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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
戦国時代から日本は、隣国の中華(中国・朝鮮)ではなく、地球の裏側の西洋と深くつながっていた。
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スペインは女系母系継承を主張してポルトガルを併合した。
スペインは、ポルトガルが富を得ていた石見産銀と日本人奴隷売買の対日交易を引き継いだ。
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西洋の王家では、女系母系継承と同時に妻継承により夫である他国王との共同統治が認められている。
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西洋キリスト教の隣人愛信仰は、宗教的白人至上主義で宗教差別と人種差別である。
中華儒教の「朋有り、遠方より来る、また楽しからずや」の朋(とも)は、民族差別・血族差別、教養差別、身分差別である。
日本民族は、西洋キリスト教と中華儒教から人差別されていた。
大陸世界を支配していたのは「差別」で、日本民族は気が弱いから差別が支配する大陸世界から逃げてきた弱者であった。
が、痛みを知る弱者こそが、新たな差別を生み出し、陰湿・陰険なイジメ・嫌がらせを行い、場の空気・同調圧力で醜いブラック社会をつくる。
日本人を奴隷として売ったのは日本人である。
現代日本人は、日本人を売った日本人の子孫である。
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世界史の窓
フェリペ2世
16世紀後半、ハプスブルク家スペインの全盛期の国王。カトリック政策を強化し、新教国イギリスと対立、オランダの独立運動を弾圧した。アメリカ新大陸からアジアにかけて広大な「太陽の沈まぬ国」といわれたスペインを統治した。
フェリペ2世 スペイン=ハプスブルク家のスペイン王(在位1556~98)でスペイン絶対王政の全盛期の王である。カルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)の長男。母はポルトガル王女のイサベル。1556年、カルロス1世の引退によって、スペイン王となる(神聖ローマ皇帝位はカールの弟フェルディナントが継承した)。
カトリックの盟主としてのフェリペ2世
「異端者に君臨するぐらいなら命を100度失うほうがよい」と述べたフェリペ2世は、カトリックによる国家統合を最も重視した。プロテスタントだけでなくユダヤ教徒、モリスコ(キリスト教に改宗したイスラーム教徒)の動きは厳しく告発され、何度も火刑が行われた。異端審問と共に禁書目録が作られ、エラスムスの書物も発禁とされた。<『新版世界各国史』16 スペイン・ポルトガル史 p.161 右上の肖像も同書 p.158 による>
Episode フェリペ2世、はじめて笑う
フェリペ2世は、自らカトリック世界の最高の保護者たらんとして、領内のカトリック以外の宗派には厳しい弾圧を加えた。当時ヨーロッパでは旧教と新教の両派による激しい宗教戦争が展開されており、フランスでもユグノー戦争の最中の1572年にサンバルテルミの虐殺が起こって、多数の新教徒が殺害された。その知らせを聴いたフェリペ2世は、それまで笑ったことのない冷酷な男だったが、生まれて初めて笑ったと伝えられる。
太陽の沈まぬ国
フェリペ2世は、父から継承したスペイン、ネーデルラント、ナポリ、シチリアなどのヨーロッパ内の領地と、アメリカ大陸、アジアのフィリピンなどの領土を支配し、その支配領域は広大であった。
ポルトガル併合
さらに1580年には、ポルトガル王家が断絶したことにつけ込み、母がポルトガル王家出身であったことから王位継承権を主張し、1581年にはコルテス(身分制議会)で即位を認めさせ、ポルトガル王としてはフェリペ1世となった。このポルトガルを併合によって、イベリア半島を統一的に支配し、さらにアフリカ・インド・東南アジア・中国に点在する海外領土を獲得して、フェリペ2世のスペインはまさに太陽の沈まぬ国を実現した。
無敵艦隊の敗北とオランダの喪失
カトリックの保護者としての強い自覚のあったフェリペ2世は、カルヴァン派の新教徒ゴイセンの多かったネーデルラントに対してもカトリックを強要した。それに反発して1568年にはネーデルラント独立戦争が始まると、その独立運動を厳しく弾圧し、さらにネーデルラントを支援するイギリスを討とうとして1588年、無敵艦隊を派遣したが、イギリス海軍に敗れてしまった。この敗北はスペインの全盛期は終わりを告げることとなる。
