🌏13)─5─幕末の国難を救った合理的論理的現実的理数系ソロバン武士団。~No.41  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2021年1月号 Voice「『次』の歴史と人類の新軌道
 国難を救った理数系武士団
 物理学者が壮大なスケールで描き出す、コロナ後の人類の道筋。
 第1回は、パンデミックの意義と日本が国難を乗り越えた秘訣を紐解く 
 長沼伸一郎
 コロナはサルベージ作業の爆薬
 もし将来において歴史的・文明的視点からこのコロナ禍を振り返ったときに、それはどういう言葉で語られているだろうか。筆者は、その一つとして『コロナは世界全体にサルベージ作業の爆薬のような効果を及ぼした』と評したものがあるかもしれないと思っている。
 唐突な話なので少し説明しよう。一般に沈没船を引き上げるサルベージ作業では、海底の沈没船に空気を吹き込んで船を浮上させるのだが、船底が海底の泥にがっちりつかまっていると、たとえ浮力が十分になっても浮いてこられないことがある。そういった場合には、水中で爆薬を爆発させて船体を揺すってやると、船は泥から引きはがされて一挙に海面に浮いてくるのである。
 何がいいたいかというと、コロナの衝撃は、今まで潜在的に社会の底にくすぶっていた問題を一挙に表面化させる力をもっており、それこそが重大な問題だということである。
 このようにコロナの衝撃は、人類社会の『次』に立ち現れる根本的問題を、今までの慣習から引きはがすかたちで表面化させる傾向があり、それこそが人類が向き合うべき問題なのである。しかし、これらの問題にはいずれも明解な答えのビジョンがなく、現在の人びとの不安や憂鬱はむしろ、それらがコロナ後に本格化する恐れを敏感に感じ取っているためではあるまいか。
 逆に、われわれが抱える難題に対して明確なビジョンがあれば、たとえ今は苦しくとも、人びとはそれに従ってコロナ後への行動準備に専念すればよいので、精神的にはむしろ安定するものである。先んじてそういったビジョンを提示できるかどうかが、コロナ後の世界で主導権を握れるか否(いな)かをわけることになるだろう。
 ところが現在の日本をみていると、政府というより国民全体として『自分たちのは何かできそうだ』という実感に乏(とぼ)しく、今後のビジョンの提示においても、日本は米中の後塵(こうじん)を拝しそうな気配がある。それというのも、これまでの日本の国民的な行動パターンというのは、とにかく欧米諸国を横目でうかがって2番的に後追いする、というやり方だったからである。
 ただ、今までそういうスタンスでも、2番手の弱点を『勤勉さ』という武器でカバーすることで、国際的な地位を維持することが曲がりなりにもできていた。ところが現在のIT化が進行した世界では、投入する資金量とそのスピードでトップを走る者が勝利して、すべてを独占する傾向が強い。そのため『勤勉さ』を最大の武器とする日本は、もはや資金量やスピードで圧倒する米中のあいだで、国際的に埋没する一途を辿(たど)るしかなさそうに見えるのである。
 国難と理数系武士団の出現
 しかし、それは今始めて経験する事態なのだろうか?じつはよく考えると、そもそもの『勤勉さが日本の最大の武器』という見方自体が疑問なのであり、その武器一つだけでは、たとえば歴史家アーノルド・トインビーのいう『日本はトルコ以東において西欧帝国主義の侵略を免(まぶが)れた唯一の国である』という歴史の歩みが現実になり得たとは考えにくいのである。
 なぜならば、戦略の原則からすると、『勤勉さによる戦力強化』というのはせいぜい1.5倍あたりまでの拡大が限度なのである。しかし過去の歴史で日本が列強と遭遇したとき、英、仏、ロシアなどのいずれの国の国力もおそらく日本の数倍あり、1.5倍の差を埋めても到底追いつかない。
 もっと根本的なところから話をすると、戦略の原則では一般的に、組織の力を『戦闘力と戦略力の積』として考えるのが普通である。前者の『戦闘力』とは、図体の大きさや兵力・練度(れんど)など、純然たる体力面での力を指し、一方後者の『戦略力』というのは、優れた戦略によって優位なポジションを得るなどの知的な力を指す。
 そして『勤勉さ』は前者に属する力であり、先述したようにこれらはすぐには1.5倍ぐらいの力にしか拡大できない。それに対して後者は、戦略が巧みなら一挙に2倍3倍にすえうことも可能である。
 つまりこの理屈からすれば、当時の日本が数倍の相手に対峙してそれを乗り切るためには、『戦闘力』の力よりむしろ『戦略力』のメインでなければならず、その面で他国がもたない何らかの資質をもっていることが必要だったはずなのである。それでは、かつての日本では一体何が起こっていたのだろうか。
