🏞126)127)─1─英邁な名君徳川慶喜は、なぜ大政奉還を決断したのか?~No.493No.494No.495No.496No.497No.498 

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 2021年5月15日 MicrosoftNews AERA dot.「 神君・家康公の再来と期待された「徳川慶喜」は、なぜ大政奉還を決断したのか?
© AERA dot. 提供 十五代将軍・徳川慶喜水戸藩徳川斉昭の七男で一橋家を継ぐ。将軍継嗣問題では家茂に敗れ、安政の大獄で隠居・謹慎処分となる。桜田門外の変後に家茂の後見職となり、その死後、十五代将軍とな…
 大河ドラマ「青天を衝け」でも話題の徳川十五代将軍・慶喜。「神君・家康公の再来」と期待されながら、徹底抗戦せずに幕府を終焉させた慶喜とはどんな人物だったのか。週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 14』では、徳川将軍を大解剖。ここでは「王政復古の大号令」までを解き明かす。
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 慶喜は、水戸藩主であった徳川斉昭の七男で、母は有栖川宮織仁親王の王女である吉子女王だった。江戸の小石川にあった水戸藩邸に生まれ、その後は、水戸城で育ち、藩校の弘道館でも学んでいる。若かりし頃から「聡明」で知られていたという。弘化四年(1847)には、十二代将軍・徳川家慶の意向を受けて一橋徳川家を相続。慶喜と名乗るようになったのも、この時に家慶の偏諱(へんき)を授かってからのことだった。
 家慶の死後、家定が十三代将軍となるものの、家定には実子がおらず、慶喜は将軍継嗣争いに巻き込まれてしまう。
 将軍の継嗣には血統が重んじられていたため、十一代将軍・家斉や十二代将軍・家慶との血縁にない慶喜は、不利であったのは間違いない。家斉の孫で南紀派が推す慶福に対し、利点となるのが「聡明」ということだった。家慶には実子の家定がいたものの、「聡明」な慶喜を継嗣にする意向もあったというが、実際のところはわからない。いずれにしても、一橋派は、「聡明」であることを根拠に将軍継嗣として推すしかなかった。このときは結局、大老となった井伊直弼の強権により、紀伊藩主の慶福が家茂と名を改めて将軍継嗣となっている。
 家茂が十四代将軍になってから、慶喜将軍後見職として朝廷との折衝にもあたり、主に京都において活躍した。元治元年(1864)三月に将軍後見職を辞任すると、朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任命されている。これは、御所と大坂湾を防備する役職だった。
 この年の七月に禁門の変がおこり、長州藩は朝敵とされる。第一次長州征討は長州藩の降伏で終わったものの、慶応二年(1866)の第二次長州征討では薩摩藩長州藩に味方したため、幕府軍が敗北してしまう。しかも家茂が、大坂城で陣没してしまったのである。
 そのため、幕府内では老中が中心となって将軍継嗣について議論がされ、慶喜に白羽の矢が立てられた。しかし、慶喜が二つ返事で受諾することはなかった。家茂との将軍継嗣争いにも巻き込まれていたうえ、名君と謳われた家茂ですら、結局、混乱を収束させることができなかったということもあったかもしれない。あるいは、できる限り受諾を引っ張ったほうが、発言力が増すと考えていた部分もあったろう。いずれにしても、慶喜は徳川宗家を継承することは了承したものの、将軍に就くことは受け入れなかった。そうしたなか、孝明天皇慶喜に将軍への就任を命じたことで、十二月五日、慶喜に将軍宣下が行われた。慶喜は、孝明天皇の権威を背景に、事態の収拾に乗り出したのである。
■徳川家の存続を目指す慶喜倒幕派との駆け引きが続く
 将軍となった慶喜が進めたのが幕府の改革だった。それまで幕政は老中による合議という体制をとっていたが、陸軍、海軍、国内事務、外国事務、会計の部局を設け、その長官である総裁にそれぞれ老中をあてている。こうすることで、それぞれの老中が責任をもって対処することが可能となった。また、フランスの支援によって軍制の改編も行った。こうした一連の改革を、慶応の改革と呼ぶ。
 こうした慶喜の動きに対し、慶応三年(1867)薩摩藩では諮問機関として四侯会議を提案し、慶喜の動きを牽制しようとした。四侯会議に参加したのは、薩摩藩主の父である島津久光のほか、前越前藩主の松平春嶽、前土佐藩主の山内容堂、前宇和島藩主の伊達宗城である。しかし、薩摩藩の思惑とはうらはらに、慶喜は逆に四侯を牽制した。
 四侯会議で慶喜を牽制することができなかった薩摩藩大久保利通西郷隆盛らは、長州藩や朝廷内で幕府に批判的な公家と通じ、武力で討幕を計画するようになった。こうした動きを察知した慶喜は、前土佐藩主・山内容堂(豊信)の建白をうけ、慶応三年(1867)十月十四日、朝廷に対して大政奉還を上奏したのである。
 大政とは、政治の実権を指す。これまで幕府は朝廷から統治を委ねられてきたわけであり、その権限を返上することを意味する。大政を奉還してしまえば、実質的に幕府は存在しないことになり、薩摩藩長州藩の掲げる倒幕の大義名分を失わせることになった。
 翌十月十五日の朝議において大政奉還は勅許され、幕府は実質的に消滅する。しかし慶喜は、しばらくは将軍にとどまることになった。この頃朝廷では、新たな政権構想を練っていたが、まだ計画段階だったためである。そのため、新しい政権に慶喜が首班として参加する余地は残されていたのであった。
 新たな政権のひとつとして考えられていたのが、公議政体論に基づく体制である。これは、ヨーロッパの議会制に範をとったもので、諸侯や有能な藩士を議員とする政治体制をいう。慶喜がこの体制の首班に指名されれば、幕府が消滅したとはいえ、政治的な実権をそのまま握る可能性も残されていたわけである。
 もちろん、討幕を図ってきた薩摩藩が、そのような体制を認めるわけもない。大久保や西郷は、倒幕派の公家である岩倉具視と通じ、慶喜を排除する政変を画策。その政変は、十二月九日に決行された。各藩の藩兵が御所を警固するなか、「王政復古の大号令」が発せられ、新政権の樹立が宣言されたのである。(次回へ続く)
 ◎監修・文
 小和田 泰経/1972年東京都生まれ。静岡英和学院大学講師。主な著書に『天空の城を行く』(平凡社)、『兵法』、『戦国合戦史事典存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社)、『信長戦国歴史検定<公式問題集>』(学研パブリッシング)など。
 ※週刊朝日ムック『歴史道 vol. 14』から抜粋」
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大政奉還―徳川慶喜 (人物文庫)
天皇の世紀〈7〉大政奉還
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 幕末動乱の原因は、ロシアの武力侵略とキリスト教の宗教侵略から日本天皇・日本国・日本民族を如何にして守るかという体制選択戦争であった。
 国家の防衛基本方針は、積極的自衛戦争として、対外戦争ができる近代的軍事体制(軍国日本)であった。
 体制選択とは、「徳川家中心諸藩連合地方分権体制」か「天皇中心挙国一致中央集権体制」かである。
 つまり、中国の清王朝かインドのムガル帝国かである。
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 日本民族は、体制、秩序、権威、権力が好きである。
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 ロシアに対する危機意識とは、江戸時代後期にロシア軍艦が蝦夷地(北海道)・北方領土で行った海賊行為にあった。
 徳川幕府は、武力で母国を防衛する為に、東北諸藩に蝦夷地・北方領土樺太への派兵を命じた。
 水戸藩吉田松陰ら過激な攘夷派は、戦争をしてでも「天皇が統べる神国日本」を守るべく蝦夷地や東北に向かった。
 夷狄(外国勢力)撃退の鍵を握っていたのは、蝦夷地・北方領土樺太に住んでいた数万人のアイヌ人で、防衛戦争に勝利するにはアイヌ人を如何にして日本の味方に付けるかであった。
 ロシアは、日本の味方になる危険性のある千島列島のアイヌ人や土人らをカムチャッカ半島強制移住させて無人島にした。
 ロシア軍の対日戦略は、陸軍による日本占領ではなく、海軍による海上支配であった。
 何故か、江戸時代の日本は世界七大帝国の一つと恐れられたが、それは武士による陸軍国であって大型軍艦を所有する海軍国ではなかったからである。
 そして、大艦隊を持たない日本は四方を海に囲まれた無防備な列島国家で、如何に専守防衛として砲台・台場を幾ら造ろうとも海上からの艦隊攻撃優位という戦闘条件は変わらなかった。
 幕末の端緒は、ペリーの黒船来航ではない。
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 キリスト教に対する嫌悪感とは、戦国時代の中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人が日本人を奴隷として世界中に売って金儲けをした事が原因であった。
 それ故に、心ある日本人はキリシタン弾圧に協力した。
 豊臣秀吉徳川家康そして歴代徳川将軍は、「神の御名」によって異教徒の人間を奴隷として金儲けするキリスト教邪教と認定し、禁教として宗教弾圧を行い、非人倫的キリスト教勢力を日本から追放した。
 自分の金・豊かさより人の命・自由を選んだ結果、日本は世界から取り残されて貧しくなり、慢性的食糧不足になり外国に頼れなくなった為に飢饉が起これば大量の餓死者を出す事になった。
 つまり、数千人・数万人の少人数を助ける為に数十万人・数百万人の多人数を犠牲にした。
 日本民族は、信仰宗教ではなく崇拝宗教から、全ての命は等しく神・神霊、仏・霊魂であるとして崇めていた。
 それは、ウイグル人権・人命より日中貿易による利益・金・富みを選択する現代日本人とは正反対の選択であった。
 現代の日本人が好んで良く口にする「一人は大勢の為に、大勢は一人の為に」は建前でウソである。
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🏞128)─1─幕末史の謎、第121代孝明天皇毒殺説を支持する新研究の登場。~No.499No.500No.501 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の歴史において、臣下に殺された天皇が存在する。
 第20代安康天皇は、即位3年8月9日に皇后の連れ子である眉輪(まよわ)王に暗殺された。
 第32代崇峻天皇は、蘇我馬子の命を受けた 半島系渡来人の東漢駒(やまとのあやのこま)に暗殺された。
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 昔の日本と現代の日本人とは別人である。
 現代の日本人は、史実に基づいた歴史が嫌いで、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がない。
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 昭和天皇は、日本の闇に蠢く勢力を恐れ、右翼・軍部のクーデターを警戒し、内戦が起きないように大日本帝国憲法を遵守して慎重に行動していた。
 2・26事件の決起将校達と賛同右翼は、昭和天皇昭和維新の要望書を受け入れなければ強制退位させる秘めた計画を持っていた。
 軍隊の中に暴力的共産主義人民革命を目指すマルクス主義者が浸透していた。
 保守派や右翼・右派にとって天皇は神ではなく、人であり、操り人形であり、便利な道具に過ぎなかった。
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 明治28(1895)年 平安神宮創建。祭神として第50代桓武天皇を祀る。
 昭和15(1940)年 第121代孝明天皇平安神宮の祭神に加える。
 昭和51(1976)年1月6日 過激派マルクス主義者による宗教テロ。新左翼活動家加藤三郎は平安神宮を放火して本殿・内拝殿など9棟を焼失させた。
 マルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論で反天皇派として、天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を消滅させようとしている。
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 日本人共産主義テロリストは、大正時代頃からキリスト教系テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 2021年5月号  WiLL「歴史の足音 中村彰彦
 孝明天皇毒殺説を支持する新研究の登場
 慶応2年(1866)12月25日、かぞえ36歳で不意に崩御した孝明天皇の死因については、痘瘡({とうそう}天然痘)による病死説と毒殺説とが死の直前からおこなわれている。毒殺説は、天皇の痘瘡を病んだことを否定するものではない。病んだ天皇が回復しつつあることに気づいた何者かが薬湯を運ぶ役目の女官に命じ、その薬湯に無味無臭の砒素を仕込んで弑逆(しいぎゃく)させた、と考えるのだ。
 ……」
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 6月号 WiLL「歴史の足音 中村彰彦
 孝明天皇崩御岩倉具視の関係は
 雑な手つきで書かれた、事実誤認や都合の悪い事実をあえて無視した論文を粗論という。私が原口清の孝明天皇病死説を粗論として批判した『孝明天皇は「病死」したのか』59枚と『孝明天皇毒殺説の進展』55枚を書いたのは平成22年(2010)のことで、初出は講談社から『小説現代』の別冊として刊行されていた『KENZAN!』の11号と12号。のちにこれら拙論2編は『孝明天皇は「病死」したのか』を総タイトルとし、『幕末維新史の定説を斬る』に収録された(2011年、講談社刊。2015年、講談社文庫に収録)。
 拙論は孝明天皇病死説(痘瘡による病死説)と毒殺説(砒素による弑逆説)を比較検討した結果、病死説論者が支持する原口清の論文があまり粗論であることもひとつの理由として毒殺説を支持するという結論になった。
 先月号の本欄で紹介した医学博士橋本博雄さんの論文『孝明天皇と痘瘡』は、すべての痘瘡のタイプを分析し、天皇の症状はどのタイプにも属さない、として病死説を退ける画期的なものであった。医学的見地に裏打ちされた橋本論文の登場により、左記の引用文のふくまれる論考はこれまで合格点とされてきはしたが、もはや落第点の粗論としか見られなくなったわけである。
 『(孝明天皇の)死因が悪性の天然痘であったことは、病理学的に検討した結果明白になった。毒殺説は岩倉具視の(王政復古の)構想を深く検討しない上に、当時の朝廷内外の政治状況を正確に把握しないでなされた、まったくの妄説である』(原口清『孝明天皇は毒殺されたのか』、同『孝明天皇岩倉具視』)。
 『原口清氏が明らかにしたように、同天皇の死は出血性痘瘡による病死であった』(『孝明天皇の死因について』)、(家近良樹『西郷隆盛ミネルヴァ書房、2017)。
 さて、上記の拙論中に示したように、慶応2年(1866)12月25日、痘瘡にかさぶたが出来て食欲も復活した回復期に急死した孝明天皇について、死の直後に御所の女官たちの口から毒殺説が流されていた。
 『此度{このたび}御痘{おとう」全ク実疱({じつほう}本当の疱瘡)ニハ不被為在{あらせられず}、(なにものかが)悪瘡発生之毒ヲ献{けんじ}候』(『中山忠能日記』慶応3年正月4日の項、園家の老女浜浦からの来信)
 イギリス人外交官アーネスト・サトウもミカドは毒殺されたのだと回想しているが、この毒殺説を肯定し、下手人を岩倉具視一派と初めて公の場で発言したのは京都の医学博士佐伯理一郎。時に昭和15年(1940)7月、大阪の学士会クラブでひらかれた例会でのことで、その弟子筋の中野操の証言がある。
 『岩倉具視が、女官に出ている姪(?)をして天皇に一服毒を盛らしたのである。公武合体論の弱気の天皇が居られては日本革新の邪魔になるというので犠牲の血祭りにあげたのであるが、自分は或る事情え洛東鹿ヶ谷霊鑑寺(れいかんじ)の尼僧となつた当の女性から直接その真相をきいたから間違いはない』(『佐伯先生の事ども』、『日本医事新報』第1533号)
 傍点部分は誤りで、正しくは孝明天皇後宮に入り、右衛門掌侍(うえもんしょうじ)と呼ばれて皇女寿満宮(すまのみや)と理宮({ただのみや}ともに早世)を産んだ岩倉の実妹堀河紀子(もとこ)のこと。ただし岩倉と堀河紀子は皇女の将軍家茂との婚礼を推進したことから尊攘過激派に命を狙われ、文久2年(1862)9月以降は岩倉村と鹿ヶ谷に別れて幽居(ゆうきょ)していた。
 だから具視・紀子兄妹が直接天皇に一服盛りたてまつることは不可能だが、御所に奉公していてリモート・コントロール出来る者に市販の石見銀山猫いらず(亜砒酸)を買わせ、無味無臭のこの猛毒を天皇の食事か薬湯に投じさせることは可能である。幸い、岩倉具視の養子具綱は慶応元年閏5月1日に天皇の近習(きんじゅう)を命じられ、15日には実子の周丸({かねまる}のちの具定)が兒({ちご}召し使い)として御所に上がるよう命じられていた。
 しかし、なぜそこまでして岩倉は天皇弑逆を謀ったのか。そう首をひねりたくなる向きは、慶応2年8月30日、岩倉と王政復古の志をおなじゅうする義兄の中御門経之、大原重徳ら22人の公卿たちが御所に列参した意味を考えていただきたい。列参とは参内を命じられていない公卿たちが列をなしてあらわれ、天皇を突き上げる行為のこと。この日の22人の公卿たちの要求は、次の3点であった。
 第一に、諸藩をただちに召集すること。第二に、文久2年以来幽閉されている公卿たちを赦免すること。第三に幕軍の敗北におわりつつある長州追討戦を中止させること。
 第一と第二は、雄藩連合による新政体を作ろうという岩倉の構想。第二は、これも岩倉自身が自由の身となって朝廷改革をも進めるための布石である。
 しかし、天皇の反応は岩倉の読み筋ないものであった。天皇は激怒してすべての要求を拒否。10月17日に22人の不敬を咎め、中御門経之と大原重徳は閉門、ほかは差し控えと通達した。その余波を喰らった岩倉は、すでに幽閉5年目だというのに、赦免の目が消え、このままでは幕末史を動かそうという野心も持ち腐れになってしまうのは明白、という危機を迎えた。
 その焦りが天皇への殺意に変わっていった、とするのが毒殺説。事実、天皇崩御によって勅勘の身ではなくなった岩倉は、表舞台に躍り出て維新政府樹立の立役者となるのであった。」
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 孝明天皇1831年7月22日〈天保2年6月14日〉 - 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)は、日本の第121代天皇(在位:1846年3月10日〈弘化3年2月13日〉‐ 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)。諱は統仁(おさひと)。称号は煕宮(ひろのみや)。
仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。一世一元の詔発布前(日本における一世一元の制制定以前)の最後の天皇。また、生涯を通じて平安京内で過ごした最後の天皇でもある。

 毒殺説
 孝明天皇は前述の通り悪性の痔(肛門脱)に長年悩まされていたが、それ以外では至って壮健であり、前出の『中山忠能日記』にも「近年御風邪抔一向御用心モ不被為遊御壮健ニ被任趣存外之儀恐驚(近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた)」との感想が記されている。なお、御所を警護していた江戸幕府による声明は無く、孝明天皇の没後に即位した明治天皇の摂政には、徳川慶喜の従兄弟である二条斉敬が就任した為、幕府上層部では毒殺説が唱えられることは無かった。
 その後、明治維新を経て、皇室に関する疑惑やスキャンダルの公言はタブーとなり、学術的に孝明天皇の死因を論ずることも長く封印された。一方で1909年(明治42年)に伊藤博文を暗殺した安重根が伊藤の罪として孝明天皇殺害をあげるなど、巷間での噂は消えずに流れ続けていた。また1940年(昭和15年)7月、日本医史学会関西支部大会の席上において、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎が「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表している。ただし、堀河紀子は1862年文久2年)には霊鑑寺に出家しており、孝明天皇が没した年には御所にいなかった。
 第二次世界大戦後に、皇国史観を背景とした言論統制が消滅すると、変死説が論壇に出てくるようになった。最初に学問的に暗殺説を論じたのは、「孝明天皇は病死か毒殺か」「孝明天皇と中川宮」などの論文を発表した歴史学者・禰津正志(ねずまさし)である。禰津は、医師達が発表した「御容態書」が示すごとく天皇が順調に回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことを鑑み、その最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定。また犯人も戦前の佐伯説と同様に、岩倉首謀・堀河実行説を唱えた。
 次いで1975年(昭和50年)から1977年(同52年)にかけ、前述の伊良子光順の拝診日記が、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝によって『滋賀県医師会報』に連載された。この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、天皇の死因を特定できるような内容が記されているわけでもなく、伊良子光順自身が天皇の死因について私見を述べているようなものでもない。だがこれを発表した伊良子光孝は、断定こそ避けているものの、禰津と同じくヒ素中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した。
 孝明天皇暗殺説を唱えるものの一部(鹿島曻など)はさらに睦仁親王暗殺説を唱えることがある。即ち明治天皇は睦仁親王に成り代わって即位した別人(大室寅之祐)であるという説である(天皇すり替え説を参照)。当初この論を主張した鹿島の説では大室は南朝の末裔であるとされ、いくつかの根拠が挙げられたが、陰謀論の域を出ていない。
 すり替え論の論議が進むと、鹿島のあずかり知らぬままに根拠の希薄なまま大室は長州(山口県)の田布施地区出身であるなど唱えられ、説は迷走を続けている(この説の根拠としてはフルベッキ群像写真に明治天皇が写っているという説がある)。
 毒殺説に対する反論
 1989年(平成元年)から1990年(同2年)にかけ、当時名城大学商学部教授であった原口清が2つの論文を発表する。
 「孝明天皇の死因について」、「孝明天皇は毒殺されたのか」というタイトルが付けられたこれらの論文の中で原口は、
 12月19日(新暦1月24日)までは紫斑や痘疱が現れていく様子を比較的正確にスケッチしていた「御容態書」が、それ以降はなぜか抽象的表現をもって順調に回復しているかのような記載に変わっていくこと
 12月19日までの「御容態書」や、当時天皇の側近くにあった中山慶子の19日付け書簡に記された天皇の症状が、悪性の紫斑性痘瘡のそれと符合すること
 中山慶子の12月23日(新暦1月28日)付け書簡では、楽観的な内容の「御容態書」を発表する医師たちが、実は天皇が予断を許さない病状にあり、数日中が山場である旨を内々に慶子へ説明していること
 などから、医師たちによる「御容態書」の、特に20日新暦1月25日)以降に発表されたものの内容についてその信憑性を否定し、これまでの毒殺説の中において根拠とされていた「順調な回復の途上での急変」という構図は成立しないことを説明。その上で、孝明天皇は紫斑性痘瘡によって崩御したものだと断定的に結論付けた。
 また原口は別に記した論文の中で、諸史料の分析から岩倉が慶応2年12月(新暦の1867年1月から2月)の段階では「倒(討)幕」の意思を持っていなかったこと、孝明天皇崩御が岩倉の中央政界復帰に直接結びついていないことなどを指摘し、岩倉が天皇暗殺を企てていたとする説についても否定した。
 原口説が発表された後、毒殺説を唱える歴史学者の石井孝がこれに反駁したことにより、原口と石井の間で激しい論争が展開されたが、両者とも「物的証拠」がなく決着には至っていない。
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 人物事典 幕末維新風雲伝
 西郷隆盛大久保利通など時代を駆け抜けた英雄・偉人たちの人物伝 jpreki.com
 孝明天皇暗殺説
 僅か35歳で急死した孝明天皇の死因は、天然痘と診断されたが、その死因については急すぎる事から暗殺説もある。
 実際に孝明天皇は長年、悪性の痔(脱肛)に悩まされていたが、それ以外においては至って壮健であった。
 1866年12月11日から風邪気味であった孝明天皇は、12日に発熱すると以後回復の兆しなく、16日からは天然痘を疑って、15名の医師団による治療が24時間体制で行われた。
 その結果、24日までは順調に回復する傾向にあり、25日の昼もちょっと食欲が出たとある。
 その後、急に悪化して血便を何度も洩らして苦しみ、午後23時過ぎに崩御されたのである。
 このように回復傾向であったのにも関わらず、急激に悪化し崩御されたことから、ヒ素による毒殺と見る説もあり、岩倉具視大久保利通が黒幕だとする見方もある。
 また、典型的な脚気で、ビタミンB1欠乏により全身がだるくなり、急激に心肺停止を引き起こしたとも考えられる。
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幕末の天皇 (講談社学術文庫)
江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」 (講談社学術文庫)
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 明治維新・日本の近代化・軍国主義化は、ロシアの武力侵略とキリスト教の宗教侵略から神国日本を如何に守るかという、切羽詰まった究極の構造改革であった。
 構造改革という「時代のうねり」は、社会の下層部、身分・階級の下級層から自然発生的に起こり、国を守る戦争は「絶対に負ける」と嫌う反戦平和志向の武士体制を崩壊させた。
 幕末・明治の偽善者は、邪悪な外国勢力(外敵には中国や朝鮮も含まれる)の侵略から母国日本と日本民族を護る為ならば、幾万の日本人を殺す事はやむを得ないとし、その犠牲に天皇・皇族・宮家を加えるのも仕方がないと割り切っていた。
 それが本当の「天皇を中心とした国體の護持」であり、それが日本民族・日本国が秘めた真の覚悟であった。
 大正期に、日本を滅ぼす外国勢力として加わったのがイデオロギー侵略のソ連中国共産党マルクス・レーニン主義共産主義社会主義であった。
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 日本にキリスト教マルクス主義共産主義が根付き支持者を増やせなかったのはこの為である。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として金儲けしていた。
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 近現代においても、共産主義テロリスト、狂信的キリスト教テロリスト、マルクス主義過激派、反体制派無政府主義者らは昭和天皇や皇族を惨殺するべくつけ狙っていた。
 現代日本では、外国の反天皇反日勢力の息の掛かった日本人よる「神殺し・仏殺し」が静か進行している。
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 儒教は、王朝を別姓の王朝に取り換える易姓革命と皇帝を取り換える放伐禅譲を正当行為と認めている。
 儒教における正統性とは、数十年から数百年の限定期間のみで成立し、そのため千年以上続く普遍の価値観ではない。
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 日本民族は石器人・縄文人を祖先とし、日本天皇弥生人を祖先としている。
 日本民族は、乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族である。
 日本民族は、日本天皇ヤマト大王を死を覚悟して護ってきた。
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 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、自分の為に働き、時には日本国に反乱を起こしていた。
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 皇室に近い権力と権威を持った公家・上級武士(将軍や大名)・仏教僧にとって、目の前に座っている天皇・皇族・宮家は神ではなく「唯の人」であり、建前で象徴として奉っても、本音では便利な道具であり操り人形と見下していた。
 皇室より遠かった下級武士、賤民(非人・穢多)、部落民、芸能の民、異能の民、異形の民にとって、天皇は「現人神」であり、皇族・宮家は神の家族であった、ゆえに皇室への念いが強かっただけに熱烈的狂信的な勤皇派・尊皇派となり命を捨てて戦った。
 両者の中間にいた中級武士や裕福庶民(豪商や豪農)にとって、安定した平穏な自分の生活、自分の家禄、自分の家業が大事で、天皇・皇室などにはそれほどの関心もなければ興味もなかった。
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🏞97)─2・A─琉球・北谷の住民は難破したイギリス船の乗組員67人を救助した。1840年。~No.375 

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 1840年=天保11年。 
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 海洋国家日本の近海で、難破・座礁する外国船が絶えず、日本人(日本民族琉球人)は難破船を襲い惨殺し高価な荷物を強奪するような事はせず二次被害を恐れず遭難者・漂流者を助けていた。
 日本には、水軍や倭寇はいたが海賊はいなかった。
 但し、海賊になった日本人はいた。
 日本人には善人ではなく悪人もいた。
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 2021年5月13日 MicrosoftNews 沖縄タイムス「180年前沖縄に漂着 住民に救助されたイギリスの難破船 遊具で再現
 © Okinawa Times インディアン・オーク号の遊具リニューアルを祝う野国昌春町長(左から2人目)ら=北谷町・安良波公園
 沖縄県北谷町北谷の安良波公園内にある船型の遊具「インディアン・オーク号」がこのほど全面改修された。琉球王国時代に、北谷の人々が助けた英国の難破船「インディアン・オーク号」をイメージした遊具で、滑り台のほかロープで作ったアスレチック遊具などが備わっている。
 町によると、同船は英東インド会社の輸送船。1840年に台風で難破し、北谷間切の海岸に漂着した。難破船は略奪されることが普通だったが、北谷の住民は乗組員67人を保護し、再出航するまでの45日間の衣食住を賄ったとされる。
 遊具は、町が1995年に設置し、老朽化のためこのたび作り替えた。工事費約1億9千万円で、そのうち約1億6千万円は一括交付金を充てた。
 リニューアル記念式典が4月12日、同園であった。野国昌春町長は「善意ある史実を後世に伝えるための遊具。ぜひ憩いの場として利用してほしい」と呼び掛けた。
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 沖縄県立博物館・美術館
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 考古部門収蔵庫の逸品(Ⅱ)-イギリス船インディアン・オーク号-
 最終更新日:2014.01.30
 写真1沖縄県立博物館・美術館所蔵 インディアン・オーク号の積荷
 写真2インディアン・オーク号の座礁地付近のリーフ
 写真3海底に散乱する中国清朝磁器
 写真4海底に散乱する中国褐釉陶器
 写真5海底に散乱するバラスト石(船を安定させる重り)
 前回のコラム051(2011/09/03)で、博物館の収蔵庫は先輩達が長い年月をかけて蓄積した資料(遺物)が満載されている巨大なビックリ箱であることを書きました。その結果、時としてビックリな遺物との出会いがあることを。あの時は半年ではその全容を把握するのは極めて困難であることを書きました。それからはや2年が立ち、おかげさまでどんどん収蔵品を把握することができてきました。・・・が、やはりまだまだあるのです、隙をついて現れるビックリな遺物が!
 寒い冬のある日、あいかわらず収蔵庫にこもって資料調査(物色?)をしている時、それは発見されました。たったひとつの小さなグレーのコンテナに「北谷沖 1983年7月24日」と書かれています。これを見ただけで、蓋をされたこのコンテナの中身が何なのか、およそ想像することができました。『何故、県博にこの遺物が!!!』と、ドキドキしながら蓋を空けると、中には中国や東南アジアの陶磁器、ヨーロッパガラス製品、沖縄のものとは思えない石などが入っています。中には、珊瑚等の石灰分が付着した遺物も見られます。さて、これらは何でしょう(写真1)。「北谷沖」とは何を示しているのでしょうか。
 これらは、琉球王国末期に北谷沖で座礁・沈没したイギリス船インディアン・オーク号の積荷なのです。
 1840年8月14日、イギリス船インディアン・オーク号が北谷沖で珊瑚礁に乗り上げ、座礁・沈没しました。何故、琉球王国の海域にこのような船が座礁・沈没したのか、その答えはイギリスと中国清朝との間で勃発したアヘン戦争にあります。「アヘン戦争」、中国の歴史の授業で学びましたよね。忘れた方はぜひ教科書を調べてみて下さい。インディアン・オーク号はこの戦争に参加したのですが、移動中に台風に遭い、琉球まで漂流し、北谷沖で座礁・沈没という悲劇的な海難事故に遭ってしまいました。
 琉球王国は中国と君臣関係を結んでおり、当時、イギリスが中国と敵対していることを知っていましたが、結局、琉球王府は遭難者を救助しました。乗組員67名は琉球人の救助活動によって保護され、無事に中国へ戻ることができたようです。
 それから約140年の時を経た1984年、北谷町教育委員会が地元ダイバーの協力を得て、インディアン・オーク号の座礁地点で本格的な海底調査を実施しました。その結果、中国清朝陶磁器・ヨーロッパワイン瓶・ヨーロッパ陶器・船体の一部(銅板や銅釘)、バラスト石(船を安定させるための重り)などが発見されました。これらの遺物は北谷町教育委員会で保管され、一部は展示されています。
 私は沖縄の水中文化遺産の調査・研究を行う過程で、インディアン・オーク号の座礁地の調査を行ったことがあります。過去に北谷町教育委員会が調査を実施したことは知っていましが、自分の目でその遺跡を見て、現状を知りたかったからです。その海域には、干潮時に姿を現す広大なリーフがあり(写真2)、中国清朝磁器(写真3)や中国や東南アジアの褐釉陶器壺(写真4)、木造の船体を安定させるために大量に積まれたバラスト石(写真5)などが今も散乱する状況を見ました。また、過去に海底から回収された遺物には木造の船体を補強するために使用されていた銅板(写真6)やそれを打ち込んだ船釘(写真7)も多数発見されており、銅板に空いた穴と船釘のサイズがピタリとあっています(写真8・9)。
 140年前に座礁・沈没したイギリス船インディアン・オーク号の残骸は今も海底に残されているのです。
 以上の経緯があったため、2013年のとある寒い冬の日に、収蔵庫で「北谷沖」というコンテナを見たとき、中身が何であるのか想像することができたのでした。
 座礁地の海岸である安良波公園のビーチには座礁・沈没の歴史を伝える石碑とインディアン・オーク号の遊具が設置されています。「ええ、あの遊具が!」と思われた方も多いかと思います。知らない方はぜひ行ってみて下さい。私も学生時代は何度もあの公園に足を運び、インディアン・オーク号の遊具に上って夕日などを眺めていましたが、石碑など読みもせず、まさかこんな歴史的経緯があったとはまったく知りませんでした。
 また、この海難事故と琉球人による救出がきっかけとなり、2000年に行われた九州・沖縄サミットではイギリスのブレア首相が北谷町を訪問しています。このサミットでは各首相がそれぞれ様々な地域を訪問しているのですが、ブレア首相が北谷町を訪問した経緯にはこのような歴史的背景もあったのですね。
 さらに、琉球王国末期を舞台にして話題となった小説「テンペスト」、そのドラマで仲間由紀恵扮する寧温が見事解決した異国船座礁事件はこのインディアン・オーク号がモデルとなっているようです。
 文献に記録された異国船座礁事件、その実際の現場を示す物的証拠が今も海底に残されており、我々に事件の実態を伝えてくれます。そしてその一部は、沖縄県立博物館・美術館の収蔵品としてしっかりと保管されていることがわかったのでした。
 ★宣伝
 平成26年度博物館特別展は「水中文化遺産~海に沈んだ歴史のカケラ~(仮称)」を開催予定です。会期は平成26(2014)年11月8日(土)~平成27(2015)年1月18日(日)、ただ今準備中ですが、今回、そして前回のコラムで紹介したオランダ船ファン・ボッセ号の積荷や、イギリス船インディアン・オーク号の積荷は当然展示します。みなさんぜひご来館下さい。
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⚔6)─1─「戦国時代は応仁の乱から」は過去の常識、最近有力な説とは?~No.25No.26 

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 2021年5月12日 MicrosoftNews ダイヤモンド・オンライン「「戦国時代は応仁の乱から」は過去の常識、最近有力な説とは?
