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2021年5月28日号 週刊ポスト「逆説の日本史 井沢元彦
近現代編
大日本帝国の確立 Ⅰ
韓国併合への道
『支配』では無く『共存』、『収奪』では無く『投資』が基本だった日本の台湾経営
話しはさかのぼるが、1894年(明治27)開戦の日清戦争の勝利によって翌95年、台湾が清国により割譲され日本領となった。すでに述べたように(『逆説の日本史 第24巻 明治躍進編』参照)、日本の領有化にあたって一部で現地在住の清国人および先住民(日本は後に高砂族と呼んだ)の激しい抵抗はあったが、なんとか武力で鎮定し早速インフラや法律、社会制度の整備を始めた。いわゆる『植民地化が始まった』と単純な表現を使う向きもあるが、日本はあきらかにイギリスなどとは違う方法を模索していた。
英、仏、露など欧米列強の植民地支配はまさに『支配』によって現地から収奪するのが目的だった。植民地の民は人間では無く家畜や奴隷のようなもので、いわば『搾り取る』ための道具であった。だから彼らを幸せにすることなどまったく考えなかったし、教育を施そうなどとは夢にも考えなかった。『文字ぐらいは読めたほうがいい』という考え方も一部にはあったが、それは収奪を容易にするためであり、支配の末端を担わされたのであった。最前線(戦死率が高い)を担当する下級兵士や物産の取扱場所にいる現地人は、ラベルぐらいは読めたほうがいいからである。だから、高等教育を受けさせることはあり得なかった。なまじ『知恵をつける』と『反乱の時に面倒』になるからだ。
この根底には、程度の差はあれキリスト教徒白人の有色人種に対する根深い差別がある。その有色人種の一員である日本人が、同じ有色人種である中国人や朝鮮人を日本に受け入れる際、そういう支配ではいけない、それとは一線を画すべきだと考えたのも、理の当然だとわかるだろう。白人はずっと有色人種を差別してきたが、日本人と中国人、朝鮮人の間には好悪の感情はあったが、人種差別は無かった。『同文同種』という言葉があったぐらいで、人種間の差異はほとんど無かったといっても過言では無いだろう。儒教(朱子学)という共通の思想的土壌もあった。欧米列強とその植民地の間に見られる、キリスト教徒と非キリスト教徒そして白色人種と有色人種の根深い対立は、日本の対外関係のなかにはまったく無かった。この事実を認識すれば、日本の植民地『支配』というよりその『経営』が欧米列強とはまったく違うものになったことは、研究以前に予測できるはずだ。しかし、ご存じにようにこれまでの日本の歴史学は『日本も欧米列強の一員となった』と単純に規定し、その『植民地支配』も欧米列強のものと変わらなかったというスタンスで貫かれている。そんなはずは無いではないか。基礎条件がまったく違うのだから、いい加減にそうした粗雑な見方からは脱却して欲しいものだ。
日本の『植民地』に対する対応は『支配』では無く『共存』であり、『収奪』では無く『投資』が基本であったことを理解する必要がある。これは第一次世界大戦における勝利の結果、事実上の日本領となったパラオなどいわゆる『南洋諸島』でも同じで、日本はそれまでの支配者であるドイツがまったくしなかったインフラの整備や学校の建設などを行った。現在パラオ共和国は台湾と並んで世界有数の親日国であるが、これが理由だ。……
もちろん、日本のやり方が100パーセント正しかったなどと言うつもりは無い。たとえば日本は『キリスト教国』では無い(キリスト教徒がまったく存在しないという意味では無いので念のため)ので、たしかにキリスト教に基づく、ちょうど大航海時代スペインのピサロのような残忍暴虐な植民地の民への差別は無かった。しかし、差別がまったく無かったわけでは無い。日本人の意識のうえでは『差別はしていない』という態度を取っていたが、台湾先住民のなかには差別を強く意識した人々もおり、それが日本統治に対する最大の反乱『霧社(むしゃ)事件』(1930年〈昭和5年〉)につながった。簡単に言えば、これは同化(=日本文化の押しつけ)政策に基づく日本人の政治経済文化にわたる先住民セデック族への干渉に対する不満が爆発したもので、民族のアイデンティティーを守るための戦いであった。こう書けば、それを当然の戦いだと現代人は思うかもしれないが、そうした先住民が守るべきだと決意し、日本人ごときに廃止されたくないと考えた『文化』のなかには『首狩り』もあったのだから話は単純では無い。日本の戦国時代にも『武士(男子)は戦場で敵の首を取ってきてこそ一人前』という感覚があったが、それと同じ考え方だと言えば少しは理解できるだろう。文化摩擦と簡単に言うが、問題はじつに複雑なのである。
