💍8)─1─立皇嗣宣明の儀。秋篠宮殿下の立皇嗣の礼。男系父系皇位継承順位1位。〜No.43No.44No.45 ⑧ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2020年11月8日09:00 産経新聞「【立皇嗣の礼】きょう「宣明の儀」 午前11時から皇居・宮殿で
 秋篠宮さまが皇位継承順位1位の「皇嗣(こうし)」となられたことを内外に示す「立皇嗣(りっこうし)の礼」の中心儀式「立皇嗣宣明(せんめい)の儀」が8日、皇居・宮殿「松の間」で執り行われる。平成3年の天皇陛下の「立太子(りったいし)の礼」にならって行われるが、大正天皇から陛下まではご結婚前に儀式に臨んだため、今回はご夫妻で臨まれる近代以降初めての形となる。
 国事行為として行われる宣明の儀は、8日午前11時に始まる。約50人の招待者を前に、陛下が秋篠宮さまが皇嗣となったことを宣明された後、秋篠宮さまもお言葉を述べられる。続いて菅義偉(すが・よしひで)首相が「寿詞(よごと)」と呼ばれる祝辞を述べる。3年の陛下の立太子の礼では、在位中の上皇さまが「徳仁親王が皇太子であることを、広く内外に宣明します」などと述べられた。
 午後4時半には、宣明の儀の後に陛下が初めて秋篠宮さまに会われる「朝見の儀」が同じ松の間で行われる。秋篠宮さまが両陛下に謝意を示され、両陛下もお言葉を述べられる。秋篠宮紀子さまも同席される。
 儀式ではその後、両陛下とご夫妻が、黒豆と酒とみりんを煮た「九年酒(くねんしゅ)」を注いだ盃を交わされ、両陛下からご夫妻に祝い品として、えんび服などの生地の目録も渡される。
 宣明の儀から朝見の儀までの間には、宮殿「鳳凰(ほうおう)の間」で、陛下が皇太子の守り刀である「壺切御剣(つぼきりのぎょけん)」を秋篠宮さまに渡される行事が行われるほか、秋篠宮さまが皇嗣として初めて、紀子さまとともに宮中三殿の殿上で拝礼される儀式も予定されている。」
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 11月8日11:16 産経新聞「【立皇嗣の礼】「責務に深く思いを致し、務めを果たす」「宣明の儀」で秋篠宮さま決意ご表明
 立皇嗣宣明の儀で天皇、皇后両陛下の前でお言葉を述べられる秋篠宮さま=8日午前11時8分、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影)
皇嗣宣明の儀で天皇、皇后両陛下の前でお言葉を述べられる秋篠宮さま=8日午前11時8分、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影)
 秋篠宮さまが皇位継承順位1位の「皇嗣(こうし)」となられたことを天皇陛下が内外に示される「立皇嗣宣明(りっこうしせんめい)の儀」が8日午前、皇居・宮殿「松の間」で行われた。宣明の儀は「立皇嗣の礼」の中心儀式。陛下は「本日ここに、立皇嗣宣明の儀を行い、皇室典範の定めるところにより文仁親王皇嗣であることを、広く内外に宣明します」とお言葉を述べられた。
 午前11時、新型コロナウイルスの感染防止対策のため、間隔を空けて立つ参列者が待つ中、両陛下が松の間に入られ、宣明の儀が始まった。
 陛下のお言葉の後、秋篠宮さまが「立皇嗣宣明の儀をあげていただき、誠に畏れ多いことでございます。皇嗣としての責務に深く思いを致し、務めを果たしてまいりたく存じます」と決意を表明された。
 続いて、菅義偉(すが・よしひで)首相は「ここに改めて皇室の一層の御繁栄をお祈り申し上げます」と祝辞である「寿詞(よごと)」を述べた。
 午後には、宣明の儀の後で陛下が初めて秋篠宮さまに会われる「朝見(ちょうけん)の儀」なども執り行われる。」
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 11月8日12:00 産経新聞「【立皇嗣の礼廃太子や戦乱によるイレギュラーな即位も 日本史彩る「立太子」めぐるドラマ
 「立皇嗣宣明の儀」でお言葉を述べられる天皇陛下と、皇后さま、秋篠宮ご夫妻=8日午前11時5分、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影)
 8日午前、「立皇嗣宣明(りっこうしせんめい)の儀」が挙行され、秋篠宮さまが皇位継承順位1位の「皇嗣」となられたことが内外に示された。宣明の儀を中心儀式とする立皇嗣の礼は平成3年の「立太子の礼」を踏襲。近世以前、何度も行われた同様の儀式は天皇の後継指名の場だったとされるが、歴史をひもとくと、順当に皇太子を経た天皇ばかりではない。古代には一度立てた皇太子を廃する例が相次いだほか、後継指名できる上皇天皇が戦乱で不在となり、異例の即位となった例も。日本史に伝わる立太子をめぐるドラマを追った。(橋本昌宗)
■「廃太子」相次いだ古代
 現代の日本では、天皇の長男が皇太子となるなど、皇位継承順位は明確に定められている。
 しかし、明治22(1889)年に皇室典範が制定されるまで、皇位継承に関する規定は存在しなかった。長男だからといって必ず皇太子になれるわけではなく、母親の身分に加え、譲位した上皇や時の幕府、有力者の意向も複雑にからんで決定された。
 皇太子になったからといって安泰とはいえない時期もあった。奈良時代末期から平安時代にかけて、皇太子の身分を剥奪する「廃太子」が相次いでいる。
 平安時代初期に編纂(へんさん)された史書続日本紀」によると、奈良時代末期の光仁(こうにん)天皇は、宝亀元(770)年、前代の称徳天皇崩御に伴い、天皇の遺言で、62歳で皇太子となった。
 2カ月後に天皇となったが、3年には皇太子としていた子の他戸(おさべ)親王の身分を剥奪して庶民に落とした。続日本紀によれば、親王の母が天皇を何度も呪ったことが理由とされる。
 代わって皇太子に立てられたのは、平安京に遷都することで知られる後の桓武天皇だった。
 しかし、平安時代になっても皇太子の地位は不安定のまま。宮内庁書陵部が編纂した「皇室制度史料」によれば、桓武天皇から嵯峨、仁明(にんみょう)と相次いで一度立てた皇太子を廃している。
 一方、文徳天皇の後、ほとんど廃太子はなくなる。皇太子を立てる儀式も平安時代後期ごろには確立したとされ、中断や修正を経ながら受け継がれていく。
■配流、拉致…戦乱の時代
 皇太子が廃されることは少なくなったが、平安末期以降は戦乱が相次ぐ。皇太子を立てないまま天皇崩御することもあれば、中には、皇太子の“指名権”を持つ上皇天皇が配流(はいる)されたり、全員拉致されたりする事態も起こった。
 鎌倉時代後鳥羽上皇鎌倉幕府と戦った「承久の乱」の戦後処理で幕府側は、後鳥羽上皇らを配流にし、仲恭天皇皇位を剥奪した。
 乱の後で位を継いだ後堀河天皇は、皇太子を経ずに直接天皇となった。幼少だったため、父親の守貞親王が、自身は天皇になったことがないにもかかわらず太上天皇上皇)として実際の政務を執る形となった。
 皇統が2つに分かれて争った南北朝時代も同様だ。
 室町幕府を開いた足利尊氏と弟の直義が争う「観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)」の混乱の中、南朝が京都を一時的に占領。北朝がすぐに奪還したが、南朝は撤退する際、光厳上皇北朝上皇と、混乱で皇太子を廃された直仁親王を拉致する。
 幕府は新たに後光厳天皇を擁立するが、次の天皇を指名できる上皇はすべて不在。そのため、後光厳天皇の祖母が、上皇の役割を代行して天皇を指名した。祖母は皇室出身ではなく、異例の即位となった。
■中断から再興、現代へ
 皇太子を定める立太子の儀式は、南北朝時代の終わりから約300年間行われなくなる。
 室町時代から戦国時代にかけては、朝廷の多くの儀式や祭祀(さいし)が途絶えており、皇位継承に伴う重要祭祀「大嘗祭(だいじょうさい)」ですら、営まれない状態となってしまう。
 江戸時代に入ると、朝廷の儀式再興に尽力した霊元天皇が後の東山天皇を皇太子に立てる際に儀式を挙行。霊元天皇大嘗祭も実施しており、以降は儀式や祭祀の復興が続いた。
 明治維新の後、明治22年に皇室典範が制定されたことで皇位継承順位は明確になり、儀式の細部も42年の立儲令(りっちょれい)で定められた。儀式の意味は後継指名から、法律で後継者と決まっている皇太子をお披露目する場へと変わった。
 立儲令は戦後廃止されたが、前代の儀式を参考に、政教分離など時代の要請に合わせて修正を加えながら連綿と続いてきた儀式は、今回の「立皇嗣の礼」に続いている。」
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 11月8日13:11 産経新聞「【立皇嗣の礼】「おめでたい」沿道から秋篠宮さまにお祝いの声 間隔あけコロナ対策も
 秋篠宮さまを一目見ようと赤坂御用地前に集まった人たち=8日午前9時21分
 秋篠宮さまが皇位継承順位1位の「皇嗣(こうし)」となられたことを示す「立皇嗣宣明(りっこうしせんめい)の儀」が執り行われた8日、皇居や秋篠宮ご夫妻がお住まいの宮邸(東京都港区)のある赤坂御用地周辺を訪れた人たちからは、「おめでとうございます」などとお祝いの声が上がった。
 ご夫妻は午前9時15分ごろ、宮邸で長男の悠仁さまのお見送りを受けて車に乗り込み、皇居へ向けてご出発。新型コロナウイルス禍で「密」な状況を作るのを避けるため、平成3年の立太子の礼の際のような儀式的な車列を組まず、普段ご夫妻が皇居を訪問する際と同様に移動された。
 御用地近くの沿道には、ご夫妻のお姿を撮影しようと、一眼レフカメラスマートフォンのカメラを構えた人たちの姿も。東京都世田谷区の中学3年生、斎藤駿仁(はやと)さん(15)と新崎稜真(りょうま)さん(14)は「お車に乗った秋篠宮さまを直接見ることができた」と興奮した様子。斎藤さんは「おめでたい皇室の行事の締めくくり。昨年から今日は絶対に来ようと思っていたので、うれしかった」と話した。
 これに先立ち、天皇陛下が儀式の挙行を宮中三殿に奉告するため、午前8時すぎに皇居・半蔵門を通過された際には、周辺に30~40人ほどが集まったが、警備関係者が間隔をあけて並ぶよう呼びかけるなど、感染拡大防止策がとられた。
 半蔵門に午前5時50分に来たという川崎市宮前区の白滝富美子さん(79)は「新型コロナウイルスの影響で一時はどうなってしまうのかと思ったが、無事に行われてよかった。皇族の方々も安心されたのではないか」とほっとした様子。「秋篠宮さまには、これからも頑張っていただきたい。おめでとうございます」と笑顔で祝福した。」
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 11月8日17:57 産経新聞「【立皇嗣の礼天皇陛下の思いやご経験 どうご継承 秋篠宮さま
 「立皇嗣(りっこうし)の礼」が8日挙行され、秋篠宮さまが皇位継承順位1位の「皇嗣」となられたことが明示された。秋篠宮さまは皇嗣となった昨年5月以降、活動の幅を広げており、今後は宮中祭祀(さいし)に皇太子と同様の立場で臨まれるなど、役割は多岐にわたり、重みを増すことになる。陛下の考えやご経験を次世代に継承されるためにも「意識や体験を共有される場が必要」との指摘もある。(橋本昌宗、緒方優子)
 「とても難しいんだけど、上手にできていますね」。10月29日、福井県立南越特別支援学校の生徒らが、ろくろを使った学習についてオンラインで説明すると、秋篠宮さまはこう感想を述べられた。
 秋篠宮さまは今年5月、「全国『みどりの愛護』のつどい」に合わせて同校を訪問される予定だったが、新型コロナの感染拡大で実施が見送りに。代わりに、オンラインを使った異例の視察と懇談が実現した。
 「みどりの愛護」のつどいは代替わりに伴い、秋篠宮さまが陛下から引き継がれた公務の一つだ。秋篠宮さまは平成30年、誕生日の記者会見で、毎年行われる公的な活動について「一つ一つを、その都度その都度考えながら、自分の仕事、若しくは務めを、進めていくようにしたい」と述べられている。側近の一人は「前例にとらわれすぎることなく、何が良いのかいつも考えて真摯(しんし)に取り組んでおられる」と話す。
皇嗣としての務めは、陛下から引き継がれた公務だけにとどまらない。宮中祭祀では今後、陛下が皇太子時代にされたのと同様、宮中三殿の殿上で拝礼されるようになり、より陛下に近いところで、所作も複雑になる。陛下の海外ご訪問中などに国事行為を代行される機会も出てくる。
 秋篠宮さまは30年の記者会見で、宮中での行事などについて「随時話合いを、既にしているものもありますが、(今後も)していく必要があろうかと考えています」と、陛下との意思疎通の在り方に言及された。だが、皇室の課題が話し合われてきたとされる、24年春ごろに始まった陛下、上皇さま、秋篠宮さまの「3者会談」は、代替わり後は開かれていない。
 一方、宮内庁関係者によると、秋篠宮さまは代替わり後も複数回、陛下がお住まいの赤坂御所をご訪問。新型コロナウイルスの感染拡大後、直接会われる機会は減ったが、側近部局で陛下から秋篠宮さまへの電話を取り次いだこともあった。今月初旬に皇居で立皇嗣の礼の所作などを確認する「習礼(しゅらい)」が行われた際にも、陛下と秋篠宮さまが直接、意見交換をされた。宮内庁幹部などを介したやり取りも続いているという。