河合 敦
 © ダイヤモンド・オンライン 提供 「応仁の乱室町幕府が弱体化し戦国時代へ」は、正しくないことが分かっている Photo:PIXTA
 日本史の中でやはり人気が高い戦国時代。しかし、多くの人が学校で習ったであろう「応仁の乱室町幕府が弱体化し戦国時代へ」は、正しくないことが分かっている。東国では応仁の乱の13年前、1454年に始まる「享徳の乱」から、全国的に戦国の世になったのは応仁の乱ではなく、「明応の政変(明応2年、1493年)」からだという説が研究者の間で有力になりつつある。いったいどういうことなのか?そこで今回は、歴史研究家・河合敦さんの新刊『教科書の常識がくつがえる!最新の日本史』(青春出版社)から、この「明応の政変」について詳しく解説する。
 応仁の乱とは結局なんだったのか
 「応仁の乱」は日本全土に戦国時代を到来させたという共通認識があったが、近年、研究者の間では、応仁の乱終結してから16年後に起こった明応の政変こそが戦国時代の到来だとする考え方が強くなりつつある。
 まずはこの政変と大いに関係のある応仁の乱について復習しておく。応仁の乱は、幕府の三管領(将軍の補佐役である管領を出す家柄)の一つ、畠山氏一族の戦争から始まった。応仁の乱が勃発する十数年前から、畠山氏は政長派と義就派に分かれて一族・家臣でもめていた。
 幕府の実力者である守護大名山名持豊が、畠山義就を支援し、将軍義政に働きかけて畠山政長管領職を罷免させると、政長は屋敷を焼き払って上御霊神社に陣を敷き、管領細川勝元に応援を求めた。しかし勝元はこれに応じず、結局、義就は政長軍に襲撃されて敗退した。この御霊合戦が応仁の乱の始まりである。
 「応仁の乱で幕府が弱体化」は誤り
 約11年にわたって続いた応仁の乱終結した後、再び室町幕府は統一された。新将軍の義尚は、若いながら政治に強い意欲を示したが、引退したくせに父親の義政がなかなか権限を義尚に譲渡しようとせず、親子間で確執をくり返していた。とはいえ、室町幕府が再びしっかり機能しはじめたのは確かである。
 つまり、応仁の乱後に幕府が完全に力を失い、全国が下剋上の世になって戦国大名たちが分国を拡大するために相争うようになったという解釈は正しくない。
 乱の終結から10年後の長享元年(1487)、将軍義尚は将軍の権威を高めるため、2万の大軍を引き連れ、反抗的な六角高頼を討伐する目的で近江国へ出陣した。この頃、ようやく義政が本格的に権力を手放し始めたと考えられている。
 ところが、義尚が25歳の若さで病没してしまったのである。酒の飲み過ぎで体を壊したというが、はっきりした死因はわからない。義尚が亡くなると、義政の正妻・日野富子は義視の子・義材を将軍にしたいと考えたが、なんと、父親の義政が将軍の座に返り咲いたのである。けれど翌年、その義政も中風によって55歳で没してしまった。そこで富子は、再び義材を将軍にすえようと動きはじめた。
 一方、細川勝元の子で幕府の実力者である政元は、清晃を将軍にしたいと考えていた。清晃は、義政の異母兄で堀越公方となった足利政知の子である。ただ、将軍家における富子の権限は強く、結局、新将軍には義視の子・義材(後の義稙)が25歳で就任した。
 クーデターを決意させた女性
 しばらくすると、美濃国から義材と一緒に上洛した義視(義材の父)が将軍の後見人として政治を動かすようになり、さらには富子と対立するようになったが、そんな義視も延徳3年(1491)正月に死没してしまう。
 これにより、将軍義材の力は弱まるかに思えた。しかし、義材は同年8月、威勢を回復していた六角高頼を攻めるべく近江へ出陣したのである。六角氏を倒して己の権威や武威を上げて求心力を高め、さらには、直属の武士である奉公衆たちに六角氏から没収した土地を与えて結束を固くしようとしたようだ。
 さて、この遠征だが、六角高頼は逃げてしまったものの、義材は園城寺に拠点を置いて戦いを有利に進め、降伏した六角氏の重臣・山内政綱を殺害するなど、六角勢力に大打撃を与えて凱旋したのである。
 これに気を良くした義材は、前管領畠山政長応仁の乱の原因をつくった人物)を重用し、今度はその政長の願いを聞き入れ、畠山基家(かつて政長が応仁の乱で争った義就の子)の拠点である河内国へ遠征を宣言したのである。
 細川政元は近江への出陣も反対していたが、今度の河内征伐も強く反対した。だが、義材はそれを黙殺して河内への遠征を強硬した。一説によれば、河内平定後、義材は自分の行動にことごとく反対する細川政元を滅ぼしてしまおうと企んだという。
 一方、ここで政元も幕府の元管領という立場にありながら、将軍義材の排除に動いたのである。そうした決意に至らしめたのは、日野富子が政元の味方をしたことが大きいとされる。
 研究者の大薮海氏は、「義政・義尚が没した後の日野富子足利将軍家の事実上の家長であり、義材を後見すべき立場にあった。その富子は、義材が自身の権力強化のために近江国のみならず河内国にまで諸大名を動員し、そのことによって細川政元をはじめとする大名たちと溝を深めている状況をみて、義材に見切りをつけた」(前掲書)と論じている。
 将軍義政の正室で、将軍義尚の生母である富子は、足利将軍家で絶大な信頼を集めていた。そんな彼女が手を結んでくれたからこそ、政元はクーデターを決行する決心がついたのだ。
 家臣が将軍を自由に替える時代となった
 明応3年(1494)4月22日、細川政元は突如挙兵し、清晃(足利政知の子)を自分の屋敷に迎え入れ、義材を廃して新将軍にこの清晃を擁立することを宣言した。
 これが、「明応の政変」の始まりである。ちなみに政元はまだ28歳、意外に若いことに驚く。ちょうどクーデター時、将軍・義材は京都を留守にしていた。守護大名や直臣(奉公衆)を引き連れ、河内国内で畠山基家勢を激しく攻め立てていたのである。だから都でのまさかの事態は、青天の霹靂だったことだろう。
 さらに、日野富子が自ら政元の屋敷へ参じたのだ。この動きが決定打となり、義材に従い河内で戦っていた守護大名たちさえも、この政変を知ると、続々と陣中から離脱して京都へと戻ってきてしまった。
 こうして幕府の実権を握った細川政元は、畠山政長を討つという名目で、将軍義材のいる河内へ大軍を派遣した。結局、戦いに敗れた政長は自殺し、義材も抗しきれずに降伏したのだった。捕縛された義材は、京都に連れ戻されて幽閉された。
 同年12月、還俗した清晃は11代将軍となった。名前は何度か変えるが、以後は一般的に知られている義澄と記すことにする。将軍就任時、義澄はまだ14歳の少年だった。
 いずれにせよ、幕府の家臣によって将軍の首がすげ替えられる時代になったことは、これまでと異なる大きな変化だったが、それだけでは事は終わらなかった。
 「将軍が二人」に
 その後、身の危険を感じた義材が京都を密かに脱し、故・畠山政長が支配していた越中国放生津へ入り、さらに諸国の守護大名細川政元の征討を呼びかけて、北陸の諸大名を糾合し始めたのである。
 その後は越前国を拠点として勢力を拡大、上洛を目指して近江国坂本まで攻め上っていったのだった。しかし、戦いに敗れて京都の奪還に失敗、有力大名の大内義興を頼って西国の周防へ入った。
 ただ、それからも将軍として振る舞い、諸大名にさまざまな命令や通達を発し始めた。こうして日本に二人の将軍が分立する状況が生まれたのである。
 また、新将軍・義澄を擁立した京都の室町幕府細川政元政権)がその後、安定したわけではなかった。成長した義澄は、自ら政務に意欲を示し始めたのだ。そして、これをおさえようとする政元との間で相剋を生じ始め、ついに文亀2年(1502)、その摩擦に火がついた。
 同年、政元が管領を辞めると言って京都から出てしまったり、逆に将軍・義澄が腹を立てて寺院に引きこもるなど、二人の確執が大きくなったのである。ただ、その後は和解して小康状態を保ち続けたものの、5年後の永正4年(1507)、驚くべき事態が出来する。細川家の家督をめぐって政元自身が暗殺されてしまったのである。
 すると当然のごとく、周防にいる前将軍・義材が元気づき、翌年、西国から軍勢を連れて都に入り、将軍に返り咲いたのである。一方、京都から駆逐された義澄は、京都奪回を目指したが、残念ながら永正8年に病死してしまった。
 以上のように明応の政変を機に、将軍家は義材系統と義澄系統に分裂し、守護大名を巻き込んで争いを続けるようになった。
 こうした中、室町幕府の支配力は山城一国にしかおよばなくなり、その実権も細川氏からその家臣の三好氏に移り、さらにその家来だった松永久秀に移っていった。対して地方では、独立した権力である戦国大名が登場し、それぞれが自分の分国を拡張するため相争うようになった。
 戦国大名の出自は、守護大名だったり、守護代だったり、国人だったりと多様だが、いずれにせよ、明応の政変をきっかけにして実力がものをいう時代に大きく変わったのである。
 訂正
 記事初出時より、以下のように表現を改めました。第5段落:新将軍となった義正の息子・義尚は、→新将軍の義尚は、(2021年5月12日10:53 ダイヤモンド社デジタル編成部)」
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⛩11)─1─火山列島における最古の神「大穴持神」。永遠の命が宿る大樹=御神木と皇室。~NNo.20No.21 

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 日本民族にとって火山は、神様で、ご神体で、信仰の対象であり、崇拝の対象であり、敬虔な気持ち、畏怖の念を抱いた。
 現代の日本人は、宗教を持たず、神や仏を信じない、それどころか嬉々として神や仏を殺している。
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 現代日本には、伝記・伝説・歪んだ神話はあっても真の神話はない。
 つまり、自然及び科学を無視して意図的に作られた無意味な安全神話が転がっている。
 その証拠が、東日本震災における福島第一原子力発電所事故である。
 日本には、如何なる安全神話も存在せず、日本列島には安全なところはどこにもない。
 根拠のない各種安全神話を日本に当てはめて信じる事は有害で、くだらない安全神話を信じて安心すると「死」を招く。
 その証拠が、東日本震災における大津波であった。
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 2021年5月15日号 週刊現代「今日のミトロジー 中沢新一
 大穴持(オオナモチ)神の復活
 このところ日本列島とその周辺ではオオナモチ神の活動が活発である。
 そのメッセージを読み解くことが、日本の未来を開くであろう
 火山列島
 日本列島のような、地質的に危うい場所に築かれた文明というのも、あまり類例がない。ヨーロッパ文明にせよ中国文明にせよ中東文明にせよ、ほとんどの大文明は、盤石な土地の上に築かれている。ところが、私たちの日本列島は、流動するマグマの上に乗って揺れ動いている大地の上にある。
 地質的にも、この列島は比較的脆弱である。地球物理学者たちは、日本列島がユーラシア大陸から崩れ落ちてくるデブリ(堆積土砂または残骸)が集まってできあがった列島であり、それがなんども折れ曲がったり、くっつきあったりした末に、ようやく今のような形に落ち着いてきたことを、あきらかにしてきた。
 おまけに列島がお腹をさらしている太平洋の海底は、地底マグマの影響でつねに拡大を続けているために、ユーラシア大陸のほうにたえず押しやられている。そのせいで、周りにはいくつものプレートが集まってきて、その境目のあたりが擦れあったり、せめぎあったり、崩れたりを続けている。日本列島はそのためにしょっちゅう、地震津波や火山の噴火に見舞われている。
 だから日本文明の中で、堂々として揺るがない『盤石な大地』という概念が育ちにくかったのは、当然である。古代からこの列島は、龍蛇や大鯰の背中の上に乗っていると想像されてきた。龍蛇はしじゅう体をくねらせながら動いている。大鯰の体はぬめぬめと滑りやすく、その背中に乗っかっている列島は、つねに滑落の危険にさらされている。
 日本人はこの不安定な大地の上に、その文明を営んできた。そのせいだろうか、ここでは確実な真理を打ち立てようとする情熱が芽生えることは稀で、堅固な論理よりも、揺れ動く情緒のほうが好まれてきた。今日、日本文化の独自性と言われていることの多くは、そのあたりから発生している。
 列島最古の神
 こういう列島の上に、数万年前から人は住み続けてきた。旧石器時代縄文時代弥生時代と、そこに住む人たちの生活やものの考え方も、変わってきた。しかし揺れ動く大地は変わらなかった。そのためであろう、火を吐く山々を抱え、つねに揺れ動く、この列島の大地に与えられた神の名前も、変わらなかった。その荷見の名前は『オオナモチ』、漢字で『大穴持』と書かれた神でsる。
 8世紀の記録に、オオナモチという神の名前が登場してくる。この頃、南九州では海中火山の噴火が相次ぎ、その報告を受けた奈良の朝廷は大慌てで、猛威を振るうこれらの火山神を、正式な神の仲間に列することで、怒りを鎮めようとした。『大隈の海中に神ありて、島を造る。その名を大穴持の神と曰ふ。ここにいたりて官社となす』(778年の記録)。
 大きな穴を持つ神=オオナモチは、文字どうり噴火口を持つ火山の神である。この神はすでに縄文人でもよく知られていた。例えば駿河湾から富士山麓に入植していった縄文人は、富士山が噴き出した溶岩流の最先端に接するように、神への遥拝所である『神籬(ひもろぎ)』を作っている。彼らは富士山そのものを『大きな穴を持つ神』とみなし、その穴から流れ出てくる溶岩を、力の源泉としてお祀りしていた。
 オオナモチという神の名前は、縄文時代から日本列島の広い範囲で知られていたと思われる。火山の神名から生まれたオオナモチは、そのうち大地そのもの、列島そのものの神の呼び名に変化していった。地震が起こっても、それは大地の神オオナモチが体を揺すったからであると解釈されるようになった。とりわけヤマト朝廷の影響力に対抗していた、イズモ系の人たちは、先祖以来の伝統を尊重して、オオナモチを彼らの重要な神とした。
 イズモの国では、大地の神オオナモチと、その大地の上にできたクニを統治する神オオクニヌシ大国主)は、一体とみなされた。オオナモチはときに憤怒を示す神だが、オオクニヌシは温和な優しい神である。イナバの浜でいたずらものの白兎を助けたのはオオクニヌシ=ダイコク様は、もとをただせば噴煙をもうもうと上げて、火の灰を降らす火山神なのである。日本列島に住んだ最古の神の名は、こうしてイズモ神話の中に保存されて、今日に伝わった。
 よみがえる異教の神
 オオナモチの神は、もともとヤマト朝廷系の神々とは異質な、いわば『異教の神』なのである。太陽神アマテラスにたいしては、暗黒の大地に潜む神であり、その意思は自然の暴威としてしめオオナモチの存在は、長いこと忘れられていた。ところがそのオオナモチが、阪神淡路大震災から東日本震災をへて、日本人の心に大きな影を落としはじめているように、私は感じるのだ。
 日本人はあらためて、自分たちが日本列島という危うさを抱えた大地の上に、生きていることを痛感し、いまはまた新型コロナウイルスが象徴する自然力の侵入に、翻弄されている。日本人の無意識を規定してきたミトロジーの体系を、いまこそ大転換する時が来ているのではなかろうか。なにかが火山列島に暮らす民に、オオナモチへの目覚めを促すことによって、新しい時代に備えよと、信号を送っている。」
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 出雲国風土記
 大穴持命(おおなむちのみこと)
 大穴持命とは、出雲を中心に国土を開拓して国家の基礎を築いた「国造りの神」であり、「大国主オオクニヌシ)」の名でよく知られています。なお、出雲大社主祭神であり、出雲では最も崇敬されている神です。
 『記紀』においては、「葦原中国平定」で天津神に国譲りするまでは葦原中国(地上)における主神であり、今でも全国には大国主を祀る多くの神社が点在しています。
 『出雲国風土記』においては、「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」と呼ばれる最も神格の高い国津神として扱われており、出雲国に多大な影響を与えた神として、数多くの説話が記されています。 
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 ウィキペディア
 大穴持神社(おおなむぢじんじゃ)は、鹿児島県霧島市国分広瀬にある神社。式内社で、旧社格は県社。神紋は「五七の桐」。通称を「オナンジサア」。
 祭神
