✨52)─2─外国国旗損壊罪に準じた日章旗に対する「国旗損壊罪」新設に賛成と反対。〜No.211 

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 2021年1月26日18:04 産経新聞「自民・高市氏ら「国旗損壊罪」国会提出要請 外国国旗と同等の扱いを
 自民党保守系の有志議員でつくる「保守団結の会」(保守の会)は26日、下村博文政調会長と党本部で面会し、日章旗を傷つける行為を罰する「国旗損壊罪」の新設を盛り込んだ刑法改正案を国会に再提出するよう申し入れた。下村氏は賛意を示し、議員立法として今国会に提出、成立を目指す方針を確認した。
 刑法には外国国旗の損壊や汚損などに関して「2年以下の懲役または20万円以下の罰金に処する」との規定がある一方、日本の国旗を損壊した場合の罰則は設けられていない。
 改正案をまとめた高市早苗政調会長(保守の会顧問)は記者団に「諸外国では自国の国旗損壊にかなり重い刑罰が科される」と指摘した上で「日本の名誉を守るという国家の使命を果たすには、外国国旗と日本国旗の損壊に関して同等の刑罰で対応することが重要だ」と語った。
 自民党は野党時代の平成24年に改正案を提出したが、同年に衆院が解散した影響もあって廃案となった。」
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 1月27日16:42 産経新聞「公明・竹内政調会長国旗損壊罪新設に「国民の自発的な意思が先」
 公明党の竹内譲政調会長は27日の記者会見で、自民党内に日章旗を傷つける行為を罰する「国旗損壊罪」の新設を盛り込んだ刑法改正案を国会に再提出する動きがあることに関し「国民の(国旗を尊重する)自発的な意思がまず広まっていくことが先ではないか」と述べ、慎重な考えを示した。
 自民は議員立法として今国会に提出する方針だが、竹内氏は「わが党で検討したことはない。党内で(今後の)検討をどうするかを含めてこれからだ」と述べた。」
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 1月27日17:07 産経新聞日章旗の毀損に罰 自民・下村氏「賛同する」
 自民党下村博文政調会長=19日午後、首相官邸(春名中撮影)
 自民党下村博文政調会長は27日の記者会見で、党保守系有志議員がつくる「保守団結の会」が今国会への提出を目指している、日章旗を傷つける行為を罰する「国旗損壊罪」の新設を盛り込んだ刑法改正案に「賛同する」と述べた。刑法には外国国旗の損壊などに関する罰則規定があるが、日本の国旗を損壊した場合の罰則は設けられていない。下村氏は「バランスを欠いている」と語った。」
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 反日憎日意識が根強い中国や韓国では、天皇・皇族の写真・肖像画・人形等同様に日本国旗(日の丸)や自衛隊旗旭日旗)を破り捨てる、踏み付ける、火を付けて燃やす、唾を吐くなど数々の毀損活動が国民行事的に行われている。
 韓国では、政治家はもちろんメディア・報道機関においても天皇を蔑称の「日王」と上から目線で侮蔑して吐き捨てている。
 現代日本の政治家は、中国や韓国の振る舞いに対して口先だけで「遺憾」を表明するだけで、本心は関わりたくないと思っている。
 戦前の日本であれば、日本民族は「天皇の名誉や日本国の体面を辱められた」として激怒し政府や軍部に対して制裁を強要した。
 現代のグローバルな高学歴知的エリートと昔のローカルなエリートは違う。
 その証拠が、国民世論で天皇即位に女系母系継承容認論が70%以上あるのを見れば明らかである。
 リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者とは、そうした日本人である。
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 日本国内、特に学校の教育現場では、入学式・卒業式などの行事において起立して国旗掲揚や国歌斉唱を行うことに猛反対する教諭や教育関係者が存在し、彼等を支援する護憲派人権派のリベラル・革新の市民が多数いる。
 外国人移民(主に中国人移民)が増えればその傾向はさらに強くなり、最終的には国旗掲揚や国歌斉唱は消滅する。
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 韓国政府は、反天皇反日派の政治家・官僚・民間財界人を知日派と称して駐日大使に任命し日本に派遣している。
 中国共産党も、同様である。
 韓国や中国には、親日派はもちろん知日派はいない。
 知日には良い知日と悪い知日の2種類がいで、韓国や中国にいる知日とは悪い知日である。
 現代日本人はその違いが分からず、日本の住んだ事がある、日本で学んだ、というだけで知日派と信じ込みそして裏切られる。
 同じ過ちを繰り返す現代日本人は、学習しない愚か者ではなく、学習できないバカである。
 それが、親中国派・媚中派や親韓国派・親北朝鮮派が切り返し発言する「知日派期待論」である。
 彼らが言う「知日派」は言葉ではない意味がない空しい記号である。
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⚔7)─2─戦国時代に兵法の物知り・戦上手の武将はいたが軍師はいなかった。〜No.28 

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 産経iRONNA
  戦国時代に「軍師」はいなかった⁉
 歴史上の「軍師」といえば、秀吉に仕えた黒田官兵衛を筆頭に多数知られているが、実際はどうなのだろうか。さまざまな史料を読み解く限り、後世の創作だった可能性が高い。もちろん、足利学校のように兵法を学ぶエリート養成機関は実在したものの、「軍師」とまではいえず、今回はその実在論争に終止符を打つ。
 兵法教育は優れど、「軍師」はウソだったといえるこれだけの理由
 『渡邊大門』 2021/01/24
 渡邊大門(歴史学者
 最近は流行らなくなったが、少し昔のビジネス雑誌をひも解くと、戦国時代の「軍師」をモデルにして、いかにビジネスを成功させるかといった記事をよく目にした。
 たとえば、豊臣秀吉の「軍師」だった黒田官兵衛(孝高、如水)は、「偉大なるナンバー2」と持ち上げられ、「ナンバー2」の美学なるものがまことしやかに語られた。しかし、戦国時代に「軍師」なる言葉はなく、「鶴翼の陣」などの陣形も嘘と考えたほうがよさそうだ。それらは、いい加減な史料に書かれたもので、信用に値しないのである。
 以下、「軍師」などについて考えてみよう。
 わが国では、座学としての戦争研究が発達していた。これは事実である。戦国大名には刀、弓、槍、鉄砲などの鍛錬が必要である一方、座学である兵法書を読むことも重要だった。「論語」「中庸(ちゅうよう)」「史記」「貞観政要」などの中国の古典が代表的なものである。
 また、「延喜式(えんぎしき)」「吾妻鑑(あづまかがみ)」といった日本の典籍など、為政者としての心得を学ぶための書物も含まれていた。ただ、戦国大名がそのまま読むには難解だったため、公家や僧侶から講義を受けることもあった。
 兵法書には、武経七書と称される「孫子」「呉子」「尉繚子(うつりょうし)」「六韜(りくとう)」「三略」「司馬法」「李衛公問対」が代表的なものとして存在する。それらの兵法書は、すでに奈良・平安時代に日本に入っていたといわれている。しかし、これらの書物は日本の古典と同じく難解で、とても戦国武将がすらすらと読めるものではなかった。
 室町時代には足利学校(栃木県足利市)という儒学などを学ぶ機関があり、その卒業生が戦国大名兵法書の講義をした。
 小早川隆景は、足利学校出身の玉仲宗琇(ぎょくちゅう・そうしゅう)と白鴎玄修(はくおう・げんしゅう)の2人を、鍋島直茂も不鉄桂文(ふてつ・けいもん)を招いていた。直江兼続のもとには、足利学校出身の涸轍祖博(こてつ・そはく)がいた。
 徳川家康のブレーンである天海も、足利学校の卒業生である。実際には、彼らが兵法書の解説などを行っていたのだろう。
 足利学校の歴史が明らかになるのは、室町時代中期頃である。鎌倉から禅僧の快元を招き初代庠主(しょうしゅ、校長)とし、学問の興隆と学生の教育に力を入れた。
 その後、関東管領上杉憲忠易経周易注疏」を寄進し、子孫の憲房も貴重な典籍を送ったという。永正、天文年間(1504~54)には約3千の学徒が在籍したといわれている。天文18(1549)年に日本を訪れた宣教師のザビエルは、「日本国中最も大にして最も有名なる坂東の大学」であると足利学校を称えたという。
 足利学校は軍師養成学校と称されるが、それは大きな誤解である。足利学校で学んだ僧侶は中国の古典に優れ、また軍配の際の占いや易学に精通していたので、そう呼ばれたにすぎない。
 戦国武将は実技たる武芸の技を磨くのみならず、座学での兵法書の読解にも励まねばならなかった。実技と座学が一体化してこそ、優れた武将として評価されたのである。
 では、いったい「軍師」とはどういう存在だったのだろうか。その点を詳しく掘り下げてみよう。
 辞書類によれば、「軍師」とは大将の配下にあって、戦陣で計略、作戦を考えめぐらす人を意味する。単に戦場で計略や作戦をめぐらすだけでなく、ときに外交にも携わるなど、多彩な能力を発揮した。
 とりわけ戦国時代には、著名な「軍師」が数多く存在した。武田氏の山本勘助、今川氏の雪斎、上杉氏の宇佐美定行、毛利氏の安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)など、数え上げればキリがないほどである。
 中にはその存在を示す一次史料に乏しく、出自や動向があまり分からない人物がいるのも事実である。山本勘助はその代表であったが、近年多くの一次史料が発見され、注目を集めている。
 ところが、そもそも「軍師」という言葉は近世に生まれたもので、戦国時代に「軍師」という言葉が使われていた形跡は確認できない。「日本国語大辞典 第二版」(小学館)を確認しても、用例は近世以降である。東大史料編纂所の史料データベースを検索しても、「軍師」という言葉がヒットすることはない。
 戦国時代には、「軍師」なる言葉は存在しなかった可能性が極めて高い。実際は「軍師」でなく、後述する「軍配師」と称するのが正しいようだ。当時、戦場でどのように戦ったのかは、後世に成立した軍記物語などの影響が大きく、当時の史料で探ることは困難である。
 ましてや、「軍師」の立てた作戦が功を奏し、勝利を得た事実は確認できない。詳しくは後述するが、「第四次川中島の戦い」において山本勘助が用いたとされる「啄木鳥(きつつき)戦法」や、それに対抗した上杉氏の「車懸りの陣」なども、本当にあったのか否か、確認のしようがないのだ。
 近世に至ると兵学が発達するようになるが、軍記物語にはその影響を受けた〝後付けの〟著述や理論も少なからず見受けられる。その点には、注意を払う必要があるだろう。
 次に、軍配兵法の発展について考えてみよう。
 日本に兵法が伝わったのは、奈良時代にさかのぼる。六国史の一つ「日本書紀」には、兵法を駆使したと思しき人々が登場する。
 留学生として唐に渡った吉備真備(695~775)は、儒学天文学兵学を修め帰国した。兵法に通じた真備は城を築くなど、「軍師第一号」といわれている。なお、真備は陰陽道にも通じていた。
 わが国では「孫子」「呉子」「六韜」「三略」などを参考にして、多くの兵法書が編まれた。やがて戦いが恒常化する時代に入り、戦いの経験を積むことにより戦法が洗練されると同時に、兵法も大いに発達した。
 南北朝期から室町期にかけて執筆された「張良一巻書」「兵法秘術一巻書」「義経虎之巻」「兵法霊瑞書」などは、代表的な兵法書といえよう。
 これらの兵法書は中国では集団戦法を重視しているのに対し、一騎打ちの戦闘法に特化している特長がある。当該期の兵法は、宿星、雲気、日取、時取、方位などを重要視した軍配術が基本であった。これに弓馬礼法や武家故実が結びつき、軍配兵法が発達したのである。
 つまり、一種の縁起担ぎに基づいていた。現代では合理的な考え方が重視されるわけであるが、戦国時代は必ずしもそうとはいえなかったのだ。軍配者は占星術陰陽道に通じており、武将の命により合戦の日取りを決定した。その萌芽は、すでに12世紀初頭に確認することができる。
 平安時代に賀茂家栄が撰した「陰陽雑書」によると、戦いに適した日は己巳以下の14日であるとされている。もっとも、諸書によって合戦に適した日は一定しないようである。したがって、各家の独自の理論に基づいていたと考えられる。確かで合理的な根拠に基づいていないのだ。
 合戦に適した日時にこだわった例は、康平3(1062)年8月の前九年の役で確認することができる。
 源頼義安倍宗任の叔父で僧侶の良照の籠もる小松柵を攻撃しようとしたが、その日は日取りが良くないとの理由で延期している(「陸奥話記」)。日時にこだわる考えは、すでに平安時代から見られたのだ。
 出陣の日については、足利将軍家陰陽頭に依頼して吉日を選択していたことが知られている(「殿中以下年中行事」)。戦国大名の場合は軍配者に託したが、易者や山伏に委ねられることもあった。現代の感覚からすれば迷信頼みに見えるかもしれないが、当時はそれが信じるに値する「真実」だった。
 その「真実」に基づき、戦国大名は出陣の日を定めていたわけであり、やみくもな判断に基づくものではなかったのである。神仏に畏敬の念を抱いていた当時の人は、日時も神や運を委ねていたのである。
 つまり、私たちは戦国大名の配下には「軍師」なる司令塔が存在し、理論的に完成された「陣形」「戦法」で戦ってきたと思っていたが、それは間違いなのである。そもそも戦国時代に「軍師」は存在せず、後世に伝わった「陣形」「戦法」もまったく信用できないのが実情だ。
 戦国大名は軍配者に出陣の日取りを決めてもらい、戦闘はそれなりの作戦はあっただろうが、おおむねこれまでの戦いの経験則に拠ったというが実際だったに違いない。
 もう嘘八百の「軍師」論は、お止めいただきたいものである。
 ※主要参考文献 渡邊大門「戦国大名の戦さ事情」(柏書房
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💄74)─1─天皇による田植え。大嘗祭。新嘗祭。日本の食文化の原点は神饌。〜No.147No.148 ⑰ 

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 昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人である。
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 キリスト教聖母マリアは、イエス・キリストの生母であって神・女神ではない。
 聖母マリアを信仰する事は、唯一の神・絶対神への冒瀆である。
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 女神は、宗教より神話に多く、ローカルな日本中心神話よりグローバルなギリシャ神話や北欧神話の方が多い。
 女性神が有名な宗教は、シヴァ神ヒンドゥー教である。
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 第72話 大淀と鶴の稲のお話
 『日本遺産 祈る皇女斎王のみやこ 斎宮』を構成する文化財の中に「カケチカラ発祥の地」というものがあります。説明では「神嘗祭に初穂の稲束を伊勢神宮の内玉垣に懸け、国の永遠の繁栄を祈る懸税(カケチカラ)行事の発祥の地」とあります。
 この伝説の根拠は、鎌倉時代に編纂された『倭姫命世記』という文献にあります。つまり伊勢神宮に関わる中世の神話です。
