🎑)5)─1─マッカーサーは日本人の曖昧な微笑みが冷笑に見えて嫌悪した。~No.6No.7 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本の笑いの原点は、天岩戸神話における、太陽の日差しを失った深刻な状況下で八百万の神々がどんちゃん騒ぎをしながら、皆が演芸を見ながら爆笑した事である。
 神々が、笑い転げて、バカ騒ぎをする事で太陽が姿を表し、世界は光を取り戻し、世は平らかとなり、静で穏やかな日常が戻った。
 日本の笑いは、西洋や中華(中国・朝鮮)のような高度な知識と教養で創作されるユーモア、ジョーク、エスプリとは違ってレベルが低い。
 日本の笑いは、下級な神々による低俗な滑稽である。
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 現代日本では、男は人前で声を出して笑う事は軽薄に見えるとして嫌われている。
 男は、人前では笑わずしかめっ面でいる事がよいとされた。
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 2020年10月29日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 笑みが消えた
 明治初期、富士の美しさを世界に紹介した英人ウイリアム・ディクソンは日本人もこう紹介している。」
 『西欧の日常にある心労に拉(ひし)がれた顔はまったく見られず、誰もが微笑み、世の中に悲哀など存在しないかのように思える』と。
 仏人画家フェリクス・レガメも『日本人の微笑みはすべて礼儀の基本で、それがどんなに耐え難く哀しい状況でも消えることはなかった』と書いている。
 エドワード・モースは横浜の大火の折にレガメの言う微笑みを目撃した。『涙や苛立ちは見なかった。人々は祭礼があるかのように微笑みを浮かべ、再建に取り掛かっていた』
 英詩人エドウィン・アーノルドは『日本の風景は優美で、人々は神のように優しく魅力的で礼儀正しい』と詠った。
 明治22年に日本を訪れたラドヤード・キプリングも同じことに感嘆し、ただそれがいつまで壊れずに続くのかを心配した。
 米国人も似たようなことを言った。日本を脅して乗り込んできたタウンゼント・ハリス『日本は新しい時代を迎える。敢えて問う。それが日本にとって真の幸福となるだろうか』と憂いを口にした。
 しかし、この商人上がりの外交官は食わせ物だった。
 彼は幕府との交渉で通貨レートを『1ドル銀貨1枚と1分銀3枚を等価』とさせた。ただハリスは金銀交換比率には敢えて言及しなかった。
 結果、銀貨4枚で小判3枚という嘘みたいなレートで金を得る裏道ができた。
 米国はこれで数十万両を手に入れ、リンカーン南北戦争の戦費をほとんど賄えた。
 ハリスももちろんぼろ儲けした。
 キプリングはそれを知って『いずれ日本は米国の属領にされ、ボタンや鉤(かぎ)ホックお作る工場にされるだろう』(『キプリングの日本発見』)と予見した。
 実際、米国人は日本を理解する気もなかった。ラフカディオ・ハーンですら通夜で笑む遺族を『不可解』と言い切っている。
 米国にとって日本はカモでしかなく、あとは不可解で一括りにした。
 だから日本が強国ロシアに勝つとセオドア・ルーズベルトは日露仲介を装って日本に1ルーブルの賠償金も与えないように仕切った。
 唯一、与えた満州の権益もフーバーが無効にし、フランクリン・ルーズベルトは米経済立て直しのために対日戦争を始めた。
 昭和20年8月30日、日本に進駐した米軍兵士は日本人の対応に戸惑った。
 日本人は原爆を落とした彼らにもレガメの言う『すべての礼儀の基本』の温かい微笑みで迎えた。
 マッカーサーは教養がなかった。レガメとミドリガメの区別もつかなかった。
 彼は逃亡黒人奴隷のようにひたすら怯え切った日本人を予想していた。
 それで勝者の快感を味わうつもりだったのに彼らは微笑んでいた。
 なぜ笑う。マッカーサーはフィリピンで日本軍に追われ、屈辱の敵前逃亡を強いられた。
 一瞬、卑怯な彼らを冷笑しているのかと思った。
 あるいはGHQ憲法に賛意を示した東大の宮沢俊義のように強者に媚びる卑屈な笑いなのかとも思った。
 どっちにせよ不愉快だから『曖昧な笑いをやめさせろ』と指令をだした。
 指令を徹底するため日教組を組織させ、学者にそう書かせて教科書に載せた。
 麻布小学校で担任の長瀬先生も『曖昧な笑いをやめろ』と教えていた。
 マッカーサーは将来にわたってそれを定着させるため、そんな学者で組織する『学術会議』を置いた。
 『マッカーサーがきて目に見えない革命が起きた』と真顔で胡麻をすった宮沢が最初に選ばれた。
 日本から笑みが消え、顰(しか)め面(つら)が増え、傘を傾けてすれ違う人が消えた。
 隣の子が朝鮮人に攫(さら)われても『憲法九条万歳』と他人ごとに言う。そうなったすべては学術会議のせいだと知ってほしい。」
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 日本人の笑いは、中国人や朝鮮人の微笑みとは違う。
 中国人や朝鮮人の笑い・微笑みは、儒教的上位者意識による下位者を見下す冷笑や嘲笑であった。
 現代日本人の笑いは、中国人や朝鮮人の笑いに近い。
 戦後教育は、笑いは軽薄で馬鹿な証しと子供たちに教え、子供から笑いを奪った。
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 日本人の笑顔とは、多発する複合的自然災害、疫病、大火、戦火などの救いがたい状況の中から哀しみを内に秘めて自然と滲み出る笑顔である。
 日本人の笑いとは、自然の中をそよ風が吹き抜けるような笑いである。
 哀しく辛く苦しいほど、日本人は笑顔を絶やさなかった。
 「耐えて笑い飛ばす」のが日本民族日本人の気質であった。
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 日本民族にとっての笑いとは、生に対しては歓喜であり、死に対しては悲哀である。
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 死とは、生の長短、運不運はあっても避ける事なく訪れた状況の中で「よく頑張って生きた」証しであったが故に、泣き崩れ慟哭して葬るのではなく、「あっぱれな生き様」と褒め笑って送り出す事であった。
 苦しい時ほど笑う、それが日本民族日本人であった。
 それ故に、日本民族日本人は笑って死出に旅立っていた。
 救いのない完全な死であるカミカゼ特攻や万歳突撃には、イスラム原理主義自爆テロのような陰湿で悲惨さはない。
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 リンカーン大統領は、日本から詐欺まがいの手で奪った金貨(小判)を戦費にして南北戦争に勝利した。
 南軍は、イギリスから多額に戦費を調達したが敗北した。
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 世界常識を持った諸外国は、日本が理解できない為に嫌悪し敵意を抱き、日本人を軽蔑し差別した。
 その矛先は、血筋を正統とする万世一系男系天皇に向けられた。
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 世界は幾ら話し合っても分かり合う事はできない。
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 西洋史において、非白人非キリスト教日本民族日本人はアフリカ系黒人同様に白人キリスト教徒の奴隷であった。
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✨3)─1─昭和天皇と貞明皇后。昭和天皇暗殺テロ事件。女性国際戦犯法廷。愛知トリエンナーレ。~No.10  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代の日本人には歴史力がない。
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 軍部が昭和天皇に不服を抱いたのは、昭和天皇貞明皇后の教育方針で育てられたからである。
 貞明皇后は、裕仁皇太子を軍人らしからぬ天皇に育てた。
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 昭和天皇ヒロヒト天皇)の歴史的評価は、日本はおろか諸外国・世界では既に定まっている。
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 昭和天皇に対する暗殺テロ事件。テロリストは不敬罪で死刑。
 大正10(1921)年11月25日 20歳で摂政に就任し(摂政宮)大正天皇の名代として公務をこなし始める。
 大正12(1923)年9月1日 関東大震災
 多数の朝鮮人テロリストは、皇族殺害目的で被災地東京に潜入した。
 12月27日 虎ノ門事件。虎ノ門附近で狙撃されるが命中しなかった。犯人は死刑。
 無政府主義天皇派日本人は、皇族を暗殺しようと狙っていた。
 大正13(1924)年 久邇宮邦彦王第一女子の良子女王(香淳皇后)と御成婚。
 大正15(1926)年12月25日 25歳で第124代天皇に即位する。
 昭和3(1928)年 台中不敬事件。台湾を訪問していた義父・久邇宮邦彦王朝鮮人テロリストの朝鮮人趙明河(チョ・ミンハ)が襲撃したが暗殺に失敗した。犯人は死刑。
 昭和7(1932)年1月8日 桜田門事件(李奉昌大逆事件)。キリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇爆殺失敗事件。犯人は死刑。
 犯人の朝鮮人テロリストは、上海・フランス租界の大韓民国臨時政府(現・韓国の前身)内抗日テロ組織(韓人愛国団)のメンバーであった。
 日本軍は、報復として上海を攻撃した。第1次上海事変
 朝鮮人テロリストは、キリスト教に改宗していた。
 アメリカ・キリスト教会の多くが反天皇反日であった。
 日本人共産主義テロリストも、昭和天皇を殺害しようとつけ狙っていた。
 4月29日 上海天長節昭和天皇誕生日)爆弾テロ事件。犯人は死刑。
 第一次上海事変停戦を妨害するのが目的であった。
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 現天皇家・皇室は、国内外の敵から狙われ、存続が脅かされている。
 それ故に、万世一系の男系父系天皇天皇家・皇室を守るのは中庸の日本民族日本人だけである。
 右翼・右派・ネットウハは関係ない。
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 天皇が激務や重い責務から逃れて退位する時は、天皇が死ぬ時であった。
 昭和天皇が戦争責任を取って退位しなかったのは、当たり前の事であった。
 その道理が現代日本人には理解できない。
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 日本は世界で信用されていないし、日本人は世界で愛されていない。
 天皇家・皇室の男系父系世襲制で女性蔑視だとして、世界から嫌われている。
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 国内外のメディア・報道機関は、天皇・皇族の名誉を傷付け、天皇家・皇室を貶めるような、真実無視で皇室バッシングや皇族スキャンダルを量産して流している。
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 2020年10月25日号 サンデー毎日「皇后の覚悟
 貞明皇后からたどるプリンセスたち 工藤美代子
 第四部 賢母 
 (1) 裕仁親王誕生
 結婚後ほどなくしてお世継ぎを産んだ貞明皇后だったが、手元に置いて我が子を慈しむことはできなかった。だが、母として、皇后として、惜しみない愛情を注いだ。後の昭和天皇となる裕仁親王の養育について見てみよう。
 親の背中を見て、子どもは育つとよく言われる。それは子どもが親そっくりに育つという意味ではない。ましてや、親が理想とする人物になるということでもない。そうではなくて、子どもは親の何気ない言動の積み重ねを日常的に見ながら育つから、成長過程において決定的な影響を受けることが多い。そして、とかく病気がちだった大正天皇の場合、もっぱら子どもたちは母親の背中に人間としてのロールモデルを見いだしていたのではないだろうか。
 明治34(1901)年4月29日に誕生した裕仁親王は、やがて天皇になる運命を担っていた。母親である節子(さだこ)妃が重い責任を感じるのは当然だった。
 同年5月1日付の東京日日新聞には『皇孫降誕を奉祝す』という見出しの記事が載っている。そに一部を抜粋してみたい。
 『皇太子殿下御齢22に達せられて此頃は御健康も一入勝れ給ふと承はるさへ最と喜ばしき折柄なるに今 妃殿下熊羆の瑞夢に應じて親王を挙げさせ給ふ此親王殿下こそ 天皇陛下第一の皇孫に●らせられ行く行くは正しく一天万乗の位に立ち給ふべき御方なれ而かも 皇太子皇太子妃の両殿下はいづれも御齢に富せ給ふをもて今より後●數々の御子達をもうけさせ給ふ(以下略)』
 この記事の意味は明らかだ。もともと病弱だった皇太子は22歳(満21歳)になったのは喜ばしい。妃殿下は子宝に恵まれ男の子を産んでくれた。この赤ちゃんこそ明治天皇の初めての皇孫であり、一天万乗の位を継いで、ゆくゆくは天皇になるお方だ。しかも、皇太子夫妻はまだお年が若いから、これからもっと何人もの子どもをもうけてくれるに違いない、という内容である。
 現代だったら、ここまで断定的な書き方をするのは難しいかもしれない。健康状態は個人情報であり、触れるのは微妙だ。また、皇位継承者1位の初めての子どもが男児だからといって、必ずしも天皇になるとは限らない。さらに、皇太子夫妻はまだ若いから次々と子どもを産んでほしいというのでは、まるで女性が子どもを産む機械とでも思っているようだ。それでは皇太子妃の人権はどうなるのかと、世間の激しい批判を浴びかねない。
 しかし、明治34年とは、まだお世継ぎを求めることが妃殿下の人権侵害にはならない時代だったのである。16歳で皇孫を産んだ節子妃の達成感も大きかったろう。
 迪宮(みちのみや)裕仁親王は、生まれた時の身長が1尺6寸8分(約51センチ)、体重は800匁(約3,000グラム)だった。当時としては普通か、やや大きい赤ちゃんである。きわめて安産であり、節子妃は午後7時ごろ御産所に入り、午後10時10分には元気の良い産声が響いた。
 自分の手で育てることの不安
 それから現在まで、昭和天皇の生涯については実に多くの書物が刊行されている。史実を綿密に検証したものとしては、小田部雄次昭和天皇実録評解』『昭和天皇実録評解2』の2冊がきわめて重要で信頼の置ける資料と言えよう。これは平成26(2014)年に宮内庁が公開した『昭和天皇実録』を筆者が丹念に精査し、懇切に評解したものである。同書に依拠(いきょ)しつつ、昭和天皇の幼少期について述べてきたい。