 秋篠宮さまの知人の一人は「秋篠宮さまは小さい頃から陛下に対して非常に強い尊敬の念をお持ちで、以前からご兄弟でよく話をされている」と話す。
 皇室に詳しい京都産業大所功名誉教授は「国事行為や宮中祭祀など、『天皇』にしかできない経験と認識を皇嗣になった秋篠宮さまが共有し、継承していかれる必要がある」と指摘。「兄の天皇と弟の皇嗣が一体となっておのおのの役割を果たせるように、心を通わされる機会を積極的に作ってほしい」と話した。」
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💍5)─2─男系維持、旧宮家養子を 保守系議員団、皇位継承で政府提言。〜No.21 ④ 

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 保守派多数派は、皇位の正統性を血筋・血統に限定し皇位継承を男系に定め、男系を維持するべく旧宮家養子を政府提言した。
 保守派少数派・リベラル派・革新派・フェミニスト人権派は、女性が輝ける新しい時代に即して、皇位の正当性を現天皇家に定め女系でも皇位継承できるように、皇統を男系から女系に変更するように求めている。
 国民世論の70%以上が現天皇家による女系天皇即位に賛成している。
 メディア・報道機関の多くも、女系天皇即位・女系宮家新設に賛成である。
 つまり、秋篠宮悠仁親王皇位継承否定である。
 国連の小委員会も、男系に限る現代の皇位継承制度は女性差別にあたるとして改善を求めている。
 男系派は、少数派で、支持者が少なく劣勢である。
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 2020年11月6日13:19 産経新聞「安定的な皇位継承策「男系維持踏まえ検討」 加藤官房長官
 記者会見する加藤勝信官房長官=6日午前、首相官邸
 加藤勝信官房長官は6日午前の記者会見で、皇位継承に関し「安定的な皇位の継承を維持することは国家の基本に関わる極めて重要な問題だ。男系継承は古来例外なく維持されてきたことの重みなどを踏まえながら、慎重かつ丁寧に検討を行う必要がある」と述べた。
 その上で「国民のコンセンサスを得るためには十分な分析、検討と慎重な手続きが必要ではないか」とも語った。秋篠宮さまが皇位継承順位1位の皇嗣(こうし)になられたことを内外に示す8日の「立皇嗣の礼」に関しては「新型コロナウイルス対策に注意を払いながら、準備に万全を期す」と強調した。
 国会は皇位継承策について速やかな検討と報告を求めており、政府は立皇嗣の礼の後に議論に着手する方針を示している。」
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 11月6日21:02 産経新聞「男系維持、旧宮家養子を 保守系議員団、皇位継承で政府提言
 超党派保守系議員でつくる「日本会議国会議員懇談会」(古屋圭司会長)は6日、国会内で会合を開き、父方に天皇がいる男系の皇位継承を維持することを求める提言をまとめた。秋篠宮さまが皇位継承順位1位の皇嗣(こうし)になられたことを国内外に示す8日の「立皇嗣の礼」の後に菅義偉首相や加藤勝信官房長官に提出する方向で調整している。
 懇談会は、女性皇族が結婚後も皇室にとどまる「女性宮家」の創設について、前例のない女系天皇誕生につながるとして反対の立場を取る。提言では、旧宮家の男子を皇族の養子に迎えたり、皇籍取得を可能にしたりすることで男系を維持する考えを盛り込んだ。皇室典範は改正せず、特例法制定での実現を目指す。
 また、戦後に連合国軍総司令部(GHQ)の意向で旧宮家皇籍離脱を余儀なくされた歴史的背景を提言の中で説明し、国民の理解を得たい考えだ。
 平成29年に成立した譲位特例法の付帯決議では、安定的な皇位継承策の速やかな検討を政府に求めている。政府は立皇嗣の礼の後に議論を本格化させる考えだが、首相は4日の衆院予算委員会で「男系継承が古来例外なく維持されてきた重みを踏まえながら慎重かつ丁寧に行う必要がある」と答弁した。
 加藤氏も6日の記者会見で「国民のコンセンサスを得るためには十分な分析、検討と慎重な手続きが必要ではないか」と述べた。」
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⚔20)─2─本願寺門主顕如の石山合戦。織田信長の宗教保護政策。~No.82No.83 

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 日本民族日本人の歴史には、キリスト教絶対正義史観やマルクス主義共産主義階級闘争史観は通用しないし、東アジアの中華(中国・朝鮮)儒教絶対徳治史観も当てはならなかった。
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 日本の歴史で、宗教・信仰をめぐる戦い・聖戦は存在しなかった。
 日本民族日本人は、対立、差別を助長し、戦争、争いを引き起こす宗教・信仰を生理的に嫌い、目の前から排除した。
 それは、哲学・思想そして主義主張でも同様であった。
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 織田信長の対人認識は、人間としての信頼関係ではなく、金銭や名誉・自尊心による欲得としての利害関係であった。
 人は、信頼では裏切るが、利益が絡むと裏切らない。
 織田信長は、家臣の裏切りにたえず悩まされていた。
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 織田信長豊臣秀吉は、宣教師が命の危険を冒してまで日本に来る真の目的を知っていた。
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 2020年9月号 歴史街道「この著者に注目!
 神田千里 『顕如』 ミネルヴァ書房
 顕如が天下人と戦った理由
 織田信長とおよそ10年間戦い続けた、本願寺顕如に焦点を当てた研究書が発刊された。
 一向一揆について長年研究をしてきた神田千里氏は、本書の企画があよそ20年前からスタートしていたと語る。
 『執筆を依頼されたのは2002年のことです。一向一揆は、天下人や戦国大名など権力者に対する民衆の戦いだった、それが通説でした。私はもともと、これに対して疑問を抱いていました。
 特に織田信長本願寺の戦い、いわゆる「石山合戦」については研究を進めていましたので、顕如の行動を通じて、研究成果をまとめたいと思ったのです。
 しかし当時は顕如に即(そく)した検討が不十分で、その人生を、政治史の中に位置付ける作業で難航していました。
 ようやく近年になって「戦国遺文」や、新たに発見された史料によって、戦国大名の動きを以前より把握できるようになりました。そのおかげで、顕如の人生を政治史に即して書く目途(めど)が立ったのです』
 従来、顕如本願寺門徒に対する権力者の弾圧に抗(こう)して民衆を扇動し、天下人や諸大名と戦ったとされてきたが、実情は違うと神田氏は言う。
 『永禄3年(1560)、関東を支配する北条氏は、長尾景虎上杉謙信)の侵攻に備え、本願寺に協力を依頼しました。このとき北条氏が交渉材料として使ったのが、自国における一向宗信仰の許可です。
 北条氏は自分の領国内では一向宗の信仰を禁止しており、領内の門徒は肩身の狭い思いをしていました。彼らの地位を回復させるために、顕如は北条氏の上杉との戦いに協力します。
 つまり本願寺対上杉の戦いは、本願寺の〝外交闘争〟とみるべきなのです』
 その後、元亀元年(1570)より、本願寺織田信長に対して蜂起しては、和睦(わぼく)することを繰り返す。
 『本願寺は、なぜ何度も信長に対抗したのか、そのい背景として、本願寺門主という立場だけでなく、加賀の大名として顕如が行動していたことに着目しなければなりません。
 本願寺が加賀を領国として支配するようになったのは、顕如の二代前の実如が加賀国の政治抗争に関わったのがきっかけでした。顕如が12歳で第11世門主に就任する頃には、本願寺は加賀の大名として、幕府からも認められる存在となっていたのです。
 そえゆえ、友好関係を結んでいた諸国の大名から要請を受けた際や、隣国・越前で混乱が生じたときには、本願寺も動かざるを得ませんでした。
 顕如の一連の軍事行動は、門徒たちを守ることと、天下人や諸大名に本願寺教団を認めさせる目的があった一方で、加賀一国の大名としての行動もあったのです』
 およそ10年にわたる信長との対立も、お互いを潰(つぶ)し合うことが目的ではなかったと、神田氏は言う。
 ではそもそも、信長は宗教をどのように捉(とら)えていたのか。
 『よく信長と本願寺の間に、宗教観の違いがあったといわれますが、そうではないと思います。
 信長は、排他的な行為をしない限り、どのような宗教でも認める姿勢を見せていましたし、顕如も、他の宗教に対して礼儀を払っていました。
 宗教というと、神仏への信仰を連想しがちですが、当時の人々にとっては、「天道に背(そむ)く行為をすれば罰(ばち)があたる」といった。物事の善悪を定める規範にもなっていました。
 それは戦国大名も例外ではなく、例えば信長でさえ「天道」という言葉をよく用いています。
 従来、戦乱の世は無秩序で、力こそ全てと捉えられてきましたが、宗教の観点から見ると、実は戦国大名もとても信心深く、その判断に大きな影響を与えていたという、新たな一面が見えてくるのです』
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 熱心な宣教師と敬虔な日本人キリシタンは、聖戦として、キリシタン大名の領地を「隣人愛信仰」のキリスト教一色に生まれ変わらせるべく日本の神仏を否定し、神社や仏教寺院を破壊し、仏教僧侶と神主・巫女を虐待して追放し、家にある仏壇・位牌と神棚・護符を壊して燃やした。
 その矛先は、天皇家・皇室に向けられた。
 イエズス会は、キリシタン大名から寄進された長崎をローマ教皇領として日本から切り離し、異教徒の侵略から信仰を守る布教活動拠点にするべく軍港都市要塞の建設に着手した。
 他のキリシタン大名も信仰の証しとして、領地の一部もしくは全部をキリスト教会に寄進した。
 年々、キリシタンが増え全国で20万人~40万人に達した。
 当時の日本の総人口は約1,200万人であった。
 宣教師は、日本人キリシタンに信仰を守る為の死を殉教と美化した。
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 ウィキペディア
 石山合戦は、元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い。本願寺法主顕如石山本願寺に篭って戦った。
 概要
 広義では、元亀元年9月12日の石山挙兵から天正8年8月2日の顕如退去までの10年間を指すが、天正8年閏3月7日(1580年4月20日)に本願寺は大坂退去の誓紙を信長に届けて戦闘行為を休止したことから、閏3月7日を終わりとすることもある。
 戦国時代最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と、天下布武を目指す織田信長との軍事的・政治的決戦であり、石山合戦終結と同時に各地の一向一揆はその勢いを著しく失った。また、江戸時代に本願寺勢力が分裂する遠因ともなった。
 「本願寺勢力」という言い方は、本願寺派とすると現在の浄土真宗本願寺派西本願寺系)と混交するためである。また、浄土真宗全体が本願寺側についた訳ではない点にも注意する必要がある。以下の文中においては単に本願寺と記す。
 また、「石山本願寺」という呼称についても、近年「石山本願寺」の名称が登場したのは江戸時代以降で、石山合戦当時には「大坂本願寺」と呼ばれていたとする説があり、これを支持する研究者の間では「石山戦争」「石山合戦」の呼称は当時の史実と合致しないとして「大坂本願寺戦争」などの名称を用いる者がいる。

 合戦の流れ
 淀川堤の戦い
 元亀元年(1570年)9月12日に顕如は「信長が本願寺を破却すると言ってきた」として本願寺門徒に檄を飛ばし、三好三人衆攻略のために摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃した。そのまま本願寺軍は石山を出て、14日に淀川堤で信長軍と直接激突した。この戦いは織田軍優勢のうちに終わり、本願寺軍は石山に戻り籠城の構えを見せた。織田軍は志賀の陣で既に四面楚歌の状態であるため、石山に監視のための軍を置くと、朝廷に働きかけて本願寺軍に矛を収めるよう勅書を出すなど、本願寺との戦闘を避けた。そのため、石山本願寺の第一次挙兵は、実は1月もたたないうちに実質的には終わったのである。
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 加賀一向一揆
 百科事典マイペディアの解説
 戦国時代に加賀国で蜂起した一向一揆。1471年蓮如(れんにょ)は越前国吉崎(よしざき)(現福井県あわら市)に下向して北陸地方真宗一向宗)の布教を開始。これを受け,1474年から翌年にかけて加賀の守護勢力の一部と一向宗徒は,それぞれの反対勢力打倒の一揆(惣国一揆)を形成した。1488年再び大規模な一向一揆が起き,加賀守護富樫政親(とがしまさちか)を打倒,〈百姓の持ちたる国〉といわれる門徒領国を成立させた。1531年(享禄4年)には享禄(きょうろく)錯乱といわれる内紛があり,のち上杉謙信織田信長などとも敵対したが,1580年の石山本願寺の降伏などがあり,翌年門徒三百余人が捕らえられて磔刑に処され,加賀一向一揆は解体した。→吉崎御坊石山合戦/伊賀惣国一揆/雑賀一揆/長島一揆
