⚔16)─4─戦国時代の南蛮貿易は日本のシルバー・ラッシュ。国際金融を動かした石見産銀。~No.64 

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 世界的なジパング(日本)は、黄金の島国ではなく銀鉱山王国であった。
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 ザビエルが来日した目的は二つあり、一つ目は神聖にして崇高な福音と隣人愛の信仰を日本に広める事と、二つ目は俗事の経済として石見銀山の情報を収集する事であった。
 宣教師は未開地の伝道者であると共に、キリスト教会への現地情報の報告者であり、白人キリスト教徒商人の商取引仲介者であり、侵略軍の従軍神父と従軍医師であった。
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 日本に伝来したキリスト教は、インド発祥の仏教とは違い、平和と愛と幸福をもたらす宗教ではなかった。
 日本民族の宗教観・死生観・人生観・道徳観において、キリスト教を必要としなかった。
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 大航海時代において、一攫千金の夢を野望でアジアに向かって船出した冒険者達が目指したジパングとは、銀鉱山王国(シルバーランド)であって黄金の島国(ゴールドランド)ではなかった。
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 島根県
 歴史を動かした、世界の中の石見銀
 大航海時代の16世紀、世界の注目を集めた石見銀山。一大産業遺跡として栄えた歴史は、今、緑深い山中に静かに眠っている。石見銀山遺跡は、7月2日、ニュージーランドで開催された世界遺産委員会で世界遺産に登録された。ユネスコの諮問機関・国際記念物遺跡会議(イコモス)の「登録延期」勧告を受けたが、関係者の粘り強い説得と働きかけが功を奏し、無事「登録」にこぎつけた。日本で14番目、産業遺産としてはアジア初となる石見銀山遺跡の世界的な価値とその魅力を、改めて探る。
 世界の海を渡り、東西の文化交流を生み出した石見銀
 ヨーロッパ諸国がアジアや新大陸諸国の産物を求め、海を渡っていた大航海時代。交易によって莫大な富を得られることを知ったヨーロッパ人たちは、遭難や海賊からの襲撃、病気の危険をかえりみず、競って海外進出を試みた。そして大量流出する日本銀を媒介に中国、朝鮮、日本間の交易が活発化しているという噂を聞きつけ、日本の沿岸にヨーロッパ人が乗る船が姿を現すようになった。目的は安価で高品位な日本銀。真っ先に日本に上陸したポルトガルは、日本と中国との中継貿易で得た銀を用いて東アジアで香辛料や絹織物を入手し、ヨーロッパ市場で巨利を得ていった。
 このような時代にヨーロッパ諸国で作成された日本地図には、石見の位置に唯一「銀鉱山王国」「銀鉱山」と記されている。数少ない情報を元に作成された地図ゆえ、いかに当時のヨーロッパ人が重要視していたかが推測される。
 平戸で英国商館長を務めたリチャード・コックスは、江戸初期の日本について記した日記の中で、良質な日本銀を「ソーマ」銀として度々記載している。石見銀は、銀山のあった佐摩村にちなんでこう呼ばれ、信頼性の高い銀ブランドとして流通していたのである。
 石見の銀を媒介にして、世界中の価値ある物資が流通するとともに、西洋と東洋の経済的、文化的交流が生まれたのである。
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 石見銀山を中心に日本で生産された大量の銀が、貿易を通じて16世紀から17世紀の東アジアへ流通していた。このころ、金銀や香辛料を求めて自らの文明圏を越えて世界に活動範囲を広げつつあったヨーロッパ人が東アジア貿易に参入し、東西の経済・文化交流を生み出したことは、世界的にも重要である。
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 石見銀山遺跡とは
 世界に知られた石見銀山
 海を渡った石見銀
 16世紀〜17世紀の約100年の間には大量の銀が採掘され、大内氏、尼子氏、毛利氏といった戦国大名の軍資金や江戸幕府の財源として使われました。また、石見銀山が佐摩村にあったことから「ソーマ(Soma)銀」と呼ばれ、海外にも数多く輸出され、中国や朝鮮半島などのアジア諸国ポルトガルやスペインなどのヨーロッパ諸国を交易で結ぶ役割の一端を担いました。17世紀前半の石見銀の産出量は年間約1万貫(約38t)と推定され、世界の産出銀の約3分の1を占めていたといわれる日本銀のかなりの部分を産出していたと考えられています。
 16世紀の銀の流れ 1568年(永禄11年)、ポルトガル人の地図製作者フェルナン・ヴァス・ドラードが、インドのゴアで作った「日本図」。
 東日本の形が不明確で、列島がいわゆる「エビ形」をしている。石見の位置にポルトガル語で「R・AS MINAS DA PRATA(ミナス ダ プラタ)」=銀鉱山王国=と記載されています。現在、スペイン・マドリードのアルバ公爵家が所蔵しています。
 日本にキリスト教を伝えたスペインのフランシスコ・ザビエルは、インドのゴアからポルトガルのシモン・ロドリーゲス神父にあてた手紙に「カスチリア人はこの島々(日本)をプラタレアス(銀)諸島と呼んでいる。(中略)このプラタレアス(銀)諸島の外に、銀のある島は発見されていない。」(『1552年4月8日付けゴア発パレード/シモン・ロドリーゲス宛書翰』)と書かれており、当時日本が世界における銀の一大産地であったことがわかります。
 また、海外諸国の文献にも、「福建の唐人が銀を買うために日本へ行き、風に吹き流されて朝鮮にいたった」(『朝鮮中宗実録』)や、「インドのカンパヤの薬品やマラバル・南洋諸島の香料を積んでシナに向かう船は(中略)のちに日本銀を積むのが主要な目的となったため、ナウ・ダス・プラタス(銀船)と呼ばれるにいたった」(『フレデリチ航海記』)と書かれており、石見銀山などの日本銀が大量に海外へ運ばれた様子を知ることができます。
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 Blue Signal 西日本の美しい風土
 世界に輝いた銀鉱山への旅
 石見銀山——文化財世界遺産
 中世ヨーロッパの地図に記された銀山王国
 蘇る輝き、刻みつづける歴史ー石見銀山
 16世紀の大航海時代、東方の銀山王国石見の噂は遠くヨーロッパまで届き、航海図にはその地名が記された。そこで採掘、精錬される石見銀は戦国大名の財源を支え、ヨーロッパと東アジアをつなぐ世界交易の主役となるが、400年の鉱山の歴史の終焉とともに深い谷間で長い眠りについた。その銀鉱山が世界の産業遺産として、今ふたたび世界に輝きを放つ。
 石見銀山と大森の町の暮らしを訪ねた。
 仙ノ山中腹より要害山(標高414m)と日本海を望む。左手の山頂の丸い山が要害山で、かつて山吹城が築かれていた。戦国時代にはこの城を舞台に、大内氏、尼子氏、毛利氏が銀山をめぐる激しい争奪戦を繰り広げた。
 『ドラード/日本図(1570年影印本)』。ヨーロッパで最初の単独日本図。石見付近にポルトガル語で「R AS MINAS DA PRATA)銀鉱山王国群)」と記載されている。(島根県教育委員会蔵/元版:鹿島出版会)
 仙ノ山の頂につづく勾配の急な山道を登っていくと、不意に、山の斜面に要塞のような巨大な廃虚が現れた。高さ20m、幅60mの岩盤には大小無数の穴が穿[うが]たれ、岩盤をノミで削って造った長い階段が設けられている。発掘前にはうっそうと茂る雑木や竹林に覆われて谷間に埋もれていた廃虚は、石見銀山が最盛期だった江戸時代初期の「釜屋間歩[かまやまぶ](坑道・鉱区)」と、銀鉱石の選鉱施設の遺構である。
 山の稜線に出ると、幾重にも重なる山々の谷間に大森の町並みが見え、その先には日本海が青々と広がっている。世界遺産石見銀山遺跡は、仙ノ山の鉱山遺跡と、鉱山を経営管理した大森の町、銀を搬出した銀山街道、銀を積み出した港湾を含む一連の銀産業の総体を指して面積は442ha以上にもおよんでいる。稜線から一望する風景がほぼその範囲で、遺跡の全容を知るには歩いて3日は必要だ。しかし、石見銀山遺跡の本当の価値を理解するのには「世界史的な視野が必要です」と、石見銀山資料館館長の仲野さんは話している。
 江戸時代に著された『石見銀山旧記』によると、銀山の発見は鎌倉時代末期、「周防国守、大内弘幸が北辰星(北極星)のお告げに導かれて仙ノ山に登ると、自然銀が雪のように露出していた。しかし露出した銀を取り尽くした後は放置された」と記されているが、史実は不明で伝説とする説が有力だ。銀山として開発されたのは1526(大永6)年の室町時代である。博多の商人、神屋寿禎[かみやじゅてい]が仙ノ山の沖合いを航海中、山の相に鉱脈の精気を見つけ、後に博多から呼び寄せた宗旦[そうたん]・慶寿[けいじゅ]という2人の鉱山技師を伴い、山に間歩を拓いて採鉱し、灰吹法[はいふきほう]という技術で銀を精錬した。それが1533(天文2)年であり、以後、飛躍的な増産が始まり、その技術は他の鉱山にも伝えられた。
 技術革新をいち早く果たした石見銀山が日本のシルバー・ラッシュの幕を開いた。しかし、この宝の山を巡って、周防の大内、出雲の尼子、安芸の毛利の三氏による激しい争奪戦が展開される。銀山を我がものにすれば莫大な軍事資金が得られるからだ。ちょうどその頃、銅から銀中心の通貨体系に移行した明国では銀の需要が急増し、銀の価値は高まっていた。 そうして明国にもたらされた多量の石見銀の噂は大航海時代ポルトガルやスペインにまで遠く及んだ。大航海時代とは富の新たな発見と交易のための地理上の新発見の時代であったことはいうまでもなく、船先は自ずと東方海上の噂の銀山王国へと向かった。1543(天文12)年に種子島に鉄砲が伝来し、1549(天文18)年にはキリスト教の布教でフランシスコ・ザビエルが日本に来航する。日本がはじめて西欧世界と出会った日本史上のこれらの重大事に石見銀山が深く関わっているというのだ。
 ポルトガルの目的は銀の獲得であり、その際、鉄砲と交換した銀が石見銀であったとされる。後に日本にやって来たザビエルの目的もまた布教以外に石見銀山の情報を収集することだったともいわれている。いずれにしても石見銀はその後の南蛮貿易において極めて重要な役割を担い、16世紀ヨーロッパの航海図にも所在が記され、文献にも頻繁に登場する。中世におけるヨーロッパと東アジアとの交易の歴史は石見銀山ぬきにしては語れないのである。仲野館長が「世界史的視野で石見銀山の価値を考えてほしい」と語る真意はそういうことなのだろう。
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 島根大学
 第105回市民講座「石見銀山の開発とグローバル世界の誕生」を開催しました。
 公開日 2018年08月06日
 8月4日(土)、松江市市民活動センターで第105回島根大学総合博物館市民講座「石見銀山の開発とグローバル世界の誕生」を開催しました。この講座は、平成30年度島根大学総合博物館市民講座第1ステージ「石見学II-世界遺産石見銀山とその周辺-」(まつえ市民大学連携講座)の第3弾になります。
 今回の講師は、石見銀山資料館館長の仲野義文先生につとめていただきました。
 石見銀山は1526(大永6)年ないし1527(大永7)年に博多の商人・神谷寿禎が発見したと伝えられています。
 石見銀山が発見された16世紀は、コロンブスアメリカ大陸を、バスコ・ダ・ガマがインド航路を発見するなど、まさに「世界が一体化」し、国際通貨としての銀の需要が高まっていた時代でした。このころ中南米では、ポトシ銀山サカテカス銀山、グアナファト銀山があいついで発見されており、石見銀山の開発も世界的な銀ブームの文脈の中でとらえる必要があるようです。また、中国の明でも、税の銀納化がすすんで、銀に対する需要が高まっていました。
 こうしたなか、石見銀山では、1533(天文2)年、灰吹法と呼ばれる精錬法を導入し、大量の銀生産が可能になったのでした。銀生産の拡大によって、大量の銀が朝鮮・中国に輸出されるようになります。さらに、1543年、ポルトガル人が種子島に到来して以降、始まった南蛮貿易では、日本から銀が主に輸出されました。つづく江戸時代になると、オランダやイギリスとの朱印船貿易が始まり、同様に銀が輸出されていきます。
 こうした銀を基軸とした国際貿易によって様々な文物が日本にもたらされました。例えば、南米原産のものとしては、トマト・じゃがいも・煙草・梅毒など、ヨーロッパ産のものとしては小麦・馬・ペスト・キリスト教などがあげられます。
 しかし、17世紀半ばになると日本の銀の産出は減少していき、江戸幕府は金銀の国外流出を抑制するようになります。徳川吉宗の時代になると、それまでの輸入品の代替として、朝鮮人参の国産化、顕微鏡・望遠鏡・眼鏡といった西洋由来の機器の国産化蘭学など西洋の学問・文化・技術の導入といった政策がおこなわれるようになります。こうした動きが明治以降の日本の近代化の基礎になったといえるのです。
 以上のように、16世紀以降、石見銀山の銀が基軸となって国際貿易が活発になり、様々な文物が世界を移動するようになりました。その流れは、銀の産出が衰退したあとも続き、日本の近代につながっていくのでした。石見銀山が単に銀を大量に産出した鉱山であったというだけでなく、世界の経済・文化などの様々な面に大きな影響を及ぼした、人類史的価値をもつ、まさに世界遺産にふさわしい鉱山であったということがよく理解できた講座でした。
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 黄金は、装飾品に使われる事が多く実用的ではなかった。
 当時の貨幣は、銀本位制であって金本位制ではなかった為に、銀を独占した者が国際金融経済を支配できた。
 地球上の銀を支配しようとしたのは、スペイン王国のフェリーペ2世であった。
 フェリーペ2世は銀独占の為に、軍隊とキリスト教と混血児を巧みに使った。
 その証拠が、現在の中南米諸国である。
 中南米諸国の特徴であるラテン‐アメリカとは、キリスト教徒と半白人種の混血民族である。
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 日本に来たのは、最初にポルトガルイエズス会であった、次ぎに来たのはスペインとフランチェスコ会フランシスコ会)・ドミニコ会などの各派修道士会、次に現れたのがイギリスとオランダなどのプロテスタントであった。
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 日本の戦国時代は、旧教・ローマカトリック教会と新教・プロテスタントの布教を巡る宗教戦争ポルトガル・スペインとイギリスとオランダの石見産銀を巡る経済戦争が加わって複雑になっていた。
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 南蛮貿易における日本の主要輸出品は、貨幣となる日本産銀、戦争の武器となる硫黄(火薬の原料)、そして労働力となる日本人奴隷であった。
 日本産金の輸出量は、日本産銀よりも少なかった。
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 徳川家康は、朱印船交易を続ける為に、経教分離の原則を受け入れるオランダ一国との貿易を選択し、日本産銀と日本産武器を西洋に輸出する事を認めた。
 徳川家康前田利家などの大名は、織田信長の経済戦略を見ながら生き残ってきただけに、領内経営の為には経済が重要である事を知っていた。
 徳川家康は、貨幣製造を幕府が一括支配する為に、貨幣の材料となる金・銀・銅を産出する鉱山地域を幕府領として諸大名から没収し、幕府公認でない偽貨幣を厳しく取り締まった。
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 日本が最も恐れたなは、ポルトガル王国を併合したスペイン王国であった。
 スペインは、徳川家康に対して南蛮貿易を続ける条件としてキリスト教の布教を要求した。
 スペインの隠れた意図は、日本人キリシタンを利用して日本をキリスト教国家に改造し、スペイン人と日本人の混血児に日本統治を任せ、日本産銀を独占する事であった。
 日本植民地支配の為にキリスト教は利用された。
 つまり、キリスト教は日本人を奴隷にする為の隠れ蓑であり方便でしかなかった。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人から日本人奴隷として購入し、日本人奴隷を中国・東南アジア・中南米アメリカなど世界中に輸出して大金を稼いでいた。
 日本人の命は金で買えた。
 奴隷として売られていった日本人達は、二度と日本には帰れず、貧しく惨めに死に、死体は手厚く葬られる事なくゴミのように捨てられた。
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 徳川幕府による、キリスト教禁制とキリシタン弾圧は起きるべくして起きた正当防衛であり、非人道的犯罪行為ではなかった。
 が、世界、特に欧米などのキリスト教諸国と韓国・中国は、日本を悪逆非道と口汚く罵り、日本人は平気で猟奇的残虐行為を行う極悪・凶悪の犯罪者と非難している。
 現代日本歴史教育は、「全て日本が悪い」という世界の常識で教えられている。
 国連も、ユネスコも、日本のキリシタン弾圧につながるキリスト教関連施設を後世に残す世界記憶遺産と認定している。
 バチカンは、棄教せず処刑された日本人キリシタン福者として祝福し、日本人殉教者を弔うミサを世界に発信している。
 いつの時代でも、世界は日本に同情せず、世界常識を無条件に拝受する事を強要している。
 日本のグローバル化とは、日本批判の世界常識を無条件で受け入れる事である。
 故に、日本人奴隷交易の歴史的事実は、日本史はおろか世界史からも、世界の宗教史・人道史・道徳史そして経済史・外交史など有りと有らゆる歴史から完全に抹消されている。
 世界は、アフリカ人奴隷交易は認めるが日本人奴隷交易は認めない。
 そして、現代の日本人もその世界常識を受け入れている。
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 オランダは、徳川幕府キリシタン禁制と鎖国策に協力し、日本からポルトガル・スペイン・イギリスそしてイエズス会などのカトリック教会勢力を排除して対日貿易を独占し、日本産銀を利用して新たな国際金融を造って支配し、優秀な日本産武器を戦場で使い国際的地位で優位に立った。
 日本人が知らない間に、戦国時代と江戸時代を通じて西洋に影響を与え、世界の発展に貢献していた。
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 徳川幕府は、キリスト教勢力の宗教侵略を警戒して、オランダに対して利益を与える見返りとして西洋や世界の情報提供を求めた。
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 江戸時代、全国的な銅貨流通、西日本の銀貨流通、東日本の金貨(小判)流通の三種類が流通した為に両替が必要となり、両替商間での金融手形・小切手が発達した。
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 石見銀山は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めたとされる。大森銀山とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)とも呼ばれた。明治期以降は枯渇した銀に代わり、銅などが採鉱された。本項では石見銀山の概要と歴史、および2007年に登録された世界遺産としての石見銀山についても言及する。
歴史
 大久保間歩の内部
 石見銀山の発見について『石見銀山旧記』は鎌倉時代末期の1309年(延慶2年)に周防の大内弘幸が石見に来訪して北斗妙見大菩薩北極星)の託宣により銀を発見したという伝説について記しており、この頃からある程度の露天掘りがなされていたと考えられている。