 そしてここに一つ、その謎に対する答えがある。それは、日本の歴史においては、国難の折に『理数系武士団』と呼ぶべき集団がまとまって出現し、彼らが、国が普段はもたないような大きな力を与えていたのではないか、ということである。
 ただしそれは、言葉から一見想像されるように、『モノづくりの力を国のために活(い)かす』という意味ではない。むしろそれらの人びとが、狭い理系の専門分野を脱し、国が進むべき戦略などに関して、これまでの文系的な一般常識を超えた独創的なビジョンを生み出すことで、国を先導する役割を果たしたということである。それはとくに幕末と戦国時代において顕著(けんちょ)であり、彼らの力が結果的に、先ほどのトインビーの言葉のおうな歴史を現実のものにしたと思われるのである。
 理系集団と武士の関連性というのは一見唐突だが、じつは両者の密接な関連を示すものは多い。蘭学者で医者として生きていた大村益次郎が、長州藩の参謀として日本最初の近代戦で武士たちを指揮し、靖国神社にも銅像が建っているのはその実例である。そもそも日本の近代の数学・物理教育のルーツは、長崎の海軍伝習所にあたり、当時新設された工学部には、士族(武士階級に属する者に与えられた称号)出身者の割合が際立って高いという現象がみられ、これは他の国にはない特徴だった。
 日本より少し遅れて近代化が行われたトルコは、欧米において日本との比較研究の対象にされることが多い。トルコでは、かつての大トルコ帝国の矜恃(きょうじ)を背負った武士団である旧軍事エリート階層は、その多くが新制トルコ共和国軍の将校になる道を選んだのであり、彼らがまとまって工学部に入るなどという話は聞いたことがない。そもそも武士が工学部に行くという選択肢がほとんどなかったのではないだろうか。面白いのは、日本の場合、それらの人びとがいくつかのタイプに分かれて、役割分担をおこなっていたことで、普段では社会的に到底あり得ないような動きが可能になったとみられるのである。ではそのタイプを具体的に列挙していこう。
 第一タイプ『独創的な発想力をもつ思想家』
 これは幕末だと、桁(けた)外れの英明さで知られた薩摩藩主の島津斉彬、また幕府側では勝海舟などがそれに相当する。島津斉彬などは『将来西欧と東洋はマレー付近で海戦を行うことになる』として、のちの戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』撃沈で知られるマレー沖海戦を予言したといわれている。彼らの突出した発想力は、通常なら日本社会では到底受け入れられない性質のものだが、それが他のタイプとの連携によって、国の針路の中心となることが可能になったのである。
 また戦国の場合だと、理系的な合理性と独創的な先進性において、織田信長がそれに相当することには、誰しも異論はないと思われる。
 第二タイプ『開明派官僚』
 このタイプは、自身はそこまで独創的ではなく、また性格的にも革命家ではないが、第一タイプぼ考えやその価値を十分理解でき、その一方で組織のなかで浮き上がらずにちゃんと生きていける順応性も備えている人びとである。
 たとえば、勝海舟を取り上げると、幕府官僚だった大久保一翁が『開明派官僚』に相当し、海舟は彼の推挙(すいきょ)によって活躍の場を得ることができた。また薩摩藩だと、やはり地味だが若手官僚の小松帯刀が、斉彬亡きあとに藩組織と維新派の仲介役を務めたという点でそれに相当し、薩摩が組織的に上下一丸となって維新に参加するためには、彼の存在は不可欠なものだったといえる。
 また戦国時代においては、石田三成大谷吉継などがこれに相当する。幕末に比べると戦国初期での第二タイプの貢献はさほどでもなかったが、後期になると、計数に巧みな彼らが豊臣政権にとって不可欠な存在だったことは確かである 。
 第三タイプ『各地の自発的学習者』
 一方において、日本の数倍の国力を持つ大国に勝つには、一種の下支えとして、西欧技術を学んだ大勢の技術者が不可欠であった。幕末の場合、それを育成確保するための主力となったのは、幕府の制度的な機関よりも、むしろ各地に私的なかたちで生まれた蘭学塾だった。
 もっとも代表的なのは緒方洪庵適塾で、福沢諭吉大村益次郎などがここの出身であることをみても、明らかに幕府の公的な教育機関よりもこちらのほうが人材育成の主役である。そして、各地で自発的に学んだ大勢の無名の学徒たちが、量的な面で理数系武士団を支えていたのである。
 また戦国時代だと、各地の無名の鉄砲鍛冶(てっぽうかじ)などが、自発的にいろいろな場所を渡り歩いて技術を習得していった経験が鉄砲の発展に大きく影響していた。その結果として、戦国末期には日本全体の鉄砲保有量は全ヨ-ロッパの合計を上回って世界最大の鉄砲保有国になったともいわれ、こうしたことは他のアジア諸国ではほとんどみられない現象である。
 第四タイプ『日本特有の奇妙な存在』