未亡人と恋いに落ちた破天荒な皇族
ともあれ、こうした問題は確かにあったが、日本が台湾経営のための財政的インフラの一環として計画したのが台湾銀行の創立だった。1897年(明治30)公布の台湾銀行法によって、2年後の99年に設立された銀行だ。この銀行は台湾の中央銀行とされた。日銀のように銀行券を発行したのである。しかも、日銀が取り扱わない預金、融資、外国為替など普通の銀行業務も併せて行った。台湾にはそれまで近代的な銀行がまったく無かったので、こうした変則的な形となったのであろう。ちなみに、『銀行』は英語『BANK』の訳語ですでに香港などで使われていたから、中国語と言うべきだろう。日本人は幕末から明治維新にかけて『経済』『権利』『科学』『関数』『哲学』といった和製漢語を作って、これは本場中国に逆輸入されていまでも使われているが、『銀行』はそうでは無かった。中国はずっと事実上の銀本位制だったから『銀』行なのである。日本は『金行』にすべきだという議論も若干あったようだが、『語呂が悪い』という理由で沙汰止みになった。確かに『日本金行』ではあまりしっくりこない。
ちなみに、台湾銀行券は日本と同じ『圓(円)』という単位を用い、日本の1円と台湾の1円は等価であった。その図案は日本銀行券と区別するためであろうか、『壱圓(1円)』の額面表記が日本円と違って縦に書かれていた。ところで、紙幣のデザインに人間の肖像(顔)が用いられているには理由がある。偽造されにくいように複雑な模様(たとえば龍の文様)にすると、じつは偽札との区別がつきにくくなる。素人には細かい模様のどこが違うかというのは識別しにくいからだ。ところが不思議なことに、それを人間の肖像画にするとそれ自体結構複雑な模様であるにもかかわず、どこか本物と違うところがあれば素人でも容易に発見することができる。この肖像の持つ特性、科学的には明快に説明することはできないようだが、たしかに事実としてそうであるため世界各国で紙幣のデザインに肖像を用いるようになったのだ。ところが、台湾銀行券を造るときには適当な肖像が無かった。日本の統治下に入ったのだからいまさら中国人を使うわけにはいかないし、かと言って日本人の肖像を用いたのでは台湾との差別化ができず、日本の統治下に入って間も無い台湾人の反発を買う恐れもある。そこで窮余の一策としてデザインに採用されたのが、台湾神社の写真であった。もちろん、日本が占領するまで台湾には神社というものは無かった。日本が盛んに『輸出』したのだが、台湾神社は特別な神社であった。台湾の日本への抵抗を収めるために現地に派遣された台湾征討近衛師団長つまり陸軍の最高司令官であった皇族の北白川宮能久(よしひさ)親王が、現地でマラリアに罹(かか)り戦病死したことがきっかけとなった。遺体は日本本土に運ばれて埋葬されたが、明治以来皇族が陣没したのは初めてのケースであったため、その神霊を現地に守護神として祀るべきだという声が上がり、台湾神社が創建されたのである。ちなみにこの図案のことを台湾神宮と呼んでいる資料もあるが、神宮とは原則として天皇あるいはその祖先神を祀った神社のことであるから、この神社も創建されたときは『神宮』では無い。そう呼ばれたのは後に天照大神が合祀されてからのことで、この時点ではまだ『神社』だったのである。能久親王は江戸時代には僧侶となって輪王寺宮と名乗り、将軍家菩提寺の寛永寺にいた。徳川家康が、寛永寺のトップである貫首({かんしゅ}日光東照宮にある輪王寺門跡も兼任)は京都から親王を招いて就任していただく、というルールを作っていたのだ。家康が朝廷から人質を取っていたという非難は昔からあったが、何人もいる親王のうち一人だけ人質にしても仕方が無い。これは御三家と同じで、危機管理の天才家康が京の朝廷に万一のことがあった場合の『保険』としたのだろう。コレラのような疫病が蔓延すれば皇位継承者がいなくなってしまう。という事態は決して考えられないことではない。つまり、江戸時代にはいつでも皇位を継承する資格のある親王が一人、江戸の寛永寺に僧体をとって『常駐』していたのである。
