皇室の祖先神である女性神天照大御神伊勢神宮内宮祭神)である。
 天照大御神よりも古い祖先神は存在するが、古事記日本書紀・諸国風土記がまとめた天皇神話・民族中心神話・血の神話(Y染色体神話)は女性神天照大御神を神聖不可侵の唯一の正統な主神と定めた。
 女性神天照大御神は、日本民族の崇拝宗教における正統であり、無神論現代日本人が意味もなく拝む木偶の坊的神の正当とは違う。
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⛩87)─1─植民地神社・台湾神社の祭神北白川宮能久親王。台湾銀行の1圓紙幣。~No.191No.192 

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 2021年5月28日号 週刊ポスト「逆説の日本史 井沢元彦
 近現代編
 大日本帝国の確立 Ⅰ
 韓国併合への道 
 『支配』では無く『共存』、『収奪』では無く『投資』が基本だった日本の台湾経営
 話しはさかのぼるが、1894年(明治27)開戦の日清戦争の勝利によって翌95年、台湾が清国により割譲され日本領となった。すでに述べたように(『逆説の日本史 第24巻 明治躍進編』参照)、日本の領有化にあたって一部で現地在住の清国人および先住民(日本は後に高砂族と呼んだ)の激しい抵抗はあったが、なんとか武力で鎮定し早速インフラや法律、社会制度の整備を始めた。いわゆる『植民地化が始まった』と単純な表現を使う向きもあるが、日本はあきらかにイギリスなどとは違う方法を模索していた。
 英、仏、露など欧米列強の植民地支配はまさに『支配』によって現地から収奪するのが目的だった。植民地の民は人間では無く家畜や奴隷のようなもので、いわば『搾り取る』ための道具であった。だから彼らを幸せにすることなどまったく考えなかったし、教育を施そうなどとは夢にも考えなかった。『文字ぐらいは読めたほうがいい』という考え方も一部にはあったが、それは収奪を容易にするためであり、支配の末端を担わされたのであった。最前線(戦死率が高い)を担当する下級兵士や物産の取扱場所にいる現地人は、ラベルぐらいは読めたほうがいいからである。だから、高等教育を受けさせることはあり得なかった。なまじ『知恵をつける』と『反乱の時に面倒』になるからだ。
 この根底には、程度の差はあれキリスト教徒白人の有色人種に対する根深い差別がある。その有色人種の一員である日本人が、同じ有色人種である中国人や朝鮮人を日本に受け入れる際、そういう支配ではいけない、それとは一線を画すべきだと考えたのも、理の当然だとわかるだろう。白人はずっと有色人種を差別してきたが、日本人と中国人、朝鮮人の間には好悪の感情はあったが、人種差別は無かった。『同文同種』という言葉があったぐらいで、人種間の差異はほとんど無かったといっても過言では無いだろう。儒教朱子学)という共通の思想的土壌もあった。欧米列強とその植民地の間に見られる、キリスト教徒と非キリスト教徒そして白色人種と有色人種の根深い対立は、日本の対外関係のなかにはまったく無かった。この事実を認識すれば、日本の植民地『支配』というよりその『経営』が欧米列強とはまったく違うものになったことは、研究以前に予測できるはずだ。しかし、ご存じにようにこれまでの日本の歴史学は『日本も欧米列強の一員となった』と単純に規定し、その『植民地支配』も欧米列強のものと変わらなかったというスタンスで貫かれている。そんなはずは無いではないか。基礎条件がまったく違うのだから、いい加減にそうした粗雑な見方からは脱却して欲しいものだ。
 日本の『植民地』に対する対応は『支配』では無く『共存』であり、『収奪』では無く『投資』が基本であったことを理解する必要がある。これは第一次世界大戦における勝利の結果、事実上の日本領となったパラオなどいわゆる『南洋諸島』でも同じで、日本はそれまでの支配者であるドイツがまったくしなかったインフラの整備や学校の建設などを行った。現在パラオ共和国は台湾と並んで世界有数の親日国であるが、これが理由だ。……
 もちろん、日本のやり方が100パーセント正しかったなどと言うつもりは無い。たとえば日本は『キリスト教国』では無い(キリスト教徒がまったく存在しないという意味では無いので念のため)ので、たしかにキリスト教に基づく、ちょうど大航海時代スペインのピサロのような残忍暴虐な植民地の民への差別は無かった。しかし、差別がまったく無かったわけでは無い。日本人の意識のうえでは『差別はしていない』という態度を取っていたが、台湾先住民のなかには差別を強く意識した人々もおり、それが日本統治に対する最大の反乱『霧社(むしゃ)事件』(1930年〈昭和5年〉)につながった。簡単に言えば、これは同化(=日本文化の押しつけ)政策に基づく日本人の政治経済文化にわたる先住民セデック族への干渉に対する不満が爆発したもので、民族のアイデンティティーを守るための戦いであった。こう書けば、それを当然の戦いだと現代人は思うかもしれないが、そうした先住民が守るべきだと決意し、日本人ごときに廃止されたくないと考えた『文化』のなかには『首狩り』もあったのだから話は単純では無い。日本の戦国時代にも『武士(男子)は戦場で敵の首を取ってきてこそ一人前』という感覚があったが、それと同じ考え方だと言えば少しは理解できるだろう。文化摩擦と簡単に言うが、問題はじつに複雑なのである。
 未亡人と恋いに落ちた破天荒な皇族
 ともあれ、こうした問題は確かにあったが、日本が台湾経営のための財政的インフラの一環として計画したのが台湾銀行の創立だった。1897年(明治30)公布の台湾銀行法によって、2年後の99年に設立された銀行だ。この銀行は台湾の中央銀行とされた。日銀のように銀行券を発行したのである。しかも、日銀が取り扱わない預金、融資、外国為替など普通の銀行業務も併せて行った。台湾にはそれまで近代的な銀行がまったく無かったので、こうした変則的な形となったのであろう。ちなみに、『銀行』は英語『BANK』の訳語ですでに香港などで使われていたから、中国語と言うべきだろう。日本人は幕末から明治維新にかけて『経済』『権利』『科学』『関数』『哲学』といった和製漢語を作って、これは本場中国に逆輸入されていまでも使われているが、『銀行』はそうでは無かった。中国はずっと事実上の銀本位制だったから『銀』行なのである。日本は『金行』にすべきだという議論も若干あったようだが、『語呂が悪い』という理由で沙汰止みになった。確かに『日本金行』ではあまりしっくりこない。