 その後、大内氏が一時的に採掘を中断していた石見銀山を再発見し、本格的に開発したのは博多の大商人、神谷寿貞(博多三傑・神屋宗湛の曽祖父。姓については神屋、名については寿禎・寿亭とも表記される)であるとされている。海上から山が光るのを見た神屋は、領主・大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て、1527年(大永6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。
 義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、1530年(享禄3年)に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪ったが、3年後に再び大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。
 1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法により精錬された。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され博多湊などで取引された。灰吹法が広まることにより、酸化鉛の粉塵を吸い込んだ作業員は急性または慢性の鉛中毒を発症した。鉱山での劣悪な環境も相まって、当時の鉱夫は短命であり、30歳まで生きられた鉱夫は尾頭付きの鯛と赤飯で長寿の祝いをしたほどであった。大森地内には若くして死んだ鉱夫たちの慰霊を目的として各宗派の寺院が多数建てられ、鉱夫たちの家族構成はその多くが独身もしくは夫婦のみであったと伝えられている。
 銀山争奪
 1537年(天文6年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が石見小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。
 義隆の死後、毛利氏が大内氏に代わり台頭すると、毛利元就尼子晴久との間で銀山争奪戦を繰り広げた。だが、1556年(弘治2年)の忍原崩れ、1559年(永禄2年)の降露坂の戦いといった戦いでは尼子氏の勝利に終わり、晴久の存命中に元就は石見銀山を奪取しえなかった。
 だが、1561年(永禄4年)に晴久が急死すると、後を継いだ尼子義久は家中の動揺を抑えるため、1562年(永禄5年)に毛利氏と「石見不干渉」を約した雲芸和議を結んだ。これにより、最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。そして、山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた。同年12月には石見銀山を朝廷の御料所として献呈する。
 1576年(天正4年)以降、毛利輝元足利義昭を擁し、織田信長との戦いを長期にわたり繰り広げたが、それを可能にしたのはこの石見銀山からの富のおかげであった。
 その後、1584年(天正12年)に輝元が豊臣秀吉に服属することになると、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた。
 1591年(天正19年)、輝元は豊臣秀吉の命により石見銀山を始めとする領国の銀山を治めるため、林就長および柳沢元政を奉行に任命した。
 1597年(慶長2年)には、輝元から秀吉に銀3,000枚(129貫、約480キログラム)が、関ヶ原の戦い直後の1600年(慶長5年)の割当では毛利家と徳川家の折半となり各々銀13,000枚ずつが、それぞれ運上されている。
 商業への影響
 石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。このため、製錬された灰吹銀はソーマ銀と呼ばれ、そのまま日本産銀の銘柄のひとつとして商取引に利用され、またこの灰吹銀を譲葉状に打ち伸ばし加工された石州丁銀およびその後の徳川幕府による慶長丁銀は基本通貨として広く国内(主に西日本、東日本の高額貨幣は金)で流通したばかりでなく、明(中国)、16世紀以降に来航するようになったポルトガル、オランダなどとの間の交易で銀が持ち出された。特に明は大口の商取引、兵士への給与などのため広く秤量銀貨が使用され、その経済規模の為に銀需要は大きかった。また、私貿易を禁止する明の海禁政策にもかかわらず、日明間の密貿易が活発となった。当時の日本の銀産出量は世界全体の三分の一(その生産量の平均は年間200トン程度、内石見銀山が38トン(10000貫)程度であったと推測されている)に達し、スペイン王国ペルー副王領ポトシ(現ボリビア)のセロ・リコと並ぶ銀産出地として西洋でも有名になった。石州丁銀は秤量貨幣(額面が無く重量で価値が決定。取引の際は必要に応じ切り分けて使用)のため、原形をとどめる物は希少であるが、島根県は2007年までに石見銀山の銀で製作されたとされる御取納丁銀(おとりおさめちょうぎん)、文禄石州丁銀、御公用丁銀を購入し、これらは島根県立古代出雲歴史博物館における企画展などで展示される。
 その殷賑ぶりは、当時のポルトラーノ地図にも記載されている。スペイン国王はイスラム圏から入手した地図を大量に持っており、自らも地図を作成した。銀山を手中にした大名家(大内氏、尼子氏、毛利氏、豊臣氏、徳川氏)の利益は大きく銀10000貫は米に換算すれば100万石を下らない収入となる。なお、イギリス船やオランダ船は日本で産出される銀を「ソモSomo」あるいは「ソーマSoma」と呼んでいたといわれるが、これは銀鉱のある大森地区の旧名である「佐摩」に由来するとされる。
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天下統一とシルバーラッシュ: 銀と戦国の流通革命 (歴史文化ライブラリー)

⚔16)─3─ポルトガルの対日交易とイエズス会の日本布教は「石見産銀」が目的であった。~No.63 

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 1580年にスペインがポルトガルを併合した事が、日本の運命を大きく暗転させたのは。
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 日本におけるキリスト教禁教、キリシタン弾圧、キリスト教排除の鎖国の原因は、西洋の対日政策がポルトガルの宗教対立回避の宥和的消極的浸透政策からスペインの宗教優先の攻撃的積極的浸入政策に変わったからである。
 スペインとキリスト教会が、日本でやろうとしたのは破壊と創造であった。
 邪悪な異教徒・異端者を聖なる火で焼き滅ぼし、焦土の上に神聖な神の王国を新しく築く、それが絶対神の御心に適う唯一の方法、神聖な使命と確信していた。
 敬虔な日本人キリシタン絶対神への信仰を証明する為に、尊敬する宣教師の指導を受けて日本に神の天国を造るべく勇気を以て邁進した。
 が、武士・サムライは、比叡山延暦寺石山本願寺一向一揆衆など宗教勢力に手こずった苦い経験から、政教分離として俗欲に塗れた宗教権威を政治の場から排除するべくキリシタン弾圧を行った。
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 1650年、スペイン王国の人口は約900万人。
 1600年、ポルトガル王国の人口は約200万人。
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 1600年、日本の人口は約1,200万人~1,800万人。
 30万人以上が洗礼を受けてキリシタンとなり、宣教師や日本人キリシタンの布教活動で全国でキリシタンの数が急速に増え、1605年には75万人に達していたと言われる。
 キリシタン大名に、高山右近黒田官兵衛蒲生氏郷らがいた。
 徳川幕府によるキリシタン禁制があったが、1614年の大坂の陣頃には減ったと言われても約60万人のキリシタンがいた。
 イエズス会カトリック教会は、減少する日本人キリシタンの信仰を守るべく、徳川家康と戦う為にキリシタン武士団を率いて大坂城に入城した。
 オランダ・イギリスは、日本からカトリック教会勢力を一掃する為に徳川側に味方して大砲提供などの軍事支援をした。
 島原の乱までの戦乱の多くは、カトリック教会とプロテスタント宗教戦争であり、戦争の原因は信仰・布教ではなく石見産銀であった。
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 2021年2月号 歴史街道「世界史から読み解く
 『日本の行くべき道』を信長が選択した時、それは起こった。
 本能寺の変は、おもに日本国内の情勢をもとに語られることが多い。しかし、直木賞作家の安部龍太郎氏は、信長の生きた時代と、変の意味を知るには、『世界史』からの視点が必要不可欠だという。当時の世界の動きから、何が見えてくるのか──。
 安部龍太郎
 ポルトガルが日本に来た真の目的
 織田信長が生きた戦国時代とは、単に日本国内で戦乱が繰り広げられれただけの時代ではない。
 15世紀末にヨ-ロッパから始まった大航海時代の影響が世界中に、そして日本にも波及した時代であった。
 特に、スペインやポルトガル南北アメリカ大陸、さらには東南アジアにまで勢力圏を拡大しつつあった。まさにグルーバル化の波が、日本にも及ぼうとしていたのである。
 始めて日本がヨーロッパの文化に触れたのは、ご存じのように1543年の『鉄炮伝来』だ。
 この歴史的事実は『漂着したポルトガル人が鉄砲を伝えた』と、いかにも偶発的な出来事のように語られてきた。しかし、実態は全く違う。ポルトガル人はあらかじめ、日本進出を目的としてやってきたのである。
 この頃、ポルトガルとスペインは1529年に締結したサラゴサ条約によって、両国で世界を二分すべく支配地域を線引きしていた。これによって、日本の大半はポルトガルの領域となったのだ。
 では、ポルトガルが日本に来た狙いとは何か。
 それは、石見銀山でとれる『銀』である。当時、世界はシルバーラッシュの最中にあり、銀は高価で売買されていた。
 日本の銀に目をつけたポルトガルは、まず鉄炮(てっぽう)を売り込もうとした。戦国大名にとって、遠方から敵を攻撃できる武器は画期的だ。
 しかし鉄炮を撃つには、火薬の原料となる硝石(しょうせき)と、弾丸となる鉛(なまり)が必要で、ともに日本ではほとんど産出しない。それらを得るためには、海外貿易を握るポルトガルから買い付けるほかない。そうやってポルトガルは、銀を手に入れようとしたのである。
 この貿易の際、仲介役となったのがイエズス会であった。彼らは布教活動を行なうと同時に、交易の仲立ちもする商社のような一面を持っていた。
 フランシスコ・ザビエルを始めとするルイス・フロイス、アレッサンドロ・ヴァリニャーノといった宣教師も、おおむねそのような役目を帯びて、日本にやってきたのだ。
 信長とイエズス会、それぞれの思惑
 そうしたポルトガルとの交易、すなわち南蛮貿易に最も強い反応を示した戦国大名が、織田信長である。
 織田家は父・信秀の時代から、伊勢湾海運の要衝(ようしょう)である尾張の津島を押さえ、関税や港湾使用料で利益を上げていた。『商業』に敏感な信長は、南蛮貿易によって、莫大な収入を得られることを見抜いたのである。
 農作物などの土地から得られる利益にしか目がいかない『農本主義的』大名とは異なり、『商業主義的』大名であった信長は、いち早く経済構造の変化に対応できたのだ。
 そうした信長の姿勢が鮮明に表れたのが、イエズス会への対応だ。
 1569年、岐阜の信長のもとにルイス・フロイスが訪ねてきた。朝廷がキリスト教の布教を許さなかったため、前年に足利義昭お奉じて上洛して、京を押さえた信長を頼ってきたのだ。
 朝廷としては当然、神道と仏教の教えに反するキリスト教は認められない。ところが、信長はその意に反して、キリスト教の洛中における不況を許した。
 朝廷を敵に回しかねない思い切った決断だが、それは信長がいかに南蛮貿易を重視したかの証左(しょうさ)といえよう。
 鉄炮の威力を知る信長としては、大量の鉄炮と鉛、硝石を手に入れたい。
 それだけではなく、堺に代官を置く権利を持っていたので、鉄炮以外の貿易による利益も莫大な者ものになる。軍事物資の入手と貿易の利潤(りじゅん)──そのためにも是が非でも、イエズス会と手を結んでおきたかったのである。
 信長の狙いは、ほかにもあった。寺社勢力、幕府勢力といった旧来の勢力を切り崩すためにも、キリスト教は有効と考えていたのだ。キリスト教による新しい信仰や思想、貿易がもたらす文物、それらが優れていることを強調すれば、旧来勢力を揺さぶることができる。
 特に信長が意識した相手は、石山本願寺だろう。一向一揆衆を擁(よう)する石山本願寺は、強大な軍事力を持つだけでなく、水運を押さえて莫大な富を得ていた。
 信長はそうした石山本願寺に、軍事的にも精神的にも対抗するために、イエズス会と手を組み、キリスト教の布教を許したのだろう。
 一方のイエズス会は、なぜ信長と組もうとしたのか。
 ポルトガルやスペインの植民地化の方法には、一定のパターンがある。
 まず植民地にしたい土地に、イエズス会宣教師を送りこんでキリスト教を布教し、あわせて貿易を行うことで、現地民の心を摑(つか)んでいく。
 その過程で、これはと見込んだ現地の人物に軍事物資を支援し、有力者へと育てていく。そしてゆくゆくは傀儡政権をつくりあげ、植民地としてしまうのである。
 ポルトガルは日本においても、同じ手法を取ろうとした。
 まずイエズス会宣教師は、上陸地に近い薩摩の島津氏、豊後の大友氏、周防の大内氏に近づいた。しかし、どこの家も伝統的な守護大名であることから幕府に遠慮しがちで、地理的に京には遠すぎた。
 イエズス会宣教師は、キリシタンや貿易活動を通じて、様々な情報を得ることができる。そうした情報網から浮かび上がってきたのが、織田信長という存在だったと思われる。
 信長は、1554年の村木城の戦いですでに鉄炮を使い始めていた。つまり、これより前に南蛮貿易を行なう堺の商人から、硝石と鉛を買っていたことになる。
 それらの商(あきな)いをつうじて、堺の商人も信長について、ある程度の情報を得ていたはずだ。当然、その人物評は宣教師にも伝わり、合理的で頭の切れる武将との印象を持った違いない。
 宣教師のザビエルが堺を訪れたのは1550年のことだが、当時の畿内は三好家と細川家の争乱で疲弊し、生活物資や軍事物資を関東方面に頼っていた。
 伊勢湾海運の要衝を握る信長は、その交易によって得た経済力もある。イエズス会畿内に権勢をふるう三好家よりも、信長のほうに将来性を感じたはずだ。
 つまりイエズス会は、上洛する前から信長のことを知り、天下を取らせるに足る人物として注目していた。そして信長をつうじて、日本を支配しようとしていたのである。
 波乱を呼んだスペインからの要求
 思惑の一致した両者は、お互いに望む果実を得ていく。
 信長は着々と天下人への道を歩み、イエズス会は京都に南蛮寺(教会)、安土にはセミナリオ(神学校)を築き、布教活動を順調に進めていった。
 ところが1580年、両者の良好な関係に転機が訪れる。その年の1月、イエズス会の後ろ盾であるポルトガルを、スペインが併合したのである。
 ここにおいてイエズス会は、スペインとの関係を築く必要に迫られた。
 同時に信長も、南蛮貿易を継続するために、スペインといかに関係を築くべきかという難題に直面する。
 イエズス会は、スペインと信長との間を取り持つことで状況を打開しようと考え、その仲介役として、宣教師ヴァリニャーノを信長のもとに送る。
 かくして1581年2月、ヴァリニャーノは、洛中で信長と対面する。折しも、信長が主催する京都御馬揃(おうまぞろ)えの会場でのことであった。信長は自分の勢威を見せつけることで、交渉を有利に運ぼうとしたのだろう。
 この馬揃えの後、ヴァリニャーノは5ヵ月近く安土に滞在した。その間、二人の間でいかなる話し合いが行われたのか、それを伝える日本側の資料は残っていない。
 しかし、ヴァリニャーノが残した手紙などから推測するに、スペイン側からは二つの要求が出されたものと私は見ている。
 一つは『明国への出兵』。もう一つは『イギリス、オランダとの断行』である。
 時のスペインは、世界各地に植民地を持ち、『太陽の沈まない国』と称された覇権国家だ。
 その勢いで明国にも野望を示したが、スペインから艦隊を送るにしても、1隻に乗せられる兵士はせいぜい500人ほどに過ぎない。いくら艦隊を送っても、内陸まで攻め込むのは不可能だ。そこで、日本の軍事力を利用して、明国を植民地化しようとしたのだ。
 一方、スペインはイギリスの動きを警戒していた。オランダは1568年から、スペインに対して独立戦争を起こしていた。それを支援していたのがイギリスで、両国ともプロテスタント(新教)の国であった。
 カトリック(旧教)であるスペインにとって、この二つの国の世界進出は何とも阻止せねばならず、信長と両国がつながることは避けたかったはずだ。
 では、二つの条件を出された信長は、どう反応したのか。
 信長はそれを、拒否したものと思われる。
 というのも、交渉後の1581年7月15日、信長は安土城内の摠見寺(そうけんじ)に自身をご神体とする石を置き、家臣や領民に参拝するように求めているからだ。
 これは、信長によるイエズス会への決別宣言と取るべきだろう。要するに家臣や領民に、『摠見寺に参拝して、キリスト教を捨てたことを示せ』と迫ったのである。
 フロイスはこれを、信長の思い上がりとして痛烈に批判している。ここにおいて、信長とイエズス会、そしてスペインは、完全に決裂したと思われる。 
 変の背後に見え隠れするイエズス会
 本能寺の変が起きたのは、それから1年足らずのちの、1582年6月2日のことであった。
 本稿の主眼は、本能寺の変の真相を読み解くものではないため、紙幅(しふく)を割くことはできないが、ここで簡単に、変に対する私の見方を記しておきたい。
 私は、信長がイエズス会、そしてスペインとの決別を選んだことが、変に影響したと考えている。
 当時の世界情勢の主要プレーヤーであるイエズス会、スペインとの断行は、今の日本がアメリカと手を切るくらいのインパクトがある。
 ……
 一方で、信長を見限ったイエズス会は、次の傀儡政権を担う人物を探っていたのではないか。それが、豊臣秀吉だったと思われる。
 ……
 こう語ると、イエズス会の力を過大に見ているように思われるかもしれない。
 しかし、侮(あなど)ってはいけない。当時は高山右近といった有力大名だけでなく、武将の子女や家臣、町人といった様々な層に、キリスト教の信仰が広まっていた。彼らはイエズス会の諜報網といっていい。
 フロイスの『日本史』をみると、その場に居ないはずなのに、居合わせた者しか知る事ができない情報が数多く記されており、イエズス会キリシタンから様々な情報を得ていたことに驚かされる。
 また、イエズス会と秀吉をつないだのは、黒田官兵衛であろう。官兵衛は公式には1584年に入信したことになっているが、それは表向きのころで、ほんんお時にはすでにキリシタンだったと私は睨んでいる。
 イエズス会が秀吉支持に回ったとみる理由は、もう一つある。
 1586年5月4日、秀吉が信長の後継者としての地位を着々と固めていた時期のこと。フロイスの『日本史』によると、秀吉は大坂城を訪れた宣教師ガスパルコエリョに対し、『明国への出兵』を明言し、『明国を征服したあかつきには、いたるところに教会をたてさせ、明国民をことごとくキリシタンにする』とまで語ったという。
 キリシタンではない秀吉がこのままで踏み込んだということは、秀吉を支援した見返りとして、イエズス会が『明国出兵』を呑ませたと取っても不自然ではない。
 ただし、秀吉も条件をつけた。スペインの所有している大型船2隻の借用を求めたのだ。最新の造船術と航海術を得るためだろうが、スペイン側がこれを拒否。翌年、秀吉が『バテレン追放令』出すにいたる。
 もっとも、この追放令は外交戦術として出されたものだろう。その証拠に、キリスト教自体は禁じていない。こうした駆け引きのすえ、バテレン追放令はうやむやのうちに撤回されてしまう。