明治になって幕府は滅び神仏分離令も出たために輪王寺宮という地位は無くなったが、その最後の輪王寺宮であった能久親王は幕末に寛永寺で官軍に抵抗した彰義隊に盟主として仰がれ、彰義隊壊滅の後は江戸を脱出し奥羽越列藩同盟を結成した東北諸藩に迎えられた。このとき、官軍に対抗するため東北諸藩は親王を『東武皇帝』として文字どおり『祀り上げ』たという説がある。『即位』までは認めないが、『構想』はあきらかに存在たとする論者もいる。たしかに、あるとき東北諸藩がもっとも欲しかったのは『錦の御旗』であったことは間違いの無いので、あり得ない話ではない。だが、奥羽越列藩同盟は結局敗北し、親王は還俗し蟄居(ちっきょ)させられた。その後、謹慎を解かれ陸軍軍人となったが留学先のドイツで男爵未亡人との恋に落ち婚約まで発表したものの(結婚したという説もある)、皇族と外国人の結婚は前例が無いという岩倉具視らの反対で離別させられたというエピソードの持ち主である。
その後、親王は軍人の道に専念するようになった。台湾は当時の人々の感覚では『蛮地』であり、軍人だとしても皇族が赴くような場所では無いのだが、本人は火中の栗を拾おうという意識があったのか、それとも皇室のほうに親王はあくまで『傍流』という意識があったのか、とにかく親王は台湾に赴きそこで死んだ。直ちに神社を設けるべしという声が上がったのは、ひょっとしたら親王がタタリをなすことを恐れたのかもしれない。明治天皇が即位前に『日本一の大怨霊』 崇徳天皇の陵に勅使を派遣し、その神霊を京都に迎え取ってから正式に即位すたのが明治元年である。それからまだ二十数年しかたっていないし、相変わらず明治天皇の治世は続いていた。これもあり得ない話では無いことがおわかりだろう。
親王は大衆的人気はあったらしい。なにしろ、ドイツ未亡人と婚約してしまうような破天荒な人物である。そうした人間はいまも昔も大衆にもてはやされる。
親王家の庶子として生まれ、幼くして都を遠く離れた江戸の地で僧侶として過ごし、一時は『朝敵』の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定に出立するも同地で不運の病死を遂げた、この流転多い人生は古代の英雄日本武尊の人生に例えられた。(フリー百科事典『ウィキペディア〈Wikipedia〉日本語版』)より一部抜粋
当時の人々はそう考えた、というのはそのとおりだろう。ヤマトタケルも父に嫌われて僻地の『征伐』に従事し、都から遠く離れた土地で『戦病死』している。1945年(昭和20)の日本の敗戦とともに台湾神宮および末社はすべて破却され、後に親王の霊は靖国神社に合祀されたが、その台湾神宮跡地に建っているのがいまでも台湾を代表する高級ホテル『圓山大飯店(まるやまだいはんてん)』である。
ともあれ、台湾銀行は中央銀行にとどまらず一般銀行の業務をこなし地域経済の発展に貢献したわけだが、ならば当時大韓民国から日本の『朝鮮という地域』にも、台湾銀行のような銀行をあらかじめ設立しておいたほうがいいということになった。」
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ヤマト王権は、統治下に入った日本国内と朝鮮半島南部の諸豪族に前方後円墳造営技術と日本神道の祭祀・儀礼を伝え、両国との交流を活発にした。
大日本帝国は、新たに領土となった台湾・朝鮮・パラオ・その他と傀儡国家の満州帝国に神社を建立したが、それは信仰の強要ではなく宗教性抜きの礼拝するだけの記念建造物であった。
日本神道は、自分の血と先祖が切り開いた土地を依代とする家単位の崇拝宗教であって全人類的普遍の信仰宗教ではなかった。