 生まれる前から、裕仁親王の養育担当者は海軍中将で枢密顧問官の川村純義伯爵に決まっていた。皇孫の養育にあたり、川村は次のような所信を表明している。『心身共に健全なる発育』『物を恐れず人を尊むの性情を御幼時より啓発』『難事に耐ゆる習慣を養成』『御幼時より英仏其他(そのた)重要なる外国語の御修得御練習』などだった。川村家での養育は明治37(1904)年8月12日に純義が67歳で亡くなった後も、同年の11月9日まで続けられた。
 後年になって、語り草となったのは、生後2ヵ月余りで、川村のような謹厳実直で、しかも温厚な人物が養育にあたったからこそ、昭和天皇は一点の私心もない玉のような性格になったという評価があった。だが、その一方で他家に預ける風習を苦々しく見ていた人がいたのも事実である。
 明治34年9月16日に裕仁親王を拝診したエルヴィン・フォン・ベルツは、日記に自分の思いを記した。
 『5時、川村伯のところへ。この70歳にもなろうという老提督が、東宮の皇子をお預かりしている。なんと奇妙な話だろう!このような幼い皇子を両親から引離して、他人の手に託するという、不自然で残酷な風習は、もう廃止されるものと期待していた。だめ!お気の毒な東宮妃は、定めし泣きの涙で赤ちゃんを手離されたことだろう』(『昭和天皇実録評解』)
 実際には、ベルツが思うほど奇妙な話ではなく、日本の皇族、華族やヨーロッパの王室にもあった風習だった。母として節子妃が悲しみを感じなかったとは思えないが、それ以上に自分の手だけで育てることには不安があったのではないだろうか。嘉仁(よしひと)皇太子は病弱であり、『難事に耐ゆる習慣』などを養育できるかどうかわからない。自身も4歳までは実家を離れ高円寺の農家に預けられた経験を、節子妃は忌まわしいものとはとれていなかった。
 明治35(1902)年6月25日には次男の淳宮(あつのみや。後の秩父宮)雍仁(やすひと)親王が生まれた。やはり川村邸に預けられることとなった。2人一緒に青山離宮内御座所の皇孫仮御殿に移ったのは、裕仁親王が4歳になろうという時期だった。
 この頃には、すでに未来の天皇の資質の片鱗(へんりん)が見えていたようだ。長與善郎が書いた『自分のうけた印象』(著者代表・安倍能成天皇の印象』昭和24年刊)にはビビッドな観察が示されている。
 日露戦争の最中、長與は母と妹と共に迪宮、淳宮兄弟に会える機会があった。場所は神奈川県の箱根宮ノ下、富士屋ホテルの別館。長與は中学生だったという。
 『濃く太く秀でた御眉宇の間に、何となく一抹の暗鬱(グルーミー)な翳が漂ひ、それが實に日本皇室特有の御風丰(ごふうぼう)となつてゐる』
 『御幼少ながら、子供らしい呑氣さとか、軽佻な位の朗かさとか、がむしゃらさといったものとは、對蹠(たいしょ)的に緣の遠い、どこかお内氣なといふ程の荘重な威が既に具(そな)はつていらつしゃる』
 長與は一見しただけで未来の天皇の人柄に対して、信頼や愛着の気持ちが湧くのだが、同時に『このお方の御運命はどうも明るく、御幸運なものらしくない』
 とも感じている。これは昭和20(1945)年の敗戦から程ない時期に書いた文章だからかもしれない。
 しかし、川村が全身全霊を込めた養育が、功を成したのは間違いなかったようだ。裕仁親王の保母だつた足立タカ(後の鈴木貫太郎夫人)によると、『川村さんは皇孫さんを度を越して立派な御方にお育てしたいというので非常に苦心をされた』(鶴見俊輔、中川六平編『天皇百話・上の巻』)とのことである。
 国家元首としては心もとない
 皇孫仮御殿に移ってからも、自由奔放な弟宮に比べると、裕仁親王は抑制の利いた思いやりのある子どもだったらしい。
 『幼少時代の裕仁が、以後も女系の曾祖母である中山慶子、祖母である柳原愛子と親しく頻繁に接していたことが、「実録」の随所に描かれている』(『昭和天皇実録評解』)とあって、親族からの愛情もたっぷりと注がれていた様子がわかる。
 立場上、そうしばしば会えなかったが明治天皇が皇孫を可愛がることは有名で、玩具などもわざわざ外国に注文していた。厳しい明治大帝の前に出ると、たいがいの人が緊張して小さくなってしまうのだが、裕仁親王だけは平気で、『おじじさまこれ拝見』などと置物を手にして言ったという(『天皇百話・上の巻』)。
 淳宮、光宮({てるのみや}後の高松宮宣仁{のぶひと})と弟も増えて、節子妃のピアノに合わせて子どもたちが歌を歌い、嘉仁皇太子も加わる情景は、まさに幸せを絵にかいたような家庭だった。
 明治45(1912)年、裕仁親王明治天皇崩御により11歳で皇太子となる。そして、陸軍歩兵少尉、海運少尉に任官した。これは当時の皇族身位令で満10歳に達したら陸軍及び海軍の武官になることが義務づけられていたためだった。
 動物や植物に興味を示し、理科や歴史は好んだが、小説類には関心を示さなかったと『昭和天皇実録評解』にはある。どちらかというと理系で、情緒にあまり偏りのない青年に育ってゆく様子が読み取れる。
 皇太子となってからは弟たちと離れて東宮仮御所に住むようになったが、卓上電話が設置され、毎夕10分ほど弟たちと会話をした。これは現代ならパソコンでメールができるようになったのと同じほど画期的なことだったかもしれない。その2ヵ月半後には御殿内で扇風機を使用し、無線電信玩具で遊んでいたというのだから、なんとも最先端の生活ぶりである。
 しかし、大正時代に入ると裕仁親王の身辺も忙しくなったようだ。『昭和天皇実録評解』の著者は次のように書く。
 『「実録」には、少年裕仁の人格的な未完成部分もいくつか記録されている。少なくとも皇太子時代の裕仁は、軍部や政界の重鎮たちからは将来の大元帥国家元首としていささか心もとなく思われていた面があり、そのため、学習院初等科卒業後も東宮御学問所を設置して学びを継続され、さらには欧州旅行での「帝王教育」も計画されたのである。その間も、裕仁は言葉が少なく(吃音{きつおん}ぎみであり、近眼で、姿勢が悪いことは「実録」にも記されており、そうしたことからくる心的要因もあったのかもしれない)、できるだけ多くの軍人・官僚・政治家らと接することが求められた』
 皇太子の教育方針を巡った対立
 あまりにも多くの大人たちの期待や思惑に囲まれて育つ皇太子が気の毒にも見えてくる。しかし、それが未来の天皇の宿命でもあった。
 その中で節子皇后は傍観していたかと言えば、決してそうではなかった。川瀬弘至『孤高の国母 貞明皇后』の中に、節子皇后と山県有朋(元老・陸軍元帥)との間に教育理念の衝突があったことが記されている。
 大正7年のある日、山県が東宮武官長の奈良武次に言った。
 『東宮裕仁皇太子)もやがて大元帥となられる。ついては先帝(明治天皇)の如く、御自ら部隊を指揮された如くに御教育申し上げねばならない。東宮御所での御生活はどうなっておるのか。たまには射撃訓練や鴨猟などもさせるべきだ』
 山県の意向を奈良は東宮大夫の浜尾新に相談した。すると数日後に浜尾から返事があった。
 『山県閣下のお考えも分かるが、射撃訓練や鴨猟には皇后陛下が反対しておられる。皇后陛下は、「帝王のお徳は仁愛でなければならない、徳は禽獣にも及ぶ」として、東宮に射撃や鴨猟を進めないでほしいという思し召しだ・・・』
 これ以外にも山県は皇后と皇太子の教育方針を巡って対立することは多々あったという。山県は日清、日露、第一次世界大戦で勝利を収め、世界の列強の仲間入りを果たした日本の軍人であり政治家だ。国家のリーダーとしての攻撃姓を皇太子に求めるのは、時代の流れと言えよう。一方母親として、節子皇后は徳を重んじ、殺戮は禽獣といえども嫌った。後の昭和天皇の人柄に関しての評価は、平和主義、民主主義的であり、穏健な考えの持ち主であったというものが多い。
 それはやはり、母親の万物に対する優しい思いやりが影響を与えたからだろう。しかし、そんな節子皇后が初めて挫折を味わったのが、皇太子の結婚問題だった。常にポジティヴであり、病身の大正天皇にも力の限り尽くした皇后は、いつしか宮中で大きな権力を手にしていた。それでも、大切な長男である天皇となる息子の結婚は思いのままにならなかったのである。」
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 平成12(2000)年 東京で開廷した「女性国際戦犯法廷」は模擬裁判であったが、国内外から反天皇派が集まり昭和天皇A級戦犯達を被告人死亡で弁護士なし弁護証拠なしの一方的審判で「有罪」判決を下し、世界に向けて宣言した。
 日本のテレビや新聞紙などのメディア・報道機関は、無批判で「昭和天皇有罪判決」を報道した。
 安倍晋三ら少数の政治家や保守派は批判した。
 日本全体では「昭和天皇有罪判決」を無言で受け入れた。
 共産主義者、左翼・左派、反天皇反日的日本人達は、「正義が示された」と歓喜して受け入れた。
 現代の日本人とは、命を捨てても天皇・皇室を守ろうとした昔の日本人とは違うのである。
 それが、現代日本現代日本人の偽らざる本音である。
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・・・
 連合国(国連)は、昭和天皇ヒトラーと極悪非道の戦争犯罪者として認定し、一部では死刑などの極刑を求め、非人道的天皇制度を廃絶し、戦争の始めた天皇家・皇室を消滅させる事を要求していた。
 国際世論は、君主制で遅れた日本を、進んだ人民による自由と民主主義の国家に改造すべきだと訴えていた。
 新生日本の為にも、昭和天皇に対する厳罰が求められた。
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 昭和天皇は、通訳なくイギリス国王や諸外国の元首や癖のある大使らと臆する事なく高度な会話が自由にできるほどに英語が堪能であった。
 戦前の憲法が定める天皇主権に基づく最終決定権者で、朝起きてから寝るまで寸暇もないほどに公務が詰まり、国家元首として政治や経済や社会の国内状況や外交の国際情勢そして、大元帥として戦争の戦況推移や作戦の説明を理解し、国民の最高位保護者として関東大震災の被災地や空襲の焼け野原に立ち、ローマ教皇に匹敵する最高位祭祀王であった。
 激務な日々の中でも、日本を代表する文人として才能溢れる優秀な歌人であり、科学者として世界の専門家の間に名が知れ渡った生物学者であり、個人としてゴルフ・乗馬などの多趣味を楽しんでいた。
 昭和天皇に匹敵するマルチ的に活躍する日本人は、戦前でも、戦後でも、まして現代でも、如何なる高慢ちきな高学歴出身知的エリートにもいない。
 誰一人としてその足下にも及ばない。
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 英米派親ユダヤ派の昭和天皇は、皇室外交としてローマ教皇やイギリス国王などの西欧諸国の王家とのつながらりを重視し、ソ連共産主義スターリンナチス・ドイツヒトラーなどの独裁者を嫌っていた。
 昭和天皇は、マルチの才能を駆使して日本国の平和と発展、日本国民(日本民族)の安寧と幸福の為に務めていた。
 皇室外交の秘密として、親ユダヤ派の明治天皇の御代からアメリカ大統領に定期的に書簡を送りアメリカとの友好関係を絶やさないように腐心していた。
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 昭和天皇が偉大だったのは、嘘、誤魔化し、言い訳、狂言、詭弁、不誠実などを見苦しく醜態を晒しながら吐かず、誹謗中傷に反論・抗弁・泣き言をせず、起きた事については自己弁護せず、弱音を吐かず、愚痴を控え、死を覚悟し、勇気を以て踏ん張って責任から逃げず、他人に押し付けず・擦り付けず、御崩御されるまで不動の信念で義務を全うされた事である。
 今どきそんな日本人、特に高学歴出身知的エリートと自慢する政治家・官僚そして経営者・企業家、メディア・報道機関、学者などにはいない。
 昭和天皇を踏ん張らせたのは、2000年以上継承されてきた血筋としての世襲制天皇家・皇室の遺伝子である。
 つまり、昭和天皇を正しく評価できる現代日本人がいない、と言う事である。
 その証拠が、女系母系天皇即位・女系母系宮家新設を推進する日本人の増加である。
 現代日本人は「天皇帝王学」と軽々しく語るが、その実、現代日本人は「天皇帝王学」を正しく理解する能力がない。
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 左翼・左派を中心とする反天皇派日本人達は、天皇制度廃絶と天皇家・皇室消滅の為に、崩御した後も天皇の戦争責任及び天皇戦争犯罪昭和天皇を極悪の天皇と子供たちに教えている。
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 現代の日本人は、悪い事はしないが良い事もしない。
 当然、昭和天皇が行ったような人種差別反対・民族差別反対、避戦平和主義・積極的自衛戦争、歴史的人道貢献はしない。
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 明治天皇日清戦争日露戦争に不同意であったし、大正天皇も如何なる戦争には賛同していないし、昭和天皇日中戦争や太平洋戦争を命じてはいない。
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  大欽定憲法である日本国憲法法は、天皇の権威を神聖不可侵と定めた。
 討幕を成功させた伊藤博文ら下層階級出身の反逆者達は、天皇が旧佐幕派や敵対者に奪われない為と後醍醐天皇の様に親政で暴走しないように、天皇の権限を法律の中に封じ込めた。
 同時に、天皇制度、天皇家・皇室を民族伝統文化として未来永劫存続させる為に安定継承を可能し、南北朝時代のように第2・第3のニセ天皇の出現を封じ込める為に、皇室典範で神話に基づく血筋・血統のみを唯一絶対の正統根拠とする万世一系の男系父系天皇(直系長子相続)を定め、戦乱・動乱・叛乱・謀反・混乱の原因となる女系を皇統・本流から排除した。
 鎌倉幕府後醍醐天皇の勅命で滅亡し、足利幕府は天皇に見放されて消滅し、徳川幕府明治天皇の勅命で滅亡した。
 日本の平和・安定・幸福の為には、天皇に穏やかな太陽の様な無心・無欲・無私の御威光を認めても、俗欲・個人欲・私欲を生み出す俗悪の政治権力と宗教権威を与えない事であった。
 その為にも、皇統を優先し血筋・血統を消滅させる女系は忌避された。
 日本民族心神話・天孫降臨神話・高天原神話の最高神である女性神天照大神の直系の子孫という血筋のみを正統とする血統・皇統を神聖不可侵とすれば、国内外の誰も万世一系の男系父系天皇を滅ぼしも天皇には即位できない。
 正統天皇と正当天皇は違うのである。
 日本民族伝統文化からすれば、女系母系天皇は正当偽天皇であって正統真天皇ではない。
 女系正当偽天皇が誕生する時、日本民族心神話・天孫降臨神話・高天原神話の最高神である女性神天照大神の民族物語という伝統民族文化は消滅する。
 日本天皇家ヤマト大王家の科学的生物遺伝子(Y染色体)は、数千年前の弥生時代に定まったが、その源泉は数万年前の縄文時代に生まれている。
 女系母系天皇即位・女系母系宮家新設を推進する現代日本人は、全ての事を正しく理解した上で行動している。