 そして日本の場合に面白いのは、もう一つ、第四のタイプというものの存在である。この第四タイプの1番の特性は、自身は理数系の出身ではないのであるが、先述した第一タイプを神のように崇(あが)めて、一生をその思想の使徒として生きることにある。そして第二タイプとは違って、組織の黒子に徹するのではなく、しばしば第一タイプの〝代行者〟として日なたに出ていく。
 つまり、この第四タイプの行動ビジョン自体は、自身の独創ではないが、与えられたビジョンを深く信仰しているのでかえって迷いがない。その一方、彼らは雰囲気が理系的ではないので、日本の一般社会にとって、とっつきがよいため遥かに共感を得やすい。
 そして、先ほどの第一タイプの例として挙げた人物をみると、いずれもこの第四タイプがペアのように随伴(ずいはん)していて大変に興味深い。薩摩の島津斉彬の場合、西郷隆盛がまさに彼を神として一生を生きた人物だった。また勝海舟に対する坂本龍馬がそうであり、戦国時代では、織田信長に対する豊臣秀吉がそうである。
 彼らはいずれも雰囲気はむしろ文系的だが、神である第一タイプの独創的なビジョンを忠実に踏襲するため、民衆からかえってヒーロー代表とみられることが多く、彼らの存在によって、大衆は理数系武士団の物語自体を、自分たちのものとして受容することができるのである。
 大国を揺るがす奇襲効果
 日本の歴史では、国難に際してこれらの四つのタイプが同時に生まれて自然に連携をとった。時には政府を無視して自発的に行動することで、匡の方針に決定的な影響を与えているのである。
 その典型的なパターンを整理すると、第一タイプの、通常では社会に受け入れられないようなビジョンが、第二タイプに保護されて、それなりに組織のなかで生きる場所を得る一方、各地の第三タイプの人間が、量的な面での人材確保を鈍重な政府にかわって引き受ける。仕上げに、第四タイプが理系と文系のあいだに立って、本来なら日本社会に受け入れられにくいそれらの動きを、世の中に融和浸透させる役割を果たすのである。
 欧米の場合であれば、理系的・論理的な人間は普段から社会や政治の中心部に入り込んでいて、たとえばフランスなどでは、数学ができないと知的エリートとはみなされないという傾向がある。そのため、わざわざ結束して特殊な集団をつくる必要が、最初からそれほどないわけである。
 一方それに比べると、日本における理系集団は平素は社会から孤立していて文系社会に一方的に使われる一種の高級職人としての立場に甘んじており、その真の力を活かすには特殊な暗黙の分業体制による結束が必要だったのである。
 ところが、理数系武士団を歴史のなかに置いたときの効果はこれに留まらない。じつはこの場合、彼らが『自発的な連携で生まれるために、外からみてもその存在がわかりにくい』ということが、結果として大きな戦略的意義を帯(お)びることになるのである。つまり、他国からみると、大きな力の塊(かたまり)が突然出現することになり、その存在自体が一種の奇襲効果をもってしまうということである。
 一般的に、他国が日本を封じ込む戦略を立案する場合、恐らく事前の段階では理数系武士団が存在しない状況を想定して『日本の力はこの程度』と見積もり、それをもとに戦略を策定するだろう。ところが蓋を開けてみると、その存在が日本に予想外の動きをさせることで、封じ込めの構図が根本的に狂って、一時的にその戦略全体がガタガタになってしまうのである。
 それをもっとも深刻なかたちで体験させられた人物は、第二次大戦時の英首相ウィンストン・チャーチルだったかもしれない。彼は、日英開戦前に極東方面の防衛を考える際に、まさに『理数系武士団の存在しない状況』で見積もりを行っていたかのようにみえる。
 彼の見通しでは、とにくか当時の最新鋭の戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』を極東に派遣すれば、日本海軍にはそれを沈める力はないだろうし、同様に、同艦をシンガポールに置いておけば、日本はそれを恐れて南方進出そのものを最初に断念するだろうとみていた。またシンガポール自体の防衛も、この最新鋭戦艦が日本軍の上陸部隊を洋上ですべて阻止すればよい、というスタンスで、その目論見が外れるはずがないと思っていたため、陸側の防衛に必要な戦車などはほかの戦線に回してしまった。
 ところが蓋を開けてみると、日本海軍は南部進出を断念するなどはまったく考えようもせず、それどころか同艦そのものをあっさり沈めてしまったのである。その結果として、英国の防衛戦略そのものが根底から崩壊すると同時に、無防備同然だったシンガポールも陥落してしまったのだ。とくにシンガポールの陥落は、われわれ日本人の想像を遥かに超えて大きな意味をもっていた。それというのも、当時の英国にとっては、シンガポールこそが大英帝国の要(かなめ)であるとともに、そに威信の象徴だったのであり、それを失うことは、大英帝国の解体・崩壊を意味していたからである。
