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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
中国や朝鮮は、日本の支援・救済・救援・救護に恩義を感じないし感謝もしない、消える事のない反日感情や日本憎悪から日本・日本人に対しては恩を仇で返すを事は正義と確信している。
愛国無罪、反日暴動は英雄行為として奨励されていた。
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大正3(1914)年~大正7(1918)年 第一次世界大戦。
大正4(1915)年 対華21箇条の要求。
大正6(1917)年 石井・ランシング協定。
大正6~7(1917~18)年 西原借款。
大正7~11(1918~22)年 シベリア出兵。
日本陸軍は、シベリアでポーランド人戦争孤児765人を赤軍(共産主義軍)から犠牲者を出しながら助け出した。
日本軍国主義者は、シベリアのロシア人戦災児童約800人をロシア人共産主義者から救出し、ヨーロッパまで船で送り届けた。
大正8(1919)年 朝鮮での3・1独立運動と義兵戦争。
中国での5・4排日暴動。
大正9(1920)年 日本社会主義同盟結成。
大正10(1921)年 ワシントン会議。ワシントン体制と日本包囲網。
大正11(1922)年 日本共産党結党。
日本人共産主義テロリストは、ロシア人共産主義者の支援を受けてキリスト教系朝鮮人テロリスト同様に裕仁皇太子を惨殺する為につけ狙った。
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中国大陸は地獄であった。
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ウィキペディア
東亜同文書院大学(とうあどうぶんしょいんだいがく、英語: The Tung Wen College)は、中華民国上海市に本部を置いていた日本の私立大学である。1939年に設置され、1945年に廃止された。大学の略称は東亜同文書院。
概観
大学全体
1899年(明治32年)、日本の東亜同文会によって中国(清朝)南京に南京同文書院が設立されていた。この南京同文書院の閉鎖に伴い上海へ移設されて、東亜同文書院大学の前身となる高等教育機関東亜同文書院が設置された。こうした設立経緯などの都合から、東亜同文書院を上海同文書院と通称することがある。
東亜同文書院の中心は商務科であったが、その他に政治科、農工科、中国人を対象とした中華学生部も一時設置されていた。1921年(大正10年)に専門学校に昇格し、1939年(昭和14年)12月には大学に昇格した。1943年(昭和18年)には専門部が付設された。1945年(昭和20年)9月、日本の敗戦に伴い学校施設を中国に接収され、同年閉学した。
建学の精神(校訓・理念・学是)
初代院長の根津一は東亜同文書院の創立にあたって「興学要旨」と「立教綱領」を定めた。興学要旨に「中外の實學を講じ、中日の英才を教え、一つは以って中国富強の本を立て、一つは以って中日揖協の根を固む。期するところは中国を保全し、東亜久安の策を定め、宇内永和の計をたつるにあり」とし、立教綱領に「徳教を経となし、聖賢経伝により之を施す。智育を緯とし、中国学生には日本の言語、文章と泰西百科実用の学を、日本学生には、中英の言語文章、及び中外の制度律令、商工務の要をさずく。期するところは各自通達強立、国家有用の士、当世必需の才を為すに有り」としたことは、陽明学的な実用主義的立場が重視されていたことを示す。東亜同文書院では儒教の経学を道徳教育の基礎にすえるとともに、簿記などの実用的な学問を重視した。
学風および特色
学生の大半は各府県が学費を負担する府県費生であったが、外務省や南満州鉄道、商社からの委託生ほか、私費生も一部受け入れていた。
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〔論文〕 1920年の華北大旱害をめぐって