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 英仏百年戦争は、女系継承権問題で勃発した。
 イギリス・スペイン戦争は、エリザベス1世の女王正統性問題で起きていた。
 オーストリア継承戦争は、女系領土継承問題で国際戦争に拡大した。
 西洋諸国の諸王家や有力貴族は、政略結婚を繰り返し、国家の枠組み・国境・民族・言語・文化・宗教(カトリック教、プロテスタント東方正教会、その他)を越えて血のつながった姻戚関係にある。
 世界史に於いて、女系国王即位は正統性を巡る戦争に発展する危険性がある為に、国王即位は男系のみで、王位継承権も男系に限られていた。
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 日本国内でも、左翼・左派・ネットサハ、反天皇反日的日本人達らを中心として昭和天皇戦争犯罪と戦争責任を糾弾する歴史教育活動が盛んである。
 国連の諸機関は反天皇反日の巣窟として、正統な男系天皇家の女系化改造できなければ女性差別として廃絶を求めている。
 反天皇反日活動を後ろで動かしているのは、中国共産党と韓国そして左翼・左派・ネットサハの日本人である。
 国内にも、反天皇反日的国際世論に従おうとする空気圧・同調圧力に弱い日本人が存在する。
 特に、中国共産党に忖度する親中国派・媚中派の活動は活発である。
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 昭和天皇の歴史的人道貢献とは。
 東条英機松岡洋右板垣征四郎松井石根A級戦犯達は、親ユダヤ派で人種差別反対の昭和天皇の大御心・天皇の御稜威に添うべく、ヒトラーから逃げてきた数万人のポーランドユダヤ人難民を自己犠牲と無償で助け、上海ゲットーに保護し反ユダヤ派・人種差別主義者らのホロコーストから守った。
 戦後、ポーランドユダヤ人難民を助けた主要な日本人幹部は戦争犯罪者として処分された。
 それが、国連・国際司法機関、そして国際法戦時国際法の実態である。
 戦前の日本が暴走した国際的孤立の道、世界に対する無謀な挑戦とは、昭和天皇が志した人道貢献・人種差別反対・避戦平和主義の実現であった。
 それが、正統な男系天皇家・皇室に流れる、仁徳天皇光明皇后からの「弱い者に対する慈愛」という皇道である。
 天皇家・皇室の「慈愛」は、キリスト教の「博愛」、仏教の「慈悲」、儒教の「仁徳」、現代の「人権・道徳」に対して遜色ない信仰・哲学・思想である。
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 昭和天皇は、生物学者として、原爆は無差別大量虐殺兵器であるとして、研究・開発・製造に猛反対し、即刻中止する事を東条英機首相や杉山元参謀総長等に厳命した。
 原爆を研究開発せず・製造せず・所有せず・使用せず、は昭和天皇の意思であった。
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 大正天皇の后であった貞明皇后は、関東大震災の被災者やシベリア出兵におけるポーランド戦災孤児達に慈愛の情の深さを示した。
 ポーランド人の親日・知日は、貞明皇后が示した慈愛の振る舞いによる。
 日本陸軍は、シベリアでロシア人避難学童やユダヤ人避難民を助け出していた。
 明治天皇の后であった昭憲皇太后も、女子教育・社会事業など数多くの貢献をおこない、病人や怪我人など弱い者に対する慈愛は国際社会でも高く評価された。
 が、現代日本は正しく評価しないし、暗黒の行為として歴史の闇に葬った。
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 昭和天皇を最も悪用している日本人が、反ユダヤ派で人種差別主義の右翼・右派・ネットウヨクである。
 彼らに、昭和天皇の御名を語る資格はない。
 戦前の日本を戦争へ暴走させたのは、人の命を軽視する狂信的な右翼・右派である。
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 キリスト教朝鮮人テロリストや日本人共産主義テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺するべくつけ狙っていた。
 昭和天皇は、歴代天皇で最も命を狙われた天皇であった。
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 韓国は、昭和天皇の子であり孫である現天皇陛下と皇族殿下らに、昭和天皇を惨殺しようとしたキリスト教朝鮮人テロリストを処刑した事に対して土下座して謝罪する事を要求している。
 韓国の「天皇の土下座謝罪」は正当要求であるとして支援する日本人が、リベラル派・革新派そして一部の保守派に存在する。
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 昭和天皇の名誉を命に代えても守ろうとしない日本人は、日本民族日本人ではない。
 現代日本のメディア・報道機関は、左翼系反天皇色が強く、伝統文化である天皇を必ずしも守ろうという強い意志はない。
 その証拠が、2019年に名古屋市内で開催された愛知トリエンナーレで「昭和天皇の写真を焼き、その灰を踏み付ける」映像を表現の自由とした擁護した事である。
 日本には、反天皇反日的日本人が高学歴出身知的エリート層に数多く存在している。
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 女系母系天皇即位・女系宮家新設派によって、2000年以上受け継がれきた民族文化の血筋を正統とする万世一系の男系父系天皇は消滅しようとしている。
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🌏39)─1・A─廃仏毀釈。日本人による仏教迫害は同調圧力・空気圧であった。~No.113 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
日本人は馬の耳に念仏。廃仏毀釈太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)。
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 日本には3つの力が拮抗していた。
 政治権力=武士による幕府。中国の儒教=官学=朱子学
 宗教権威=外来宗教の仏教勢力。浄土真宗本願寺天台宗比叡山延暦寺日蓮宗諸派。国家鎮護=国家仏教。
 天皇の御威光=朝廷。皇室神道宮中神道吉田神道。日本の神道。 
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 奈良時代東大寺建立以来、日本には仏教迫害が数回起きていた。
 1回目は、キリシタンによる仏教破壊。
 戦国時代に北九州と河内北部で、攻撃的宣教師と狂信的キリシタンが仏教寺院と神社を襲撃して破壊した。
 一部の日本人キリシタンは、乱取りで捕らえた異教徒日本人(女性や子供)を中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人に奴隷として売って金を稼いだ。
 日本人の命は金で買えた。
 日本人は、金を稼ぐ為に日本人を外国人に売っていた。
 2回目は、江戸時代前期で、神道を篤く信仰する大名は神仏分離を行った。
 3回目は、江戸時代後期に、水戸藩の水戸学者(勤皇派)や朱子学者(儒学者)を中心として藩内で仏教寺院破壊を起こした。
 4回目は、明治初期に、朱子学者は無宗教国家神道を創ろうとした為に全国で廃仏毀釈が起きた。
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 久保紘之「日本人というのは、例えば仏像や浮世絵など日本画の多くが欧米の博物館で所蔵されているのを見てもわかるように、昔から海外で評価されてようやくその評価を理解する傾向があるでしょう。
 明治初期の廃仏毀釈令の時、全国で文化財クラスの仏像や仏画が廃棄された。奈良の興福寺では多くの仏像が叩き割られて薪(まき)になり、それで風呂を沸かした『仏(ほとく)風呂』で信者を喜ばせたなんて話もあるくらいです。
 手元にある〝お宝〟の価値が分からないんですよ。日本のアホなメディアや野党に踊らされる国民世論は。」
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 武士が、庶民(百姓や町人)を嫌い、差別していた。
 幕府や大名は、何を考えているか分からない底意地悪い庶民を信用せず「由(よ)らしむべし、知らしむべからず」の政治を行っていた。
 つまり、「生かさず殺さず、見捨てはしないが親身に深入りせず、打ち捨てておく、放置しておく」である。
 町人は、山や丘の上、河原の反対側などの安全な所で宴会しながら、武士達が殺し合う合戦を観戦していた。
 人足として狩り出された百姓は、戦場の屋敷を襲って金目の物を強奪し、合戦で混乱した村々で乱取りを行って女子供を捕らえて奴隷として売った。
 戦場となった村やその隣接の村の百姓は、合戦が終わるまで安全な場所に隠れ、合戦が終われば戦場荒らしとして死んだ武士の身包みを剥いで大きな穴に放り込んで埋め、敗れて逃げた武士を落ち武者狩りで惨殺して首を勝者に届けて恩賞にありついた。
 日本の合戦で負傷した武士で、勝者は百姓に助けられて無事に我が家に帰れたが、敗者は百姓に殺された。
 武士が、助からないような重傷で苦しむ敵の武士を「情け」で殺す事はなかった。
 日本の合戦は、西洋や東洋・中華など大陸の戦争とは違うのである。
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 しょせん日本人は、幾ら考えてもモノの価値や道理など理解できないし、如何に目を懲らしても真贋が見分けられない。
 自己判断力に自信がない為に、権威者の高説に頼り、海外の評価に頼った。
 贋作で無価値でも権威者が評価し海外で取り上げられると盲目的に信じ、誰かがそれは偽物で価値がないと正しく言っても誰も聞かず、逆に馬鹿で愚か者という烙印を押されて社会から追放される。
 日本において、話して通じ合う、話して解りあえる、話せば理解されるは、嘘である。
 権威者の発言や海外の評価は絶対真理となり、批判・否定すると村八分として除け者にされる。
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 しんぶん赤旗
 2008年11月15日(土)「しんぶん赤旗
 廃仏毀釈とは? その後の神道と仏教の関係は?
 〈問い〉 奈良の山辺の道沿いに、法隆寺に匹敵するお寺が明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で壊されたという跡がありました。廃仏毀釈とはどんなものだったのですか?その後、神道と仏教の関係は?(埼玉・一読者)
 〈答え〉 廃仏毀釈(棄釈)とは、明治維新政府の神道国教化政策にともなっておきた仏教の抑圧・排斥をさします。
 1868(明治元)年3月、新政府が「祭政一致」の立場から神道の国教化をはかり、一連の神仏分離令をだしたのを契機に、政府が設置した神祇官(じんぎかん)や各地の神職に扇動された勢力が寺院を襲撃し、僧侶資格を奪うなど、仏教にたいする排撃運動がおこりました。寺院の廃止や仏像の破壊、仏事の禁止などもおこなわれました。奈良の興福寺では、五重塔を解体し薪(まき)として売却しようとする企てもすすめられました。それまで神仏習合(神と仏教とが混ざり合っていること)だった多くの神社では、仏教的なものをひきはがす動きがひろがりました。
 こうした仏教排斥にたいして、真宗門徒などの廃仏反対運動が起こり、政府も廃仏毀釈は朝廷の望むところではないと弁解するなど、政策的な手直しにつとめ、この騒動は鎮静化にむかいました。こうして神道国教化政策は変転しますが、政府は1872(明治5)年4月には、通達で仏教寺院に神道の布教を命ずるにいたります。
 その後、明治政府は、軍人勅諭(82年)、明治憲法(89年)、教育勅語(90年)によって、全国民に神格化された天皇への崇拝と神社参拝を強要しました。国家神道体制のもとで格付けされた神社の上級神職は公務員化しました。
 僧侶の多くは、仏教の教えとともに天皇への忠誠を説きながら、旧檀家(だんか)制度に依拠して寺院と教団を維持しました。国家神道体制のもとで、日本は軍国主義侵略戦争の道を歩み、戦時体制下では「皇道仏教」も主張されました。
 国家神道体制は第2次大戦の敗北で破たんします。祭政一致専制天皇制の否定にたち、内心・信教の自由と政教分離の原則が明記された現憲法が成立しました。国家から分離された多くの神社は、神社本庁を結成し、仏教寺院と対等の宗教法人となって現在にいたります。神社本庁指導部は神道国教化をふくむ改憲運動を推進しています。
 神道の束縛から解放された仏教では今日、靖国神社への首相の公式参拝に反対し、平和の声をあげている伝統仏教教団が少なくありません。(平)
 〔参考〕藤谷俊雄「国家神道の成立」(『日本宗教史講座』第一巻所収)三一書房安丸良夫『神々の明治維新岩波新書
 〔2008・11・15(土)〕
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 廃仏毀釈とは、反宗教の朱子学による日本の国家儒教化の過程で、インド由来仏教に対する空気圧・同調圧力で起きた宗教改革であった。
 国家神道の実態は、非宗教の国家儒教である。
 儒教が仏教を排斥した原因は、奈良・平安時代に外来宗教の仏教が天皇の発願によって国家鎮護の国家仏教の地位を得て日本を支配してきたからである。
 何故、廃仏毀釈が起きたかといえば、日本人は元来が無宗教として神も仏も信じていなかったからである。
 同時に、日本人には哲学も思想も主義主張もない。
 日本人にとって、馬の耳に念、牛に経文、そして儒教もしょせん犬に論語である。
 それは、キリスト教であれ、マルクス主義共産主義)であっても同じである。
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 DIAMOND online
 日本史の一大汚点
 「廃仏毀釈」は
 いかにして行われたか?
 原田 伊織
{原田伊織(Iori Harada)
 作家。クリエイティブ・プロデューサー。JADMA(日本通信販売協会)設立に参加したマーケティングの専門家でもある。株式会社Jプロジェクト代表取締役。1946(昭和21)年、京都生まれ。近江・浅井領内佐和山城下で幼少期を過ごし、彦根藩藩校弘道館の流れをくむ高校を経て大阪外国語大学卒。主な著書に『明治維新という過ち〈改訂増補版〉』『官賊と幕臣たち』『原田伊織の晴耕雨読な日々』『夏が逝く瞬間〈新装版〉』(以上、毎日ワンズ)、『大西郷という虚像』(悟空出版)など}

 三流の維新 一流の江戸
 2017.2.8 4:50
 江戸という時代は、明治近代政権によって「全否定」された。
 私たちは学校の教科書で、「明治の文明開化により日本の近代化が始まった」と教えられてきたが、はたして本当にそうなのか?