 秀吉としても、信長と同じ轍(てつ)を踏まぬよう、イエズス会との決定的な対立は避けたかったのだろう。それよりもうまく立ち回って、貿易面と軍事面での利益を得ようとしたのだ。
 本能寺の変が持つ意味
 イエズス会と結んだ秀吉は結局、スペインが求めたように、明国征服のために朝鮮出兵へと向かう。
 日本が海外に出兵するのは、663年の白村江(はくそんこう)の戦い以来、およそ930年ぶりのことである。
 秀吉の死により出兵は終わったが、結果は惨憺たるもので、日本国内は疲弊し、特に西日本の農村は大きな打撃を受けた。
 これをどう再建するか。それが、秀吉の後に続く、石田三成徳川家康に課せられた問題となった。
 三成は秀吉の路線を継いでさらなる中央集権化を進めようとし、家康は反対に、地方分権農本主義による体制をつくらなければと考えた。海外貿易に頼らずとも、誰もが食える国をつくろうとしたのである。
 一方、世界でも大きな動きがあった。1588年、スペインがアルマダの海戦でイギリスに敗れ、その存在感を弱めていくこととなる。
 反対に、台頭したのがイギリスとオランダで、プロテスタントの両国は、貿易の見返りとして布教を求めなかった。関ヶ原に勝利した家康は、オランダと組むことを選択していく。
 やがて徳川幕藩体制が整うとともに、キリスト教の禁教令が出され、そして3代将軍家光の時代に鎖国体制が完成。日本はヨーロッパの国でもオランダとのみ、通商をするようになった。
 こうしてみると、信長、秀吉、家康はそれぞれ、海外勢力と向き合う必要性に迫られていたことがわかるだろう。
 そして初めてその課題に直面したのが信長であり、本能寺の変は、『日本は、世界の中でいかなる道を歩むべきか』という選択を行なう最中に起きた事件だったのである。」
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 キリシタン大名(吉利支丹大名)は、戦国時代から江戸時代初期にかけてキリスト教に入信、洗礼を受けた大名のことである。
 概要
 キリシタン大名の一人、大友義鎮(宗麟)。大村純忠有馬晴信とともに少年使節をローマに送った。
 戦国時代
 イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは戦国時代の日本をよく理解し、まず各地の戦国大名たちに領内での布教の許可を求め、さらに布教を円滑に進めるために大名自身に対する布教も行った。後から来日した宣教師たちも同様に各地の大名に謁見し、領内布教の許可や大名自身への布教を行っている。
 その際、大名たちの歓心を得るために、布教の見返りに南蛮貿易や武器・弾薬(特に当時日本で生産できない硝石は羨望の的であった)の援助などを提示した者もおり、大名側もこうした宣教師から得られる利益をより多く得ようと、入信して歓心を買った者もいた。入信した大名の領地では、特に顕著にキリスト教が広がることになった。その後、キリスト教の教義やキリシタン大名の人徳や活躍ぶり(特に高山右近)に感化され、自ら入信する大名が現れ、南蛮貿易に関係のない内陸部などでもキリシタン大名は増えていった。また、畠山高政六角義賢のように没落したのち改宗した大名もいた。
 しかし、キリスト教に入信した大名とその配下達の中には、領地内の寺や神社を破壊したり焼き払ったり僧に冒涜を加えた者もあった。たとえば大村純忠が、領内の寺社や仏像といった偶像を大規模に破壊したことが『大村郷村記』やルイス・フロイスの報告書(1563年11月14日)に記されている。これらの破壊行為は宣教師自らが異教撲滅のため、キリシタン大名に教唆することもあった。また異教撲滅こそが神への奉仕であり、その見返りに神が合戦で勝利をもたらしてくれるという、大名自身の願望もその理由に含まれていただろうと考えられる。これらの騒動は、たとえば、スペインおよびポルトガルにおけるユダヤ教徒セファルディム)およびムスリム(モリスコ)排斥や、異端審問といった16世紀から17世紀の非常に排他的かつ尖鋭的な状態にあったキリスト教ローマ・カトリック)が、他宗排撃を良しとしなかった当時の日本と接触したことにより引き起こされた悲劇であった、と歴史学者の神田千里は分析している。
 一方で、仏教や神道を奉ずる大名の中にも、僧たちの意見を聞き入れ外来の宗教であるキリスト教邪教として弾圧する者もおり、カトリック教徒と日本の旧来の宗教の信者達との間に憎悪と対立を深めていくことになった。また、豊臣秀吉により天下が統一されると、バテレン追放令(伴天連追放令)が出され、キリシタン大名に対する政治的な圧力が強まり、多くの大名が改易、もしくは仏教か神道への改宗を余儀なくされ(強制改宗)、キリスト教の禁教と迫害の時代に入っていった。
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 現代日本人は、金儲けの才能を磨いているが、歴史力・文化力・宗教力は乏しい。
 その証拠が、徳川家康の対外政策や徳川幕府の条件付鎖国令を正しく理解できないところである。
 そして最も日本人の醜悪を表しているのが、日本は世界で信頼され、日本人は世界で愛されている、と盲信しているところである。
 世界は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として売り買いして金儲けしていたのである。
 それが、世界の正義であり、世界の経済である。
 世界は、キリシタン弾圧の犠牲者を福者として祝福するが、悲惨の内に死んでいった日本人奴隷には同情もしないし見向きもせず切り捨てている。
 それが、世界の常識である。
 そして、現代日本歴史教育である。
 現代日本人は、昔の日本人と比べて語学能力は優れ瞬時に情報を多方面から洪水のように得る事ができるが、それを生かす戦略力も実践する戦術力もなく、激論の末に相手を論破する自己主張能力は弱く、国際認識力・外交交渉力・国際経済力その他多くの面でも劣っている。
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 戦国時代から江戸時代、日本は世界とくに西洋とは深い繋がり、お互いに影響を受けっていた。
 その濃密さは日本と中国・朝鮮の比ではなく、日本は古代のまま変化しない中国・朝鮮よりも進歩発展を遂げる西洋を強く意識していた。
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 何故、日本が植民地にならず、日本人が奴隷にならなかったのか。
 信教の自由を認めず、キリスト教邪教として排除し、棄教しないキリシタンを弾圧し、国を閉ざし自由な往来を禁止したからである。
 ただし、経教(経済と信仰)分離の原則に従い、オランダとの交易でキリスト教以外は受け入れた。
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 日本が植民地にならなかった最大の原因は、天皇・皇室の存在である。
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 日本民族は、親殺しと主君殺しを人倫に背く行いと嫌い、それ以上に天皇殺し・皇室に弓を引く行為は天・天道に逆らう忌むべき非道と恐れた。
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 スペインは、1568年に始まったオランダの極立戦争(80年戦争)で苦戦を強いられていた。
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 オランダには、スペインでの異端審問を恐れた隠れユダヤ教徒ユダヤ人達が多く逃げ込んでいた。
 オランダのプロテスタント勢力は、ローマ・カトリック教会に対抗する為に隠れユダヤ教徒ユダヤ人達を保護し、スペインとの独立戦争に利用した。
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 コルテスは600名を率いてアステカ王国(人口1,000万人以上)を滅ぼした。
 ピサロは180名を率いてインカ帝国(人口約1,000万人)を滅ぼした
 何故、少人数で帝国を征服できたのか、それは身内からの裏切り者・寝返り・売国奴がいたからである。
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 スペイン王国は、中南米大陸を植民地とし、原住民を奴隷とし逆らえば虐殺し、武力的に原住民を酷使して産出する膨大な銀を手に入れて世界帝国になった。
 キリスト教会は、征服王・スペインを祝福しキリスト教の保護者とした。
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 日本は、皇帝専制による中央主権の明国の中国ではなく各地に藩王が乱立するムガル帝国のインドに似ている。
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 中世キリスト教会・イエズス会などの修道士会が、戦国動乱の異教国日本で布教活動を行ったのは、貪欲・強欲・野望・野心のままに殺戮が繰り返される地獄の中で塗炭の苦しみで生きたいる日本人を絶対神の福音による「隣人愛の信仰」で助け出そうという善意からではなかった。
 もし、善意だけの自己犠牲的精神による布教活動であれば、非文明の中南米大陸で生活していた異教徒1,000万人以上の現地人を襲った悲惨は起きなかった。
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 一神教キリスト教の正体は、キリスト教徒とキリシタンにとって平和と幸福な宗教であったが、異教・異教徒にとって戦争と殺戮と不幸の宗教であった。
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 戦国大名は堺商人を通してポルトガルから、火縄銃・大砲、火薬、鉛を買い付けていた。
 堺商人は、日本国産銀(主に石見産銀)で南蛮貿易を行っていた。
 インドのゴアやマレーのマラッカなどで製造された火縄銃・大砲、中国で生産された火薬、タイの鉱山で採掘された鉛が、日本に高値で売られていた。
 堺商人は、外国に頼らず・依存しない為に、伝統的刀鍛冶技術を創意工夫で応用して鉄製の火縄銃・大砲の国内生産を始めた。
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 中国で生産していたのは、性能が落ちるが生産しやすい青銅製の火縄銃と大砲であった。
 中国は、琉球から火薬の原料である硫黄を輸入していたが、硝石の日本輸出を禁止していた。
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 織田信長は、ポルトガルとの南蛮貿易を堺を通じて順調に利益を上げ、南蛮貿易の為にイエズス会の布教活動を許していた。
 1580年に、スペインがポルトガルを併合してから南蛮貿易も布教活動も変わった。
 イエズス会以外の修道会は、宗教摩擦を起こさないイエズス会の消極的妥協的宥和的布教活動を批判し、より積極的攻撃的狂信的布教活動を行いキリシタン大名領内で敬虔なキリシタンを煽動して異教徒に対する宗教弾圧を始めた。
 キリスト教を仏教の一宗派と思っていた日本人は驚き、寺社仏閣を打ち壊し、祖先の墓・仏壇・位牌を破壊する行為に恐怖した。
 スペインの世界戦略は、日本をキリスト教国家にして属国化し、日本の軍事力を利用して明国を侵略し征服し植民地にする事であった。
 イギリスとオランダは、スペインがさらなる世界帝国に巨大化する事は自国の脅威と考えていた。
 1588年 イギリス海軍は、スペインの無敵艦隊アルマダの海戦で撃破した。
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 スペインは、本国から軍隊を派遣できない為に、日本をキリスト教国とし、武士を絶対神に忠誠を誓う神聖騎士団に組織して使い捨て駒のように手足として使おうとした。
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 キリスト教が望んだ絶対神に忠誠を誓う神聖騎士団は、高山右近小西行長ら有力キリシタン大名で成立した。
 そして日本の歴史で華々しく活躍したのは、大坂の陣での明石掃部が率いるキリシタン部隊である。
 その残党が、島原の乱(島原天草一揆)である。
 キリシタン弾圧とは、その残党狩りであった。
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 中世キリスト教会は、織田信長日本国王に即位させ、絶対神の代理として神聖国王に戴冠し、異教徒の王・天皇に代わる新たな日本統治者に任命し「絶対神の福音と隣人愛の信仰の守護者」にしようとした。
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 イエズス会は、他の修道会に日本国内での積極的攻撃的狂信的布教活動につられて原理宗教化して異教徒に対する宗教弾圧を煽動し、キリシタン大名領内にある寺社仏閣の打ち壊しを行い、寄進された長崎をマカオの様にローマ教皇領として日本から独立させるべく軍港要塞都市国家を建国させようとした。
 同様に、日本を中世イタリアのように、国内に幾つかのキリスト教小国家を独立させ分解し、異教王・天皇を滅ぼして異教国日本を消滅させるべくキリスタン大名を支援した。
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 欧州の覇権を握ろうとするスペイン・ポルトガルカトリック教勢力とイギリス・オランダのプロテスタント勢力にとって、その鍵となるのが日本産銀(石見産銀)であった。
 つまり、将来の国際金融の行く末は日本産銀(石見産銀)で決まろうとしていた。
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 織田信長は、日本統一の次の目標を海外侵略と考え、優秀な家臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を筑前守に明智光秀に日向守に任じた。
 織田信長が目指した海外とは、旧態依然とした古びた朝鮮や中国ではなく、豊かで輝く東南アジアや西洋であった。
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 豊臣秀吉徳川家康織田信長の国内外戦略を実現する為に行動したが、信長の方針を忠実に実行すれば失敗し日本に甚大な被害をもたらすために、調整を加えて実行した。
 豊臣秀吉は、南蛮貿易の継続、ルソン(フィリピン)にあるスペインの富の簒奪、明国への侵略。
 徳川家康は、主家を失った浪人達を契約傭兵として東南アジアに送り出し、銀と武器を商品として西洋との交易の継続。
 最終的修正信長戦略が、徳川幕府鎖国政策であった。
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 豊臣秀吉の明国出兵は、キリスト教会・イエズス会の要請であった。
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 現代の日本歴史教育は、中華(中国・朝鮮)はおろか西洋などの世界史と切り離されている。
 現代の歴史教育は、子供から歴史力・文化力・宗教力そしてローカルとグローバルに対する理解力をなくす為に行われている。
 つまり、事実の歴史を嫌いになるように誘導している。
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 世界交易の商品としては、生きた奴隷は食べ物・飲料水・排泄物、喧嘩・怪我、病気・死亡など遠くに運べば運ぶほど無駄な手数がかかる、対して、銀・金・鉛・銅、硫黄、綿花・絹、織物、香辛料・お茶・顔料、陶器・刀・甲冑、毛皮などは大量に運べる為に効率や利益率が良かった。
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 一神教キリスト教ユダヤ教イスラム教は、人を奴隷として使役する事を認めていた。
 儒教も同様に、人間を教養ある聖人と教養のない小人に分け、小人を家庭内奴隷=獣として扱う事を認めていた。
 大陸世界では、奴隷は当たり前のように存在していた。
 日本には、奴隷制度はなかったが奴隷=奴婢、女郎・遊女・花魁はいた。
 それが「山椒大夫」である。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として売買して金儲けしていた。
 だが、当時の日本人は戦場の乱取りで捕らえられた日本人が奴隷として売り買いされる事に何ら疑問を持たず、よって誰も奴隷から救い出そうとは思わなかったし、奴隷売買を止めようとはしなかった。
 それがたとえ自分の子供でも、親族の子でも、知り合いの子供でも同じで、売られてしまったら「仕方ない」と諦めて助けはしなかった。
 豊臣秀吉も「日本人奴隷売買」を批判したが、奴隷にされた日本人をただの一人も助けず見捨ていた。
 日本人は情が薄く「惻隠の情」はウソで、本質は薄情で、冷淡で、冷血で、冷酷である。
 それは、現代の日本人でもかわりはしない。
   ・   ・   ・   
 アメリカ大陸とアフリカ大陸間のアフリカ人奴隷交易では、死んだ奴隷は海に捨てられたが、怪我・病気をした奴隷は治療せず生きたまま海に捨てられ、食べ物や飲料水が少なくなれば口減らしとして奴隷は生きたまま海に捨てられ、船員に逆らう生意気で短気で融通の利かないそして反抗的な扱いづらい奴隷も生きたまま海に捨てられた。
 奴隷が過酷な命令でも口答えせず従順なのは、長い航海で、奴隷船の中で運命を諦めて受け入れる大人しい性格だけを連れて行くという選別がなされたからである。
 自由も人権もない奴隷は、生きた人形である為に個性はいらなかった。
 個性がない、没個性は、下僕・奴隷の証拠であった。
   ・   ・   ・   
世界史の中の石見銀山(祥伝社新書202) (祥伝社新書 202)

🌏13)─5─幕末の国難を救った合理的論理的現実的理数系ソロバン武士団。~No.41  

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2021年1月号 Voice「『次』の歴史と人類の新軌道
 国難を救った理数系武士団
 物理学者が壮大なスケールで描き出す、コロナ後の人類の道筋。
 第1回は、パンデミックの意義と日本が国難を乗り越えた秘訣を紐解く 
 長沼伸一郎
 コロナはサルベージ作業の爆薬
 もし将来において歴史的・文明的視点からこのコロナ禍を振り返ったときに、それはどういう言葉で語られているだろうか。筆者は、その一つとして『コロナは世界全体にサルベージ作業の爆薬のような効果を及ぼした』と評したものがあるかもしれないと思っている。
 唐突な話なので少し説明しよう。一般に沈没船を引き上げるサルベージ作業では、海底の沈没船に空気を吹き込んで船を浮上させるのだが、船底が海底の泥にがっちりつかまっていると、たとえ浮力が十分になっても浮いてこられないことがある。そういった場合には、水中で爆薬を爆発させて船体を揺すってやると、船は泥から引きはがされて一挙に海面に浮いてくるのである。
 何がいいたいかというと、コロナの衝撃は、今まで潜在的に社会の底にくすぶっていた問題を一挙に表面化させる力をもっており、それこそが重大な問題だということである。
 このようにコロナの衝撃は、人類社会の『次』に立ち現れる根本的問題を、今までの慣習から引きはがすかたちで表面化させる傾向があり、それこそが人類が向き合うべき問題なのである。しかし、これらの問題にはいずれも明解な答えのビジョンがなく、現在の人びとの不安や憂鬱はむしろ、それらがコロナ後に本格化する恐れを敏感に感じ取っているためではあるまいか。
 逆に、われわれが抱える難題に対して明確なビジョンがあれば、たとえ今は苦しくとも、人びとはそれに従ってコロナ後への行動準備に専念すればよいので、精神的にはむしろ安定するものである。先んじてそういったビジョンを提示できるかどうかが、コロナ後の世界で主導権を握れるか否(いな)かをわけることになるだろう。