―東亜同文書院生の調査旅行報告が東亜同文書院の調査を走らす―
東亜同文書院大学記念センターフェロー、地理学 藤田 佳久
1.はじめに
本論は、1920年に華北の広い範囲で生じ、一大救援活動が国際的にまで展開した「大旱魃」と「飢饉」をめぐって、書院側がそれを一大事ととらえ、急遽研究部が派遣した書院生による現地調査による生の報告が、「大旱魃」への疑問を示したため、書院の研究者による調査団を新たに組織し、派遣させ、はたしてそれが本当に「大旱魃」であったかどうかについて確認するにいたった経緯と結論を検討し、書院生による調査の観察記録の客観性の一端を明らかにする。
2.1920年の華北の「大旱魃」
この大旱魃について、1921年、東亜同文書院(以下書院)は珍しくもその調査報告書を刊行した(注1)。この大旱魃については、例年の大旅行とは別に書院生を現地へ派遣するという緊急体制をとるなど、大いなる関心を持ち、日本国政府や日本社会に救援のアピールを目指したものと思われる。実際、ひとつの調査班がまだ現地から帰校する前の1920年秋、他の調査班の報告をふまえ、根津院長みずからが「2千万人が飢饉状態」であるとの情報を伝えるべく上海から日本へ旅立っている。
この報告書の「序」によれば、この「大旱魃」について次のように記されている。少し長いが引用してみる。
「大正8年(1919年)より大正9年秋にわたる間の大旱魃によれる北支那の直隷、山東、河南、山西、陝西5省に於ける飢饉の状況は詳に世人に報道せられし所、我が書院に於いても昨大正9年10月数班の調査隊を派遣し実地に調査せし所を刊行せり。而して大正9年秋より大正10年春に至る間に前に未だ嘗て見ざる救援策おこなわれ、幸いにその惨害を救うを得たるは大に注意すべき所、茲に書院は10年の7月8月の間に3班の調査隊を派遣し被害の最重区域を踏査し救済の方法及救済前後の状況を編し、本報告をなすを得たり。
被害地方は5省の間に於いて凡そ284県に亘り、其の間の人口は精確に知る能はれども大率1750万人、戸数は250万戸と計られ、この間に救済を擁すべき者多大なりしと雖も前後の策能く行われしは、一般民生の幸福之に過ぎたるはなし。
北支那一帯の雨量は平時に於いても甚だ少なく、天津に於ける15年間の平均雨量は僅かに524糎にして我国の雨量に比しては3分の1或いは4分の1に当たるを見、之が為め北支に旱魃起り易く、其旱魃は古来膨大飢饉を惹起し、史に天旱民饉の筆を断たざる所以なり。斯かる歴史的飢饉に慣れたる地方なれば、一般人民は殆ど我国人の想像しがたき貯蓄心を有し、一朝の災害に際しては、多くは自ら生を保つべき術なきに非ず。此の民生の覚悟あると共に、今回は幸にも外国人及支那政府の救済其法を得、たつ交通機関も昔時に比し多いに進歩したる者ありし為、其平糶法のごとき古に比すれば大なる規模に行われ、満州其他の粟、高粱を直ちに災地に送り、之を貧民に施与するを得たれば惨害を防ぐ鮮少に非ざりき。
世人往往、北支飢饉は世に称せられたる如き大惨状に非ざりしを想い、報道の誇大なりしを説く者あれど、是れ支那の生活状況及び貯蓄心を知らざるに出つとすべく、支那の飢饉の救済は我国の飢饉に比すれば甚だ容易なるものありともすべく、救済の比較的に容易なるは是れ其の国民の先天的性質に起因する多きなり。古来廔惨害を惹起する北支飢饉に対し、今回は未だ嘗て歴史に見ざる救済策の行われしは注意するを要し、且つ将来の飢饉に対し範を垂るる者と称せざる得ざる也。
本報告は主として鈴木擇郎氏、藤井禎輔氏、城慶次氏、鶴見寿氏、和田宗二氏、藤野進氏、書誌の実地調査に基づく者なり。
大正10年9月20日
上海 東亜同文書院研究部(注2)」
以上の文面からすれば、1919年から1920年にかけて華北の5省に及ぶ広い範囲で大旱害があったこと、その報道が大きかったので反響も大きく、書院は1919年秋に書院生の現地調査班をいくつか送り出したこと、その頃から救済が行われ、かなり効果があったとされるので、書院は1920年夏に今度は研究スタッフを3班編成して、この救済方法と救済状況について実地調査に派遣し、この報告書を作成したとしている。