 ベストセラー『明治維新という過ち』が話題の原田伊織氏は、これまで「明治維新とは民族としての過ちではなかったか」と問いかけてきた。
 そして、今回さらに踏み込み、「2020年東京オリンピック以降のグランドデザインは江戸にある」と断言する。
 『三流の維新 一流の江戸』が話題の著者に、「廃仏毀釈」についてはじめて聞いた。
 「廃仏毀釈」という
 仏教文化の破壊活動
  そして、政権奪取に成功するや否や、日本史の一大汚点というべき「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」という徹底した仏教文化の破壊活動を繰り広げたのである。
 仏教伝来から既に千四百年近く経っていた明治維新といわれるこの時点に於いて、仏教という宗教及びその影響を受けた文化的、精神的諸要素は、既にこの美しい島国の風土を創り上げている主たる要素といってもいいほど大地に、空間に、人びとの心に浸み込んでいる。
 その意味では、薩長新政権が惹き起こした「廃仏毀釈」というムーブメントは、歴史上例をみない醜い日本文化の破壊活動であった。
 これは、俗にいう明治維新の動乱の中で、明治元(1868)年に薩長新政権が打ち出した思想政策によって惹き起こされた、直接的には仏教施設への無差別な、また無分別(むふんべつ)な攻撃、破壊活動のことをいう。
 これによって、日本全国で奈良朝以来の夥(おびただ)しい数の貴重な仏像、仏具、寺院が破壊され、僧侶は激しい弾圧を受け、還俗(げんぞく)を強制されたりした。
 ひと言でいえば、薩摩、長州という新しい権力者による千年以上の永きに亘って創り上げられた我が国固有の伝統文化の破壊活動である。
 現代のイスラム原理主義勢力タリバーンイスラム国を思えば分かり易いであろう。
文化財の破壊という点のみでいえば、イスラム原理主義者による文化財の破壊より規模は遥かに大きかった。
 発端は、新政権が出した太政官布告神仏分離令」と明治三(1870)年に出された「大教宣布」にある。
 学者は、これ自体が直接仏教排斥を指示したり、煽(あお)ったりしていないとするが、それは文章面(づら)のことであって当たり前である。
 これを後ろ盾として、仏教弾圧の嵐が吹き荒れたことは否定のしようもないことなのだ。
 私ども大和民族は、それまで千年以上の永きに亘って「神仏習合」というかたちで穏やかな宗教秩序を維持してきた。
 平たくいえば、神社には仏様も祀(まつ)って別(わ)け隔てなく敬ってきたのである。
 多元主義と一元主義
 これは、極めて濃厚にアジア的多元主義を具現する習俗であったといえる。
 それをいきなり廃止せよと命じ、神社から仏教的要素を徹底的に排斥することを推進し、ご神体に仏像を使用することも禁止したのである。
 これが、全国的に大々的な廃仏運動を燃え盛らせたのだ(平成日本人は、「神仏習合」が大和的な、おおらかで自然な姿であったことも分からなくなっている)。
 今、近代と呼ばれている私たちの世界は、一元主義によって行き詰まりを迎えているといえるだろう。
 かつての東西冷戦も現代の西欧社会とイスラム社会の衝突も、一元主義と一元主義の対立である。
 一元主義同士の戦いを一元主義によって収束させることは、残念ながら無理なのだ。
薩長権力が一転して狂ったようにかぶれた西欧文明はまもなく確実に終焉を迎えるであろうが、それは言葉を換えれば一元主義の破綻といっていい。
 もともと大和民族は、多元主義的な生態を維持してきた故に、多少の混乱期を経験しながらも長期的には平穏な生存空間を、政治的な版図(はんと)を超越して維持してきたのである。
 単に島国であったから、という地勢的な理由だけに頼るのは余りにも稚拙というものであろう。
 ところが、薩摩長州の下層階級が最初にかぶれた思想とは実に浅薄なもので、単純な平田派国学を旗印に掲げ、神道国教、祭政一致を唱えたのである。
 これは、大和民族にとっては明白に反自然的な一元主義である。
 ここへ国学の亜流のような「水戸学」が重なり、もともと潜在的に倒幕の意思をもち続けてきた薩長勢力がこれにかぶれ、事の成就する段階に差しかかって高揚する気分のままに気狂い状態に陥ってしまったのだ。
 こういう現象は、時代の転換期には間々あることではある。
とはいえ、神聖政治を目指す、神道(しんとう)を国教とする、仏教はそもそも外来のものである、すべてを復古させるべきだというのだから、これはもう気狂い状態に陥ったというべきであろう。
 では、一体どこへ復古させるのが正しいのか……当然、五世紀以前ということになってしまうのである。
 そもそも薩摩長州は、徳川政権を倒すために天皇を道具として利用したに過ぎない。
 そのために「尊皇攘夷」という大義名分が必要となった。
 これは、どこまでも大義名分に過ぎない。
 薩摩長州のリーダー層が純粋に尊皇精神をもっていたかとなると、幕末動乱期の行動、手法が明白に示す通り、そういう精神は微塵(みじん)ももち合わせていなかったとみるべきであろう。
 「尊皇攘夷」を方便として喚き続けているうちに本当に気狂いを起こし、「王政復古」を唱え、何でもかでも「復古」「復古」となり、大和朝廷時代が本来のあるべき姿であるとなってしまったのだ。
 その結果、寺を壊せ、仏像を壊せ、経典を焼け、坊主を成敗(せいばい)せよ、となってしまったのである。
 この「廃仏毀釈」を単なる民衆の行き過ぎた一時的なムーブメントとし、新政権の方針とは全く無関係であると学者はいい続けてきたが、それは違う。
 新政権政府は、僧侶に対して「肉食妻帯勝手なるべし」と、わざわざ命令している。
 僧侶に戒律を犯させ、仏法の教えにいうところの「破戒」をさせようと企図したことは明白である。
 凡(およ)そ政治施策を推進する上で、こういう手法は実(まこと)に知性、品性に欠ける下劣な手法であるといわざるを得ない。
 このようにして、俗にいう明治維新という動乱期に、日本の伝統文化、伝統芸術の根幹を担ってきた日本の風土に溶け込んで進化してきた仏教は、宗教としても文化的価値としても徹底的に弾圧されたのである。
 奈良興福寺と内山永久寺の惨状
 中でも奈良興福寺や内山永久寺の惨状は、筆舌(ひつぜつ)に尽くし難い。
興福寺だけで二千体以上の歴史を刻んできた仏像が、破壊されたり、焼かれたりしたことが分かっている。
 僧侶は、ほとんど全員が神官に、文字通り“衣替え”したり、還俗することを強制された。
 経典は、町方で包装紙として使われるというゴミ同然の扱いを受け、五重塔は二十五円(一説には十円)で売りに出された。
 薪(たきぎ)にするために売りに出されたのである。
 多くの宝物(ほうもつ)は、混乱に乗じた略奪等によって散逸し、二束三文で町方に出回ったのである。
 因みに、現在の奈良ホテル奈良公園は、当時の興福寺の敷地内である。興福寺と共に我が国四大寺の一つという格式を誇った内山永久寺に至っては、更に酷(ひど)いもので、徹底的に破壊され尽くし、今やその痕跡さえ見られない。
 姿を残していないのだ。この世から抹殺されてしまったのである。
 「廃仏毀釈」とは、それほど醜い仏教文化の殲滅(せんめつ)運動であったのだ。
「復古」「復古」と喚いて、激しく「尊皇攘夷」を口先だけで主張し、幕府にその実行を迫ってテロを繰り広げた薩摩長州人は、このように古来の仏教文化でさえ「外来」であるとして排斥したのだが、政権を奪うや否や一転して極端な西欧崇拝に走った。
 「尊皇攘夷」式にスローガンとしていうならば、今日からは「脱亜入欧(だつあにゅうおう)」だと豹変したのである(後に福澤諭吉が唱えた「脱亜入欧」は、経緯、主旨が異なる)。
 これほど激しい豹変を、それも昨日と今日の価値観が逆転するといった具合に短期間に行った民族というものも珍しい。
 どちらの態度も、己のアイデンティティを破壊することに益するだけであることに、彼ら自身が気づいていなかったのである。
 日本人は、テンション民族だといわれる。
明治維新時に植え付けられたと思われるこの特性は、大東亜戦争敗戦時にも顕著に顕れた。
 その悪しき性癖は、今もそのまま治癒することなく慢性病として日本社会を食いつぶすほど悪化していることに気づく人は少ない。
 このことは、ほとんど近代政治家と官軍史観による教育の犯罪といってもいい過ぎではないだろう。
 文部官僚・岡倉天心のまごころ
 奈良興福寺の仏像修復に精魂を傾けたのは誰か。
 彼の努力がなかったら、今日私たちは興福寺で仏像を鑑賞することができないのである。
 それは、文部官僚岡倉天心である。彼が、長州人を中心とした西欧絶対主義者たちによって職を追われたことと、それにも拘わらずその後も地道に仏像修復に当たらなかったら、今日の興福寺さえ存在していなかったことを、私たちは肌身に刷り込んで知っておくべきであろう。
 『三流の維新 一流の江戸』
 著者・原田伊織からのメッセージ
 このたび、『三流の維新 一流の江戸――「官賊」薩長も知らなかった驚きの「江戸システム」』を渾身の気持ちをこめて書いた。江戸を描くのは初めてである。
 江戸という時代は、明治近代政権によって全否定された。
 歴史から抹殺されたといっても過言ではない位置づけをされて、今日に至っているのである。
 その存在力は、新政権の正統性を示すためだけに土深く埋められたといっていいだろう。
 しかし、今、世界がこの「江戸」という時代とその様式、価値観に何かを求めて視線を当てている。
 国内でも、リーマンショックで覚醒させられたかのように、無意識であろうが「江戸」へ回帰する「時代の気分」が、特に「江戸」が何たるかを全く知らないであろう若年層を中心に充満している。
 私は、一連の著作に於いて、史実に忠実に従えば、明治維新とは民族としての過ちではなかったかと問いかけてきた。
 これは、一度国家を壊しながらも今もなお政権を維持している薩長政権に対する問いかけでもある。
 もし、明治維新が過ちであったとすれば、その最大の過ちが直前の時代である江戸を全否定したことである。
 或いは、少なくとも江戸を全否定したことだけは、明白な過ちであったといえるのではないか。
 本書は、その是非を問うことをメインテーマとするものではなく、埋められたままの江戸を一度掘り返してみて引き継ぐべきDNAを解き明かしてみようと試みるものである。
 しかし、江戸は多様であり、多彩である。
 この拙い一篇の書き物で解き明かせるような貧弱な仕組みで成り立っていたものではない。
 そのことを理解しながら、その一端でも掘り起こすことができれば、私たちが子どもたちの時代の「無事」のために何を為すべきかのヒントが得られるものと信じたい。
 そして、世の諸賢が“寄ってたかって”全容を解明すれば、江戸は確かに未来構築の一つの指針になるであろうことを、私自身が固く信じたいのである。
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 ウィキペディア
 廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは、仏教寺院・仏像・経巻(経文の巻物)を破毀(破棄)し、仏教を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。中国においては3世紀以来廃仏の動きが強く、唐の韓愈や宋以後の朱子学派の廃仏論が大きな影響力をもった。とりわけ中国仏教史においては三武一宗の法難が有名である。日本においては江戸時代から儒学の興隆でしばしば起きるようになったが、とりわけ明治初期に神仏分離によって神道を押し進める風潮の中で、多年にわたり仏教に虐げられてきたと考えていた神職者や民衆が起こした一連の動きを指すことが多い。各地で仏像・経巻・仏具の焼却や除去が行なわれたが、この事件が仏教覚醒の好機ともなり、日本近代仏教は廃仏毀釈をてことして形成されていった。

 明治期以前の廃仏運動
 仏教が日本に伝来した当初は『日本書紀』の欽明天皇敏達天皇用明天皇の各天皇記をもとにすると物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われたが、仏教が浸透していくことによってこのような動きは見られなくなった。戦国時代および安土桃山時代では、小西行長などキリシタン大名が支配した地域で、神社・仏閣などが焼き払われた。
 江戸時代前期においては儒教の立場から神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きが高まり、影響を受けた池田光政保科正之などの諸大名が、その領内において仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策を採った。
 徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏も規模が大きく、領内の半分の寺が廃された。

 江戸時代後期の廃仏運動
 光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなり、徳川斉昭は水戸学学者である藤田東湖・会沢正志斎らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めた。天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理した。幕末期に新政府を形成することになった人々は、こうした後期水戸学の影響を強く受けていた。
 また同時期に勃興した国学においても神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。中でも平田派は明治新政府の最初期の宗教政策に深く関与することになった。

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🏕44)─3─江戸後期、日本駐在西洋外交官の日本観。「神経質な人にとって不向き」。~No.90 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 ラザフォード・オールコット「一方にたえず暗殺の脅威があり、他方に火事の危険があり、その上毎週のように地震が公館を揺さぶるような中で、江戸駐在の外交官のポストはとうてい神経質な人に薦めていいものとは申せません」(安政7{1860}年1月 イギリス本国の外務大臣への報告書)
 日本人通訳伝吉暗殺事件について「私は戸板の上に寝かされた彼の姿を見た。ほとんど意識はなかった。それでも私が話しかけると、声が聞こえて私だとわかったように、目を動かした。口はまったくきけなかった。……死神の指はすでに彼のわなわな震える唇の上におかれていた」
   ・   ・   ・   
 ブラック社会で生きる日本人達は、他人より自分が大事として、人の命に価値を見出す、自分が助かる為なら他人を助けず見捨ててきた。
 日本人の心の闇は、陰湿として奥が深い。
 日本仏教は、救いがたいドス黒い心の闇を「煩悩」と呼んでいた。
 日本神道は、清明心でドス黒い心の闇を祓い清めようと長い年月努力してきたが、今だ日本人のドス黒い心の闇を浄められずにいる。