ネーデルラントの独立
ネーデルラントは1581年に独立を宣言、独自の経済活動を開始した。スペインにとって経済的基盤であったネーデルラントとその中心都市アントウェルペンを失うと、本国では基盤となる毛織物産業がオランダなどに押されて低迷し、他に産業を持たなかったので、その経済は急速に衰退した。スペインは17世紀にはその地位をオランダ、イギリスに奪われ没落することとなる。
Episode 日本の少年使節を謁見したフェリペ2世
1584年11月11日、フェリペ2世(57歳)が、フェリペ3世(6歳)の皇太子宣誓式をマドリードのサン=ヘロニモ教会で挙行した。その式に列席した人びとの中に、日本の九州の大名がスペイン王・ローマ教皇に使節として派遣した4人の少年たち(天正少年使節)がいた。ついで14日には4人はフェリペ2世(この時期にはポルトガル王でもあった)に謁見、所期の目的の一つを果たした。彼らは1582年に宣教師のヴァリニャーノに伴われて長崎を出航、西回りでリスボンに上陸し、マドリードに来たのだった。ついで85年3月にはローマに入り、教皇グレゴリウス13世に謁見している。彼らが帰国した1590年には日本の政権は豊臣秀吉に移り、キリスト教禁止に転じていた。<松田毅一『天正少年使節』講談社学術文庫 p.186,174>
借金大国スペイン
大航海時代のアメリカ新大陸の銀はスペインが独占し、アントウェルペンなどを経由してヨーロッパにもたらされ、価格革命が起こった。スペイン自体も、マドリードに宮廷文化を開花させ、繁栄を誇ったかに見える。しかし、スペイン財政の実態は、借金王国と言える状態であった。それは先代のカルロス1世(カール5世)の時から続く、フランスとのイタリア戦争、地中海方面におけるオスマン帝国との戦争、オランダの独立戦争とそれに続いて起こったイギリスとの戦争と、戦争がたて続けに起こっており、その戦費は大きくスペイン財政を圧迫していた。その戦費捻出のため、フッガー家やヴェルザー家など、各国の富豪から借金していたので、アメリカ新大陸からもたらされる銀は多くがその返済に充てられ、スペインは負債に苦しんでいたのである。フェリペ2世は1557年に破産宣告(国庫支払い停止宣言)を行い、債務をその額の5%の年金支払いとする長期公債に切り替えて窮地を脱し、その後も支払い停止措置を60年、75年、96年と繰り返し出している。フェリペ2世はカトリックの守護者を以て自認し、カトリック世界に君臨するため、異教徒や新教徒との戦いを続けたのだが、それはスペインという一個の国家の守備範囲を大きく超えることだった。もはやそのような世界帝国は不可能であったことをフェリペ2世時代のスペインは理解することができなかったと言える。 → スペインの衰退
Episode 世界支配者の四度の結婚
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スペインのポルトガルの併合
1580年、スペインのフェリペ2世がポルトガル王位を継承し、同君連合となり、実質的には併合した。スペインはポルトガル植民地も併せ「太陽の沈まぬ国」となる。1640年にポルトガルは独立を回復するが、衰退が進んだ。
イベリア半島西南部をしめるポルトガルとその他の大半を占めるスペインの両国は、大航海時代を通じて交易圏の拡大を競ってきた。16世紀の後半に入ると、ポルトガルの衰退が始まり、スペインがその併合を狙うようになり、ポルトガル王セバスティアンがモロッコ遠征に失敗して戦死し、王朝が断絶した1580年に、スペインのフェリペ2世が王位継承権を主張して軍隊を派遣、威圧のもとで併合した。これによってスペインはイベリア半島全域を支配し、しかもポルトガルの海外領土も手に入れたので、その領土は全世界に及び、まさに「太陽の沈まぬ国」となった。
同君連合の形式
1580年に実現したスペインによるポルトガル併合は、フェリペ2世がポルトガル王位を兼ねるという同君連合の形をとり、ポルトガルという国家が消滅したのではなく、その国家機構は残り、一定の自治も認められていた。ポルトガル側には国王セバスティアンの無謀な戦争(モロッコ遠征)で出費が増え、捕虜の身代金も多額に上り、困窮していた貴族はスペインとの併合を望み、インド交易の後退で衰退していた大商人はスペイン領の新大陸の銀を手にいれることと、イギリス・フランスの海賊船に対するスペイン艦隊の保護を求めて、スペイン王の国王として戴くことを受け容れたのである。