 ちなみに、台湾銀行券は日本と同じ『圓(円)』という単位を用い、日本の1円と台湾の1円は等価であった。その図案は日本銀行券と区別するためであろうか、『壱圓(1円)』の額面表記が日本円と違って縦に書かれていた。ところで、紙幣のデザインに人間の肖像(顔)が用いられているには理由がある。偽造されにくいように複雑な模様(たとえば龍の文様)にすると、じつは偽札との区別がつきにくくなる。素人には細かい模様のどこが違うかというのは識別しにくいからだ。ところが不思議なことに、それを人間の肖像画にするとそれ自体結構複雑な模様であるにもかかわず、どこか本物と違うところがあれば素人でも容易に発見することができる。この肖像の持つ特性、科学的には明快に説明することはできないようだが、たしかに事実としてそうであるため世界各国で紙幣のデザインに肖像を用いるようになったのだ。ところが、台湾銀行券を造るときには適当な肖像が無かった。日本の統治下に入ったのだからいまさら中国人を使うわけにはいかないし、かと言って日本人の肖像を用いたのでは台湾との差別化ができず、日本の統治下に入って間も無い台湾人の反発を買う恐れもある。そこで窮余の一策としてデザインに採用されたのが、台湾神社の写真であった。もちろん、日本が占領するまで台湾には神社というものは無かった。日本が盛んに『輸出』したのだが、台湾神社は特別な神社であった。台湾の日本への抵抗を収めるために現地に派遣された台湾征討近衛師団長つまり陸軍の最高司令官であった皇族の北白川宮能久(よしひさ)親王が、現地でマラリアに罹(かか)り戦病死したことがきっかけとなった。遺体は日本本土に運ばれて埋葬されたが、明治以来皇族が陣没したのは初めてのケースであったため、その神霊を現地に守護神として祀るべきだという声が上がり、台湾神社が創建されたのである。ちなみにこの図案のことを台湾神宮と呼んでいる資料もあるが、神宮とは原則として天皇あるいはその祖先神を祀った神社のことであるから、この神社も創建されたときは『神宮』では無い。そう呼ばれたのは後に天照大神が合祀されてからのことで、この時点ではまだ『神社』だったのである。能久親王は江戸時代には僧侶となって輪王寺宮と名乗り、将軍家菩提寺寛永寺にいた。徳川家康が、寛永寺のトップである貫首({かんしゅ}日光東照宮にある輪王寺門跡も兼任)は京都から親王を招いて就任していただく、というルールを作っていたのだ。家康が朝廷から人質を取っていたという非難は昔からあったが、何人もいる親王のうち一人だけ人質にしても仕方が無い。これは御三家と同じで、危機管理の天才家康が京の朝廷に万一のことがあった場合の『保険』としたのだろう。コレラのような疫病が蔓延すれば皇位継承者がいなくなってしまう。という事態は決して考えられないことではない。つまり、江戸時代にはいつでも皇位を継承する資格のある親王が一人、江戸の寛永寺に僧体をとって『常駐』していたのである。
 明治になって幕府は滅び神仏分離令も出たために輪王寺宮という地位は無くなったが、その最後の輪王寺宮であった能久親王は幕末に寛永寺で官軍に抵抗した彰義隊に盟主として仰がれ、彰義隊壊滅の後は江戸を脱出し奥羽越列藩同盟を結成した東北諸藩に迎えられた。このとき、官軍に対抗するため東北諸藩は親王を『東武皇帝』として文字どおり『祀り上げ』たという説がある。『即位』までは認めないが、『構想』はあきらかに存在たとする論者もいる。たしかに、あるとき東北諸藩がもっとも欲しかったのは『錦の御旗』であったことは間違いの無いので、あり得ない話ではない。だが、奥羽越列藩同盟は結局敗北し、親王は還俗し蟄居(ちっきょ)させられた。その後、謹慎を解かれ陸軍軍人となったが留学先のドイツで男爵未亡人との恋に落ち婚約まで発表したものの(結婚したという説もある)、皇族と外国人の結婚は前例が無いという岩倉具視らの反対で離別させられたというエピソードの持ち主である。
 その後、親王は軍人の道に専念するようになった。台湾は当時の人々の感覚では『蛮地』であり、軍人だとしても皇族が赴くような場所では無いのだが、本人は火中の栗を拾おうという意識があったのか、それとも皇室のほうに親王はあくまで『傍流』という意識があったのか、とにかく親王は台湾に赴きそこで死んだ。直ちに神社を設けるべしという声が上がったのは、ひょっとしたら親王がタタリをなすことを恐れたのかもしれない。明治天皇が即位前に『日本一の大怨霊』 崇徳天皇の陵に勅使を派遣し、その神霊を京都に迎え取ってから正式に即位すたのが明治元年である。それからまだ二十数年しかたっていないし、相変わらず明治天皇の治世は続いていた。これもあり得ない話では無いことがおわかりだろう。
 親王は大衆的人気はあったらしい。なにしろ、ドイツ未亡人と婚約してしまうような破天荒な人物である。そうした人間はいまも昔も大衆にもてはやされる。

 親王家の庶子として生まれ、幼くして都を遠く離れた江戸の地で僧侶として過ごし、一時は『朝敵』の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定に出立するも同地で不運の病死を遂げた、この流転多い人生は古代の英雄日本武尊の人生に例えられた。(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia〉日本語版』)より一部抜粋
 
 当時の人々はそう考えた、というのはそのとおりだろう。ヤマトタケルも父に嫌われて僻地の『征伐』に従事し、都から遠く離れた土地で『戦病死』している。1945年(昭和20)の日本の敗戦とともに台湾神宮および末社はすべて破却され、後に親王の霊は靖国神社に合祀されたが、その台湾神宮跡地に建っているのがいまでも台湾を代表する高級ホテル『圓山大飯店(まるやまだいはんてん)』である。
 ともあれ、台湾銀行中央銀行にとどまらず一般銀行の業務をこなし地域経済の発展に貢献したわけだが、ならば当時大韓民国から日本の『朝鮮という地域』にも、台湾銀行のような銀行をあらかじめ設立しておいたほうがいいということになった。」
   ・   ・   ・   
 ヤマト王権は、統治下に入った日本国内と朝鮮半島南部の諸豪族に前方後円墳造営技術と日本神道の祭祀・儀礼を伝え、両国との交流を活発にした。
 大日本帝国は、新たに領土となった台湾・朝鮮・パラオ・その他と傀儡国家の満州帝国に神社を建立したが、それは信仰の強要ではなく宗教性抜きの礼拝するだけの記念建造物であった。
 日本神道は、自分の血と先祖が切り開いた土地を依代とする家単位の崇拝宗教であって全人類的普遍の信仰宗教ではなかった。
   ・   ・   ・   
 日本の神には相反する二面性があり、恵みを与える善き神の和神・御霊と暴れ狂い被害をももたらす悪い神の荒神・怨霊である。
   ・   ・   ・   
 現代日本には、宗教破壊・神殺し・仏殺しの反宗教無神論天皇制度廃絶・皇室廃止、日本民族根絶、民族的伝統文化破棄のマルクス主義共産主義が蠢いている。
   ・   ・   ・   
 日本神道は、命・血・心・魂でつながった自分の祖先を神として祀る人神崇拝と自分を生かしてくれている自然を神とする精霊・大地母神崇拝の2筋が主柱である。