 日本人とは、思慮分別なき、深謀遠慮せず、道理が理解できない恐ろしく短絡的な人間でる。
 日本人は、主義主張はおろか、思想も、哲学も、そして宗教さえ持っていない。
 現代日本人は昔の日本人以上に、その特徴を濃くしている。
   ・   ・   ・   
 空気を綺麗にするいい日本人は2割、空気を汚染する悪い日本人は3割、空気に染まり空気圧・同調圧力に流される愚かな日本人は5割。
   ・   ・   ・   

🏕44)─1─江戸は災害で前近代のまま安定し、欧州は戦争で近代化して発展した。~No.84No.85No.86 

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 西洋は、戦争と外交=平和による人間中心で近代化に成功した。
 日本は、災害と復興による自然中心で近代化できなかった。
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 時代は、平和ではなく戦争で切り開かれる。
 発展は、戦争で進みし、平和で停滞し後退する。
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 YAHOO!JAPANニュース
 欧州列強との軋轢の中、
 福和伸夫 | 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
 7/20(月) 7:00
 混乱のヨーロッパ、転換期の超大国、安定化した日本
 ルターに始まる宗教改革の結果、17世紀には、ヨーロッパの主要国で新旧のカトリックプロテスタントとの間での争いが起き、凶作、飢饉、疫病も続きました。また、アジアとの貿易や植民地戦争などが行われた時代でした。
 一方、アメリカでは清教徒の入植が始まり、ロシアではロマノフ王朝が始まり、中国では明が滅び清王朝が成立し、大きな転換期を迎えていました。
 そして、日本では関ヶ原の戦いに勝利した徳川家が、地震が続く中、江戸の町づくりを進め、豊臣家を滅ぼし、参勤交代制や鎖国を進めるなどして、江戸幕府の体制を整えました。その後は、地震、噴火、火事、飢饉が頻発します。
 宗教戦争と疫病、大火の中で力をつけたイギリス
 イギリスでは、いち早く国教会を設立し、エリザベス1世の下、1588年にアルマダの戦いでスペインの無敵艦隊に勝利しました。1600年には東インド会社を設立しアジア貿易を始めますが、1623年にオランダによるアンボイナ事件でインドネシアから締め出されたため、インドを中心に貿易を進めました。その後、国教会と清教徒との争いの清教徒革命(1642年~1649年)や、1688年の名誉革命を通して、議会政治が整っていきます。
 この間、力を持ち始めたオランダとの間で英蘭戦争が起きました。その最中の1665年にロンドンでペストが大流行し、ロンドン市民の1/4程度が死亡しましたが、翌年の1666年に起きたロンドン大火で終息しました。大火の後、ロンドンは木造の町から石造の町へと変貌します。このようにして、その後のイギリス台頭の礎が作られていきました。
 宗教戦争が続く中、絶対王政になっていったフランス
 フランスでは、カトリックカルヴァン派ユグノーとの間のユグノー戦争(1562年~1598年)が、アンリ4世のナントの王令によって収められました。ですが、ルイ13世の時代にも、ユグノーとの争いは頻発し、後に述べる30年戦争にも参戦することになります。このときペストも大流行し、多くの死者を出したようです。その後、太陽王ルイ14世の時代へと進みます。
 独立戦争を仕掛け、貿易と農魚工業で栄えたオランダ
 一方、スペインの植民地だった小国のオランダでは、カトリック支配に抵抗したカルヴァン派のゴイセンが独立戦争(1568年~1648年)を仕掛けます。1602年には東インド会社を設立し、インドネシアを拠点とした香辛料貿易を進め、多数の船を使ったバルト海貿易で栄え、漁業、農業、毛織物や染色などの工業なども盛んになります。イギリスとの間の英蘭戦争は、名誉革命によって、メアリー2世とその夫のオランダ総督ウィリアム3世イングランド王位に即位したことで、終息しました。
 30年戦争で混乱を極めたドイツ
 これに対し、神聖ローマ帝国のドイツでは、カール5世によるアウクスブルクの和議によって、宗教の選択の自由が認められたため、カトリックルター派の諸侯が入り乱れて争うことになり、ヨーロッパの各国を巻き込む三十年戦争が起きました(1618年~1648年)。1648年のウェストファリア会議で終結したものの、戦乱に加え、凶作、飢饉、ペストの流行などが重なり、ドイツは、人口が激減し荒廃します。その後、ドイツでは、プロイセンオーストリアの2国が争う時代へと変わっていきます。
 現代の超大国・米ロ中は転機を迎える
 アメリカ、ロシア、中国も転機を迎えていました。アメリカでは、1620年にイギリスの清教徒ピルグリム・ファーザーズ102人が、メイフラワー号に乗って今のマサチューセッツ州プリマスに上陸し、移民として入植をはじめます。中南米では鉱山や農作の労働者確保のため、アフリカから黒人奴隷が運ばれる三角貿易が行われました。
 モンゴル帝国の一部になっていたロシアでは、1613年にロマノフ王朝が成立します。ロシア正教会のおかげで宗教戦争とは一線を画すことができたようで、その後、ピョートル大帝の時代に国力が増し、列強に加わっていきます。
 一方、明が支配していた中国は、遊牧民族倭寇によって苦しめられ、豊臣秀吉朝鮮出兵などで疲弊しました。1616年に北方で女真族ヌルハチが後金を建国します。女真族満州族を名乗るようになり、1636年に後金は清に改められます。1644年に明は滅び、清の時代に変わります。そして、名君・康熙帝によって安定した時代を迎えます。
 花開いた物理学や自然科学
 17世紀には、地震などの自然災害を考えるための基礎ともいえる自然科学が花開きました。イタリア人のガリレオ・ガリレイは、望遠鏡を改良・製作して地動説を証明したり、振り子や物体の運動を明らかにしました。ピサの斜塔での実験は有名です。ガリレイと同時期に活躍したドイツ人のヨハネス・ケプラーは惑星運動が楕円であることを説明し、地動説を強化します。そして、2人の後に生まれたイギリス人のニュートンは、ロンドンでのペスト流行のとき、ケンブリッジ大から故郷に疎開したときに、万有引力の法則や、微積分学、光の屈折などを発見しました。彼らにより地球や惑星の動きが分かり、物の運動や耐震設計などの力学的な基礎が整いました。
 大規模土木工事で江戸の基盤が整う
 一方、日本では、関ヶ原の戦いで勝利した家康が、1603年に征夷大将軍になります。家康は江戸に戻り、1605年には秀忠に将軍を譲り、江戸周辺でなどで大規模な土木工事を進めます。神田山を削って日比谷の入江を埋め立てて城下を広げ、小名木川などの運河を開削し水運による物流を確保しました。また、洪水対策のため、河川を整理し、赤堀川を開削して利根川を付け替えするなどの河川工事を行いました。利根川が銚子に繋がったのは1654年です。これによって、大都市・江戸の基礎ができ、湿地帯だった広大な関東平野は農地に変わって米の生産石高も倍増し、260年続く江戸時代の基盤が整いました。
 江戸初期に頻発した地震の後、大阪の陣で豊臣家が滅亡
 江戸初期には大地震が続きました。1605年2月3日に慶長地震、1611年9月27日に会津地震と12月2日に慶長三陸地震、1614年11月26日にも大地震が起きます。慶長地震では西日本太平洋岸を津波が襲いましたが、揺れによる被害はなかったようです。従来は南海トラフ沿いでの津波地震と言われていましたが、別の場所での地震の可能性も指摘されています。
 会津地震は、M7クラスの直下地震で、会津盆地西縁断層帯の活動が疑われています。倒壊家屋は2万戸余り、死者は3700人と言われています。大規模な土砂崩れによって阿賀川が堰き止められて山崎新湖ができ、越後街道の一部が浸水したため、街道が付け替えられ多くの集落が移転をしました。
 慶長三陸地震については、近年、北海道での地盤調査から北海道でのM9クラスの地震の可能性が指摘されています。この場所では500年程度の間隔で超巨大地震が発生しており、現在、中央防災会議に設置されたワーキンググループで検討が進められています。仙台当主だった伊達政宗は、地震後に貞山堀を開削して復興を進めました。津波で浸水した場所を塩田にし、新たな新田開発も進めました。また、地震の2年後には、支倉常長を欧州に派遣しています。仙台藩の復興のために、欧州との交易を進めようとしたのでしょうか。
 1614年の地震については各地で揺れや津波の記録がありますが、震源がどこかについては諸説があります。この地震がおきたときは、まさに大坂冬の陣の準備を徳川方、豊臣方の双方が進めているときでした。徳川方は、イギリス製やオランダ製の大砲を活用して大坂城を攻め、城の無力化を図る和議を結びます。さらに、翌年の夏の陣で、大坂城は炎上、豊臣秀頼淀君は自害して、豊臣家は滅亡します。
 ここでも、カトリックのスペイン、ポルトガルではなく、英蘭との関わりが感じ取れます。
 江戸幕府の体制確立
 大阪の後、武家諸法度禁中並公家諸法度を定め、大名や皇室、公家の役割や規則を明確化します。天下普請で土木工事や、江戸城や主要な城の整備を進め、1635年に参勤交代制を導入し、大名の力を削いでいきます。また、1612年にキリスト教の禁教令を発しました。1616年には、外国船の寄港地を平戸と長崎に限定します。さらに、3代将軍・家光の時代になって、絵踏を始め、キリスト教弾圧を強化します。1637年に島原の乱が起きると、禁教を強化し、1639年にはポルトガル人の来航を禁止します。そして、1641年にオランダ商館を平戸から出島に移し、清とオランダ船の来航を出島に限る鎖国が始まりました。
 鎖国によって、日本は213年間世界と隔絶されることになります。日本社会は安定し、平和な社会の中、独特の江戸文化が育まれます。万一、徳川家が鎖国をせず、世界有数の軍事力を使って信長や秀吉のような対外政策をとっていたら、世界の姿は大きく変わっていただろうと思います。
 江戸幕府の体制が整って続発した飢饉・大火・噴火・地震
 江戸幕府の体制が整うのを待っていたかのように、鎖国前後から災害が続きます。
 1640年には、7月31日に北海道駒ケ岳が大規模噴火し、2度の山体崩壊を起こします。2度目の崩壊の土砂が内浦湾に流れ込み大津波が発生しました。また、このときの大量の火山灰によって陸奥国で凶作となり、寛永の大飢饉のきっかけになりました。北海道では、1663年にも有珠山が大噴火しています。
 寛永の飢饉では、1641年に旱魃や大雨、長雨、冷害、霜、虫害があり、翌年も不作になって、1643年にかけて多くの餓死者を出しました。江戸の初期には、1619年、1675年、1680年にも飢饉がありました。
 1641年には、日本橋桶町で大火があり、400人以上が亡くなりました。江戸での最初の大火です。さらに、1657年3月2日には世界三大大火の一つと言われる明暦の大火が起き、江戸の大半が延焼し、江戸城天守も焼失しました。犠牲者は10万人を超え、江戸時代最悪の災害になりました。大火の後、両国橋や永代橋が架けられ、隅田川の東側に町が広がりました。また、火除け地や広小路が作られ、土蔵や瓦屋根が奨励されるようになりました。この火災で、明暦から万治に改元されますが、1660年には名古屋で万治の大火が発生し、1661年には京都での火災で内裏などが焼失したため、元号が万治から寛文に改元されます。
 地震も続発しました。1648年6月13日の慶安相模の地震、1649年7月30日の慶安武蔵の地震と関東で地震が続き、1662年6月16日の寛文近江・若狭地震、1666年2月1日の越後高田地震、1677年11月4日の延宝房総沖地震と続きます。寛文近江・若狭地震は、三方断層帯や花折断層帯の活動が疑われ、京都を中心に死者は数千人に達しました。延宝房総沖地震は、房総沖でのM8クラスの巨大地震で、津波によって多くの犠牲者を出しました。この地震の半年前の4月13日には延宝八戸沖地震も発生しています。
 このように、江戸幕府の最初の4人の将軍の時代、混乱の続く欧州列強との軋轢の中、多くの災害を乗り越え、江戸幕府の体制が整えられていきました。
 福和伸夫
 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
 建築耐震工学や地震工学に関する教育・研究の傍ら、地域の防災・減災の実践に携わる。民間建設会社の研究室で10年間勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科で教鞭をとり、現在に至る。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。
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🏯5)─1─徳川家康の日本は軍事大国であり武器輸出国であった。朱印船。~No.8No.9 

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 徳川家康一人の内政・経済・金融・土木・外交・交易・軍事など多方面での能力は、現代日本の政治家・官僚・司法官・報道官・自衛官・学者・企業家・経営者・メディアなど全ての分野の全ての人間に匹敵する。
 徳川家康を批判する日本人には歴史を正しく理解する歴史力がない。
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 歴史秘話ヒストリア「その一弾が戦国を変える 国友鉄砲」
 チャンネル [総合]
 2020年10月7日(水) 午後10:30~午後11:15(45分)
 ジャンル ドキュメンタリー/教養>歴史・紀行
 ドキュメンタリー/教養>ドキュメンタリー全般
 ドキュメンタリー/教養>カルチャー・伝統文化
 番組内容 戦国時代、偶然もたらされた「鉄砲」。この海外の未知の武器を当時の日本人が導入していく中、鉄砲の超絶技術集団「国友」が登場した。乱世を終わらせたのは彼らだった!?
 出演者ほか 【キャスター】渡邊佐和子
 詳細 戦国時代に偶然漂着した外国船からもたらされた「鉄砲」。この舶来で未知の武器を、日本人は工夫をかさねて瞬く間に国産化した。その中で生まれたのが近江国滋賀県)国友(くにとも)の鉄砲鍛冶職人の集団だった。「国友」の技術の高さは織田信長徳川家康も最優先で獲得に動くほど。しかも鉄砲は単なる武器である以上に太平の世への原動力でもあった。知られざる戦国と鉄砲の関わり、国友の鉄砲職人たちの活躍を紹介する。
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 その一弾が戦国を変える 国友鉄砲
 ●本放送 令和2年10月 7日(水) 22:30~23:15 総合  全国
 ※放送予定は変更されることがあります。地域によっては放送の有無もあります。当日の新聞・最寄りのNHKのHPなどでご確認下さい。
 エピソード1 鉄砲が日本にやって来る BAN!!BAN!BAN!