 現在の祭神は次の通り。
 主祭神
 ・大巳貴命(おおなんじのみこと/おおなむちのみこと、大国主命
 相殿神
 ・少彦名命(すくなひこのみこと/すくなびこなのみこと)
 ・大歳神(おおとしがみ、大歳命)
 ・住吉大神
 ・霧島大神 - 昭和22年(1947年)に現在の広瀬公民館の地から遷座・合祀。
 祭神の人格神をオオナムチ(オオクニヌシ)に比定する説は、奈良時代宝亀9年(778年)に遡り、『延喜式神名帳でも「大穴持神社」と見える。出雲地方を起点とするオオクニヌシ信仰が鹿児島まで及ぶことを示す神社として紹介されることもある。現在は医療の神・まむし除けの神として信仰される。
 歴史
 創建
 創建は不詳。社記では天平年間(729-749年)の創建とする。元は後述の神造島に鎮座したが、島崩れにより現在地に遷座したとする伝承がある。
 『国分諸古記』・『神社仏閣帳』では、当初は奥州津軽山に鎮座したとし、日向国串島、大隅国福瀬之渡、福島村を経て小村の当地に鎮座したとする伝承を記す。
 概史
 『続日本紀』では、古代の大穴持神社に関して次のように見える。
 ・天平宝字8年(764年)12月是月条 - 大隅国薩摩国境で起こった噴火によって3島が出現。
 ・天平神護2年(766年)6月5日条 - 「大隅国神」が新島を造り震動がやまず、人民の多くが流亡したので、物をめぐみ救済した。
 ・宝亀9年(778年)12月12日条 - 神護年間に島を造った神の名は「大穴持神」であり、官社とした。
 出現した3島については、隼人港沖の辺田小島・弁天島・沖小島に比定する説が一般的であった。しかし火山学的にはそれらは奈良時代の噴火で生じたものではないとされ、実際の3島は桜島付近に所在したがその後に海没したとする説が挙げられている。
 延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では大隅国囎唹郡に「大穴持神社」と記載され、式内社に列している。
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 2021年6月号 Hanada「コンパラティスト 一比較研究者の自伝 平川祐弘
 六十の手習い
 御神木
 雨森信成は神社仏閣にまつわる説話を語ることによって、日本の宗教文化を西洋人観光客に知らせようとした。近年の東京は外国人観光客に知らせようとした。明治神宮では神前結婚で結ばれる青い目の新郎新婦もいる。売店に置くために『What is Shinto? 小泉八雲のみた神の国、日本』というブックレットを私どもが日英両文で2018年に書いたものも、この明治の忘れられた先覚雨森にみならってのことだ。共著者の牧野陽子さんの英文は達意(たつい)でおだやかで見事だが、私も理のあるところを平明に主張した。以前にフランス語で一冊『日本人とは何か──西洋作家の解釈した神道』を書いたせいか、英文も気楽に書けた。問題は私が以下で述べる御神木にまつわるような感情を内外の読者も共感してくれるかどうかである。
 村の鎮守の杜(もり)は、そこに代々の村人の命が宿る一隅で、その杜に畏敬の念をおぼえるのが日本人の神道的感覚だろう。都会にあっても御神木といわれるほどの老樹は、その界隈の人々には、やはり永い命の象徴であるだろう。樹齢が数百年を越すような大樹が根をおろしている町では、朝夕その樹を眺めるだけでも住む人は慰められる。ふだんは忙しさに取りまぎれて、見ていながら見えないでいる人も、その樹が枯れて倒れた時は、そこにぽっかりと空いた空虚さを感ずるだろう。ある朝、見なれた樹がない。そんな淋しいことはない。
 それと同じことは連綿と続く天皇家についてもいえる。私たちが皇室におぼえる共感は、実は政治的なものであるより、それがいつまでの続く民族の永生(えいせい)の象徴であるから有難いものではあるまいか。その日、御神木について私はそんな感じを受けていただけに、年が明けて1月7日に昭和天皇崩御された時は、わが国で真に品格のある老樹がついに倒れられてしまった、という淋しさをおぼえた。」
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 連綿と続く天皇家の正統性は、民族中心神話・血の神話・Y遺伝子神話にある。
 天皇の正統性は、最高神である女性神天照大御神の子孫で、神の血を直系長子として受け継ぐ男系父系の万世一系の家族・一族ののみに存在する。
 神の血を正しく受け継がない女系母系には、正統性はない。
 政教分離の原則で、民族(ローカル)が数千年の歴史で受け継いできた宗教・伝統・文化を排除して、ここ数十年の歳月による世界(グローバル)が認める普遍的価値の憲法・法律で即位を承認する玉座には正当性はあっても正統性はない。
 日本民族の歴史・文化・伝統・宗教は、数万年前の縄文時代石器時代に繋がっている。
 現代日本人の時間とは、1946年から始まり、1980年代後半に定まったに過ぎない。
 つまり、現代日本には正当はあっても正統はない。
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 神木(しんぼく)とは、古神道における神籬(ひもろぎ)としての木や森をさし、神体のこと。また依り代・神域・結界の意味も同時に内包する木々。御神木とも称される。
 一般的に神社神道の神社、神宮の境内にある神体としての木や神聖視される木、その周りを囲む鎮守の森や、伐採をしないとされる木を指す。
 この他、神社の所有地、民間の所有地にあって民間伝承などの特別な謂われのある木を指す。神社の造営に当たってその木材となる植林または自生する特別に伐採された木を指す場合もある。
 概要
 神籬・磐座信仰(いわくらしんこう)という自然崇拝も古神道の一部であり、神や命や自然に対する感謝や畏怖・畏敬から、環境が変わる場所にある象徴的なものを、木に限らず神体とした。この古神道から数千年を経る中で、形式や様式が器としての神社や内面としての祭礼が、外来の宗教の影響または独自に確立され、神社神道などになっていった。
 神の居る場所は、社(やしろ)といわれる神道の神殿に移っていったが、日本に数万ある神社は、もともとは、この古神道における神籬のある場所に建立されたものがほとんどであり、そのことから境内に神籬としての神木や磐座としての霊石(岩)やあるいは碑や塚が存在し祀られている。また古神道神社神道は、ある部分では共存し不可分でもあるため、神社によっては社を持たず、神木をそのまま神体として祀っているところもあり、また、神社はなくとも自然そのままにある神木が多くの信仰を集めている場所もある。
 先端がとがった枝先を持つ常緑樹が、神が降りる依り代(玉串)として神事に使われることも多い。玉串として最も一般的なものはサカキ(榊)だが、関東以北では植生上サカキが自生しないため、ヒサカキ(姫榊)やオガタマノキ(招霊木)を用いることもある。一般に玉串は神前に供えるために伐採された枝を示し、神木は大地に根を張ったままの状態を言う。
 依代
 神依木(かみよりぎ)、勧進木(かんじんぼく)等は神の依り代とされ、しめ縄などで特別扱いされている。社殿の無い神域などでは御神体として扱われている。ナギやモチノキ、スギなどが多い。
 この他、伊勢神宮の神宮スギなど景観維持や、荘厳さを醸し出すために依り代とは別に特別視された木などを神木扱いにしている場合もある。山などで仕事をする物にとって、山の神の依り代として目立つ木を一時的に神木とし、祀る場合もある。
 神社神道における儀式で使われ、サカキやナギによって作られる御幣も神籬というが、もともとは、古神道における自然にある神木の代用としての、簡易の依り代である。
 神域・結界
 古神道において神籬は、神の宿る場所としての神域、または常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境と考えれ、恐れ敬った。そして人や現世にあるものや、常世に存在する神やまたは、現世にとって禍や厄災を招くものが、簡単に行き来できないように、結界として注連縄をはり、禁足地とした。現在でも沖ノ島など社や神木や鎮守の森だけでなく島全体が禁足地になっているところも多くある。招福したい時を一定の期間だけ設けて、神木などの結界を解き神を招くという儀式や祭礼を行うところもある。
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 日本民族は、数万年前の旧石器人から始まり、縄文人弥生人倭人、日本人と、血・肉体、命・志・精神、魂・霊魂など全ての面において、途切れる事なく、途絶える事なく、一系・一色の単一で繋がっている。
 が、現代日本を支配する、同調圧力・場の空気・空気圧・空気、悪しき言霊は異系・異色の別物である。
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 無宗教で神を信じない科学至上主義者の現代の日本人と、崇拝宗教を持って神仏を大切に崇めていた自然至上主義の昔の日本人とは、相容れない別人のような日本人である。
 そして、現代の日本人は民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力は乏しい、もしくはない。
 現代日本人は、歴史が嫌いであり、日本文明も日本文明も無縁である。
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 日本民族は、自然を神として崇め、自然災害を神の怒りと恐れ、神を怒らせない為に自然を大事にし、神の徳(惟神の道)に従って生きてきた。
 日本民族は、社会の中心に人ではなく自然を置き、太古から変わらない姿のままで自然を保存し、その疑似的存在として里山をムラ総出で手入れをして維持した。
 それが、生まれた土地での産土神崇拝であった。
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 日本民族の歴史とは、民族中心神話=日本神話と血の神話=高天原神話つまり日本書紀古事記である。
 日本において正統性と正当性は別物で、正統性は神聖不可侵で不磨の神話であり、正当性は書き替え可能な創作の物語である。
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 現代の日本人と昔の日本人の違いは、如何なる事態に追い込まれ、如何なる現象に見舞われても逃げずに死を覚悟し死力を尽くして「戦って(戦争をしてでも)生き抜く」という決意である。
 それが武士道であるが、現代の日本人が好み武士道は偽物である。
 現代日本には、まがい物の武士道神話と悪質な言霊そして科学的根拠のない各種安全神話が徘徊して日本人を毒している。
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 日本人の祖先は、勇気ある冒険者、パイオニアに富んだ開拓者、困難に立ち向かう勇者ではなく、優れてもいないし賢くもないし秀でたところもない、数人が漕ぐ手漕ぎの小舟で流れ着いた漂着者に過ぎない。
 雑多の人々が流れ着いて、乱婚を繰り返して生まれた「血が汚れた」混血の雑種民族である。 
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 日本人の祖先は、上陸してきた移住者は少数で、多くは流れ着いた漂着者である。
 日本人とは、日本列島に住む人間の事を言う。
 日本列島に住み着く人間はいたが、日本列島から出ていく人間はいなかった。
 対して、中国大陸も朝鮮半島も目まぐるしいほどに大量の人の出入りが絶えなかった。
 その傾向は、現代でも変わらない。
 その意味で、日本は表面的に多様性がないが内面では複雑な多様性を秘めている。
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 人類史・文明史において、火山・地震・台風・豪雪などの甚大な被害をもたらす災害が複合的に同時多発する最悪な自然環境の日本列島では高度な文明や洗練された文化は生まれづらく、運良く生まれたとしても短命で消え去る宿命を背負っていた。
 その意味で、縄文時代から現在まで残る日本文明・日本文化は地球文明史上の奇跡である。
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 日本文明・日本文化は、中国文明・中国文化、朝鮮文化の亜流でも模倣でもなく、一つの独立した特殊・特異な文明であり文化である。
 日本文明・日本文化は、中国文明・中国文化、朝鮮文化から一部の優れたモノは取り入れ参考にたが、それよりはるかに多い役に立たない・害になるモノは惜しげもなく捨てた。
 事実、日本文明・日本文化の中には中国文明・中国文化、朝鮮文化の痕跡は微々たるものである。
 日本文明・日本文化は、中国文明・中国文化、朝鮮文化に感謝はするが恩義を感じる必要はない。
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 日本民族は、、数万年前から、火山・地震・台風・豪雪などの甚大な被害をもたらす災害が複合的に同時多発する最悪な自然環境の日本列島で逃げ出さず生活してきた。
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 現代日本人は、日本を愛し、日本の自然を大事にしている、はウソである。
 日本を愛し、日本の自然を大事にする民族的日本人は、2割ぐらいである。
 日本が嫌いで、日本文明に興味がなく日本文化に魅力を感じない日本人が3割いる。
 残りの5割は、今を楽しく生きれれば何方でも良いと考えている。
 3割の日本人は明らかにマルクス主義の左翼・左派・ネットサハでリベラル・革新であるが、2割の日本人は民族主義の右翼・右派・ネットウヨクで保守とは限らない。
 外国人移民(主に中国人移民)が増え日本国籍を取得しての本国民日本人になれば、少子高齢化による人口激減によって日本民族は減り3割の人数は加速度的に急増していく。
 マルクス主義の左翼・左派・ネットサハは、反天皇で、反民族で、反宗教無神論である。
 現代日本で、日本民族に愛着を持つ日本人は少ない。
 それは、右翼・右派・ネットウヨクでも同じである。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の情緒的な文系的現実思考はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の理論的な理系論理思考はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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💖12)─1─1920年の華北大飢饉(飢餓民約2,000万人)への軍国日本の調査と救援。~No.50No.51No.52 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 中国や朝鮮は、日本の支援・救済・救援・救護に恩義を感じないし感謝もしない、消える事のない反日感情や日本憎悪から日本・日本人に対しては恩を仇で返すを事は正義と確信している。
 愛国無罪反日暴動は英雄行為として奨励されていた。
   ・   ・   ・   
 大正3(1914)年~大正7(1918)年 第一次世界大戦。 
 大正4(1915)年 対華21箇条の要求。
 大正6(1917)年 石井・ランシング協定。
 大正6~7(1917~18)年 西原借款。
 大正7~11(1918~22)年 シベリア出兵。
 日本陸軍は、シベリアでポーランド人戦争孤児765人を赤軍共産主義軍)から犠牲者を出しながら助け出した。
 日本軍国主義者は、シベリアのロシア人戦災児童約800人をロシア人共産主義者から救出し、ヨーロッパまで船で送り届けた。
 大正8(1919)年 朝鮮での3・1独立運動と義兵戦争。
 中国での5・4排日暴動。
 大正9(1920)年 日本社会主義同盟結成。
 大正10(1921)年 ワシントン会議。ワシントン体制と日本包囲網
 大正11(1922)年 日本共産党結党。
 日本人共産主義テロリストは、ロシア人共産主義者の支援を受けてキリスト教朝鮮人テロリスト同様に裕仁皇太子を惨殺する為につけ狙った。
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 中国大陸は地獄であった。