 全ての神(八百万の神々)を分け隔てなく等しく祀り祈れるのは、最高神の女性神天照大御神の正統な血筋にある男系父系天皇だけであり、血の繋がらない正当な女系母系天皇ではできない。
 日本神道は、祖先の人神と自然の精霊・大地母神天皇の現人神の3柱で成り立っている。
 その源流は数万年前の縄文時代の宗教儀式で、体系化したのは数千年前の弥生時代で、神話化したのは千数百年前の古墳時代である。
 日本の宗教儀式を代表するのが、正統な男系父系血筋を唯一の根拠とする一子相伝の皇室祭祀・宮中祭祀である。
 日本の天皇家・皇室の歴史は、それほど長く跡絶える事なく一筋に続いている、世界最古の王家である。
 祭祀を行うのは、キリスト教イスラム教・ユダヤ教とは違って正統な男系父系であれば男性皇族でも女性皇族でも構わない。
 世界的な普遍宗教は例外なく男性上位・女性下位で、キリスト教教皇枢機卿大司教イスラム教の指導者、法学者、律法学者、ユダヤ教の聖職者、ラビは、全て男性で女性はいない。
 仏教も、女性を修行の傷害・悟りの障りとして遠ざけている。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、昔の日本人とは違い、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない。つまり別人のような日本人である。
 その象徴が、昭和天皇に対する認識で、国民世論の多数派は昭和天皇の名誉と尊厳そして人格を否定し踏みにじって恥じない「あいちトリエンナーレ2019」を「表現の自由」として支持した。
 皇室のスキャンダルや不祥事などを記事にした新聞や雑誌・書籍は、根強く売れている。
 共産主義マルクス主義)系テロリストやキリスト教系テロリストは、昭和天皇を惨殺する為につけ狙っていた。
 現代の日本国内には、聞こえないが、天皇家・皇室に対する怨嗟の声・呪いの声が渦巻いている。
   ・   ・   ・   
 現代日本人の内面は、見かけとは違い、他人に対して薄情、非情、冷血、冷酷である。
 その証拠が、イジメ、嫌がらせ、そして自粛警察である。
 そうした日本民族ではない日本人は、マルクス主義者・共産主義者、左翼・左派・ネットサハ、反天皇反日的日本人達に多く含まれている。
 彼らは同じ人間・見た目が日本人であっても、先祖から受け継いだ日本心、和心、侘び寂び、もののあわれ、惻隠の情などといった民族固有の心情はない。
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 国家神道は、反宗教無神論朱子学儒教理論武装となった人工的儀式で、祭祀は宗教の信仰ではなく儀礼の礼拝であった。
 国家神道には礼拝を行う神官・巫女はいても、教義、教典・聖典はなく、教祖、布教者はいないし、洗礼による改宗者はもちろん信者・信徒・教徒もいない。
 バチカンは、寛容の精神からカトリック信者に対して、契約信仰の妨げにならないのであれば、日本人が信じる伝統民族宗教への敬意として神社参拝を認めた。
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 宗教の正統な男系父系天皇を選ぶか、憲法・法律の正当な女系母系天皇を選ぶかは、日本国民である日本人の権利である。
 国民の80%近くが、男女平等を正義として、宗教の正統な男系父系天皇を廃して憲法・法律の正当な女系母系天皇への変更を求めている。
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 現代日本歴史教育は、マルクス主義史観、キリスト教史観、儒教史観に基ずくリベラルな非現実的非科学的歴史物語の為にウソ、捏造、歪曲、改竄が数多く存在している。
 戦後作られた歴史教育を信じたのが、リベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた優秀な次世代である。
 特に、マルクス主義者・共産主義者、左翼・左派・ネットサハそしてリベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者にそれが言えるし、右翼・右派・ネットウヨクでも同じ事が言える。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、西洋を中心とした世界をよく知り外国語で話せても、日本の民族的な歴史・文化・伝統・宗教・日本国語・風習・習慣を詳しく知らないだけに説明できない。
 現代の英語教育の目的は、外国を知り、外国人と自由に話せるようになる為であり、日本を知り、日本を分かりやすく説明する為ではない。
 つまり、本居宣長賀茂真淵などの日本の思想家・哲学者など知る必要がない歴史上の人物で、教養ある世界人となる為には外国の思想家・哲学者を知り学ぶべきだとされている。
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 日本は中国や朝鮮などアジアの近代化の為に多大なる貢献を行ったが、それは現代の日本人ではなく昔の日本人の偉大な功績である。
 昔の日本人の功績を、現代の日本人が自分の手柄のように誇り、自慢するのは祖先に対する冒瀆でありお門違いである。
 祖先に感謝し祖先の名誉・体面・尊厳を守ろうとしない現代日本人には、世界に向かって自慢するところは何もない。
 特に、中国共産党が今現実に行っている非人道的人権軽視・人命無視のジェノサイドに対する非難・抗議を公言しない現代日本人はそれが言える。
 その意味で、現代日本人には歴史を語る資格はない。
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 日本は世界で信用されている、日本人は世界で愛されている、日本文化は世界で好まれている、はすべてウソである。
 過去に、日本国は野蛮国であり、日本人は野蛮人であり、日本文化は非文明的野蛮文化であり、日本社会は搾取・強奪・略奪が日常的に行われている野蛮な社会であると、世界で嫌われていたという歴史的事実が存在している。
 その最たる相手が、反宗教無神論マルクス主義、宗教破壊の共産主義である。
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 アジア史の常識では、神道・仏教・道教混合日本文明は儒教中華文明(中国文明黄河文明)より数段劣った文明であり、日本文化は中華文化(中国文化)や朝鮮文化よりも下位・下等な教養度の低い野蛮な未開文化とされていた。
 つまり、日本人が自慢するほど日本民族の日本文明や日本文化は世界では評価は低かった。