 日本で初めて鉄砲がもたらされた、すなわち「鉄砲伝来」の場所が九州・種子島です。島の若き領主・種子島時堯(ときたか)の好奇心と刀鍛冶・八板金兵衛(やいた・きんべえ)の悪戦苦闘が鉄砲の国産化、全国普及を実現しました。そしてもう一つ、あの「本能寺」もそれに深く関わっていたのです!
 エピソード2 鉄砲革命の陰に国友あり
 戦国鉄砲の生産地・国友(滋賀県)は戦国大名浅井氏のもと生まれ、鉄砲を多数受注、製作しました。鉄砲の大量投入が勝利のカギだった織田信長の長篠合戦でも、それを支えたのは国友の技術と生産力だったと考えられています。現在まで続く鉄砲作りの技とともに見る「国友」の始まり。
 大河ドラマ麒麟がくる』使用の国友製鉄砲
 エピソード3 国友を制する者 天下を制す
 大坂の陣でも活躍した国友鉄砲鍛冶
豊臣家との戦いに向け徳川家康が考えたのが鉄砲の大型化でした。家康は様々な手段で国友を掌握、国友の職人たちは「百目玉大筒」などの大型鉄砲を開発します。さらに徳川の陣中にもやって来て、戦闘下の支援もしたと考えられています。そして訪れた太平の江戸の世で、国友はどうなっていったのか――。
 参考文献
 『特別展 国友鉄炮鍛冶-その世界-』(長浜市長浜城歴史博物館
 『国友鉄砲の歴史』(湯次行孝 サンライズ印刷出版部)
 『歴史の中の鉄砲伝来』(国立歴史民俗博物館
 『長篠の戦い 信長の勝因・勝頼の敗因』(藤本正行 洋泉社
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 ウィキペディア
 火縄銃(英: Matchlock gun / Arquebus)は、初期の火器(火砲)の形態のひとつで、黒色火薬を使用し、前装式で滑腔銃身のマスケット銃の内で、マッチロック式(火縄式)と分類される点火方式のものをさす。通常、日本では小型のものを鉄砲、大型のものを大筒と称する。
マッチロック式は、板ばね仕掛けに火の付いた火縄を挟んでおき、発射時に引き金を引くと仕掛けが作動して、火縄が発射薬に接して点火する構造である。(詳細は#射法参照)
 火縄銃は、15世紀前半にヨーロッパで発明され、特にドイツにおいて発展した。最古の記録は1411年のオーストリア写本「Codex Vindobona 3069」にZ字型のサーペンタインロック式が見られる 。また1430年代に描かれたサーペンタインの金具の図が残っている。
 現代の日本では銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)の規制対象となっており、骨董品として所有するのにも登録が必要である。
 日本での火縄銃史
 鉄砲と戦国時代
 詳細は「鉄砲伝来」を参照
 戦国時代の日本では、瞬発力においても火薬の爆発力においてもヨーロッパ製のものより高性能のものが用いられていた。
 鉄砲が伝来した当初は、高価な武器であったため武士が用いたが、普及率が高まるにつれ足軽の主要武器の一つになっていったという説がある。
 戦国時代末期には日本は50万丁以上を所持していたともいわれ、当時世界最大の銃保有国であった。
 文禄・慶長の役では日本軍は火縄銃の集団使用で明軍を手こずらせた。明軍は日本軍の瞬発式火縄銃は命中率が高く飛ぶ鳥を落とすくらいだとして特に鳥銃と呼んで恐れた。のち趙士禎が『神器譜』(1598年(慶長3年)から1603年(慶長8年)以降にかけて成立)を執筆する。
 また、築城技術でも火縄銃の性能を活かした横矢掛かり(これ自体はすでに存在していた)などが発達し、赤穂城などに応用された。
 大坂の陣では塹壕戦が第一次世界大戦前に起きていたため日本には相当火縄銃が出回っていたことになる。
 江戸期以降
 大阪堺の鉄砲鍛冶の様子
 日本の銃器が伝来から幕末までの永きに渡り火縄銃の構造から進歩しなかった理由には以下があげられる。
 まず江戸時代に入り、徳川綱吉によって諸国鉄砲改めによる百姓の狩猟及び銃の原則所持禁止、銃器の移動制限がなされたことや、鎖国の影響による技術進歩の停滞という通説が存在する。
 しかしながら、外国で発達した燧発式の技術が当時の鉄砲鍛冶に受け入れられている。試作品も現存し、また応用技術としてその機構を流用したライターも製造されている。また、各大名諸藩で極秘裏に様々な銃器が研究されており、そのバリエーションは多岐にわたる。
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 朱印船は、16世紀末から17世紀初頭にかけて日本の支配者の朱印状(海外渡航許可証)を得て、海外交易を行った船を言う。朱印状を携帯する日本船は、当時日本と外交関係があったポルトガル、オランダ船や東南アジア諸国の支配者の保護を受けることができた。
 背景
 南北朝時代や戦国時代には九州・瀬戸内海方面の武士や海賊が中国、朝鮮沿岸を荒らしまわり、倭寇と恐れられた。16世紀後半になるとポルトガル船が日本に来航するようになって海外への関心が高まり、東南アジア方面にまで進出する日本人も現れた。
 天下統一による統一政権が日本に生まれると交易統制の必要性が発生し、近世ではじめに統一政権を樹立した豊臣秀吉は日本人の海外交易を統制し、倭寇(後期倭寇)を禁圧する必要から、1592年に初めて朱印状を発行してマニラ、アユタヤ、パタニになどに派遣したとされるが、この時のことはあまり資料がない。
 朱印船制度の創設
 関ヶ原の戦いで全国統一した徳川家康は海外交易に熱心な人物で、1600年豊後の海岸に漂着したオランダ船の航海士ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらを外交顧問として採用し、ガレオン船を建造させたほどである。1601年以降、安南、スペイン領マニラ、カンボジア、シャム、パタニなどの東南アジア諸国に使者を派遣して外交関係を樹立し、1604年に朱印船制度を実施した。これ以後、1635年まで350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航した。
 朱印船は必ず長崎から出航し、帰港するのも長崎であった。なお、明は日本船の来航を禁止していたので、(ポルトガル居留地マカオを除けば)朱印船渡航先とはならず、朝鮮との交易も対馬藩に一任されていたので、朱印状は発行されなかった。
 家康の主目的は薫物(香道)の用材に使用する伽羅(奇楠香)の入手で、特に極上とされた伽羅の買い付けに絞っていた(『異国近年御書草案』)。

 朱印船渡航
 交易品目
 東南アジア諸港へ赴く朱印船の多くは中国産の生糸や絹の輸入が目的であった。日本でも絹は古代から産出したが、中国産に比べると品質が悪く、太平の世の到来で高級衣料である中国絹に対する需要が増大したためである。他方、かつて倭寇に苦しんだ明は日本船の中国入港を禁止しており、朝鮮の役で敵対国となってからはなおさらであった。
 明は中国商船の日本渡航も禁止していたが、これは徹底せず、密かに来航する中国船もあったが、日本側の旺盛な需要を満たすには十分な量ではなかった。このため明国官憲の監視が及ばず、中国商船は合法的に来航できる東南アジア諸港で日本船との出会い貿易が行われたのである。中国製品以外にも武具に使用される鮫皮や鹿皮、砂糖など東南アジア産品の輸入も行われた。
 見返りとして、日本からは銀、銅、銅銭、硫黄、刀などの工芸品が輸出された。当時中国では銀が不足していたため、朱印船の主要な交易相手である中国商人は銀を欲した。しかも当時、日本では石見銀山などで銀が盛産されており、決済手段として最も適していた。ベトナムなどには日本の銅銭も輸出された。
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 世界史の窓
 世界史用語解説 授業と学習のヒントappendix list
 朱印船貿易
 16世紀末~17世紀初め、豊臣秀吉徳川家康が行った官制の海外貿易。
 豊臣秀吉朱印船貿易を開始したが、徳川家康がさらに積極的に海外貿易を推進し、朱印船貿易を展開した。貿易の利益を幕府が確保するために、海外渡航船には許可制とし、朱印状を発行し、そのような朱印状を持つ貿易船を御朱印船と言った。島津氏や細川氏などの西国の有力大名や、京都・大坂・堺・長崎の豪商が朱印状を受けて東南アジア各地に貿易船を派遣した。日本銀・銅・漆器などを輸出し、生糸・絹織物・鹿皮・蘇木・砂糖などを輸入した。著名な朱印船貿易家には長崎代官だった末次平蔵、大坂の住吉孫左右衛門、京都の角倉了以茶屋四郎次郎などがいる。
 鎖国政策がとられる直前の1635年まで、日本の御朱印船は台湾、フィリピン、ベトナムカンボジア、タイなどとの交易を行っていた。東南アジア各地に渡航した日本人は、アユタヤやマニラなどに日本町を作り、拠点とした。カンボジアのアンコール=ワットにはこのころに訪れた日本人の落書が残っている。
 徳川家康の時代までは盛んに朱印船貿易が行われたため、キリスト教宣教師の活動も黙認され、南蛮文化も長崎を中心にして拡がっていった。キリスト教禁教令は1587年の豊臣秀吉バテレン追放令以来だされていたので、布教禁止と貿易の矛盾が強まっていったが、1613年、幕府は全国に禁教令を出し、さらに1616年の家康の死によって急速に鎖国政策に傾き、1631年には海外渡航の船には朱印状のほか老中奉書を必要とすることにし(奉書船)、さらに33年には奉書船以外の海外渡航を禁止して朱印船貿易は行われなくなり、35年には日本人の海外渡航、海外からの帰国も全面的に禁止された。
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 和楽
 かつては世界屈指の武器輸出大国!日本人はなぜ鉄砲を捨て、刀を選んだのか?
 2020年03月20日
 澤田真一
 目次
 世界有数の陸軍を持っていた日本
 東アジア各国に武器を輸出
 刀剣と鉄砲の「格の違い」
 戦闘以外の意味合い
 戦国時代の日本は、世界有数の鉄砲保有国だった。
 応仁の乱の頃には影も形もなかった武器が、関ヶ原の戦いの頃になると「当たり前のもの」と化した。それがなければ戦に勝てない。もはや時計の針を戻すことはできなくなったのだ。
 鉄砲の火力を借りて、豊臣秀吉は唐入りを実行した。最終的には寸土も得られなかったとはいえ、鉄砲が失われたわけではない。フビライ・ハーンは2度の日本遠征失敗にもかかわらず、3度目の計画を思案していた。それと同じように、徳川家康が決断を下せばさらに大規模の対外侵攻が行われていたはずだ。
 が、実際にはそうならなかった。
 日本人は鉄砲を捨てたのだ。
 世界有数の陸軍を持っていた日本
 今回はノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人 日本に学ぶ軍縮(中公文庫)』を参考に、筆を進めていきたい。
 ……
 {本書が物語るのは、ほとんど世に知られていない歴史上の出来事である。高い技術をもった文明国が、自発的に高度な武器を捨てて、古くさい武器に逆戻りする道を選んだ。そしてその国日本はこの逆戻りの道を選びとって成功した。
(ノエル・ペリン『鉄砲を捨てた日本人 日本に学ぶ軍縮(中公文庫)』)}
 ……
 {日本人は武士と足軽の混合部隊で朝鮮に出兵したが、所持していた武器たるや、てんでんバラバラであった。部隊の大多数は武士で、伝統的な両刀のほかに少なくとも弓か槍を携えていた。他の兵隊の大多数は鉄砲をかついだ。最初の侵略隊十六万人のうちほぼ四分の一強が鉄砲隊であったとみられる。
(同上)}
 このような軍隊に真正面から戦って勝てる国は、アジアには存在しなかった。朝鮮半島の日本軍を苦しめたのは、極寒の冬と補給の停滞である。
 東アジア各国に武器を輸出
 そんな国だから、当然海外にも武器を輸出していた。
 現代であれば日本製の小銃が海外で販売されることはないが、16世紀はやはり容赦ない時代である。刀、具足、そして鉄砲。日本の兵器製造技術は莫大な利益をもたらし、同時に周辺諸国が日本製の兵器を必要としていた。
 この時の日本は、世界でも五指に入るほどの武器輸出大国でもあったのだ。このことを前提にしないと、以下の話も呑み込めないだろう。
 なぜ、日本の鍛冶師はたった1年で鉄砲という新兵器をコピーできたのか?