 この神話では倭姫命崇神天皇の時代から35年ほど各地をさまよい、ついに垂仁天皇二十六年に伊勢神宮を定めたことになっているのですが、その翌年のこと、鳥が大きな声で鳴くので、大幡主命らを派遣して調べてみると、志摩国の伊雑(志摩市磯部町あたり)の葦原の中に、根元は一本で千本の穂が実っている変わった稲があり、白いマナヅルがそれをくわえて飛んでいた。それを伊佐波登美神に抜かせて、伊勢神宮の御前に懸けさせ、伊雑には摂宮(伊雑宮)を設けたとあります。そしてその翌年の秋、やはりマナヅルが皇太神宮(内宮)に北の方から飛んできて日夜鳴いているので、倭姫命が調べざると、「佐佐牟江宮の前の葦原」に、やはり根元が一本で八百の穂がある稲をくわえて鳴いていたので、吉祥として皇太神(アマテラスオオミカミ)の御前に懸けさせ、鶴のいた所に、八握穂社を造らせた、というものです。
 つまり、「カケチカラ発祥の地」というのは、伊雑と多気で見つかった不思議な稲のうち、多気の稲が見つかった所なのです。葦原に稲が生えるということはまずありえず、実に神話だなぁ、という話なのですが、葦(ヨシ)はヨシズをはじめ様々な道具に加工できるので、古代・中世において生活のために絶対に必要な植物で、稲と形が似ていることや、稲刈りとともに芦刈りが重要な季節の集団作業だったことなどもあり、「葦原中つ国」とか「豊葦原瑞穂の国」なんていう日本(正確には東北南部から九州南部まで)の古名もできたわけですね。
 さて、この神話、『日本書紀』や『古事記』の中には出てきません。また、九世紀初頭に編纂された『皇太神宮儀式帳』(伊勢神宮から朝廷に提出された神宮の運営マニュアル)の神宮起源伝承にも出てきません。しかし、実はさらに原典ともいうべきものがあります。天暦三年(九四九)に神祇官村上天皇に上奏した「新嘗祭月次祭神今食の忌火御饌」の起源神話です。
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 天皇が行う宮中祭祀は、女性神崇拝である。
 日本の女性神崇拝は、縄文時代の母体崇拝が原初である。
 縄文の母体崇拝は、原始的な自然神・大地母神・精霊神崇拝である。
 その象徴が縄文の土偶で、人形土偶の大半が女性像である。
 日本民族は、女性崇拝から生まれてきた。
 何故か、それは5~6人乗りの手漕ぎの小舟で移動して生きていた南方系海洋民の子孫だからである。
 日本の祭りで神様を載せる神輿や山車(だし)の原型は舟で、ユダヤ教が「モーゼの石板」や「律法書(トーラー)」を納めて運ぶ「契約の箱(アーク)」とは違し、エジプト神話などに出てくる太陽の舟や月の舟とも違う。
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 天照大神(あまてらすおおかみ)、または天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、日本神話に主神として登場する神。女神と解釈され、高天原を統べる主宰神で、皇祖神とされる。『記紀』において、アマテラスは太陽神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在として描かれている。
 太陽神、農耕神、機織神など多様な神格を持つ。天岩戸の神隠れで有名な神で、神社としては三重県伊勢市にある伊勢神宮内宮が特に有名。
 名称
 『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)。神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)、大日孁(おおひるめ)、大日女(おおひめ)とされている。
 『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されているのに対し、『日本書紀』においては複数の神名が記載されている。伊勢神宮においては、通常は天照大御神の他に天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、神職が神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と言う。
 なお、「大日孁貴神」の「ムチ」とは「貴い神」を表す尊称とされ、神名に「ムチ」が附く神は大日孁貴神のほかには大己貴命(オオナムチ、大国主)、道主貴(ミチヌシノムチ、宗像大神)などわずかしか見られない。
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 天照大神の血を正統に受け継ぐのは、男系父系皇族のみであって、女系母系皇族ではない。
 男系父系の女性皇族は、正統な血の継承者である。
 女系母系の人間には、天照大神からの血の正統性がない為に天皇に即位する事はできないし皇族にもなれない。
 その意味で、女性神からの血の正統性を神聖不可侵とする天皇制度・皇族制度は、法の前での平等を侵害する人間差別ではあるが、性別に基づく女性差別ジェンダーフリーではない。
 天皇制度・皇族制度とは、日本独自の伝統文化としての家制度・血縁制度・血族制度である。
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 縄文の母体崇拝は、男尊女卑の中華思想を持った弥生系帰化人が移住して変容した。
 その象徴が、弥生の埴輪である。
 日本における男尊女卑の定着は、夫婦共同作業である稲作農耕の広まりと食糧をめぐる殺し合いの常態化(弥生の大乱)してからである。
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 天照大神の稲神勅とは、弥生時代に発生した気候変動による食べ物不足・飢餓・餓死そして食糧をめぐる殺し合い(弥生の大乱)を教訓としている。
 日本の稲神話とは、食糧を確保して飢えない為であった。
 食べ物を神聖視して祀るは、ここから来ている。
 天照大神に仕える女性神豊受大神(トヨウケノオオカミ、伊勢神宮外宮)は、神格は食物神、穀物神で、神徳は農業、漁業で、体内から有りと有らゆる食物を生み出した。
 日本では、神々から授かった食べ物を有り難く、そして神々と共に食卓を囲んで頂く事が尊い神事とされていた。
 キリスト教では、人は、天地創造の創り主たる唯一の神の御言葉で生きるのであって「パンで生きる」のではないと説いている。
 儒教は、人として信義を貫く為ならば武器も食べ物も捨てろと説いている。
 天照大神の弟神・素戔嗚尊スサノオノミコト)は、日本列島に樹木を植えて緑豊かで実り多き島へと作り変えた。
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 日本民族の女性神崇拝の源流は、揚子江流域に栄えた南方海洋系長江文明である。
 漢族中国人、朝鮮人・韓国人は男性優位の源流は、黄河流域に栄えた西方草原系黄河文明である。
 好戦的強欲な黄河文明は、武力を用いて争いを好まない無欲な長江文明を滅ぼした。
 滅ぼされた長江文明は、日本列島に逃れて新たに独自の日本文明を生み出した。
 が、滅ぼされた長江文明の正統な後継者である日本民族は、滅ぼした黄河文明を受け継ぐ漢族中国人、朝鮮人・韓国人に恩を感じる必要はないし、感謝する必要など「まったく」ない。
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 大嘗祭(だいじょうさい、おおにえまつり、おおなめまつり)は、日本の天皇皇位継承に際して行う宮中祭祀であり、皇室行事。
 新天皇が即位(現代では国事行為となる即位の礼の各儀式が終了)した後に新穀を神々に供え、自身もそれを食する。その意義は、大嘗宮において、国家、国民のために、その安寧、五穀豊穣を皇祖天照大神及び天神地祇に感謝し、また祈念することである。
 古くは「おほにへまつり」「おほなめまつり」とも訓じたが、現代においては「だいじょうさい」と音読みする。
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 新嘗祭(にいなめさい、にいなめのまつり、しんじょうさい)は宮中祭祀のひとつ。大祭。また、祝祭日の一つ。
 新嘗祭は、天皇がその年に収穫された新穀などを天神地祇(てんじんちぎ)に供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式である。毎年11月23日に宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる[2]。同じ日に全国の神社でも行われる。
 なお、天皇即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を特に大嘗祭という。
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 2020年5月18日7時00 朝日新聞デジタル天皇陛下、代々受け継がれる田植えに 皇室18~24日
 紅葉山御養蚕所へ行くため、半蔵門から皇居に入る皇后雅子さま=11日午前、皇居
 天皇、皇后両陛下や皇族方の予定を毎週更新します。皇室の方々は様々な行事や式典、宮中祭祀(さいし)などで多忙な日々を送っています。紙面では掲載しきれない公務も紹介します。
 宮内庁は5月18~24日の予定を発表した。
 天皇陛下は19日、皇居内の水田で田植えをする。苗は4月に陛下がまいた種もみを栽培したもの。稲作は昭和天皇上皇さまと受け継がれている。
 皇后雅子さまは、歴代皇后が継承してきた皇居・紅葉山御養蚕所での養蚕に今月から取り組んでいる。例年は数種類の蚕を扱うが、今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で養蚕所の職員を減らしているため、純国産種「小石丸」のみを飼育している(宮内庁発表に準じます。予定は変更されることがあります)。
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 2019年5月20日 日本経済新聞天皇陛下、即位後初の田植え  皇居の水田で
 天皇陛下20日、皇居内の生物学研究所脇にある水田で、即位後初めて田植えをされた。皇居での稲作は昭和天皇の時代から続く恒例行事。今回は代替わりに伴い、上皇さまが退位前の4月にまいた種もみから育った苗を陛下が植えられた。
 陛下は水色の長袖シャツにグレーのズボン、黒い長靴姿で宮内庁職員から苗を受け取って水田に入り、腰をかがめて作業をされた。この日はうるち米のニホンマサリともち米のマンゲツモチ計100株を植えられた。
 今後は春の種もみまきや秋の稲刈りも含め、陛下が行われる。例年秋に収穫されるコメは皇室の神事などに使われる。
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 料理王国
 日本の食文化の原点。「神饌」をご存じですか?
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 #歴史
 日本の食文化の原点。「神饌」をご存じですか?
 2021年10月19日 #歴史, #食文化
 会席料理和食
 真心をこめて御調理する「神様の食事」が日本料理の原点
 日本人は古来、四季折々の祭りを大切にしてきました。祭りというと、氏子が神輿を担いで町内を練り歩く光景を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。しかし、祭りで最も重要なのはその前に執り行われる「神事」。その神事は神に食べ物を供えること、すなわち「神饌しんせん」から始まります。
 神様と人間をつなぐ重要な役割を持つ「神饌」
 祭りとは、神々を崇め尊び、慰めながら除災を願い、豊作豊漁を祈る儀式。日本人は「神は自然の中に宿る」という信仰を持っていますから、祭りを始めるにあたってはまず、食べ物を供え、神様をお招きしなければなりません。
 そして、一連の儀式の後、お供えした食べ物を神様とともに食するのが「直会なおらい」。神様と同じものをともにいただくことで、神との一体感を持ち、霊力をいただき、神の御加護と恩恵にあずかります。
 このように、祭りにおいて神饌は、神様と人間をつなぐ非常に重要な役割を果たすものです。
 神饌は、古くは煮炊き、調理を行った、「熟饌じゅくせん」あるいは「特殊神饌」と呼ばれる、人々の日常の食事と同様のものでした。しかし、1871年(明治4)の神社制度改革によって祭式次第が改められ、神饌は「生饌」と呼ばれる、素材そのものを献供する「丸物神饌」に変更されました(現在、多くの神社で「生饌」が行われています)。こうして、一度は姿を消した「熟饌」でしたが、明治17年明治天皇の旧儀復興の命により、賀茂御祖神社賀茂別雷神社石清水八幡宮などで再び献供されるようになりました。こうした旧儀の神社の神饌には、四季折々の旬を煮炊きしていただいてきた、日本人の食文化が映されてます。
 一番おいしいもの、美しいものを神様に
 身を清めた神職によって丁寧に御調理される神饌は、見た目も美しく、真心のこもったもの。まさに日本料理の原点を見るようです。
 すべての神社に共通の御物は御米、御酒、御塩。そのほか、海川山野の、その季節に最もおいしいものが供えられます。各神社に特有の御物も見られますが、その心は同じ。
「出来る限りおいしいもの、美しいものを供えたい」という気持ちです。
 例えば、日本の総氏神と仰がれる存在の、伊勢の神宮(正式名称は「神宮」)で、神饌に欠かせない御物といえば鰒あわびです。なぜ、鰒をお供えするようになったかには諸説ありますが、一説によると、およそ2000年前、倭姫命やまとひめのみことが天照大御神あまてらすおおみかみにお供えする御贄みにえ(神饌)を求めて、舟で志摩の国を巡った際、鳥羽の国崎くざきで海女が差し出したのが鰒。それが「あまりにおいしかったため」、以降お供えし続けているそうです。
 また、神宮で毎日行われる日別朝夕大御饌祭(常典御饌ともいう)でお供えする神饌は、朝夕の食材が重ならないよう配慮。朝が葉物野菜なら夕方は根菜に変え、海藻も朝と夕では違うものにします。その常典御饌には、トマト、ブロッコリー、メロンなど、日本では比較的新しい野菜や果物も登場しますが、それは「珍しいものはまず神様に」という心の表れではないでしょうか。
 また、石清水八幡宮では、勅祭の日に金海鼠きんこ(ナマコの一種)をはじめ、珍しい神饌があげられていました。こうしたものを供える理由を尋ねると、宮司は「これらは露骨な言い方をすれば精力剤。お疲れの神様にお元気になっていただきたいという願いからです」とのお答えが。
 そして、翌日のお供えが、広島菜と梨だけだったことについては「、前日に精力のつくものたっぷりだったので、翌日はあっさりしたものに」とのこと。たいそう人間的な配慮なのだと、興味深く感じました。
さらにどの神社の神饌も、見た目の美しさに目を奪われます。「思わず神様もにっこりなさるのでは」と、微笑ましいくらい可愛らしく盛り付けた神饌もありました。
 こうしたことすべてが、「神様によかれ」と思うものを、できる限り真心を尽くして供えるということ。それは、日本料理のもてなしの心、そのものではないでしょうか。
 これほどまでに、食べ物を大切に神様に捧げる国は他にはありません。食べる喜びや、食への感謝の心が希薄になり、ただ空腹を満たすだけの食が増えている昨今。神饌には、現在の日本人が忘れている、自然の恵みへの感謝が、脈々と受け継がれています。神饌が、日本料理の原点であり、基本であるということは、日本人の食文化の精神性の高さを物語っていると思います。
 御神酒おみき
 神饌には欠かせない「御神酒」。神様に酒の原料、米を与えていただいたことに感謝の意を表し、その出来栄えをみていただくために供えます。白酒しろき、黒酒くろき、清酒すみさけ、濁酒にごりざけなどの種類があり、醸造法も多様。
古くは、神社もしくは氏子が神酒を自家醸造していましたが、現在は酒税法の規制があるため、できません。ただし、伊勢の神宮のように清酒醸造免許や、税務署からのどぶろく醸造許可を得ている神社もあります。