 国際派と言われる現代日本人の中には、日本人は中国人や朝鮮人と同種同文・同種同根で、日本文明は中華文明の亜流で文明とは言えない、日本文化は中国や朝鮮から教えられた、と信じてる人々がかなりの数存在し、彼らは外国人に日本文明や日本文化を正しく説明する事ができない為に苦し紛れに「嘘八百の武士道神話」を広めている。
 それが、現代の歴史教育である。
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💍12)─1─「拉致被害者全員奪還」を口にしたらキリスト教団をクビになった元牧師。〜No.61 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 天皇家・皇室は、日本人拉致被害者とその家族に心を寄せ、一刻も早い拉致問題解決を希望し、日本人拉致被害者全員の無事な帰国を願っている。
 天皇家・皇室は憲法で政治的権能が認められていない為に、公式ではなく私的な発言と個人的に祈る事しかできない。
 が、天皇家・皇室の日本人拉致被害者とその家族を想う心は、日本神話に基ずく皇道主義=大家族主義、つまり家族を想う「八紘一宇の心」であり、「四方の海 はらから」である。
   ・   ・   ・  
 宗教的命・心・魂の救済をもたらす存在とは。
 日本民族では、民族中心神話を起源とする神の血筋を正統に継承する万世一系の男系父系天皇・皇族(宮家)・皇室である。
 キリスト教会では、迷える小羊である人間の宣教師・神父・牧師ではなく、父なる絶対神と神の子であるイエス・キリストのみである。
 男系父系の天皇・皇族(宮家)・皇室の救済とは、唯一正統の神の裔(神の子孫)・祭祀王・最高司祭、「余人をもって代えがたい血筋の存在」として、祖先の最高神である女性神天照大御神から受け継いだ生命体の血を依代にして全ての人々を対象とした八百万の神々への祈りである。故に、血の神話(Y染色体神話)と言われる。
 キリスト教会の救済とは、信仰者のみ限定の絶対神イエス・キリストから授かる奇跡・恩寵・恵み・福音である。
 何故、キリスト教会が天皇を認めず天皇制度を廃絶しようとするのか、それは神聖な命・心・魂の救済の独占であった。
   ・   ・   ・   
 儒教マルクス主義共産主義には、死を語れないし、命・心・魂の癒し・慰め・励ましはできないし救済もできない。 
   ・   ・   ・   
 2021年5月23日 産経新聞「曽我さん「時間がない」 一昨年末以来の署名活動
 拉致被害者の早期救出を求め、署名を呼び掛ける曽我ひとみさん(右)=23日午前、新潟県佐渡市
 北朝鮮による拉致被害者曽我ひとみさん(62)が23日、地元の新潟県佐渡市で、一緒に拉致され帰国が実現していない母、ミヨシさん(89)=拉致当時(46)=らの早期救出を求め、署名活動に参加した。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、令和元年12月以来の署名活動となった曽我さんは、市職員や支援団体メンバーらと協力を呼び掛け「本当に時間がない」と語った。
 拉致被害者横田めぐみさん(56)=同(13)=の父、滋さんが亡くなり、6月5日で1年。曽我さんは帰国から1、2年後にカラオケに行った際、滋さんから「(北朝鮮で)めぐみと一緒に歌っていた歌を聴かせてほしい」と頼まれ、童謡「紅葉」を歌った思い出を披露し「時間は刻々と過ぎている。政府には強い思いで一日も早い解決のために全力を尽くしてほしい」と語った。」
   ・   ・   ・   
 2021年6月号 正論「拉致解決訴えてクビ キリスト教団の体質
 上野庸平
 『「拉致被害者全員奪還」を口にしたら教団をクビになった』とSNSで発信を続ける元牧師がいる。
 彼の名前は一森文彰氏。2012年、関西学院大学の神学修士課程を終え、日本最大のプロテスタント教団・日本基督教団で献身していた36歳の男性である。
 信仰があればこそ拉致問題解決を願うのはキリスト者として当然──。そうした信念を持つ一森氏が、北朝鮮による日本人拉致問題に関心を持ったのは関西学院大学の神学生だった頃にさかのぼる。ナチス政権期のドイツで独裁政権に異を唱えて処刑された神学者ボンヘッファーを学んだこともそのきっかけだった。以来、キリストへの信仰を深めるにつれ、拉致問題北朝鮮人権問題に対してキリスト教者として果たす役割は何かと、自問自答してきた。
 2010年、無事に神学修士を得た一森氏は、2012年から日本基督教団所属の大阪府・東梅田教会に赴任し、次いで翌年から福岡県・飯塚教会に牧師(伝道師)として献身し始める。
 キリスト教の信仰を持つ者として、拉致問題解決を願いたい──。そう思い続ける一森氏は教会での牧会活動のかたわら、ブルーリボンバッチを胸に付け、『救う会』のボランティア参加などの拉致問題解決の活動をしていたほか、牧師として出席する日本基督教団の九州教区(九州地域の教会を束ねる教団の組織)の会合などでも常々拉致問題解決の提唱を呼びかけるなどの行動をしていたという。
 そして2019年2月、一森氏は飯塚教会退任後の赴任先教会の斡旋を彼の出身校である関西学院大学神学部に依頼したが(一般に日本基督教団では牧師の人事は出身神学校が斡旋する)、同人事委員会(神学部・神学後援会・神学部同窓会合同委員会)は、一森氏に対して赴任先教会を斡旋できないと通告したのである。その理由は驚くことに『一森牧師が拉致問題解決への取り組みを公に行っているから』というもの。人事会議の結果を伝えた九州教区議長の梅崎浩二氏は電話口で一森氏に『拉致問題解決の取り組みをやりたい君に働ける教会はない』『拉致問題への取り組みをやめるなら斡旋も可能なのだが』と言ったという。
 一森氏は耳を疑い、拉致問題解決への取り組みが人事斡旋拒否の理由とされることは何かの間違いではないかと考え、同人事委員を務め、彼の神学部時代の恩師でもある中道基夫氏(関西学院大学神学部長)に『これは梅崎先生の個人的な意見ですか?』と確認したが、『人事委員会の結論です』と暖簾に腕押しの冷淡な回答が返ってきただけだった。
 一森氏は自身のSNS上に中道氏から送られたメールを公開しているが、そこには確かに次のような驚くべき言葉が載っている。
 『これ(拉致問題解決の取り組み)を「信仰と信じて」というのは(中略)教会全体を導き、そこに集う魂を牧する牧師として逸脱した考えであると言わざるを得ません』
 このメールをSNSに投稿した一森氏はその後、関学側から呼び出され、『あなたが拉致問題解決の取り組んだことを人事斡旋拒否の理由としたのではない。単に紹介できる教会がなかっただけで』と不自然に前言を撤回され削除を要請されたという。
 教団で拉致解決に取り組むこと