スペイン王フェリペ2世は、ポルトガル王フィリペ1世として即位するに当たり次の条件を認めた。<金七紀男『ポルトガル史』彩流社 p.123>
1,ポルトガル王国の伝統的な自由・特権・法律・慣習を尊重し、国会(コルテス)も存続する。
2,ポルトガル総督ないし副王はポルトガル人とする。
3,行政・司法などの官僚機構および軍隊はポルトガル人で運営される。
4,ポルトガル領植民地における商業はポルトガル人のみに許される。
5,ポルトガル・スペインの国境税関は廃止される。
6,ポルトガル語は引き続き公用語として、通貨もそのまま認められる。
このように、ポルトガル側から見れば、この併合(同君連合)は専ら経済的効果を期待してのものであったことが判る。大きな民族的抵抗もなく進められた併合であったが、ポルトガル人ではない国王を戴くことに次第に違和感を感じる心情が強くなったようで、アルカセル=キビールの戦いで「行方不明」になったセバスティアン国王が生還してスペインの軛(くびき)から解放してくれるという信仰(セバスティアニズモ)が次第に民衆の心を捉えるようになり、反スペイン暴動も起こるようになった。この状態は 1640年にポルトガルが反乱を起こして独立を回復するまで約60年間続く。 → ポルトガルの独立回復
フェリペ2世の野心
16世紀後半にはいるとポルトガルの富は、西ヨーロッパに流出し、国力は衰退が始まっていた。スペインもカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)はフランスとの抗争、宗教改革、オスマン帝国のウィーン包囲などに直面し、財政は困窮していた。次のフェリペ2世(スペイン=ハプスブルク家)もオランダ独立戦争が始まり、国力の回復の必要に迫られていた。そこでフェリペ2世はポルトガル王となったセバスチャンの母がスペイン王家出身であることを足がかりに、ポルトガルの併合を策した。
ポルトガル王の失政
ポルトガルのアヴィス朝は1557年にジョアン3世が没し、セバスチャンが王位を継承したが幼少であったため前王の王妃カタリーナが摂政となった。王妃はスペイン王カルロス1世の妹であったことから、スペインの影響力が強まった。68年、セバスチャンは親政を開始するが、イエズス会の強い影響のもとで育った王は政治に関心を示さず、時代錯誤的な十字軍派遣の妄想にとりつかれ、北アフリカ征服を夢見ていた。1578年、北アフリカのモロッコでオスマン帝国軍の支援をえた叔父のムレイ・アブデルマルクによって王位を剥奪されたムレイ・ムハマッドがポルトガル王に援助を求めてきた。24歳のポルトガル王セバスティアンは7月14日、6000人の外国人傭兵を含む1万7000の大軍を率いて出陣、8月4日のアルカセル・キビールの戦いで対戦したが、稚拙な戦法が禍して敗れ、戦死してしまった。<金七紀男『ポルトガル史』彩流社 p.116>
※ポルトガルがスペインに併合される要因の一つがモロッコとの戦いに敗れたことであることに注意しておこう。なおこの頃のモロッコはサード朝が勃興した時期である。
フェリペ2世のポルトガル王位継承
王位は叔父のエンリケが継いだが、これも老人で1年足らずで死亡し、ここにポルトガル王室のアヴィス朝が断絶した。1580年にフェリペ2世は王位継承権を主張してポルトガルに乗り込み、1581年、コルテス(身分制議会)で即位を認めさせ、ポルトガル王フェリペ(ポルトガル語ではフィリペ)1世となった。一部で反対する民衆が蜂起し、王族の一人を擁立して戦ったが、簡単に破られ、それ以外の組織的な抵抗はなかった。フェリペ2世は、ポルトガルに一定の自治権を与える一方、国境関税やポルトガル王室の財政負担が無くなったことは商人層をよろこばせた。こうしてスペインのフェリペ2世はポルトガルの本土と海外領土を合わせ、まさに「太陽の沈まぬ帝国」となった。以後、ポルトガルではフェリペ2世・3世と続き、フェリペ(フィリペ)王朝という場合もある。
オランダ独立戦争との関係
しかし、この間、オランダは実質的な独立を達成し、またイギリスもエリザベス女王のもとで海外発展をとげ、その大帝国の維持は次第に困難になっていった。旧ポルトガルの海外領土も、ホルムズ、セイロン島、マラッカ、モルッカなどが次々とオランダに奪われていく。 → スペインの衰退
スペインがポルトガルを併合したとき、スペインと同じようにポルトガルにおいてもユダヤ教徒追放令を出した。ユダヤ人は新教徒が独立運動を展開していたネーデルラントのアムステルダムに移住した。かれらはダイヤモンド加工なのの職人であったので、これを機にアムステルダムの商工業が発展することとなった。