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 東亜同文書院大学(とうあどうぶんしょいんだいがく、英語: The Tung Wen College)は、中華民国上海市に本部を置いていた日本の私立大学である。1939年に設置され、1945年に廃止された。大学の略称は東亜同文書院
 概観
 大学全体
 1899年(明治32年)、日本の東亜同文会によって中国(清朝)南京に南京同文書院が設立されていた。この南京同文書院の閉鎖に伴い上海へ移設されて、東亜同文書院大学の前身となる高等教育機関東亜同文書院が設置された。こうした設立経緯などの都合から、東亜同文書院を上海同文書院と通称することがある。
 東亜同文書院の中心は商務科であったが、その他に政治科、農工科、中国人を対象とした中華学生部も一時設置されていた。1921年(大正10年)に専門学校に昇格し、1939年(昭和14年)12月には大学に昇格した。1943年(昭和18年)には専門部が付設された。1945年(昭和20年)9月、日本の敗戦に伴い学校施設を中国に接収され、同年閉学した。
 建学の精神(校訓・理念・学是)
 初代院長の根津一は東亜同文書院の創立にあたって「興学要旨」と「立教綱領」を定めた。興学要旨に「中外の實學を講じ、中日の英才を教え、一つは以って中国富強の本を立て、一つは以って中日揖協の根を固む。期するところは中国を保全し、東亜久安の策を定め、宇内永和の計をたつるにあり」とし、立教綱領に「徳教を経となし、聖賢経伝により之を施す。智育を緯とし、中国学生には日本の言語、文章と泰西百科実用の学を、日本学生には、中英の言語文章、及び中外の制度律令、商工務の要をさずく。期するところは各自通達強立、国家有用の士、当世必需の才を為すに有り」としたことは、陽明学的な実用主義的立場が重視されていたことを示す。東亜同文書院では儒教の経学を道徳教育の基礎にすえるとともに、簿記などの実用的な学問を重視した。
 学風および特色
 学生の大半は各府県が学費を負担する府県費生であったが、外務省や南満州鉄道、商社からの委託生ほか、私費生も一部受け入れていた。
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〔論文〕 1920年の華北大旱害をめぐって
 ―東亜同文書院生の調査旅行報告が東亜同文書院の調査を走らす―
 東亜同文書院大学記念センターフェロー、地理学 藤田 佳久
 1.はじめに
 本論は、1920年華北の広い範囲で生じ、一大救援活動が国際的にまで展開した「大旱魃」と「飢饉」をめぐって、書院側がそれを一大事ととらえ、急遽研究部が派遣した書院生による現地調査による生の報告が、「大旱魃」への疑問を示したため、書院の研究者による調査団を新たに組織し、派遣させ、はたしてそれが本当に「大旱魃」であったかどうかについて確認するにいたった経緯と結論を検討し、書院生による調査の観察記録の客観性の一端を明らかにする。

 2.1920年華北の「大旱魃
 この大旱魃について、1921年、東亜同文書院(以下書院)は珍しくもその調査報告書を刊行した(注1)。この大旱魃については、例年の大旅行とは別に書院生を現地へ派遣するという緊急体制をとるなど、大いなる関心を持ち、日本国政府や日本社会に救援のアピールを目指したものと思われる。実際、ひとつの調査班がまだ現地から帰校する前の1920年秋、他の調査班の報告をふまえ、根津院長みずからが「2千万人が飢饉状態」であるとの情報を伝えるべく上海から日本へ旅立っている。
 この報告書の「序」によれば、この「大旱魃」について次のように記されている。少し長いが引用してみる。
 「大正8年(1919年)より大正9年秋にわたる間の大旱魃によれる北支那の直隷、山東、河南、山西、陝西5省に於ける飢饉の状況は詳に世人に報道せられし所、我が書院に於いても昨大正9年10月数班の調査隊を派遣し実地に調査せし所を刊行せり。而して大正9年秋より大正10年春に至る間に前に未だ嘗て見ざる救援策おこなわれ、幸いにその惨害を救うを得たるは大に注意すべき所、茲に書院は10年の7月8月の間に3班の調査隊を派遣し被害の最重区域を踏査し救済の方法及救済前後の状況を編し、本報告をなすを得たり。
 被害地方は5省の間に於いて凡そ284県に亘り、其の間の人口は精確に知る能はれども大率1750万人、戸数は250万戸と計られ、この間に救済を擁すべき者多大なりしと雖も前後の策能く行われしは、一般民生の幸福之に過ぎたるはなし。
 北支那一帯の雨量は平時に於いても甚だ少なく、天津に於ける15年間の平均雨量は僅かに524糎にして我国の雨量に比しては3分の1或いは4分の1に当たるを見、之が為め北支に旱魃起り易く、其旱魃は古来膨大飢饉を惹起し、史に天旱民饉の筆を断たざる所以なり。斯かる歴史的飢饉に慣れたる地方なれば、一般人民は殆ど我国人の想像しがたき貯蓄心を有し、一朝の災害に際しては、多くは自ら生を保つべき術なきに非ず。此の民生の覚悟あると共に、今回は幸にも外国人及支那政府の救済其法を得、たつ交通機関も昔時に比し多いに進歩したる者ありし為、其平糶法のごとき古に比すれば大なる規模に行われ、満州其他の粟、高粱を直ちに災地に送り、之を貧民に施与するを得たれば惨害を防ぐ鮮少に非ざりき。
 世人往往、北支飢饉は世に称せられたる如き大惨状に非ざりしを想い、報道の誇大なりしを説く者あれど、是れ支那の生活状況及び貯蓄心を知らざるに出つとすべく、支那の飢饉の救済は我国の飢饉に比すれば甚だ容易なるものありともすべく、救済の比較的に容易なるは是れ其の国民の先天的性質に起因する多きなり。古来廔惨害を惹起する北支飢饉に対し、今回は未だ嘗て歴史に見ざる救済策の行われしは注意するを要し、且つ将来の飢饉に対し範を垂るる者と称せざる得ざる也。
 本報告は主として鈴木擇郎氏、藤井禎輔氏、城慶次氏、鶴見寿氏、和田宗二氏、藤野進氏、書誌の実地調査に基づく者なり。
 大正10年9月20日
 上海 東亜同文書院研究部(注2)」
 以上の文面からすれば、1919年から1920年にかけて華北の5省に及ぶ広い範囲で大旱害があったこと、その報道が大きかったので反響も大きく、書院は1919年秋に書院生の現地調査班をいくつか送り出したこと、その頃から救済が行われ、かなり効果があったとされるので、書院は1920年夏に今度は研究スタッフを3班編成して、この救済方法と救済状況について実地調査に派遣し、この報告書を作成したとしている。
 ちなみにこの報告書は、救済状況と住民からの聞き取りなどの内容の5省分からなり、B5版、48頁で、調査をした2カ月後の1920年(大正9年)10月に刊行され、速報的な役割を果たそうとしている。
 ところで、書院はこの大旱魃に対して、恒例の大旅行調査とは別に書院学生をいくつかの班に編成し、現地を区分して調査に派遣したことは異例のことであり、この大旱魃に多大の関心を持ったことが分かる。しかも、書院生の調査の後、さらに書院の研究者までが班を構成して派遣したことはもっと異例である。普通であれば、書院生の調査でほぼ大旱魃の状況は理解できるはずだからである。大旱魃がさらに調査するに値するほどのレベルであったのか、あるいは他の理由があったのかは以下明らかになろう。
 注目することは、書院研究者が派遣した書院生の調査のあとに自分達も班編成を組み、現地に乗り込んだ異例な点であり、先発した書院生の調査結果になんらかの関心をもったのではないかということが推測される。そこで、書院生による調査とその記録について見てみる。

 3.書院生による大飢饉調査編成と調査コース

 4.各班による飢饉状況報告
 では、各班は各コースの中で飢饉の状況をどのようにとらえたのか。ここではデータによる報告書ではなく、日誌記録の中から彼らの観察や実感を抽出してみることから始める。

 5.第5班による飢饉記録と分析
 (1) 飢饉の記録
 (2) 大飢饉の相対分析
 イ) 不作は各地で見たし、一見飢饉状況に見えたが。
→ 北支は地味がやせ、収穫も多くない。貧民が食に苦労するのは毎年のことである。
今年が少し不作だったに過ぎない。
 ウ) 「飢饉救済飢饉救済」と叫ばれたではないか。
→ それは誰が叫んだのか。それは人々でも政府でもない。実際各地の役人たちはあまり飢饉と騒いではいなかった。それをあおったのは米国である。これが飢饉ならもっと早くから毎年救済をすべきである。ことさらに人道主義を標榜し、民国政府を、さらには各国までゆさぶった米国の野心的背景こそ明らかにすべきである。
 エ) 京漢線から見えた果てしない広涼とした原野は、旱害によるのではないか。
→ あの広漠たる原野は人も少ない。そこに豊かな作物が実ったとして、交通の不便さと少ない人口の中で、誰がそれを消費できるのか。不作は都市の物価を少し上げるだけで恐れるものではない。
 オ) 任邱河間県の間で沢山の移民をみたが、これは飢饉によるのではないか。
→ 例年より多いようだが、これも聞けば例年のことだという。必ずしも飢饉によるものではない。不作の他に群集心理で一人が動くと盲目的に見習う人々が現れ、移民を少し多く引き起こしたものだろう。飢饉飢饉、救済救済の大声に促されたものではなく、しかも貧民だけが移民となったのではないと思う。
 カ) ではなぜに飢饉の声がこんなに大きくなったのか。
→ 米国人の飢饉救済という大声に目を覚まされた政府と飢饉地方といわれた地方の衙問や有識者が、声の大きさに乗じて不作状況を改良すべく、さらに声を大きくして救済資金を集めようとし、官吏は私腹を肥やすチャンスと見たためだろう。
 ケ) 当時の新聞は直隷省と山東省の災民5千万人と報じられた。
→ 中国人は文章としては遠大だが、報知としては誇張しすぎている。その3分の1、4分の1でも多すぎるぐらいだ。現地でもそんな気配は見られなかったし、衙問へ行っても一向に要領は得なかった。救済法もじつに貧弱で話にならなかった。
 以上から、第5班の飢饉調査の結論は、騒がれるような「大飢饉」ではなく、例年より少し不作なだけであり、それを「大飢饉、大飢饉」と吹聴したのは米国であって、その声に地元の論調なども同調し、政府も仕方なく重い腰をあげ、地方政府の衙問はむしろこれを利益の機会ととらえ対応したとまとめている。

 6.東亜同文書院側の対応
 (1) 特別調査隊の編成と救済組織それでは、以上の報告を受けて5班を派遣した書院側はどのように対応したのであろうか。
 これについて第5班の記録に次のような面白い記事がみられる。前述したように第5班だけ調査旅行からの帰校が遅れた。そのため、「院長閣下もだいぶ我々の帰るのを待たれたそうだが、つい一昨日、他の班の報告を集めて「救済を要すべき人員2千万人」なる報告を持って帰国されたときいた。」と記し、ここでは2千万人の数字の妥当性には触れず、無事使命を果たし帰校出来たことに微笑が浮かんだと落ち着いている。
 いずれにせよ、根津院長は第4班までの報告を基に、大飢饉を事実と認め、2千万人の被災者という数字を日本へ伝え、日本からの援助を求めようとしたことが分かる。
 然るに、第5班の報告の結論は大飢饉ではなく、やや強めの不作だという。調査班を派遣し、遅ればせながらこの報告を最後に読んだ東亜同文書院研究部の大村、馬場両教授は、第4班までの報告との違いに唖然としたはずである。何の疑いもなく、2千万人という数字を根津院長に託したことの責任も痛感したことであろう。そして現地に通じている両教授は第5班の各反証をさもありなんと理解したのではなかろうか。そこで自分たち自らが現地に赴き、調査を行うことになったのであろう。まさに第5班の報告は、書院自体による現地調査の必要性を惹起させ、その実施まで実現させてしまったと言っていいであろう。そして、第5班の報告が、書院研究部を走らせ、こうして大騒ぎになったこの大旱魃、大飢饉が本当であるかの確認が行われることになったのである。
 こうして、巻頭で触れたように書院生派遣の翌年の1921年、7月と8月の期間に鈴木擇郎、藤井禎輔、城慶次、鶴見寿、和田宗二、藤野進らにより3班を編成し、被害の最重地域を踏査し、救済の方法、救済前後の状況を中心に報告書を作成することになった。その際、第5班の結論も意識したか、世人はこの飢饉は大惨でなく報道が誇大だという向きもあるが、これは地元の生活状態や貯蓄心を知らないためであり、またその救済は日本よりも容易だとするが、これは国民の先天的性質によるものだとした上で、古来よりたびたび飢饉の災害を受けてきた現地では、今回歴史に例をみない救済策が1年前から行われていることに注意し、今後の範になるものだ、としている(注28)。
 しかし、ここでは被害の確認調査は目的にはなっておらず、救援の在り方に中心が置かれている。おそらく、現地では第5班の指摘が当を得ていたことが分かり、一方、課題な救援が行われたことを知って、このような救援中心の調査目的とした(注29)のであろう。以下、簡単に調査結果を見てみる。
 (2) 救済会の活動
 当然ではあるが、今回の飢饉救済のための救済会組織が克明に調査されている(注30)。その数は30余り。その救済には米仏日がその中心で、民国政府を助け、民国在の外国人も協力している。とりわけ米国の救済資金は群を抜き、米国が中心になった国際統一救済会は約2000万元近く、米国が実質その半分以上近くを出資している。民国側も政府の賑務所が800万元余りを出資しているが米国の半分以下である。当然、民国側により多くの救済会が設立され、特に各地域の救済会が多い。しかし民国側の救済会の6割は、有名無実で出資をしていない。掛け声に応じて組織は作ったが、実際の活動はしていないことになる。切迫感はないと言えそうである。総じて言えば、米国を中心にした外国の救済会が中心的な役割を果たしたと言える。
 そんな中で、書院研究部の調査報告書はいくつかの救済会を取り上げている(注31)。たとえば、国際統一救済会は日英米仏の4カ国が呼びかけ、民国在の外国人もまきこんだ救済組織で、前述のように最大の義捐金を集めた。その配分地域は、直隷西部が約550万元、同じ東部は330万元、山東省180万元、河南省370万元、山西省242万元、陝西省106万元、甘粛省190万元となり、そのほか食糧5万トンの直接配分も地域単位ごとに行われた。保定府1.5万トン、正定府1.1万トン、定州7千トン、順徳府6千トン、大名府7千3百トンなどであり、飢饉の厳しいと思われるところに集中している。一方、救済金は直隷省の場合、各県ともほとんどが道路の改修費用で、貯水池や井戸など水周りの整備は3分の1にとどまっている。
 日支実業協会の臨時北支那救済事業では、北京、天津、済南の領事への送付金30万円、東洋拓殖、東満州鉄道、朝鮮銀行花の日会、東洋婦人会から23万円余り、ほか10万円の計約60万円が集まり、河南や陝西、直隷、山西各省そして北京、天津の義賑会、通州や北京、鄭州、天津ほか各地の施療所、各地の災童や災民収容所、通県の2つの施粥所、黒竜江省への移民支援金、その他で銀での支払いといったように、全体としてはきめ細かい。
 また、米国赤十字社山東、直隷、山西、河南の4省と省間を結ぶ900マイルあまりの道路建設に救済事業を当てている。他の組織のような直接的な救済ではなく、インフラ整備である。前述の国際統一救済会とは棲み分けをしているように見えるが、これは米国だけの資金であり、そこに米国の利権がからむとすれば、第5班の報告が言及した米国の「飢饉救済」という、大声の本来の狙いがここにあったのかもしれない。それに感付いたように思われる第5班のメンバーは極めて優れていたと言えそうである。
 では民国政府の救済はどうだったのか。資金は海関の付加税借款や各省各種の賑災公債、各救済団体からの寄付金や日本からの金3万円などで、約850万元、うち半分が海関の付加税借款が占めた。それらを華北の関係省に配分し、その中では日本の金もかなり配分されている。そのほか鉄道敷設を中心に、郵便や電信にも配分しており、公的なインフラ整備に援助され、第5班の報告が言及するように声をより大にする地方の官吏の私腹化への可能性は大きい。鉄道敷設では甲府の人数や雇用状況も取り上げている。
 そのほか各地の民間救済会の種もみの配分など、地域密着型の救済事業も紹介している。 以上から、東亜同文書院研究部の調査目的の中心が分かり、書院生達の調査を補充する形になった。
 (3) 住民からの聞き取り調査
 今回の東亜同文書院研究部のもう一つの調査は、現地住民に対する旱害への対応についての聞き取りであった。そしてこれは多分に派遣された書院生の調査、とくに第5班と重なる部分であり、それこそ、第5班の報告が研究部にこのような確認の現地調査をさせたと言える。
 現地での聞き取り調査はいくつかの項目からなっており、ここではそれらを順番に、しかも簡潔に紹介する。
 まず、今回の旱害に対する地元住民の対応は多様で、……