 稲穂
 神道と深い関わりを持つ稲作。豊作を祈り収穫に感謝する
 上御霊神社(京都)で11月に行われる「火焚祭」。秋の収穫、五穀豊穣、厄除け、地域の安全などを願いつつ、護摩木に書かれた諸々の願いを祈願する。撮影:中田昭
「瑞穂の国」とも称される日本。稲作は神道と深い関わりを持っています。『日本書紀』神代巻に記された「斎庭ゆにわの稲穂の神勅」によると、天照大御神は、高天原たかまのはらでお育てになっている稲穂を皇孫こうそんの邇々芸命ににぎのみことに渡し、「これで国民を養うように」とお授けになったと記されています。よって、地上で人間が稲作を行うことが神の道とされます。早春の予祝儀礼、春の豊作祈願、夏の除疫祭、秋の収穫感謝祭と、米の豊作を祈り、神に感謝を捧げる稲作を中心とした祭りが多く行われているのです。
 御塩
 塩は生命の源。穢れを祓い浄化する力も持つ
 昔から塩は、穢れを祓い清める力を持つとみなされてきました。写真は、製塩法を伝えたとされる鹽土老翁神しおつちおぢのかみを祀る、鹽竃しおがま神社の末社御釜おかま神社(宮城県)で、7月に行われる、古代製塩法を伝える藻塩焼神事。製塩用鉄製平釜の上に竹の棚を設け、ホンダワラを広げた上から海水を注ぎ、煮詰めて塩を作ります。
 鮑あわび
 神宮の神事で供される鰒は2000年間、国崎から
 2000年以上前から、伊勢の神宮で神饌として供えられてきた鰒は、鳥羽市国崎の鎧崎のもの(現在、国崎漁協組合が生、熨斗鰒、合わせて年間約660キロを奉納)。桂剥きにした後ぬるま湯でさらに長く伸ばしたのが熨斗鰒。
 石清水八幡宮 奉幣之儀
 仏教と深い関わりを持つ石清水八幡宮。奉幣之儀とは、八幡大神が年に一度、男山山麓の仮宮である頓宮殿に渡御され、上卿の御祭文奏上により、国家安泰、国民の平和と繁栄が祈願される祭り。八幡神とは綿津見わたつみの神で海の安全を守る海の神様。神饌には海のものも多く、海藻の他、金海鼠なまこのような珍しいものも。
 談山神社 嘉吉祭
 嘉吉祭で献じられる「百味御食」はすべて氏子の手によって作られている。その色鮮やかさと精巧優美さは、「神饌の代名詞」と称されるほど。赤、黄、緑に彩色した米もちごめ粒を1粒1粒用いて伝統の文様を描いていく和稲。糯米もちごめと古代米、赤米の芒のぎの長い籾を用いて作っていく荒稲がとくに美しく有名。
 ジャーナリスト南里空海さん Kumi Nannri
 ジャーナリスト、編集者。マザー・テレサ、アウン・サン・スーチー、ミヒャエル・エンデオノ・ヨーコなどのインタビューやルポルタージュを数多く手がける。著書に『伊勢の神宮』『ヴァチカン』『シルクロードを行く』(以上、世界文化社)など。
本記事は雑誌料理王国第234号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第234号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。
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 十社大神 じゅっしゃ おおかみ
 献穀田の取り組み
 天照大神 天照大御神 斎庭稲穂の神勅
 「私が高天原で育てた神聖な稲穂を あなたに授けましょう」
 天照大神様は、こう話され、日本の国を統治するために地上へ降りてゆく孫の神様に、稲穂を授けられたといいます。
 このエピソードは、今から1300年前(養老4年・西暦720年)に成立した日本書紀(日本最初の公式の歴史書)に書かれているものです。
 神勅は「斎庭稲穂(ゆにわのいなほ)の神勅」と言われ、皇祖・天照大神様の重要な御言葉(三大神勅の一つ)とされています。
 この神勅は、日本の祭りや食文化と分かち難い稲作が神代から受け継がれてきたことを示していて、だからこそ、天皇陛下も稲作や大嘗祭を重んじていらっしゃるのです。
 こうした中、十社大神では、イセヒカリという米を伊勢の神宮から分けていただき、十社大神の献穀田で栽培し、収穫、奉納する取り組みを続けています。
 この取り組みを大事にする理由は、十社大神の歴史にあります。
 十社大神の主祭神は、天照大神様。
 もとは、応永7年(西暦1400年)に、伊勢の神宮から分祀されたと伝わる伊勢領神明社の御祭神です。
 以来、十社大神では、伊勢の神宮から遷宮御用材や御神宝を下げ渡していただき、神宮との結びつきを大切に神社運営を行ってきました。
 イセヒカリは、コシヒカリが突然変異したもので、伊勢の神宮の神田で発見されました。
 十社大神は、これを毎年わけていただき、献穀田に植えています。
 毎年5月には田植え。
 地元の子供たちが早乙女になり、昔ながらの手植えです。
 この取り組みは、多くの方々のご協力で成り立っています。
 育苗や圃場の整備、田植えや稲刈りの運営など、幅広い面で汗をかいてくださっている地元のファームの方々、そして、趣旨にご理解くださり、土地を貸してくださっている地権者の方の協力なしでは成しえません。
 また、行事のたびに集まってくださる子供達や保護者の方、氏子さんや崇敬者の方々、気にかけてくださっている多くの方々のお力添えがあってこそ、毎年実施できているのです。
 秋には、手刈りで収穫しています。
 機械を使えば作業が早いのですが、手刈りを大事にしています。
 収穫した稲穂は、伊勢の神宮に奉納しに行っているほか、十社大神の秋季例祭にも奉納しています。
 収穫した稲穂のうち、稲わらは、その後、しめ縄づくりに活用しています。
 実った米だけでなく、稲わらも、重要な役割を果たしているのです。
 記紀の時代から伝わる天照大神様の重要な神勅。
 日本書紀の成立1300年の節目を迎える今、あらためてその価値を再認識し、未来につなげたいと考えております。
 十社大神 じゅっしゃ おおかみ
 【鎮座地】 
 富山県 射水市 三ケ(高寺)1753 
 【宮司宅・社務所】 
 富山県 射水市 三ケ(高寺)870
 電話 0766-55-0059
 FAX 0766-55-5273
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 出雲大社紫野教会 〒603-8216 京都市北区紫野門前町44-43 TEL:075-491-2943 
 由庭稲穂の神勅
 日本の神道において、「天壌無窮の神勅」「宝鏡奉殿の神勅」「由庭稲穂の神勅」は三大神勅と言われています。
 その最後は「由庭稲穂(ゆにわのいなほ)の神勅」です。 これは「宝鏡奉殿の神勅」の続きの文章となっています。日本書紀における記述です。
 また勅して曰(のはま)はく「吾が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆにわ)の穂(いなのほ)を以て、また吾が児に御(まか)せまつるべし」
 またおっしゃられたのは「高天原で育てられている神聖な稲穂を我が子に与えます。」
 という意味です。
 その稲穂を撒いて地上で稲作をしなさい、ということですが、高天原でも稲を育てているのが日本の神話らしいところです。地上で行われている事は天上でも行われているのです。
 また、それほど稲が珍重されていたという事を意味します。 麦や粟など穀物は他にもたくさんありますが、その中でも稲だけが特別に神聖視されたのは、おいしいという事もありますが、面積あたりの収穫量が特に大きい、ということでしょう。日本の歴史を見ると、ずっと米の収穫量=田んぼの面積=養える人口でした。
 これが変わったのは数十年くらい前の話です。米も商品の一つになりましたから、無理矢理作っても余るだけになります。減反などの農業政策は難しい問題となっています。稲作については、日本人は新時代に突入したということでしょう。
 <このページの筆者>
 中島隆広 : 出雲大社紫野教会、教会長
 昭和46年京都府生まれ。名古屋大学経済学部卒業、会社員の後、パソコン部品のインターネット通販の会社を起業して経営する。会社売却の後、國學院大學神道學専攻科に入学し、神主となる。
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 白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)
  神道講話 385号
 神道講座 「神社とお米」 平成27年11月社報385号
 宮司 村山和臣
 はじめに
 神社神道では、天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)が高天原からこの国土に天降られるに際し、天照大神から賜った三大神勅の一つに「斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅」があります。
 この斎庭の稲穂の神勅とは、日本書紀に「吾が高天原にきこしめす斎庭の稲穂を以て、また吾が児にまかせまつるべし」と書かれてあり、この稲穂とは単なる稲穂ではなく、大嘗の斎庭に於いてきこしめされた稲穂であり、この稲穂を以て皇祖の大神に捧げ奉るという精神に基づいて、新嘗祭が執り行われてきているのであります。
 豊に生い茂るあの端々しい聖なる国は、これわが子孫が代々治めるべき地である。我が子よ行って治めなさい。お前たちのその王たる御位は、天地と共に永遠に栄える事でありましょう。
 神饌
 神様に供する飲食の総称を「神饌」といい、祭(まつり)は神様への饗応の形をとっているため、神饌を奉ることは、その中心となる大切な行事であります。 神饌には海・川・山・野の産物を数多く奉るのが習わしでありました。それも清浄で新鮮な物が尊ばれます。
神饌の種類は、調理法や献り方から分類すると、
 (一) 調理法より ①熟饌または調理饌 ②生饌または丸物(まるのままで奉るもの・通常神饌) ③生贄(鳥・魚など生きたまま奉るもの)などがあり、
 (二) 献る作法から ①案上に奉るもの ②懸けて奉るもの ③まき散らして奉るもの ④地中に埋納するもの ⑤水中に投げて奉るものなどがあります。
 神饌の品目として第1に上げられるものが稲米であります。
 稲=和稲・荒稲・頴(かい)・懸税(かけじから)など。
 米=白米・玄米・糯米・洗米・染米など。
 飯=白飯・赤飯・強飯・小豆飯・粟飯など。
 粥=米の粥・小豆粥・七種粥・粟粥・稗粥など。
 そして、第2番目が酒類で、3番目が餅類と続きます。初物は、まず神様に供えるという習俗は古くからありました。
 延喜式践祚大嘗祭の条に、先づ初抜四束を割き取りて[四把を束と為せ。]供御の飯に擬せ・・・とあって、初穂を神様に奉るのであります。 また江戸のことわざにも「初物を食べると75日寿命がのびるというのがありますが、まず神様にお供えし、そのお下がりを家族全員で、その霊性を頂戴するのが「直会(なおらい)」であります。
 おこめとごはん
 「こめ」とは、稲のもみがらを除いた種のことで、そのもみがらを取り去っただけのものを玄米と言い、玄米をついて精白したものを白米または精米と言います。
 さらに「うるち」は炊いて飯とし、「もちごめ」は蒸して餅を作ります。
 最近、若い人々が食事の時に「コメ」を食べると言う人が多くなってきており、放送番組でも司会者や出演者が食べ物の会話の中で「コメ」を食べるという言葉を聞くたびに、この人々は煮炊きした「ごはん」を食べていないのではと不思議に思います。私共ある程度の大人は、昔から「ごはん」を食べると言っておりました。
 「コメ」とは、まさに調理をしない玄米や白米のことで、米や麦を炊いて調理したものを「めし」と言い、めしの丁寧語を「御飯」と言います。 また、冷たくなった「めし」を暖めるための器を御飯蒸しとも言います。
 その昔は、この「ごはん」を干したものを「乾飯(ほしいい)」と言い、飯を乾かして蓄えて旅行用の食糧としたものでした。
 それと同じ製法のものが、今では災害時の非常食として再び脚光を浴びてきました。
関西地方では、食堂の店先に、大きな文字で「めし」とか「めしや」の提灯が掲げてありますが、これは手軽な飲食店という意味があります。
 むすび
 古くより日本の国のことを瑞穂の国と言いますが、古事記では「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国」とあり、日本書紀では「瑞穂之地」、万葉集では「美豆保国」と出てきます。
 瑞穂の国とは、日本の国を美しく称えてみずみずしい稲穂の国ということです。
 ちなみにアメリカの国を「米国」と記したのは、誰なのかわかりませんが、日本人は主食の「お米」を大切に、そして、外国の人々とも仲良くお付き合いしたいものです。
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 白山比咩神社
 菊理姫(ククリヒメ):女性神
 別称:白山比咩神(シロヤマヒメノカミ)
 神格:農耕神、白山の神
 神徳:五穀豊穣、縁結び、安産・育児、命名、生業繁栄、家内安全、厄除け、開運招福、交通安全、入試合格
 祀られている神社:
 白山咩神社(石川県石川郡鶴来町)
 白山神社(新潟市一番堀通町)
 白山長滝神社(岐阜県郡山郡白鳥町)
 白山神社(高知県土佐清水市足摺岬)
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 ウィキペディア
 女神とは、女性の姿を持つ神のこと。
 解説
 多神教においては、往々にして神にも性別が存在し、そのうち女性の神を女神と称する。対して男性の神を男神(おがみ)と呼ぶ。
 女性は子供を産むという属性ゆえに原始宗教・神話の世界では「母神」として表現されることが多い(NEUMANN・p.95、後述論文)。日本の土偶もヨーロッパからシベリアに至るユーラシア大陸において後期旧石器時代以後、広く分布する狩猟・採集・漁労民の女神像の一環と捉えられている(後述論文)。狩猟・採集・漁労民の女神信仰は、農業民の女神信仰と根本的に異なり、農業社会では地母神信仰が顕著に見られるが、前者の信仰では大地の生産性や生命力に対する認識・信仰はない(後述論文)。前者の信仰で重要なのは、獲物が取れるかどうかであり、それは超自然的な力に左右される(後述論文)。土偶も出産や多産を願う気持ちから作られた「お産の女神」の性格をもち、子供は老後の支えとして必要であり、土偶はお産の女神と同時に「家神」としての性格ももつ(『古代学研究 159』 古代学研究会 2002年12月、p.1に所収、角林文雄 『土偶と女神』)。角林文雄は、土偶はあくまで多産信仰が基本であり、「食べ物を産み出す」性格と「食べ物(作物)の成長を守る」性格を有した女神の信仰は、農耕社会(日本では、弥生・古墳時代以降)からであるとする(『古代学研究 159』 p.4)。そしてイザナミに関連した神話に関しても、稲作農業との接点がないことから(地母神的性格はみられるものの)、原神話は縄文時代に東南アジアから伝えられたもので、のちに高天原神話に取り込まれたとする(『古代学研究 159』 p.7)。一方で、天照大神の方は食べ物を産み出す農業社会の女神としての性格をもち、農耕の守護者である天照大神と農耕の妨害者であるスサノオの対立という信仰が成立する(『古代学研究 159』 pp.8 - 9)。
 美しい若い女性や、ふくよかな体格の母を思わせる姿のものが多い。中にはモイライの様な年老いた女神や、カーリーの様な恐ろしい姿の者もいる。大地や美や性愛を司る神は、各地においてたいてい女神である。それらは往々にして母性と結びつけられ、まとめて「地母神」と呼ばれる。神に人間のような性別があるかどうかは神学においては議論や研究の対象であり、神には性別が無いとする立場からは、単に外見が人間の女性に酷似する神とされる。