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日本の神には相反する二面性があり、恵みを与える善き神の和神・御霊と暴れ狂い被害をももたらす悪い神の荒神・怨霊である。
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現代日本には、宗教破壊・神殺し・仏殺しの反宗教無神論、天皇制度廃絶・皇室廃止、日本民族根絶、民族的伝統文化破棄のマルクス主義、共産主義が蠢いている。
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日本神道は、命・血・心・魂でつながった自分の祖先を神として祀る人神崇拝と自分を生かしてくれている自然を神とする精霊・大地母神崇拝の2筋が主柱である。
全ての神(八百万の神々)を分け隔てなく等しく祀り祈れるのは、最高神の女性神・天照大御神の正統な血筋にある男系父系天皇だけであり、血の繋がらない正当な女系母系天皇ではできない。
日本神道は、祖先の人神と自然の精霊・大地母神と天皇の現人神の3柱で成り立っている。
その源流は数万年前の縄文時代の宗教儀式で、体系化したのは数千年前の弥生時代で、神話化したのは千数百年前の古墳時代である。
日本の宗教儀式を代表するのが、正統な男系父系血筋を唯一の根拠とする一子相伝の皇室祭祀・宮中祭祀である。
日本の天皇家・皇室の歴史は、それほど長く跡絶える事なく一筋に続いている、世界最古の王家である。
祭祀を行うのは、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教とは違って正統な男系父系であれば男性皇族でも女性皇族でも構わない。
世界的な普遍宗教は例外なく男性上位・女性下位で、キリスト教の教皇、枢機卿、大司教、イスラム教の指導者、法学者、律法学者、ユダヤ教の聖職者、ラビは、全て男性で女性はいない。
仏教も、女性を修行の傷害・悟りの障りとして遠ざけている。
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現代の日本人は、昔の日本人とは違い、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない。つまり別人のような日本人である。
その象徴が、昭和天皇に対する認識で、国民世論の多数派は昭和天皇の名誉と尊厳そして人格を否定し踏みにじって恥じない「あいちトリエンナーレ2019」を「表現の自由」として支持した。
皇室のスキャンダルや不祥事などを記事にした新聞や雑誌・書籍は、根強く売れている。
共産主義(マルクス主義)系テロリストやキリスト教系テロリストは、昭和天皇を惨殺する為につけ狙っていた。
現代の日本国内には、聞こえないが、天皇家・皇室に対する怨嗟の声・呪いの声が渦巻いている。
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現代日本人の内面は、見かけとは違い、他人に対して薄情、非情、冷血、冷酷である。
その証拠が、イジメ、嫌がらせ、そして自粛警察である。
そうした日本民族ではない日本人は、マルクス主義者・共産主義者、左翼・左派・ネットサハ、反天皇反日的日本人達に多く含まれている。
彼らは同じ人間・見た目が日本人であっても、先祖から受け継いだ日本心、和心、侘び寂び、もののあわれ、惻隠の情などといった民族固有の心情はない。
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国家神道は、反宗教無神論の朱子学儒教が理論武装となった人工的儀式で、祭祀は宗教の信仰ではなく儀礼の礼拝であった。
国家神道には礼拝を行う神官・巫女はいても、教義、教典・聖典はなく、教祖、布教者はいないし、洗礼による改宗者はもちろん信者・信徒・教徒もいない。
バチカンは、寛容の精神からカトリック信者に対して、契約信仰の妨げにならないのであれば、日本人が信じる伝統民族宗教への敬意として神社参拝を認めた。