 以上が『拉致被害者全員奪還を口にしたら牧師をクビになった』という『事件』の概略であるが、『一森氏が拉致問題解決の取り組みを、教会を私物化して行おうとし、それが問題視されたのでは?』と思う人もいるかもしれない。実情はどうやらそうではないようだ。彼は教会を拉致問題解決の運動の場としようとしたことは一度もなく、『教会で署名を集めたり、拉致問題啓発のポスターを貼ったりとか、そういうことは絶対にしないようにしていた』と言う。これについては現在同教会で司牧する牧師に確認したところ、確かに『そうした話は聞いていない』とのこと。
 なぜ、人事の斡旋を拒否されたのか。それは教区の会議などで彼が度々拉致問題解決を唱えていることが、日本基督教団の『規範』を乱したとされたからだった。
 一森氏はこう語る。
 『教区の大会や超教派(キリスト教の他教団との集まり)の集会などで、平和についていろいろ話し合うんですが、九州教区では例えば「平和憲法9条を守りましょう」というのが教会の宣教の方針なんです。僕はそれに反対はしていないのですが、「では、拉致被害者はどうやって救出するのかということも考えなければならないですよ」と発言していましたね。「会議の議題に拉致問題のことが入っていないから考えていきましょう。拉致被害者の家族会や救う会と一緒に考えていくのはどうでしょうか」と言っていました』(一森氏)
 確かに、『拉致問題』という重大な人権侵害問題について考え、取り組むのはキリスト教の信仰実践として間違っていない。拉致問題は日本で平和を考えるならば避けてはならない課題だろう。
 しかし、一森氏によれば『そういうことをやると、大変なことになる』らしい。
 『(その後)すごい反発が来ました。その会議の後で偉い牧師先生から囲まれたり、怒鳴られたりすることにもなります。ま、一方的に僕が怒鳴られるんですが・・・そういうことをやっているうちに、九州教区では次第に「極右の牧師さんだ」と思われていきました』(同)
 拉致問題解決を訴えただけで『極右の牧師』と見られるという状況は想像が容易ではないが、彼が胸に付けたブルーリボンバッジを見ただけで『あれ、安倍の仲間か?』『在特会系なの?』などと、まるで踏み絵を踏まされるようなセリフを教団メンバーに投げかけられたこともあったという。
 そして2019年2月、ついに『極右の牧師に働く場はない』と言わんばかりの人事斡旋拒否にいたったのである。
 『極右の牧師』というレッテル
 実は、そもそも彼が飯塚教会を退任することになったのも、拉致問題解決を提唱する彼の言動が飯塚教会の信徒役員会から問題視されたからだった。まるで〝極右の牧師〟のようなイメージが教団内部で形成されてしまったため、牧会する飯塚教会もいつしか『極右の牧師がいる教会』と見られ始め、ある時には『九州教区は飯塚教会に予算を配分するのをやめた方がいいんじゃないか?』などという話が教区の上層部でささやかれることもあったらしい。
 そうなると教会に所属する平信徒の教会員としては『とにかく目立つことはしないでほしい』という反発感情も確かに生まれるだろう。中には『一森先生が拉致問題の話をするなら、私はもう教会に来られない』と嘆く信徒もいたという。そして『教会の代表者である以上、(拉致問題解決の取り組みが)個人としての活動であっても許容できない』という教会員の意見のもと、牧師の職を退任するにいたったのである。
 もっとも一森氏は、このように教会員が彼の活動に反対し、牧師の任を退かねばならなくなったことについては『役員会と牧師の間で問題が発生することはなくはないんです。人間関係ですから』として素直に受け止めている。彼の教会の運営は牧師と信徒代表者の合議で取り決められることになっていた。
 彼が憤るのはむしろ関西学院大学人事委員会の『拉致問題解決の提唱を理由に牧師として人事斡旋を拒否する』という恣意性、そしてさらに『拉致問題への取り組みをやめたら人事を斡旋してあげても良い』と軽々に言ってしまう人権意識の低さ、さらにこちら側の追求に斡旋拒否の理由を二転三転させる不誠実さだ。
 『僕が一番怒っているのは、拉致被害者の救出をしましょうという人権運動をするんだったら、あなたに牧師としての職業はないですよ、牧師を職業として飯を食っていきたいんだったら拉致問題の取り組みはやるな・・・と、キリスト者がそういう言い方を自信満々にしてしまうことです』
 一森氏の言葉の端々から日本基督教団と母校・関西学院大学神学部に対するやるせない想いがあふれている。
 キリスト教会の左傾化
 一森氏は拉致問題解決を提唱する牧師が異端視されてしまう原因を、戦後日本のキリスト教界の思想的『左傾化』が根本的な原因だと言う。日本のキリスト教界は、ホーリネスなどの一部の弾圧された教派を例外にして、戦時中は国家神道や権力へ迎合し、戦争協力を行ったとされている。これに対する反省から、戦後は一転して反権力・反体制の立場を明確にしたことで知られる。
 例えば、一森氏の所属する日本基督教団の九州教区もその『宣教基本方針』として、『米軍基地の撤廃』や『集団的自衛権行使容認の撤回』、『外国人住民基本法の制定』など一般に『左翼的』と形容される政治的活動を掲げ、教団を挙げて社会への取り組みを行っている。これらは『宣教基本方針』ちう名の通り、宗教活動の一環であるという位置づけだ。
また、日本と国交のない北朝鮮との対話にも熱心で、2019年にはプロテスタント超教派団体『日本キリスト教協議会(NCC)』の北朝鮮訪問も行われた。NCCのプレスリリースを調べてみると、訪朝でNCCは日本の過去の戦争責任に対する謝罪は表明したものの、拉致問題北朝鮮国内の人権侵害問題については何も声明を出されなかったことが分かった。それどころか、朝鮮総連機関紙の『朝鮮新報』(同年8月5日号)の記事を見てみると、NCC幹部は平壌市内の医療や教育施設を見学して、『朝鮮の無償医療制度や教育制度などの社会的施策に感動を覚えた』と話し、『朝鮮では、国家によって出産・育児の環境が十分に整えられ、女性たちの社会進出が進んでいることを知った。また、ホームレスも見当たらず、弱者を包み込む優しい社会だと感じた』と北朝鮮の体制を絶賛していたことを伝える。
 こうした日本基督教団の『左翼的』な政治的体質が、〝救う会〟や拉致被害者家族の取り組みを〝右翼的〟に見て拒否反応を起こしたというのが『拉致問題解決を呼びかけた牧師がクビになる』という事件の背景なのだろう。一森氏は『そういう偏った言論の積み重ねをしてきたから関学(人事委員会)も自信満々に「拉致問題解決の取り組みをやめたら人事斡旋してもいいよ」なんて言ってしまうんですよ』と嘆息する
 『よいお働き』の牧師とは
 ……
 関西学院大学神学部長で人事委員会のメンバーでもある中道基夫教授に質問状を送った。
 ……
 回答状には、『良いお働き』の例として、書籍『拉致問題を考えなおす』(青灯社)と執筆者の故・東海林勤牧師の名前が書かれていた。
 しかし、一森氏によると、東海林牧師は救う会拉致被害者家族の主張に反して『北朝鮮と仲良くせよ』という具体的な働きをした代表的な人物だ。『東海林先生のような意見が受け入れられるから、救う会や家族会の話も聞きましょうよという僕の意見が排除されるんです』ということだ。