 →関連項目朝倉始末記|加賀国|倉月荘|大聖寺山城国一揆
 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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 世界大百科事典 第2版の解説
 1471年(文明3)吉崎へ下向した蓮如は,親鸞以来の血脈相承を根拠に一宗独立を宣言し,個別分散的な浄土系諸門流の掌握を開始した。蓮如教団は,世法的宗教観の否定を唱える門流をも内包し,他宗派との間に鋭い緊張関係を生じた。一方加賀守護勢力は15世紀中期以降幾度も二手にわかれ支配権を争っていた。このような状況下74‐75年一部守護勢と一向衆とは,国人層,百姓層,寺社勢力をも糾合し,それぞれの反対勢力打倒の一揆(惣国一揆)をおこした。
 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 1474年(文明6)から1580年(天正8)にわたり、加賀国(石川県)の一向衆徒らが、国内を支配、運営した一揆蓮如(れんにょ)は、親鸞(しんらん)以来の血脈相承を根拠に、一宗の独立を意図し、吉崎(よしざき)(福井県あわら市)滞在中(1471~75)分散的な北陸の浄土系諸門流を次々に吸収していった。1473年には、加賀での公的認可を条件に、富樫政親(とがしまさちか)の要請を受け、守護家の内紛に介入、翌年、高田専修寺(せんじゅじ)派と結ぶ富樫幸千代(こうちよ)を倒した(文明(ぶんめい)一揆)。続いて75年には政親と戦い、88年には、かわりの守護を擁立し、政親を高尾城に滅ぼした(長享(ちょうきょう)一揆)。文明一揆時、政親に協力した国人層は連合組織「郡」を結成。また長享一揆時、小地域ごとに結集した門末は「組」を結成した。「組」はやがて一門(宗主庶子)の与力(よりき)組織となった。
 1506年、1521~23年、畿内(きない)、北陸の政争の影響を受けて、数か国に及ぶ一揆が発生(永正(えいしょう)・大永(だいえい)一揆)。北陸の門末は、加賀一門の統制下にあったため、加賀の一揆は、越前(えちぜん)、越中(えっちゅう)など北陸一帯の一揆となった。1510年代に、本願寺一門は「郡」の有力者を家人化し、「郡」を一向宗の組織とし、続いて坊主衆の一揆への参加を禁止した。そのため、加賀の一揆組織は俗的色彩を強く帯びることとなった。「郡」は在地領主権を所領外の門末へも及ぼし、「組」は軍事的、財政的宗教役を担った。1531年、新・旧宗主系親族団の内紛により、一門が没落(享禄錯乱(きょうろくさくらん)、あるいは大小一揆)したため、「郡」と「組」は本願寺に直属(1546年以後金沢御坊(かなざわごぼう)に従属)することとなり、人員面、機能面での同一化を促進させていった。越前、能登(のと)の門末を含む「加賀」衆は、1555年、64年に朝倉勢と、70年代前半は上杉勢と、それ以後は織田勢と戦い続けた。「加賀」衆の支配権とその境界線は、ともに私的で、その安全性の保障は戦い続けることによってのみ得られた。しかし、1580年金沢御坊の陥落とともに、加賀一揆は織田軍により解体された。
 [金龍 静]
 『井上鋭夫著『一向一揆の研究』(1968・吉川弘文館)』
 [参照項目] | 一揆 | 一向一揆 | 加賀国 | 浄土真宗 | 富樫政親 | 本願寺 | 蓮如
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 一般社団法人織田木瓜紋会のブログ
 織田木瓜紋会は、信長公の聖地『安土山』の再建を目標とします。安土を訪れる方々に信長公が愛した『神々の住まう安土山』の姿を再現できればと考えております。 また、信長公亡き後の織田家について調査研究致します。
 信長公の政策についてー外交戦略:信長公と寺社仏閣②ー
 Ⅱ. 信長公の寺社仏閣対応について
 ①信長公の神社に対する対応
 信長公は国盗りをしたあと、寺社仏閣を焼き払ったということは広く知られていますが、天照大神(アマテラスオオカミ)と春日大神(カスガオオカミ)、八幡大神(ヤハタノオオカミ)そして牛頭天王(ゴズテンノウ、素盞嗚命スサノオノミコ)を祀る神社には手を出さなかったそうです。天照大神天皇家春日大神藤原氏氏神八幡大神は武士の神だったことが理由だと推察します。
 信長公は天下を目指すには他の権力者と強固な利害関係を築く必要があり、国内のどの勢力そしてどの派閥、どの氏族の誰と結びつくことが最も効果的で最も合理的かを常に考えたはずです。その戦略の一つが上記神社への配慮です。
 また二十二社(国家の重大事や天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣を受けた主に畿内の神社)も擁護しますが、延暦寺の末寺の一つ日吉大社(京の高利貸しの主力)は延暦寺焼き討ちの時に焼け落ちます。
 二十二社・・・京都 石清水八幡宮・加茂別雷神社・加茂御祖神社・松尾大社平野神社伏見稲荷大社大原野神社梅宮大社吉田神社・八坂神社・北野天満宮貴船神社、奈良 春日大社大神神社石上神宮大和神社廣瀬大社龍田大社丹生川上神社丹生川上神社上社丹生川上神社下社、大阪 住吉大社、三重 伊勢神宮、滋賀 日吉大社、兵庫 廣田神社
 前回述べた神人についても淀の魚市の専売権や水陸運送権をもつ石清水八幡宮(三大八幡の一つ:総本社は大分・宇佐神宮で福岡・筥崎宮か神奈川・鶴岡八幡宮のいずれかを加える、京の裏鬼門の守護)の修繕を行ない、 琵琶湖沿岸における独占的な漁業権を所有する上賀茂(賀茂別雷神社)・下鴨神社賀茂御祖神社)には馬を奉納し競馬を開催し友好関係を築きます。
 ②信長公の寺院に対する対応
 今回は信長公の寺院擁護について考察します。地域により対応が異なるので、それぞれについて見ていきます。

 ②-2信長公が擁護した寺院
■京における寺院の擁護
 天文5年(1536)天文法華の乱で焼き討ちになった法華宗の寺院は天文11年(1542)になり二一本山のうち一五本山が京に戻ります。これらの多くは下京に移転し、堀や土塁などの防衛施設を設け武力を備えます。
 一五本山・・・妙顕寺 要法寺 本圀寺 妙覚寺 妙満寺 本禅寺 本満寺 立本寺 妙蓮寺 本能寺 本法寺 頂妙寺 妙泉寺 本隆寺 妙伝寺
 また元亀4年(1573)4月、信長公は旧二条城に籠る義昭への威嚇として上京一帯を焼き討ちにします。その後義昭は宇治・槇島城に籠っているところを信長軍に攻められ、京から追放されます。しかしこの焼き討ちは正親町天皇に事前告知(吉田神社の神主)しており、噂話として上京の住人にも伝わります。上京の住人は攻撃を逃れようと銀1300枚を出す用意をしますが、信長公はこの要求を拒否します。ちなみに下京は銀800枚で焼き討ちを免れています。
 こうした背景もあり信長公に逆らう寺院もなく、基本的には寺領の安堵をしています。中には信長公の命により、尾張から上京する寺院もありました。 また天正3年(1575)には下京地子銭を得る権利を、信長が妹・犬に与えています。
■奈良における寺院の擁護
 神国と呼ばれた奈良(大和)における寺院のあり方は他国と異なります。興福寺が強大な権力を振るい支配力を強め(春日大社の実権も握っています)、大和各地の国人衆が在地武士団として力を持ち、それぞれが.興福寺に属する形をとっています。名実ともに支配していたのは興福寺です。また多くの寺院と公家などの土地が入りくみ利権関係が複雑です。
 そこで信長公は大きな2つの改革を行ないます。天正8年(1580)に実施した「大和差出」と「一国破城」です。
 大和指出とは寺社に対しては旧権限を安堵し、国人に対しては反乱分子の除去など、筒井順慶を中心とした軍事編成の強化のことです。朱印状による安堵により徹底的な破壊には至らず旧来の体制を利用した、まさに再編と呼べるものです。
 一国破城とは大和国内の城を大和郡山城を除き全て破壊させるというものです。 300以上もの城郭がありましたが、破城により郡山城を除き総て破却します。
 これら2つの改革は、宗教都市大和に対抗できるだけの武家の都市として、一国規模の城下町を建設し成立させることが目的です。 荘園制の中で成長してきた国人を政権により一つの軍隊として筒井順慶の下へ統制させ、商人は新しい都市を基盤とした競争によって新興商人を城下に集めます。職人衆も寺社領も統制され、その経済力を利用することができます。
 複雑な支配権と土地制度を有していた大和も、天正8年の両政策による石高と郡山城に集約され、一元的な支配体制が生まれます。
■愛知における寺院の擁護
 尾張統一戦の時に戦場となった上4郡では焼け落ちた寺院もありますが、支配体制が整っていたので寺院による反乱はほぼなく、寺領安堵されています。中には織田家ゆかりの寺院が多くあります。
 「清洲町史」によると慶長15年(1610)の名古屋地区にあった寺院数は103寺です。
■岐阜における寺院の擁護
 義父・斉藤道山の時代から支配体制は整っていたので寺領は保護されます。一部戦場となり焼け落ちた寺院もあります。
 岐阜4仏とよばれる岐阜城下の守護寺院を配備します( 善光寺如来・小熊の地蔵・西野の不動・美江寺の観音)。
■滋賀における寺院の擁護
 六角氏、浅井氏との戦い、延暦寺の焼き討ちを経て滋賀(近江)を制圧します。姉川の戦いでは湖北十ヶ寺の僧兵たちが敵勢に加わります。近江の寺院は延暦寺の傘下の寺院が多く、他の宗派に改宗されるか焼き討ちにあっています。
 浄土宗の僧・浄厳坊明感(近江・金勝寺)を招き、焼失した慈恩寺の跡地に浄厳院を開きます。ここで天正7年(1579)に浄土宗と日蓮宗の僧による仏教論争(安土宗論)が行われます。 浄土宗が勝ったことを評価し、貞安上人(能登・西光寺→近江・妙金剛寺)が呼ばれ西光寺を開きます。貞安上人は天正15年(1587)に正親町天皇の勅命により信長・信忠公の墓所の一つである京都・大雲院(銅閣寺)を、同年秀吉の命で京都・伏見に勝念寺を開創します。
 安土山には總見寺を建立します。通用門である百々橋口から必ず通過する場所にあります。信長公没後、二の丸跡に秀吉により建てられた本廟を、織田家(大和宇陀藩→柏原藩の猶子)が江戸末期まで代々守護します。また寺領を秀吉と徳川代々の将軍から安堵されます。
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 織田信長は、人が信仰する宗教には寛大で、キリスト教の為に仏教を滅ぼそうとしたわけではなく、戦国大名となった一向宗浄土真宗本願寺と俗事的な戦いを続けただけである。
 織田信長が、倒した相手は戦国大名本願寺であったがゆえに、一向宗を根絶やしにする為に一向宗寺院を破壊し一向宗門徒を弾圧し虐殺しなかった。
 つまり、一向宗浄土真宗武装解除して無力化し、財力を利用して政治に関与させない為に、武器を持って戦わない一向宗門徒は殺さなかった。
 織田信長が、「神仏を怖れない魔王で、仏・仏教を滅ぼそうとした第六天であった」はウソで、むしろ、天皇を敬って大金を投じて御所の修繕を行い、神仏を大事にし、荒廃した寺社仏閣の再建を後押ししていた。
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 織田信長日本民族日本人の英雄である。
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 将来、日本統一を果たした天下人・織田信長は、神国・日本国の存亡を懸けてキリスト教勢力(キリシタン)と大祖国戦争をする可能性があった。
 中世キリスト教会と白人キリスト教商人は、日本人から日本人を奴隷として購入し外国に輸出していた。
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 織田信長が、他の戦国大名と違って武士・雑兵を金で雇って常備軍としたのは、貧しい領民(百姓)を雑兵として強制徴兵すると「乱取り」を行う事を危険性があったからである。
 つまり、雑兵に乱取りという副業・役得をさせない為に金銭契約による完全雇用であった。
 織田信長は、庶民の諸悪である乱取りを禁止したが落ち武者狩りや戦場荒らしは放置した。
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顕如:仏法再興の志を励まれ候べく候 (ミネルヴァ日本評伝選 208)

✨2)─3─皇族との結婚で会津・松平家の賊軍汚名がすすがれた。皇室による会津の復権。〜No.7No.8No.9 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本の最高神は、天皇・皇室の祖先神である女性神天照大神伊勢神宮内宮)である。
 天照大神の正統な男系父系(縄文人の遺伝子・Y染色体)の血には、日本民族日本人の罪を「受け入れなだめ癒す力」がある。