またスペインは独立運動を妨害するために、オランダ船のリスボンへの寄港を禁止したが、そのためかえってアムステルダムのオランダ商人が独自で海外に進出していく契機となった。オランダは1602年には東インド会社、1621年に西インド会社を設立してポルトガル領で盛んに略奪を行い、ポルトガル商人を駆逐していった。
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フェリーペ2世は、中南米大陸の銀山に続いて日本の銀山も手に入れるべく、ポルトガルと修道会を手足の如く使い始めた。
本国から軍隊を派遣できない為に、日本人キリシタンを手兵として使う事に決めた。
日本人キリシタン兵団を組織する為には、より多くの日本人をキリスト教に改宗させる必要があった。
神聖な使命に燃える行動的宣教師は、キリシタン大名の領地を輝かしい神の王国に作り変えるべく、敬虔な日本人キリシタンを組織化して異教徒が信仰する神社仏閣を徹底的に破壊するという宗教弾圧を行っていた。
それは、日本に対するキリスト教勢力の宗教侵略であった。
白人キリスト教徒商人は、中世キリスト教会の協力を得て日本人奴隷交易を行っていた。
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非キリスト教非白人の日本は、正当防衛の自衛犯罪としてキリシタン弾圧を行った。
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スペインは、平和的に日本人キリシタンを増やす為に、経教一体の原則で、大名・領主に南蛮貿易での利益を保障させるかわりに布教活動の自由を認めさせた。
そして、キリスト教化した地域の統治権を異教徒日本人領主から取り上げて日本人キリシタン領主に与え、そして最終的にはスペイン人と日本人の間で生まれた混血児を管理者として植民地支配を完成させようとした。
異教徒日本人を殺すのが日本人キリシタンであれば、スペインはもちろん敬虔な白人キリスト教徒は十戒の「殺すなかれ」という戒めを冒さず、罪悪感を感じる必要がない。
その実例が、中南米諸国である。
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中世キリスト教会は、世界中で信者を増やし、世界を一つの神の王国にする為にフェリーペ2世の野望に協力した。
つまり、結果が良ければ経過が悪くても気にしないという事である。
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徳川家康は、政教分離と経教分離の原則で政治・経済と宗教を切り離すべく、経教一体の原則で南蛮貿易とキリスト教布教を押しつけてくるスペイン・ポルトガル連合王国を拒否し、徳川幕府主導の朱印船貿易網を東南アジアに広げた。
そして、政教分離と経教分離の原則を受け入れるオランダとイギリスの2ヵ国通じて西洋交易を続けた。
徳川家光は、上から目線で傲慢なイギリスを排除し、オランダのみを貿易相手国とする限定的鎖国を完成させた。
キリスト教は禁止し、キリシタンを弾圧した。
そして、海禁策として日本人の海外への渡航を禁止し、禁令に背いた者は大罪人として処刑した。
江戸幕府は、他国を頼らない、他国に依存しない、国内のみで生きられる自給自足体制を確立した。
が、西洋からキリスト教抜きの新しい知識、文化、技術、医学を蘭学として摂取選択の後に制限付きで受け入れた。
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現代の日本人は、昔の日本人と比べて歴史力・文化力・宗教力は乏しく、日本はおろか世界・西洋さえ理解できない。
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昔の日本・日本民族は、現代の日本・日本国民とは違い、世界・西洋に対して復讐・報復の権利を持っていた。
GHQは、日本国から復讐権・報復権を剥奪する為に自由・民主主義価値観に基づいく新たな歴史教育を始め、世界・西洋に都合が悪い歴史的事実を抹消する為に軍国日本の正当性を証明する本を全て焚書処分した。
日本の中に、連合国・国連による日本占領政策に協力する日本人が多数存在していた。
日本民族の復讐権・報復権を無効にする為につくられたのが、日本国憲法と国連の敵国条項で、日本人にそれを守らせる為に存在するのがリベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、護憲派、人権派、国連主義者である。
