🌏60)─1─GHQ焚書『大衆明治史』。世界が驚いた明治日本の偉業3つの謎 ~No.201No.202No.203 

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 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
 日本を侵略してきた敵は、古代から室町まで中国と朝鮮であり、戦国では中世キリスト教であり、江戸後期からはロシアであり、明治では清国と朝鮮であり、大正からはソ連共産主義アメリカであった。
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 2024年10月2日 YAHOO!JAPANニュース 書評「GHQ焚書『大衆明治史』
 『坂の上の雲』より面白かった
 世界が驚いた明治日本の偉業
 3つの謎
 この地図のうち、青色になっている国の共通点がわかりますか?
 答えは... 第二次世界大戦前までに、ヨーロッパに支配されなかった国。
 もちろん日本は青色です。
 江戸末期、西洋が世界を飲み込む動きは勢いを増していました。
 世界中の国々はどんどん独立を奪われ、徹底的に搾取され、その勢いは日本の目と鼻の先である中国(清国)まで...
 その中国はアヘン戦争でイギリスに破れ、超不平等条約を結ばれ、あとはイギリスにとことん吸い取られるだけでした。
 それをあんぐりと見ていたのがお隣の日本。鎖国し、250年も平和ボケだったサムライの国は、西洋の次の標的になること必至でした。
 向こうは近代的な鉄製戦艦、武器、軍隊…
 対して日本は、木製の帆船、刀、一騎打ち…
 そんな力の差があって日本はほぼ丸腰、絶体絶命だったのに、最初の地図を見ての通り、その後も日本は支配されることなく生き残っていくのです。
 いったい、どうやって??
 その後、アメリカから黒船がやってきて日本は開国。
 明治維新をきっかけに、日本はあっという間に世界の大国入りを果たすのですが...
 そこには歴史の授業ではわからない 3つの謎 がありました。
 なぜ大名・武士たちは
 あっさり城を手放したのか
 不思議に思ったことはありませんか?
 なぜ、明治時代になってすぐ、各地の大名たちは城を手放せたのでしょうか?
 その期間、たったの4年。 先祖から何百年と受け継いできた地位や城を手放し、国に渡すことはそう簡単でないはず。財産だけでなく、代々、育て上げてきた城下町や地域にも、並々ならぬ愛着があったでしょう。
 さらに家来である武士たちも、それまでずっと結んでいたマゲを切って、刀を置いたのです。
 お隣の中国を見ても... 西洋を見ても... 同じことをやろうとしたら、“ 血で血を洗う ” 争いなしには実現できません。世界の歴史をちょっと学べば、それがどんなに困難なことかはわかるでしょう。
 そんな、天と地がひっくり返るような大転換を、日本はたった4年で、さらに目立った争いもなくやり遂げてしまいます。
 いったい、何が起きていたのでしょうか?
 当時、300以上あった藩をなくし、明治政府のもとへ権力を集中させる...
 とうてい不可能に思えた政策「廃藩置県」のウラにいた重要人物が「西郷隆盛」でした。
 当時、武士たちから圧倒的な支持を得ていた西郷。彼なしにこの転換は絶対に不可能だったのですが...
 「たとえ暴動が起きても、必ず鎮圧してお目にかけましょう...」
 血気盛んな各藩の武士たちを前に、西郷にしかできなかった秘策とは?
 なぜ明治憲法はこうもすんなり完成し、
 西洋に絶賛されたのか 
 明治22年に発布された、東アジア初の憲法大日本帝国憲法」(通称:明治憲法)。
 「日本には西欧流の憲法などいらない!聖徳太子の十七条憲法で十分だ」とある国学者
 「憲法英米風の自由民権的なものであるべきだ」板垣退助大隈重信
 「フランスの革命憲法をそっくりそのまま輸入しよう」とある自由民権論者
 明治政府ができて以来、日本初となる憲法の制定に向け、あらゆる意見が飛び交っていました。さぞかし議論は難航するかと思いきや... 起草から発布までにかかった時間は、わずか4年。
 しかも、明治22年2月11日に明治憲法が発布されると...東京は湧き返るようなお祭り騒ぎで、歓喜の声が全国に広がったといいます。
 「どんな憲法が出来上がるかということは、国民の一人として私共は常に心配したが、予想以上であった。この憲法発布に対して私共ばかりじゃない。全国の国民中一人として不満を称えるようなものはなかったように思います」加藤政之助(*憲法発布時、埼玉県会議長を務めていた政治家)
 西洋と比べると、日本の憲法発布の様子は異様でした。
 なぜなら、西洋諸国の憲法発布には、たいてい流血の惨事が付きまとっていたからです。
 例えば…
 イギリスでは、国王の圧政に耐えかねた貴族が突きつけたのが英国憲法の基礎「マグナ・カルタ」ですが、その後の時代には、憲法を無視した王の暴政が原因で内戦が勃発し、結局王は処刑されています。
 フランスにいたっては国民が国王ルイ16世をギロチンにかけたあと、共和政を作って、新たな憲法を制定したのでした。
 さらに、当時この明治憲法(英訳版)を見た外国人は...