 『拉致問題を考えなおす』に載った東海林牧師の論考には、頭に疑問符の浮かぶような文章にいくつも遭遇する。
 『アメリカの覇権主義と日本の権力主義が、北の圧政の上に圧迫を重ねていると言えるでしょう。』
 『日本政府は・・・在日の方々を・・・北朝鮮政府と組んで「厄介者」を追放する目的で「帰還」させました』
 『横田早紀江さんは、在日朝鮮人の歴史と生活に目を向け、そこに足を運ばれるなら、きっとそこで今までとは違った新しい出会いを経験されるのではないかと思います』
 東海林牧師はかつて韓国の民主化支援や在日朝鮮人政治犯の救援運動をする〝活動家牧師〟として知られていた。であれば、なおのこと、北朝鮮の民衆が苦悩する直接的原因である北朝鮮の体制や強制収容所を非難してしかるべきかと考えるが、書籍を見ると、追求の矛先はひたすら日本の責任に向けられている。
 独裁体制に黙する体質
 『拉致問題に関わっておられた牧師』の『よいお働き』の実例として、このような言説を例示してしまう日本基督教団の偏った政治的党派性は、それをおかしいと気づかずに、無邪気さすら孕(はら)んでいて深刻だと言わざるをえない。
 一森氏は先述のドイツの神学者ボンヘッファーを引き合いに出してこう語る。
 『私は関学の神学生時代に、教会は(ナチスの)独裁体制に対して戦うべきだった、それが神の宣教であった、信徒数を増やして献金を増やすことだけが宣教ではないのだと教えられました』
 彼らの言う『ナチス』を『金正恩』に置き換えれば、北朝鮮を訪問して拉致や人権問題も口に出さないキリスト教徒がいかに偽善的かがわかるだろう。皮肉なことに神学生時代の一森氏に『独裁体制に迎合するな』と教えた牧師たちは、彼を『拉致問題解決を提唱するから』という理由で『クビ』にした人事委員たちでまあった。
 一森氏は次のように決意を強くする。
 『ボンヘッファーの精神に則れば、独裁体制におべっかをつかう、拉致されたり、人権侵害されている人たちのことは何も言わない人たち(前述したNCC訪朝団)と一緒になってしまうのは、僕が人事委員会の先生から教わった神学ではない。僕の神学生時代にそれと戦えと教わったはずです。教えてくださった人たちと戦ってでも、僕を導いてくださった人たちが教えてくれた志や信仰は貫きたいと思っています』
 一森氏は、病気の妻と傷害がある子供の世話をしながら日々を過ごしている。牧師として生きることへの想いはなくはないが、拉致問題に冷淡な体質が改善されない限り、日本基督教団の牧師として奉職するつもりはないという。
 日本のキリスト教界は戦時中の体制迎合と戦争協力への反省から、戦後は政治的に『左傾化』したと先述した。しかしながら、今回取材した一森氏の一件を見ると、日本のキリスト教界が反省すべきは〝右〟や〝左〟といった『政治的党派性』ではなく、むしろその『体質』ではないのか、と思えてならない。
 少し専門的な話になるが、戦時中のキリスト教界の主流派は戦時体制に迎合して戦争協力を行ったのみならず、弾圧にあったホーリネス派などの一部教派に対しては『大局的見地から言えば、こうした不純なものを除去することによって・・・今後の運営上かえって好結果が得られる』や『(ホーリネス派が弾圧されるのは)彼らの学的程度が低いからだ』と見捨て、宗教弾圧を放置し続けたのも事実だからだ。そして、その弾圧される教派を見捨てたキリスト教界の主流派教団こそが、今回、一森氏を『拉致問題解決の取り組みをしている』という理由で人事斡旋拒否した関西学院大学神学部の所属する日本基督教団なのである。
 戦時下の日本基督教団が見せた体質的な非寛容さと冷淡さは、北朝鮮の体制を擁護し、拉致被害者全員奪還を口にした牧師を『クビ』にしてしまう現在の姿に重なって見える。」
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 政教分離の原則による人の法律が認める正当性な女系母系天皇には、縄文時代から受け継いだ伝統文化の神話的宗教性はなく、祖先神である最高神の女性神天照大御神から授かった正統な魂の救済権はない。
 女系母系天皇とは、法律を正当な根拠とした外面的政治制度であって、心・魂・志を正統な依代とする内面的宗教祭祀ではない。
 つまり、女系母系天皇とは反宗教無神論マルクス主義)の科学万能主義・人間中心主義に基づく宗教否定・家破壊・家族崩壊・日本民族の絆遮断を目的とした神殺し・仏殺しである。
   ・   ・   ・   
 日本に昭和天皇と皇族を惨殺しようとする狂信的キリスト教原理主義テロリストがいて、戦前の天皇主義者・軍国主義者・民族主義者らは昭和天皇と皇族の命を守るべく不敬罪・大逆罪・治安維持法で徹底した宗教弾圧を行った。
 戦後、GHQ、キリスト教会、マルクス主義者(共産主義者)は、天皇・皇族・皇室を守ってきた不敬罪・大逆罪・治安維持法を悪法として廃止した。 
   ・   ・   ・   
 現代の一部のキリスト教会は、戦国時代の中世キリスト教会に似ている。
 何処が似ているかと言えば、助けたいと思う相手(キリシタン)は助けるが、助けたくない相手(異教徒)は助けない、という事である。
 そうした一部のキリスト教会は、異教徒の天皇家・皇室が救出を望み、保守系の国家権力・政府・体制が軍事行為放棄の憲法の制限下で助けようとしている拉致被害者とその家族を切り捨てている。
 拉致された、売られた、日本人は、新しい世界・素晴らしい世界へ連れられて行き、見た事のない優れた人々と新しい出会いを経験し、優れた人間と生活する事で自分も更なる高みへと成長できるだから、と。
 事実、世界中に渡った日本人のほぼ全員がキリスト教徒になり日本・日本人を捨てた。
 キリスト教は、「不幸な者、貧しき者、虐げられる者、悲しき者、哀れな者は幸いである」、何故なら絶対神は彼らを慈しみ祝福し救済し神の王国(死後の世界=天国)で永遠の命を与えるからであると教え、絶対神への信仰の神聖を説き、信仰の為に生きる事を力説している。
 つまり、殉教も、拉致も、奴隷の身分さえも、隣人愛の信仰・神の福音を成就する為の試練であるとして甘受すべきである、と宣う。
   ・   ・   ・   
 エセ正義の味方や自粛警察などという同調圧力、場の空気、空気圧が、日本人から活力・生気・精気を奪い、陰々滅々な陰湿な空気で日本社会をブラックに支配している。
 ブラックなのは、右翼・右派・ネットウヨクでも左翼・左派・ネットサハでも同じである。
 そうしたブラックな日本人は、日本民族とは正反対の人間で、数万年前の石器時代縄文時代から先祖代々受け継いだ民族の歴史・伝統・文化・宗教を持っていない。
   ・   ・   ・   
 ハッキリ言って、現代日本には真の意味での人権意識は存在しない。
 拉致問題解決に非協力的な日本人は、ウイグル・ジェノサイドの人権問題にも同じように非協力的である。