 飢饉の際、一体どの程度困窮したかについては、たとえば、樹木の芽や草根を食べるというが、それは貧民層の慣習であり、旱害のためではないこともわかった。臨清のような綿作地は住民が相当貯蓄しており、飢えることはなかった。そして、飢饉のときに発生する発疹チフスなどの流行病もなく、一部地域でコレラの発生を見たが、病気の死亡率にも変化はないこともわかった。また病気の発症状況も例年と変わらず、施療所での患者のデータから、旱魃が直接農民の衛生状態に影響してはいないとも判定している。ただ、草が不足し車馬の運賃が高くなったことはあった。物価の問題は、このような時に穀物を安く販売すれば多くの問題が解決すると提案している。
 飢饉のときに土匪の出没が社会不安をもたらすが、そのような地域でも土匪は回族が多く、地元民が加わるのはアヘンを吸う連中ぐらいであるため、被害はそれほど広がらないという状況も理解された。
 全体には、旱害によって麦価格が高騰したために地域経済が落ち込み、それによってまだ回復に時間がかかる面もあり、それが工業や商業に影響しているところもあるという。
 そんな中で子供たちは学校へ行けなくなり、わずかだが廃校になった学校も出たという。しかし外国、特にキリスト教会の教育支援は目ざましく、多くの子供が教育を続けられた点が注目された。戦前におけるキリスト教会の活動がかなり農民からも支持されていたことをうかがわせる。
 一方、県知事など地方の官吏は全く飢饉の対策すら考えてもいないケースが多かった。当然、救済策などを講じるノウハウさえないと判断された。もちろん、政府は外国からの支援事業からの刺激と世論の政府批判によって重い腰を上げ、一部は政府による食糧や衣服の供与に感謝した災民もいたが、全体にその救済額は少なく、しかも官吏による義捐金の搾取や奸商を利用して賄賂をむさぼることなども知られ、効果をあげていないと判断している。
 そのような中、一般的には農民たちは自分で身を守り、これまでの困難な経験を生かし、政府や地方官吏を頼ることはせず、自衛の力で解決してきたのであるとしている。
 (4) まとめ
 報告書には、まとめの章がないが、各項目を検討する中でまとめ的に言及されていることを引用すれば次のようになる。
 「我等経過したる各県につきて見るに今春の収穫は平均5~6分にして、甚だしきは3分作の所あり。若し昨年の不作を大飢饉とせば、今年も再び飢饉と言わざるべからず。しかも本年不作が何ら社会の注意を惹くなくして、昨年の不作のみがかく世人の注意を喚起するに至れる原因につき多少の疑いなき能わざるなり。」(注32)。
 つまり、現地調査の結果、昨年を中心とした「大飢饉」はそれほど大騒ぎするものではなかったこと、それなのに大騒ぎした理由についてはそれがなぜであったかを検討する必要があること述べ、第5班が指摘したように、調査の結果、米国が先導的に飢饉救済を唱え、しかも最も資金を提供したことも確認している。

 7.まとめ
 1920年の突然降って沸いたような華北を中心にした「大飢饉」は、日本も含め米国を中心とした国際的な支援事業の展開に、東亜同文書院もおそらく当初は一大事だと思い、その窮状を訴え、書院の経営母体である日本の東亜同文会へ連絡し、日本からの義捐金を大々的に集め、民国を支援しようと判断したように思う。急遽、書院生からなる5班をその調査に派遣し、最後に帰校する第5班の報告を待たず、第1~4班までの調査報告を基に、根津院長直々に東京へ向かい、2千万人が飢餓に苦しんでいる、と伝えたのはその表れであろう。もちろん、前述したよう日本はその後も救援の拠出金を送り、かなり貢献したことも事実である。
 しかし、1週間遅れて帰校した第5班は、3日間の謹慎まで命じられたが、その報告では、第4班までの報告とは違い、初めてみる飢饉関連と思われる諸事象を、初めてであるがゆえに、以前との比較や当該地域の慣習をふまえ、客観的、冷静に見て、適格な判断を下し、大騒ぎしている「大飢饉」の存在に疑問を呈した。
 この報告を遅ればせながら読んだ東亜同文書院の研究部・大旅行研究室のスタッフは、おそらく頭を抱えたに違いない。書院生の現地をふまえた「大飢饉」への反証は十分検討の余地があったからであろう。そこで、スタッフたち自らが現地へ入り、国際的な救済事業の展開を克明に調査し、さらに現地の組織や住民からの聞き取りにより、第5班の判断の裏づけを行う形で「大飢饉」なる実態に迫ったのである。
 その結果を一言で言えば、1920年の飢饉は、例年の不作レベルがやや大きかった程度であったと判断している。これにより、書院は大きく誤った情報を出さずにその見識が守られたと言っても過言ではない。
 第5班の書院生の報告は、書院研究部の報告書よりさらに先を読んでいる。米国が先導したことは書院研究部の報告書も認めている。いわば第5班の報告内容の追認である。ではなぜ米国なのかは書院研究部の報告書は言及していない。いや言及を避けていると言った方が正しいだろう。なぜなら、書院研究部の救済事業費の内訳検討の中で、米国だけの赤十字社の支援金は殆どが「大飢饉」の発生地だとされた華北での鉄道新設に投資させているところまで明らかになっているからである。これは本来の赤十字社の緊急支援事業としては、目的からずれていると言えるだろう。
 第5班は、この米国により拡大した飢饉救済事業の先導的方法に、米国の思惑があるのではないかと言及している。その思惑こそ、「大飢饉」という大声を出し煙幕を張ることにより、米国の利権が確実に確保されるであろうこの華北の鉄道網の新設、道路網整備を確保したことにあったと言える。ただ、書院の研究部はそれに気付きつつも、それが国際問題に絡むことを懸念し、そこまで明記しなかったということであろう。
 このように見てくると、書院自体は根津院長も乗り出したほどであるが、この「大飢饉」騒動にまきこまれたかどうかは今後調査する必要がある。しかし、少なくとも研究者の集団である書院研究部は自らの現地調査による報告の中で自重できたことは幸いであった。ただそれは紙一重のことであった。第5班の報告がなかったら、あるいは第5班が他の班のように短絡的であったなら、書院自体も「大飢饉」騒動に巻き込まれ、米国のお先棒をかつぐことになったに相違ない。あらためて第5班の調査報告が書院研究部を走らせたのである。そこに書院生の報告の価値を確認できよう。
 ところで、書院研究部は、ある種の緊急対策として、例年の大旅行実施の時期に病気などでその年の大旅行に参加できなかった書院生を5班に組織して、秋に「大飢饉」地域の調査をさせるという親心を示した。期間は20日程度であるが、現地へ入る日数もあり、実際に現地での滞在は1週間あるかないかほどであった。しかも滞在は少なく、ほとんど移動の観察調査であった。おそらく、書院の研究部は外から響いてくる「大飢饉・救済」の大声の中、それを信じ、調査旅行が初めての書院生でも、現地へ入れば、旱害と飢饉はすぐわかり、その報告には疑いがないと思った筈である。第4班までの報告はまさにその期待通りであったのだろう。しかし、日誌を克明に読むと、飢饉に触れてないケースもあり、どうせ飢饉だろうという先入観によるいい加減さもある。それでも飢饉が結論だとみなされたのだろう。
 ところが、第5班だけは違っていた。当初から予定外の北京にも立ち寄り、それでいて好奇心と広い関心を持ち、まじめに北京でも調査を進めている。結果的に他の班より10日近く調査日程が延びたが、これが班員の考察力を高めたと言える。つまり、書院研究部の先入観にとらわれない、現地での思考が事象の根源を考察する余裕を生んだということである。もし、この時、例年通り大旅行調査を経験した書院生を再度派遣していたら、3カ月から6カ月の経験が、この第5班と同様の結論を引き出していたに違いないだろう。
 このように見てくると、大旅行の雰囲気の中で育った書院生も、その関心の度合いはあるにせよ、初めてのそれも1週間程度の旅行では実態はつかめないということであろう。戦後、文化大革命当時やその前後、熱烈歓迎で2週間ほど訪中し、帰国後に中国事情を書いた研究者のレポートは全く使えないし、使えないことの証拠にしかならないということは、今日とは事情が違うとはいえ、同様のことであり、肝に命ずべきであろう。しかし、その程度の調査旅行でレポートを書く例は今も多い。この「大飢饉」騒動は他山の石とするよう研究者として心したい。
 なお最後に、筆者の方からこの飢饉について若干の補足をしておく。民国側の史料ではこの大旱魃はどのように記録されたのであろうか。
 書院研究部による調査報告の中に、天津の流民の報告があり、それによると、1920年、天津には最初10万人の流民がおしよせたが、 日本領事館の救済で、1921年1月には6万人へ減少、内4万人は帰卿、1万人は黒竜江省方面へ移民、残る1万人が施療所に滞在しているとしている。
 一方当時、天津で社会活動をしていた民国人馬千里は、その記録の中で、1920年に天津周辺を襲った蝗害と旱害、そして兵災で人々の生活が破壊され、目に余る惨状が生じ、天津駅付近は難民であふれ、折からの寒さと飢えで病気の発生が懸念されるとし、自らの会議で、直隷義賑会、災民救済会、紅十字会、基督教連合会の協力を要請しようとした、と記している。そして、この時の難民は主に自然災害から引き起こされているが、人々の生活の困窮は相次ぐ軍閥戦争、軍閥体制による影響が大きいとしている。この馬千里によるこの「飢饉」については民国側からの貴重な指摘であり、人による影響、つまり人災を指摘している(注33)。なお、これに関連して、折からの21か条などの問題で、抗日感情が高まる中の1923年、日本に関東大震災が起こり、天津の紅十字会や天津華洋義賑会、日本奇災救済会など、また他の都市でも諸団体が救助活動を始めたとしている。その実際については課題だが、抗日の感情と日本救助活動をどう見るかという問題については、その背景に、1920年のこの「大飢饉」時の前述した天津領事館の救助活動など、広く日本からの救済活動とその効果が人々の記憶のなかに継続していた面も大きかったのではないかと思われる。
 また、1920年よりも20年後であるが、天津測……。
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💖23)─3─反天皇派ユダヤ人の東條批判。中国・韓国に告ぐ「靖国神社に戦犯は祀られていない」。〜No.96  

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ユダヤ人の、
 多数派は反日派として、反天皇・反靖国神社で、昭和天皇東條英機松岡洋右松井石根らをホロコーストを行ったヒトラーナチス・ドイツと同罪として、激しい言葉で非難し、口汚く罵っている、
 少数派は知日派として、親天皇・親靖国神社で、ヒトラーナチス・ドイツホロコーストから助けてくれた昭和天皇東條英機松岡洋右松井石根らに感謝の言葉を述べている。
   ・   ・   ・   
 世界はもちろん日本国内でも、戦前の軍国主義者・天皇主義者・人種差別反対派、反戦平和主義者らの死を覚悟し命を捨てて行った人道貢献・平和貢献を認めない。
   ・   ・   ・   
 現代日本には反天皇反日本的風潮が蔓延している。
 その象徴が、「あいちトリエンナーレ2019」における表現の自由問題である。
 昭和天皇は、戦争犯罪者として戦争責任が厳しく問われ、日本で最も嫌われている天皇である。
   ・   ・   ・   
 反日の中国・韓国・北朝鮮そして反天皇の国際報道機関は、昭和天皇ヒトラーと同罪の極悪人と認定し、その非人道的犯罪を絶対に許さない。
   ・   ・   ・   
 2014年1月26日 SankeiBiz EXSANKEI EXPRESS
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 【軍事情勢】心外なユダヤの「東條批判」
 1940(昭和15)年9月27日、東京・麹町の外相官邸で開かれた「日独伊三国同盟」締結祝賀会に臨んだ東條英機陸相(当時、軍靴姿の中央)。同盟は同盟として、一方で東條はユダヤ人の痛みに情けをかけていた。乾杯の音頭を取っているのは松岡洋右外相。
 《安倍晋三首相(59)や閣僚が、アジアの(ドイツ指導者アドルフ)ヒトラー(1889~1945年)である東條英機陸軍大将(首相/1884~1948年)らA級戦犯を祀(まつ)る靖國(やすくに)神社を参拝している》
 1月21日付イスラエル紙に載った中国大使の寄稿だ。歴史認識が間違いと認識しながら世界中で繰り返す猟奇的謀略で、毎回反論せねばならぬ。一方で2013年12月末、ユダヤ系団体サイモン・ウィーゼンタール・センター(本部・米国)の非難声明は憤るより悲しかった。曰(いわ)く-
 「亡くなった人を悼む権利は万人のもの。だが、戦争犯罪や人道に対する罪を実行するよう命じたり、行ったりした人々を一緒にしてはならない」
 失望理由の一つは、ホロコーストユダヤ人大量虐殺)の記録保存や反ユダヤ主義監視を行い、国際的影響力を持つ組織なのに、正確な国際法制史を学んでいない?点だ。「人道に対する罪を実行するよう命じたり、行ったりした人々」は靖國にお祀りされていない。
 日独を同一視
 《人道に対する罪》は第二次世界大戦の独降伏後、ドイツ人を裁くため1945年8月8日、ニュルンベルク裁判の基本法・国際軍事裁判所憲章で初めて規定。(a)平和に対する罪(b)殺人と通例の戦争犯罪(c)人道に対する罪-が、国際軍事裁判所で所管する《犯罪》とされた。
 日本人を裁いた極東国際軍事裁判所条例でも、憲章にならい各各所謂(いわゆる)《ABC級犯罪》が定められた。しかし《人道に対する罪》は適用できなかった。勝者による敗者への復讐(ふくしゅう)劇でもあった極東国際軍事裁判ですら、連合国はドイツの如(ごと)き特定民族に対する絶滅意図をでっち上げるのが不可能だった。この点、ニュルンベルク裁判では、22被告の内16人が《人道に対する罪》で有罪になる。センターは日独を同一視しているのではないか。
 そもそも《人道》と《平和》に対する罪は、米国が1944年秋から1年に満たない短期で創り上げ憲章制定前にはない。戦争開始・遂行を犯罪とする《平和に対する罪》に至っては、米国/英国/中華民国が降伏を求め日本に突き付けたポツダム宣言(45年7月)時点で、犯罪とされていない。二罪とも慣習国際法として確立していなかったのだ。
 欧州大陸法系近代刑法は、実行時の合法行為を事後に定めた法令で遡(さかのぼ)り処罰することを禁ずる。《事後法の禁止=法の不遡及(ふそきゅう)》である。
極東国際軍事裁判所設立は、裁判9カ月以上前のポツダム宣言でうたった《俘虜(ふりょ)を虐待せる者を含む戦争犯罪人には厳重なる処罰を加へらるべし》が根拠。仮に罪を問うのならB級の《殺人と通例の戦争犯罪》だけなはず。実際、日中の左翼が「大日本帝國(ていこく)陸軍が中国人民を大量虐殺した」と捏造(ねつぞう)・粉飾を続ける、所謂《南京事件》について、南京攻略戦司令官をC級の《人道に対する罪》ではなくA級の《平和に対する罪》で起訴。しかも無罪となり、B級で有罪となった。
 「戦犯」自体も誤認
 所謂《戦犯》自体も誤認している。52年のサンフランシスコ講和条約発効を受け、日本は主権回復し《各級死亡戦犯》を《公務死》と認定した。条約では、裁判を牛耳った11カ国の過半数の同意を得られれば《戦犯》を赦免できると規定。外国の異論もなく、58年までに全員釈放となった。既述したが、もともと“C級戦犯”は存在せず、“AB級戦犯”も靖國にお祀りされていないということ。
 センターは人種・民族差別に対する帝國陸海軍の立ち位置も正しく復習・認識しなければならない。連合国は《人道に対する罪》を問えなかった、どころではない。日本は、迫害を逃れた万人レベルのユダヤ人を世界で助けた。例えば-
 35年に独施政下のユダヤ人は公民権を奪われ難民となり外国に逃れた。一説に数千人のユダヤ人が38年、シベリア鉄道で滿洲(まんしゅう)國近くのソ連にたどり着く。ソ連に入国拒否された難民は滿洲國入りを切望したが、滿洲國も拒む。滿洲國防衛を担う帝國陸軍・關東軍(かんとうぐん)の樋口季一郎少将(後に中将/1888~1970年)は、吹雪の中に立ち尽くす難民を見かね食料・衣類・燃料や加療を施した。さらに、滿洲國外務省や南滿洲鉄道(滿鉄)を説き、滿洲や上海租界への移動を周旋した。日独防共協定(1936年)を結び、日独伊三国同盟(40年)まで視野に入れていたドイツは断固抗議。樋口は關東軍参謀長時代の東條中将に呼ばれる。樋口は東條に「ヒトラーのお先棒を担ぎ弱い者いじめをすることが正しいと思われますか」と質(ただ)し、東條も受容した。滿鉄総裁が、後に外相として三国同盟に傾斜する松岡洋右(ようすけ、A級戦犯被告。未決中に病死/1880~1946年)だった点も興味深い。