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 受け入れなだめ癒す力は、ローカルな日本の皇室にあって、グローバルな儒教キリスト教共産主義にはない。
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 アメリカには、南北戦争のわだかまりが根強く残り、外国人移民の増加でわだかまりが細分化して増幅する。
 イギリスには、イングランドウエールズスコットランド北アイルランドのわだかまりが存在する。
 日本には、南北朝戊辰戦争でのわだかまりは少なかった。
 国家内のわだかまりは、大陸を分裂させるプレート‐テクトニクスのように、国家・国民を切り離し消滅させる。
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 中国共産党の陰謀によって、現代日本日本民族日本人、琉球人、アイヌ人のわだかまりが生まれ分断の気配がで始めている。
 日本のわだかまりに手を貸す日本人が少なからず存在している。
 外国人移民(主に中国人移民)が増えれば、日本国内のわだかまりの数も増え増加する。
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 ヤマト王権・大和王朝は、国内外の有力豪族に前方後円墳による宗教的埋葬儀式(死)の許可と大王家・皇室との婚姻(生)で平和裡に統一した。
 朝鮮半島南部には前方後円墳が幾つも存在する。
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 グローバル化した現代日本人の中には、ローカルな民族の伝統、文化、宗教が嫌いな日本人がいる。
 日本が好きな日本人が2割、日本が嫌いな日本人が3割、好きでも嫌いでもない何方でもない日本人が5割。
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 靖国神社に、戊辰戦争で朝敵として戦って戦死した幕臣会津藩士などの佐幕派を祭神として祀る必要はない。
 神として祀らないのは、天皇に弓を引いた大罪人・逆賊・不敬者だからではなく、娘を男系父系親王と結婚させ皇室の一員になったからである。
 2000年の皇室伝統文化において、社会的人間的事件性の問題を抱えた一般人の息子が男系父系内親王と結婚して女系母系皇族を生んだ例はない。
 何故なら、女系母系皇族は世襲制万世一系の男系父系天皇制度の破壊者だからである。
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 女性天皇女系天皇の即位に賛成が7割以上。
 国連の小委員会は、世襲制万世一系男系天皇制度を女性差別である、と非難し是正を要求している。
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 現代日本人とくに反天皇反日的日本人達は、歴史力はなく、分析力は弱いし、発想力も想像力も乏しい。
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 2020年11月8日号 サンデー毎日「皇后の覚悟 工藤美代子
 貞明皇后からたどるプリンセスたち」
 第4部賢母 (3)妃殿下選考
 4人の親王を産んだ貞明皇后にとって、親王の結婚とは、皇子たちの幸せだけでなく、天皇家、及びこの国の安寧と繁栄を願うものであった。妃殿下選びには、貞明皇后らしい周到な準備がなされていたのである。
 裕仁親王(後の昭和天王)の1歳年下の弟宮である雍仁親王(やすひと:後の秩父宮)が誕生したのは、明治35(1902)年6月25日だった。節子(さだこ)妃の18歳の誕生日でもあった。年子で男児を出産した喜びは大きかっただろう。しかも次男の体重は兄よりも重い約3,300グラムで、しっかりとした赤ちゃんだった。
 それから2年半後の明治38(1905)年1月1日。国民の間に大きな不安をもたらした日露戦争で、日本がついに難攻不落といわれたロシアの旅順要塞を陥落させた。日本中が提灯行列や祝賀会に湧いた。そのわずか2日後の1月3日に、節子妃が3人目の皇孫を出産したのである。それは勝利を続ける帝国の隆盛と二重写しに見えたのではないだろうか。宣仁親王(のぶひと:後の高松宮)は兄宮たとより少し小柄だが、元気のよい新生児だった。3人の親王の母となった節子妃は、それでもやっと20歳という若さだった。
 明治45(1912)年に睦仁天皇(むつひと)が崩御して大正の御代となり、節子妃は節子皇后となった。大正4(1915)年に四男の崇仁親王(たかひと:後の三笠宮)が誕生する。
 崇仁親王は年齢が離れていたため、3人の兄ほどいつも一緒に育ったわけではなかった。崇仁親王が『おもうさま(お父様)私がすぐに物心つく頃からお具合が悪かった』とおっしゃるのを私は聞いたことがある。気のせいか少し寂しそうに響きがあった。家族揃って賑(にぎ)やかな団欒は、上の3兄弟だけの思い出なのだろう。
 さて、今回書いたように、長男の縁談は節子皇后にとって不本意なものであった。だから下の息子たちの結婚相手は、なんとしても自分で決めたいという強い意志を持っていたようだ。それが、いかに熟考を重ねた上での嫁選びであったかを、初めて私に教えてくれたのは、三笠宮の長男の、故寛仁親王(ともひと)だった。もう今から20年ほど前のことである。
 『工藤さん、貞明皇后がどれほど大変な方であったかということは、僕の伯父たちの結婚を見ればわかります。秩父の伯父さまには会津藩主だった松平家から、高松の伯父さんには徳川家から嫁を迎えたんですよ』
 『なるほど、明治維新以来の遺恨が、貞明皇后によって流されたわけですね』
 思えば私が答えると寛仁殿下が大きくうなずされたのをまだ覚えている。
 すでに何度も書いたが、当時の皇族にとって結婚は個人の問題ではなかった。皇室の弥栄(いやさか)を願うのは当然のことだが、さらに明治大帝が世界に発信した文明国としての地位を守り抜かなければならい。それは幾多の大戦を勝ち抜いた『神国』としての誇りでもあった。この誇りが後にとんでもない方向へと暴走する。だが、まだこの時代は神と天皇が確かに一体とみなされていて、国運はまさに神の掌(たなごころ)にあった。
 皇后の信任を得ていた母・信子
 秩父宮の結婚については、平成3(1991)年になって、勢津子妃が著した自伝といえる『銀のボンボニエール』に詳しい。
 勢津子妃は明治42(1909)年に松平恒雄の長女としてロンドンで生まれた。もともとは節子(せつこ)と名付けられてんだが、皇后の節子妃と字が同じなのは畏れ多いというので、結婚の直前に勢津子に改名した(本稿では勢津子妃で統一する)。
 まず先に松平恒雄について記すと、恒雄は旧会津藩松平容保の四男であった。祖父にあたる容保について勢津子妃は次のように書いている。
 『「勝てば官軍、負ければ賊軍」といわれるとおり、祖父はゆえなくして朝敵と呼ばれる身となった人なのです。白虎隊の悲劇をはじめ、若松城(一般的には鶴ヶ城)の内外で男に劣らず死力を尽くして戦った非戦闘員の娘子軍(ろうしぐん)も交えた会津戦争は、一ヵ月の攻防戦の後、ついに城内の北追手門に白旗を掲げ、このときから会津藩は苦難と屈辱の日々を送ったのでした』(『銀のボンボニエール』)
 これ以降は薩長勢が日本の政界を牛耳る時代が長く続いた。会津藩主のみならず、旧藩士や領民は筆舌に尽くしがたい辛酸を舐めたのである。日本列島にその後も長く深い亀裂が走った。
 明治35(1902)年に東京帝国大学を抜群の成績で卒業した恒雄は、トップで外交官試験に合格して、ロンドンに赴任。現地にいたまま迎えた妻が鍋島直大侯爵の四女の信子である。信子の姉は、梨本宮家や前田侯爵家など錚々(そうそう)たる名家に嫁いでいた。
 余談になるが、信子は節子皇后の信任が厚く、御用掛を長く勤めた。また恒雄は昭和11(1936)から20(1945)年まで宮内大臣として在職している。
 ……
 勝利や称賛のためではない
 娘時代の勢津子妃は、駐米大使となった父と共に一家でアメリカに住んでいた。ワシントンでフレンド・スクールに通って、猛勉強した時期である。この学校が戦後の日本の女子校と違うのは、競争心や成果主義を煽る教育をしないところだった。
 一例として、学校でのテニス・トーナメントを挙げたい。勢津子妃は勝ち残って最後の決勝戦を迎えた。いよいよその日におそるおそるコートに行くと、待っていたのは決戦相手の生徒のみ。先生もアンパイアも見物人も誰もいない。ただお互いにカウントを取って勝負は進み、勢津子妃はついに優勝してしまった。といっても翌日、学校へ行き『こういうスコアで勝ちました』と報告するだけなのである。やや拍子抜けしていたら、学期末になって、その年の優勝者ということで、立派な銀のカップを授与された。学校側と生徒の間の強い信頼関係があればこそだと勢津子妃は心を打たれた。
 こうした体験は、後の勢津子妃の人柄の形成に役立ったのではないだろうか。学問もスポーツも他人に競り勝つため、称賛を得るためにやるものではないということを自然に学んだのである。
 そんな勢津子妃が自身に降りかかって来た縁談に驚愕したのは昭和2(1927)年のことだった。勢津子妃の親友の樺山正子(後の白洲次郎と結婚した白洲正子)の父である樺山愛輔伯爵が、突然ワシントンの大使公邸を訪れた。樺山の妻は裕仁、雍仁両親王の御養育掛だった川村純義の娘の常子。そして樺山と松平恒雄学習院の同級生で肝胆相照らす中だった。
 実は樺山は重い使命を帯びて来訪した。節子皇太后松平家の長女(勢津子妃)を秩父宮の妃殿下に迎えたいので、両親及び本人を説得して応諾させてほしいとの思し召しだった。
 しかし、松平家には、この縁談を断っても無理がない幾つかの理由があった。まず、父親の恒雄は子爵としての籍を賜った時に、『今もなお旧会津藩士ということだけで、有為の人々が世に出ることをはばまれている。爵位など拝受しては彼らに相すまぬ』と言って、弟の保男に譲り、自分は一介の平民となっていた。当時の皇室典範では平民の娘を妃に迎えるのは許されなかった。
 また、秩父宮は次男であり、皇位継承権第1位の立場にある。もしも裕仁天皇の身に何かがあれば、秩父宮天皇になる。まだ、現在の上皇が生まれる以前のことだった。したがって秩父宮妃になることは、皇后になる可能性を否定できなかった。
 『平凡でいわば野育ちの不出来な娘』だから務まるはずがないということだ、母の信子の辞退のの理由であった。もっともこの点に関しては、すでに信子はアメリカに発(た)つ前に、節子皇太后から直接に娘を秩父宮の妃殿下に迎えたいという内示を受けたという説もある。信子は『わたしはなるべくお受けしたいと思うのだけれどね・・・』と松平家に長く仕えた養育係の高橋たかに語っていたという(保阪正康秩父宮昭和天皇』)
 戊辰戦争の傷を縫い合わせた
 ……
 それでも勢津子妃は樺山伯爵の説得を受け付けず泣き続けた。だが、最後に養育係だった高橋たかの口から『会津魂』という言葉が漏れ出るのを耳にして、天啓のように決心がついた。
 昭和3(1928)年9月28日、結婚式が挙げられた。これで賊軍の汚名がすすがれたと会津の人々の喜びは一入(ひとしお)だったという。
 その意味では三男の宣仁親王の結婚では、節子皇太后は早々と手を打っていたといえる。高松宮喜久子妃の著書『菊と葵のものがたり』(中央公論社)によると、その結婚は、喜久子妃が2歳の時から決まっていたという。明治44(1911)年生まれの喜久子妃が2歳というのだから、大正2、3年だろうか。喜久子妃は最後の将軍、徳川慶喜の孫娘であり、母は有栖川宮家の出身である。もう両親からし公武合体の見本だった。さらに遡(さかのぼ)れば、徳川慶喜の母も有栖川宮家から迎えられている。節子皇太后にとっては、まさに理想的な家系だった。
 同書の中で喜久子妃が語った言葉で印象深い。
 『私たちの結婚は、貞明皇后様(大正天皇皇后)がお決めになったような気がする。秩父宮妃殿下も会津松平家からいらっしゃった方ですし、三笠宮妃殿下のご実家の高木正得子爵は幕臣でしょう。こっちは徳川慶喜の孫。だから嫁が3人寄ると、なんだかみんな、賊軍の娘ばかり揃ってるかたちじゃない。それだけに、会津でもご結婚が決まると、後家来衆はたいそう喜んだそうです』
 世にいう戊辰戦争で、日本全土に振るわれた大鉈(おおなた)の傷口を、節子皇太后は巧みに縫い合わせたのであった。静かな品性が漂う勢津子妃に比べて、喜久子妃は行動的で明るい女性だった。……」
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銀のボンボニエール―親王の妃として (講談社プラスアルファ文庫)
菊と葵のものがたり

✨51)─2─三島由紀夫『文化防衛論』。昭和天皇を有罪とした女性国際戦犯法廷。〜No.208 

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 現代日本人には歴史力がない。
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 日本の皇室、天皇制度は、世界の非常識であり、正統なグローバルに逆らうローカルの異端である。
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 日本は世界で信用されている、日本人は世界で愛されている、はウソである。