ちなみにこの報告書は、救済状況と住民からの聞き取りなどの内容の5省分からなり、B5版、48頁で、調査をした2カ月後の1920年(大正9年)10月に刊行され、速報的な役割を果たそうとしている。
ところで、書院はこの大旱魃に対して、恒例の大旅行調査とは別に書院学生をいくつかの班に編成し、現地を区分して調査に派遣したことは異例のことであり、この大旱魃に多大の関心を持ったことが分かる。しかも、書院生の調査の後、さらに書院の研究者までが班を構成して派遣したことはもっと異例である。普通であれば、書院生の調査でほぼ大旱魃の状況は理解できるはずだからである。大旱魃がさらに調査するに値するほどのレベルであったのか、あるいは他の理由があったのかは以下明らかになろう。
注目することは、書院研究者が派遣した書院生の調査のあとに自分達も班編成を組み、現地に乗り込んだ異例な点であり、先発した書院生の調査結果になんらかの関心をもったのではないかということが推測される。そこで、書院生による調査とその記録について見てみる。
3.書院生による大飢饉調査編成と調査コース
4.各班による飢饉状況報告
では、各班は各コースの中で飢饉の状況をどのようにとらえたのか。ここではデータによる報告書ではなく、日誌記録の中から彼らの観察や実感を抽出してみることから始める。
5.第5班による飢饉記録と分析
(1) 飢饉の記録
(2) 大飢饉の相対分析
イ) 不作は各地で見たし、一見飢饉状況に見えたが。
→ 北支は地味がやせ、収穫も多くない。貧民が食に苦労するのは毎年のことである。
今年が少し不作だったに過ぎない。
ウ) 「飢饉救済飢饉救済」と叫ばれたではないか。
→ それは誰が叫んだのか。それは人々でも政府でもない。実際各地の役人たちはあまり飢饉と騒いではいなかった。それをあおったのは米国である。これが飢饉ならもっと早くから毎年救済をすべきである。ことさらに人道主義を標榜し、民国政府を、さらには各国までゆさぶった米国の野心的背景こそ明らかにすべきである。
エ) 京漢線から見えた果てしない広涼とした原野は、旱害によるのではないか。
→ あの広漠たる原野は人も少ない。そこに豊かな作物が実ったとして、交通の不便さと少ない人口の中で、誰がそれを消費できるのか。不作は都市の物価を少し上げるだけで恐れるものではない。
オ) 任邱河間県の間で沢山の移民をみたが、これは飢饉によるのではないか。
→ 例年より多いようだが、これも聞けば例年のことだという。必ずしも飢饉によるものではない。不作の他に群集心理で一人が動くと盲目的に見習う人々が現れ、移民を少し多く引き起こしたものだろう。飢饉飢饉、救済救済の大声に促されたものではなく、しかも貧民だけが移民となったのではないと思う。
カ) ではなぜに飢饉の声がこんなに大きくなったのか。
→ 米国人の飢饉救済という大声に目を覚まされた政府と飢饉地方といわれた地方の衙問や有識者が、声の大きさに乗じて不作状況を改良すべく、さらに声を大きくして救済資金を集めようとし、官吏は私腹を肥やすチャンスと見たためだろう。
ケ) 当時の新聞は直隷省と山東省の災民5千万人と報じられた。
→ 中国人は文章としては遠大だが、報知としては誇張しすぎている。その3分の1、4分の1でも多すぎるぐらいだ。現地でもそんな気配は見られなかったし、衙問へ行っても一向に要領は得なかった。救済法もじつに貧弱で話にならなかった。
以上から、第5班の飢饉調査の結論は、騒がれるような「大飢饉」ではなく、例年より少し不作なだけであり、それを「大飢饉、大飢饉」と吹聴したのは米国であって、その声に地元の論調なども同調し、政府も仕方なく重い腰をあげ、地方政府の衙問はむしろこれを利益の機会ととらえ対応したとまとめている。
6.東亜同文書院側の対応
(1) 特別調査隊の編成と救済組織それでは、以上の報告を受けて5班を派遣した書院側はどのように対応したのであろうか。