 良心的日本人、友好的日本人、正しい日本人達は「したり顔」で言う、遠い親友(戦友)より近くの友人(中国・韓国・北朝鮮)とは親しく付き合うべきであり、遠い親友(戦友)に気を使って近い友人が嫌がる事はしない方がいい、と。
 現代日本人は、中国共産党に虐殺されているウイグル人チベット人・モンゴル人・少数民族など関心がない。
   ・   ・   ・   
 戦後日本とくに1980年代以降の日本を動かしたのが、学生運動で活躍したリベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた才能触れる優秀な次世代であった。
 その流れは令和の時代でも続いていて、その毛色は東アジアには馴染み、欧米では馴染まない。
 全体主義独裁体制は中国共産党北朝鮮・ロシアであり、自由・民主主義体制はアメリカやヨーロッパそして日本や台湾である。
   ・   ・   ・    
 原始キリスト教の信仰ではなく精神の精髄は、海の外から日本に上陸して来たゾロアスター教や仏教などその他の宗教や数多くの神話と同様に、奈良時代から日本神道皇室神道宮中祭祀に取り込まれている。
 その顕現が、聖武天皇光明皇后による、貴人・下人、金持ち・貧乏人、善人・悪人、日本人・外国人、帰化人・渡来人、個人的宗教・哲学・思想に関係なく日本国に住む全ての衆生(民草)を「家族とみなして救済したい」という祈願から始まった東大寺建立国家事業である。
 そこに反宗教で神仏否定・迷信破壊の非寛容的非現実的観念的教条的狂信的儒教は入っていない。
 東大寺大仏に仏・魂を吹き込む最重要な開眼供養は、天皇や皇族ではなく、日本人僧侶でも中国人僧侶でもなく外国人であるインド人僧侶がおこなった。
 こうした中から生まれ出たのが、大家族主義=皇道主義=八紘一宇の心である。
 聖武天皇の御稜威・大御心は、宗教的伝統文化として、男系父系天皇の血筋を正統とする現皇室まで正しく受け継がれている。
   ・   ・   ・   
 日本は、シルクロードの東の終着地として、中央アジア人やペルシャ人などの雑多な人々と共に数多くの宗教・思想・哲学・文化・芸能・文芸・工芸品・その他が中国や朝鮮を経由して自然に・自由に伝えら根付いていた。
 それを日本統治に有効に利用したのが聖武天皇である。
   ・   ・   ・   
 天皇家・皇室の正統性は、民族中心神話=血の神話、最高神である女性神天照大御神の血を受け継ぐ子孫・男系父系天皇にある。
 女系母系には、生物として人間的政治的正当性はあっても、血筋としての民族的宗教的正統性はない。
   ・   ・   ・   
 日本の宗教は、崇拝宗教であって信仰宗教ではなく、神は自然の精霊神と祖先の人神(氏神)である。
 日本民族は、日本人は自然と祖先にとって生まれてくるのであって、人とは全知全能の神・天地創造の神・絶対神が土・ゴミ・塵を混ぜ合わせて神に似せた姿に創り命を埋め込まれる泥人形とは考えていなかった。
 つまり、日本民族の宗教心は「神秘的に生まれる」という事であって「信仰として創られる」ではない。
 日本で、キリスト教が根付かない最大の原因はここにある。
 それは、宗教破壊の儒教マルクス主義共産主義でも同様である。
   ・   ・   ・   
 昔、日本社会党日本共産党マルクス主義者の左翼・左派、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、進歩的学者、キリスト教その他の宗教団体など多くの日本人達が挙って日本人拉致事件を否定し、北朝鮮を貶め様とする公安警察など警察権力の陰謀だと激しく非難していた。
 政治家も官僚も、本気で拉致家族の悲痛な訴えを聞かず、被害者である拉致被害者を助けようとせず、何らかの問題を抱えた行方不明者、私的な家出人として切り捨てていた。
 そうしたブラックな意識は、現代日本にも消えず残り、日本人の間にドス黒く渦巻いている。
   ・   ・   ・   
 天皇・皇室とローマ教皇バチカンカトリック教会は、普遍・民族(神話)など全ての宗教・信仰を反宗教無神論マルクス主義共産主義勢力にる破壊から守るべく強い信頼関係を築いていた。
 戦前のカトリックキリスト教会は、マルクス主義共産主義勢力から宗教・信仰を死守する為に昭和天皇に協力した。
 昭和天皇ローマ教皇バチカンカトリック教会の協力・支援を得るべく、親ユダヤ派、人種差別反対派で、国家元首として人道貢献と平和努力を心掛けていた。
 バチカンカトリック教会は、中国を含むアジアにおける信仰をマルクス主義共産主義勢力から守る為に、キリスト教徒による信仰抜きの靖国神社礼拝を認めた。
 敵は、宗教・信仰を破壊するソ連中国共産党日本共産党・国際共産主義勢力であった。
   ・   ・   ・   
 反天皇反日本のキリスト教系テロリストは、日本人共産主義テロリスト同様にい異教国日本を転覆崩壊させるべく、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 東條英機松岡洋右松井石根らは、ヒトラーから逃げてきたポーランドユダヤ人難民を保護し、同盟国ナチスドイツの外圧をはね付け、親ドイツ派や反ユダヤ派・人種差別主義者の動きを封じ、ゲシュタポによる上海ホロコーストを潰した。
 昭和天皇日本陸軍ユダヤ人難民を助けた動機は、破滅を救ってくれたユダヤ人への恩返しと民族中心神話=皇室神話における八紘一宇の精神からである。
 つまり靖国神社の心・志・まごころ、それは命を捨てても「他人の為に尽くしきる」という自己犠牲である。
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 宮中祭祀は開闢以来、神の血を正統に受け継ぐ男系父系天皇のみに許された一子相伝の国家祭祀で、世俗・他人の血が混じった女系母系天皇・皇族には許されない神聖不可侵の天皇神・天皇霊崇拝であった。
 戦後、政教分離の原則で宮中祭祀から国家祭祀が排除され天皇家・皇室の私的個人祭祀とされた。
 宮中祭祀の原型は、縄文時代から受け継がれた自然祭祀に、弥生時代に祖先神・氏神の人神崇拝が加わったものである。
 日本宗教における神の対象とは、自然と自分の祖先であった。
 つまり、血の繋がらない他人が赤の他人の祖先を神として崇める事に俗欲な政治的意味があっても神聖な宗教的意味は何もない。
 祖先を神として祀り崇め崇拝するのは、その子孫だけに与えられた義務であり特権である。
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 拉致問題・領土問題・外国資本の国土買収問題など日本が抱える深刻な諸問題の多くを解決不能にさせている原因は、国内外に問題解決を望まない日本人が多数存在し活動しているからである。