 世界史的に眺めると、帝国として大英帝国は、宰相ウイリアム・ピットの時代に、インドをプラッシーの戦い(1757年)で破り、事実上の支配権を得たころに成立・誕生したといえる。ところがその大英帝国は、1941年のマレー沖海戦と、それに続くシンガポール陥落の打撃で終焉を迎えた、ということになる。そう考えると、日本が英国領であったシンガポールを陥落させた出来事が、どれほどの影響力をもっていたかがわかる。
 じつをいうと、この時点ですでに日本の理数系武士団の力はかつてまでの大きなスケールのものではなくなっていた。これは理数系武士団の一つの弱点ともいえる。力が覚醒した当初は、戦略的に大きな奇襲効果をもっているが、次第に小規模で戦略的なものに矮小(わいしょう)化していき、やがて完全に形骸化した時点で、各自が理系の外の世界に関わる意欲を失ってしまう。そうして、彼らがモノづくりの現場に戻ってしまい、再び長い眠りにつく、というパターンをとりがちなのである。
 1941年にはじまった太平洋戦争時には、理数系武士団の力はやや戦術的で小さなものになっていたことがその後の経過をみればよくわかる。つまり、理数系武士団の力は、最初の開戦当初の時期だけは戦略的に大きな奇襲効果を発揮する。しかしひとたびその戦術的な手の内を読まれてしまうと、戦略的には平凡なのでその後は大したことはできず、打つ手がないまま押し返されるまだけで終わってしまうのである。
 ……
 日本が世界を先導するために
 ともあれ、これらの歴史を先ほどの戦闘力と戦略力の話に照らして考えると、理数系武士団の力はむしろ戦略力の面で大きく作用して、掛け算全体の値を一時的に数倍に引き上げてしまう効果をもっていたことがわかる。そして日本の場合、幸運にも列強と接触がはじまったもっとも決定的な時期に、その力が最大の効率で作用する状態になったのである。それこそが先述した、日本の歴史の大きな謎に対する、本当の答えだったのである。
 その一方で、当時の理数系武士団を除外した幕府の役人たちの姿を思い浮かべると、現在の日本政府の頼りなさそうな姿になんとなく似ている。
 ……」
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 江戸時代の日本人は、文系の現実的思考力と理系の論理的思考力を偏りが少なく均等に持ち、好奇心・探究心から外国や日常から新たな知識や技術を見付け緩やかに取り入れる柔軟性があり、戦争や競争などで激変を繰り返す合理的西洋とは違い、古代のまま変化を嫌う観念的中華(中国や朝鮮)とも違い、ゆっくりではあったが中世から近世そして近代へと変化し発展していた。
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 幕末・明治初期の激動期は、教養豊かな10代後半20代30代の若き志士達が天皇の為に青雲の志を抱いて活躍した若者の時代であった。
 分別のある40代50代60代の中年や老人の出る幕はなかった。
 若者の時代には、開放、躍動・躍進、進歩・発展をもたらす陽気な時代の空気はあっても、現代風の抑圧・閉塞、憂鬱・沈鬱、後退・衰退を強制する陰鬱・陰気な同調圧力や場の空気はなかった。
 中年・老人の時代とは、新しい事を嫌い・変わる事を拒否する、古きままに付和雷同する沈み行く時代である。
 日本の歴史で、時代が変化し進歩・発展する時は中高年の時代ではなく若者の時代である。
 若者の時代とは、活動的な若者が多く不活発な老人が少ない社会、失敗と再挑戦が奨励され、無駄が許される時代である。
 日本における若者の時代とは、観念・屁理屈の文系ではなく試行錯誤・創意工夫の理系の時代であるが、理系の内面を支えたのは教養深き伝統的文系文化であった。
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 日本の理系集団とは、各分野の専門家が集まって個々に活動しながら成果を挙げる分業集団であった。
 つまり、一枚の設計図に各分野の専門家が集まって製品を完成させるのが日本であった。
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 江戸幕府を無能と笑う現代日本人、特に高学歴知的エリートには歴史力・文化力・宗教力はない。
 何故なら、彼らは「論語読みの論語知らず」で、自己満足的な独り善がりの主義主張はあっても公に役立つ有益な哲学や思想がない。
 彼らは言う「1,000万人行けど我行かず」と。