これについて第5班の記録に次のような面白い記事がみられる。前述したように第5班だけ調査旅行からの帰校が遅れた。そのため、「院長閣下もだいぶ我々の帰るのを待たれたそうだが、つい一昨日、他の班の報告を集めて「救済を要すべき人員2千万人」なる報告を持って帰国されたときいた。」と記し、ここでは2千万人の数字の妥当性には触れず、無事使命を果たし帰校出来たことに微笑が浮かんだと落ち着いている。
いずれにせよ、根津院長は第4班までの報告を基に、大飢饉を事実と認め、2千万人の被災者という数字を日本へ伝え、日本からの援助を求めようとしたことが分かる。
然るに、第5班の報告の結論は大飢饉ではなく、やや強めの不作だという。調査班を派遣し、遅ればせながらこの報告を最後に読んだ東亜同文書院研究部の大村、馬場両教授は、第4班までの報告との違いに唖然としたはずである。何の疑いもなく、2千万人という数字を根津院長に託したことの責任も痛感したことであろう。そして現地に通じている両教授は第5班の各反証をさもありなんと理解したのではなかろうか。そこで自分たち自らが現地に赴き、調査を行うことになったのであろう。まさに第5班の報告は、書院自体による現地調査の必要性を惹起させ、その実施まで実現させてしまったと言っていいであろう。そして、第5班の報告が、書院研究部を走らせ、こうして大騒ぎになったこの大旱魃、大飢饉が本当であるかの確認が行われることになったのである。
こうして、巻頭で触れたように書院生派遣の翌年の1921年、7月と8月の期間に鈴木擇郎、藤井禎輔、城慶次、鶴見寿、和田宗二、藤野進らにより3班を編成し、被害の最重地域を踏査し、救済の方法、救済前後の状況を中心に報告書を作成することになった。その際、第5班の結論も意識したか、世人はこの飢饉は大惨でなく報道が誇大だという向きもあるが、これは地元の生活状態や貯蓄心を知らないためであり、またその救済は日本よりも容易だとするが、これは国民の先天的性質によるものだとした上で、古来よりたびたび飢饉の災害を受けてきた現地では、今回歴史に例をみない救済策が1年前から行われていることに注意し、今後の範になるものだ、としている(注28)。
しかし、ここでは被害の確認調査は目的にはなっておらず、救援の在り方に中心が置かれている。おそらく、現地では第5班の指摘が当を得ていたことが分かり、一方、課題な救援が行われたことを知って、このような救援中心の調査目的とした(注29)のであろう。以下、簡単に調査結果を見てみる。
(2) 救済会の活動
当然ではあるが、今回の飢饉救済のための救済会組織が克明に調査されている(注30)。その数は30余り。その救済には米仏日がその中心で、民国政府を助け、民国在の外国人も協力している。とりわけ米国の救済資金は群を抜き、米国が中心になった国際統一救済会は約2000万元近く、米国が実質その半分以上近くを出資している。民国側も政府の賑務所が800万元余りを出資しているが米国の半分以下である。当然、民国側により多くの救済会が設立され、特に各地域の救済会が多い。しかし民国側の救済会の6割は、有名無実で出資をしていない。掛け声に応じて組織は作ったが、実際の活動はしていないことになる。切迫感はないと言えそうである。総じて言えば、米国を中心にした外国の救済会が中心的な役割を果たしたと言える。
そんな中で、書院研究部の調査報告書はいくつかの救済会を取り上げている(注31)。たとえば、国際統一救済会は日英米仏の4カ国が呼びかけ、民国在の外国人もまきこんだ救済組織で、前述のように最大の義捐金を集めた。その配分地域は、直隷西部が約550万元、同じ東部は330万元、山東省180万元、河南省370万元、山西省242万元、陝西省106万元、甘粛省190万元となり、そのほか食糧5万トンの直接配分も地域単位ごとに行われた。保定府1.5万トン、正定府1.1万トン、定州7千トン、順徳府6千トン、大名府7千3百トンなどであり、飢饉の厳しいと思われるところに集中している。一方、救済金は直隷省の場合、各県ともほとんどが道路の改修費用で、貯水池や井戸など水周りの整備は3分の1にとどまっている。