 それは初めて見た代物をそっくり真似することができるだけの高い技術力を持っていたということだが、技術力とは利益の下支えがなければすぐに枯れてしまうものでもある。鉄砲伝来の直前から、日本の刀剣は素晴らしい性能を誇る武器として東アジア各国に知れ渡っていた。
 戦争や騒乱があるから技術力が保たれ、西洋の新しい兵器にも対応できる。刀鍛冶は即ち兵器製造業者であることを念頭に置かなければならない。
 刀剣と鉄砲の「格の違い」
 徳川家康豊臣氏を滅ぼした大坂夏の陣は、1615年のことである。
 その3年後、ヨーロッパでは未曽有の大戦争が始まる。現代では「三十年戦争」と呼ばれる出来事だ。
 三十年戦争に介入したスウェーデン国王グスタフ・アドルフは、1632年のリュッツェン会戦で戦死している。霧と極度の近眼が災いし、敵軍の鉄砲隊の前に出てしまったのだ。17世紀のヨーロッパでは鉄砲の進化が著しく、それに並行して戦争が頻発するようになった。
 一方、日本では江戸時代という大平和期が到来していた。
 この時期、日本人は火縄銃をより使い勝手の良い兵器として進化させようとはしなかった。冒頭で書いた通り、日本人は鉄砲を捨てたのだ。
 ノエル・ペリンはその理由をいくつかに分けて書いているが、中でも筆者の目を引いた記述は以下の通り。
 {第三のかなり興味深い理由は、刀剣が日本ではヨーロッパよりもはるかに大きな象徴的意味をもっていたことである。それゆえ鉄砲が完全に刀剣にとってかわった場合、日本においてはヨーロッパにおけるよりも大きな損失を意味したであろう。
(同上)}
 領主が家臣に下賜するものといえば、昔から刀剣と相場が決まっていた。
 即ち、刀は「尊いもの」なのだ。それは鉄砲では果たすことができない役目でもある。
 {また日本刀は、封建ヨーロッパよりもはるかに重要な社会的意味をもっていた。帯刀の権利がなければ、名字さえも持てなかったのである。封建日本にあっては農民、町人は帯刀の権利もなければ、名字もなかった。ときには農民や町人が出世して武士身分を許されることがあった。これは名字帯刀の特権といわれた。
(同上)}
 刀が己の身分を表している以上、鉄砲よりも刀が尊ばれるのはむしろ当然の現象である。
 現に、鉄砲は平民でも所持することができた。江戸時代には裕福な商人の間で火縄銃射撃が流行したことすらある。その一方で、刀には「聖域」が存在した。平民が気軽に所持できるものではなかったのだ。
 さらに江戸時代の日本は、島原の乱や文化露寇という例外を除けば全くの無風状態だった。兵器としての鉄砲は、全くと言っていいほど需要がない。こうして日本人は、近世以降の戦争に必要不可欠な鉄砲を自発的に捨てたのだった。
 戦闘以外の意味合い
 戦国時代当時も、日本刀は実用目的より「お守り」としての役割が強かったようだ。
 実戦でも、じつは日本刀が用いられる場面は少ない。路上の喧嘩でもそうだが、格闘とは「殴り合い」よりも「取っ組み合い」になる可能性が高い。立っている相手にタックルを仕掛けてマウントポジションを取り、素早く短刀を取り出して止めを刺す……というプロセスの格闘術である。
 しかし、いや、だからこそ、長大な刀は戦闘以外の特殊な意味合いを帯びるようになったのだ。
 それが日本に2世紀半の平和時代をもたらしたことは、まさに逆説的な現象である。
 澤田真一
 ノンフィクションライター、グラップリング選手、刀剣評論家。各メディアでテクノロジー、ガジェット、ライフハック、ナイフ評論、スタートアップビジネス等の記事を手がける。
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⚔37)─4・A─空気・空気圧・同調圧力という世間様は江戸時代に成立した伝統文化である。~No.162  

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本民族日本人は、大陸や半島からに逃げてきた、流れ着いた、漂着した、雑多な人種・民族が乱婚して生まれた血が汚れた混血(ハーフ)の雑種民族である。
 日本民族日本人は、明治時代に神話を根拠にして作られ新しい民族で、それまで、人間としての日本人はいなかったし、人類としての日本民族もいなかった。
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 2020年9月21日 読売新聞「日本を覆う『空気』
 コロナ禍で顕在化
 暗黙の強制こそ『同調圧力』 鴻上尚史
 諦めは支配助長 柴山桂太氏
 SNSが空気を可視化 辻田真佐憲氏
 新型コロナウイルスの感染拡大が収まらない中、屋外での行動や店舗の営業に対し一般の人が過剰に自粛を迫る『自粛警察』が話題だ。『空気の支配』や『同調圧力』をキーワードにこの問題を探る書籍も相次いで刊行された。コロナ禍に顕在化した『空気』の問題について、識者に聞いた。(文化部 前田啓介
 約40年前に刊行された山本七平の『「空気」の研究』(文春文庫)が再評価されている。山本は、日本人の行動を規定しがちな『空気』が存在するとし、『非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として(中略)社会的に葬るほどの力をもつ超能力』と位置づけた。コロナ禍の現状も、自粛の強要に反対できない空気が醸成(じょうせい)され、異論をはさめない『空気の支配』を受けているとも言える。
 日本人の行動原理に関心を持つ演出家の鴻上尚史氏は、先月刊の『同調圧力』(共著、講談社現代新書)の中で、少数意見や異論を唱える人に対し、暗黙の内に周囲と同じような行動を強制することを『同調圧力』と定義した。鴻上氏は『(自粛警察に走る人は)国が自粛要請をしているとの大義名分を手に入れ、従っていない人をたたいても責められないと考えている』と話す。
 鴻上氏によれば、第2次大戦の際は、『日本人ならぜいたくは出来ない筈(はず)だ!』などの標語が国民生活に制約を課し、ぜいたく品の製造などを禁止した『七・七禁令』を破っていないか、隣組や国防婦人会が見てまわっていた。コロナ禍でも『3密』『ソーシャルディスタンス』などの言葉を過剰に守ろうとする風潮が生まれたが、『今も同じことをやっているのでは』とも言う。
  *   *  
 『「空気」の研究』には、空気に流されてしまった結果、まわりまわって自分の首をしめてしまうことを危惧する記述がある。戦時中、軍部の作戦は論理的判断より空気で決まったことも少なくなかった。政治経済思想が専門の柴山桂太・京都大准教授は『空気は変えようがないから仕方がないと諦めてしまうと、組織の弊害は大きくなる。誰が決定したかの責任の所在が曖昧になる』と指摘する。
 今回、人々が空気のの支配に従いがちなのはなぜか。柴山准教授は、現代社会では、生命や安全に関するリスクの削減を政治に求める声が大きくなっていることを挙げる。柴山准教授は『いったん、リスクベルが高く設定されると、簡単に下げられない。感染が広がったら誰が責任を取るのかと、世論が一元化されてしまっている』と話す。
 その結果、感染自体よりも、感染後の社会的制裁や風評被害を恐れ行動を自粛する。『それも空気の支配を助長している』と見る。
 SNSの影響で、空気の支配が強化されているとの指摘もある。『空気の検閲』(光文社新書)などの著書がある近現代史研究者の辻田真佐憲氏は、『SNSは空気の可視化をした』と指摘する。ツイッターリツイート数のように反響が数値化され、自粛を強制する意見が正しいことのように捉えられがちだという。
  *   *  
 空気の支配にあらがうにはどうすればよいのか。
 辻田氏は、趣味趣向が似た人が集まるSNSでは、専門性に特化した『専門知』が重視されやすいが、『総合知』を再評価すべきだと訴える。『政治、経済、社会と様々な分野にまたがって社会の全体図を見通す知性が必要です』
 『「空気」の研究』は、日本では昔から『水を差す』ことで空気の支配に抵抗する『知恵』があると論じた。水とは『最も具体的な自前の障害』。それに言及すると空気は崩壊し、人々は現実に引き戻されるという。」
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 ウィキペディア
 同調圧力(英: Peer pressure)とは、地域共同体や職場などある特定のピアグループ(英: Peer group )において意思決定、合意形成を行う際に、少数意見を有する者に対して、暗黙のうちに多数意見に合わせるように誘導することを指す。
 概説
 少数意見を有する者に対して態度変容を迫る手段にはさまざまな方法がある。少数意見を有する者に対して物理的に危害を加える旨を通告するような明確な脅迫から、多数意見に逆らうことに恥の意識を持たせる、ネガティブ・キャンペーンを行って少数意見者が一部の変わり者であるとの印象操作をする、「一部の足並みの乱れが全体に迷惑をかける」と主張する、少数意見のデメリットを必要以上に誇張する、同調圧力をかけた集団から社会的排除を行うなどである。
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 [木内里美の是正勧告]
 同調圧力に負けないために、「孤独力」を高めよ!
 2020年9月4日(金)木内 里美
 {日本人は基本的に群れたがる特性がある。学生のときから群れ、社会人になって、そしてシニアになっても変わらない。根底にある群れの心理はいったいどこから来るのか。群れの弊害のような事象を多く見かけるので、突き詰めて考えてみた。}
 日本人には他国に見られない、深いおもてなしの精神や寛容な宗教観などすぐれた特性がある。だが他国にはあまり見られない弱点の特性もある。その1つが群れたがるという習慣であり、「日本人は群れる」ということに定評がある。現在進行形の首相選びに、そのことが如実に表れている。群れを作り、いかに群れを拡大するかに心血が注がれる。新聞やテレビなどのマスメディアは疑問を呈することなく、それを当然のこととして報道する。
 国会議員に限らない。国内外を問わず団体行動が目立つし、留学生や駐在員など在外の日本人が群れることを指摘する声も少なくない。日本人は本来集団行動や群れることが好きなのだろうか。日本人のメンタリティとして群れることはが安心で安全な行動なのだろうか。その群れの心理を筆者なりに紐解いてみたい。
 日本人に見られる群れる心理
 日本人の群れる習慣については、いろいろな説がある。1つが農耕民族だったからというものだ。狩猟民族より群れた生活は有利であり、群を守る村八分という慣習もあったが、それは遠い話。農耕から工業へ、そして情報へと社会が変遷して久しい。島国で外部の刺激や脅威を受けなかったからという説もある。しかし、島国だからといって群れる必要はないし、外部からの脅威があった方がむしろ群れる安全メリットがある。宗教観だという説もある。日本の宗教観は古来の神道を軸として、極めて寛容な宗教観を持っており、むしろ群れることとは異質な宗教文化である。
 筆者の仮説は、日本独特の同調圧力がそれをもたらしたというものである。コロナ禍でも同調圧力が顕著に現れ、“自粛警察”や“マスク警察”のように他人に対して自由を許さない心理も同根である。
 典型的な群れである政党の派閥は、同調圧力で異なる見解を許さない。子供であっても皆と同じようにしていないと、仲間外れになったり異端扱いされたりするから、親も同調することを勧める。目立たず、同じことをする行動特性が、独特の価値観を生み出したように思えるのだ。「和をもって尊しとなす」の価値観が、いつぞや「和」から「同調」に変わってしまった。
 このような強い同調圧力はどこからきたのか。筆者は同質を求める教育制度から発現しているように思う。制服や持ち物ばかりではなく、校則や集団行動での均一・同質を求められる。多感な幼少期における長い集団生活の中で、同調圧力によって群れる習慣が染み付いてしまうようだ。これは機会平等ではなく、見た目平等なだけであって、個性を伸ばすどころか潰してしまうことになる。
 ●Next:群れる習慣から来る弊害、今、必要なのは「孤独力」だ
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 APC朝日パーソナリティセンター TOP 未分類 マスク警察の心理~同調圧力とは?~
 マスク警察の心理~同調圧力とは?~
 2020年9月5日
 昨今のコロナ禍で「自粛警察」、「マスク警察」、「帰省警察」などと呼ばれる人たちが出現しました。自粛しない人、マスクをつけない人、東京から帰省してきた人などに対し、「ルールを守れ!」と声高に攻撃する人たちです。
 なぜこのような人たちが現れたのでしょうか?この人たちの心理はどのようなものなのでしょうか?今回は同調圧力について解説します。
 日本人の同調圧力
 同調圧力とは?
 同調圧力のメリットとデメリット
 違いを認め合える社会
 日本人の同調圧力
 外出自粛要請が政府より発令されたときに、何の罰則もない日本のやり方は海外諸国に比べ緩すぎるのではないか、と批判されました。しかし、結果としてほとんどの日本人は政府の指示に従って行動を自粛しました。
 これはなぜでしょうか?
 そこには日本人ならではの同調圧力が働いたものだと考えられます。
 同調圧力とは?
 では同調圧力とは何でしょうか?
 同調圧力とは集団において、 少数意見を持つ人に対して、周囲の多くの人と同じように考え行動するよう、 暗黙のうちに強制することを言います。
 日本人は特にこの同調圧力が強い民族だと言われます。
 それは、日本の文化と関係があります。
 日本人は農耕民族として村という共同体を作り田畑を耕して生活をしてきました。
 村の規律を破れば「村八分」となり、共同体から締め出されてしまうことになります。これでは生活していけないため、周りと協調し、足並みを揃えることが重視されました。そのような文化の中で、日本人は「皆一緒」、「出る杭は打たれる」という価値観を形成してきたのです。
 日本人がことさら「世間体」を気にするのもこのような背景があるからなのです。
 戦後の日本は、生活様式アメリカナイズされ、急速に西洋化していき、西欧の個人主義を取り入れてきたように見えます。ところが、コロナ禍のような緊急事態になったとたん、本来日本人が持っている共同意識的なものが露呈してきたのではないでしょうか。
 同調圧力のメリットとデメリット
 日本人はマナーが良いとよく言われますが、この同調圧力がうまく働くと、規律を重んじ、治安を安定させる力となります。日本人はチームプレーのスポーツが得意だと言われますが、これもこの同調圧力がうまく働き結束力を強めるからかもしれません。
 ところが、この同調圧力が悪く働いてしまうと、昨今の○○警察のように、わずかな違いを見つけて攻撃したり、トイレットペーパーなどの買い占めをしたり、感染者を差別したり、異論を排除する方向に働いてしまうのです。
 違いを認め合える社会
 現代は多様性を認めあえる社会が求められています。
 同調圧力が悪い方へ働かないためには、個人個人が違いを認め合う寛容性を持つことなのではないでしょうか。
 コロナ禍のように、状況が刻々と変化する中では、なかなか一つの正解を導き出すことは難しいと言えます。そのような中では、様々な考え、価値観をもつ他者と話し合い、折り合いをつけたり、妥協点を見出していくことが大切なのではないかと思います。
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 この国の「同調圧力」と戦った元特攻兵の告白
 日大アメフト問題と同じ構造だった!