 ところが現在の日本をみていると、政府というより国民全体として『自分たちのは何かできそうだ』という実感に乏(とぼ)しく、今後のビジョンの提示においても、日本は米中の後塵(こうじん)を拝しそうな気配がある。それというのも、これまでの日本の国民的な行動パターンというのは、とにかく欧米諸国を横目でうかがって2番的に後追いする、というやり方だったからである。
 ただ、今までそういうスタンスでも、2番手の弱点を『勤勉さ』という武器でカバーすることで、国際的な地位を維持することが曲がりなりにもできていた。ところが現在のIT化が進行した世界では、投入する資金量とそのスピードでトップを走る者が勝利して、すべてを独占する傾向が強い。そのため『勤勉さ』を最大の武器とする日本は、もはや資金量やスピードで圧倒する米中のあいだで、国際的に埋没する一途を辿(たど)るしかなさそうに見えるのである。
 国難と理数系武士団の出現
 しかし、それは今始めて経験する事態なのだろうか?じつはよく考えると、そもそもの『勤勉さが日本の最大の武器』という見方自体が疑問なのであり、その武器一つだけでは、たとえば歴史家アーノルド・トインビーのいう『日本はトルコ以東において西欧帝国主義の侵略を免(まぶが)れた唯一の国である』という歴史の歩みが現実になり得たとは考えにくいのである。
 なぜならば、戦略の原則からすると、『勤勉さによる戦力強化』というのはせいぜい1.5倍あたりまでの拡大が限度なのである。しかし過去の歴史で日本が列強と遭遇したとき、英、仏、ロシアなどのいずれの国の国力もおそらく日本の数倍あり、1.5倍の差を埋めても到底追いつかない。
 もっと根本的なところから話をすると、戦略の原則では一般的に、組織の力を『戦闘力と戦略力の積』として考えるのが普通である。前者の『戦闘力』とは、図体の大きさや兵力・練度(れんど)など、純然たる体力面での力を指し、一方後者の『戦略力』というのは、優れた戦略によって優位なポジションを得るなどの知的な力を指す。
 そして『勤勉さ』は前者に属する力であり、先述したようにこれらはすぐには1.5倍ぐらいの力にしか拡大できない。それに対して後者は、戦略が巧みなら一挙に2倍3倍にすえうことも可能である。
 つまりこの理屈からすれば、当時の日本が数倍の相手に対峙してそれを乗り切るためには、『戦闘力』の力よりむしろ『戦略力』のメインでなければならず、その面で他国がもたない何らかの資質をもっていることが必要だったはずなのである。それでは、かつての日本では一体何が起こっていたのだろうか。
 そしてここに一つ、その謎に対する答えがある。それは、日本の歴史においては、国難の折に『理数系武士団』と呼ぶべき集団がまとまって出現し、彼らが、国が普段はもたないような大きな力を与えていたのではないか、ということである。
 ただしそれは、言葉から一見想像されるように、『モノづくりの力を国のために活(い)かす』という意味ではない。むしろそれらの人びとが、狭い理系の専門分野を脱し、国が進むべき戦略などに関して、これまでの文系的な一般常識を超えた独創的なビジョンを生み出すことで、国を先導する役割を果たしたということである。それはとくに幕末と戦国時代において顕著(けんちょ)であり、彼らの力が結果的に、先ほどのトインビーの言葉のおうな歴史を現実のものにしたと思われるのである。
 理系集団と武士の関連性というのは一見唐突だが、じつは両者の密接な関連を示すものは多い。蘭学者で医者として生きていた大村益次郎が、長州藩の参謀として日本最初の近代戦で武士たちを指揮し、靖国神社にも銅像が建っているのはその実例である。そもそも日本の近代の数学・物理教育のルーツは、長崎の海軍伝習所にあたり、当時新設された工学部には、士族(武士階級に属する者に与えられた称号)出身者の割合が際立って高いという現象がみられ、これは他の国にはない特徴だった。
 日本より少し遅れて近代化が行われたトルコは、欧米において日本との比較研究の対象にされることが多い。トルコでは、かつての大トルコ帝国の矜恃(きょうじ)を背負った武士団である旧軍事エリート階層は、その多くが新制トルコ共和国軍の将校になる道を選んだのであり、彼らがまとまって工学部に入るなどという話は聞いたことがない。そもそも武士が工学部に行くという選択肢がほとんどなかったのではないだろうか。面白いのは、日本の場合、それらの人びとがいくつかのタイプに分かれて、役割分担をおこなっていたことで、普段では社会的に到底あり得ないような動きが可能になったとみられるのである。ではそのタイプを具体的に列挙していこう。
 第一タイプ『独創的な発想力をもつ思想家』
 これは幕末だと、桁(けた)外れの英明さで知られた薩摩藩主の島津斉彬、また幕府側では勝海舟などがそれに相当する。島津斉彬などは『将来西欧と東洋はマレー付近で海戦を行うことになる』として、のちの戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』撃沈で知られるマレー沖海戦を予言したといわれている。彼らの突出した発想力は、通常なら日本社会では到底受け入れられない性質のものだが、それが他のタイプとの連携によって、国の針路の中心となることが可能になったのである。
 また戦国の場合だと、理系的な合理性と独創的な先進性において、織田信長がそれに相当することには、誰しも異論はないと思われる。
 第二タイプ『開明派官僚』
 このタイプは、自身はそこまで独創的ではなく、また性格的にも革命家ではないが、第一タイプぼ考えやその価値を十分理解でき、その一方で組織のなかで浮き上がらずにちゃんと生きていける順応性も備えている人びとである。
 たとえば、勝海舟を取り上げると、幕府官僚だった大久保一翁が『開明派官僚』に相当し、海舟は彼の推挙(すいきょ)によって活躍の場を得ることができた。また薩摩藩だと、やはり地味だが若手官僚の小松帯刀が、斉彬亡きあとに藩組織と維新派の仲介役を務めたという点でそれに相当し、薩摩が組織的に上下一丸となって維新に参加するためには、彼の存在は不可欠なものだったといえる。
 また戦国時代においては、石田三成大谷吉継などがこれに相当する。幕末に比べると戦国初期での第二タイプの貢献はさほどでもなかったが、後期になると、計数に巧みな彼らが豊臣政権にとって不可欠な存在だったことは確かである 。
 第三タイプ『各地の自発的学習者』
 一方において、日本の数倍の国力を持つ大国に勝つには、一種の下支えとして、西欧技術を学んだ大勢の技術者が不可欠であった。幕末の場合、それを育成確保するための主力となったのは、幕府の制度的な機関よりも、むしろ各地に私的なかたちで生まれた蘭学塾だった。
 もっとも代表的なのは緒方洪庵適塾で、福沢諭吉大村益次郎などがここの出身であることをみても、明らかに幕府の公的な教育機関よりもこちらのほうが人材育成の主役である。そして、各地で自発的に学んだ大勢の無名の学徒たちが、量的な面で理数系武士団を支えていたのである。
 また戦国時代だと、各地の無名の鉄砲鍛冶(てっぽうかじ)などが、自発的にいろいろな場所を渡り歩いて技術を習得していった経験が鉄砲の発展に大きく影響していた。その結果として、戦国末期には日本全体の鉄砲保有量は全ヨ-ロッパの合計を上回って世界最大の鉄砲保有国になったともいわれ、こうしたことは他のアジア諸国ではほとんどみられない現象である。
 第四タイプ『日本特有の奇妙な存在』
 そして日本の場合に面白いのは、もう一つ、第四のタイプというものの存在である。この第四タイプの1番の特性は、自身は理数系の出身ではないのであるが、先述した第一タイプを神のように崇(あが)めて、一生をその思想の使徒として生きることにある。そして第二タイプとは違って、組織の黒子に徹するのではなく、しばしば第一タイプの〝代行者〟として日なたに出ていく。
 つまり、この第四タイプの行動ビジョン自体は、自身の独創ではないが、与えられたビジョンを深く信仰しているのでかえって迷いがない。その一方、彼らは雰囲気が理系的ではないので、日本の一般社会にとって、とっつきがよいため遥かに共感を得やすい。
 そして、先ほどの第一タイプの例として挙げた人物をみると、いずれもこの第四タイプがペアのように随伴(ずいはん)していて大変に興味深い。薩摩の島津斉彬の場合、西郷隆盛がまさに彼を神として一生を生きた人物だった。また勝海舟に対する坂本龍馬がそうであり、戦国時代では、織田信長に対する豊臣秀吉がそうである。
 彼らはいずれも雰囲気はむしろ文系的だが、神である第一タイプの独創的なビジョンを忠実に踏襲するため、民衆からかえってヒーロー代表とみられることが多く、彼らの存在によって、大衆は理数系武士団の物語自体を、自分たちのものとして受容することができるのである。
 大国を揺るがす奇襲効果
 日本の歴史では、国難に際してこれらの四つのタイプが同時に生まれて自然に連携をとった。時には政府を無視して自発的に行動することで、匡の方針に決定的な影響を与えているのである。
 その典型的なパターンを整理すると、第一タイプの、通常では社会に受け入れられないようなビジョンが、第二タイプに保護されて、それなりに組織のなかで生きる場所を得る一方、各地の第三タイプの人間が、量的な面での人材確保を鈍重な政府にかわって引き受ける。仕上げに、第四タイプが理系と文系のあいだに立って、本来なら日本社会に受け入れられにくいそれらの動きを、世の中に融和浸透させる役割を果たすのである。
 欧米の場合であれば、理系的・論理的な人間は普段から社会や政治の中心部に入り込んでいて、たとえばフランスなどでは、数学ができないと知的エリートとはみなされないという傾向がある。そのため、わざわざ結束して特殊な集団をつくる必要が、最初からそれほどないわけである。
 一方それに比べると、日本における理系集団は平素は社会から孤立していて文系社会に一方的に使われる一種の高級職人としての立場に甘んじており、その真の力を活かすには特殊な暗黙の分業体制による結束が必要だったのである。
 ところが、理数系武士団を歴史のなかに置いたときの効果はこれに留まらない。じつはこの場合、彼らが『自発的な連携で生まれるために、外からみてもその存在がわかりにくい』ということが、結果として大きな戦略的意義を帯(お)びることになるのである。つまり、他国からみると、大きな力の塊(かたまり)が突然出現することになり、その存在自体が一種の奇襲効果をもってしまうということである。
 一般的に、他国が日本を封じ込む戦略を立案する場合、恐らく事前の段階では理数系武士団が存在しない状況を想定して『日本の力はこの程度』と見積もり、それをもとに戦略を策定するだろう。ところが蓋を開けてみると、その存在が日本に予想外の動きをさせることで、封じ込めの構図が根本的に狂って、一時的にその戦略全体がガタガタになってしまうのである。
 それをもっとも深刻なかたちで体験させられた人物は、第二次大戦時の英首相ウィンストン・チャーチルだったかもしれない。彼は、日英開戦前に極東方面の防衛を考える際に、まさに『理数系武士団の存在しない状況』で見積もりを行っていたかのようにみえる。
 彼の見通しでは、とにくか当時の最新鋭の戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』を極東に派遣すれば、日本海軍にはそれを沈める力はないだろうし、同様に、同艦をシンガポールに置いておけば、日本はそれを恐れて南方進出そのものを最初に断念するだろうとみていた。またシンガポール自体の防衛も、この最新鋭戦艦が日本軍の上陸部隊を洋上ですべて阻止すればよい、というスタンスで、その目論見が外れるはずがないと思っていたため、陸側の防衛に必要な戦車などはほかの戦線に回してしまった。
 ところが蓋を開けてみると、日本海軍は南部進出を断念するなどはまったく考えようもせず、それどころか同艦そのものをあっさり沈めてしまったのである。その結果として、英国の防衛戦略そのものが根底から崩壊すると同時に、無防備同然だったシンガポールも陥落してしまったのだ。とくにシンガポールの陥落は、われわれ日本人の想像を遥かに超えて大きな意味をもっていた。それというのも、当時の英国にとっては、シンガポールこそが大英帝国の要(かなめ)であるとともに、そに威信の象徴だったのであり、それを失うことは、大英帝国の解体・崩壊を意味していたからである。
 世界史的に眺めると、帝国として大英帝国は、宰相ウイリアム・ピットの時代に、インドをプラッシーの戦い(1757年)で破り、事実上の支配権を得たころに成立・誕生したといえる。ところがその大英帝国は、1941年のマレー沖海戦と、それに続くシンガポール陥落の打撃で終焉を迎えた、ということになる。そう考えると、日本が英国領であったシンガポールを陥落させた出来事が、どれほどの影響力をもっていたかがわかる。
 じつをいうと、この時点ですでに日本の理数系武士団の力はかつてまでの大きなスケールのものではなくなっていた。これは理数系武士団の一つの弱点ともいえる。力が覚醒した当初は、戦略的に大きな奇襲効果をもっているが、次第に小規模で戦略的なものに矮小(わいしょう)化していき、やがて完全に形骸化した時点で、各自が理系の外の世界に関わる意欲を失ってしまう。そうして、彼らがモノづくりの現場に戻ってしまい、再び長い眠りにつく、というパターンをとりがちなのである。
 1941年にはじまった太平洋戦争時には、理数系武士団の力はやや戦術的で小さなものになっていたことがその後の経過をみればよくわかる。つまり、理数系武士団の力は、最初の開戦当初の時期だけは戦略的に大きな奇襲効果を発揮する。しかしひとたびその戦術的な手の内を読まれてしまうと、戦略的には平凡なのでその後は大したことはできず、打つ手がないまま押し返されるまだけで終わってしまうのである。
 ……
 日本が世界を先導するために
 ともあれ、これらの歴史を先ほどの戦闘力と戦略力の話に照らして考えると、理数系武士団の力はむしろ戦略力の面で大きく作用して、掛け算全体の値を一時的に数倍に引き上げてしまう効果をもっていたことがわかる。そして日本の場合、幸運にも列強と接触がはじまったもっとも決定的な時期に、その力が最大の効率で作用する状態になったのである。それこそが先述した、日本の歴史の大きな謎に対する、本当の答えだったのである。
 その一方で、当時の理数系武士団を除外した幕府の役人たちの姿を思い浮かべると、現在の日本政府の頼りなさそうな姿になんとなく似ている。
 ……」
   ・   ・   ・   
 江戸時代の日本人は、文系の現実的思考力と理系の論理的思考力を偏りが少なく均等に持ち、好奇心・探究心から外国や日常から新たな知識や技術を見付け緩やかに取り入れる柔軟性があり、戦争や競争などで激変を繰り返す合理的西洋とは違い、古代のまま変化を嫌う観念的中華(中国や朝鮮)とも違い、ゆっくりではあったが中世から近世そして近代へと変化し発展していた。
   ・   ・   ・   
 幕末・明治初期の激動期は、教養豊かな10代後半20代30代の若き志士達が天皇の為に青雲の志を抱いて活躍した若者の時代であった。
 分別のある40代50代60代の中年や老人の出る幕はなかった。
 若者の時代には、開放、躍動・躍進、進歩・発展をもたらす陽気な時代の空気はあっても、現代風の抑圧・閉塞、憂鬱・沈鬱、後退・衰退を強制する陰鬱・陰気な同調圧力や場の空気はなかった。
 中年・老人の時代とは、新しい事を嫌い・変わる事を拒否する、古きままに付和雷同する沈み行く時代である。
 日本の歴史で、時代が変化し進歩・発展する時は中高年の時代ではなく若者の時代である。
 若者の時代とは、活動的な若者が多く不活発な老人が少ない社会、失敗と再挑戦が奨励され、無駄が許される時代である。
 日本における若者の時代とは、観念・屁理屈の文系ではなく試行錯誤・創意工夫の理系の時代であるが、理系の内面を支えたのは教養深き伝統的文系文化であった。
   ・   ・   ・   
 日本の理系集団とは、各分野の専門家が集まって個々に活動しながら成果を挙げる分業集団であった。
 つまり、一枚の設計図に各分野の専門家が集まって製品を完成させるのが日本であった。
   ・   ・   ・   
 江戸幕府を無能と笑う現代日本人、特に高学歴知的エリートには歴史力・文化力・宗教力はない。
 何故なら、彼らは「論語読みの論語知らず」で、自己満足的な独り善がりの主義主張はあっても公に役立つ有益な哲学や思想がない。
 彼らは言う「1,000万人行けど我行かず」と。
   ・   ・   ・   
 中高年の古びた西洋礼賛的分別が、若者の好奇心溢れる意欲を邪魔をしなければ、ライト兄弟よりも先に、日本人が人類最初のガソリン機関を動力とした軍用飛行機(航空兵器)を完成させていた。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人と昔の日本人とは別人のように違う日本人である。
 何が違うかと言えば、昔の日本人は一切譲らずとして死を恐れず戦争をしてでも日本を守ろうとしたが、現代の日本人は死ぬ事を恐れて戦争をせず平和的な話し合いで譲れるモノは譲ってでも日本を守ろうとしている、ところである。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、天皇を中心として一丸となって固まると強いが、天皇を持たず団結すると砂団子のように脆い。
 この時の天皇とは、神話を源として流れる血を正統とした男系父系相続の万世一系天皇である。
 日本民族は血が直につながった祖先を氏神様として祀る、血・血筋信奉者、世襲至上主義で、如何に頭脳明晰で才能があり能力が高かろうとも、天才であろうが、親が分からない何処の馬の骨とも知れない者は怪しんで信用せず、敬して遠ざけ、排除した。
 それが、日本民族排他主義である。
 日本民族は、知らない人間が吹くハーメルンの笛で踊る事はなかった。
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 江戸時代の和算・算術などの学問は、武士・サムライだけではなく広く庶民(百姓や町人)の間でも行われていた。
 西洋の数学などの学問は、専門家・学者など特定の人々が極めていたが、民衆には興味も関心も薄かった。
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 百姓は、春秋の稲作農繁期以外の農閑期で、現金収入が見込める畑作や異業種の副業を幾つも持っていた。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人が思っている以上に、昔の日本人、特に幕末期の日本人の才能はを持ち行動していた。
 当時の優秀な日本人(武士・サムライ、庶民{百姓や町人})の能力は、現代の高学歴知的エリートらの知能指数・偏差値・試験の高得点などという学力とは関係ない。
   ・   ・   ・   
 江戸時代。多くの武士・サムライの祖先は、源平藤橘と言った由緒正しい家柄・武門のでではなく、身分低い豪族や庶民であった。
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 武士は、祖先に与えられた僅かな禄高を貰って宮仕えしていたがたえず生活苦に喘いでいた為に、時間があれば食べ物の足しにするべく庭で農作業を行い、少しでも現金収入を得るべく副業として庶民に頭を下げて内職(傘貼り、虫籠作り、金魚養殖、民芸品作り、組紐作り、縫い物、その他)に精を出していた。
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 薩長土肥倒幕派士族の多くは、中枢政治家、上級官僚、軍司令官・高級将校、幹部警察官、政商企業家など権力側についた。
 幕府や佐幕派士族の多くは、地方政治家、下級官吏、中級将校、地元警察官、反権力の新聞記者、権力とは距離を置いた学者、教育者、技術者などになった。
 敗れた旧幕臣や旧佐幕派の一部には、天皇に裏切られたという憎悪の念が渦巻き、知識がある若者は無政府主義者共産主義者となり反天皇主義者となっいていった。
 勝った薩長土肥倒幕派士族でも、権力側として成功できなかった挫折者の中からも無政府主義共産主義に走り反天皇主義者となった。
 日本国内には少数派であったが反天皇主義者がいて、その中から天皇制を打倒しようと目指した過激派が生まれ、さらにその中から天皇を惨殺しようとする反天皇反日本テロリストが生まれた。 