日支実業協会の臨時北支那救済事業では、北京、天津、済南の領事への送付金30万円、東洋拓殖、東満州鉄道、朝鮮銀行、花の日会、東洋婦人会から23万円余り、ほか10万円の計約60万円が集まり、河南や陝西、直隷、山西各省そして北京、天津の義賑会、通州や北京、鄭州、天津ほか各地の施療所、各地の災童や災民収容所、通県の2つの施粥所、黒竜江省への移民支援金、その他で銀での支払いといったように、全体としてはきめ細かい。
また、米国赤十字社は山東、直隷、山西、河南の4省と省間を結ぶ900マイルあまりの道路建設に救済事業を当てている。他の組織のような直接的な救済ではなく、インフラ整備である。前述の国際統一救済会とは棲み分けをしているように見えるが、これは米国だけの資金であり、そこに米国の利権がからむとすれば、第5班の報告が言及した米国の「飢饉救済」という、大声の本来の狙いがここにあったのかもしれない。それに感付いたように思われる第5班のメンバーは極めて優れていたと言えそうである。
では民国政府の救済はどうだったのか。資金は海関の付加税借款や各省各種の賑災公債、各救済団体からの寄付金や日本からの金3万円などで、約850万元、うち半分が海関の付加税借款が占めた。それらを華北の関係省に配分し、その中では日本の金もかなり配分されている。そのほか鉄道敷設を中心に、郵便や電信にも配分しており、公的なインフラ整備に援助され、第5班の報告が言及するように声をより大にする地方の官吏の私腹化への可能性は大きい。鉄道敷設では甲府の人数や雇用状況も取り上げている。
そのほか各地の民間救済会の種もみの配分など、地域密着型の救済事業も紹介している。 以上から、東亜同文書院研究部の調査目的の中心が分かり、書院生達の調査を補充する形になった。
(3) 住民からの聞き取り調査
今回の東亜同文書院研究部のもう一つの調査は、現地住民に対する旱害への対応についての聞き取りであった。そしてこれは多分に派遣された書院生の調査、とくに第5班と重なる部分であり、それこそ、第5班の報告が研究部にこのような確認の現地調査をさせたと言える。
現地での聞き取り調査はいくつかの項目からなっており、ここではそれらを順番に、しかも簡潔に紹介する。
まず、今回の旱害に対する地元住民の対応は多様で、……
飢饉の際、一体どの程度困窮したかについては、たとえば、樹木の芽や草根を食べるというが、それは貧民層の慣習であり、旱害のためではないこともわかった。臨清のような綿作地は住民が相当貯蓄しており、飢えることはなかった。そして、飢饉のときに発生する発疹チフスなどの流行病もなく、一部地域でコレラの発生を見たが、病気の死亡率にも変化はないこともわかった。また病気の発症状況も例年と変わらず、施療所での患者のデータから、旱魃が直接農民の衛生状態に影響してはいないとも判定している。ただ、草が不足し車馬の運賃が高くなったことはあった。物価の問題は、このような時に穀物を安く販売すれば多くの問題が解決すると提案している。
飢饉のときに土匪の出没が社会不安をもたらすが、そのような地域でも土匪は回族が多く、地元民が加わるのはアヘンを吸う連中ぐらいであるため、被害はそれほど広がらないという状況も理解された。
全体には、旱害によって麦価格が高騰したために地域経済が落ち込み、それによってまだ回復に時間がかかる面もあり、それが工業や商業に影響しているところもあるという。
そんな中で子供たちは学校へ行けなくなり、わずかだが廃校になった学校も出たという。しかし外国、特にキリスト教会の教育支援は目ざましく、多くの子供が教育を続けられた点が注目された。戦前におけるキリスト教会の活動がかなり農民からも支持されていたことをうかがわせる。
一方、県知事など地方の官吏は全く飢饉の対策すら考えてもいないケースが多かった。当然、救済策などを講じるノウハウさえないと判断された。もちろん、政府は外国からの支援事業からの刺激と世論の政府批判によって重い腰を上げ、一部は政府による食糧や衣服の供与に感謝した災民もいたが、全体にその救済額は少なく、しかも官吏による義捐金の搾取や奸商を利用して賄賂をむさぼることなども知られ、効果をあげていないと判断している。
そのような中、一般的には農民たちは自分で身を守り、これまでの困難な経験を生かし、政府や地方官吏を頼ることはせず、自衛の力で解決してきたのであるとしている。