 「もし私に新たに憲法を起草させたならば、きっとこの日本の憲法のように作る以外にないだろう」
 イギリス・オックスフォード大学の世界的な憲法学者:ダイセ氏
 「欧米の憲法は欧米諸国には適しているが、それとは歴史や習慣が全く異なる日本には適していない。それを上手く消化して日本に当てはめたのは非常に結構なことだ」
 アメリカ・マサチューセッツ州最高裁判所長官を務めたホームズ氏
 「憲法全体を通じて批評すれば、いずれも非常に上手な作り方である」
 フランス農商務大臣を務めたルボン氏
 その内容にも、惜しみない称賛の声を贈ったのです。
 最初はバラバラに意見が分かれていた憲法の議論... それが、なぜこうもすんなりと制定され、国民にも歓喜の声をもって受け入れられたのでしょうか?
 (*金子堅太郎. 金子堅太郎が語る大日本帝国憲法の精神: もう一人の起草者が見た伊藤博文明治天皇、そして外国憲法との比較 (p.78〜))
 そのウラにいたのが、「伊藤博文」でした。
 憲法制定にあたって、ヨーロッパに渡った伊藤がドイツから学んだ秘策...
 「日本独自の憲法を作れ」
 死の間際まで伊藤に助言を送った、岩倉具視憲法制定にかけた想い...
 そして、知れば涙が止まらない明治天皇の献身的な姿とは... 
 戦艦なし、大砲なし、軍隊なし
 → わずか38年で大国ロシアを破れたワケ
 「世界中が 、ちっぽけな日本なんかひとたまりもなく叩き潰されると思っていた」
 こう言ったのは、初代インド首相のネルーです。
 1904年に日露戦争が勃発したとき、世界の誰もが「日本は叩き潰される」と思いました。
 それもそのはず、当時のロシアは日本に比べ...
 GDPと人口は…ともに約3倍
 兵器生産にも関わる工業力は…約4倍
 戦力を左右する陸軍の兵力に至っては…なんと11倍
 (*当時の日露陸軍の歩兵の大隊数を比較)
 と...大人と子どものような差があった上、ロシアの「バルチック艦隊」は世界最強と呼ばれており、日本が勝てる確率は万に一つといった様子でした。
 ロシア皇帝や将校たちも既に勝った気になって
 「子猿が敢えて朕に戦争をしかけるなぞと、一瞬たりとも想像できない。帽子の一振りでかたづけてしまうさ」ニコライ2世
 「日本兵3人にロシア兵は1人で間に合う。来るべき戦争は単に軍事的散歩に過ぎない」クロパトキン大将
 「日本は外国から艦艇を買い、物質的装備だけは整えた。しかし、海軍軍人としての精神は到底われわれに及ばない。軍艦の操縦や運用に至っては極めて幼稚である」グラムマチコフ大佐
 と完全に日本をなめていました。
 ところが誰もが知る通り、日本は陸戦でも海戦でも大勝利を収め、この戦争の勝者となったのです。これには世界が驚きました。
 特に、「欧米には敵わない…」と植民地支配の苦しみで諦めムードだったアジア各国は、飛び上がって喜びました。
 あの欧米の大国を、アジアの島国の小柄な日本人が、見事に打ち破ったのです。
 しかし、ちょっと待ってください。
 日露戦争が起きたのは、明治時代に入ってわずか37〜8年ほど。
 明治の初めといえば江戸の名残が強く、まだ大名が各地を治め、武士が刀を差していました。260年の鎖国が開けてまもない日本は、欧米列強に追いつくにはとてつもなく遅れていたはず。
 そんな状況から38年では、たかが知れています。だから誰もが「ちっぽけな日本は叩き潰される」と思い、実際に大きな国力差がありました。
 それなのに、なぜ日本は勝てたのでしょうか?