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 庶民にとって、武士・サムライとは違って、天皇もただの人間で特別な存在ではなかった。
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 日本が、西洋以外でいち早く近代化できたのは偶然ではなく必然であり、短期間で成し遂げる事ができたのは自然環境にあった。
 日本の自然環境とは、雑多で複合的に同時に発生する自然の大災害と町の大半を焼く大火、繰り返し数万人~数十万人の死人を出す国内由来飢餓と国外由来疫病である。
 昔の日本は、雑多で複合的同時多発的自然災害、大火、飢餓、疫病に絶えず襲われていた為に、前例主義として過去を手本に被害を少なくし犠牲者を減らすべく知恵を絞りできる対策を施していた。
 事実。江戸幕府はバカでも無能でも無策でもなく、10万人以上の犠牲者を出した明暦3(1657)年1月の明暦の大火を教訓として江戸再建にあたって防火・防災と再建・復興の諸対策を行い、その成果でこれ以降約200年間に江戸は幾度も大火・自然災害に襲われたが犠牲者を減らす事に成功していた。
 江戸・東京で10万人以上の犠牲者を出したのは、住民人口が倍増した自然災害の関東大震災と戦争の東京大空襲の2例のみである。
 前例主義や事なかれ主義において、昔は前向き積極的で優れていたが、現代は後ろ向き消極的で劣っている。
 その違いは、必要に応じて犠牲を覚悟して行動できるかどうかである。
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 日本民族は、いつの時代でも両面性・両義性を持っていき生きていた。
 日本人仏教僧は、仏の道を説いて人を助け癒し慰め励まし生きる為に後押しをしていた、同時に、兵法・軍学を学び敵兵・人を殺して戦に勝つ方法を教え、あるいは自ら百姓や武士を指揮して戦い敵を殺した。
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 日本民族の戦いは、積極的攻撃ではなく消極的受け身で、つまり「降りかかる火の粉は払わねばならぬ」あるいは「窮鼠猫を噛む」であった。
 つまり、逃げる道のない、後がないところまで追い詰められない限り行動しない。
 後(ご)の先である。
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 日本とは、川の流れの「方丈記」の世界である。
 十年一日として前例に従って変化しなかったが、同時の十年一昔として行動し、劇的変化は起きなかったが、緩やかに変わっていき江戸初期と江戸末期では全然違う日本になっていた。
 日本には、「変わらない」古く正しい伝統と「変わる」新しく奇抜な外連(けれん)が両輪として存在していた。
 日本民族は、変わらない忍耐と変わる勇気を合わせもっていた。
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 江戸時代は悲惨を極めたブラックな社会であった。
 日本民族は、誰も頼れず、誰からも助けられず、誰からの援助・支援もなく、数万年前の縄文の時代からとにかく生きてきた。
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 身分低い庶民の子で、才能があれば下級武士の養子となり、その能力を認めると中級武士の養子になり町奉行勘定奉行・郡奉行・代官・遠国奉行などに出世した。
 が、才能がない世襲武士は、才能で成り上がってきた俄武士に対して陰険にして陰湿なイジメ・嫌がらせ・意地悪を繰り返して潰そうとした。
 成り上がり武士で有名なのが、古くは河村瑞賢、新しくは最上徳内川路聖謨中浜万次郎らである。
 成り上がりの俄武士を助けたのは、その才能を認める将軍や大名であったが、将軍や大名が死去して代が替わると新しい将軍や大名に疎まれ左遷され不具な老後を送る事が多かった。
 世襲武士は、家柄によって職種や役職が決められ、別の職種に変わる事もさらに上の役職に昇格する事はなかった。
 武士の世界は、言語を絶するほどのブラック社会で、一つでも間違えば、問答無用で責任を取らされ、御役御免で隠居・蟄居、家禄没収の上で領外追放、最悪は上意でお家断絶の上切腹であった。
 世襲武士は身内・親族・一門が助けるが、成り上がり武士は誰も助けなかった。
 出世しない家柄の武士は30~40歳で引退し、家督を10代の息子に譲り、悠悠自適な隠居生活を楽しんだ。
 庶民が幾ら努力して慣れない身分があった。それは、天皇・皇族、公家、将軍、大名であった。
 庶民の貪欲な上昇志向による下剋上を阻んだのが、血の神話である男系父系相続と血の制裁である武士道であった。
 女性排除はここから生まれた。
 つまり、男の替えは幾らでもいるが、女の替えはないからである。
 つまり、女性排除は女性保護であった。
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  日本人と中国人・朝鮮人は「水と油」のような性質・特質を持っていて、両者は幾ら話し合い付き合ってもしょせん分かり合う事ができない。
 知人になっても、友・友人や親友にはなれない。
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➰目次)ー4ー大正。関東大震災と皇室。天皇と日本国に忍び寄る邪悪な共産主義の毒牙。戦争神経症。~No.1 * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 当ブログは、歴史の定説を恣意的に書き替える為に作成している歴史修正主義民族主義のブログである。
   ・   ・   ・   
 日本人は、歴史が嫌いであり、歴史が理解できないし、歴史を学ぼうとはしない。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は歴史力・文化力・宗教力がなく、特に高学歴知的エリートには歴史が理解できない。
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 ソ連コミンテルンの国際共産主義勢力は、共産主義の正義から、中国共産党を通じて日本共産党・日本人共産主義者に革命資金や武器を提供していた。
 日本共産党と反天皇反日的日本人の天皇制度廃絶運動。
 日本人共産主義テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
 共産主義は、人民の大義で神殺し、天皇殺し、民族殺しであった。
   ・   ・   ・   
 第123代大正天皇
 (明治12{1879}年8月31日~大正15{昭和元・1826}年12月25日~1926年)。
 在位、明治45(1912)年7月30日~大正15(1926)年12月25日。
 諱は嘉仁(よしひと)、称号は明宮(はるのみや)。
  ・  ・  
2017-08-26
➰2)3)─1─裕仁皇太子の欧州訪問。大正天皇関東大震災詔書大正天皇崩御。日本児童文学の創成期。ジャポニズムの終焉。1912年 ~No.2No.3No.4No.5No.6・ @ ①
  ・   ・   ・   
2018-11-17
➰4)─1─関東大震災と皇室ナショナリズム。摂政・裕仁皇太子の被災者救援策。~No.7No.8No.9・ @ 
2020-03-27
➰4)─2─貞明皇后関東大震災の被災者を慰問し慰め励まし勇気づけた。〜No.10No.11No.12・ 
2017-08-27  
➰4)─3─関東大震災と横浜刑務所。備えあれば憂いなし、それは江戸時代・振袖火事以来の伝統であった。~No.13No.14No.15・ @ 
2018-12-04
➰4)─4─天皇主義者・賀川豊彦関東大震災キリスト教の信仰と日本初のボランティア。~No.16No.17No.18・ @ ②
   ・   ・   ・   
2021-08-22
➰5)─1─戦争神経症の日本人兵士は戦中も戦後も精神科病院に隔離。~No.19No.20No.21 ③ 
   ・   ・   ・   
2021-10-23
➰6)─1─裕仁皇太子がボンボニエールに込めた世界平和への願い。~No.22No.23No.24 ④ 

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③④⑤

🌏29)─1─明治22年、皇室典範。血(Y染色体)の神話に基づく正統な万世一系の男系父系継承。〜No.87 

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 皇室の血族優先(ネポティズム)は、依怙ひいき、縁故、身びいきとは違う。
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 皇室まめ知識
 皇室典範とは
 皇室典範とは何か
 現行の皇室典範は、昭和22年1月16日、一般の法律のひとつとして公布され、5月3日に施行されました。新憲法に対応して、天皇と皇族に関する事項を規定している根本法で、第1章「皇位継承」、第2章「皇族」、第3章「摂政」、第4章「成年、敬称、即位の礼大喪の礼皇統譜及び陵墓」、第5章「皇室会議」から成っています。
 「皇位継承」について
 第1章「皇位継承」は1条「皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する。」より始まり、皇位継承の順序を詳細に規定(第2条・第3条)。第4条には「天皇が崩じたときは、皇嗣が直ちに即位する。」と規定されており、今上天皇も、昭和天皇が昭和64年1月7日午前6時33分に崩御された後、「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」を行われ、ただちに即位されました。「剣璽」とは、神話の時代より現在に至るまで皇室に伝わる三種の神器(八咫神鏡=やたのかがみ・草薙剣=くさなぎのつるぎ・八坂瓊曲玉=やさかにのまがたま)のうちの剣のお写しと曲玉を指しており、「剣璽等承継の儀」とは、天皇の御印である「御璽(ぎょじ)」と国の印章である「国璽(くじ)」が剣璽と共に継承される儀式です。
 退位、皇位継承、摂政についての規定
 一方、退位についての規定はありません。
 幕末までは、天皇は自分の意思で譲位され、太上(だじょう)天皇(=上皇)となることができましたが、退位は「象徴」としての地位と矛盾するという理由で認められていません。
 第2章「皇族」では皇族の定義がなされており、第5条で「皇后、太皇太后、皇太后親王親王妃内親王、王、王妃および女王を皇族とする」と定められています。
親王内親王については、嫡出の皇子、および嫡男系嫡出の皇孫まで、つまり二世までとなっており、三世以降の嫡男系嫡出の子孫は王、女王と呼ばれます。旧皇室典範では皇玄孫(こうげんそん)、つまり四世までを親王内親王と定め、五世以下を王・女王と定められていたのが、ぐっと範囲が狭められたことになります。
 また、旧皇室典範で禁止されていた天皇および皇族の養子は引き続き禁止され、女子および嫡子でない子の相続も認められていません。
 第3章「摂政」では、天皇が成年に達しないとき、また国事行為を自ら行えない場合に摂政を置くと規定され、就任する順序が定められています。平安時代からの摂政は、幼少の天皇に代わって、臣下が政務を行うというものでしたが、旧典範からは、天皇の大権を代行する役割となりました。昭和天皇は皇太子時代に、体調のすぐれない大正天皇の摂政として公務に当たられました。
 皇位継承においては女子は認められていないものの、摂政となるには問題がありません。旧皇室典範では、女子に配偶者がないことが条件となっていましたが、現行の皇室典範ではそうした規定も外されています。
 天皇、皇太子、皇太孫の成人は18歳
 皇室における“成年”については、一般国民と同じように、他の皇族が20歳で成年を迎えるのとは異なり、「天皇、皇太子、及び皇太孫の成年は十八年とする。」と第4章第22条に規定されています。第23条は敬称に関する規定であり、天皇、皇后、太皇太后、皇太后の敬称は「陛下」、それ以外の皇族の敬称は「殿下」と定められています。
 皇位の継承があったときに行う「即位の礼」は第24条で定められ今上天皇の場合は、諒闇(服喪期間)の明けた平成2年11月12日に行われました。
 第25条では「大喪の礼」は「天皇が崩じたときに行う」と定められており、現行の皇室典範下での初めての昭和天皇の「大喪の礼」が、国事行為として平成元年2月24日に行われています。ちなみに、伝統を忠実に守るために、また政教分離にも配慮して、一部の儀式は国の行事としてではなく「皇室の公的行事」として行われました。
 ほかに旧皇室典範では規定されていながら、現行法では規定されておらず、「皇室の公的行事」として行われたものには、「大嘗祭」、「立太子の礼」などがあります。
 第4章第27条では陵墓について定められており、「天皇、皇后、太皇太后、皇太后を葬る所を陵、その他の皇族を葬るところを墓」と、はっきり区別されています。
 第5章では皇室会議について定められています。議員は10人。皇族2名、立法府4名(衆議院参議院の議長と副議長)、行政府2名(首相、宮内庁長官)、司法府2名(最高裁判所長官およびその他の裁判官)から構成され、原則として出席者の過半数の賛成によって議決されますが、皇位継承の順序変更などの重要事項の場合には3分の2の賛成が必要となります。現在の皇族代表は、三笠宮崇仁親王・同妃両殿下が任にあたられています。
また、現在の皇室典範の公布と同時に、皇室経済法も公布されました。戦前の皇室経済は表向きに公表されることはほとんどありませんでしたが、11条から成る皇室経済法及び同施行法では、皇室経費の金額、財産の授受などについても明記されています。
 旧皇室典範との違い
 明治22年大日本帝国憲法と同時に公布された旧皇室典範憲法と対等の効力を有し、その改正・増補は皇族会議および枢密顧問(天皇の最高の諮問機関)の諮詢を経てなされ、議会の議決を経る必要はないとされていました。
 これは典範に「皇室の家法」としての性格を認めて皇室の自立性を謳ったものですが、いわゆる「宮中」と「府中」の区別を明確にし、「皇室の事務」と「国家の事務」が混淆しないことを目指しています。
 宮内大臣は内閣の一員ではなく、宮内官は政府の一般の官吏とは身分的に一線を画していたのもこのことの端的な表れです。
 これに対して、現典範は旧典範とは無関係に議会によって新規の法律として制定され、国会の過半数の議決によって改正されうる一般の法律と同等の効力しか有していません。この点が最も大きな違いです。
 内容的に見ても、旧典範が全12章62か条であるのに対し、現典範は全5章37か条とかなり簡略化されています。
 幼帝のご保育にあたる太傳(たいふ)や、皇族に対する訴訟・懲戒規定・元号・神器渡御(とぎょ)大嘗祭(だいじょうさい)に関する規定などは現典範ではなくなっていますし、皇室経済に関することがらは別の法律に委ねられました。
 皇室制度についてほぼ完璧に整備されていた旧典範
 また、旧典範では嫡出子のみならず、庶出子にも皇位継承権を認めていましたが、現典範は嫡出子のみに限っていますし、皇太子・皇太孫を除く皇族がその身分を離れる途を広く認めた点も大きく異なる点でしょう。
 もうひとつ違っている点は関係法令の整備状況です。
 現典範には、皇統譜令皇室経済法皇室経済法施行法宮内庁法・国事行為の臨時代行に関する法律・元号法しかありませんが、旧典範にはその下に皇室令と呼ばれる皇室に関する一群の法令が体系的に網羅されていました。
 そのうち主要なものを列挙すると――(旧)皇統譜令(皇籍)・登極令(皇位継承)・摂政令(摂政の設置)・立儲令(立太子)・皇室親族令(親族関係)・皇室成年式令(成年)・皇族身位令・皇族会議令など(皇族一般)・皇室祭祀令・皇室儀制令(宮中の祭祀・儀礼)・皇室喪儀令・皇室陵墓令など(葬制・墓制)・皇室財産令・皇室会計令など(皇室経済)等々とあり、皇室制度はほぼ完璧に整備されていたことがわかります。
 この現行法の不備を補うために、たとえば歌会始講書始の儀、皇族の成年式やご結婚の儀、立太子礼、昭和天皇香淳皇后のご葬儀・今上陛下の即位のご大典などが旧皇室令に準拠して行われてきたのです。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)
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 皇室
 天皇と皇族の総称。狭義には内廷(天皇一家)、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。
 皇族(皇親)の範囲は、明治以前は大宝令(たいほうりょう)によって定められた。それによれば、天皇の兄弟姉妹および皇子、皇女を親王(しんのう)とし、皇孫、皇曽孫(こうそうそん)(天皇のひまご)、皇玄孫(こうげんそん)(天皇のやしゃご)を王、皇玄孫の子たる五世王は王名を称することはできるが皇親の範囲に入らないと定めた。女子については内親王(ないしんのう)、女王の称も用いた。また、二、三、四世王を親王に対して諸王と総称した。ちなみに親王、王の配偶者は、内親王、女王でない限り皇親とは認められなかったようである。この皇族の範囲は、一時拡張の傾向を示したが、徐々に空洞化した。[小田部雄次
 大日本帝国憲法下の皇室
 明治維新後、大日本帝国憲法公布に伴う皇室典範の制定により、新たな皇族制度が生まれた。つまり、1889年(明治22)の皇室典範は、皇族の範囲を、太皇太后(たいこうたいごう)、皇太后、皇后、皇太子、皇太子妃(ひ)、皇太孫、皇太孫妃内親王、王、王妃、女王とし、皇子より皇玄孫に至るまでは男を親王、女を内親王、五世以下は男を王、女を女王とした。なお、皇室典範制定以前からの世襲親王家(宮家)は、そのまま親王とし、皇族にした。
 大日本帝国憲法の下で、皇族は一般臣民とは区別され、固有の財産と特権が与えられた。成年の皇族男子は原則として陸海軍人となり、貴族院議員の資格をもち、親王は枢密院会議に列した。もっとも永世皇族主義では皇族が増えすぎるので、1907年の皇室典範増補により、王は新たに家をおこして華族となることができるようにした(臣籍降下)。
 大日本帝国憲法下では、皇室に関する事項は国務から区別され、帝国議会が関与することは許されなかった。皇室事務は天皇が総攬(そうらん)し、宮内大臣がこれを輔弼(ほひつ)した。皇室事項を規律する法としては、皇室典範をはじめとし、登極令、皇室親族令などの皇室令が制定された。皇室には原則的に通常の国の法令は適用されず、天皇の財産たる御料を中心とした膨大な皇室財産も国有財産から区別され、議会の統制を受けなかった。皇室事務費用は国庫より支出される定額の皇室経費のほか、御料財産によってまかなわれた。皇室関係の重要事項は、成年以上の皇族男子で組織する皇族会議で審議された。
 動産・不動産からなる皇室財産は、明治維新以後に設定された。明治政府は皇室の経済的基礎を確立する必要に迫られ、1884年から1890年にかけて莫大(ばくだい)な皇室財産が蓄積された。つまり、政府所有の日本銀行横浜正金銀行日本郵船会社株の皇室財産への編入佐渡(さど)、生野(いくの)両鉱山の皇室への移譲、350万町歩(ちょうぶ)の山林原野の皇室財産編入などが行われた。宮城、皇居、御所、各離宮、木曽その他の御料地、正倉院(しょうそういん)宝庫などは、世伝御料として天皇に永世に伝えられるものとなった。
 さらに1890年以降は、定額300万円の皇室費が毎年国庫より支出され、日清戦争で獲得した償金約3億円のうち2000万円が皇室会計に繰り入れられた。また皇室費は、日露戦争後、450万円に増額され、第二次世界大戦終戦まで毎年支出された。