(4) まとめ
報告書には、まとめの章がないが、各項目を検討する中でまとめ的に言及されていることを引用すれば次のようになる。
「我等経過したる各県につきて見るに今春の収穫は平均5~6分にして、甚だしきは3分作の所あり。若し昨年の不作を大飢饉とせば、今年も再び飢饉と言わざるべからず。しかも本年不作が何ら社会の注意を惹くなくして、昨年の不作のみがかく世人の注意を喚起するに至れる原因につき多少の疑いなき能わざるなり。」(注32)。
つまり、現地調査の結果、昨年を中心とした「大飢饉」はそれほど大騒ぎするものではなかったこと、それなのに大騒ぎした理由についてはそれがなぜであったかを検討する必要があること述べ、第5班が指摘したように、調査の結果、米国が先導的に飢饉救済を唱え、しかも最も資金を提供したことも確認している。
7.まとめ
1920年の突然降って沸いたような華北を中心にした「大飢饉」は、日本も含め米国を中心とした国際的な支援事業の展開に、東亜同文書院もおそらく当初は一大事だと思い、その窮状を訴え、書院の経営母体である日本の東亜同文会へ連絡し、日本からの義捐金を大々的に集め、民国を支援しようと判断したように思う。急遽、書院生からなる5班をその調査に派遣し、最後に帰校する第5班の報告を待たず、第1~4班までの調査報告を基に、根津院長直々に東京へ向かい、2千万人が飢餓に苦しんでいる、と伝えたのはその表れであろう。もちろん、前述したよう日本はその後も救援の拠出金を送り、かなり貢献したことも事実である。
しかし、1週間遅れて帰校した第5班は、3日間の謹慎まで命じられたが、その報告では、第4班までの報告とは違い、初めてみる飢饉関連と思われる諸事象を、初めてであるがゆえに、以前との比較や当該地域の慣習をふまえ、客観的、冷静に見て、適格な判断を下し、大騒ぎしている「大飢饉」の存在に疑問を呈した。
この報告を遅ればせながら読んだ東亜同文書院の研究部・大旅行研究室のスタッフは、おそらく頭を抱えたに違いない。書院生の現地をふまえた「大飢饉」への反証は十分検討の余地があったからであろう。そこで、スタッフたち自らが現地へ入り、国際的な救済事業の展開を克明に調査し、さらに現地の組織や住民からの聞き取りにより、第5班の判断の裏づけを行う形で「大飢饉」なる実態に迫ったのである。
その結果を一言で言えば、1920年の飢饉は、例年の不作レベルがやや大きかった程度であったと判断している。これにより、書院は大きく誤った情報を出さずにその見識が守られたと言っても過言ではない。
第5班の書院生の報告は、書院研究部の報告書よりさらに先を読んでいる。米国が先導したことは書院研究部の報告書も認めている。いわば第5班の報告内容の追認である。ではなぜ米国なのかは書院研究部の報告書は言及していない。いや言及を避けていると言った方が正しいだろう。なぜなら、書院研究部の救済事業費の内訳検討の中で、米国だけの赤十字社の支援金は殆どが「大飢饉」の発生地だとされた華北での鉄道新設に投資させているところまで明らかになっているからである。これは本来の赤十字社の緊急支援事業としては、目的からずれていると言えるだろう。
第5班は、この米国により拡大した飢饉救済事業の先導的方法に、米国の思惑があるのではないかと言及している。その思惑こそ、「大飢饉」という大声を出し煙幕を張ることにより、米国の利権が確実に確保されるであろうこの華北の鉄道網の新設、道路網整備を確保したことにあったと言える。ただ、書院の研究部はそれに気付きつつも、それが国際問題に絡むことを懸念し、そこまで明記しなかったということであろう。
このように見てくると、書院自体は根津院長も乗り出したほどであるが、この「大飢饉」騒動にまきこまれたかどうかは今後調査する必要がある。しかし、少なくとも研究者の集団である書院研究部は自らの現地調査による報告の中で自重できたことは幸いであった。ただそれは紙一重のことであった。第5班の報告がなかったら、あるいは第5班が他の班のように短絡的であったなら、書院自体も「大飢饉」騒動に巻き込まれ、米国のお先棒をかつぐことになったに相違ない。あらためて第5班の調査報告が書院研究部を走らせたのである。そこに書院生の報告の価値を確認できよう。