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宗教の正統な男系父系天皇を選ぶか、憲法・法律の正当な女系母系天皇を選ぶかは、日本国民である日本人の権利である。
国民の80%近くが、男女平等を正義として、宗教の正統な男系父系天皇を廃して憲法・法律の正当な女系母系天皇への変更を求めている。
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現代日本の歴史教育は、マルクス主義史観、キリスト教史観、儒教史観に基ずくリベラルな非現実的非科学的歴史物語の為にウソ、捏造、歪曲、改竄が数多く存在している。
戦後作られた歴史教育を信じたのが、リベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた優秀な次世代である。
特に、マルクス主義者・共産主義者、左翼・左派・ネットサハそしてリベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者にそれが言えるし、右翼・右派・ネットウヨクでも同じ事が言える。
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現代日本人は、西洋を中心とした世界をよく知り外国語で話せても、日本の民族的な歴史・文化・伝統・宗教・日本国語・風習・習慣を詳しく知らないだけに説明できない。
現代の英語教育の目的は、外国を知り、外国人と自由に話せるようになる為であり、日本を知り、日本を分かりやすく説明する為ではない。
つまり、本居宣長や賀茂真淵などの日本の思想家・哲学者など知る必要がない歴史上の人物で、教養ある世界人となる為には外国の思想家・哲学者を知り学ぶべきだとされている。
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日本は中国や朝鮮などアジアの近代化の為に多大なる貢献を行ったが、それは現代の日本人ではなく昔の日本人の偉大な功績である。
昔の日本人の功績を、現代の日本人が自分の手柄のように誇り、自慢するのは祖先に対する冒瀆でありお門違いである。
祖先に感謝し祖先の名誉・体面・尊厳を守ろうとしない現代日本人には、世界に向かって自慢するところは何もない。
特に、中国共産党が今現実に行っている非人道的人権軽視・人命無視のジェノサイドに対する非難・抗議を公言しない現代日本人はそれが言える。
その意味で、現代日本人には歴史を語る資格はない。
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日本は世界で信用されている、日本人は世界で愛されている、日本文化は世界で好まれている、はすべてウソである。
過去に、日本国は野蛮国であり、日本人は野蛮人であり、日本文化は非文明的野蛮文化であり、日本社会は搾取・強奪・略奪が日常的に行われている野蛮な社会であると、世界で嫌われていたという歴史的事実が存在している。
その最たる相手が、反宗教無神論のマルクス主義、宗教破壊の共産主義である。
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アジア史の常識では、神道・仏教・道教混合日本文明は儒教中華文明(中国文明=黄河文明)より数段劣った文明であり、日本文化は中華文化(中国文化)や朝鮮文化よりも下位・下等な教養度の低い野蛮な未開文化とされていた。
つまり、日本人が自慢するほど日本民族の日本文明や日本文化は世界では評価は低かった。
国際派と言われる現代日本人の中には、日本人は中国人や朝鮮人と同種同文・同種同根で、日本文明は中華文明の亜流で文明とは言えない、日本文化は中国や朝鮮から教えられた、と信じてる人々がかなりの数存在し、彼らは外国人に日本文明や日本文化を正しく説明する事ができない為に苦し紛れに「嘘八百の武士道神話」を広めている。
それが、現代の歴史教育である。
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