 なお、大日本帝国憲法下における天皇家は、明治天皇睦仁(むつひと)、同妃美子(はるこ)(昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう))、大正天皇嘉仁(よしひと)、同妃節子(さだこ)(貞明皇后(ていめいこうごう))、昭和天皇裕仁(ひろひと)、同妃良子(ながこ)(香淳皇后(こうじゅんこうごう))らによって継承された。皇族は、直宮(じきみや)(天皇の子や兄弟姉妹)である秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)、同妃勢津子(せつこ)、高松宮宣仁(たかまつのみやのぶひと)、同妃喜久子(きくこ)、三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)、同妃百合子(ゆりこ)らがおり、直宮以外には、朝香宮(あさかのみや)、有栖川宮(ありすがわのみや)、華頂宮(かちょうのみや)、桂宮(かつらのみや)、賀陽宮(かやのみや)、閑院宮(かんいんのみや)、北白川宮(きたしらかわのみや)、久邇宮(くにのみや)、小松宮(こまつのみや)、竹田宮(たけだのみや)、梨本宮(なしもとのみや)、東久邇宮(ひがしくにのみや)、東伏見宮(ひがしふしみのみや)、伏見宮(ふしみのみや)、山階宮(やましなのみや)の15宮家があった。そのうち桂と小松の2宮家が明治年間に、有栖川と華頂の2宮家が大正年間に、それぞれ断絶などで廃された。[小田部雄次
 日本国憲法下の皇室
 第二次世界大戦後、日本国憲法の公布で天皇は国家の象徴となった。これに伴い1947年(昭和22)2月、皇室典範が改正され、皇族は嫡出子に限り、親王内親王は皇孫まで、三世以下は王、女王とするなどの変更が行われた。そして、皇子、皇弟の直宮以外のすべての11宮家は臣籍に降下し、皇族の範囲と特権は縮小した。日本国憲法下の皇族は、国民の一部ではあるが、皇室典範などの規定により、皇位継承、摂政(せっしょう)就任などの政治的特権があり、選挙権、被選挙権がなく、養子をすることができないなどの制約がある。
 つまり、戦後の皇族は、皇后、太皇太后、皇太后親王親王妃内親王、王、王妃、女王の身分の総称である。その身分も可動的で、一般国民は、立后(りっこう)(皇后の地位につくこと)や皇族男子との婚姻により皇族になれる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下)。
 第二次世界大戦前の莫大な皇室財産は、戦後、連合国最高司令官総司令部GHQ)によって解体された。終戦時の皇室財産総額は、総司令部発表で約16億円(美術品、宝石類を含まない)、1946年3月の財産税納付時の財産調査によれば約37億円と評価された。この結果、約33億円が徴収され、残りは国に帰属した。こうして戦後は、皇室財産は国有化され、皇室費用は予算に計上されて国会に統制された。1947年公布の皇室経済法は、皇室費用を宮廷費(儀式などの費用)、内廷費(日常費用)、皇族費(品位保持の費用)に区分し、さらに皇室の蓄財や特定者との経済的結合を防止している。ちなみに、2019年度における皇室費は、約117億円である。
 さらに、1947年、皇室関係の重要事項を審議する機関として皇室会議が置かれ、皇室経済に関する重要事項を審議する機関として皇室経済会議が設置された。皇室会議は、皇位継承の順序の変更、立后、皇族男子の婚姻、皇族の身分の離脱、摂政の決定などを審議する。構成員は、内閣総理大臣を議長とし、皇族2人、衆参両院の正副議長、宮内庁長官最高裁判所長官と同裁判官1人の計10人である。皇室経済会議は、皇室経済法に定められた皇室費経理、皇室財産の授受などを審議し、構成員は、内閣総理大臣を議長とし、衆参両院の正副議長、財務大臣宮内庁長官会計検査院長の8人である。
 現在、徳仁(なるひと)天皇を中心とする内廷は、雅子(まさこ)皇后と長女敬宮愛子(としのみやあいこ)、明仁(あきひと)上皇と美智子(みちこ)上皇后である。皇族は、1990年(平成2)6月に浩宮徳仁天皇)の弟である礼宮文仁(あやのみやふみひと)が結婚して秋篠宮(あきしののみや)となり、同妃紀子(きこ)と長女眞子(まこ)、次女佳子(かこ)、長男悠仁(ひさひと)がいる。そのほか、明仁上皇の弟である常陸宮正仁(ひたちのみやまさひと)、同妃華子(はなこ)、昭和天皇の弟である故三笠宮崇仁の妃百合子、三笠宮の男子である故三笠宮寛仁(ともひと)の妃信子(のぶこ)、故高円宮憲仁(たかまどのみやのりひと)の妃久子(ひさこ)らで構成される。昭和天皇の弟であった秩父宮家は同妃勢津子の1995年8月25日の逝去により、高松宮家は同妃喜久子が2004年12月18日に逝去して廃された。また、明仁の長女の紀宮清子(のりのみやさやこ)は2005年11月15日、結婚により皇族の身分を離れた。
 なお、皇室に苗字(みょうじ)や戸籍はなく、身分に関する事項は皇統譜(こうとうふ)に記載される。皇統譜には、天皇皇后に関する大統譜(だいとうふ)と、皇族に関する皇族譜があり、正本は宮内庁書陵部、副本は法務省が保管している。[小田部雄次
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 しょせん、現代日本人には縄文人以来の日本民族の心・気持ち・念いは理解できない。
 それは、リベラル派、革新派、保守派に関係なく、左翼・左派・ネットサハそして右翼・右派・ネットウハでも言える。
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 現代日本人が、欲しい天皇、理想とする天皇は、正当天皇であって正統天皇ではない。
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 正統と正当の違いは、民族固有の歴史・文明・文化・伝統・宗教・言語・風習・習慣その他諸々を内に秘めているかどうかである。
 正統はそれを内に秘めているが、正当は全てを排除している。
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 天皇即位の必須条件は、野心・野望、出世欲、金銭欲、上昇志向、欲得・強欲などの私欲・個人欲を持たない「無心の無欲」である。
 日本天皇制度、天皇家・皇室が、2000年以上の歴史を持ち、伝統文化として受け継がれてきた理由は、俗世から離れた所に存在していたからである。
 天皇の振る舞いは、俗事の政治や宗教ではなく神事の「まつりごと」であった。
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 日本神道最高神は、女性神天照大神である。
 天照大神は、現天皇家・皇室の祖先神である。
 天皇の正統は、天照大神から発する男系父系の血筋・血統・皇統で保証され、皇室に縁のない他家に嫁いだ女系母系の血筋は赤の他人の血で正統性はないとして皇統譜から排除されている。
 つまり、天皇の正統性は、一個人の教祖が修行の末に自分の思い込みで作り上げた創作宗教ではなく、民族中心神話にある。
 教祖宗教とは、血のつながらない赤の他人が信仰で教主になる宗教で簡単に滅びる。
 民族中心神話は、信仰に関係なく、民族が生存する限り、血が絶えない限り滅びない。
 民族中心神話とは、民族主義である。
 昭和天皇は、国體(正統な血統・皇統の男系父系天皇制度と神の裔である血統の現皇室)を守るべく、孤立無援の逆境の中で一人孤独に戦っていた。
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 昔の日本人と現代の日本人は、別人と言ってもいいほどの日本人である。
 現代日本人には、数千年受け継がれてきた民族の歴史力・文化力・宗教力はなく、数万年前の縄文人の素朴さも残っていない。
 国民の8割近くが天皇制度存続な為に、血(Y染色体)の神話に基づく正統な現皇室の男系父系天皇継承を廃止し、血の神話を否定した法理の憲法・法律に基づく正当な新皇室の女系母系継承を採用する事を求めている。
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 日本民族は、アイヌ人・琉球人同様に数万年前の縄文人から生まれて固有民族である。
 雑多な人種・民族・部族が、乱婚を繰り返して生まれた血が汚れた混血の雑種民族である。
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 日本文明は、揚子江流域にあった女系母系継承の長江文明の後継文明であって、黄河流域にあった男系父系継承の黄河文明の亜流文明ではなかった。
 南方系海洋民の血を引く日本民族は、西方系草原の民の血を引く中華民族(中国人・朝鮮人)とは縁が薄い。
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 日本民族の祖先は、殺し合いを繰り返す地獄のような中国大陸や朝鮮半島を嫌悪し日本列島に逃げ込んできた、精神も体力もひ弱な弱い人間であった。
 弱い日本民族は、弥生の大乱以来長く続く殺し合い・戦い・争いを鎮め世を平らかにするするべく話し合い・談合で、「1人」の力が弱い無欲で賢い日本人を大王に祀り上げて一つにまとまり、その「御一人」に衆議で決めた案件を承認させ詔(みことのり)として発布した。
 その御一人が後の天皇であった。
 裁可の御墨付きを与える天皇位を争いのもとにしない為に、民族中心神話由来の一系統の豪族(大王家・天皇家・皇室)の男系父系による完全世襲とした。
 歴史的事実として、武力・財力を持つ有力豪族達(後には大名達)は、領地拡大や政治権力・宗教権威を巡って争い・殺し合いを繰り返していた。
 天皇の神聖不可侵とは、国内外に発する「詔」にあたえられたクレジットである。
 中国皇帝や朝鮮国王の勅は守られない事があったが、日本天皇の勅は絶対であった。
 その歴史的証拠が、8月15日の終戦詔勅である。
 天皇機関説とは、中国や朝鮮のような殺し合い・戦い・争いのない「平らかな世」を日本に生み出す為の古代天皇制度そのものである。
 それが正統天皇であって、正当天皇にはそれができない。
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 天皇家・皇室の血による世襲制とは、殺し合い・戦い・争いを鎮め世を平らかにする「和」の継承である。
 和とは、「世の平らか」を欲する天皇の御威光・御稜威・大御心・志であり、八百万の神々が発する神聖な言霊である。
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 日本民族は、血に飢えた好戦的な尚武の民族ではない。
 日本民族とは、武士・サムライではなく百姓や職人(町人)の庶民である。
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 皇室典範は、1889年(明治22年)から1947年(昭和22年)までの、皇位継承順位など皇室に関する制度・構成等について規定していた家憲である。大日本帝国憲法と同格の法規とみなされ、両者を合わせて「典憲」と称した。昭和22年5月2日に廃止され、新たに法律として制定された現行の皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)が、同年5月3日の日本国憲法と同時に施行された。
 概説
 1886年6月10日、宮内大臣 伊藤博文が、帝室典則案を内大臣 三条実美に提出した。 1887年3月20日 首相兼宮相伊藤博文・帝室制度取調局総裁柳原前光井上毅、伊東巳代治らが会合し、皇室典範・皇族条例の草案について討議。 1889年(明治22年)2月11日に裁定された旧皇室典範は、皇室の家法という性格が与えられていた(官報には登載せず)が、1907年(明治40年)2月11日裁定の皇室典範増補で宮内大臣および各国務大臣の副署がなされかつ公布の対象となり、国民も拘束するものとされた。もっとも、同年1月31日に制定された公式令明治40年1月31日勅令第6号)などで宮務法と国務法[5]の峻別が定められたことからもわかるように、旧皇室典範大日本帝国憲法の下にあるようになったというわけではない。
 旧皇室典範の改正又は増補は、皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て勅定するものとされ(旧皇室典範第62条)、この手続きに帝国議会の協賛又は議決は要しないとされた(大日本帝国憲法第74条)。これは、現在の日本国憲法及び同憲法の下にある皇室典範(昭和22年法律第3号)にはない皇室自律主義の表れといってよい。旧皇室典範の改正又は増補は、法源としての「皇室典範」たる形式で行われた。増補は明治40年2月11日(皇族の臣籍降下など)と1918年(大正7年)11月28日(皇族女子は王族または公族に嫁し得る)に2度あるのみで、旧皇室典範本文を改正した例がないまま廃止された。1946年12月24日、枢密院は、皇室典範増補中改正の件を可決、つづいて皇族会議で可決(内親王・王・女王は勅旨・請願によって「臣籍降下」できる)。
 旧皇室典範および皇室典範増補は、1947年(昭和22年)5月1日勅定の「皇室典範皇室典範増補廃止ノ件」によって、新皇室典範日本国憲法が施行される前日の同年5月2日限りで廃止された。

 皇族の範囲規定
 旧皇室典範は皇子(1世)から皇玄孫(4世)までを親王、5世以下を王とした。これに従えば、親王宣下を受けて親王となっていた皇族(伏見宮貞愛親王東伏見宮依仁親王有栖川宮熾仁親王有栖川宮威仁親王)や、伏見宮出身の還俗した入道親王法親王北白川宮能久親王閑院宮載仁親王山階宮晃親王久邇宮朝彦親王小松宮彰仁親王華頂宮博経親王)についても王を称することとなるが、特例として旧皇室典範施行までに親王宣下を受けていた場合は従来の通り親王を称することとされた(旧皇室典範第57条)。さらに永世皇族制を採用し、皇族女子の婚姻による離脱以外は臣籍降下についての定めがなく、皇族の男系子孫は何世代後であっても皇族であり続けるとされた。
 しかし、皇族の増加による皇室財政の負担増などを背景に、1899年(明治32年)に成立した帝室制度調査局が対策案を練り上げ、明治40年2月11日に皇室典範増補が定められ、王は勅旨又は本人からの情願により、皇族会議と枢密顧問の諮詢を経て、家名を賜って華族になることができるとする臣籍降下制度が創設され、永世皇族制は事実上放棄された。ただし、この時は降下に関する具体的な基準は定められず、あくまでも“臣籍に下す可能性がある”と規定するに留められた。また、同時に「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」(皇室典範増補第6条)と皇籍復帰の禁止も定められた。
 この規定が設けられてもなお王の臣籍降下が進まなかったため、1920年大正9年)5月19日に皇室典範増補を適用する具体的な基準として、皇族会議と枢密顧問の諮詢を経て、「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定された(公布されず)。王は皇室典範増補第1条に基づく降下の情願をしなければ、長子孫の系統4世以内を除き勅旨により家名を賜い華族に列するとされた。伏見宮系の皇族は崇光天皇の16世孫である伏見宮邦家親王の子孫について、附則で邦家親王を皇玄孫と見做し、準則を準用した。
 ただし、一律的に華族に列することには異論もあり、枢密院での審議における政府側の説明では、その個々の場合においても大体準則の規定に準拠し、かつ事態の緩急に応じてその宜しきを斟酌すべきものとされ、この準則の性質は常例として準拠すべき大体のものであるとされた(『枢密院会議筆記』1920年3月17日)。いずれにしても、臣籍降下は情願によることが本則とされたので、この準則が効力を有した期間(1920年 - 1946年)の12件の臣籍降下は、すべて情願によるものであって、この準則が直接適用されたわけではない。
 「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」は、王だけでなく内親王と女王も勅旨・情願による臣籍降下を可能とする「皇室典範増補中改正ノ件」(昭和21年(1946年)12月27日勅定)の制定と同時に、「皇族ノ降下ニ関スル施行準則廃止ノ件」(公布されず)によって廃止された。
 大礼(即位礼及び大嘗祭)の場所
 明治天皇は1877年(明治10年)に京都御所を訪れた際、その衰退を憂い、「旧都の保存」を命じ、翌年の1878年明治11年)には「将来わが朝の大礼は京都にて挙行せん」との意向を示し、1883年(明治16年)には京都を即位式・大嘗会の地と定め宮内省に京都宮保存を管理させた。これを受けて本皇室典範の第11条で「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都二於イテ之ヲ行フ」と規定された。
 譲位案の削除
 本皇室典範原案策定では、天皇の譲位に関する規定が盛り込まれていた。宮内省図書頭の井上毅は譲位容認を唱えていたが、伊藤博文がこれに異を唱え、この条文は典範から削除された。そのやりとりの会議は「高輪会議」と呼ばれ、内容は「草案談話要録」に記録が残っている。
 なお、1889年(明治22年)の皇室典範制定以後、譲位による皇位継承は行われていなかったが、2019年(平成31年/令和元年)に天皇の退位等に関する皇室典範特例法(2017年(平成29年)に制定)により、明仁から徳仁への皇位継承が譲位によって行われた。
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 旧皇族とは、1947年(昭和22年)に皇籍離脱した11宮家51名以上の元皇族の総称。旧宮家ともいう。またこの皇籍離脱者の子孫も含めた総称で用いられることも増えている。天皇の男系子孫であるため、近年の後継者不足による皇位継承問題における解決策として話題となることが多い。
 概説
 昭和天皇旧宮家の面々
 旧皇族の出自
 南北朝時代以降、皇位継承権者を確保する目的で、伏見宮桂宮有栖川宮閑院宮世襲親王家が立てられ、いずれも男系で宮号が継承されてきた。宝永7年(1710年)に閑院宮が創立されて以降は、皇位を継承する皇統とあわせて5本の血統が、互いの継承者を融通しつつ存続した。それぞれの宮号の継承者は、その時々の天皇または上皇の猶子となることにより、擬制的な親子関係を構築し、そのことを根拠にして親王宣下により親王の地位と称号を与えられてきたのである。これらの皇統および宮号を継ぐ者以外は、その多くは仏門に入った。
 明治維新と前後して、伏見宮家の第19代貞敬親王および第20代・第23代邦家親王の王子が還俗して、新たな宮号を下賜され、あるいは継嗣のいない宮家を相続した。ただし、この時期に新立した宮家に関しては1代限りとして、2代目からは臣籍降下させて華族に列することとし、世襲は想定されていなかった。
 しかし、皇統を継いだ明治天皇の男子で成人したのが大正天皇一人で、さらに幕末から大正にかけて、閑院宮桂宮有栖川宮が相次いで断絶したため、安定的な皇位継承を果たすべく、新たな世襲親王家伏見宮の血統に求めたことにより、維新期に立てた宮号世襲されることになり、さらに明治天皇の皇女と婚姻した王が新たに宮号を下賜された。上述の昭和22年(1947年)に皇籍離脱した旧皇族は、全て邦家親王の血統の出身である。
 現在の皇室と旧皇室の男系での共通の祖先は、3代伏見宮貞成親王である。貞成親王の第一王子・彦仁王が、男子を儲けないまま崩御した称光天皇の後を受けて皇位を継承(後花園天皇)、弟の貞常親王が4代伏見宮を継承し、皇統および宮号がその子孫に継承されて現在に至っている。
 一方で、女系を含めると17世紀に在位した第112代霊元天皇(1654-1732)が全ての現皇族及び旧皇族の最も近い共通祖先である。霊元天皇第五皇女である福子内親王(1676-1707)が伏見宮邦永親王との間に貞建親王を儲けており、旧皇族はその子孫にあたる。
   ・   ・   ・   
 天佑ヲ享有シタル我カ日本帝國ノ寳祚ハ萬世一系歷代繼承シ以テ朕カ躬ニ至ル惟フニ祖宗肇國ノ初大憲一タヒ定マリ昭ナルコト日星ノ如シ今ノ時ニ當リ宜ク遺訓ヲ明徵ニシ皇家ノ成典ヲ制立シ以テ丕基ヲ永遠ニ鞏固ニスヘシ茲ニ樞密顧問ノ諮詢ヲ經皇室典範ヲ裁定シ朕カ後嗣及子孫ヲシテ遵守スル所アラシム
 御名御璽
 明治二十二年二月十一日
 皇室典範
 第一章  皇位繼承
第一條 大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス
第二條 皇位ハ皇長子ニ傳フ