 アブラハムの宗教のような一神教においては、唯一の存在である神には性別は存在せず、従って女神も存在しない。父なる神という呼び方も、「父」とは力の象徴とされ、さらにキリスト教においてはイエス・キリストが「アッバ」(ヘブル語で「お父ちゃん」という意味の幼児語)と神を呼んでいたことから、親しさ、親密さを表すものとされ、性別を指してはいないとされる。一方、フランス革命以降のフランスにおいては、キリスト教から脱する考えにおいて、信仰の対象ではなく単なる象徴として、女神が奉られた(自由の女神)。またヨーロッパの多神教時代の民話などを、近代以降に翻案するにあたっても、具体的な神から単なる女神へと置き換えられる場合が多い(金の斧など)。このためヨーロッパでは各地で女神像を散見する。また、カトリックにおいては聖母マリアは崇敬の対象とされ、女神的に扱っていると見られることもある。
 日本神話(高天原神話)における役割
 性差が存在することによって、一神教のような男性優位の社会を主張する流れとは異なる物語の形成に繋がっている。例として、イザナギイザナミの婚姻譚において、男から先に声をかけなかったために失敗したといった流れがあり、一見すると男性優位の物語として語られているように見えるが、その後、産まれた男神であるヒルコを廃し(流し)、女神たるヒルメを立てているところは女性優遇といえるものであり、河合隼雄は著書『中空構造日本の深層』において、男性優位と女性優位の物語を交互に語らせることで、カウンターバランスを成立させ、男女が互いに欠点を補い合うことで安定化を図っているとした社会思想を神話によって語らせているとしている。またアマテラスとスサノオの「清い心を示す勝負」では、男神を生み出したアマテラス=女神に対して、女神を生み出したスサノオ男神を勝たせている。一種、女神の存在は、一方の性を優遇するといった一辺倒な社会の否定に繋がっている。
 『神皇正統記』に「陽神(おかみ)陰神(めがみ)」と表記されているように、陰陽思想の下では女神は「陰」に比定される(『神統記』内では陰神の表記が度々用いられている)。また、日本では女神の呼称の他に「姫神(ひめがみ)」という言葉を用い、これに対して男神を「彦神(ひこがみ)」と呼称する(『広辞苑 第六版』岩波書店より)。
 山神と女神の関係
 日本では山神は女神の場合が多く(後述書 p.103)、山神が男神の場合、狩猟・伐採・芸能を司る。水や生命を育む森・山は基本的に女性原理として表現されるため、山に男女で入ると女神が嫉妬したり、女性の入山自体を嫌う話も多いとされ、山神が生産を司る以上、日本語の「ヲンナ」は「ヲミナ」=産むの意であると捉えられている。
 柳田國男は『妹の力』において、霊山における女性の立ち入りを禁じる結界岩は、多くは、山の中腹にあり、本当に入山を禁じていたのなら、中腹に結界岩を置くのは不自然であり、むしろ禁じていたのではなく、足の弱い女性が頂上まで登らずとも参拝できるようにとの配慮からと考察する。
 女神と笑いの関係
 ギリシア神話には悲しみに沈んだ大地の女神デメテルにバウボという女が自らの性器を見せ、笑わせ、大地の生産力を回復させた話があり、日本神話にもアメノウズメが性器を見せ、神々が笑い、アマテラスが口を開いた話が見られ、怒れる自然(デメテルやアマテラス)に豊穣多産を回復させるために行う話の類型であり、自然を再生させることは、女神を笑わせ、機嫌を取り戻すことで、そうした神話(女性器を見せることで女神の笑いを取る)として表現されたものと松本信広は解釈している。関連は不明だが、古墳時代の女性埴輪の中には性器を強調したものがみられる。
 女神の数
 ギリシア神話の女神の数については、ギリシア神話の固有名詞一覧を参照
 『古事記』に記される280柱前後(神武東征以後は除く)の内、無性別の神・性別不詳の神・男神を除いた女神の数は65柱前後である。この内、オオゲツヒメが殺害されており(『紀』ではウケモチ)、またクシナダヒメの姉妹神もヤマタノオロチに殺されているため、厳密な数は不明。全体数の約4分の1とギリシア神話と比較して少ないが、これは日本神話において無性や性別不詳の神がギリシア神話と比べて多いためであり、例として、八種の雷神、因幡の白兎、サヒモチの神=サメなど人外神が豊富にいる。本州(大倭豊秋津島)=天御虚空豊秋津別も『記』における男神女神の書き順からいえば、女神だが、明記されていないなど不明瞭な部分がある。
 備考
・女神も兼ねた柱というのもあり、例えば、神としての四国は、体一つに顔が四つで、顔にはそれぞれ名があり、男名2、女名2で男女対となっていると『古事記』には記述されている(例、伊予国の神名はエヒメと記され、女神として扱われる)。
・元は女神を祀っていたものが、仏教(厳密には空海)の影響によって男神とされるようになった例としては、伏見稲荷神社がある。逆に観音菩薩などのように、男神だったのが女神として信仰されるようになった例もある。
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🏞130)─1─ブラックな江戸が約260年間も続いた原因は庶民の零細職業にあった。~No.505No.506No.507 ㊿ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 何故、極貧で差別が酷いブラックな江戸が約260年間も続いたのか。
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 江戸の町中を歩き回った庶民の商いは、世界を飛び回って活躍したユダヤ人の商売に匹敵し、ある面では凌駕していた。
 庶民の商いは、広く浅くの零細で、安値の薄利ではあるが人の数だけメシの種があり、メシの種は季節によって変わる、客優位と言う事である。
 ユダヤ人の商売は、狭く深くの中小で、靴の片一方だけでも売って利益を得る、商売人優位と言う事である。
 日本民族ユダヤ民族は、水と油のように正反対である。
 資本主義、資本家は、資産を増やしたユダヤ人の中から生まれたが、日本人は資産を持とうとしなかった為に生まれなかった。
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 日本民族の歴史において、マルクス主義階級闘争史観や発展段階説は役にたたなかった。
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 『地図・グラフ・図解でみる 一目でわかる江戸反代 竹内誠監修、市川寛明編
 さまざまな商売で江戸の町は、にぎわった』
 「盛んだった第3次産業
 膨大な消費人口を抱える100万都市江戸では、目抜き通りに店をかまえる大店(おおだな)から、ひとりで売り歩く棒手振りまで、多種多様な販売業でにぎわった。外食産業も盛んだったし、サービス業や見世物などもあり、第3次産業に従事する人がかなりの数を占めていた。
 生活必需品などについては、業種ごとに『株仲間』として幕府公認の業者が定められるのがふつうだった。彼らは、独占権を認められる代償として、『冥加金』を上納した。
 ……
 食べ物を売る者、情報を売る者、力仕事をする者、見世物をする者など、さまざまな生業(なりわい)の人たちが江戸の町を行き交っていた。」
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 江戸時代、武士も百姓・町人も本業の収入だけでは生活できなかった為に複数の副業を持っていた。
 二足の草鞋は当たり前の事で隠すべき恥ずかしい事ではなかった。
 その代表例が、坂本龍馬の家である。
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 龍馬は天保6年11月15日(1836年1月3日)、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現・高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下級武士・足軽)坂本家に父・八平、母・幸の間の二男として生まれた。兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益のときに長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士郷士)だったが(坂本家は福岡家に仕えていたという)、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だった。 
   ・   ・   ・   
 女性は男性より長生きで、男性は女性より短命であった。
 老婆(老女)の方が翁(男性老人)よりも多かった。
   ・   ・   ・   
 人生50年時代は、若者が多く老人が少なかった。
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 昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人である。
 現代の日本人は、昔の日本人に比べて伝統力・文化力・宗教力・歴史力が欠乏している。
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 江戸っ子は、人懐っこく、騙されやすく、お人好しで、涙もろく、お節介で、自分に関係ない揉め事でも首を突っ込んで仲裁しようとする。
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 江戸時代の庶民は、どんな時でも、如何なる場所においても、笑い飛ばす面白い事を探して生きていた。
 つまり、歌い踊るの喜怒哀楽でありであった。
 庶民の笑いは、世界的なエスプリ、ウィット、ジョーク、ユーモアではない。
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 江戸の町は、中小商店や零細商売人の売り声や町内で飼っている犬の声が渦巻いて賑やかで騒々しかった。
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 2021年2月号 歴史街道「猫の蚤取り、枝豆売り、屁負比丘尼・・・
 江戸のヘンな『お仕事ファイル』
 100万都市の江戸では、何もかもが『商売』になった?
 人々は、一体どんな仕事をして生計を立てていたのか。
 たくましい江戸人の、奇妙で楽しい『ビジネス』を紹介する。
 山村竜也
 江戸の町は、18世紀初めには人口が100万人に達し、当時のロンドンやパリを超える世界最大の都市となった。都市というものは、経済の活性化によって発展する。江戸の繁栄もまた、人々積極的な経済活動に支えられ、なしとげられたものだった。
 当時の江戸には、近郊や地方から流入して住人となった者が多かった。彼らの大半は困窮した農村の出身で、生きていくために新天地を求めてやってきたのである。
 そうはいっても、生きていくための糧(かて)がなければ話にならないが、その点では心配は無用だった。江戸には何百という種類の仕事があり、贅沢さえしなければ生活に困ることはなかったからだ。
 江戸時代後期に発行された『諸職人大番附』という人気職業ランキング表には、大関の地位は番匠(ばんしょう)、大工、刀鍛冶。関脇に壁塗り左官、屋根葺、次いで舟大工、橋大工、たたみ師、立具師(たてぐし)などが並んでいる。
 もっとも江戸に出てきたばかりの者が、これらの人気職種にいきなりつくのは難しいから、まずは『口入れ屋』という職業斡旋業者の所に行くことが多かった。この口入れ屋は、身元保証人にもなってくれたため(ただし有料)、地方出身者にとってありがたい存在だった。
 斡旋された商家や武家に奉公するのが、一番スムーズな就職方法だったが、奉公というのは一般に仕事が厳しく、不向きな者も多かった。そうした場合には『棒手振り(ぼてふり、振売り)』と呼ばれる行商人になる方法もある。
 野菜や魚、豆腐など日々の食卓にかかせない食材や日用品を、天秤棒でかついで売り歩く。これは一人で仕入れて一人で販売する個人事業主であったから、自由な生き方を求める者には向いていた。
 野菜を売る青物売りの日常が『文政年間漫録(まんろく)』(栗原柳庵著)に出ているので、その行動を見てみよう。世帯構成は夫婦と子供の3人家族だ。
 朝は夜明けとともに駕籠をかついで、600~700文(1万5,000~1万7,500円)ほどで蕪(かぶ)や大根、蓮根(れんこん)、芋(いも)などを仕入れる。これを1日売り歩いた。
 夕暮れ時に帰宅し、売れ残った野菜は翌朝のおかずにする。財布の中の1日の売り上げから、翌日の仕入れ金と家賃分をのけて、妻に米代200文(5,000円)、味噌と醤油代50文(1,250円)を渡し、子供に菓子代12~13文(300~325円)を与える。
 すると残りは100~200文(2,500~5,000円)ほどとなるので、これを酒代にして飲んでしまおうか、それとも1時的に貯金にまわそうか思案する。なんとも質素で明快な棒手振りの日常だった。
 こうした日々の生活にかかせない商品を売る者は、それなりに生活を安定させることができた。しかし、江戸にはにわかには理解しがたい仕事を生業(なりわい)にしている者も少なからずいた。
 『一人角力(すもう)』『親孝行』も銭をもらえる仕事に
 とにかく江戸では、『何でも商売につなげる』ことができた。
 まずご紹介するのは、『猫の蚤(のみ)取り』の仕事。映画の題材になったこともあるので、ご存じの方も多いだろう。
 滝沢馬琴の『燕石雑志(えんせきざっし)』によれば、『猫の蚤をとらん』と声をあげながら歩く。運良く注文がくれば、その家の猫をまずお湯につけて濡らし、用意した狼の皮で包む。すると、蚤が皮のほうにさーっと移動するというのだ。
 馬琴自身も、『工夫は買うが、こうまでする猫好きは多くはない』と書いているし。蚤取りの料金はだいたい2~3文(50~75円)というから、ほとんど稼ぎにならない。そのためか、この商売は長く続かずに廃(すた)れてしまったという。
 自分の体ひとつで稼ぐことができる。次のような仕事もあった。
 寒い風の吹く日に裸になり、注連縄(しめなわ)を腰蓑(こしみの)のように巻、荒縄の鉢巻きをして、扇(おおぎ)に御幣(ごへい)を持ってやってくる『すたすた坊主』というものがある。『すたすたや、すたすたすたうた坊主の来るときは、世の中よいと申します』といいながら、商家などを歩いて回った。『すた』や『寿多』に通じ、めでたいという意味を表す。験(げん)を担(かつ)ぐ商売人が、めでたい言葉をもらって、そのまま放っておくことはできないようで、大抵いくばくかのご祝儀(しゅうぎ)をもらうことができた。これを何軒かやれば、その日の酒代ぐらいは簡単に稼げたのである。
 裸といえば、『一人角力(ずもう)』もそうだ。褌(ふんどし)一丁になって、空き地を土俵代わりに、呼出から行司、力士2人を一人で演じ分けて、角力をとるまねをする。手を自分の背中にまわし、本当に二人で角力をとっているように見せた。
 当時の人気力士の特徴もよくとらえて演じたので、見物人は喝采して投げ銭をしたという。ちなみの、現在でも『一人相撲』という言葉があるが、その語源が江戸時代の珍職業にあったとは興味深い話である。
 ほかにも驚かされる仕事に、『親孝行』というものがあった。男が老婆を背負って、『親孝行でござい』といいながら町を歩く。親孝行という言葉に弱い江戸の人々からは、それだけで多少の銭は貰えたのだ。
 おかしいのはこの仕事、ときには男が老婆に扮(ふん)して、張り子(作り物)の男の人形を胸にぶら下げることによって、あたかも老婆を背負っているかのように見せたりしたという。これで銭がもらえたというのだから、江戸の人々の心の広さには感心するほかない。
 張り子を使った仕事といえば、『唐辛子売り』というものもあった。6尺(約180センチ)もある巨大な張り子の唐辛子を肩から下げて、『とんとん唐辛子、ひりひりと辛いが山椒(さんしょう)の粉、すはすは辛いが胡椒(こしょう)の粉、七味(しちみ)唐辛子』といいながら売り歩いた。
 自分の身長よりも大きな張り子の唐辛子は、もちろん真っ赤に塗られていて、その中には小袋に分けた売り物の七味唐辛子が入っていた。こんな格好で町を歩いていたのだから、さぞかし江戸の人々の目を引いたことだろう。
 雛(ひな)祭りも煤(すす)払いもビジネスチャンス!
