💍8)─1─立皇嗣宣明の儀。秋篠宮殿下の立皇嗣の礼。男系父系皇位継承順位1位。〜No.43No.44No.45 ⑧ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2020年11月8日09:00 産経新聞「【立皇嗣の礼】きょう「宣明の儀」 午前11時から皇居・宮殿で
 秋篠宮さまが皇位継承順位1位の「皇嗣(こうし)」となられたことを内外に示す「立皇嗣(りっこうし)の礼」の中心儀式「立皇嗣宣明(せんめい)の儀」が8日、皇居・宮殿「松の間」で執り行われる。平成3年の天皇陛下の「立太子(りったいし)の礼」にならって行われるが、大正天皇から陛下まではご結婚前に儀式に臨んだため、今回はご夫妻で臨まれる近代以降初めての形となる。
 国事行為として行われる宣明の儀は、8日午前11時に始まる。約50人の招待者を前に、陛下が秋篠宮さまが皇嗣となったことを宣明された後、秋篠宮さまもお言葉を述べられる。続いて菅義偉(すが・よしひで)首相が「寿詞(よごと)」と呼ばれる祝辞を述べる。3年の陛下の立太子の礼では、在位中の上皇さまが「徳仁親王が皇太子であることを、広く内外に宣明します」などと述べられた。
 午後4時半には、宣明の儀の後に陛下が初めて秋篠宮さまに会われる「朝見の儀」が同じ松の間で行われる。秋篠宮さまが両陛下に謝意を示され、両陛下もお言葉を述べられる。秋篠宮紀子さまも同席される。
 儀式ではその後、両陛下とご夫妻が、黒豆と酒とみりんを煮た「九年酒(くねんしゅ)」を注いだ盃を交わされ、両陛下からご夫妻に祝い品として、えんび服などの生地の目録も渡される。
 宣明の儀から朝見の儀までの間には、宮殿「鳳凰(ほうおう)の間」で、陛下が皇太子の守り刀である「壺切御剣(つぼきりのぎょけん)」を秋篠宮さまに渡される行事が行われるほか、秋篠宮さまが皇嗣として初めて、紀子さまとともに宮中三殿の殿上で拝礼される儀式も予定されている。」
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 11月8日11:16 産経新聞「【立皇嗣の礼】「責務に深く思いを致し、務めを果たす」「宣明の儀」で秋篠宮さま決意ご表明
 立皇嗣宣明の儀で天皇、皇后両陛下の前でお言葉を述べられる秋篠宮さま=8日午前11時8分、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影)
皇嗣宣明の儀で天皇、皇后両陛下の前でお言葉を述べられる秋篠宮さま=8日午前11時8分、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影)
 秋篠宮さまが皇位継承順位1位の「皇嗣(こうし)」となられたことを天皇陛下が内外に示される「立皇嗣宣明(りっこうしせんめい)の儀」が8日午前、皇居・宮殿「松の間」で行われた。宣明の儀は「立皇嗣の礼」の中心儀式。陛下は「本日ここに、立皇嗣宣明の儀を行い、皇室典範の定めるところにより文仁親王皇嗣であることを、広く内外に宣明します」とお言葉を述べられた。
 午前11時、新型コロナウイルスの感染防止対策のため、間隔を空けて立つ参列者が待つ中、両陛下が松の間に入られ、宣明の儀が始まった。
 陛下のお言葉の後、秋篠宮さまが「立皇嗣宣明の儀をあげていただき、誠に畏れ多いことでございます。皇嗣としての責務に深く思いを致し、務めを果たしてまいりたく存じます」と決意を表明された。
 続いて、菅義偉(すが・よしひで)首相は「ここに改めて皇室の一層の御繁栄をお祈り申し上げます」と祝辞である「寿詞(よごと)」を述べた。
 午後には、宣明の儀の後で陛下が初めて秋篠宮さまに会われる「朝見(ちょうけん)の儀」なども執り行われる。」
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 11月8日12:00 産経新聞「【立皇嗣の礼廃太子や戦乱によるイレギュラーな即位も 日本史彩る「立太子」めぐるドラマ
 「立皇嗣宣明の儀」でお言葉を述べられる天皇陛下と、皇后さま、秋篠宮ご夫妻=8日午前11時5分、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影)
 8日午前、「立皇嗣宣明(りっこうしせんめい)の儀」が挙行され、秋篠宮さまが皇位継承順位1位の「皇嗣」となられたことが内外に示された。宣明の儀を中心儀式とする立皇嗣の礼は平成3年の「立太子の礼」を踏襲。近世以前、何度も行われた同様の儀式は天皇の後継指名の場だったとされるが、歴史をひもとくと、順当に皇太子を経た天皇ばかりではない。古代には一度立てた皇太子を廃する例が相次いだほか、後継指名できる上皇天皇が戦乱で不在となり、異例の即位となった例も。日本史に伝わる立太子をめぐるドラマを追った。(橋本昌宗)