 一般に語られる勝利の理由は、「日本軍の士気の高さ」「最新式の海軍」「ロシアの国内事情」「イギリスの支援」など諸説ありますが...それにも増して重要なことが、この “38年の間” にあったようです。
 なぜ日本は一度も欧米に支配されずに生き残り、こうして短期間に、欧米列強に肩を並べる唯一のアジア国になれたのでしょうか?
 謎
 を解き明かす一冊の本
 歴史の教科書では、いつ何が起きて、どうなったか?の無味乾燥な内容しか書かれておらず、これら明治期に残る数々の「謎」の答えはわかりません。
 ここに、その「謎」を見事に解き明かす “一冊の本” が見つかりました...
 その本とは、戦時中の昭和16年に発刊された歴史小説『大衆明治史』。
 著者は菊池寛(きくち・かん)。
 『文藝春秋』を創刊、さらに『芥川賞』『直木賞』を創設し、太宰、芥川、三島に並ぶ文豪と言われた大作家です。『大衆明治史』は、その名の通り大衆向けにわかりやすい言葉で、明治を彩った男たちの生き様や葛藤を中心に、激動の明治が語られています。
 しかし昭和21年、GHQはこの本を “禁書指定” ...つまり、没収し、流通を止め、戦後の日本から消し去っていたのです。この本は、菊池寛の作品目録にも載っておらず... 著名な文芸評論家ですら「こんな本があったとは、初めて知った」と語る一冊です。
 ※書影はイメージです
 ※左が原書、右が今回お届けする復刻版です。
 ※このページからは上巻をお申込みいただけます。
 大戦中の戦意高揚を煽った本でもなく、明治を描いた “大衆向け” の歴史小説が、なぜGHQの目に止まったのでしょうか?
 実は、この本には、戦後に出版された数々の明治についての小説や歴史書大河ドラマからは抜け落ちた “あるポイント” がありました。これは、戦前の激動期を過ごし、実際の戦地にも出向いて取材をすることで戦場のリアルを伝えていた菊池寛だからこそ、伝えることのできたものでした。
 『大衆明治史』を読むと、なぜ明治の日本はこれほど短期間に、世界も驚くほどの成長を遂げることができたのか。その重大な謎が解けるとともに...
 戦後の日本人が知ることで、西洋の外圧を跳ね返した明治時代のように、再び日本が立ち上がることを恐れていたのが分かるほど、今を生きる日本人に力を与えてくれる内容だったのです。
 文豪の筆で鮮やかによみがえる、明治日本の強さの正体とは−−
 なぜかGHQによって葬り去られてしまった幻の歴史物語では、こんなことが語られています。
 教科書ではほとんど語られていない明治日本の本当の歴史、そして英雄たちの活躍をありのままに知って欲しいという想いから、コレクターや古書店、一部の図書館にわずかながら残っていた『大衆明治史』を、約75年越しに復刻しました。
 一度この本を手に取ったら、きっと最後のページを読むまで離れられないでしょう。1ページ1ページ、大河ドラマの名シーンを観るように、躍動感あふれるドラマが繰り広げられます。まるで明治時代にタイムスリップしたかのような臨場感で、明治の英雄たちの生き様を追体験できます。
 この本を読み終わったころには、GHQがいったいなぜこの本を禁書にしてしまったのか...その理由も実感を持って、ストンと理解できていることでしょう。
 ぜひ本書を手にとって、明治時代の熱いドラマを体感してみてください。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
 日本を動かしているのは学閥である。
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 保守には、正統保守やエセ保守など数多くの保守が存在する。
 現代日本では、急速に新保守の守旧派とエセ保守が増えた。
 正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。

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 現代日本人は外圧に弱いが、昔の日本民族は外圧には強かった。
 それを証明するのが、聖徳太子である。
 現代日本歴史教育は、摂政・聖徳太子の存在を否定しようとしている。
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 戦争とは科学的な統計と合理的な論理による結論で「負ける」と分かっていても戦う時は戦い、そして戦う以上は「万に一つの勝利」を信じて命を賭けて戦わなければならない。
 それが、「バカ」な日本民族の生き方であった。
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