 江戸の人々は、季節の行事を大事にした。それに合わせて、業者は行事につきものの商品を用意し、時季が過ぎたらまた次の行事用にと、仕事を変えたりすることもあった。
 正月の風物詩として知られるのが『三河万歳(みかわまんざい)』。烏帽子に素襖(すおう)を着た『太夫(たゆう)』と、供の『才蔵(さいぞう)』がコンビを組み、町家や武家屋敷をまわってめでたい歌を歌い踊るものだ。特に才蔵は剽軽(ひょうきん)なしぐさで人々の笑いをとる人気者で、才蔵役がつとまる者は太夫役の間で引っ張りだこになったという。
 正月2日には、宝船を描いた絵を売る『宝船売り』が必ずやってきた。2日の夜にその絵を枕の下に敷いて寝ると、めでたい初夢を見ることができるといわれた。
 2月になると、最初の午(うま)の日(初午)と二の午の日に、ほうぼうの稲荷神社で子供向けの祭りが行われた。このとき子供たちは狐の絵が描かれた絵馬を持つことになっていたので、そのための『絵馬売り』が数日前から売り歩いた。
 絵馬を手に入れた子供たちは、それを持って町をめぐり、商家の前で『お稲荷さまの御勧化(ごかんげ)12銅おあげ』というと、店の者は1~2文(25~50円)のお小遣いを渡すことになっていた。
 西洋のハロウィンを思われる風習である。
 3月3日は上巳(じょうし)の節句、つまり雛祭りがあり、武家も庶民も雛飾りをして女子の成長を祝った。雛壇には桃の花がつきものだが、こうした花はもっぱら美男の『花売り』が商っていた。町なかで花を買うのは大抵が女性であり、彼女らにしてみれば、中高年の男性よりは若い美男が売っていたほうが嬉しいに決まっていた。
 7月7日の七夕には、豊かな家も貧しい家も、笹竹(ささだけ)に短冊や色紙をつけて屋根より高く掲げた。そのため、『笹竹売り』は大忙しだった。
 『短冊売り』というのが別にいて、さまざまな短冊を売り歩いたが、その形はバラエティに富んでいて、ひょうたん、ほおずき、筆、西瓜(すいか)、大福帳(だいふくちょう)などがあった。七夕は現在よりも、はるかに華やかな行事だったのである。
 8月15日は仲秋(ちゅうしゅう)の名月だが、同じ日、諸所の八幡宮では放生会(ほうじょうえ)がおこなわれた。放生会とは、捕らえた亀や鰻の稚魚(ちぎょ)、雀を解き放すことで、殺生を戒(いまし)め、善行の功徳を積んだことになるという行事だった。
 その放生会のために、『放し亀売り』や『放し鳥売り』が現れて、亀、鰻、雀を売った。人々はそれを買ったあと、わざわざ逃がして功徳を積んだと喜んだが、寺の放生池に放たれた亀は、業者が再び捕らえて商品にすることもあったという。
 年が押し迫った12月13日には、武家も庶民も煤払いをおこなった。いわゆる大掃除である。煤払いには先に葉を残したままの長い竹が必要だったため、そのころになると『煤払い売り』が市中を売り歩いた。
 この煤竹売りは、七夕のときに笹竹を売ったいたのと、おそらく同じ業者であっただろう。彼らは江戸の年中行事に合わせて商品を入れ替え、臨機応変のビジネスを展開していたのだろう。
 枝豆・髪・浅蜊(あさり)・・・全部、女性や子供の仕事に
 女性もまた、男性に負けずによく働いた。亭主の稼ぎが少なければ共稼ぎもしたし、独り身であれば生計を立てていくため、さまざまな仕事をこなした。
 棒手振りのように、重い天秤棒は担げないが、夏の『枝豆売り』は女性の仕事だった。ゆでた枝豆の入った笊(ざる)を抱えて、『豆、枝豆~』といいながら売り歩いた。子供を背負いながらでも商売できたため、若い母親の売り子が多かったという。
 女性の仕事の中にはリサイクルに関した業種もある。もともと江戸はリサイクル都市で、物を簡単に捨てず、修繕したり、ほかの形に再利用するなどして最後まで使った。蠟燭(ろうそく)でさえ、蠟燭受けにたまった蠟を集め、また作り直したくらいだ。
 そのなかでも、『おちゃない』という、髪を拾い集める商売は女性が担った。頭の上に風呂敷包みを乗せて、『おちゃない(落ち髪はないか)』と聞いてまわる。集めた髪は、鬘(かつら)や髢({かもじ}髪を結うときに使う添え髪)に利用するのだ。
 ただし落ち髪を集めても大した金にはならなかったから、ときには自分の髪を切ったり、寺から遺体の髪をもらい受けることもあったという。あまり気持ちのよくない話である。
 さらに変わったところでは、『屁負比丘尼(へおいびくに)』という仕事があった。お姫様や大店の娘などに付き従う尼僧(にそう)で、もしその娘が人前でおならをしてしまったら、代わりに『私がやりました』と身代わりをつとめるというものだ。
 嫁入り前の娘にとって、人前でおならをするというのは死ぬほど恥ずかしいもの。屁負比丘尼を雇ったことで、彼女らは安心して人前に出られるようになったのである。もっとも、おならだけのために比丘尼を雇っていると思われると逆に恥ずかしいような気がするが、ふだんは娘の身のまわりの世話をする者ということになっれいたので、その点は問題なかった。
 こうした女性たちだけでなく、江戸では子供たちも働き手となることがあった。
 深川の漁師の子供などは、『浅蜊(あさり)売り』をして家の収入の足(た)しにした。近くの海岸でとれた浅蜊を殻つきのまま、あるいはむき身にして、天秤棒でかついで売り歩いたのだ。
 『あさり~、あさりむき(むき身)』と、まだいたいけな子供が声をからして歩けば、大人たちはけなげに思って買ってあげたことだろう。
 ほかに子供がつとめた仕事には、『海ほおずき売り』がある。海ほおずきとは、巻き貝の卵嚢({らんのう}卵の袋)のことで、海中の岩や流木などにびっしりと産みつけられていた。それを1つずつ取り外して口に含み、『ブーブー』と鳴らして遊ぶのだ。
 その音がほおずきを吹いて鳴る音に似ているところから、海ほおずきと名付けられた。おそらくは海岸に打ち上げられた岩付きの海ほおずきを、子供たちが拾って桶に入れ、そのままの状態で売りにでたのだろう。
 実際にはいくらも儲からなかっただろうが、多少の収入にはなった。江戸の人々の、なんでも商売にする精神をここにも感じることができる。
 どんなことでも仕事につなげ、生き抜こうというたくましさ。江戸は、そんな人々に満ちあふれた、エネルギッシュな町だったのである。」
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 男尊女卑や身分・家柄などの差別が激しいブラックな江戸時代。貧しい家庭の男なもちろん、稼ぎの少ない亭主を持つ女性や子供でも読み書き算盤を学んで仕事力を磨かなければ生きていけなかった。
 学ぶのは、生きる上で必用論語の道徳そして商いに必要な商取引と算術の実学であった。
 つまり、人と人の付き合いにおいて、信用・信頼を命より大事にし、約束・契約は命を捨てても守り、ウソを吐かない、言い訳しない、詭弁を弄さない、誤魔化さない、と言う「利益より誠実こそ命」という日本的人生訓である。
 それは、武士道とは違う。
 貧しいからといっても、大怪我や病弱で働けないのなら隣近所で助けるが、働かず遊び呆ける穀潰しに金を与えて助けてはくれる者は誰はだれもいない。
 蟻とキリギリス(セミ)の非情社会で、究極の「働かざる者食うべからず」である。
 女性や子供だからと言って、誰も助けてはくれない。
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 日本の経済・商業・製造業は、鎖国で日本列島内に閉ざされて、一国だけで発達した。
 日本の商売も、閉鎖された・閉塞された土地の中で細胞分裂的に急速に多業種で多種多様に増殖し、その活動は一国で中華(中国・朝鮮)を超えヨーロッパ全体に匹敵していた。
 日本とヨーロッパの違いは、戦争と災害であった。
 ヨーロッパは、短い平和と長い戦争の中、大量の資源・物資を海外・外国から強奪してきて大量生産と大量消費で発展した。
 日本は、長い平和と毎年のような数多い災害の中、国内の乏しい資源・物資を節約しながら少量生産・少量消費そして再生・再利用(リサイクル)で発達した。
 貧しい庶民は、新しい着物が買えなかった為に、死んだ原因はいろいろだが他人の着物は持ち主が死ぬ事で厄が落ちて縁起が良いとして元は高価な着物を安値で買い、喜んで着た。
 転んでもただでは起きない、死んでも皮は残る、的など根性の発想である。
 死んだ女性の着物で惨事となったのが、明暦の振袖火事である。
 鎖国によって、欲しい物資・資源が日本は国内にないかといってヨーロッパのように海外から自由に金で輸入ができなければ軍事力・暴力で強奪もできなかったので、国内にある別の物を工夫して代用した。
 その為に、日本の製造業は専門職人ごとによる細かく分業化され、商売もそれに合わせて細分化されていた。
 つまり、日本商業は生産の最初から売却の最後まで1つで完結せず、全ての分野で全ての利益を独占できる形態ではなかった。
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 江戸経済は、自然環境に負荷を掛けない、限られた資源を無駄にしない、物を簡単に捨てず最後まで使い切るリサイクル経済で、少量生産・少量消費であった。
 江戸の商業は、こうして多業種にわたって多様に増殖しながら発展した。
 何故、数多くの商売・仕事が季節事・地域事に雨後の筍のように途切れる事なく生まれ、騒々しく、目まぐるしく入れ替わったかと言えば、鎖国によって海外の豊か国・地域への移民・移動・出稼ぎができず、閉鎖された日本国内で知恵を絞って生きるしかなかったからでる。
 日本がアジア・アフリカ地域で近代化できたのは、徳川幕府が強制的に閉鎖・閉塞した国内に押し込められ閉じ込めて生活を強要した為に、庶民は金を稼いで少しでも生活を楽にし便利にしようと工夫したからである。
 移動の自由があって、豊かな国・土地に出稼ぎ・移民を送り出した国・地域は近代化できず発展しなかった。
 東南アジアや中南米発展途上国から長いこと抜け出せなかったのは、欧米の資本主義諸国や中東のオイルマネー諸国に出稼ぎを出し外貨を稼ぎ、その外貨で国家財政を支え国内経済を動かしていたからである。
 鎖国政策を正しく理解できない日本人には、日本の歴史、日本民族は理解できない。
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 武士や庶民(百姓や町人)が楽しんだ季節ごとの伝統文化行事は、天皇・皇室・朝廷の宮廷行事・宮中祭祀神道)・宗教儀式(仏教・道教・その他)に由来していた。
 宮中で祀られている神とは、皇祖の最高神である女性神天照大神神武天皇と皇宗の歴代天皇霊である。
 皇祖皇宗の先祖の神々を祀る事ができるのは、女性神天照大神の血筋を正統に直系の男系父系で相続してきた天皇家・皇室であって、女性神天照大神を祖先神としない女系母系継承を正当とする傍系や血のつながらない他人では務まらない。
 伝統文化となった宮廷行事・宮中祭祀神道)は、高天原神話・天孫降臨神話などの日本民族神話であって、家族崇拝であって信仰宗教ではない。
 日本の祭りの大半は、宮廷行事・宮中祭祀神道)・宗教儀式(仏教・道教・その他)を真似している。
 天皇の御威光とは、女性神天照大神の正統な血筋を根拠にして八百万の神々を正当な神と認めて神格を与える事であった。
 天皇に認められない神は、日本の神ではなく、他国の縁も所縁もない神である。
 それが、皇室が2000年以上昔から護り受け継いできた男系父系相続の血族優先(ネポティズム)である。
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 江戸時代の平和とは、東海道など幕府(御上・御公儀)が定めた天下の公道を通行手形を持っていれば女性や子供の一人旅が犯罪に巻き込まれずにできた事である。
 旅先で病気になったり怪我をすれば、街道筋の宿場町は御公儀・御上の命令に従って旅が続けられるように無償で保護し治療した。
 大名が参勤交代で行き交う街道は、治安が保たれた安全な公道であった。
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 毎年、何処かの藩で百姓一揆が起きていた。
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 職業人には2種類あって、特別な専門職家に生まれた者の定めとして家業を継ぐ不自由な者と、医者から乞食まで職業を自由勝手に選べる者である。
 家業を継ぐ者には、自由はないかわりに、世間の共助から安定した収入が保障され、さらに公助からの援助も期待できた。
 自由に職業を選択する者は、自助が鉄則で収入は不安定であり、社会からの共助などなにもなかった。
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 貯金・資産・資本を持たない無一文の貧しい庶民は、開店資金を高利貸から借金して仕事を始めた。
 武家や商家で奉公する者は極少数で、個人で店を構える中小商売人も少数で、大半の庶民は個人の零細商売人であった。
 中小商売人や零細商売人は、職業選択の自由があり、業種の独占権を持つ株仲間に金を納めて商売を始めた。
 業種を支配する株仲間は、売り上げの一部を上納金として納めれば「身内」として保護するが、上納金を納めず商売する者を潜りとして取り締まり、上納金を納めず商売をする無許可商売人に対しては御公儀から与えられた権限で鉄拳制裁を加えて廃業させた。
 株仲間は、搾取組織ではなく、御公儀から業種を安定的に維持する公認の独占的同業者組合で、その為に不法な運上金を巻き上げ利益を稼ぐと罰せられた。
 株仲間に入りたくない商人は、個人として別途で御公儀の重職に巨額の上納金(一種の賄賂)を納めて御墨付きを得て商売を行った。
 「株仲間・同業組合に加盟しなければ商売ができなかった」という意味で、職業選択の自由はなかった。
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 金持ちと言っても、昔のお大尽様と現代の富裕層は全然違う。
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 日本列島は、四季折々の自然が豊で、気候風土が穏やかで、農作物の実りが多く、山・野・川・海には食べられる動植物が満ち、花鳥風月プラス虫の音、多種多様な苔と良い菌で水が清く空気が爽やかで、マイナス・イオンや1/fゆらぎが充満した、殺し合いや争いの少ない平和で幸せな世界だった、は悪意に近いウソである。
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 災害に遭えば助け合い、庇い合い、励まし合って逃げるはウソで、わが身が大事、自分の命が大事として、逃げ遅れる者は家族と見捨てて一目散に逃げた。