 痛みに情けをかけた心根
 ユダヤ難民への入国ビザ発給国は著しく限られた。斯(か)かる状況下の39年以降、英米列強と日本による上海外国人居留地=共同租界の帝國海軍陸戦隊警備区も、ユダヤ神学生300人や1万8000人ものユダヤ難民のビザ無し入境を許している。
 ユダヤ難民の扱いでは、永世中立国スイスでさえ暗部を抱える。スイスはドイツとともに38年、ユダヤ人旅券にユダヤの頭文字《J》のスタンプ押印を義務付けた。キリスト教文化の根付くスイスには19世紀半ば以来、反ユダヤ主義が認められる。そこに、労働市場を難民に奪われる懸念やドイツの侵攻を恐れるスイス政府の意向が加わった。42年には、ユダヤ人を念頭に難民の国境引き離し政策を実施。多くのユダヤ人がスイス入国を果たせなかったが、出発地への帰還は死を意味した。
 人種差別も後押しした米国の対日強硬策を、ユダヤ人を通し打開する工作の一面もあったろう。だが、“A級戦犯”として絞首刑となった東條はじめ日本の軍人が、ドイツを含む欧米列強による蔑(さげす)みに悲憤し、ユダヤ人の痛みに情けをかけた心根(こころね)は紛れもない。
 もしユダヤ社会が、宗教観の違う日本に偏見を抱き、意図的に批判するなら大いなる矛盾だ。偏見こそ、ユダヤの敵ではないか。ユダヤ人を救ったのも、日本人のDNA=おおらかな宗教観故ではなかったか。
 ところで、イスラエルの中国武器市場のシェアは2位、韓国でも3位前後に陣取る。ただ、小欄はユダヤ社会が優しき武士(もののふ)の心を仇(あだ)で返し“算盤(そろばん)勘定”を優先したとは努努(ゆめゆめ)思わない。(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS)
   ・    ・   ・   
 2017年8月21日 産経ニュース「【野口裕之の軍事情勢】中国に告ぐ「靖国神社に戦犯は祀られていない」 韓国に告ぐ「枢軸国だった歴史を直視せよ」
 ユダヤ難民を助けた東條英機
 終戦の日を迎え雨の中、夕方になっても多くの参拝者が靖国神社を訪れた=8月15日、東京都千代田区(桐山弘太撮影)
 長崎県端島(通称・軍艦島)炭鉱を舞台にした韓国映画軍艦島》を筆者は観ていないが、鑑賞した学識経験者にストーリーを聞いて驚き、次いで腹を抱えた。映画では、《韓国光復軍》所属の要員が、独立運動の主要人物を救うため端島に潜入する、のだそうだ。韓国光復軍を歴史の表舞台で、輝かしく祭り上げようとする創造力は痛々しい限り。でも、超ムリ筋だ。理由は後述するが、ストーリーは次の様に展開する。
 軍艦島では強制連行された男たちが牢獄のような宿舎に詰め込まれ、貧しい食事と暴力を受けながら重労働を強いられる。事故が起きると、他の坑道を守るべく出口がふさがれ、朝鮮人労働者は見殺しにされる。家族連れの場合、女性・女児は遊郭で働かされる。無数の五寸釘が突き出た戸板に転がされ、死んでいく女性も出て来る…
 もう無茶苦茶&デタラメのオンパレードだ。けれども、映画ならウソ八百が許されると考えては、現実を見誤る。
 韓国側はユネスコ(国連教育科学文化機関)大使らを対象に上映会を開くなど、映画を対日プロパガンダに利用し、ナチス・ドイツによる《ユダヤ人大虐殺=ホロコースト》と二重写しにする悪意満載の「反日印象付け映画」に仕上げている。これも後述するが、大日本帝國永世中立国スイスも見捨てたユダヤ人を、同盟国ドイツと対立して尚、保護した。保護を断行した人物の中には、日本映画でさえ蛇蝎の如く描かれる東條英機・陸軍大将(首相/1884~1948年)もいた。
 まずは、映画に登場する韓国光復軍が、いかに活躍できなかったかの哀史より入る。
 韓国光復軍は1940年、中華民国=国民党政権の臨時首都・重慶にあった朝鮮独立を目指す亡命政府もどき「韓国臨時政府」の武装組織。ところが、動員計画は遅れ、創軍1年目の兵力は300人。米CIA(中央情報局)の前身で抵抗活動を支援するOSS(戦略諜報局)の協力の下、朝鮮半島内で潜入破壊活動を考えたが、日本降伏が先になった。「臨時政府」自体、能力的欠陥などが問題視され、連合・枢軸国双方が承認を拒んだ。
 韓国光復軍は韓国の教科書にも載るが、2013年の韓国光復軍創立73周年、韓国メディアは光復軍について講釈した。
 《英軍と連合して1944年のインパール戦闘をはじめ、45年7月までミャンマービルマ)各地で対日作戦を遂行した》
 枢軸国・韓国の「連合国なりすまし」
 韓国光復軍は《英軍と連合》できる規模も能力も地位も有していなかったが、なぜ歴史の粉飾・ねつ造に耽るのだろうか。
 朝鮮民族は、大東亜戦争(1941~45年)中から今に至るまで「連合国」を気取ってきたが、近代に入り日本と朝鮮は本格的に戈を交えてはおらぬ。戦前~戦中~戦後と、まともな対日ゲリラ抗戦も民族蜂起も起きていない。むしろ1910年に併合された朝鮮は枢軸国・大日本帝國として戦った。国際法上も実態上も、断じて連合国ではない。
 初代大統領・李承晩(1875~1965年)は長崎県対馬の「返還」要求と抱き合わせで、領土も画定する「サンフランシスコ講和条約署名国の資格がある」と1949年、米国に訴えた。戦勝国=連合国入りさせろ-とゴネたのだ。
 駐韓米大使は米政府に口添えした。ワケがある。韓国は在日朝鮮人の連合国民扱い=賠償を求めるなど、国際の法・常識を無視する数多の無理難題を吹っ掛けたが、日本は無論、米国もほぼのめぬ内容だった。米国は無理難題を押さえ込むべく、韓国の署名要求を預かり、条約草案で一旦は締結国リストに加えた。
 しかし、韓国は日本と戦っていないと英国が異を唱え、朝鮮戦争(1950~53年休戦)を共に戦っていた米国も英国にならう。
 米国は《連合国共同宣言》への署名(1942年)がないとも指摘したが、韓国は執拗に食い下がった。共同宣言参加国は最終的に47カ国。全物的・人的資源を対枢軸国用戦力に充てる方針に同意していた。間の悪いことに、フィリピン独立準備政府や多くの亡命政府も参加していた上、連合国(United Nations)なる用語が宣言で正式採用された。
 交渉過程で韓国は、日本の講和条約締結を終始妨害し、島根県竹島の韓国編入すら主張した。結局、韓国が得たのは在朝鮮半島の日本資産移管のみ。講和会議へのオブザーバー参加も拒絶された。
 日本だった朝鮮は、欧州列強の植民地兵のごとく人間の盾にされもせず、日本軍将兵として戦った。朝鮮人の軍人・軍属は24万2000人以上。朝鮮人高級軍人の目覚ましい武勇に触発され、志願兵の競争率は62倍強に沸騰した。2万1000柱の朝鮮人英霊が靖国神社に祀られる。
 戦後も米国は、朝鮮を国家でなく日本だったと公認。日本の統治権を取り上げ直接軍政を敷き、韓国光復軍武装解除した。米国は38度線以北に陣取るソ連軍をにらみ(1)統治能力欠如(2)度し難い自己主張や激高しやすい民族性(3)偏狭な民族主義共産主義の跋扈…など、信頼性を欠く韓国に国家たる権能を与えたくなかったのだ。実際、「臨時政府主席」の金九(1876~1949年)は個人資格で〝帰国〟した。
 韓国は「日帝を打ち負かして独立を勝ち取った」のではない。終戦3年後、半島で統一国家建設をたくらむソ連に対抗した対日戦勝国・米国が韓国への長期信託統治を断念。米国に独立を大きく前倒ししてもらった棚ぼた式だった。
 金九も自伝で憂いた。
 《心配だったのは(大東亜)戦争で何の役割も果たしておらず、将来の国際関係において発言権が弱くなること》
 対日復讐裁判でもでっち上げに失敗した「人道に対する罪」
 続いて、冒頭述べた、ナチス・ドイツの蛮行《ユダヤ人大虐殺=ホロコースト》を大日本帝國に被せる、呆れた手口に反論する。本題に入る前に、ホロコーストと一体で論考される《人道に対する罪》から説明したい。
 戦後72年の終戦の日(15日)、安倍晋三首相は靖国神社に参拝せず、自民党総裁特別補佐を名代に、同党総裁名義の玉串料奉納で済ませたが、中国外務省報道官は案の定噛み付いた。
 「靖国神社侵略戦争に直接的責任があるA級戦犯を祀っている」
 「日本側の誤ったやり方に断固反対する」 
 中国共産党は、自らに都合のよい「猟奇的な日本の近代史」をねつ造し、世界中でタレ流すが、毎回反論せねばならぬ。中国大使のイスラエル紙寄稿(2014年1月)も然り。いわく-
 《安倍晋三首相や閣僚が、アジアの(ドイツ指導者アドルフ)ヒトラー(1889~1945年)である東條英機・陸軍大将らA級戦犯を祀る靖国神社を参拝している》
 国家に殉じた英霊に感謝し、お慰めする崇高な行いに、外国の顔色をうかがう必要は全くない。靖国神社への玉串料奉納で済ませようが、参拝を行おうが、言い掛かりを付けてくる中国への回答は靖国神社参拝以外にあり得ない。
 一方、ユダヤ系団体サイモン・ウィーゼンタール・センター(本部・米国)の非難声明(2013年12月)には、憤るより失望した。いわく-
 《亡くなった人を悼む権利は万人のもの。だが、戦争犯罪や人道に対する罪を実行するよう命じたり、行ったりした人々を一緒にしてはならない》
 失望理由の一つは、ホロコーストの記録保存や反ユダヤ主義監視を行い、国際的影響力を持つ組織なのに、正確な国際法制史を学んでいない?点だ。《人道に対する罪を実行するよう命じたり、行ったりした人々》は靖国神社にお祀りされていない。
 《人道に対する罪》は第二次世界大戦(1939~45年)におけるドイツ降伏後、ドイツ人を裁くため1945年8月8日、ニュルンベルク裁判の基本法・国際軍事裁判所憲章で初めて規定。(a)平和に対する罪(b)殺人と通例の戦争犯罪(c)人道に対する罪-が、国際軍事裁判所で所管する《犯罪》とされた。
 日本人を裁いた極東国際軍事裁判所条例でも、憲章にならいおのおの、いわゆる《ABC級犯罪》が定められた。が、《人道に対する罪》は適用できなかった。勝者による敗者への復讐劇ともいわれる極東国際軍事裁判で、「ドイツが行った特定民族絶滅と同じ意図を、日本が抱いていた」と、連合国はでっち上げようとしたが、不可能だったのだ。この点、ニュルンベルク裁判では、22被告の内16人が《人道に対する罪》で有罪になる。サイモン・ウィーゼンタール・センターは日独を同一視しているのではないか。
 そもそも《人道》と《平和》に対する罪は、米国が1944年秋から1年に満たない短期で創り上げ憲章制定前にはない。戦争開始・遂行を犯罪とする《平和に対する罪》に至っては、米国/英国/中華民国が降伏を求め日本に突き付けたポツダム宣言(1945年7月)時点で、犯罪とされていなかった。二罪とも慣習国際法として確立していなかったのだった。
 欧州大陸法系近代刑法は、実行時の合法行為を事後に定めた法令で遡り処罰することを禁ずる。《事後法の禁止=法の不遡及》である。
 極東国際軍事裁判所設立は、裁判9カ月以上前のポツダム宣言でうたった《俘虜を虐待せる者を含む戦争犯罪人には厳重なる処罰を加へらるべし》が根拠。仮に罪を問うのならB級の《殺人と通例の戦争犯罪》だけなはず。現に、日本のサヨク中国共産党と連動して「大日本帝國陸軍が中国人民を大量虐殺した」とねつ造・粉飾をやめない、いわゆる《南京事件》について、南京攻略戦司令官をC級の《人道に対する罪》ではなくA級の《平和に対する罪》で起訴。しかも無罪となり、B級で有罪となった。
 いわゆる《戦犯》自体も誤認している。1952年のサンフランシスコ講和条約発効を受け、日本は主権回復し《各級死亡戦犯》を《公務死》と認定した。条約では、裁判を牛耳った11カ国の過半数の同意を得られれば《戦犯》を赦免できると規定。外国の異論もなく、58年までに全員釈放となった。既述したが、もともと〝C級戦犯〟は存在せず、〝AB級戦犯〟も靖国神社にお祀りされていないということ。
 連合国は《人道に対する罪》を問えなかった、どころではない。大日本帝國は、迫害を逃れた万人レベルのユダヤ人を世界中で助け続けた。例えば-
 1935年にドイツ施政下のユダヤ人は公民権を奪われ難民となり外国に逃れた。一説に数千人のユダヤ人が38年、シベリア鉄道で滿洲國近くのソ連にたどり着く。ソ連に入国拒否された難民は滿洲國入りを切望したが、滿洲國も拒む。
 滿洲國防衛を担う帝國陸軍・關東軍の樋口季一郎・少将(後に中将/1888~1970年)は、吹雪の中に立ち尽くす難民を見かね食料・衣類・燃料や加療を施した。さらに、滿洲國外務省や南滿洲鉄道(滿鉄)を説き、滿洲や上海租界への移動を周旋した。
 日独防共協定(1936年)を結び、日独伊三国同盟(40年)まで視野に入れていたドイツは断固抗議。抗議を受け、樋口は關東軍参謀長時代の東條英機・中将に呼ばれる。樋口は東條に「ヒトラーのお先棒を担ぎ弱い者いじめをすることが正しいと思われますか」と質し、東條も受容した。
 ユダヤ難民移動を担った滿鉄の総裁が、後に外相となり三国同盟に傾斜する松岡洋右A級戦犯被告。未決中に病死/1880~1946年)だった歴史の一コマも興味深い。
 ユダヤ難民への入国ビザ発給国は著しく限られた。かかる状況下の1939年以降、英米列強と日本が管轄する上海外国人居留地=共同租界の帝國海軍陸戦隊警備区も、ユダヤ神学生300人や1万8000人ものユダヤ難民のビザ無し入境を許している。
 ユダヤ難民の扱いでは、永世中立国スイスでさえ暗部を抱える。スイスはドイツとともに1938年、ユダヤ人旅券にユダヤの頭文字《J》のスタンプ押印を義務付けた。キリスト教文化の根付くスイスには19世紀半ば以来、反ユダヤ主義が認められる。そこに、労働市場を難民に奪われる懸念やドイツの侵攻を恐れるスイス政府の意向が加わった。42年には、ユダヤ人を念頭に難民の国境引き離し政策を実施。多くのユダヤ人がスイス入国を果たせなかったが、出発地への帰還は死を意味した。
 大日本帝國にとって、人種差別も後押しした米国の対日強硬策を、ユダヤ人を通し打開する工作の一面もあったろう。ただ、〝A級戦犯〟の汚名を着せられ絞首刑となった東條はじめ日本の軍人が、同盟国ドイツを含む欧米列強による蔑みに悲憤し、ユダヤ人の痛みに情けをかけた心根は紛れもない。
 靖国神社には、かくも優しき武士(もののふ)たちがお祀りされている。中国と韓国の日本に向けられた想定外の憎悪に、英霊もこんな調子で戸惑っておられよう。
 「中国共産党軍は逃げてばかり。ロクに戦いもせず逃げ回っていたはずだが…」
 「朝鮮の人は共に戦った同胞。戦後、一旦帰国し、再び来日した人もおびただしい数にのぼると聞いた。なのになぜ、戦後随分たって反日に急変したのか…」
   ・   ・   ・   
 2018年9月3日 産経新聞「【野口裕之の軍事情勢】同じ過ち犯す中国 「C級戦犯」は存在せず「AB級」も靖国にお祀りされていない
 ユダヤ難民を助けた東條英機
 今年の終戦の日は昨年の雨天とは異なり、日陰を探すのに苦労したが、夕方になっても多くの参拝者が靖国神社を訪れていた風景は同じだった。大日本帝國陸海軍の軍装に身を包む若い日本人も例年同様、少なくなかった。保守層の間でも、帝國陸海軍の軍服を着る若き日本人には賛否両論があるが、わが国は自由と民主主義の国であって、軍服姿での参拝は本人の選択だ。ところが、帝國陸海軍の軍服を着ると拘束される国がある。
 中国では2月、南京戦の激戦地=紫金山で日本軍の軍服を着て記念撮影したとして、20代の男性2人が拘束された。帝國陸海軍のコスプレ愛好者や、日本文化を称賛する余りに中国社会を卑下する中国人の出現は「精日=精神的日本人」現象と呼ばれ、中国当局が批判を強めている。中国版ツイッター《微博》に「安倍(晋三)首相はおれのおやじだ」などと書き込んだ、安徽省馬鞍山市の18歳男性も8月、警察に拘束された。
 中国江蘇省南京市の人民代表大会(市議会に相当)常務委員会では8月、帝國陸海軍々人のコスプレの撮影や、中国側が宣伝する虚構「南京大虐殺」への異論などを禁止する条例案が提出された。条例案は《組織や個人が南京大虐殺の史実を歪曲・否定》する言動を禁止。南京事件をめぐり中国側が主張する「犠牲者30万人」は、日本側の研究では根拠のない異常に誇張された数字との見解が定着したが、この種の議論自体が処罰の対象となる。条例は南京市外でも有効とされたり、外国人ジャーナリストも対象となったりする可能性がある。
 従って、日本にあこがれる中国の「精日」が帝國陸海軍の軍装姿で靖国を参拝したら、中国共産党はどんな反応を見せるだろうか?と想像を膨らませてしまった。もちろん、英霊の間でも、保守層の間でも、中国人が帝國陸海軍の軍服を着て靖国神社の境内を歩くことに賛否両論があるに違いないが、少なくとも中国共産党が腰を抜かすシーンを想像する。
 A級とC級戦犯は違法な事後法で罰せられた
 何しろ終戦の日安倍晋三首相が今年も期待を裏切り参拝をせず、6年連続玉串料奉納で済ませ、国会議員が参拝しただけで、中国外務省の陸慷報道局長は、靖国神社極東国際軍事裁判東京裁判)の「A級戦犯」を合祀していると指摘。「日本の誤ったやり方に断固反対する」とする抗議声明を発表した。