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 世界は、反天皇である。
 アメリカ、イギリス、中国、ソ連、韓国・朝鮮、フィリピン、カナダ、オーストラリアなど多くの国が、昭和天皇ヒトラー同様の戦争犯罪者として平和に対する罪・人道に対する罪で裁き、有罪とし、死刑を含む極刑を要望していた。
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 昭和天皇に対する天皇の戦争責任・天皇戦争犯罪を追及する声が、崩御された現代でも尽きない。
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 国内外で、昭和天皇の死を求める声が多かく、昭和天皇を弁護・擁護・庇う声は少なかった。
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 韓国は、昭和天皇の子供であった上皇陛下が天皇にあった時代に、韓国に来て昭和天皇を暗殺に失敗し処刑された朝鮮人テロリストに土下座し泣きながら謝罪する事を要求した。
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 日本の左翼・左派・ネットサハ、反天皇反日的日本人達は、昭和天皇や皇族の暗殺を企んだ共産主義者を弾圧した事を厳しく非難している。
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 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 昭和天皇は、天皇主権に基づく君主=元首=最終的決定権者であり、神聖不可侵の祭祀王であり、全軍の最高軍司令官=大元帥であり、勅命の最高位歌会を主宰する文人歌人であり、世界的な生物学者であった。
 日本国と日本国民の為に、イギリス国王、ローマ教皇アメリカ大統領などに書簡を送っていた。
 好戦的な軍人や過激な右翼・右派は、昭和天皇文人歌人生物学者である人間性を軟弱的消極的であるとして嫌い、時と場合には暴力的に退位させる事さえ考えていた。
 昭和天皇は、軍部や右翼によるクーデターを怖れていた。
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 昭和天皇の身の処し方が、日本民族の伝統・文化・宗教・日本国語を具現化している
 昭和天皇は、親ユダヤ派であり、人種差別反対であり、戦争回避平和主義であり、原爆反対であり、数多くの歴史的人道貢献に深く関与していた。
 同様に、東条英機松岡洋右板垣征四郎松井石根A級戦犯達は、歴史的人道貢献を行っていたが、その報酬がリンチ的縛り首であった。
 人道貢献否定が、靖国神社問題の核心である。
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 日本国憲法国民主権主権在民の隠された真の目的は、アメリカ化した日本国民の手選択として、天皇制度の廃絶し世襲制男系父系天皇の消滅させる事であった。
 何故なら、日本国憲法を作ったのがアメリカ人のキリスト教徒とマルクス主義者だからである。
 彼らが理想とする、日本国は自由と民主主義の世襲制君主制を滅ぼした共和制国家であり、日本国民は祖先を敬う神道及び仏教を信仰しないキリスト教徒か反宗教無神論マルクス主義者である。
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 敗戦国日本が焼け野原の何もかもなくした国土を再建し経済発展をもたらす信用資産は、皇室から没収した私有財産であった。
 現代日本の糧になった、天皇の私有資産であった。
 天皇私有財産は、海外での侵略強奪や国内での人民搾取でつくった不当資産ではない。
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 人類史・世界史・大陸史、西洋でも中華(中国や朝鮮)でもその他の地域でも、人民による生き神様・生き仏様・最高位宗教指導者、皇帝や国王、独裁者・独裁官が人民の叛乱で家族諸共に惨殺される事は極普通に起きていた。
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 日本で中華(中国や朝鮮)や西洋などで普通に起きていた人種・民族、政治・経済・宗教が原因の世界史的大虐殺がないのは、神聖不可侵とされた天皇の御威光があったからである。
 そして、日本民族日本人による中国大陸・朝鮮半島への民族の大移動はなかった。
 対して、中国人や朝鮮人は絶えず逃げるように日本列島に移住していた。
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 現代の右翼・右派・ネットウハは、大正時代頃までの右翼・右派とは違って、必ずしも、本心から天皇・皇族・皇室・天皇制度を守ろうという意思はない。
 大正時代頃までの右翼・右派、軍国主義者・民族主義者は「惟神の道」の信奉者として「天皇の御稜威・天皇の大御心」を世界に知らしめるべく、シベリア出兵時にロシア人避難学童やポーランド戦災孤児、そしてユダヤ人やロシア人の被災者を助けていた。
 人種差別意識は、昔の右翼・右派は弱く、現代の右翼・右派・ネットウハは強い。
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 『文化防衛論』は、三島由紀夫の評論。昭和元禄と呼ばれた昭和40年代前半、学生運動がピークに達した時代に発表され、各界の論義を呼んだ三島由紀夫の論理と行動の書。高度経済成長が実現し、世間では3C(クーラー・カー・カラーテレビ)の耐久消費財が新・三種の神器として喧伝され、戦後文化が爛熟していた時期に、あえて「天皇」を打ち出した三島の代表的評論である。日本の伝統文化の危機に、「菊と刀」のまるごとの容認の必要性を説きつつ、その円環の中心となる「文化概念としての天皇」の意義を論じている。
 発表経過
 1968年(昭和43年)、雑誌『中央公論』7月号に掲載され、初版単行本は翌年1969年(昭和44年)4月25日に新潮社より刊行された。同書には他の評論や講演も収録されている。
 翻訳版は、フランス語(仏題:Défence de la culture)で雑誌『Esprit』
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 女性国際戦犯法廷は、日本の慰安婦問題についての責任を追及するための、法廷を模した民間団体の抗議活動(民衆法廷)。日本語での副題は「日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷」、英語での表記:The Women's International War Crimes Tribunal on Japan's Military Sexual Slavery。「戦争と女性への暴力」日本ネットワークVAWW-NETジャパン)を中心とする団体で構成され、2000年に東京で開催し、2001年にオランダで「最終判決」として要求事項などを発表した。
 報道では「模擬法廷」と表現したり、「判決」のように法廷やその関連用語を固有名詞として「 」などで括るなど、一般裁判とは区別されている。
 この法廷は、韓国政府が慰安婦問題の賠償を求める根拠としているが当然ながら北朝鮮並びに南朝鮮(韓国)のプロパガンダの一環であるため、正当性も判決の強制力もなく、また国際社会で認められたものでもない。
 「判決」
 2000年12月12日、本「法廷」の「裁判官」らは「判決・認定の概要」を「言い渡し」、「天皇裕仁及び日本国を、強姦及び性奴隷制度について、人道に対する罪で有罪」とした。証拠は、「慰安所が組織的に設立され、軍の一部であり、当時適用可能な法に照らしても人道に対する罪が構成される」とした。また、「裁判官」らは、「日本が当時批准していた奴隷制度、人身売買、強制労働、強姦等の人道に対する罪に関連する各条約、慣習法に違反している」とした。
 評価
 賛同
 東京大学教授高橋哲哉は、当「法廷」を、日本軍性奴隷制の犯罪をジェンダー正義の観点から裁いたことに加えて、戦前との連続を断つ試みであること、東アジアでの平和秩序構築、過去の克服のグローバル化という観点で評価している。[3]また、法の脱構築を行うところに意味があり、法の暴力性が露呈される試みとして「法廷」は意味をもつとも主張している。
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 日本神道とは、自分の血・心・志がつながった全ての祖先を神様と祀る祖先神・氏神の人神崇拝である。
 日本仏教とは、自分の血・心・志がつながった全ての祖先を仏様として供養する人仏崇拝である。
 祖先には人助けの善人もいたであろうし人殺しの極悪人もいたが、紛れもなく血・心・志で繋がった大事な家族・身内として一人も切り捨てず、宿縁として全員を受け入れ神仏として奉った。
 それが、昔の日本民族日本人の信仰心である。
 その象徴が、靖国神社である。本殿は神道であるが、拝殿は無宗教として開放されている。
 戦国時代を生き抜いた庶民は、世界一醜い人間であった。
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 現代日本では、日本民族心神話を源とする血筋を正統な血統・皇統とする万世一系の男系父系天皇を消滅させる目的で、憲法・法律が正当と承認する非血筋の女系母系天皇即位・女系宮家新設支持派が増えている。
 つまり、血を正統とする血統と憲法・法律を正当とする皇統の分離論である。
 現代日本人は憲法政教分離の原則に従って、2000年以上に渡って世襲制天皇家に伝わる一子相伝の秘儀である宮中祭祀を消滅させようとしている。
 何故なら、宮中祭祀の資格は、最高神の女性神天照大神の血を正しく受け継ぐ直系男系父系子孫だけで、傍系女系母系子孫にはないからである。
 最高神の女性神天照大神の正しき血が、日本民族の歴史、伝統、文化、宗教、日本国語の中に流れて命・心・志・気概・精神を支えている。
 日本民族日本人の血は、琉球人やアイヌ人同様に数万年前に生きていた縄文人までつながっている。
 世襲制万世一系の直系男系父系天皇の遺伝子は、縄文人の遺伝子(Y染色体)にまで遡る。
 それが日本民族の神話力である。
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 2019年のあいちトリエンナーレで、「昭和天皇の写真が焼かれ、その灰を踏みつける」映像が現代アートとし出展され、リベラル派・革新派そして一部の保守派、メディア・報道機関、護憲派人権派、学者・教育者などは憲法で保障された「表現の自由」として庇い、国民世論は反対も批判もせず天皇不敬映像の継続展示を黙認した。
 つまり、現代日本人が昔の日本とは違って天皇・皇族、天皇家・皇室を必要としなくなった証拠である。
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 天皇・皇族・皇室を守ろうとした狂信的な勤皇派・尊皇派は、下級武士、貧しく身分低い庶民、賤民、部落民、芸能の民、異能の民、異形の民、真面でない者、普通でない者、そして心が穢れていない者(清明心ある者)、つまり、政治権力や宗教権威から見放された、世間から弾き出されていた下層民達=社会の弱者であった。
 下層民には失うモノが何もなかったが故に、天皇主義者として喜んで命を捨てた。
 天皇を信奉する下層民は、キリスト教が救おうとした「迷える子羊」ではなかったし、マルクス主義共産主義)が革命で助けようとした「搾取される哀れな人民」でもなかった。
 それ故に、日本では一神教キリスト教ユダヤ教イスラム教も同様)や一党独裁マルクス主義とくに暴力革命を目指す共産主義は忌避された。
 昔の日本人と現代の日本人は違うのである。
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 天皇・皇族が訪問してはいけな国は、中国共産党政府、韓国・北朝鮮、ロシアである。
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 2020年11月号 正論「『文化防衛論』を今こそ読み返せ
 富岡幸一郎
 三島由紀夫没後50年を経て、筆者が改めて痛恨の思いに駆られるのは、この半世紀に及ぶ時間が日本の国の衰亡の歴史そのものであったことである。
 自決の年、すなわち昭和45(1970)年の夏に、三島は『私の中の25年』という文章を発表し、その最後を次のように結んだ。
 《私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら、『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、空っぽの、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目ない、或い経済的大国が極東の一角に残るであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである》(『サンケイ新聞』昭和45年7月7日)