ところで、書院研究部は、ある種の緊急対策として、例年の大旅行実施の時期に病気などでその年の大旅行に参加できなかった書院生を5班に組織して、秋に「大飢饉」地域の調査をさせるという親心を示した。期間は20日程度であるが、現地へ入る日数もあり、実際に現地での滞在は1週間あるかないかほどであった。しかも滞在は少なく、ほとんど移動の観察調査であった。おそらく、書院の研究部は外から響いてくる「大飢饉・救済」の大声の中、それを信じ、調査旅行が初めての書院生でも、現地へ入れば、旱害と飢饉はすぐわかり、その報告には疑いがないと思った筈である。第4班までの報告はまさにその期待通りであったのだろう。しかし、日誌を克明に読むと、飢饉に触れてないケースもあり、どうせ飢饉だろうという先入観によるいい加減さもある。それでも飢饉が結論だとみなされたのだろう。
ところが、第5班だけは違っていた。当初から予定外の北京にも立ち寄り、それでいて好奇心と広い関心を持ち、まじめに北京でも調査を進めている。結果的に他の班より10日近く調査日程が延びたが、これが班員の考察力を高めたと言える。つまり、書院研究部の先入観にとらわれない、現地での思考が事象の根源を考察する余裕を生んだということである。もし、この時、例年通り大旅行調査を経験した書院生を再度派遣していたら、3カ月から6カ月の経験が、この第5班と同様の結論を引き出していたに違いないだろう。
このように見てくると、大旅行の雰囲気の中で育った書院生も、その関心の度合いはあるにせよ、初めてのそれも1週間程度の旅行では実態はつかめないということであろう。戦後、文化大革命当時やその前後、熱烈歓迎で2週間ほど訪中し、帰国後に中国事情を書いた研究者のレポートは全く使えないし、使えないことの証拠にしかならないということは、今日とは事情が違うとはいえ、同様のことであり、肝に命ずべきであろう。しかし、その程度の調査旅行でレポートを書く例は今も多い。この「大飢饉」騒動は他山の石とするよう研究者として心したい。
なお最後に、筆者の方からこの飢饉について若干の補足をしておく。民国側の史料ではこの大旱魃はどのように記録されたのであろうか。
書院研究部による調査報告の中に、天津の流民の報告があり、それによると、1920年、天津には最初10万人の流民がおしよせたが、 日本領事館の救済で、1921年1月には6万人へ減少、内4万人は帰卿、1万人は黒竜江省方面へ移民、残る1万人が施療所に滞在しているとしている。
一方当時、天津で社会活動をしていた民国人馬千里は、その記録の中で、1920年に天津周辺を襲った蝗害と旱害、そして兵災で人々の生活が破壊され、目に余る惨状が生じ、天津駅付近は難民であふれ、折からの寒さと飢えで病気の発生が懸念されるとし、自らの会議で、直隷義賑会、災民救済会、紅十字会、基督教連合会の協力を要請しようとした、と記している。そして、この時の難民は主に自然災害から引き起こされているが、人々の生活の困窮は相次ぐ軍閥戦争、軍閥体制による影響が大きいとしている。この馬千里によるこの「飢饉」については民国側からの貴重な指摘であり、人による影響、つまり人災を指摘している(注33)。なお、これに関連して、折からの21か条などの問題で、抗日感情が高まる中の1923年、日本に関東大震災が起こり、天津の紅十字会や天津華洋義賑会、日本奇災救済会など、また他の都市でも諸団体が救助活動を始めたとしている。その実際については課題だが、抗日の感情と日本救助活動をどう見るかという問題については、その背景に、1920年のこの「大飢饉」時の前述した天津領事館の救助活動など、広く日本からの救済活動とその効果が人々の記憶のなかに継続していた面も大きかったのではないかと思われる。
また、1920年よりも20年後であるが、天津測……。
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