 生きて再会できれば「運が良かった」と喜び合い、生き残って探しても見付からなければ死んだ者と思い定め運が悪かった「それまでの人生だった」と諦めた。
 動けない・働けない老親を山に捨てる「うば捨て山」、子供を増やさない為に胎児を殺す「水子」、口減らしの為に乳幼児を殺す、それが日本民族の本性である。
 親を大事にする、赤ん坊や子供を大切にする、それはウソである。
 弱者に優しいもウソ。惻隠の情もウソ。
 ブラックな現代日本には、ウソが多すぎる。
 日本民族の本性はブラックを好み、悪人として薄情、非情、冷淡、冷酷、冷血である。
 日本民族は、救い難いほどの悪人である。
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 高田好胤「人間は追い込まれた時にその人の本性が出る」
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 容姿端麗による人差別が酷く、美男や美女は得をし、醜男や醜女は損をしていた。
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 ブラックな社会と言っても、昔のブラックと現代のブラックは違う。
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 日本は稲神話による五穀豊穣の極楽の様な神の国であった、それは皇国史観愛国心が生み出した幻想、架空の夢物語、そうあって欲しいという希望の作り話であった。
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 日本列島は、毎年の如く一年中何らしかの深刻な被害をもたらす雑多な自然災害、発病したら助からない疫病の感染爆発、食料がなくなると飢餓が発生し人肉を食うような地獄となりそして餓死、全てを焼き尽くして灰にする大火、夥しい犠牲者を出す数多くの厄災が同時多発的に発生する複合的災害地帯であった。
 それが、パックス‐トクガワ、徳川の平和の実態である。
 日本民族は、防げない避けられない天災はしかたがないと諦めて逃げ回るが、何とかすれば何とかなるであろう二次災害の人災をできる限り少なくそして小さくする事に腐心し、その事を後世に残す為に公式古文書や個人の日記に書き記し、子孫が困らないようにに地域の言い伝・伝承として残した。
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 子供が読み書きソロバン(算術)を学んだのは、実利として仕事・商売・家業で損せず儲ける為であると共に、合理として災害にあっても逃げて助かる智慧・教養を養う為であった。
 つまり、生きる力、生き残る力を得る為であった。
 過酷で非情な日本の現実世界で、お為ごかしや綺麗事は有害・害毒なだけであった。
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 江戸・京・大坂の大都市では、男性人口が多く結婚できず死んでいく男性も多かった。
 男の楽しみは酒を飲む、博奕を打つ、遊郭や岡場所で女を買うであったが、飲むと打つ金があっても女を買う金がたりない男性の為に「女性が手を握らせる」という商売があった。
 若い女性であれば姿形を見せて手を握らせるが、年増の女性なら板戸の間に穴を空け手を出して手を握らせた。
 結婚できない貧しい男性にとって、若い女性や年増女性であろうと女の手を握れば観音様の手と思え一瞬でも幸せな気分が味わえて満足し、肉欲・性欲に駆られて女を襲って強姦しようという性犯罪意識は乏しかった。
 結婚できない哀れな男性は、寂しさ・悲しさ・切なさ・辛さを粋だ、男伊達だと強がりで誤魔化して他人に覚られないようにして死んで行った。
 それが、江戸時代の女性を軽視した「男尊女卑」である。
 江戸時代に人口が増えなかったのは、悲しい男性が多かったからでる。
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 真面目に働かず稼ぎが少ないのに、酒癖が悪く、博奕好きで、借金を作って遊ぶ碌でもない男を夫に持つ妻とその家族は悲惨を極めた。
 男尊女卑の江戸時代は、女性にとってブラック以上に地獄であった。
 女性が言う「亭主関白」は、女性の男性への軽蔑・見下しではなく怨念・呪いの言葉が込められている。
 故に、死んで幽霊・怨霊・夜叉となって相手に取り憑き祟って呪い殺すのは女性であって、男性ではない。
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 江戸時代を生きた庶民は、正業と定めた仕事にこだわらず、生活に困れば「こうであらねばならない」というという理想論や固定観念に縛られず、異業種であろうともその時その時に合わせて金が稼げる仕事を自由に選んび渡り歩いて生活していた。
 つまり、庶民の大半は定職を持たない渡り人であった。
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 江戸っ子は「宵越しの銭(ぜに=金)を持たぬ」は、同時多発的複合的災害地帯だから生まれた命一つを持って逃げきる身銭を持たない極貧の生き方である。
 お大尽(豪商・豪農)が行った、お天道様の下を歩く(犯罪を起こさない)、世の為・人の為、世間への恩返し、私益より公、などもこうして生まれた。
 商家や農家では、腹を空かした「おもらいさん(乞食)」が来れば勝手口から入れて食事を振る舞い、帰る時は僅かな銭を与えた。
 日本民族の相身互い、お互いさま、助け合いは、世界の自己犠牲精神によるボランティアとは違っていた。
 日本民族は、白黒・善悪・正邪をハッキリさせず、曖昧に事を収める。
 誰も反対できない道理にかなった正しいか正しくないではなく、自分が好きか嫌いかのいい加減さを好む。
 対人恐怖症・視線恐怖症・赤面症で、神経質なほど他人の評判を気にし、後ろ指を指される事や陰で悪口を言われているのではないかと嫌い恐れた。
 寝ても覚めても、何時でも何処でも、陰険にして陰湿な世間の同調圧力や場の空気に縛られていた。
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 同時多発的複合的災害地帯には、天(神)と仏はあったが絶対神天地創造の神)や救世主(メシヤ)などは存在せず、くだらない「絶対神の奇跡」や嘘っぱちの「絶対神の恩寵」などもなく、人が思いつきで作った教条的一神教の普遍宗教(キリスト教ユダヤ教イスラム教・その他)などは邪魔でいらなかった。
 熱心に絶対神やメシヤを信仰し一心不乱に祈りを捧げてもても、日本で発生する災害の一つもなくなりはしない。
 日本民族にとって、生きる上で心の支えとなる崇拝宗教=民族宗教、昔話=寓話・神話、哲学、思想はあっても、契約宗教・信仰宗教=世界宗教イデオロギー(主義主張=共産主義)はいらなかった。
 日本民族の崇拝宗教=民族宗教とは、「験担ぎ」でもあった。
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 日本の儒教は道徳教育としての論語儒教(異端儒教)であって、中国や朝鮮の絶対真理・絶対価値観・絶対理法としての中華儒教(正統儒教)とは違っていた。
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 江戸・京・大坂などの差別民(賤民・部落民)が住む貧民窟は、時代によって住人が急増したり急減したりしていた。
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 江戸時代を生きた日本人は、命を守るために望みを捨てず諦めず生き残る為に逃げ回り、生き残れたら失ったものはなかったものとして諦め、新たに生きる道・仕事・糧を探し、新たな場所で新たな生業(なりわい)を見つけて働き金を稼ぎ、新たな家族を持ち新しい生活を始めた。
 考えに考えて智慧を出し、工夫に工夫をこらして腕を磨いて技術を進歩させた。
 毎年起きる同時的複合的に多発する災害には抗えないと諦め、如何に努力し頑張っても被害を完全にゼロに防ぐ事はできない、人智の及ばない天災と絶望した。
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🎃26)27)─1─靖国神社侵入、有罪確定へ 南京事件抗議の中国籍男女。~No.58No.59No.60No.61 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2021年1月16日 産経新聞靖国神社侵入、有罪確定へ 南京事件抗議の中国籍男女
 最高裁判所=東京都千代田区(伴龍二撮影)
 最高裁第2小法廷(菅野博之裁判長)は、南京事件への抗議活動のため靖国神社(東京都千代田区)の敷地に立ち入ったとして建造物侵入の罪に問われた中国籍の郭紹傑被告(57)と厳敏華被告(28)の上告を棄却する決定をした。15日付。いずれも執行猶予付き有罪とした1、2審判決が確定する。
 判決によると、2人は平成30年12月12日、靖国神社の「外苑」と呼ばれる敷地に侵入した。郭被告が「南京大虐殺を忘れるな」と広東語で書かれた横断幕を広げ、位牌のようなものを燃やした。厳被告は様子をスマートフォンで撮影した。
 2人の弁護側は、立ち入りには正当な理由があったと無罪を主張したが、1審東京地裁判決は「管理権者は参拝目的以外の立ち入りを禁止しており、許されない」と指摘。郭被告に懲役8月、執行猶予3年、厳被告に懲役6月、執行猶予3年を言い渡した。2審東京高裁も支持した。
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💍目次)ー7ー令和皇室。正統な血統・皇統の天皇家存続の危機と女系容認論。反天皇的中道系リベラル派。~No.1 * 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 当ブログは、歴史の定説を恣意的に書き替える為に作成している歴史修正主義民族主義のブログである。
   ・   ・   ・   
 日本人は、歴史が嫌いであり、歴史が理解できないし、歴史を学ぼうとはしない。
   ・   ・   ・   
💍第126代令和の天皇(昭和35{1960}年2月23日~)。即位、令和(2019)元年5月1日~
 徳仁(なるひと)、称号は浩宮(ひろのみや)。
   ・   ・   ・   
2019-10-22
💍2)─1─天皇陛下万歳に込めた日本民族日本人の期待。~No.2No.3・ ① 
   ・   ・   ・   
即位。   
2019-09-25
💍3)─1─天皇即位の礼の儀式は「合憲」か「違憲」か。~No.4No.5・ 
2019-05-01
💍3)─2─令和元年5月1日。新たな今上天皇の即位。~No.6No.7・ 
2019-05-03
💍3)─3─傲慢な日本人が壊す、皇室が厳守してきた不磨の慣習法と歴代天皇の遺言・遺訓・家訓。~No.8No.9・ 
2019-05-10
💍3)─4─日本国憲法象徴天皇制度とは、皇室を軟禁、監視し、天皇・皇族の人権や自由を奪っている。~No.10No.11・ 
2019-10-28
💍3)─5─海外メディアは「即位礼正殿の儀(即位の礼)」で天皇を改めて評価する。~No.12No.13・ 
2019-11-15
💍3)─6─世界は天皇陛下即位礼を祝福した。ポーランド。〜No.14No.15・ 
2019-11-25 
💍3)─7─ローマ教皇来日。フランシスコ教皇「戦争のため原子力使用は犯罪」。〜No.16No.17・ ② 
   ・   ・   ・   
皇室に対するテロ
2019-05-06
💍4)─1─皇居上空に出没するドローンを法整備で完璧に防ぐ事は困難。 ~No.18No.19・ ③ 
   ・   ・   ・   
男系皇位継承 
2019-11-24
💍5)─1─皇位継承の行方。男系皇位継承と女系皇位継承で国論は分裂。〜No.20・  
2020-11-06
💍5)─2─男系維持、旧宮家養子を 保守系議員団、皇位継承で政府提言。〜No.21 ④ 
   ・   ・   ・   
女系天皇即位・女性宮創設。
2018-09-10 女性
💍6)─1─左派系メディアは、皇族の減少を食い止めるために『女性宮家を創設すべき』と主張してきた。~No.22No.23・ @ 
2019-12-26
💍6)─2─女性天皇女系天皇即位、女系宮家創設の容認論と現代の道鏡事件。~No.24No.25・ 
2019-06-06
💍6)─3─護憲派人権派・男女平等推進派は、皇統は伝統(血統)よりも憲法が優先すると主張している。~No.26No.27・ 
2019-07-12
💍6)─4─愛子天皇待望論と悠仁親王廃嫡論。~No.28No.29・ 
2019-07-14
💍6)─5─日本国内外に暗躍する男系皇室消滅を企む陰謀論。~No.30No.31・ ⑤ 
   ・   ・   ・   
令和2年。
国内の共産主義
2020-01-15
💍7)─1─2020年 中国共産党は困った時に“天皇利用”を悪用して窮地から逃れる。〜No.32No.33・ 
2020-01-27
💍7)─2─京都とマルクス主義者・共産主義者。〜No.34No.35・ 
2020-01-28
💍7)─3─日教組教研集会 政治色にじむリポート発表「日本はひどい」。2020年。〜No.36No.37・ ⑥ 
   ・   ・   ・   
女系母系女性天皇即位賛成派。
2020-02-01
💍7)─4─自民党政府内での皇位継承策の見送り論。女性宮家は必要と言及も。〜No.38No.39・ 
2020-09-23
💍7)─5─菅政権は皇位継承議論をどう進めるか、政府・与党幹部に「女系」容認も。〜No.40 
2021-02-26
💍7)─6─旧宮家皇籍復帰意向確認「現時点で考えず」 加藤官房長官。〜No.41No.42 ⑦  
   ・   ・   ・   
2020-11-08
💍8)─1─立皇嗣宣明の儀。秋篠宮殿下の立皇嗣の礼。男系父系皇位継承順位1位。〜No.43No.44No.45 ⑧  
   ・   ・   ・   
皇位継承議論。
2020-12-08
💍9)─1─現代の政治家や学者は正統な男系父系天皇による皇位継承の議論に真剣ではない。〜No.46No.47No.48 
2020-12-13
💍9)─2─「男系男子による皇位継承女性差別」。国連女性差別撤廃委員会を利用する反天皇反日的日本人達。〜No.49No.50No.51 