 平成の30年間とは、『或る経済的大国』もふくめた『日本』が『なくなって』いく時間であったといっても過言ではない。『日本を取り戻す』といって7年8ヵ月という憲政史最も長期にわたって宰相を務めた政治家は、ナショナリストである以上にグローバリストであった。
 平成14(2002)年に52歳で急逝(きゅうせい)した政治学者の坂本多加雄は、21世紀に入ってすぐに、日本が新たな『国家論』を必要としていることを力説した。『グローバル化が進み、国境を超えたボーダレスな物や金が動き、国民国家の時代をもう終わりつつある、などというには全くの幻想だ』といったのである。そして、日本は『古代の時代、それから明治維新に続く第三の、対外的な意味での国家の形成期を迎えているのではないかと考えている』(『「政策」の前に「国家」を再考すべき』『坂本多加雄選集2』所収 平成17年)とはっきりと説いたのである。これは13年3月の衆議院憲法調査会の報告であったが、この言葉に真剣に耳を傾けた政治家はどれほどいたのだろうか。
 グローバリズムの負の部分は、新型コロナウイルスの世界的拡大とパンデミックによって突きつけられたが、それ以前に日本はアメリカを軸とするグローバルな金融経済に翻弄されるなかで、新たな『国家』形成をなすこともなく漂流し続けてきた。
 内に目を向ければ、昨年、5月1日に平成の天皇生前退位(4月30日)を受けられ、皇太子徳仁親王が第126代の天皇に即位された。マスコミはこの御代がわりを大きく報道し、国民は歓迎し、改元の瞬間を新年をむかえるカウントダウンのように楽しみ騒いだ人々もあった。しかし、今回の天皇退位という歴史的な出来事に際し、天皇制そのものについての議論は、ほとんど出てこなかった。昭和天皇のときには天皇制への批判や廃止論は左派の側から当然出ており、保守派の論客・福田恆存は、昭和天皇崩御の直後に刊行された『文藝春秋 特別号「大いなる昭和」』の巻頭論文『象徴天皇の宿命』で、天皇を『象徴』として祀りあげることは『天皇の非人間化』であり、戦後憲法を受け容れたまま天皇を『神格化』することこそ、『国民の心理的頽廃』であると激烈な批判を加えた。上皇が平成の御世を通して『象徴天皇』としての務めを、『国民と苦楽を共にする』というその責務を全身全霊で実行されてきたことは、皇室の歴史に新しい一頁を刻み、多くの国民がこの『象徴』としての天皇を受け容れたのは確かであろう。しかし、平成31年4月30日をもっての譲位は、明治以降の近代天皇の在り方のある意味では根本的な変更であり、天皇をめぐる歴史的な議論がなされなければならなかったはずである。
 しかし、本質的な国家論がないように、天皇論もない。歴史が消えてしまったような、まさに『無機質的な、からっぽの、ニュートラルな、中間色』の『国』に、『或る経済的大国』の自信も失ってなり果てている。そこが今の日本及び日本人なのではないか。
 そう思うとき、三島由紀夫がその生命を賭して訴えたかったものは何なのか、という問いの前に、もう一度立たされる。何よりもその天皇論を読みな直さねばならないと思われる。
 『文化概念としての天皇』とは
 昭和45年11月25日、三島由紀夫は彼の主宰する『楯の会』の会員4名と市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監室に入り、当時の益田兼利総監を人質にして、バルコニーから集合させたおよそ1,000人の自衛隊員に向けて演説をした後、割腹自決した。三島の介錯に関わった『楯の会』の幹部の森田必勝(当時25歳)も続いて自刃し、介錯を受けて斬り落とされたふたりの首は、血の海となった総監室の床の上に並べられた。三島らが訴えたのは、自衛隊が名誉ある国軍となり、アメリカの傭兵である現状から脱却するために憲法改正のために立ちあがれ、ということだった。三島の叫びに自衛官は怒号とヤジをあびせ、耳を貸そうとはしなかった。『七生報国』と書いた日の丸のはち巻きをしめた三島と森田は最後にバルコニーで天皇陛下万歳を叫んだ。
 この市ヶ谷事件の顛末から、三島を復古的な天皇主義者、戦前の右翼的な皇国史観の持ち主との誤解が生まれたが、もちろんそうではない。昭和43年に発表した『文化防衛論』(『中央公論』昭和43年8月号 単行本は44年4月刊)は、三島の天皇論のひとつの集大成であるが、大日本帝国憲法下の天皇論hさ、言論の自由をふくむ文化の多様性を否定する方向へ行き、国家の統治と機構としての『政治概念としての天皇』が支配的になって批判している。とりわけ大正14年の治安維持法普通選挙と抱き合わせで、社会主義無政府主義者運動の徹底的な弾圧を意図した)によって、言論の自由は圧殺され、司法が取り締まる対象として『国体ヲ変革シ又ハ私有財産ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者』とあるように、国体と資本主義のブルジョワ勢力を並列的に規定し同義語とすることで、明治以来の政治的な『天皇制支配機構』は完成したと指摘している。
 もちろん、三島は占領下にアメリカによって作られた日本国憲法下での天皇・皇室の在り方にも批判的であり、『文化防衛論』でも、『・・・俗流官僚や俗流文化人の大正教教養主義の帰結として、大衆社会化に追随せしめられ、いわゆる「週刊誌天皇論」を失墜せしめられたのである』と厳しく批判している。
 それでは、三島が構想した在るべき姿としての『天皇』とは、どのような存在であったのか。それは日本文化を根源において包括しそれを体現するものであり、文化の多様性そのものを映し出す鏡のような存在、すなわち『文化概念といての天皇』であった。三島はまず『日本文化の国民的特色』を次のように明確に述べている。
 《・・・文化は、ものとしての帰結を持つにしても、その生きた態様(たいよう)においては、ものではなく、又、発想以前の無形の国民精神でもなく、一つの形(フォルム)であり、国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体であり、いかに混濁した形ををとろうとも、それがすでに『形』において魂を透かす程度の透明度を得てものであると考えられ、従って、いわゆる芸術作品のみでなく、行動及び行動様式をも包括する。文化とは、能の一つの型から、月明の夜ニューギニア海上に浮上した人間魚雷から日本刀をふりかざして躍り出て戦死した一海軍士官の行動をも包括し、又、特攻隊の幾多の遺書をも包括する。源氏物語から現代小説まで、万葉集から前衛短歌まで、中尊寺の仏像から現代彫刻まで、華道、茶道から、剣道、柔道まで、のみならず、歌舞伎からヤクザのチャンバラ映画まで、禅から軍隊の作法まで、すべて『菊と刀』の双方を包摂(ほうせつ)する、日本的なものの透かし見られるフォルムを斥(さ)す。文学は、日本語において、フォルムとしての日本文化を形成する重要な部分である》
 文化とはつまり博物館の文化財ではなく、人の行動様式もふくむところダイナミックな多様態であり、それが『形』となって顕われるものである。このような日本文化の最大の特色は、『オリジナルとコピーの間の決定的な価値の落差が生じない』ところにある。その端的な例が伊勢神宮式年遷宮である。持統天皇以来、20年に1度、天照大神を祀る皇大神宮(内宮)と、衣・食・住の神である豊受大神(外宮)をはじめ各社を建て替えることであり、神宝・調度品も新調される。これがおよそ1300年の間続けられてきた。
 それはまさにフォルムの継承であり、造営によって匠は伝承され、その都度『オリジナルはその時点においてコピーにオリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになる』という、西洋文化にはない日本文化の独自性がここに現前している。これはまさに、『各代の天皇が、正に天皇その方であって、天照大神とオリジナルとコピーの関係にはないところの天皇制の特質』にそのまま重なる。
 この国の歴史を貫く天皇という存在は、このように日本文化の特色と国民精神の継承を反映するものであり、日本の多様な『文化』の包括者であり、まさに『窮極(きゅうきょく)の価値』として在り続けてきた。むろん、歴史上天皇は政治にも関わり、時に戦乱の中心にもあったが、それは政治権力や統治機構をこえた祭政一致の超越性を同時に持ち続けてきたのであり、それこそが三島が考えた『文化概念としての天皇』の真姿であった。
 源氏物語や和歌に代表される日本文化の『雅』の世界は、ただ手弱女(たおやめ)ぶりだけではなく、益荒男(ますらお)ぶりをも内包し、文化概念としての天皇制は、政治的無秩序さえも容認する。
 《『みやび』は、宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであったが、非常の時には、『みやび』はテロリズムの形態さえとった。すなわち、文化概念としての天皇は、国家権力と秩序の側だけにあるのみではなく、無秩序の側にも手をさしのべていたのである。もし国家権力や秩序が、国と民族を分断の状態に置いているときには、『国と民族との非分離』を回復せしめようとする変革の理由として、文化概念たる天皇が作用した。孝明天皇の大御心に応えて起った桜田門の変の義士たちは、『一筋のみやび』を実行したのであって、天皇のために蹶起(けっき)は、文化様式に背反(はいはん)せぬ限り、容認されるべきであったが、西欧的立憲君主政体に固執した昭和の天皇制は、2・26事件の『みやび』を理解する力を喪(うしな)っていた》
 三島の天皇論の核心は、近代化が西洋化であった明治以降の近代天皇制(それは『天皇』神聖でありながら、西洋的な立憲君主制をとることになった)をはるかにさかのぼり、『古事記』のヤマトタケルの伝説・神話のなかに天皇の『神人』的性格をさぐり求め、あるいは近代以前の天皇像に立ち戻り、歴史の中に『在るべき天皇』を見出そうとしているところにある。
 上皇の『おことば』の衝撃
 この三島の『文化概念としての天皇』は、決して一人の天才的な文学者の独創でも夢想でもなかった。それは上皇の平成28年8月8日の『おことば』を、今日改めて深く読み直すとき、驚きをもって現在的であることがわかる。8月8日の上皇のメッセージが決定的に重要かつ衝撃的なのは、次のことである。
 《天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことは、無理があると思われます》
 天皇の『象徴としての行為』たる『公務の縮小』はありえないということである。それは象徴天皇の在り方を、憲法皇室典範だけでなく、近代以前の歴代天皇嵯峨天皇後奈良天皇など)の『伝統的に国民と苦楽を共にするという精神的立場』(昭和61年5月の皇太子時代の言葉)に相通ずるものとして実践してこられた平成の天皇の明確な決意であった。このことは、『おことば』のなかで摂政を置くことへの疑義(ぎぎ)につながる。
 《また、天皇が未成年であったり、重病などによってその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません》
 大正天皇の時代、昭和天皇が皇太子裕仁親王として大正10年に摂政に就任したのは、帝国憲法下における天皇の政治的支配機構からすれば当然のことであったが、上皇は皇太子時代からそうして天皇となって以来、常にその地位にあって『国民と苦楽を共にする』ことを責務とされてきた。災害の被災者たちへの度重なる真摯な慰問、昭和天皇から受け継いだ戦争犠牲者の霊を慰める旅は、沖縄・硫黄島サイパン島そしてパラオペリリュー島にまで及んだのは記憶に新しい。平成の天皇が、全身全霊をもって実践されたのは、したがって『政治概念としての天皇』ではなく、三島由紀夫のいうまさに『文化の全体の統治者としての天皇』である。『おことば』は、次のように締めくくられている。
 《・・・憲法のもと、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話し致しました》
 『象徴天皇の務め』は、むしろ『我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返る』ときにこそ、祈念と行動として顕われてくる。上皇の譲位は、この国の天皇の歴史の時空のうちに『天皇』の在り方を探り求めた、そのひとつの帰結であったといってよい。
 同時に、その判断は、明治憲法下の『政治概念としての天皇』と『現人神』信仰を結びつけた近代的な国体概念の最終的な乗り越えであり、さらに占領憲法の『象徴』という甚だ曖昧な言葉を、皇統の歴史のなかで捉え直し、この一語に皇室の伝統精神を注入したといえるのではないだろうか。平成の30年間、国として衰亡しつつあるなかで、上皇上皇后による皇統の伝統を現代へと継承せんとする飽くなき努力があった。もし三島が、今回の天皇の譲位を目の当たりにしていたら、何と語るだろうか。
 『菊と刀』を根源とする天皇
 『文化防衛論』の最後で、しかし三島は天皇の在り方をえぐるきわめて重大な問いを突きつけている。それは『文化概念としての天皇』とは、『菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源としての天皇』でなければならないとの主張である。すなわち占領政策によって『菊と刀』、天皇と軍隊の連環を断ち切った。(文化本来の持つ『益荒男』ぶりの獰猛性や暴力性を抜いて、完全で人間主義的で無害な『プラザの噴水の如き』文化主義と化した、と三島はいう)ことによって、文化概念としての天皇の本質的な包括性が失われるのであれば、それを取り戻さなければならないということだ。そこで三島は次のような提言をしていた。