 鴻上 尚史 作家・演出家
 〈建前は志願制の特攻だが実態は程遠い。爆弾だけを落とし生還する青年は露骨に「次こそ死ね」と言われるが、理不尽な作戦への抵抗を続ける。〉
 〈大学の運動部でボールを追う技を磨いた若者が「相手をつぶせ」と命じられた。練習を干し自ら反則するよう大人が追い込んだ節もある。〉
 2018年5月25日付の日本経済新聞コラム「春秋」は、戦時中の特攻兵と、日大アメフト部問題との関連・類似性を鋭く指摘していた。
 戦後73年たった今でも、この国の組織の至るところで強力な「同調圧力」が存在するのではないか。理不尽なことを部下に押しつけたまま、責任を取らない上司がたくさんいるのではないか――『不死身の特攻兵』を著した鴻上尚史氏が2017年11月に執筆した下記の論考をもとにあらためてふりかえってみたい。
 この人の生涯を伝えたかった
 ありがたいことに、『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』は発売2週間で4刷りが決まりました。僕自身、どうしても書きたかった本なので喜びもひとしおです。
 9回出撃して9回生きて帰ってきた、陸軍第一回の特攻兵、佐々木友次さんにどうしようもなく僕は惹かれました。
 札幌に入院していた92歳の佐々木さんに会いに行く時、僕の心は弾みました。忙しい仕事の合間を縫って、強引なスケジュールで札幌に飛んでも、少しも嫌な気持ちになりませんでした。
 どうして、こんなに惹かれるのか。どうしてこんなに、佐々木さんの生涯を本にしたいと熱望したのか。自分でもその感情の強さが不思議でした。
 それが、担当編集者が本の宣伝のために書いてくれた文章を読んでハッとしました。
 「我々も同じ状況になったとき、佐々木氏と同じことができるだろうか。戦後72年。実は本質的には日本社会は変わっていないのではないか。(中略)命を消費する日本型組織から、一人の人間として抜け出す強さの源に迫る」
最後の「命を消費する日本型組織」という表現が胸に突き刺さりました。そして、すとんと腑に落ちました。
 そうか。だから僕は佐々木友次さんの生涯を描くことに熱中したのか。
 本書の中で紹介しているエピソードがあります。
 『天皇明仁の昭和史』(高杉善治 ワック)からの引用なのですが、1945年8月2日、奥日光に疎開していた明仁皇太子が戦況の見通しを説明に来た有末精三中将に、「殿下、何かご質問はありませんか」と聞かれて、「なぜ、日本は特攻隊戦法をとらなければならないの」と質問しました。
 有末中将は、かなり困った顔をしたものの、すぐに気を取り直し、平然と次のように答えたと言います。
 「特攻戦法というのは、日本人の性質によくかなっているものであり、また、物量を誇る敵に対しては、もっとも効果的な攻撃方法なのです」
 後半の「特攻は有効な戦法だった」ということが、どれだけ間違っているかは、『不死身の特攻兵』の中で書きました。
 拙劣な機材で未熟な操縦士を、ただの一回だけ送り出す戦法は、フィリピン戦の初期において、なんとか結果を出すことができていても、すぐに有効ではなくなりました。
 その事実に目をつぶったことはとても問題なのですが、僕はそれよりも、陸軍中将の前半の言葉に震えます。
 「特攻戦法というのは、日本人の性質によくかなっているものであり」
 いったい、特攻戦法がよくあう性質の国民とは、どんな人々なのでしょう。
 日本人の性質と特攻
 それは、理論よりは感情を、個人の都合よりは集団の大義を、自我よりは「集団我」を大切にする国民と言えるのではないかと思います。
 僕は講談社現代新書で今まで二冊の本を出しています。『「空気」と「世間」』と『クール・ジャパン!?』です。
 この二冊は、日本という国の「同調圧力」の強さと、日本人の「個人としての自我」の弱さを追及した本でした。
 前著は、「社会」と「世間」という日本社会の構造を分析し、「世間」は日本固有のものであり、代表的には5つのルールから成立しているとしました。
 それは、「長幼の序」「共通の時間意識」「贈与・互酬の関係」「差別・排他的」「神秘性」の5つで、それによって日本人は世間とは「所与」なものとして生きていると分析しました。
 自分が生まれる前からそこにあり、そして、これからもずっと続いていく強力な「世間」。
 そこからはみ出ようとすると、一神教にも似た「同調圧力」を生む。あなたが生きる世界は変わらない。それが強固な「所与性」を持つ「世間」でした。
 『「空気」と「世間」』という本を書いた目的は、世間を知り、そして空気が生まれるメカニズムを知り、なんとか、日本固有の「同調圧力」から自由になる方法を探すためでした。敵を知り、味方を知れば、百戦危うからずということです。そして『クール・ジャパン!?』もまた、日本という国の文化を客観的・批評的に見るために書いた本です。
 日本人がまったく意識してなかったことが世界で素晴らしいとほめられ、自信を持っていたことがまったく世界で評価されない。そういうことを知ることで、日本という国の所与性(重苦しさ)に風穴を空けられるのではないかと思ったのです。
 そして、僕が佐々木友次さんに惹かれたのは、また同じ理由だったと気づいたのです。
「今度こそ死んでこい」
佐々木さんは、21歳で特攻隊に選ばれました。陸軍第一回の特攻隊『万朶隊』でしたから、晴れがましい気持ちもあったと語ります。
 初期の特攻は、優秀なパイロットが選ばれました。特に、海軍に対する対抗意識がありましたから、海軍に負けるな、なんとか見返してやるという意味でも、エリートが選ばれたのです。
 が、同時に佐々木さんはなんともやりきれない切ない思いも持つのです。そして、優秀なパイロットとして、自分のプライドにかけて、船に体当たりすることを拒むのです。爆弾を落として船を沈めることが自分の仕事だと言って。
 出撃のたびに、佐々木さんは戻ってきます。一度は大型船に爆弾を命中させて沈め、一度は至近爆発で船を小破させました。
 けれど、上官達は許さないのです。「今度こそ死んでこい」とか「船ならなんでもいい」とか「爆弾を落としたあとそのまま突っ込め」と21歳の若僧に将校たち大人が面罵するのです。
 けれど、佐々木さんは9回、戻ってきました。この精神力。この強さ。それは日本人離れをしていると言ってもいいと思います。
 なぜ、こんなことができたのか。
 天皇に報告したのだからお前は死ぬべきだという強烈な「同調圧力」を21歳の若者はなぜ拒否できたのか。
 「攻撃することが目的なのではない。死ぬことが目的なのだ」という、命を消費し、集団の成果として謳い上げようとする特攻に21歳の若者がどうして抵抗し続けられたのか。
 僕はどうしても知りたかったのです。だからこそ、2015年10月から5回も、92歳の佐々木さんに会いに行きました。
 佐々木さんの強さを僕はインタビューで知ったと思いました。佐々木さんは、言葉では、「寿命」とか「ご先祖様」とか仰いましたが、もっと根本的なことを僕に教えてくれました。
 「同調圧力」に対して、無茶な上官の命令に対して、どうして抵抗できたのか。それは、ぜひ、本書を読んでいただきたいと思います。
 ブラック企業も過労死も、同じ病
 うかうかしていると、この国は同じ文法で迫ってきます。
 佐々木さんのような若者や部下にだけではありません。世間の「所与性」にがんじがらめになって、「現実は変わらないんだ」「続けることが大切なんだ」「現状維持が目的なんだ」ということが組織の目的になるのです。
 ブラック企業サービス残業もいじめをなかったことにする学校も教育委員会も、すべては「命を消費する日本型組織」の典型的な症状です。誰もそれを本心からはよしとしないのに、変わらないものとして続いていく。
 命を消費してはいけない。命は大切にしなければいけない。大切で当たり前のことを佐々木友次さんは教えてくれたのです。
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 日本の空気・空気圧・同調圧力は、庶民の自由や権利を守る為ではなく、権力者・統治者の庶民支配を補完する為に働く。
 それを、日本の民度という。
 その傾向は、右翼・右派・ネットウヨに強い。
   ・   ・   ・   
 戦前の日本が判断を誤って戦争に暴走し、数百万人を犠牲にしたのは、日本人特有の「空気」であった。
 悪しき空気は、現代日本でも存在し、日本人を支配してトンデモない方向に導く危険がある。
 空気は付和雷同として定まらず、汚染されやすく、誘導され靡きやすい。
 日本人は、個性がなく、自意識が弱く、独自の考えがなく、宗教心が希薄で、確固たる哲学・思想そして激論を交わすような激しい主義主張を持っていない。
 ために、関東大震災朝鮮人を惨殺し、第二回南京事件を引き起こした。
 それは、日本人の心の中に潜んでいる恐ろしい闇である。
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 日本社会を統治しているのは、西洋的法の支配でも中華的情の支配でもなく日本的空気の支配である。
 日本の空気・空気圧・同調圧力といっても、現代の日本人と昔の日本人が違うように、江戸時代、明治・大正・昭和初期、戦後・昭和後期、平成・令和ではそれぞれ微妙に違う。
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 日本に治安と秩序の統一性をもたらしたのは、大陸の論理的法ではなく、中華の情緒的徳でもなく、日本民族の曖昧な空気圧・同調圧力であった。
 日本では、厳しい処罰を持った法律で強権を発動しなくても、空気圧・同調圧力で自主規制が行われる。
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 大陸において法(憲法・法律)は絶対正義とされ、皇帝・国王などの専制君主の法、教会や教団が定める宗教の法、総統や統領などの独裁体制の法、人民や国民が選んだ共和制の法、如何なる法も叛けば犯罪者として罰せられ、重罪であれば死刑に処せられた。
   ・   ・   ・   
 日本の空気・空気圧・同調圧力とは、前近代の地方・田舎のムラ意識であって近代の中央・都会の都市意識ではない。
 現代の日本人は、地方・田舎のムラ意識という呪縛から逃れる事ができない「ド田舎モン」である。
 空気・空気圧・同調圧力が、日本人から自由を奪い不幸・悲惨・悲劇をもたらし、夥しい犠牲を強いている。
   ・   ・   ・   
 江戸時代で責任の所在をハッキリさせない空気・空気圧・同調圧力が強く働いたのは、百姓一揆と打ち壊しである。
 百姓一揆や打ち壊しは怒る庶民の騒動であって暴徒による暴動ではなかった為、放火や略奪・強奪はなく、殺害や強姦・暴行もなかった。
 つまり、関東大震災での朝鮮人惨殺や第二回南京事件は、2000年の民族の歴史において他に存在しない。
   ・   ・   ・   
 自然災害・大火の度に被災地で火事場泥棒が多数出没して犯罪を繰り返していた為に、被災者達は公権力に頼らず独自で身を守るべく自警団を結成して不審者・犯罪者を取り締まり、激高した被災者は捕らえた者を裁判にかけずその場で惨殺した。
 不幸にも惨殺された者の中には無実の者も含まれていた。
 恐怖に自制心を失った弱い者は狂暴になり、自分よりさらに弱い者に襲いかかって恐怖心を克服した。
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 大陸では自分より強う者を攻撃するが、日本では自分より弱い者を攻撃する。
 日本で、大陸のような権力を打倒する革命が起きないのはこの為である。
 その為に権力者は、大陸では弱者を救済するが、日本では弱者を助けない。
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 庶民は、戦場近くで逃げ惑う女や子供に対して乱取りをし、敗れて逃げ惑う武士に対して落ち武者狩りをし、野晒しになっている戦死者に対して戦場荒らしを行い、役得として金を稼いでいた。
   ・   ・   ・   
 日本人の本性は、情け容赦のない羅生門の鬼である。
 日本人の性格は、穏やかで優しさの正反対である。
 賢くもないし、優れてもいないし、秀でてもいない、全てその反対である。
 日本人に対する好評価は、そうありたいと思う日本人の卑屈さの表れである。
 それ故に、「認め褒める」教育が推奨されている。
 そして、日本人の愚かさを気付き認めさせる為にも、わざとらしく誉めそやす輝かしい歴史や美しい物語は罪悪として廃棄する必要がある。
 日本仏教の教祖達は、その事を繰り返し説いてきた。
 日本の伝統文化・文芸・芸能・民芸は、その事を忘れないように謡や仕草で演じてきた。
   ・   ・   ・   
 日本人は、ねっからのポジティヴ人であってポジティブ人ではない。
 それ故に、「認め褒める」教育が必要なのである。
 つまり、自分一人だけで生きていこうという自立心・自活心・独立心が生まれ欠けているのである。
 自立心・自活心・独立心がある人間には、「認め褒める」教育は必要ないどころか有害である。
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 日本の権力者・支配者は、空気・空気圧・同調圧力による相互による自己規制があった為に、誣告や密告を奨励しなくても、超法規の公的暴力機関である秘密警察や極秘治安機関を設置して監視・監督をしなくても、安定した統治が維持できた。
   ・   ・   ・   
 日本の庶民が空気・空気圧・同調圧力を行使していた理由とは、御公儀(幕府や大名)の法度・法律・お触れによる生活干渉を極力排除する為であった。
 言われる前に注意される前に自分たちで自己規制して変えてしまえば、気分を害する、不愉快になるように「とやかく言われる」事もなくなる。
 庶民の御公儀を黙らせる強かさが、空気・空気圧・同調圧力であった。
 空気・空気圧・同調圧力とは、自分の為として、自主的行動を取る事で庶民の自由を保障していた。
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 空気・空気圧・同調圧力が強化されたのは、同時多発的に頻発する雑多な自然災害、疫病、大火、戦争が原因であった。
 豪雨で川が氾濫する危険性が発生した時、流域民全員を助けられないとなれば、大勢を助ける為に少数を犠牲にする為に、人家の少ない堤を切って人工的氾濫を起こした。
 つまり、諸問題を全員で協議を重ねて「全員で方針を決定する」という平時の法の手続きを省いた、戦時・有事・非常時の予め決められた手順で現場が瞬時に問題を解決させる為の予行演習である。
 空気・空気圧・同調圧力とは現場重視の日本式トロッコ問題解決法で、いい面と悪い面があり、往々にして悪い面が出やすく弊害を残す事が多い。
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 日本民族日本人は特殊な空気・空気圧・同調圧力に支配されていた為に、西洋・東洋・中華などの大陸世界で日所茶飯事的に起きていた人種差別、宗教対立、殲滅戦争、大虐殺・ホロコースト・ジェノサイドなど多くの非人道的犯罪行為は起きず、縄文時代からわりかし平穏な民族の歴史を紡いできた。
 それは、西洋の神治・法治でもなく、東洋・中華の徳治・人治・情治とも違っていて、強いて言えば「場の空気治」であった。
 中国人や朝鮮人は天帝・天の徳治・人治・情治を奉ずる為に、日本民族日本人の場の空気治が理解できないし、日本の空気・空気圧・同調圧力は通用しない。
 場の空気とは、大陸のキャラバン隊・騎馬集団・船団などより大きな集団論理ではなく、より小さな舟の共同論理である。
 つまり、小さな船は空気・空気圧・同調圧力で船員全員が支配されない限り動けない。
 そして、それは、日本海を主要航路として沖縄から日本列島・北方領土朝鮮半島南部、千島列島、樺太カムチャッカ半島までを毛漕ぎ舟で行き来していた船乗りの縄文人が持っていた「場の論理」であった。
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