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 中高年の古びた西洋礼賛的分別が、若者の好奇心溢れる意欲を邪魔をしなければ、ライト兄弟よりも先に、日本人が人類最初のガソリン機関を動力とした軍用飛行機(航空兵器)を完成させていた。
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 現代の日本人と昔の日本人とは別人のように違う日本人である。
 何が違うかと言えば、昔の日本人は一切譲らずとして死を恐れず戦争をしてでも日本を守ろうとしたが、現代の日本人は死ぬ事を恐れて戦争をせず平和的な話し合いで譲れるモノは譲ってでも日本を守ろうとしている、ところである。
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 日本民族は、天皇を中心として一丸となって固まると強いが、天皇を持たず団結すると砂団子のように脆い。
 この時の天皇とは、神話を源として流れる血を正統とした男系父系相続の万世一系天皇である。
 日本民族は血が直につながった祖先を氏神様として祀る、血・血筋信奉者、世襲至上主義で、如何に頭脳明晰で才能があり能力が高かろうとも、天才であろうが、親が分からない何処の馬の骨とも知れない者は怪しんで信用せず、敬して遠ざけ、排除した。
 それが、日本民族排他主義である。
 日本民族は、知らない人間が吹くハーメルンの笛で踊る事はなかった。
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 江戸時代の和算・算術などの学問は、武士・サムライだけではなく広く庶民(百姓や町人)の間でも行われていた。
 西洋の数学などの学問は、専門家・学者など特定の人々が極めていたが、民衆には興味も関心も薄かった。
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 百姓は、春秋の稲作農繁期以外の農閑期で、現金収入が見込める畑作や異業種の副業を幾つも持っていた。
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 現代の日本人が思っている以上に、昔の日本人、特に幕末期の日本人の才能はを持ち行動していた。
 当時の優秀な日本人(武士・サムライ、庶民{百姓や町人})の能力は、現代の高学歴知的エリートらの知能指数・偏差値・試験の高得点などという学力とは関係ない。
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 江戸時代。多くの武士・サムライの祖先は、源平藤橘と言った由緒正しい家柄・武門のでではなく、身分低い豪族や庶民であった。
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 武士は、祖先に与えられた僅かな禄高を貰って宮仕えしていたがたえず生活苦に喘いでいた為に、時間があれば食べ物の足しにするべく庭で農作業を行い、少しでも現金収入を得るべく副業として庶民に頭を下げて内職(傘貼り、虫籠作り、金魚養殖、民芸品作り、組紐作り、縫い物、その他)に精を出していた。
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 薩長土肥倒幕派士族の多くは、中枢政治家、上級官僚、軍司令官・高級将校、幹部警察官、政商企業家など権力側についた。
 幕府や佐幕派士族の多くは、地方政治家、下級官吏、中級将校、地元警察官、反権力の新聞記者、権力とは距離を置いた学者、教育者、技術者などになった。
 敗れた旧幕臣や旧佐幕派の一部には、天皇に裏切られたという憎悪の念が渦巻き、知識がある若者は無政府主義者共産主義者となり反天皇主義者となっいていった。
 勝った薩長土肥倒幕派士族でも、権力側として成功できなかった挫折者の中からも無政府主義共産主義に走り反天皇主義者となった。
 日本国内には少数派であったが反天皇主義者がいて、その中から天皇制を打倒しようと目指した過激派が生まれ、さらにその中から天皇を惨殺しようとする反天皇反日本テロリストが生まれた。 
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 庶民にとって、武士・サムライとは違って、天皇もただの人間で特別な存在ではなかった。
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 日本が、西洋以外でいち早く近代化できたのは偶然ではなく必然であり、短期間で成し遂げる事ができたのは自然環境にあった。
 日本の自然環境とは、雑多で複合的に同時に発生する自然の大災害と町の大半を焼く大火、繰り返し数万人~数十万人の死人を出す国内由来飢餓と国外由来疫病である。