第三條 皇長子在ラサルトキハ皇長孫ニ傳フ皇長子及其ノ子孫皆在ラサルトキハ皇次子及其ノ子孫ニ傳フ以下皆之ニ例ス
第四條 皇子孫ノ皇位ヲ繼承スルハ嫡出ヲ先ニス皇庶子孫ノ皇位ヲ繼承スルハ皇嫡子孫皆在ラサルトキニ限ル
第五條 皇子孫皆在ラサルトキハ皇兄弟及其ノ子孫ニ傳フ
第六條 皇兄弟及其ノ子孫皆在ラサルトキハ皇伯叔父及其ノ子孫ニ傳フ
第七條 皇伯叔父及其ノ子孫皆在ラサルトキハ其ノ以上ニ於テ最近親ノ皇族ニ傳フ
第八條 皇兄弟以上ハ同等內ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニシ長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス
第九條 皇嗣精神若ハ身體ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族會議及樞密顧問ニ諮詢シ前數條ニ依リ繼承ノ順序ヲ換フルコトヲ得
 第二章  踐祚卽位
第十條 天皇スルトキハ皇嗣卽チ踐祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク
第十一條 卽位ノ禮及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ
第十二條 踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ
 第三章  成年立后立太子
第十三條 天皇及皇太子皇太孫ハ滿十八年ヲ以テ成年トス
第十四條 前條ノ外ノ皇族ハ滿二十年ヲ以テ成年トス
第十五條 儲嗣タル皇子ヲ皇太子トス皇太子在ラサルトキハ儲嗣タル皇孫ヲ皇太孫トス
第十六條 皇后皇太子皇太孫ヲ立ツルトキハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス
 第四章  敬稱
第十七條 天皇太皇太后太后皇后ノ敬稱ハ陛下トス
第十八條 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃親王王王妃女王ノ敬稱ハ殿下トス
 第五章  攝政
第十九條 天皇未タ成年ニ達セサルトキハ攝政ヲ置ク
 天皇久キニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキハ皇族會議及樞密顧問ノ議ヲ經テ攝政ヲ置ク
第二十條 攝政ハ成年ニ達シタル皇太子又ハ皇太孫之ニ任ス
第二十一條 皇太子皇太孫在ラサルカ又ハ未タ成年ニ達セサルトキハ左ノ順序ニ依リ攝政ニ任ス
 第一 親王及王
 第二 皇后
 第三 皇太后
 第四 太皇太后
 第五 內親王及女王
第二十二條 皇族男子ノ攝政ニ任スルハ皇位繼承ノ順序ニ從フ其ノ女子ニ於ケルモ亦之ニ準ス
第二十三條 皇族女子ノ攝政ニ任スルハ其ノ配偶アラサル者ニ限ル
第二十四條 最近親ノ皇族未タ成年ニ達セサルカ又ハ其ノ他ノ事故ニ由リ他ノ皇族攝政ニ任シタルトキハ後來最近親ノ皇族成年ニ達シ又ハ其ノ事故既ニ除クト雖皇太子及皇太孫ニ對スルノ外其ノ任ヲ讓ルコトナシ
第二十五條 攝政又ハ攝政タルヘキ者精神若ハ身體ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族會議及樞密顧問ノ議ヲ經テ其ノ順序ヲ換フルコトヲ得
 第六章  太傅
第二十六條 天皇未タ成年ニ達セサルトキハ太傅ヲ置キ保育ヲ掌ラシム
第二十七條 先帝遺命ヲ以テ太傅ヲ任セサリシトキハ攝政ヨリ皇族會議及樞密顧問ニ諮詢シ之ヲ選任ス
第二十八條 太傅ハ攝政及其ノ子孫之ニ任スルコトヲ得ス
第二十九條 攝政ハ皇族會議及樞密顧問ニ諮詢シタル後ニ非サレハ太傅ヲ退職セシムルコトヲ得ス
 第七章  皇族
第三十條 皇族ト稱フルハ太皇太后太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃親王王王妃女王ヲ謂フ
第三十一條 皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ內親王トシ五世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス
第三十二條 天皇支系ヨリ入テ大統ヲ承クルトキハ皇兄弟姉妹ノ王女王タル者ニ特ニ親王親王ノ號ヲ宣賜ス
第三十三條 皇族ノ誕生命名婚嫁薨去ハ宮內大臣之ヲ公吿ス
第三十四條 皇統譜及前條ニ關ル記錄ハ圖書寮ニ於テ尚藏ス
第三十五條 皇族ハ天皇之ヲ監督ス
第三十六條 攝政在任ノ時ハ前條ノ事ヲ攝行ス
第三十七條 皇族男女幼年ニシテ父ナキ者ハ宮內ノ官僚ニ命シ保育ヲ掌ラシム事宜ニ依リ天皇ハ其ノ父母ノ選擧セル後見人ヲ認可シ又ハ之ヲ勅選スヘシ
第三十八條 皇族ノ後見人ハ成年以上ノ皇族ニ限ル
第三十九條 皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル
第四十條 皇族ノ婚嫁ハ勅許ニ由ル
第四十一條 皇族ノ婚嫁ヲ許可スルノ勅書ハ宮內大臣之ニ副署ス
第四十二條 皇族ハ養子ヲ爲スコトヲ得ス
第四十三條 皇族國疆ノ外ニ旅行セムスルトキハ勅許ヲ請フヘシ
第四十四條 皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍內親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ
 第八章  世傳御料
第四十五條 土地物件ノ世傳御料ト定メタルモノハ分割讓與スルコトヲ得ス
第四十六條 世傳御料ニ編入スル土地物件ハ樞密顧問ニ諮詢シ勅書ヲ以テ之ヲ定メ宮內大臣之ヲ公吿ス
 第九章  皇室經費
第四十七條 皇室諸般ノ經費ハ特ニ常額ヲ定メ國庫ヨリ支出セシム
第四十八條 皇室經費ノ豫算決算檢査及其ノ他ノ規則ハ皇室會計法ノ定ムル所ニ依ル
 第十章  皇族訴訟及懲戒
第四十九條 皇族相互ノ民事ノ訴訟ハ勅旨ニ依リ宮內省ニ於テ裁判員ヲ命シ裁判セシメ勅裁ヲ經テ之ヲ執行ス
第五十條 人民ヨリ皇族ニ對スル民事ノ訴訟ハ東京控訴院ニ於テ之ヲ裁判ス但シ皇族ハ代人ヲ以テ訴訟ニ當ラシメ自ラ訟廷ニ出ルヲ要セス
第五十一條 皇族ハ勅許ヲ得ルニ非サレハ勾引シ又ハ裁判所ニ召喚スルコトヲ得ス
第五十二條 皇族其ノ品位ヲ辱ムルノ所行アリ又ハ皇室ニ對シ忠順ヲ缺クトキハ勅旨ヲ以テ之ヲ懲戒シ其ノ重キ者ハ皇族特權ノ一部又ハ全部ヲ停止シ若ハ剝奪スヘシ
第五十三條 皇族蕩產ノ所行アルトキハ勅旨ヲ以テ治產ノ禁ヲ宣吿シ其ノ管財者ヲ任スヘシ
第五十四條 前ニ條ハ皇族會議ニ諮詢シタル後之ヲ勅裁ス
 第十一章  皇族會議
第五十五條 皇族會議ハ成年以上ノ皇族男子ヲ以テ組織シ內大臣樞密院議長宮內大臣司法大臣大審院長ヲ以テ參列セシム
第五十六條 天皇ハ皇族會議ニ親臨シ又ハ皇族中ノ一員ニ命シテ議長タラシム
 第十二章  補則
第五十七條 現在ノ皇族五世以下親王ノ號ヲ宣賜シタル者ハ舊ニ依ル
第五十八條 皇位繼承ノ順序ハ總テ實系ニ依ル現在皇養子皇猶子又ハ他ノ繼嗣タルノ故ヲ以テ之ヲ混スルコトナシ
第五十九條 親王親王王女王ノ品位ハ之ヲ廢ス
第六十條 親王ノ家格及其ノ他此ノ典範ニ牴觸スル例規ハ總テ之ヲ廢ス
第六十一條 皇族ノ財產歲費及諸規則ハ別ニ之ヲ定ムヘシ
第六十二條 將來此ノ典範ノ條項ヲ改正シ又ハ增補スヘキノ必要アルニ當テハ皇族會議及樞密顧問ニ諮詢シテ之ヲ勅定スヘシ
   ・   ・   ・   

🏞目次)ー2ー江戸時代。徳川家綱から徳川慶喜。ロシアの日本侵略と幕末。~No.1   * 

  ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 当ブログは、歴史の定説を恣意的に書き替える為に作成している歴史修正主義民族主義のブログである。
   ・   ・   ・   
 日本人は、架空の時代劇は好きだが、事実や真実にもとづいた歴史が嫌いである。
 その傾向は、高学歴出身知的エリートに強い。
 「日本人は、歴史が好きである」は、ウソである。
   ・   ・   ・   
 日本社会はブラック社会である。
 日本民族日本人とは、血も涙もない、冷血で、薄情で、非情で、冷酷そして嫉妬深く、陰険で、陰湿で、悍ましい。
 つまり、羅生門の鬼である。
 日本民族日本人が持っている一つの魂には、和魂と荒魂の2面性がある。
   ・   ・   ・   
 日本人の庶民はブラックである。
 百姓は、乱取りで女子どもを奴隷とし捕らえて人買いに売り、戦場荒らしで死んだ武士の身包みを剥ぎ取り、落ち武者狩りで逃げる武士を嬲り殺して首を切り取って褒美を貰っていた。
 幕府や大名は、何を考えているか分からない底意地悪い庶民を信用せず「由(よ)らしむべし、知らしむべからず」の政治を行っていた。
 つまり、「生かさず殺さず、見捨てはしないが親身に深入りせず、打ち捨てておく、放置しておく」である。
 徳川家康など歴代将軍は、日本人の陰湿・陰険・冷血・非情な意識を洗脳した。
 つまり、日本を騙されない性悪説の国から騙されやすい性善説の国に改悪した。
   ・   ・   ・   
 日本を支配する悪しき同調圧力・空気圧・空気は、江戸時代に徳川幕府によって広められた。
   ・   ・   ・   
 西洋キリスト教から見ると、異教徒日本民族日本人は悪鬼・怨霊・悪霊・悪魔に祟られている。
 中世キリスト教世界にとって、日本人は奴隷であった。
 日本人を奴隷から救ったのは、統一国家の強大な軍事力であった。
 軍事力を否定し話し合いで問題を解決すべきだという者は、奴隷容認派である。
   ・   ・   ・   
徳川家綱(1641~1680年)第4代将軍1651~1680年。
2018-10-09
🏞55)─1─明暦の大火で約10万人が焼死。被害を減らす高度な防災都市計画。1657年~No.236No.237No.238・ @ 
2018-10-17
🏞55)─2─ロンドン大火。北方大戦争シャクシャインの叛乱。『大日本史』と皇国史観尊王攘夷論。1666年~No.239No.240No.241・ @ 
2018-10-10
🏞56)57)58)─1─徳川家綱八丈島の流刑人。伊豆諸島の焼酎「東京島酒」。 ~No.242No.243No.244No.245No.246No.247・ @ ⑰ 
   ・   ・   ・   
徳川綱吉(1646~1709年)第5代将軍1680~1709年。
2018-10-19
🏞59)─1─元禄文化。生類憐れみの令とは日本人改造であった。清国兵の台湾大虐殺。セイラム魔女事件。1680年~No.248No.249No.250・ @ 
2018-10-23
🏞59)─2─赤穂浪士の討ち入り。『元禄御畳奉行の日記』。曽根崎心中。1700年〜No.251No.252No.253・ @ 
2018-10-26
🏞59)─3─富士山の宝永大噴火。幕府の意に背いて被災者を救済した関東郡代伊奈半左衛門忠順。1707年~No.254No.255No.256No.257・ @ 
  ・  ・  
2021-07-20
🏞60)─1─松尾芭蕉は政変に巻き込まれて逃亡した。『蛙飛びこむ水の音』の謎。~No.258No.259 
  ・  ・  
2018-10-21
🏞60)61)─1─「生類憐れみの令」は世界史的人類史的に画期的な人道的弱者救済の法であった。~No.258No.259No.260No.261・ @ 
2018-10-25
🏞62)63)─1─徳川綱吉は、弱者救済と不殺生の意識変革を行った。松平定政と由井正雪。~No.262No.263No.264No.265No.266・ @ 
  ・  ・  
2018-10-31
🏞64)─1─大奥が幕府を支配していた。江島生島事件。猿楽師が大名となる。河合曾良~No.267No.268No.269・  @ 
  ・  ・  
2018-10-29
🏞65)─1─江戸経済と欧州経済の繋がり。日本と西洋の金融相場対立と産銅高競争。~No.270No.271No.272・ @ 
2018-10-30
🏞65)─2─江戸中期の日本経済は世界第2位のGDP。~No.273No.274No.275・  @ ⑱ 
   ・   ・   ・   
徳川家宣(1662~1712年)第6代将軍1709~1712年
間部詮房新井白石
正徳の治、1711~1716年。
2020-12-01
🏞66)─1─鎖国の江戸は数学大国であった。天才数学者 和算の開祖 算聖・関孝和。~No.276No.676No.678 
2020-04-29
🏞67)68)─1─シドッチ神父。朝鮮通信使問題。世界宗教における心臓崇拝。~No.279No.280No.281No.282No.283 ⑲ 
   ・   ・   ・   
徳川家継(1709~1716年)第7代将軍1713~1716年。⑳
   ・   ・   ・   
徳川吉宗(1684~1751)第5代将軍1716~1745年。
享保の改革、1716(享保元)年から享保20(1735)年あるいはや延享2(17455)年
2018-11-01
🏞69)70)─1─徳川吉宗は、キリスト教抜きの西洋の学問と技術の輸入を認めた。蘭学。清国の宣教師追放。1716年~No.284No.285No.286No.287No.288・ @ 
2018-11-02
🏞71)─1─享保の飢餓。宝暦の飢饉。リスボン地震徳川吉宗の死。1730年~No.289No.290・ @ 
2020-08-17
🏞72)73)─1─享保の飢餓。いも代官は幕命の背き飢餓民を救って処罰された。~No.291No.292No.293No.294 ㉑ 
   ・   ・   ・    
徳川家重(1711~1761年)第9代将軍1745~1760年。㉒
   ・   ・   ・   
徳川家治(1737~1786)第10代将軍1760~1786年。
田沼意次(1719~1788年)田沼時代1767~1786年。
2018-11-08
🏞74)─1・A─下級武士出身の老中・田沼意次明和事件八重山石垣島、明和の大津波。1762年~No.295No.296No.297・ @ 
2021-04-24
🏞74)─1・B─琉球列島最悪の自然災害。明和の大津波。1771年~No.295No.296No.297 
2018-11-09
🏞74)─2─『解体新書』。ゴードンの暴動。天明の飢饉。浅間山天明の大噴火。江戸。1774年~No.298No.299No.300・ @ 
2019-12-19
🏞74)─3─『解体新書』に刻まれたキリスト教の影響。日本語由来の和製漢字・日本国語漢字。1774年〜No.301No.302No.303・ 
2018-11-10
🏞74)─4─天明の飢饉。フランス革命。クナシリ・メナシでアイヌ人の反乱。藤田幽谷。立原翠軒の意見書。徳川家治の死。1784年~No.304No.305No.306No.307・ @ ㉓

   *   *   *   
 開国・尊皇攘夷・幕末・討幕・近代化の前史。
   ・   ・  ・   
 寛政5(1793)年 寛政日露交渉。ラクスマン外交
   ・   ・   ・   
2018-11-26
🏞75)76)─1─開国・尊皇攘夷前史。寛政日露交渉。松平定信。大黒屋光太夫林子平。エカテリーナ女帝。~No.308No.309No.310No.311No.312・ @ ㉔
   ・   ・   ・   
蝦夷地・北方領土四島探索。
2019-04-19
🏞77)78)─1─英国立公文書館北方領土4島を日本領とする1811年版古地図が発見された。〜No.313No.314No.315No.316・ 
2018-11-16
🏞79)─1─アイヌ人に対する差別と迫害は儒教朱子学)が原因であった。松浦武四郎『近世蝦夷人物誌』。~No.317No.318No.319・ @ ㉕
2018-11-15
🏞79)─2─アイヌ人に対する田沼意次松平定信の違いは、儒教朱子学の毒の有無であった。同化と異化。~No.320No.321No.322・ @ 
2020-04-22
🏞80)─1─弘前城天守閣はロシアの侵略に備えた軍事施設であった。文化7(1810)年。〜No.323No.324No.325No.326・ ㉖
   ・   ・   ・   
水戸学。
2018-11-27
🏞81)─1─水戸学は、日本を守る為に日本ナショナリズム・近代的天皇教・軍国日本・国民皆兵を創作した。~No.327No.328No.328・ @ 
2018-12-02
🏞81)─2─水戸学の対ロシア世界包囲網戦略が日本の近代化の原動力となった。幕末日本の優れたインテリジェンス。~No.329No.330No.331・ @ 
2018-11-29
🏞81)─3─『新論』。尊皇原理主義による攘夷と鎖国徳川幕府の制限付鎖国政策とキリシタン弾圧は正しかった。~No.332No.333No.334・ @ 
2018-12-03
🏞81)─4─大日本帝国の原型は1830年以後の水戸藩に出現していた。徳川斉昭天皇の御聖断と御親政。~No.335No.336No.337・ @ ㉗
  ・  ・  
2019-03-31
🏞82)─1─日本の儒学は、武士は官学の朱子学で、庶民は私学の陽明学であった。〜No.338No.339No.340No.341・ ㉘
   ・   ・   ・   
徳川家斉(1773~1841年)11代将軍(1787~1837年)
松平定信(1758~1829年)寛政の改革1787~1793年。
大田南畝により「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」
2018-11-12
🏞83)─1─松平定信。町人や下級武士達は、漢訳本だけで地動説や万有引力を学び、和算だけで惑星の楕円軌道を計算した。1790年~No.342No.343No.344No.345・ @ 
2018-11-21
🏞83)─2─1815年4月5日 インドネシア・スンバワ島のタンボラ大噴火と火山の冬。コレラパンデミック。イエローストン国立公園。~No.346No.347No.348・ @ 
2018-11-24
🏞83)─3─文政のコレラ大流行。水戸藩の忠五郎事件と大津浜事件。第一次英緬戦争。シーボルト事件。宝島事件。1817年~29年~No.349No.350No.351・ @ ㉙
2018-11-13
🏞83)─4─徳川幕府は、北方領土蝦夷地を守る為に東北諸藩に出兵を命じた。フェートン号事件。天草崩れ。1800年~No.352・ @ 
2023-07-26
🏞83)─5─尊皇攘夷松平定信の「寛政度異国船取扱指針」から始まった。寛政3年(1791)9月。~No.353No.354 
  ・  ・  
2019-07-28
🏞84)─1─尊号一件事件。松平定信の大政委任論・王臣論。〜No.356No.357・ 
2021-07-19
🏞85)─1─朱子学による異学の禁。寛政期の出版統制。文化期の表現規制。逃亡者浮世絵師・葛飾北斎。〜No.358No.359 
2021-08-24
🏞86)─1─文化露寇。ロシアのアラスカ開発失敗の原因は徳川幕府であった。〜No.360No.361 ㉚ 
   ・  ・  ・   
2020-04-28
🏞87)─1─ブラック社会における庶民の抜け道としての旅事情。〜No.362No.362No.363・ 
2018-12-24
🏞87)─2─御所千度参り。天明の大飢饉で苦しむ庶民は天皇に助けを求め、光格天皇は幕府に被災民の救済を求めた。~No.364No.365No.366・ @ ㉛
  ・  ・  
2018-11-20
🏞88)─1─日本の産業革命は、寛政期に地方で生まれた新たな金融システム・帝印金融(皇室資金)によって始まった。~No.367No.368・ @ 
2020-12-02
🏞89)─1─閉塞・閉鎖された日本は特殊・特異な庶民文化大国であった。~No.369No.370 ㉜ 
  ・  ・  
2018-11-06
🏞90)91)─1─世界の非常識。「恨みっこなし」の喧嘩両成敗と仇討ち。~No.371No.372No.373No.374・ @ 
2018-09-24
🏞92)─1─庭番(隠密、忍び、忍者)でも長崎奉行勘定奉行若年寄などに出世できた。~No.375No.376No.378・ @ 
2018-11-28
🏞92)─2─町奉行のお裁き。武士になり諸奉行に成り上がった庶民(百姓や町人)達。~No.379No.380No.381・ @ 
2018-11-04
🏞92)─3─江戸時代は庶民の時代で武士道はなかった。~No.382No.383No.384・ @ 