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ウィキペディア
フェリペ2世(Felipe II, 1527年5月21日 - 1598年9月13日)は、ハプスブルク家のカスティーリャ王国・アラゴン王国(=スペイン)の国王(在位:1556年 - 1598年)。イングランド女王メアリー1世と結婚期間中、共同統治者としてイングランド王フィリップ1世(Philip I)の称号を有していた。また1580年からは、フィリペ1世(Filipe I)としてポルトガル国王も兼ねた。
スペイン帝国・スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した偉大なる王で、絶対主義の代表的君主の一人とされている。その治世はスペイン帝国の絶頂期に当たり、ヨーロッパ、中南米、アジア(フィリピン)に及ぶ大帝国を支配し、地中海の覇権を巡って争ったオスマン帝国を退けて勢力圏を拡大した。さらにポルトガル国王も兼ね、イベリア半島を統一すると同時にポルトガルが有していた植民地も継承した。その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。
1925年発行の100ペセタ紙幣に肖像が使用されていた。
生涯
出生から即位まで
1527年神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)とポルトガル王マヌエル1世の娘イザベルとの間に生まれた。スペイン王にして神聖ローマ皇帝に選出された父カルロス1世は当時のヨーロッパで最大の勢力を持ち、ヨーロッパ以外の広大な領土とあわせて、その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。なお、現在のフィリピン共和国、フィリピン諸島などの「フィリピン」は、1542年、スペイン人のコンキスタドールによってラス・フィリピナス諸島と命名されたことに起源を発するが、これは、当時アストゥリアス公だったフェリペの名に由来する。
フェリペは1556年1月16日、父の退位によりオーストリアを除く領土を受け継ぎ、スペイン王フェリペ2世として即位した。28歳であった。既に1521年にオーストリア大公、1531年にローマ王となっていた叔父フェルディナントは、この時に皇帝位を継承した。こうしてハプスブルク家は、スペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分化した。
結婚生活とフェリペ2世の家族
最初の妻マリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル
2番目の妻、イングランド女王メアリー1世
3番目の妻エリザベート・ド・ヴァロワ
最後の妻アナ・デ・アウストリア
フェリペ2世は王太子時代の1543年、ポルトガル王女マリア・マヌエラ(1527年10月15日 - 1545年7月12日)と結婚した。2人は同い年であった。マリア・マヌエラの父はフェリペの母イザベルの兄ジョアン3世、母はカール5世の妹カタリナであり、父方でも母方でもフェリペの従妹に当たる。1545年に長男ドン・カルロスをもうけるが、同年に彼女は死去した。
1554年、イングランド王国の女王メアリー1世(1516年2月18日 - 1558年11月17日)と結婚した。メアリー1世は父カール5世と母イザベルの共通の従妹に当たる。スペイン王家からすればフランスのブルボン家との対抗上、メアリー1世からすれば国内での親カトリック政策の後ろ盾として、互いを求めた政略結婚であったが、11歳年上のメアリー1世とは性格が合わず、1556年にフェリペは即位のためスペインに帰国、1年半後に3ヶ月ほどロンドンを再訪したのみで別居状態となった。すでに高齢出産の年齢に達していたうえメアリー1世は婦人科系の病に冒されていた模様で、子をもうけないまま1558年に死去した。
1559年、フランス王アンリ2世の長女エリザベート・ド・ヴァロワ(1545年4月2日 - 1568年10月3日)と結婚した。エリザベートの母はカトリーヌ・ド・メディシスであった。この結婚はスペイン・フランス両国で結ばれたカトー・カンブレジ条約によるものであり、エリザベートはもともとフェリペ2世の一人息子ドン・カルロスの婚約者であった。エリザベートは、イサベル・クララ・エウヘニアとカタリーナ・ミカエラの2女をもうけたが、彼女も1568年に死去した。なお、その数ヶ月前にドン・カルロスも死去している。オラニエ公ウィレム1世などから、フェリペ2世が妻エリザベートと息子ドン・カルロスを毒殺したとして非難されているが、その真偽は不明である。