 《菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源が天皇なのであるから、軍事上の栄誉も亦、文化概念としての天皇から与えられなければならない。現憲法下法理的にも可能な方法だと思われるが、天皇に栄誉大権の実質を回復し、軍の儀仗(ぎじょう)を受けられるのはもちろん、聯隊旗も直接下賜されねばならない》
 日本国憲法第7条『天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ』とあり、その七項に『栄誉を授与すること』とあることから、三島は『天皇は栄誉大権の実質を回復し』と記している。しかし天皇自衛隊に直接関わることは今日までなく、『栄誉を授与すること』であっても軍事上の事柄に関して天皇が参画することは困難である。ただし東日本大震災直後の、あの3月16日の平成の天皇の異例なビデオメッセージで、危険のなか救援活動を展開する人々の筆頭に『自衛隊』を挙げられたことは記憶されていい。
 ここで半世紀前、三島由紀夫自死をもって訴えた憲法改正──違憲の下に置かれた自衛隊を九条改正によって『建軍の本義』を与えて、国体を守る軍隊となす事──の意義が改めて浮上してくるのだ。解釈改憲をつみかさねてきた自民党政権(安倍政権も結局はそうであった)が続く限り、『菊と刀』の自然な連環を回復することはできない。三島の主張する改憲論は、いうまでもなく九条の改廃自体が目的なのではない。三島が問うたのは、政治問題でもなく、憲法の条文のことでもなく、戦後の日本人が虚妄の平和のなかで、自分の存在そのものに嘘をつき続けることへの苛烈な批判であった。バルコニーから自衛隊員に自らを否定する憲法をなぜ護ろうとするのか、と問いかけた三島は、何よりも〈言葉〉が真実を裏切ることを、そのことを尖鋭化したのであった。
 独立国家として日本が本然の姿を取り戻し、この国の歴史と文化の体現者たる天皇を、『文化概念としての天皇』を、『在るべき天皇』から、ここに『在る』ものとすることである。半世紀以上の前に著された『文化防衛論』を、今こそ読み返さねばならない所以(ゆえん)である。」
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 政治権力や宗教権威に媚び諂う半島系渡来人は、天皇や皇族を殺した。
 蘇我馬子の思惑を真に受けた渡来人は、蘇我馬子への忠誠心から天皇の神性を怖れず崇峻天皇を暗殺した。
 縄文人の血を引く生粋の日本民族日本人であれば、天皇に危害を加える、玉体に傷付ける、ましてや殺して命を奪う事などはできない。
 現代日本から、縄文人の血を引く生粋の日本民族日本人が消え始めている。
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 現代日本には、天皇制度を廃絶し天皇家・皇室を消滅させようと企む左翼・左派・ネットサハ、反天皇反日的日本人達が存在する。
 彼らは、総じて高学歴出身知的エリートに多く存在する。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、昔の日本とは違って天皇家・皇室を必要としなくなっている。
 その傾向は、外国人移民(主に中国人移民)が増える事で天皇不要論は強くなっていく。
 人口激減する日本は、人口回復策として外国人移民促進計画を採用する。
 天皇家・皇室を護るのは、日本民族日本人と帰化人であって、外国系日本国民日本人(渡来人)ではない。
 半島系渡来人は、天皇に対して叛乱を起こしていた。
   ・   ・   ・   
 日本民族の伝統・文化・宗教・日本国語そして歴史の中心にあるのが、神の裔にして祭祀王である天皇である。
 天皇の正統性とは、日本民族心神話・高天原神話・天孫降臨神話における最高神である女性神天照大神の血を引く直系の男系父系子孫である。
 天皇に即位できるのは、天照大神の子孫で、特殊な血筋・血統と特別な家系・皇統を根拠とする万世一系の男系父系の皇族だけである。
 よって、天皇の正統性は憲法・法律の正当性の外に存在する。
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 日本民族の伝統・文化・宗教・日本国語・歴史は、如何なる憲法・法律に拘束されないし影響も受けない。
 日本民族の伝統・文化・宗教・日本国語は、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌に根を張り栄養を得て華を咲かせ、空気の中に1/fゆらぎやマイナス・イオンを充たしている。
 日本の花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌は、多発する複合的自然災害、疫病、飢餓の中から生まれてくる。
 花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌は、命を生み出す良神・和魂・御霊である。
 複合的自然災害、疫病、飢餓は、命を奪う悪神・荒魂・怨霊である。
 「生」の良神・和魂・御霊に感謝し「死」の悪神・荒魂・怨霊を鎮める祀りは、私心なき清明心を持つ最高位の祭祀王である天皇だけが行える神聖な務めである。
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 神聖な祈りを捧げられるのは、天照大神の血を拠り所とする特殊な血筋・血統と特別な家系・皇統に属する天皇だけである。
 天皇が捧げる民族的祈りは、数万年前の縄文時代にまで遡る。
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 多くの現代日本人は、グローバル基準を基に男女平等・女性差別反対から、天皇の正統性とされる女性神天照大神の血を無価値とし、男系父系から女系母系に変更しようとしている。
 少数の現代日本人は、科学的合理的論理的から、民族神話を否定し、天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を断絶させ、天皇の祈りを消滅させようとしている。
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 日本民族日本人は、中国大陸や朝鮮半島から民族大移動として日本列島を侵略し征服した最強の優秀な民族ではなく、流れ着いた・漂着した・逃げてきた雑多な人種・民族が乱婚を繰り返し混ざり合って生まれた血が汚れた混血(ハーフ)の雑種民族である。
 つまり、日本民族日本人の体内には生まれつき多様性が内包されている。
 日本民族日本人は、アイヌ人や琉球人同様に縄文人の子孫である。
 日本民族日本人・アイヌ人・琉球人は、縄文人の遺伝子(Y染色体)を受け継いでいる。
 縄文人の遺伝子(Y染色体)を正しく受け継いでいるのが、万世一系の男系父系天皇である。
   ・   ・   ・   

🕯175)─1─大乗仏教の日本仏教(江戸仏教)は釈尊の仏教とは違う。富永仲基。〜No.367No.368 ㉞ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
  2020年11月6日・13日号 週刊ポスト「話題の新刊 この人に訊け!
 『天才 富永仲基 独創の町人学者』 釈徹宗著 新潮社
 人々の知見を左右する条件も見すえた『知識社会学の開祖』
 井上章一
 富永仲基は、18世紀の前半を生きた。まことに独創的な、大阪の町人学者である。その学問的ないとなみに、この本はせまろうとする。また、かみくだいて説明するように、つとめている。
 仏教には、さまざまな経典がある。仲基はそれらを読みくらべ、先後関係をさぐりだした。
 ある経典はべつの某経典からこれこれの部分をとりいれ、どこそこをふくらませている。こちらの経典はあちらの経典からしいれた文句を、こんなふうに増幅させていた。そんな分析をつうじ、こう喝破したのである。どの経典も、それぞれの都合で釈尊像をねじまげている。いわゆる大乗仏教は、もう仏教じゃあない、と。
 江戸時代の仏教界は、この説に強くあらがった。こいつは、仏教のことが、まったくわかっていない。仏教を冒瀆(ぼうとく)している・・・。
 この本を書いた釈徹宗は、浄土真宗本願寺派の僧侶である。寺の住職にもなっている。そんな身でありながら仲基の学問を、高く評価する。『現代の眼から見れば、富永仲基の論考は仏教研究にとって実に有意義なものです』、と。
 仲基の傑出ぶりは、多くの人に論じられてきた。だが、現役のお坊さんまで絶賛していることに、私は感銘をうけている。
 キリスト教圏で経典の批判的な分析がはじまったのは、よほど時代が下る。今でも教会関係者は、そういう研究をいやがろう。イスラム圏では、まだたやすくとりかかれまい。なのに、日本ではお坊さんまで、ほめていた。
 仲基の仕事は、人びとの知見を左右する条件にも、およんでいる。時代によって、風土によって、それはどうかわかる。学者のあつまりである学閥も、物の考え方をゆがめることがある。そのからくりも見すえていた。いわゆる知識社会学の、日本的な開祖でもある。
 著者も、そちらの側面をクローズ・アップさせている。仏教批判だけでなく、人文科学の先達としてとらえる度合いが強い。そこは、やはりお坊さんの書きぶりかなと、にんまりさせられた。」
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 明治初めに起きた廃仏毀釈の原因は、江戸時代の庶民の中に芽ばえていた。
 日本の精神風土では、宗教や哲学・思想・主義主張などにおける絶対真理・絶対価値観を相対して、好む所のみをつまみ上げ好まない所は全て捨てた。
 その結果、仏教は残りキリスト教は消えた。
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 日本民族日本人は、真理や価値観において、個性の強い確定解釈よりる個性が弱く曖昧でいろんな解釈ができる意訳を好む。
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 日本には、武士=儒教の政治権力、僧侶=仏教の宗教権威、皇室=公家の天皇の御威光・宮中祭祀の三の力が存在していた。
 政治権力の徳川幕府は、諸宗寺院法度で仏教の宗教権威を、諸社禰宜神主法度で神社神道を、禁中並公家諸法度で公家の天皇の御威光・宮中祭祀を、強権を持って監視・監督下に置いた。
 そして、絶対神の福音で地上の全てを破壊するキリスト教を禁教とし、絶対神の愛の信仰で世俗の情を拒絶するキリシタンを弾圧した。
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 富永 仲基(とみなが なかもと、正徳5年(1715年) - 延享3年8月28日(1746年10月12日)は、江戸時代大坂の町人学者、思想史家。懐徳堂の学風である合理主義・無鬼神論の立場に立ち、儒教・仏教・神道を批判した。彼の学問は、思想の展開と歴史・言語・民俗との関連に注目した独創的なものといわれている。
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 富永仲基(読み)とみながなかもと
 1715―1746富永仲基 とみなが-なかもと
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 [生]正徳5(1715).大坂
 [没]延享3(1746).8.28. 大坂
 江戸時代中期の思想家。父は懐徳堂創立者の一人,道明寺屋吉左衛門。幼名は幾三郎,三郎兵衛,のち徳基,さらに仲基。字は仲子,子仲。号は南関,藍関,謙斎。 10歳のとき懐徳堂に入り,三宅石庵から陽明学を学んだ。 15歳頃『説蔽』を著わして儒学を批判し,石庵に破門されたという。その後田中桐江について詩文を学び,また家を出て黄檗大蔵経の校合に従った。元文3 (1738) 年中国思想を研究した『翁の文』 (46) を著わした。また延享1 (44) 年仏典の比較研究を行なった『出定後語』 (2巻,45) を著わし,仏教界から激しい攻撃を受けたが,他方では猪飼敬所,本居宣長平田篤胤らから推称された。ほかに『律略』『諸子解』『日本春秋』『長語』『短語』『尚書考』『大学考』『論語考』の著がある。
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 考える人 > 本の試し読み一覧 > 釈徹宗『天才 富永仲基 独創の町人学者』試し読み > 序 早すぎた天才
 2020年9月17日
 釈徹宗『天才 富永仲基 独創の町人学者』試し読み
 序 早すぎた天才
 著者: 釈徹宗
 「富永とみなが仲基なかもと」と聞いて、「ああ、あの人か」とすぐにピンと来る人はそう多くないでしょう。富永仲基は、江戸中期の大坂に生きた町人学者で、世界に先駆けて仏典を実証的に解読。「大乗仏教は釈迦の直説に非ず」という「大乗非仏説論」で知られ、本居宣長平田篤胤といった国学者内藤湖南山本七平といった歴史家にも絶賛されています。その反面、仏教界では長く敵視されていた時代もありました。それもそのはず、日本仏教の大勢を占める大乗仏教を「釈迦の直説に非ず」と喝破したわけですから――。