 中国共産党は、自らに都合のよい「猟奇的な日本の近代史」を捏造し、世界中でタレ流すが、毎回反論せねばならぬ。中国大使のイスラエル紙寄稿(2014年1月)も然り。いわく-
 《安倍晋三首相や閣僚が、アジアの(ドイツ指導者アドルフ)ヒトラー(1889~1945年)である東條英機・陸軍大将(1884~1948年)らA級戦犯を祀る靖国神社を参拝している》
 国家に殉じた英霊に感謝し、お慰めする崇高な行いに、外国の顔色をうかがう必要は全くない。靖国神社への玉串料奉納で済ませようが、参拝を行おうが、言い掛かりを付けてくる中国への回答は靖国神社参拝以外にあり得ない。
 そもそも《人道に対する罪を実行するよう命じたり、行ったりした人々》は靖国神社にお祀りされていない。中国共産党は故意か学習不足かは判然としないが、同じ過ちを頻繁に犯す。
 《人道に対する罪》は第二次世界大戦(1939~45年)におけるドイツ降伏後、ドイツ人を裁くため1945年8月8日、ニュルンベルク裁判の基本法・国際軍事裁判所憲章で初めて規定。(a)平和に対する罪(b)殺人と通例の戦争犯罪(c)人道に対する罪-が、国際軍事裁判所で所管する《犯罪》とされた。
 日本人を裁いた極東国際軍事裁判所条例でも、憲章にならい各々、いわゆる《ABC級犯罪》が定められた。けれども《人道に対する罪》は適用できなかった。勝者による敗者への復讐劇ともいわれる極東国際軍事裁判で「ドイツが行った特定民族絶滅と同じ意図を、日本が抱いていた」と、連合国はでっち上げようとしたが、不可能だったのだ。この点、ニュルンベルク裁判では、22被告の内、16人が《人道に対する罪》で有罪になる。
 《人道》と《平和》に対する罪は、米国が1944年秋から1年に満たない短期で創り上げ憲章制定前にはない。戦争開始・遂行を犯罪とする《平和に対する罪》に至っては、米国/英国/中華民国が降伏を求め日本に突き付けたポツダム宣言(1945年7月)時点で、犯罪とされていなかった。二罪とも慣習国際法として確立していなかったのだった。
 欧州大陸法系近代刑法は、実行時の合法行為を事後に定めた法令で遡り処罰することを禁ずる。《事後法の禁止=法の不遡及》である。
 極東国際軍事裁判所設立は、裁判9カ月以上前のポツダム宣言でうたった《俘虜を虐待せる者を含む戦争犯罪人には厳重なる処罰を加へらるべし》が根拠。仮に罪を問うのなら、B級の《殺人と通例の戦争犯罪》だけなはず。現に、日本のサヨク中国共産党と連動して「大日本帝國陸軍が中国人民を大量虐殺した」と捏造・粉飾をやめぬ、いわゆる《南京事件》について、南京攻略戦司令官をC級の《人道に対する罪》ではなくA級の《平和に対する罪》で起訴。しかも無罪となり、B級で有罪となった。
 いわゆる《戦犯》自体も誤認している。1952年のサンフランシスコ講和条約発効を受け、日本は主権回復し《各級死亡戦犯》を《公務死》と認定した。条約では、裁判を牛耳った11カ国の過半数の同意を得られれば《戦犯》を赦免できると規定。外国の異論もなく、58年までに全員釈放となった。既述したが、もともと“C級戦犯”は存在せず、“AB級戦犯”も靖国神社にお祀りされていないということ。
 連合国は《人道に対する罪》を問えなかった、どころではない。大日本帝國は、迫害を逃れた万人レベルのユダヤ人を世界中で助け続けた。例えば-
 1935年にドイツ施政下のユダヤ人は公民権を奪われ難民となり外国に逃れた。一説に数千人のユダヤ人が38年、シベリア鉄道で滿洲國近くのソ連にたどり着く。ソ連に入国拒否された難民は滿洲國入りを切望したが、滿洲國も拒む。
 滿洲國防衛を担う帝國陸軍・關東軍の樋口季一郎・少将(後に中将/1888~1970年)は、吹雪の中に立ち尽くす難民を見かね食料・衣類・燃料や加療を施した。さらに、滿洲國外務省や南滿洲鉄道(滿鉄)を説き、滿洲や上海租界への移動を周旋した。
 日独防共協定(1936年)を結び、日独伊三国同盟(40年)まで視野に入れていたドイツは断固抗議。抗議を受け、樋口は關東軍参謀長時代の東條英機・中将に呼ばれる。樋口は東條に「ヒトラーのお先棒を担ぎ、弱い者いじめをすることが正しいと思われますか」と質し、東條も受容した。
 ユダヤ難民移動を担った滿鉄の総裁が、後に外相となり三国同盟に傾斜する松岡洋右A級戦犯被告。未決中に病死/1880~1946年)だった歴史の一コマも興味深い。
 ユダヤ難民への入国ビザ発給国は著しく限られた。かかる状況下の1939年以降、英米列強などと日本が管轄する上海外国人居留地=共同租界の帝國海軍陸戦隊警備区も、ユダヤ神学生300人や1万8000人ものユダヤ難民のビザ無し入境を許している。
 ユダヤ難民の扱いでは、永世中立国スイスでさえ暗部を抱える。スイスはドイツと共に1938年、ユダヤ人旅券にユダヤの頭文字《J》のスタンプ押印を義務付けた。
 キリスト教文化の根付くスイスには19世紀半ば以来、反ユダヤ主義が認められる。そこに、労働市場を難民に奪われる懸念やドイツの侵攻を恐れるスイス政府の意向が加わった。42年には、ユダヤ人を念頭に難民の国境引き離し政策を実施。多くのユダヤ人がスイス入国を果たせなかったが、出発地への帰還は死を意味した。
 大日本帝國にとって、人種差別も後押しした米国の対日強硬策を、ユダヤ人を通し打開する工作の一面もあったろう。ただ、“A級戦犯”の汚名を着せられ絞首刑となった東條はじめ日本の軍人が、同盟国ドイツを含む欧米列強による蔑みに悲憤し、ユダヤ人の痛みに情けをかけた心根は紛れもない。靖国神社には、かくも優しき武士(もののふ)たちがお祀りされている。
 中国の日本に向けられた憎悪に、英霊もこんな調子で戸惑っておられよう。
 「中国共産党軍は逃げてばかり。ロクに戦いもせず逃げ回っていたはずだが…」
 ところで、先述の陸慷報道局長は終戦の日、「日本側は侵略の歴史を直視し、深く反省し、実際の行動で『アジアの隣国や国際社会の信用』を得るよう求める」とも批判した。
 疲れる。『アジアの隣国』で国内の政権基盤強化を謀り「対日憎悪」をあおる国は中国+韓国+北朝鮮=「反日三兄弟」ぐらいで、他の『アジアの隣国』は日本を深く『信用』する。むしろ、『アジアの隣国や国際社会の信用』を得ていないのは、侵略性を伴う異常な軍事膨張をひた走り、世界中の先端技術を盗みまくる中国ではないか。
 怪しげな金融・経済システムで成り上がり、肥えた「国体」は反り返る余り、国際社会の軽蔑&警戒が見えぬようだ。」
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 現代の日本人は、世界が中国共産党ウイグル人・モンゴル人・チベット人少数民族に対するジェノサイド(民族絶滅)に反対しているのに、中国との貿易を優先して反対せず、それどころか虐殺される人々を中国共産党に配慮して助けもしない。
 「他人は他人、自分は自分」といった傾向は、リベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた次世代に強い。
 同じような事は、マルクス主義者である左翼・左派・ネットサハらの北朝鮮による日本人拉致事件に対する冷淡さ・薄情さにもいえる。
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 戦前の日本人がユダヤ人難民を助けたのは、民族中心神話・民族物語における天皇の御稜威・大御心と「八紘一宇」(日本書紀古事記)という大家族主義からであって、現代の日本人が好む軽薄にして薄っぺらな人道主義・人命主義、偽物に近いキリスト教価値観のヒューマニズム、自利自愛で自己満足にすぎないボランティア精神からではない。
 現代日本を支配している陰険・陰湿でおぞましい同調圧力・場の空気・空気圧・空気などは関係なく、それどころか、それらとは真逆にして相容れず対立する民族固有の大和心、正心、まごころ、清明心、良心、志、誠、日本精神、武士道、惻隠の情、惟神(かんながら)の道、その他である。
 現代の日本人とは違って、「もののあわれ」を知る昔の日本人は「止むに止まれず」にユダヤ人難民を助けた。
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 歴史の事実として、人類史には真実はなく、人間世界には正義はなく、人間社会には誠意など通じない。
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 非白人非キリスト教の民族国家日本は時効なき戦争犯罪国家であり、天皇を戴く日本民族には生存する限り戦争犯罪者の烙印が付いて回る。
 その証拠が、東京裁判であり、靖国神社問題であり、歴史教育問題などである。
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 昭和天皇ユダヤ人難民保護を望んでいたから、忠良な臣下・臣民、軍部・陸軍、日本民族は政府・外務省の決定に逆らってまで、ナチス・ドイツから逃げてきたユダヤ人難民に救いの手を差し伸べ、命を犠牲にしてまでホロコーストから守り通した。
 その象徴的存在が靖国神社である。
 反天皇・反靖国神社反日本の左翼・左派・ネットサハには、ユダヤ人難民救護を語る資格はない。
 それは、反ユダヤ派・差別主意者・陰謀論者の右翼・右派・ネットウヨクでも同様である。
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 昭和天皇立憲君主の元首として、親ユダヤ派、親米英派、親バチカン派、人種差別反対派、反戦平和主義者で、反ナチス・ドイツ派、反ヒトラー派、反ソ連派、反スターリン派、反共産主義派であった。
 昭和天皇は、天皇中心の国=国體を死を覚悟して体を張って守り抜いた。
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日本天皇日本民族・日本国の敵は国内外に数多く存在し、その為に孤立無援の劣勢に追い込まれている。
 特に、隣国の中国人と韓国人・朝鮮人はその急先鋒となっている。
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 松岡洋右の、東京会議、日独伊三国同盟、日ソ中立条約を正しく評価できない日本人には日中戦争から太平洋戦争までの激動期を理解できない。
 まして、昭和天皇靖国神社を批判・否定する日本人には日本の歴史及び日本民族の歴史を語る資格はない。
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 日本を身動きできないように十重二十重に縛り付けているのは、西洋のキリスト教史観であり、中華の儒教史観であり、左翼・左派・ネットサハのマルク主義史観である。
 国際法が認めた東京裁判史観とは、自虐史観より最悪な日本人極悪非道の凶悪犯人史観である。
 その証拠が、世界中に広まる第二回南京事件従軍慰安婦問題、徴用工問題などの非人道的事件である。
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 1550年代から1600年頃まで、日本人は、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人によって奴隷として、中国・東南アジア・南アジア・中南米・アフリカそしてヨーロッパなど世界中で売り買いされていた。
 中世キリスト教会とは、イエズス会ドミニコ会フランシスコ会などのカトリック教会系諸修道会であった。
 白人キリスト教徒商人の多くは、民族宗教ユダヤ教を捨てた改宗ユダヤ人であった。
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 日本陸軍は、第二次上海事変で始まった日中戦争で、ナチス・ドイツ、ドイツ軍の軍事支援を受けていたファシスト中国軍(中国国民党)と戦って勝利し、ソ連軍・共産主義勢力の援軍を得ていたファシスト中国軍(中国国民党)や中国共産党軍を撃破した。
 日本軍航空部隊は、太平洋戦争開戦以前から、中国の大空で、アメリカ陸軍航空部隊とソ連軍航空部隊の援軍を得ていた中国軍航空部隊と死闘を繰り広げて圧倒し制空権を支配した。
 イギリスとユダヤ系国際金融資本・世界的軍需産業は、戦争勝利の為にファシスト中国(中国国民党)や中国共産党に大量の軍需物資を提供していた。
 フランスは、植民地フランス領インドシナ仏印)をファシスト中国(中国国民党)や中国共産党への軍事物資輸送路として提供していた。
 多くのキリスト教会は、ファシスト中国(中国国民党)や中国共産党を精神的に支えていた。
 キリスト教朝鮮人テロリストは、日本人共産主義テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
 日中戦争とは、日本軍が一国で世界と戦う孤独な戦争であった。
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 日中戦争が長期化し泥沼化したのは、中国大陸が奥深く、蔣介石・ファシスト中国、毛沢東中国共産党そして中国国民が民族主義に目覚めて頑強に抵抗したからではない。
 日本軍は、戦争犯罪として武器を取って殺しに来る敵兵士を殺したが、人道貢献として武器を持たない溺れる中国人や飢える中国人は助けた。
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 軍国日本が勝利する為には、宣戦布告して、ファシスト中国(中国国民党)や中国共産党を戦争相手国と指定し、第三国や民間企業を戦闘支援行為から排除する事であった。
 それは同時に、石油・物資・食糧など外国依存度の強い日本も戦闘国家の指定を受けて世界で戦略物資の購入ができなくなる危険性を孕んでいた。
 それを承知で、松井石根日中戦争終結の為には「宣戦布告の発布」が不可欠として軍中枢部に意見具申していた。
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 松岡洋右は、ナチス・ドイツ三国同盟を、ソ連と中立条約を結んで、両国を日中戦争から切り離し、同盟国・友好国として独ソ戦争を回避させる外交努力をしなかった。
 日本軍は、イギリスとユダヤ系国際金融資本・世界的軍需産業による軍需物資を遮断する為に独立派ベトナム人の協力を得て北部仏印に進駐し、抵抗するフランス植民地軍を撃破して占領した。
 松岡洋右は、フランスの敵対行為を止めさせる為にビシー政権との友好関係を築いた。
 イギリスとユダヤ系国際金融資本・世界的軍需産業によるファシスト中国(中国国民党)や中国共産党への軍需物資供給の北部仏印ルートと香港ルートは、日本軍の侵略で遮断され、ビルマからの陸上ルートが完成するまでイギリス軍輸送機による空輸に頼るしかなかった。
 残る問題は、フランクリン・ルーズベルト大統領の承認で行われている陸軍航空部隊のボランティア部隊(正規パイロット)と航空支援部隊(正規整備兵)による軍事支援であった。
 だが、アメリカは日米交渉継続の為に松岡外相の罷免を要求した。
 日本政府は、アメリカとの戦争を避け太平洋の平和を守る為に傲慢で嫌われ者の松岡外相を罷免した。
 誰も、松岡洋右を弁護し庇う者はいなかった。
 昭和天皇も性格的に松岡洋右が好きではなかった。
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 日本の歴史は、松岡洋右を最低にして最悪な外務大臣であったという烙印を押し、その人間性も否定し、歴史的な犯罪者と認定している。
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 東条英機首相兼陸相は、インド独立支援とファシスト中国への軍需物資輸送遮断を目的としてインパール作戦を許可した。
 インパール作戦の失敗は、現地軍司令部の判断の甘さによる。
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 三国同盟が理解できない現代日本の知的エリートである政治家・官僚らや進歩的インテリである学者・専門家・研究者らは、外交音痴・外交下手以前の外交能力欠如である。
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 日本人にとって中国人・韓国人・朝鮮人は、友・友人ではないし、親友でもなければ、戦友にもならず、良き知人でもなく、敵であり、悪い知人である。
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