■「廃太子」相次いだ古代
 現代の日本では、天皇の長男が皇太子となるなど、皇位継承順位は明確に定められている。
 しかし、明治22(1889)年に皇室典範が制定されるまで、皇位継承に関する規定は存在しなかった。長男だからといって必ず皇太子になれるわけではなく、母親の身分に加え、譲位した上皇や時の幕府、有力者の意向も複雑にからんで決定された。
 皇太子になったからといって安泰とはいえない時期もあった。奈良時代末期から平安時代にかけて、皇太子の身分を剥奪する「廃太子」が相次いでいる。
 平安時代初期に編纂(へんさん)された史書続日本紀」によると、奈良時代末期の光仁(こうにん)天皇は、宝亀元(770)年、前代の称徳天皇崩御に伴い、天皇の遺言で、62歳で皇太子となった。
 2カ月後に天皇となったが、3年には皇太子としていた子の他戸(おさべ)親王の身分を剥奪して庶民に落とした。続日本紀によれば、親王の母が天皇を何度も呪ったことが理由とされる。
 代わって皇太子に立てられたのは、平安京に遷都することで知られる後の桓武天皇だった。
 しかし、平安時代になっても皇太子の地位は不安定のまま。宮内庁書陵部が編纂した「皇室制度史料」によれば、桓武天皇から嵯峨、仁明(にんみょう)と相次いで一度立てた皇太子を廃している。
 一方、文徳天皇の後、ほとんど廃太子はなくなる。皇太子を立てる儀式も平安時代後期ごろには確立したとされ、中断や修正を経ながら受け継がれていく。
■配流、拉致…戦乱の時代
 皇太子が廃されることは少なくなったが、平安末期以降は戦乱が相次ぐ。皇太子を立てないまま天皇崩御することもあれば、中には、皇太子の“指名権”を持つ上皇天皇が配流(はいる)されたり、全員拉致されたりする事態も起こった。
 鎌倉時代後鳥羽上皇鎌倉幕府と戦った「承久の乱」の戦後処理で幕府側は、後鳥羽上皇らを配流にし、仲恭天皇皇位を剥奪した。
 乱の後で位を継いだ後堀河天皇は、皇太子を経ずに直接天皇となった。幼少だったため、父親の守貞親王が、自身は天皇になったことがないにもかかわらず太上天皇上皇)として実際の政務を執る形となった。
 皇統が2つに分かれて争った南北朝時代も同様だ。
 室町幕府を開いた足利尊氏と弟の直義が争う「観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)」の混乱の中、南朝が京都を一時的に占領。北朝がすぐに奪還したが、南朝は撤退する際、光厳上皇北朝上皇と、混乱で皇太子を廃された直仁親王を拉致する。
 幕府は新たに後光厳天皇を擁立するが、次の天皇を指名できる上皇はすべて不在。そのため、後光厳天皇の祖母が、上皇の役割を代行して天皇を指名した。祖母は皇室出身ではなく、異例の即位となった。
■中断から再興、現代へ
 皇太子を定める立太子の儀式は、南北朝時代の終わりから約300年間行われなくなる。
 室町時代から戦国時代にかけては、朝廷の多くの儀式や祭祀(さいし)が途絶えており、皇位継承に伴う重要祭祀「大嘗祭(だいじょうさい)」ですら、営まれない状態となってしまう。
 江戸時代に入ると、朝廷の儀式再興に尽力した霊元天皇が後の東山天皇を皇太子に立てる際に儀式を挙行。霊元天皇大嘗祭も実施しており、以降は儀式や祭祀の復興が続いた。
 明治維新の後、明治22年に皇室典範が制定されたことで皇位継承順位は明確になり、儀式の細部も42年の立儲令(りっちょれい)で定められた。儀式の意味は後継指名から、法律で後継者と決まっている皇太子をお披露目する場へと変わった。
 立儲令は戦後廃止されたが、前代の儀式を参考に、政教分離など時代の要請に合わせて修正を加えながら連綿と続いてきた儀式は、今回の「立皇嗣の礼」に続いている。」
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 11月8日13:11 産経新聞「【立皇嗣の礼】「おめでたい」沿道から秋篠宮さまにお祝いの声 間隔あけコロナ対策も
 秋篠宮さまを一目見ようと赤坂御用地前に集まった人たち=8日午前9時21分
 秋篠宮さまが皇位継承順位1位の「皇嗣(こうし)」となられたことを示す「立皇嗣宣明(りっこうしせんめい)の儀」が執り行われた8日、皇居や秋篠宮ご夫妻がお住まいの宮邸(東京都港区)のある赤坂御用地周辺を訪れた人たちからは、「おめでとうございます」などとお祝いの声が上がった。