 彼らとは、マルクス主義の左翼・左派・ネットサハで、親中国派・媚中派、親韓国派、親北朝鮮派であり、反米派・反安保派・反米軍基地、そして護憲派人権派、反自衛隊派、反戦平和団体、その他と反天皇反日的日本人達である。
 リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、学者、文化人・・・。
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 江戸時代後期・明治初期の狂信的天皇主義者(勤皇派・尊皇派)とは、貧しい下級武士と身分が低い下層民である庶民(百姓や町人)、賤民(非人・穢多)、部落民、芸能の民、異能の民、異形の民、その他であった。
 天皇日本民族の紐帯とは、恵まれた中間層の中抜きをした、最上階の天皇家・皇室と最下層で惨めに這いつくばってようやく生きている極貧の困窮者との心的絆である。
 狂信的天皇主義者(勤皇派・尊皇派)は、天皇を神聖不可侵の現人神と崇め、民族中心神話を起源とする神の血筋を正統とする万世一系の男系父系天皇の擁護者である。
 が、現代日本ではそうした正真正銘の日本民族は急速に減少し始めている。
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 キリスト教会は、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人が「隣人愛信仰」・「神の御名」・「神の福音」で行われた日本人奴隷交易を認めず、キリスト教を禁教としてキリシタン弾圧を行った豊臣秀吉徳川家康徳川幕府を極悪非道の重罪人と激しく非難し、日本人異教徒によって処刑されたキリシタン絶対神への信仰を守った殉教者として讃え、隠れた意図として日本の非人道性を批判している。
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 現代日本無宗教無神論が広がる事で、現代の日本人による「神殺し」と「仏殺し」が静かに進んでいる。
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 現代の日本人は、昔の日本人ほどに天皇・皇室に対する関心も魅力も持たず、それ故、口で公言するほど、必ずしも現在の正統な皇室を維持したいとは思ってはいない。
 その傾向は、リベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた次世代に強い。
 現代の日本人は、昔の日本人に比べて、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力はない。
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 明治日本の近代化とは、ロシアの武力侵略とキリスト教の宗教侵略から軍事力で日本天皇・日本国・日本民族を守る為の大構造改革であった。
 大正期になると日本侵略に、ソ連中国共産党・国際共産主義勢力による反宗教無神論イデオロギー侵略が加わった。
 日本人共産主義テロリストとキリスト教系テロリストは、日本を破壊・崩壊させる為に昭和天皇と皇族を惨殺する為につけ狙った。
 敗戦後。マッカーサーアメリカ・キリスト教会は、野蛮国日本をキリスト教国家に大改造しようとしたが、靖国神社明治神宮伊勢神宮宇佐神宮など主要神社の焼却廃棄と一子相伝宮中祭祀を廃止できず失敗した。
 一子相伝として天皇にのみ受け継がれる宮中祭祀は、神の血筋を正統に受け継ぐ男系父系天皇のみである。
 国際共産主義勢力とキリスト教団と一部の仏教勢力は、昭和天皇処刑・天皇制度廃絶・天皇家消滅の為に手を組み、日本国内に赤い教師、赤い神父、赤い牧師、赤い僧侶を送り込んで敗戦で自信を失った日本人の洗脳活動を行った。
 しかし、歴史力・文化力・伝統力・宗教力を強く持つ日本民族縄文時代から受け継いできた「八百万の神々」への崇拝宗教を護る為に、排他的不寛容なキリスト教の信仰宗教と「神殺し・仏殺し」を正義とする反宗教無神論マルクス主義共産主義を嫌い日本から排除してきた。
 外国勢力から日本国と日本民族を救ったのは、神の血筋を正統に受け継ぐ男系父系の昭和天皇による全国巡幸であった。
 日本国と日本民族を滅ぼす為には、神話を根拠とする正統な男系父系天皇を消滅させる事であった。
 キリスト教会とマルクス主義者は、天皇制を廃絶し、日本を新たな理想国へと改善する為に、学校教育と新聞・雑誌・書籍そしてラジオ・テレビなどのメディア情報機関の支配を強化した。
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 日本天皇を守ってきたのは、旧石器人・縄文人弥生人倭人と日本列島内のみで乱婚を繰り返して血が汚れた混血・雑種の日本民族である。
 倭とは儒教用語で、文明・文化を持たず、教養・知識のない、人間以下の獣のような未開で野蛮な人間という差別用語である。
 中華の「倭」と西洋の「イエロー・モンキー」「ジャップ」は人種差別用語である。
 日本人に対する蔑称に対して、戦前の日本人は激怒して反発し抗議し名誉と尊厳を守る為に世界的人種差別と戦ったが、現代の日本人は人種差別に対してを争わずむしろ甘受し軽蔑され馬鹿にされている事に恍惚的な喜びを感じている。
 現代の日本人は、「嫌われるのは意識されている証拠で、完全無視されるよりも良い」と考え、「日本は世界で信用され、日本人は世界で愛されている」というウソを信じている。
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 奈良時代の日本人は弱小国ではあっても天皇・国家・民族の名誉と尊厳の為に、強大な中華皇帝に対して粘り強い外交努力で「倭」という差別用語を「日本」とい偉大な名前に変えた。
 朝鮮人は、中華帝国保護国としてへりくだり、中華皇帝に臣下の礼をとり、その褒美として「朝鮮」という国名と暦を拝受した。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を日本人から奴隷として買い取り世界に輸出する事で金儲けをしていた。
 ローマ・カトリック教会は、改宗した日本人キリシタンを奴隷とする事を禁止したが、改宗しない日本人を奴隷にする事は認めた。
 イエズス会などの宣教師は、奴隷として売られる日本人を救うべくキリシタンに改宗させた。
 白人キリスト教徒商人は、宣教師らの妨害で奴隷交易ができないとして、ローマ教皇に日本人キリシタンを奴隷にする許可を求めた。
 豊臣秀吉徳川家康キリスト教を禁教として弾圧し、徳川幕府鎖国で日本人の渡航を禁止した為に、日本人奴隷交易は自然消滅した。
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