1568年、オーストリア・ハプスブルク家のアナ・デ・アウストリア(1549年11月1日 - 1580年10月26日)と結婚した。アンナの父である神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世はフェリペ2世と同年生まれの従弟であった。さらに彼女の母マリアはフェリペ2世の妹であるという関係から、2人は伯父と姪の結婚となるため、ローマ教皇ピウス5世が当初は反対したという経緯がある。彼女とは4人の息子と1女(マリア)をもうけたが、フェリペ以外のいずれの子供も夭折した。
残された子供はイサベル・クララ・エウヘニア、カタリーナ・ミカエラ、フェリペ(後のフェリペ3世)だけであり、家庭的には恵まれない人物であった。
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ウィキペディア
日本とポルトガルの関係(ポルトガル語: Relações entre Japão e Portugal、英語: Japan–Portugal relations)では、日本とポルトガルの関係について概説する。なお、1581年から1640年まで、スペイン王がポルトガル王を兼ねている(ポルトガルの歴史参照)が、ポルトガルの統治機構などは維持されているため、本稿ではその時期も含めて記述する。
鎖国まで
「南蛮貿易」も参照
大航海時代以後ポルトガルは積極的な海外進出とブラジル経営を中心として国力を伸長させ、16世紀初めには東南アジアへ進出し、日本近海へも活動域を広げ始めていた。1541年7月27日、ポルトガル船(あるいは明船)が豊後国神宮寺浦に漂着したのが日本へのポルトガル人の最初の上陸であったとされている(発見のモニュメント)。そして1543年、種子島へポルトガル商人が漂着し、鉄砲伝来が起こる。ポルトガルは当時、アジア地域へ植民地・奴隷の確保、及び貿易相手国を求め入植・進出を行っており、日本に上陸した当初からポルトガル人による日本人奴隷貿易が行われた(後述)。日本との接触ののち通商を求める商人の動きも活発化した。また、貿易はキリスト教布教を伴って行われるものとの戦略があり、貿易商人と共に多くの宣教師も日本を訪れる事となった。1549年にはフランシスコ・ザビエルが日本を訪れキリスト教布教活動を行っている。その後、織田信長らの庇護のもと両国間で南蛮貿易が開始され、1557年にマカオの居留権を獲得したポルトガルは同地と九州を拠点としながら貿易を展開していった。ポルトガルからは多くの製品、文化が日本に流入していった一方、日本からは銀などがポルトガルへ流出した。同時に、九州を中心として宣教師によるキリスト教布教も行われ、キリシタン大名なども誕生し、天正遣欧少年使節の派遣なども行われた。
1603年には、『日葡辞書』がイエズス会によって長崎で発行された。4年以上の歳月をかけて編纂され、中世の日本語とポルトガル語を研究するうえでの貴重な資料となっている。
ポルトガルによる日本人奴隷貿易
詳細は「ポルトガルの奴隷貿易#アジア人の奴隷」を参照
詳細は「バテレン追放令」を参照
16世紀から17世紀にかけてポルトガル人による日本人奴隷貿易が行われた。1543年にポルトガル人が日本に初上陸した当初から、奴隷貿易は始まっていたと見られている。ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で日本人は奴隷として売りつけられ、それは大規模な奴隷交易へと発展した。天正10年(1582年)ローマに派遣された天正遣欧少年使節団は、モザンビークや欧州など世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃し衝撃を受けている。豊臣秀吉の言を伝える『九州御動座記』には、「バテレン(キリシタン)どもは、諸宗を自分達のキリスト教に引き入れ、それのみならず男女数百の日本人を黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の苦しみ以上に、生きながらに皮をはぎ、あたかも畜生道の有様である」との記述がある。同座記には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等であった。
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