2018-11-05
🏞93)─1─百姓学者・細井平洲は武士待遇となり武士や百姓・町人を平等に教えた。~No.385No.386No.387・ @ 
2018-11-19
🏞93)─2─武士になった庶民。長久保赤水山田方谷二宮尊徳伊能忠敬高島秋帆苗字帯刀。~No.388No.389No.340・ @ 
2018-11-18
🏞93)─3─悪名高き日本ナショナリズムの胎動。身分低い国学の四大人。商人の子・本居宣長。~ No.341No.342No.343No.344・ @ ㉝
  ・  ・  
水野忠邦(1794~1851年)天保の改革1830年~43年。
2019-05-27
🏞94)─1─天保の改革。100万人都市江戸への一極集中を解消する為の人返しの法は失敗した。〜No.345No.346No.347・ 
2019-09-24
🏞94)─2─水野忠邦の改革とは、江戸人口集中を解消する地方・農村の復興改革であった。〜No.348No.349No.350・ @ 
2019-09-06
🏞94)─3─清国の『海国図志』。天保の改革の一つが戦争準備(海防強化)であった。〜No.351No.352No.353・  
2020-03-08
🏞94)─4─徳川幕府ハリネズミ式全方位型専守防衛戦略。〜No.356・ 
2020-09-12
🏞94)─5─シーボルト台風の被害は全国で2万人以上。文政11(1828)年9月17日。〜No.357No.358 ㉞ 
  ・  ・  
2018-12-05
🏞95)─1─蛮社の獄。オーストラリアのアボリジニン人大虐殺。ロシアとアフガン戦争。1830年~No.359No.360No.361・ @ 
2018-12-06
🏞95)─2─水戸藩はロシアの侵略を防ぐ為に蝦夷地への屯田兵を幕府に請願した。西洋式要塞・助川城。1834年~No.362No.363No.364・ @ 
2018-12-07
🏞95)─3─大塩平八郎の乱。檄文で窮民救済の正当性を天皇の神徳に求めた。新たな皇国史観の目覚め。1836年~No.365・ @ 
2020-07-31
🏞95)─4─天保の大飢饉徳川幕府と町衆の日雇いへの御救い金・御救い米。~No.366
2020-11-20
🏞95)─5─江戸幕府の被災者救済策。「危機管理」は江戸時代に学べ!~No.367 ㉟  
   ・   ・   ・   
 アイヌ人は、日本民族日本人の味方か敵か。
  ・  ・  
 ロシア・キリスト教勢力の日本侵略で中立はありえない。
 事実、樺太アイヌ人と千島列島アイヌ人はロシア人によって地上から消された。
 アイヌ人として生き残ったのは日本の蝦夷アイヌ人と北方領土アイヌ人だけであった。  
  ・  ・  
 アイヌ人は、日本国を守る為に日本人と共に戦ってくれるのか、それとも日本人を助けず見捨てて日本国から逃げるのか。
  ・  ・  
 ハワイ王国は武器を持った暴力的抵抗をせず、日本やイギリスから見捨てられ、アメリカ・キリスト教勢力の侵略で滅亡した。
  ・  ・  
3」西洋キリスト教文明・白人の功罪。中国共産党ソ連・ロシア人共産主義者による日本人女性子供虐殺事件。 
  ・  ・   
☭目次1』─弐ー露西亜の日本侵略。ロシア人共産主義者による日本人大虐殺。~No.1 
  ・  ・  
2017-09-17
☭10』11』12』─1─田沼意次蝦夷地・北方領土探索隊。立原翠軒の国難警告。アメリカ・イギリス・ロシアの北太平洋航路探検競争。1738年~No.23No.24No.25No.26No.27No.28No.29@・ 
2018-06-12
☭13』14』─1─文化露寇事件。ロシアの日本侵略を武力で防いだ徳川幕府歴史修正主義。1807年~No.30No.31No.32No.33No.34@・   
2017-09-22
☭15』16』17』─1─対馬事件。尊王攘夷派はロシア軍将校と水兵を襲撃した。ロシア軍艦による対馬武力占拠と租界要求事件。1854年~No.35No.36No.37No.38No.39No.40@・ 
   ・   ・   ・   
2020-06-27
💖5)─2・B─日本人は朝鮮人アイヌ人を感染症から救っていた。~No.18No.19No.20No.21  
悪い日本人はいたが、良い日本人もいた。
良い日本人は2割、悪い日本人は3割、何もせず眺めて傍観する日本人は5割。  
   ・   ・   ・   
徳川家慶(1793~1857年)第12代将軍1837~1853年。
阿部正弘(1819~1857年)安政の改革嘉永7(1854)年~安政4(1857)年。
2018-12-11
🏞96)─1─老中首座・阿部正弘(27歳)が江戸幕府滅亡の端緒を開いた。~No.368No.369No.370・ @ 
2018-12-10
🏞96)─2─「新伊勢物語」。徳川斉昭阿部正弘に水戸学の原理を伝授した。天皇制度国家の創出と天皇の軍隊の創設。1840年~No.371No.372No.373・ @ 
  ・  ・  
2020-11-21
🏞97)─1─徳川幕府は薩摩に琉球防衛を許可した。琉球王国は独立国ではなかった。~No.374
2021-05-13
🏞97)─2─琉球・北谷の住民は難破したイギリス船の乗組員67人を救助した。1840年。~No.375 
  ・  ・  
2021-03-17
🏞98)─1─小山肆成は国内初の国産天然痘ワクチン開発者。嘉永2(1849)年~No.376No.378No.379  
  ・  ・  
2019-12-23
🏞99)─1─大野藩(4万石)の藩政改革。財政赤字を解消して黒字化とした。~No.380No.381No.382・ 
2018-12-15
🏞99)─2─百姓一揆に屈服した幕府。庄内藩の三方領地替え、天保義民事件。~No.383No.384No.385・ @ 
2018-12-13
🏞99)─3─南部藩の三閉伊一揆。1847年~1853年~No.389No.390No.391・ @ ㊱
  ・  ・  
2018-12-14
🏞100)─1─ペリー来航以前に来航した異国船に対する江戸幕府の対応。マンハッタン号事件。~No.392No.393No.394・ @ 
2018-12-16
🏞100)─2─ペリー艦隊来航情報。ロシア帝国は、日露国境をウルップ島と択捉島の間と定めた。19世紀半頃の世界地図「日本海」。1852年~No.395No.396No.397・ @ 
2018-12-17
🏞100)─3─ペリー艦隊の石垣島砲撃事件。アメリカ、イギリス、ロシア帝国、スペインは、日本近海の島嶼領有をめぐって対立した。1853年~No.397No.398No.399・ @ ㊲
  ・  ・  
2020-01-08
🏞101)─1─軍国日本は阿部正弘安政の改革から始まった。1853年〜No.400No.401・
2021-01-02
🏞102)─1─薩摩藩は軍資金を不正手段で蓄財した。〜No.402No.403  
2020-08-21
🏞103)─1─足利学校を訪れた幕末の志士達。〜No.404No.405 
2021-12-20
🏞104)─1─太平天国キリスト教徳川幕府吉田松陰そして明治維新。1851年。~No.406No.407 ㊳ 
   ・   ・   ・   
徳川家定(1824~1858年)第13代将軍1853~58年。(
2018-12-18
🏞105)─1─大工・与七は、水戸藩の命で武士となり大砲などの武器を製造する反射炉を作った。1854年~No.408No.409・ @ 
2018-12-19
🏞106)─1─フランスは、対馬の租借権を要求した。日米和親条約。琉米修好条約。安政南海大地震。1854年~No.410No.411No.412・ @ 
2018-12-23
🏞107)─1─アメリカ海軍は小笠原諸島琉球王国を領有する為に占拠した。蕃書調所。ロシア軍艦ディアナ号と日露和親条約。1855年~No.413・ @ 
2021-06-16
🏞107)─2─近代的西洋平等主義市民革命は大阪の適塾と長崎のポンペ養生所から始まった。1855年~No.414No.415 
2018-12-28
🏞108)─1─日米修好通商条約締結。88卿列参事件。安政コレラ大流行。安政の大獄。1857年~No.416No.417No.418・ @ ㊴
  ・  ・  
2018-12-26
🏞109)─1─安政地震群。被災者救済の原型は徳川幕府にあった。弱者救済を求めた天皇。そして庶民。~No.419No.420No.422・ @ 
2018-12-20
🏞109)─2─「稲むらの火」。小泉八雲「生き神様」。11月5日は世界津波の日。1854年。~No.423・ @ 
2021-11-03
🏞109)─3─戦前の国定教科書・修身に載った偉人・濱口梧陵。~No.424No.425No.426 
  ・  ・  
2019-04-26
🏞110)─1─江戸時代・明治初期。お大尽さんと貧乏人との切っても切れない深い関係。〜No.427No.428No.429・ 
  ・  ・  
2018-12-25
🏞111)─1・A─身分低い職人は技能・技術で武士になった。松原嘉蔵。田中久重。~No.430No.431No.432・ @ 
2021-04-28
🏞111)─1・B─農民が努力・学識・実績で幕臣となった。柴田収蔵。~No.430No.431No.432 
2018-12-29
🏞111)─2─水戸学の一橋慶喜将軍擁立とは日本を遠征型軍事国家に改造する事であった。日本軍国主義の核心思想。~No.433No.434No.435・ @ 
2018-12-30
🏞111)─3─3万石の極貧朝廷が400万石の徳川幕府を威圧した。徳川斉昭と毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう)。~No.436 @ 
2021-05-03
🏞111)─4─斉昭・慶喜・栄一、歴史を動かした水戸学の水脈。それはルサンチマンである。~No.437No.438No.439 ㊵
  ・  ・  
井伊直弼(1815~1860年)
安政5年(1858年)4月23日万延元年(1860年)3月3日
2020-04-05
🏞112)─1─安政5(1858)年から3年にわたりコレラが流行した。死者約10万人。〜No.440No.441No.442No.443・ 
  ・  ・  
2018-12-31
🏞113)─1─幕府は公式外交の場で大日本帝国の大君と名乗り、諸外国はその称号を認めた。対馬事件。1859年~No.444No.445No.446No.447・ @ ㊶
   ・   ・   ・   
徳川家茂(1846~1866)第14代将軍1858~1866年。
2021-12-04
🏞114)─1・A─水野忠徳と小笠原諸島徳川幕府の優れた先見性と高い外交交渉力。1861年12月。~No.448No.449No.450  
2019-01-01
🏞114)─1・B─坂下門外の変生麦事件。薩英戦争。アメリカの中国人が経営する売春施設に売られた数十名の日本人女性。1862年~No.448No.449No.450・ @ 
2019-01-02
🏞114)─2─禁門の変。四ヵ国艦隊下関砲撃事件。ベルギー国王レオポルド2世は、日本を植民地とし所望した。1863年~No.451No.452No.453・ @ 
2019-01-03
🏞114)─3─尊王攘夷派の四国艦隊下関砲撃事件。高杉晋作はイギリスの彦島租借要求を拒否した。~No.454No.456No.467・ @ 
2019-01-07
🏞114)─4─オリッサ飢饉。開国による金融危機百姓一揆が頻発した。薩長同盟不平等条約と関税率問題。第二次長州征討。1866年~No.468No.469No.470・ @ ㊷
  ・  ・  
2019-01-05
🏞115)─1─内戦の為に鉄砲が大量生産され、日本の近代産業が誕生した。1864年。~No.471No.472No.473・ @ 
2021-03-06
🏞116)─1─徳川幕府による日本沿岸台場は1,000か所。~No.474No.475 
   ・  ・  ・  
2020-05-09
🏞117)─1─佐幕派会津倒幕派長州は「仇敵同士」だったはウソ?〜No.476No.477No.478 
2019-09-04
🏞118)─1─西郷隆盛大久保利通倒幕派に転向したのは水戸天狗党が原因であった。元治2(1865)年〜No.479No.480・ ㊸
   ・   ・   ・   
徳川慶喜(1837~1913年)第15代将軍1866~1867年。
2019-01-08
🏞120))─1─日露間樺太島仮規則(樺太雑居条約)。パリ万博。ロシアは、北海道を強奪する為に日本領樺太に軍隊を派遣した。1867年~No.481No.482・ @ ㊹ 
   ・   ・   ・   
2020-09-11
🏞121)─1─安政江戸台風が江戸幕府の終焉を早めた。洪水と高潮の犠牲者は約10万人。~No.483No.484 ㊺ 
  ・  ・  ・   
日本の感染爆発。
2020-05-07
🏞122)─1─江戸後期のコレラ流行が日本国を近代国家へ急速に変えた。~No.485No.486  
2020-06-13
🏞123)─1─多くの藩は疫病が発生しても隔離自粛を制度化していなかった。~No.487No.488 ㊻ 
   ・   ・   ・   
日本医学は徳川幕府によって生み出された。
2020-06-06
🏞124)─1─百姓医師の子が御殿医となり将軍や大奥の診察と治療にあり位階勲等を極めた。~No.489 
020-06-06
🏞124)─2─伊東玄朴 貧農生まれながら幕府奥医師まで登り詰め、蘭方の地位を確立。~No.490 
㊼ 
   ・   ・   ・   
江戸時代の人材登用術。
2021-05-02
🏞125)─1─江戸の芋づる式人材登用術が、幕末・明治維新・近代化を成功させた。~No.491No.492 ㊽ 
   ・   ・   ・   
幕末の謎。
2021-05-16
🏞126)127)─1─英邁な名君徳川慶喜は、なぜ大政奉還を決断したのか?~No.493No.494No.495No.496No.497No.498 
2021-05-14
🏞128)129)─1─幕末史の謎、第121代孝明天皇毒殺説を支持する新研究の登場。~No.499No.500No.501No.502No.503No.504 ㊾ 
   ・   ・   ・   
江戸時代の秘密。
2021-01-22
🏞130)131)─1─ブラックな江戸が約260年間も続いた原因は庶民の零細職業にあった。~No.505No.506No.507No.508No.509No.510 ㊿
   ・   ・   ・   

🏞102)─1─薩摩藩は討幕の軍資金を不正手段で蓄財した。〜No.402No.403 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代の日本人では、幕末の弱肉強食、強者必勝・弱者必敗、勝者絶対正義、法より力の国際情勢の中で日本を守り切れない。
 現代日本の高学歴知的エリートの能力は、徳川幕府佐幕派や朝廷・薩摩藩長州藩倒幕派などの武士達の足下にも及ばない。
   ・   ・   ・   
 2021年2月号 Hanada「堤堯の今月この一冊
 『薩摩という「ならず者」がいた。 誰も語らなかった明治維新秘史』
 佐藤眞著 K&Kプレス
 戦争には先立つもの、カネが要る。それを古代ローマの政治家キケロは『戦争の筋肉』と呼んだ、と著者に教えてくれたのは渡部昇一だった。
 開高健谷沢永一に訊ねた。 」
 『明治維新を知るには何を読めばよろしいか、長いものはダメ、短いものを教えてほしい』
 谷沢が坂田吉郎の『明治維新史』を送ったと聞いて、筆者もオンライン古書店から入手。一読、目から鱗(うろこ)の連続で、とりわけ薩摩藩が『討幕の筋肉』をいかにして調達したか、そのカラクリに一驚(いっきょう)した。
 幕末、薩摩藩は様式の船舶や兵器を積極的に買い込んだ。英米から購入した蒸気船は15隻、幕府が保有する蒸気船20隻におよばないものの他藩(たとえば長州藩は7隻)を圧倒的に凌ぐ。
 兵器でも、英国からエンフィールド銃4,300挺を一括購入。この銃を保有すると25人は旧式のマスケット銃を持つ1,000人を全滅させ得るとされた。
 これらの軍備調達費は、琉球を介した中国との密貿易、あるいは奄美大島産のサトウキビの専売制度による収入、さらには過去の財政改革による隠し金で賄(まかな)われたとされるが、坂田本は真のカラクリを教える。
 カラクリの考案者は賢侯・島津斉彬で、彼は幕府から天保通宝に似せた琉球通宝を鋳造する許可を得る。
 いったん許可を得ればシメ子のウサギだ。江戸の銭座(ぜにざ)から職人を連れ帰り、10万両足らずの琉球通宝を鋳造し終えたあとは天保通宝の偽金(にせがね)を鋳造しまくった。
 斉彬は志半ばで没したが(1858年)あとを継いだ弟・久光の時代、大久保一蔵(利通)の指揮の下(もと)、日に4,000人が昼夜兼行で贋金(にせがね)造りに励む。素材は鍋釜、燭台、寺の梵鐘(ぼんしょう)などをかき集めて鋳つぶし、文字どおり藩を挙げてのプロジェクトだ。
 薩英戦争(1863年)の跡始末で、英国は薩摩に賠償金6万300両を要求。『そんなカネはない。幕府に払って貰え』と答えた薩摩の代表はしれーっという。
 『ところで貴国の戦艦は素晴らしい。ぜひ1隻譲ってもらえないか』
 薩摩の金蔵には実に30万両の贋金が存在した。天保通宝は100文の価値があるとされた。1両は1万文だから、天保通宝100枚で1両となる。1万両ともなれば天保通宝100万枚で、とても運べない。
 そこで薩摩藩はこれを両替商・三井家に運びこみ、それに見合う手形を発行してもらう。小切手だ。なぜ薩摩藩が大量の天保通宝を運びこむのか、三井家のほうも察しいて、おそらくは安く買い叩いたに違いない。
 買い叩いた天保通宝を三井家は幕府に気づかれないように市中にバラ撒(ま)く。そのマネーロンダリングが行われたと筆者は推測する。
 贋金造りは天下の御法度だ。なのに『カネが足りなきゃ偽造すれば足りる』。いとも気軽に実行する斉彬の不羈奔放(ふきほんぽう)さもさることながら、藩を挙げて贋金造りに邁進する薩摩藩はいかにも特異だ。
 その特異性はどこから来るのか、それが本書の後半だ。筆者は鹿児島ラ・サール高校から東大文学部を経て編集者になった。高校時代の恩師・中村明蔵の筆者を手掛かりに、薩摩の現在にも通じる特異性を説いて、これがまた滅法面白い。
 司馬遼太郎翔ぶが如く』には書かれなかった『薩摩の謎』をあれこれと教えてくれる。」
   ・   ・   ・   
 日本民族は、「七転び八起き」精神で、捲土重来を期して転んでも貧困に落ち込んでもタダでは起きず、利用できるものは何でも使い、立っているものは親でも使った。
 日本民族は、同調圧力に支配されていただけに、人の誹りを受けないように卑怯・卑劣、嘘偽りには細心の注意を払っていた。
   ・   ・   ・   
 幕末・明治。日本は、ロシアを侵略者と認定し、清国(中国)と朝鮮はロシアに味方する敵と決めつけ、母国を守る為に軍国主義に暴走し、近代化として対外戦争ができる軍事力を付けていった。
 日本の攻撃的対外戦争とは、ロシアの侵略・ソ連共産主義の浸透に対する母国を守る積極的予防的自衛戦争でった。
 日清戦争は積極的自衛戦争で、韓国併合は予防的自衛戦争であった。
   ・   ・   ・   
 薩摩藩水戸藩と同様に宗教弾圧まがいの廃仏毀釈を行い、仏教寺院から荘園を没収し、建物を解体して売り飛ばし、金になりそうな仏像、仏教画、仏具、経典などを売り、集めた金を戦争をする為の軍資金にした。
 そして、集めた梵鐘や金属製の仏像・仏具を鋳(い)つぶして大砲などの兵器を造った。
   ・   ・   ・   
 武士・サムライには宗教心はなく、城を築城する際、墓石や石仏などを転用石として石垣の石に利用していた。
 神仏を守って死ぬ事(殉教)は愚の骨頂で、宗教や信仰などは方便でしかなかった。
 武士・サムライは、生きる為に戦うのであって、死ぬ為に戦っていたのではない。
 生きる為なら、宗教や信仰は捨てた。
 キリシタン弾圧は、こうして行われた。
   ・   ・   ・   
薩摩という「ならず者」がいた。 誰も語らなかった明治維新秘史