2020-12-14
💍9)─3─日本の皇室が手本とすべき欧州の男系女系双系継承制度。〜No.52No.53No.54 ⑨ 
   ・   ・   ・   
2020-12-31
💍10)─1─日本の中道系リベラル派は、フランスの啓蒙思想の強い影響を受けている。〜No.55No.56No.57 ⑩  
   ・   ・   ・   
令和3年。
皇位継承有識者会議。
2021-03-24
💍11)─1─皇位継承有識者会議。リベラル派・革新派の正統性男系父系旧宮家皇籍復帰反対。〜No.58 
2021-12-22
💍11)─2─皇位継承議論。男系継承前提で女系容認が流れる。〜No.59  
2021-12-24
💍11)─3─多数派の正当性女系母系天皇容認派による皇位継承報告書批判。〜No.60 ⑪ 
   ・   ・   ・   
2021-05-21
💍12)─1─「拉致被害者全員奪還」を口にしたらキリスト教団をクビになった元牧師。〜No.61No.62No.63 ⑫ 
   ・   ・   ・   
2021-07-16
💍13)─1─死者の民主主義。長期的願望=民族・国民の理想=血筋世襲の宗教的正統男系父系天皇。〜No.64No.65No.66 ⑬ 
   ・   ・   ・   
2021-09-08
💍14)─1─2021年自民党総裁選。旧皇族皇籍復帰案。旧宮家養子案。〜No.67No.68No.69 ⑭ 
   ・   ・   ・   
2021-11-14
💍15)─1─国民は「市民の絶対化」で天皇・皇族を下僕として天皇制度を廃絶しようとしている。〜No.70No.71No.72  
   ・   ・   ・   
2021-12-07
💍16)─1─小室夫妻のNYセレブ逃避行は国内外の反天皇反民族反日本勢力による陰謀。〜No.73No.74No.75 
   ・   ・   ・   
2021-12-13
💍17)─1─反論できない皇族をサンドバッグのように扱う反天皇反民族反日本的日本人。〜No.76No.77No.78  
   ・   ・   ・   
2021-12-26
💍18)─1─令和皇室の存在危機。雅子皇后陛下愛子内親王を傷つける心ない噂。〜No.79No.80No.81 
   ・   ・   ・   


🔮⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳

⚔13)─3─1580年、スペイン・ポルトガルの同君連合成立が日本に宗教悲惨をもたらした。〜No.45 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 戦国時代から日本は、隣国の中華(中国・朝鮮)ではなく、地球の裏側の西洋と深くつながっていた。
   ・   ・   ・   
 スペインは女系母系継承を主張してポルトガルを併合した。
 スペインは、ポルトガルが富を得ていた石見産銀と日本人奴隷売買の対日交易を引き継いだ。
   ・   ・   ・   
 西洋の王家では、女系母系継承と同時に妻継承により夫である他国王との共同統治が認められている。
   ・   ・   ・   
 西洋キリスト教の隣人愛信仰は、宗教的白人至上主義で宗教差別と人種差別である。
 中華儒教の「朋有り、遠方より来る、また楽しからずや」の朋(とも)は、民族差別・血族差別、教養差別、身分差別である。
 日本民族は、西洋キリスト教と中華儒教から人差別されていた。
 大陸世界を支配していたのは「差別」で、日本民族は気が弱いから差別が支配する大陸世界から逃げてきた弱者であった。
 が、痛みを知る弱者こそが、新たな差別を生み出し、陰湿・陰険なイジメ・嫌がらせを行い、場の空気・同調圧力で醜いブラック社会をつくる。
 日本人を奴隷として売ったのは日本人である。
 現代日本人は、日本人を売った日本人の子孫である。
   ・   ・   ・   
 世界史の窓
 フェリペ2世
 16世紀後半、ハプスブルク家スペインの全盛期の国王。カトリック政策を強化し、新教国イギリスと対立、オランダの独立運動を弾圧した。アメリカ新大陸からアジアにかけて広大な「太陽の沈まぬ国」といわれたスペインを統治した。
 フェリペ2世 スペイン=ハプスブルク家スペイン王(在位1556~98)でスペイン絶対王政の全盛期の王である。カルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)の長男。母はポルトガル王女のイサベル。1556年、カルロス1世の引退によって、スペイン王となる(神聖ローマ皇帝位はカールの弟フェルディナントが継承した)。
 カトリックの盟主としてのフェリペ2世
 「異端者に君臨するぐらいなら命を100度失うほうがよい」と述べたフェリペ2世は、カトリックによる国家統合を最も重視した。プロテスタントだけでなくユダヤ教徒、モリスコ(キリスト教に改宗したイスラーム教徒)の動きは厳しく告発され、何度も火刑が行われた。異端審問と共に禁書目録が作られ、エラスムスの書物も発禁とされた。<『新版世界各国史』16 スペイン・ポルトガル史 p.161 右上の肖像も同書 p.158 による>
Episode フェリペ2世、はじめて笑う
 フェリペ2世は、自らカトリック世界の最高の保護者たらんとして、領内のカトリック以外の宗派には厳しい弾圧を加えた。当時ヨーロッパでは旧教と新教の両派による激しい宗教戦争が展開されており、フランスでもユグノー戦争の最中の1572年にサンバルテルミの虐殺が起こって、多数の新教徒が殺害された。その知らせを聴いたフェリペ2世は、それまで笑ったことのない冷酷な男だったが、生まれて初めて笑ったと伝えられる。
 太陽の沈まぬ国
 フェリペ2世は、父から継承したスペイン、ネーデルラントナポリシチリアなどのヨーロッパ内の領地と、アメリカ大陸、アジアのフィリピンなどの領土を支配し、その支配領域は広大であった。
 ポルトガル併合
 さらに1580年には、ポルトガル王家が断絶したことにつけ込み、母がポルトガル王家出身であったことから王位継承権を主張し、1581年にはコルテス(身分制議会)で即位を認めさせ、ポルトガル王としてはフェリペ1世となった。このポルトガルを併合によって、イベリア半島を統一的に支配し、さらにアフリカ・インド・東南アジア・中国に点在する海外領土を獲得して、フェリペ2世のスペインはまさに太陽の沈まぬ国を実現した。
 無敵艦隊の敗北とオランダの喪失
 カトリックの保護者としての強い自覚のあったフェリペ2世は、カルヴァン派の新教徒ゴイセンの多かったネーデルラントに対してもカトリックを強要した。それに反発して1568年にはネーデルラント独立戦争が始まると、その独立運動を厳しく弾圧し、さらにネーデルラントを支援するイギリスを討とうとして1588年、無敵艦隊を派遣したが、イギリス海軍に敗れてしまった。この敗北はスペインの全盛期は終わりを告げることとなる。
 ネーデルラントの独立 
 ネーデルラントは1581年に独立を宣言、独自の経済活動を開始した。スペインにとって経済的基盤であったネーデルラントとその中心都市アントウェルペンを失うと、本国では基盤となる毛織物産業がオランダなどに押されて低迷し、他に産業を持たなかったので、その経済は急速に衰退した。スペインは17世紀にはその地位をオランダ、イギリスに奪われ没落することとなる。
 Episode 日本の少年使節を謁見したフェリペ2世
 1584年11月11日、フェリペ2世(57歳)が、フェリペ3世(6歳)の皇太子宣誓式をマドリードのサン=ヘロニモ教会で挙行した。その式に列席した人びとの中に、日本の九州の大名がスペイン王ローマ教皇使節として派遣した4人の少年たち(天正少年使節)がいた。ついで14日には4人はフェリペ2世(この時期にはポルトガル王でもあった)に謁見、所期の目的の一つを果たした。彼らは1582年に宣教師のヴァリニャーノに伴われて長崎を出航、西回りでリスボンに上陸し、マドリードに来たのだった。ついで85年3月にはローマに入り、教皇グレゴリウス13世に謁見している。彼らが帰国した1590年には日本の政権は豊臣秀吉に移り、キリスト教禁止に転じていた。<松田毅一天正少年使節講談社学術文庫 p.186,174>
 借金大国スペイン
 大航海時代アメリカ新大陸の銀はスペインが独占し、アントウェルペンなどを経由してヨーロッパにもたらされ、価格革命が起こった。スペイン自体も、マドリードに宮廷文化を開花させ、繁栄を誇ったかに見える。しかし、スペイン財政の実態は、借金王国と言える状態であった。それは先代のカルロス1世(カール5世)の時から続く、フランスとのイタリア戦争、地中海方面におけるオスマン帝国との戦争、オランダの独立戦争とそれに続いて起こったイギリスとの戦争と、戦争がたて続けに起こっており、その戦費は大きくスペイン財政を圧迫していた。その戦費捻出のため、フッガー家やヴェルザー家など、各国の富豪から借金していたので、アメリカ新大陸からもたらされる銀は多くがその返済に充てられ、スペインは負債に苦しんでいたのである。フェリペ2世は1557年に破産宣告(国庫支払い停止宣言)を行い、債務をその額の5%の年金支払いとする長期公債に切り替えて窮地を脱し、その後も支払い停止措置を60年、75年、96年と繰り返し出している。フェリペ2世はカトリックの守護者を以て自認し、カトリック世界に君臨するため、異教徒や新教徒との戦いを続けたのだが、それはスペインという一個の国家の守備範囲を大きく超えることだった。もはやそのような世界帝国は不可能であったことをフェリペ2世時代のスペインは理解することができなかったと言える。 → スペインの衰退
 Episode 世界支配者の四度の結婚
  ・  ・  
 スペインのポルトガルの併合
 1580年、スペインのフェリペ2世がポルトガル王位を継承し、同君連合となり、実質的には併合した。スペインはポルトガル植民地も併せ「太陽の沈まぬ国」となる。1640年にポルトガルは独立を回復するが、衰退が進んだ。
 イベリア半島西南部をしめるポルトガルとその他の大半を占めるスペインの両国は、大航海時代を通じて交易圏の拡大を競ってきた。16世紀の後半に入ると、ポルトガルの衰退が始まり、スペインがその併合を狙うようになり、ポルトガルセバスティアンがモロッコ遠征に失敗して戦死し、王朝が断絶した1580年に、スペインのフェリペ2世が王位継承権を主張して軍隊を派遣、威圧のもとで併合した。これによってスペインはイベリア半島全域を支配し、しかもポルトガルの海外領土も手に入れたので、その領土は全世界に及び、まさに「太陽の沈まぬ国」となった。
 同君連合の形式
 1580年に実現したスペインによるポルトガル併合は、フェリペ2世がポルトガル王位を兼ねるという同君連合の形をとり、ポルトガルという国家が消滅したのではなく、その国家機構は残り、一定の自治も認められていた。ポルトガル側には国王セバスティアンの無謀な戦争(モロッコ遠征)で出費が増え、捕虜の身代金も多額に上り、困窮していた貴族はスペインとの併合を望み、インド交易の後退で衰退していた大商人はスペイン領の新大陸の銀を手にいれることと、イギリス・フランスの海賊船に対するスペイン艦隊の保護を求めて、スペイン王の国王として戴くことを受け容れたのである。
 スペイン王フェリペ2世は、ポルトガル王フィリペ1世として即位するに当たり次の条件を認めた。<金七紀男『ポルトガル史』彩流社 p.123>
1,ポルトガル王国の伝統的な自由・特権・法律・慣習を尊重し、国会(コルテス)も存続する。
2,ポルトガル総督ないし副王はポルトガル人とする。
3,行政・司法などの官僚機構および軍隊はポルトガル人で運営される。
4,ポルトガル領植民地における商業はポルトガル人のみに許される。
5,ポルトガル・スペインの国境税関は廃止される。
6,ポルトガル語は引き続き公用語として、通貨もそのまま認められる。
 このように、ポルトガル側から見れば、この併合(同君連合)は専ら経済的効果を期待してのものであったことが判る。大きな民族的抵抗もなく進められた併合であったが、ポルトガル人ではない国王を戴くことに次第に違和感を感じる心情が強くなったようで、アルカセル=キビールの戦いで「行方不明」になったセバスティアン国王が生還してスペインの軛(くびき)から解放してくれるという信仰(セバスティアニズモ)が次第に民衆の心を捉えるようになり、反スペイン暴動も起こるようになった。この状態は 1640年にポルトガルが反乱を起こして独立を回復するまで約60年間続く。 → ポルトガルの独立回復
 フェリペ2世の野心
 16世紀後半にはいるとポルトガルの富は、西ヨーロッパに流出し、国力は衰退が始まっていた。スペインもカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)はフランスとの抗争、宗教改革オスマン帝国のウィーン包囲などに直面し、財政は困窮していた。次のフェリペ2世(スペイン=ハプスブルク家)もオランダ独立戦争が始まり、国力の回復の必要に迫られていた。そこでフェリペ2世はポルトガル王となったセバスチャンの母がスペイン王家出身であることを足がかりに、ポルトガルの併合を策した。
 ポルトガル王の失政
 ポルトガルのアヴィス朝は1557年にジョアン3世が没し、セバスチャンが王位を継承したが幼少であったため前王の王妃カタリーナが摂政となった。王妃はスペイン王カルロス1世の妹であったことから、スペインの影響力が強まった。68年、セバスチャンは親政を開始するが、イエズス会の強い影響のもとで育った王は政治に関心を示さず、時代錯誤的な十字軍派遣の妄想にとりつかれ、北アフリカ征服を夢見ていた。1578年、北アフリカのモロッコオスマン帝国軍の支援をえた叔父のムレイ・アブデルマルクによって王位を剥奪されたムレイ・ムハマッドがポルトガル王に援助を求めてきた。24歳のポルトガルセバスティアンは7月14日、6000人の外国人傭兵を含む1万7000の大軍を率いて出陣、8月4日のアルカセル・キビールの戦いで対戦したが、稚拙な戦法が禍して敗れ、戦死してしまった。<金七紀男『ポルトガル史』彩流社 p.116>
 ※ポルトガルがスペインに併合される要因の一つがモロッコとの戦いに敗れたことであることに注意しておこう。なおこの頃のモロッコはサード朝が勃興した時期である。
 フェリペ2世のポルトガル王位継承