 ご夫妻は午前9時15分ごろ、宮邸で長男の悠仁さまのお見送りを受けて車に乗り込み、皇居へ向けてご出発。新型コロナウイルス禍で「密」な状況を作るのを避けるため、平成3年の立太子の礼の際のような儀式的な車列を組まず、普段ご夫妻が皇居を訪問する際と同様に移動された。
 御用地近くの沿道には、ご夫妻のお姿を撮影しようと、一眼レフカメラスマートフォンのカメラを構えた人たちの姿も。東京都世田谷区の中学3年生、斎藤駿仁(はやと)さん(15)と新崎稜真(りょうま)さん(14)は「お車に乗った秋篠宮さまを直接見ることができた」と興奮した様子。斎藤さんは「おめでたい皇室の行事の締めくくり。昨年から今日は絶対に来ようと思っていたので、うれしかった」と話した。
 これに先立ち、天皇陛下が儀式の挙行を宮中三殿に奉告するため、午前8時すぎに皇居・半蔵門を通過された際には、周辺に30~40人ほどが集まったが、警備関係者が間隔をあけて並ぶよう呼びかけるなど、感染拡大防止策がとられた。
 半蔵門に午前5時50分に来たという川崎市宮前区の白滝富美子さん(79)は「新型コロナウイルスの影響で一時はどうなってしまうのかと思ったが、無事に行われてよかった。皇族の方々も安心されたのではないか」とほっとした様子。「秋篠宮さまには、これからも頑張っていただきたい。おめでとうございます」と笑顔で祝福した。」
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 11月8日17:57 産経新聞「【立皇嗣の礼天皇陛下の思いやご経験 どうご継承 秋篠宮さま
 「立皇嗣(りっこうし)の礼」が8日挙行され、秋篠宮さまが皇位継承順位1位の「皇嗣」となられたことが明示された。秋篠宮さまは皇嗣となった昨年5月以降、活動の幅を広げており、今後は宮中祭祀(さいし)に皇太子と同様の立場で臨まれるなど、役割は多岐にわたり、重みを増すことになる。陛下の考えやご経験を次世代に継承されるためにも「意識や体験を共有される場が必要」との指摘もある。(橋本昌宗、緒方優子)
 「とても難しいんだけど、上手にできていますね」。10月29日、福井県立南越特別支援学校の生徒らが、ろくろを使った学習についてオンラインで説明すると、秋篠宮さまはこう感想を述べられた。
 秋篠宮さまは今年5月、「全国『みどりの愛護』のつどい」に合わせて同校を訪問される予定だったが、新型コロナの感染拡大で実施が見送りに。代わりに、オンラインを使った異例の視察と懇談が実現した。
 「みどりの愛護」のつどいは代替わりに伴い、秋篠宮さまが陛下から引き継がれた公務の一つだ。秋篠宮さまは平成30年、誕生日の記者会見で、毎年行われる公的な活動について「一つ一つを、その都度その都度考えながら、自分の仕事、若しくは務めを、進めていくようにしたい」と述べられている。側近の一人は「前例にとらわれすぎることなく、何が良いのかいつも考えて真摯(しんし)に取り組んでおられる」と話す。
皇嗣としての務めは、陛下から引き継がれた公務だけにとどまらない。宮中祭祀では今後、陛下が皇太子時代にされたのと同様、宮中三殿の殿上で拝礼されるようになり、より陛下に近いところで、所作も複雑になる。陛下の海外ご訪問中などに国事行為を代行される機会も出てくる。
 秋篠宮さまは30年の記者会見で、宮中での行事などについて「随時話合いを、既にしているものもありますが、(今後も)していく必要があろうかと考えています」と、陛下との意思疎通の在り方に言及された。だが、皇室の課題が話し合われてきたとされる、24年春ごろに始まった陛下、上皇さま、秋篠宮さまの「3者会談」は、代替わり後は開かれていない。
 一方、宮内庁関係者によると、秋篠宮さまは代替わり後も複数回、陛下がお住まいの赤坂御所をご訪問。新型コロナウイルスの感染拡大後、直接会われる機会は減ったが、側近部局で陛下から秋篠宮さまへの電話を取り次いだこともあった。今月初旬に皇居で立皇嗣の礼の所作などを確認する「習礼(しゅらい)」が行われた際にも、陛下と秋篠宮さまが直接、意見交換をされた。宮内庁幹部などを介したやり取りも続いているという。
 秋篠宮さまの知人の一人は「秋篠宮さまは小さい頃から陛下に対して非常に強い尊敬の念をお持ちで、以前からご兄弟でよく話をされている」と話す。
 皇室に詳しい京都産業大所功名誉教授は「国事行為や宮中祭祀など、『天皇』にしかできない経験と認識を皇嗣になった秋篠宮さまが共有し、継承していかれる必要がある」と指摘。「兄の天皇と弟の皇嗣が一体となっておのおのの役割を果たせるように、心を通わされる機会を積極的に作ってほしい」と話した。」
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