 その〝知られざる天才〟に、「大乗仏教の申し子」浄土真宗の僧侶にして宗教学者釈徹宗さんがチャレンジングに迫るのが『天才 富永仲基 独創の町人学者』です。仲基の功績や評価、独創性についてまとめたその序文「早すぎた天才」を掲載します。
 天才の条件
 富永とみなが仲基なかもとは天才である──。
 それを最初に言ったのは内藤湖こ南なんでしょう。内藤は仲基のことを「日本が生み出した第一流の天才」と評しました。
 内藤湖南は、漢学・儒学の流れを汲む東洋史研究者です。埋もれていた典籍を発掘・研究した人としても知られています。
 大正14(1925)年、内藤は「大阪の町人学者富永仲基」という講演において、仲基を稀代の天才であると紹介し、仲基の研究がどれほどすごいものであるかを述べています。この講演は、大阪毎日新聞が15000号を発行した記念に行われたものでした。今日にも伝わる名講演であり、富永仲基を大いに顕彰する内容となっています。内藤はすでに明治中頃から富永仲基についての文章を何度か発表しており、歴史に埋没しそうになっていたひとりの町人学者へ光をあてることに成功したと言えるでしょう。
 内藤湖南だけではありません。
 東洋史学者の石濱純太郎、評論家の山本七平しちへい、日本文学者の水田紀久のりひさ、宗教学者姉崎正治、哲学者の井上哲次郎、仏教学者の村上専精せんしょう、インド思想学者の中村元はじめなど、多くの人たちが富永仲基の天才性を高く評価しています。
 天才の条件とは何でしょうか。
 もちろん〝独創性〟を挙げることができるでしょう。そしてそれは〝同時期の人たちには、なかなか理解されない〟ことと表裏の関係となります。誰もがすぐに「それはそうだな」と理解できる内容や思想では、たいした独創性と言えませんから。
 さらに、〝早熟〟ということも加えてよいのではないでしょうか。つまり、多くの人が長年にわたる研鑽・努力で到達する地平へと、早い段階でやすやすと飛躍してしまう。それが天才というものでしょう。
 このような条件で考えるならば、富永仲基はまさに天才の呼称にふさわしい人物です。独創的で、長い間にわたって理解されず、早熟・早逝の人生でした。
 仲基のオリジナリティ
 富永仲基は18世紀を生きた大坂の町人であり、市し井せいの学者です。正徳5(1715)年に生まれ、31年ほどの短い生涯でした。はじめに儒教を学び、独自の手法で仏教経典を解読しました。そこで展開された加上かじょう説は今なお輝きを失っていません。他にも言語論や比較文化論などを駆使したオリジナリティの高い思想で、儒教・仏教・神道を批評しています。
 現在、逝去する約9カ月前に刊行された『出定後語しゅつじょうごご』と、約6カ月前に刊行された『翁おきなの文ふみ』、そして『楽律考がくりつこう』という未刊行の書の清書本が現存しています。
 それらの著作によってわかるのは、仲基のオリジナリティあふれる方法論や思想です。詳しくは後述しますが、次の五つを押さえておいてください。
 1. 「加上」
 思想や主張は、それに先行して成立していた思想や主張を足がかりにして、さらに先行思想を超克しようとする。その際には、新たな要素が付加される。それが仲基の加上説です。つまり、そこにはなんらかの上書き・加工・改変・バージョンアップがなされているとするのです。
 2.「異い部ぶ名字みょうじ難なん必ひつ和わ会かい(異部の名字は必ずしも和会し難がたし)」
 同じ系統の思想や信仰であっても、学派が異なると用語の意味や使い方に相違が生じ、所説も変わる、そのつじつまを無理に合わせようとすると論理に歪みが生じる、とする立場です。
 3.「三物五類」
 言語や思想の変遷に関するいくつかの原則です。三物とは、(1)言に人あり、(2)言に世あり、(3)言に類ありの三つを指します。(1)は学派によって相違するということ。(2)は時代によって相違するということ。(3)は言語の相違転用のパターンを五つに分類したもので、〝張〟〝泛はん〟〝磯き〟〝反〟〝転〟を挙げています。これが「五類」です。
 4.「国有俗(国に俗あり)」
 思想や信仰には文化風土や国民性が背景にあることを指摘したものです。仲基は「くせ」とも表現しています。言葉には三物五類の諸条件があって、思想や教えが分かれる。さらに、国ごとに民俗・文化・風土の傾向があって、そのために説かれる思想・教えが異なっていく、ということです。
 5.「誠の道」
 どの文化圏や宗教においても共有されているもので、人がなすべき善を実践していく道を指します。「道の道」とも表現しており、〝人が道として歩むべき真実の道〟だと仲基は考えました。
 1から4は、いずれも現代の人文学研究において前提となるべき態度であると言えるでしょう。しかし、十八世紀の日本に、このような方法論を独自に構築していた人物がいたのです。
 大乗非仏説論
 さて、富永仲基と言えば「大乗非仏説論」の先駆者として知られています。「大乗非仏説論」とは、大乗仏教の経典は釈迦が説いた教えではないとする説です。江戸時代の半ばにおいて、仏教の思想体系を根底から揺さぶる立論を、世界に先駆けて世に出した人物が富永仲基です。しかも、それを独力で成し遂げたのですから、内藤湖南をはじめ、数多くの人たちが〝天才〟と評するのも無理はありません。
 実は大乗仏教が釈迦の説いた教えではないという議論は、インドでも古くから論じられてきたことです。本文中でも触れていますが、たとえば紀元4~5世紀において、無む着じゃくと世せ親しんが『大乗だいじょう荘しょう厳ごん経きょう論ろん』でこの問題に応答しています。
 ただ、仏典を思想史的に解明するという方法論をとったのは、やはり富永仲基が世界で初めてだと言えます。
 仲基が蒔いた種は、その後、国学者たちの仏教批判を生み出し、近代における大乗非仏説論争の源流となりました。哲学者の井上円了えんりょうや宗教学者姉崎正治真宗僧侶の村上専精らによる近代知性と仏教学の展開によって、大乗非仏説問題は今日においてもしばしば俎上に載せられています。そして、今日の議論を通して考察しても、仲基の立論は色あせるものではありません。仲基の眼力がいかにすごかったかがわかります。
 仲基は加上説によって、「阿あ含ごん」→「般若はんにゃ」→「法華ほっけ」→「華け厳ごん」→「大集だいじつ・涅ね槃はん」→「頓とん部ぶ楞りょう伽が」→「秘ひ密みつ曼まん陀だ羅ら」といった仏教思想の展開を推論しました。
 簡単に説明すると、最初は釈迦の直説じきせつ(直接説いた教え)から始まったものが、文字化されずに口伝だったので、いろいろ加上や分派があって、阿含経典群が成立。そこから空くうを主張する般若経典や『法華経』(今で言うところの初期大乗経典群)、そして『大集経』や『涅槃経』(中期大乗経典群)や『楞伽経』(禅宗を指します)、最終的に密教経典群(後期大乗経典)が生まれたと考えたのです。これは、おおよそ現代の研究結果と符合しています。
 他にも、「大乗仏典にも異なる系統がある」といった慧眼や、宗教聖典の権威性に足をすくわれることなく読みこんでいく姿勢や、荒唐無稽な話を単に揶揄するのではなく文化という側面からアプローチするところなど、注目すべき点はいくつもあります。
 近代になって再発見
 仲基を天才と評した内藤湖南は、彼の方法論に注目しました。
 学問上の研究方法に論理的基礎を置いたということが既に日本人の頭としては非常にえらいことであります。その外に宗教・道徳に国民性の区別があり、時代相の区別があると、あらゆる点に注目して居ります。これが我々の非常に尊敬する所以ゆえんであって、恐らく日本が生み出した第一流の天才の一人であると言っても差支さしつかえないと思うのであります。(講演「大阪の町人学者富永仲基」)
 確かに仲基は、西洋近代の学術方法論を学んだわけでもないのに、独自の工夫で同様の方法論を編み出したのですから驚嘆すべきことでしょう。
 このことは、その後、湖南門下の東洋学者で重視されるようになります。たとえば武内義雄支那学研究法』(岩波書店、1949年)では、仲基の「加上」法運用がいかに効果的であるかが語られています。
 他に東洋史学者の石濱純太郎は、仲基の伝記を書き、仲基はすべてから解放された独創性をもつと絶賛しています。
 あるいは、評論家・山本七平は「現代の日本で、仲基の思想を根本から否定する日本人はおそらくいないであろう」(『日本人とは何か。』下巻、PHP文庫、1992年)として、仲基の自由な思想展開を讃えています。
 宗教学者姉崎正治は26歳の時、『仏教聖典史論』(1899年)において、仲基の仏典批判とクリスチャン・パウルの聖書批判とを東西宗教書批判の二大先駆書として、「此の如き数千年の葛藤中に処し、特に歴史的感覚に乏しき東洋に出で、明朗なる判断、鋭利なる批判力を具そなえて、之これに兼ねるに該博の学識を以もってし、仏典に歴史的批評を与えたる富永仲基氏の如きは、詢まことに泥中の蓮たらずんばあらず」と評しています。
 哲学者の井上哲次郎も『日本陽明学派之哲学』(1900年)で、『出定後語』を「仏書の批評として頗すこぶる注意すべきもの」と述べています。
 そして仏教学者・村上専精は『大乗仏説論批判』(1903年)の「第三章 近世日本に於ける大乗仏説論」において「富永仲基氏の大乗仏説論」を論じています。
 他にも数多くの人々が仲基に注目しており、ここではとても書ききれません。
 著作を概観する
 仲基の魅力を知るには、どうしてもその著作を読まねばなりません。中でも主著である『出定後語』を読むことが必要でしょう。しかし、上下2巻の分量があり、けっこう難解なのです。たとえば、江戸時代の学僧や国学者の多くは、単なる仏教批判書として扱ってしまいました。しかも、かなりの誤読を含んでいます。『出定後語』は、今日の仏教学の研究結果を踏まえなければ、誤読する可能性は高いと思います。
 本書では、かなり抄訳・意訳することで、特別な知識なしでも読めるように、できる限り工夫しています。
 さらに、死の半年前に上梓した『翁の文』で語られた「誠の道」「道の道」とは何なのか。これについても『翁の文』を概観することで考えてみたいと思います。なにしろこの「誠の道」については、これまで多くの論者が酷評してきた部分なのです。
 また、『楽律考』の内容も紹介します。これまであまり知られていない仲基の一面を知ることができると思います。
 それでは、ご一緒に富永仲基の思想をひもといてみましょう。
 (つづきは本書でお楽しみください)
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天才 富永仲基 独創の町人学者 (新潮新書)

✨51)─3─三島由紀夫「果たしていない約束」。〜No.209 ㊸ 

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 昭和45(1970)年7月7日 サンケイ新聞夕刊「果たしていない約束
 三島由紀夫
 私の中の25年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。『生きた』とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
 25年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルスである。
 この偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。
 ……
 それよりも気にかかるのは、私が果たして『約束』を果たして来たか、ということである。否定により、批判により、私は何かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果たすわけではないが、政治家の与えうるよりも、もっと大きな、もっともっと重要な約束を、私はまだ果たしていないという思いに日夜責められるのである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、という考えが時折頭をかすめる。これも『男の意地』であろうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代25年間、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たということは、私の久しい心の傷になっている。
 ……
 25年間に希望を一つ一つ失って、みはや行き着く先が見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大(ぼうだい)であったかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。
 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかと感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」
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