 昔の日本は、雑多で複合的同時多発的自然災害、大火、飢餓、疫病に絶えず襲われていた為に、前例主義として過去を手本に被害を少なくし犠牲者を減らすべく知恵を絞りできる対策を施していた。
 事実。江戸幕府はバカでも無能でも無策でもなく、10万人以上の犠牲者を出した明暦3(1657)年1月の明暦の大火を教訓として江戸再建にあたって防火・防災と再建・復興の諸対策を行い、その成果でこれ以降約200年間に江戸は幾度も大火・自然災害に襲われたが犠牲者を減らす事に成功していた。
 江戸・東京で10万人以上の犠牲者を出したのは、住民人口が倍増した自然災害の関東大震災と戦争の東京大空襲の2例のみである。
 前例主義や事なかれ主義において、昔は前向き積極的で優れていたが、現代は後ろ向き消極的で劣っている。
 その違いは、必要に応じて犠牲を覚悟して行動できるかどうかである。
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 日本民族は、いつの時代でも両面性・両義性を持っていき生きていた。
 日本人仏教僧は、仏の道を説いて人を助け癒し慰め励まし生きる為に後押しをしていた、同時に、兵法・軍学を学び敵兵・人を殺して戦に勝つ方法を教え、あるいは自ら百姓や武士を指揮して戦い敵を殺した。
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 日本民族の戦いは、積極的攻撃ではなく消極的受け身で、つまり「降りかかる火の粉は払わねばならぬ」あるいは「窮鼠猫を噛む」であった。
 つまり、逃げる道のない、後がないところまで追い詰められない限り行動しない。
 後(ご)の先である。
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 日本とは、川の流れの「方丈記」の世界である。
 十年一日として前例に従って変化しなかったが、同時の十年一昔として行動し、劇的変化は起きなかったが、緩やかに変わっていき江戸初期と江戸末期では全然違う日本になっていた。
 日本には、「変わらない」古く正しい伝統と「変わる」新しく奇抜な外連(けれん)が両輪として存在していた。
 日本民族は、変わらない忍耐と変わる勇気を合わせもっていた。
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 江戸時代は悲惨を極めたブラックな社会であった。
 日本民族は、誰も頼れず、誰からも助けられず、誰からの援助・支援もなく、数万年前の縄文の時代からとにかく生きてきた。
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 身分低い庶民の子で、才能があれば下級武士の養子となり、その能力を認めると中級武士の養子になり町奉行勘定奉行・郡奉行・代官・遠国奉行などに出世した。
 が、才能がない世襲武士は、才能で成り上がってきた俄武士に対して陰険にして陰湿なイジメ・嫌がらせ・意地悪を繰り返して潰そうとした。
 成り上がり武士で有名なのが、古くは河村瑞賢、新しくは最上徳内川路聖謨中浜万次郎らである。
 成り上がりの俄武士を助けたのは、その才能を認める将軍や大名であったが、将軍や大名が死去して代が替わると新しい将軍や大名に疎まれ左遷され不具な老後を送る事が多かった。
 世襲武士は、家柄によって職種や役職が決められ、別の職種に変わる事もさらに上の役職に昇格する事はなかった。
 武士の世界は、言語を絶するほどのブラック社会で、一つでも間違えば、問答無用で責任を取らされ、御役御免で隠居・蟄居、家禄没収の上で領外追放、最悪は上意でお家断絶の上切腹であった。
 世襲武士は身内・親族・一門が助けるが、成り上がり武士は誰も助けなかった。
 出世しない家柄の武士は30~40歳で引退し、家督を10代の息子に譲り、悠悠自適な隠居生活を楽しんだ。
 庶民が幾ら努力して慣れない身分があった。それは、天皇・皇族、公家、将軍、大名であった。
 庶民の貪欲な上昇志向による下剋上を阻んだのが、血の神話である男系父系相続と血の制裁である武士道であった。
 女性排除はここから生まれた。
 つまり、男の替えは幾らでもいるが、女の替えはないからである。
 つまり、女性排除は女性保護であった。
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  日本人と中国人・朝鮮人は「水と油」のような性質・特質を持っていて、両者は幾ら話し合い付き合ってもしょせん分かり合う事ができない。
 知人になっても、友・友人や親友にはなれない。
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