 王位は叔父のエンリケが継いだが、これも老人で1年足らずで死亡し、ここにポルトガル王室のアヴィス朝が断絶した。1580年にフェリペ2世は王位継承権を主張してポルトガルに乗り込み、1581年、コルテス(身分制議会)で即位を認めさせ、ポルトガル王フェリペ(ポルトガル語ではフィリペ)1世となった。一部で反対する民衆が蜂起し、王族の一人を擁立して戦ったが、簡単に破られ、それ以外の組織的な抵抗はなかった。フェリペ2世は、ポルトガルに一定の自治権を与える一方、国境関税やポルトガル王室の財政負担が無くなったことは商人層をよろこばせた。こうしてスペインのフェリペ2世はポルトガルの本土と海外領土を合わせ、まさに「太陽の沈まぬ帝国」となった。以後、ポルトガルではフェリペ2世・3世と続き、フェリペ(フィリペ)王朝という場合もある。
 オランダ独立戦争との関係
 しかし、この間、オランダは実質的な独立を達成し、またイギリスもエリザベス女王のもとで海外発展をとげ、その大帝国の維持は次第に困難になっていった。旧ポルトガルの海外領土も、ホルムズ、セイロン島、マラッカ、モルッカなどが次々とオランダに奪われていく。 → スペインの衰退
 スペインがポルトガルを併合したとき、スペインと同じようにポルトガルにおいてもユダヤ教徒追放令を出した。ユダヤ人は新教徒が独立運動を展開していたネーデルラントアムステルダムに移住した。かれらはダイヤモンド加工なのの職人であったので、これを機にアムステルダムの商工業が発展することとなった。
 またスペインは独立運動を妨害するために、オランダ船のリスボンへの寄港を禁止したが、そのためかえってアムステルダムのオランダ商人が独自で海外に進出していく契機となった。オランダは1602年には東インド会社、1621年に西インド会社を設立してポルトガル領で盛んに略奪を行い、ポルトガル商人を駆逐していった。
   ・   ・   ・   
 フェリーペ2世は、中南米大陸の銀山に続いて日本の銀山も手に入れるべく、ポルトガルと修道会を手足の如く使い始めた。
 本国から軍隊を派遣できない為に、日本人キリシタンを手兵として使う事に決めた。
 日本人キリシタン兵団を組織する為には、より多くの日本人をキリスト教に改宗させる必要があった。
 神聖な使命に燃える行動的宣教師は、キリシタン大名の領地を輝かしい神の王国に作り変えるべく、敬虔な日本人キリシタンを組織化して異教徒が信仰する神社仏閣を徹底的に破壊するという宗教弾圧を行っていた。
 それは、日本に対するキリスト教勢力の宗教侵略であった。
 白人キリスト教徒商人は、中世キリスト教会の協力を得て日本人奴隷交易を行っていた。
   ・   ・   ・   
 非キリスト教非白人の日本は、正当防衛の自衛犯罪としてキリシタン弾圧を行った。
   ・   ・   ・   
 スペインは、平和的に日本人キリシタンを増やす為に、経教一体の原則で、大名・領主に南蛮貿易での利益を保障させるかわりに布教活動の自由を認めさせた。
 そして、キリスト教化した地域の統治権を異教徒日本人領主から取り上げて日本人キリシタン領主に与え、そして最終的にはスペイン人と日本人の間で生まれた混血児を管理者として植民地支配を完成させようとした。
 異教徒日本人を殺すのが日本人キリシタンであれば、スペインはもちろん敬虔な白人キリスト教徒は十戒の「殺すなかれ」という戒めを冒さず、罪悪感を感じる必要がない。
 その実例が、中南米諸国である。
   ・   ・   ・   
 中世キリスト教会は、世界中で信者を増やし、世界を一つの神の王国にする為にフェリーペ2世の野望に協力した。
 つまり、結果が良ければ経過が悪くても気にしないという事である。
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 徳川家康は、政教分離と経教分離の原則で政治・経済と宗教を切り離すべく、経教一体の原則で南蛮貿易キリスト教布教を押しつけてくるスペイン・ポルトガル連合王国を拒否し、徳川幕府主導の朱印船貿易網を東南アジアに広げた。
 そして、政教分離と経教分離の原則を受け入れるオランダとイギリスの2ヵ国通じて西洋交易を続けた。
 徳川家光は、上から目線で傲慢なイギリスを排除し、オランダのみを貿易相手国とする限定的鎖国を完成させた。
 キリスト教は禁止し、キリシタンを弾圧した。
 そして、海禁策として日本人の海外への渡航を禁止し、禁令に背いた者は大罪人として処刑した。
 江戸幕府は、他国を頼らない、他国に依存しない、国内のみで生きられる自給自足体制を確立した。
 が、西洋からキリスト教抜きの新しい知識、文化、技術、医学を蘭学として摂取選択の後に制限付きで受け入れた。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、昔の日本人と比べて歴史力・文化力・宗教力は乏しく、日本はおろか世界・西洋さえ理解できない。
   ・   ・   ・   
 昔の日本・日本民族は、現代の日本・日本国民とは違い、世界・西洋に対して復讐・報復の権利を持っていた。
 GHQは、日本国から復讐権・報復権を剥奪する為に自由・民主主義価値観に基づいく新たな歴史教育を始め、世界・西洋に都合が悪い歴史的事実を抹消する為に軍国日本の正当性を証明する本を全て焚書処分した。
 日本の中に、連合国・国連による日本占領政策に協力する日本人が多数存在していた。
 日本民族の復讐権・報復権を無効にする為につくられたのが、日本国憲法と国連の敵国条項で、日本人にそれを守らせる為に存在するのがリベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、護憲派人権派、国連主義者である。
   ・   ・   ・   
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 フェリペ2世(Felipe II, 1527年5月21日 - 1598年9月13日)は、ハプスブルク家カスティーリャ王国アラゴン王国(=スペイン)の国王(在位:1556年 - 1598年)。イングランド女王メアリー1世と結婚期間中、共同統治者としてイングランド王フィリップ1世(Philip I)の称号を有していた。また1580年からは、フィリペ1世(Filipe I)としてポルトガル国王も兼ねた。
 スペイン帝国・スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した偉大なる王で、絶対主義の代表的君主の一人とされている。その治世はスペイン帝国の絶頂期に当たり、ヨーロッパ、中南米、アジア(フィリピン)に及ぶ大帝国を支配し、地中海の覇権を巡って争ったオスマン帝国を退けて勢力圏を拡大した。さらにポルトガル国王も兼ね、イベリア半島を統一すると同時にポルトガルが有していた植民地も継承した。その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。
 1925年発行の100ペセタ紙幣に肖像が使用されていた。
 生涯
 出生から即位まで
 1527年神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)とポルトガル王マヌエル1世の娘イザベルとの間に生まれた。スペイン王にして神聖ローマ皇帝に選出された父カルロス1世は当時のヨーロッパで最大の勢力を持ち、ヨーロッパ以外の広大な領土とあわせて、その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。なお、現在のフィリピン共和国フィリピン諸島などの「フィリピン」は、1542年、スペイン人のコンキスタドールによってラス・フィリピナス諸島と命名されたことに起源を発するが、これは、当時アストゥリアス公だったフェリペの名に由来する。
 フェリペは1556年1月16日、父の退位によりオーストリアを除く領土を受け継ぎ、スペイン王フェリペ2世として即位した。28歳であった。既に1521年にオーストリア大公、1531年にローマ王となっていた叔父フェルディナントは、この時に皇帝位を継承した。こうしてハプスブルク家は、スペイン・ハプスブルク家オーストリアハプスブルク家に分化した。

 結婚生活とフェリペ2世の家族
 最初の妻マリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル
 2番目の妻、イングランド女王メアリー1世
 3番目の妻エリザベート・ド・ヴァロワ
 最後の妻アナ・デ・アウストリア
 フェリペ2世王太子時代の1543年、ポルトガル王女マリア・マヌエラ(1527年10月15日 - 1545年7月12日)と結婚した。2人は同い年であった。マリア・マヌエラの父はフェリペの母イザベルの兄ジョアン3世、母はカール5世の妹カタリナであり、父方でも母方でもフェリペの従妹に当たる。1545年に長男ドン・カルロスをもうけるが、同年に彼女は死去した。
 1554年、イングランド王国の女王メアリー1世(1516年2月18日 - 1558年11月17日)と結婚した。メアリー1世は父カール5世と母イザベルの共通の従妹に当たる。スペイン王家からすればフランスのブルボン家との対抗上、メアリー1世からすれば国内での親カトリック政策の後ろ盾として、互いを求めた政略結婚であったが、11歳年上のメアリー1世とは性格が合わず、1556年にフェリペは即位のためスペインに帰国、1年半後に3ヶ月ほどロンドンを再訪したのみで別居状態となった。すでに高齢出産の年齢に達していたうえメアリー1世は婦人科系の病に冒されていた模様で、子をもうけないまま1558年に死去した。
 1559年、フランス王アンリ2世の長女エリザベート・ド・ヴァロワ(1545年4月2日 - 1568年10月3日)と結婚した。エリザベートの母はカトリーヌ・ド・メディシスであった。この結婚はスペイン・フランス両国で結ばれたカトー・カンブレジ条約によるものであり、エリザベートはもともとフェリペ2世の一人息子ドン・カルロスの婚約者であった。エリザベートは、イサベル・クララ・エウヘニアとカタリーナ・ミカエラの2女をもうけたが、彼女も1568年に死去した。なお、その数ヶ月前にドン・カルロスも死去している。オラニエ公ウィレム1世などから、フェリペ2世が妻エリザベートと息子ドン・カルロスを毒殺したとして非難されているが、その真偽は不明である。
 1568年、オーストリアハプスブルク家のアナ・デ・アウストリア(1549年11月1日 - 1580年10月26日)と結婚した。アンナの父である神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世はフェリペ2世と同年生まれの従弟であった。さらに彼女の母マリアはフェリペ2世の妹であるという関係から、2人は伯父と姪の結婚となるため、ローマ教皇ピウス5世が当初は反対したという経緯がある。彼女とは4人の息子と1女(マリア)をもうけたが、フェリペ以外のいずれの子供も夭折した。
 残された子供はイサベル・クララ・エウヘニア、カタリーナ・ミカエラ、フェリペ(後のフェリペ3世)だけであり、家庭的には恵まれない人物であった。
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 ウィキペディア
 日本とポルトガルの関係(ポルトガル語: Relações entre Japão e Portugal、英語: Japan–Portugal relations)では、日本とポルトガルの関係について概説する。なお、1581年から1640年まで、スペイン王ポルトガル王を兼ねている(ポルトガルの歴史参照)が、ポルトガル統治機構などは維持されているため、本稿ではその時期も含めて記述する。
 鎖国まで
 「南蛮貿易」も参照
 大航海時代以後ポルトガルは積極的な海外進出とブラジル経営を中心として国力を伸長させ、16世紀初めには東南アジアへ進出し、日本近海へも活動域を広げ始めていた。1541年7月27日、ポルトガル船(あるいは明船)が豊後国神宮寺浦に漂着したのが日本へのポルトガル人の最初の上陸であったとされている(発見のモニュメント)。そして1543年、種子島ポルトガル商人が漂着し、鉄砲伝来が起こる。ポルトガルは当時、アジア地域へ植民地・奴隷の確保、及び貿易相手国を求め入植・進出を行っており、日本に上陸した当初からポルトガル人による日本人奴隷貿易が行われた(後述)。日本との接触ののち通商を求める商人の動きも活発化した。また、貿易はキリスト教布教を伴って行われるものとの戦略があり、貿易商人と共に多くの宣教師も日本を訪れる事となった。1549年にはフランシスコ・ザビエルが日本を訪れキリスト教布教活動を行っている。その後、織田信長らの庇護のもと両国間で南蛮貿易が開始され、1557年にマカオの居留権を獲得したポルトガルは同地と九州を拠点としながら貿易を展開していった。ポルトガルからは多くの製品、文化が日本に流入していった一方、日本からは銀などがポルトガルへ流出した。同時に、九州を中心として宣教師によるキリスト教布教も行われ、キリシタン大名なども誕生し、天正遣欧少年使節の派遣なども行われた。
 1603年には、『日葡辞書』がイエズス会によって長崎で発行された。4年以上の歳月をかけて編纂され、中世の日本語とポルトガル語を研究するうえでの貴重な資料となっている。
 ポルトガルによる日本人奴隷貿易
 詳細は「ポルトガル奴隷貿易#アジア人の奴隷」を参照
 詳細は「バテレン追放令」を参照
 16世紀から17世紀にかけてポルトガル人による日本人奴隷貿易が行われた。1543年にポルトガル人が日本に初上陸した当初から、奴隷貿易は始まっていたと見られている。ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で日本人は奴隷として売りつけられ、それは大規模な奴隷交易へと発展した。天正10年(1582年)ローマに派遣された天正遣欧少年使節団は、モザンビークや欧州など世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃し衝撃を受けている。豊臣秀吉の言を伝える『九州御動座記』には、「バテレンキリシタン)どもは、諸宗を自分達のキリスト教に引き入れ、それのみならず男女数百の日本人を黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の苦しみ以上に、生きながらに皮をはぎ、あたかも畜生道の有様である」との記述がある。同座記には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等であった。
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