🕯175)─1─大乗仏教の日本仏教(江戸仏教)は釈尊の仏教とは違う。富永仲基。〜No.367No.368 ㉞ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
  2020年11月6日・13日号 週刊ポスト「話題の新刊 この人に訊け!
 『天才 富永仲基 独創の町人学者』 釈徹宗著 新潮社
 人々の知見を左右する条件も見すえた『知識社会学の開祖』
 井上章一
 富永仲基は、18世紀の前半を生きた。まことに独創的な、大阪の町人学者である。その学問的ないとなみに、この本はせまろうとする。また、かみくだいて説明するように、つとめている。
 仏教には、さまざまな経典がある。仲基はそれらを読みくらべ、先後関係をさぐりだした。
 ある経典はべつの某経典からこれこれの部分をとりいれ、どこそこをふくらませている。こちらの経典はあちらの経典からしいれた文句を、こんなふうに増幅させていた。そんな分析をつうじ、こう喝破したのである。どの経典も、それぞれの都合で釈尊像をねじまげている。いわゆる大乗仏教は、もう仏教じゃあない、と。
 江戸時代の仏教界は、この説に強くあらがった。こいつは、仏教のことが、まったくわかっていない。仏教を冒瀆(ぼうとく)している・・・。
 この本を書いた釈徹宗は、浄土真宗本願寺派の僧侶である。寺の住職にもなっている。そんな身でありながら仲基の学問を、高く評価する。『現代の眼から見れば、富永仲基の論考は仏教研究にとって実に有意義なものです』、と。
 仲基の傑出ぶりは、多くの人に論じられてきた。だが、現役のお坊さんまで絶賛していることに、私は感銘をうけている。
 キリスト教圏で経典の批判的な分析がはじまったのは、よほど時代が下る。今でも教会関係者は、そういう研究をいやがろう。イスラム圏では、まだたやすくとりかかれまい。なのに、日本ではお坊さんまで、ほめていた。
 仲基の仕事は、人びとの知見を左右する条件にも、およんでいる。時代によって、風土によって、それはどうかわかる。学者のあつまりである学閥も、物の考え方をゆがめることがある。そのからくりも見すえていた。いわゆる知識社会学の、日本的な開祖でもある。
 著者も、そちらの側面をクローズ・アップさせている。仏教批判だけでなく、人文科学の先達としてとらえる度合いが強い。そこは、やはりお坊さんの書きぶりかなと、にんまりさせられた。」
   ・   ・   ・   
 明治初めに起きた廃仏毀釈の原因は、江戸時代の庶民の中に芽ばえていた。
 日本の精神風土では、宗教や哲学・思想・主義主張などにおける絶対真理・絶対価値観を相対して、好む所のみをつまみ上げ好まない所は全て捨てた。
 その結果、仏教は残りキリスト教は消えた。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、真理や価値観において、個性の強い確定解釈よりる個性が弱く曖昧でいろんな解釈ができる意訳を好む。
   ・   ・   ・   
 日本には、武士=儒教の政治権力、僧侶=仏教の宗教権威、皇室=公家の天皇の御威光・宮中祭祀の三の力が存在していた。
 政治権力の徳川幕府は、諸宗寺院法度で仏教の宗教権威を、諸社禰宜神主法度で神社神道を、禁中並公家諸法度で公家の天皇の御威光・宮中祭祀を、強権を持って監視・監督下に置いた。
 そして、絶対神の福音で地上の全てを破壊するキリスト教を禁教とし、絶対神の愛の信仰で世俗の情を拒絶するキリシタンを弾圧した。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 富永 仲基(とみなが なかもと、正徳5年(1715年) - 延享3年8月28日(1746年10月12日)は、江戸時代大坂の町人学者、思想史家。懐徳堂の学風である合理主義・無鬼神論の立場に立ち、儒教・仏教・神道を批判した。彼の学問は、思想の展開と歴史・言語・民俗との関連に注目した独創的なものといわれている。
   ・   ・   ・   
 富永仲基(読み)とみながなかもと
 1715―1746富永仲基 とみなが-なかもと
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 [生]正徳5(1715).大坂
 [没]延享3(1746).8.28. 大坂
 江戸時代中期の思想家。父は懐徳堂創立者の一人,道明寺屋吉左衛門。幼名は幾三郎,三郎兵衛,のち徳基,さらに仲基。字は仲子,子仲。号は南関,藍関,謙斎。 10歳のとき懐徳堂に入り,三宅石庵から陽明学を学んだ。 15歳頃『説蔽』を著わして儒学を批判し,石庵に破門されたという。その後田中桐江について詩文を学び,また家を出て黄檗大蔵経の校合に従った。元文3 (1738) 年中国思想を研究した『翁の文』 (46) を著わした。また延享1 (44) 年仏典の比較研究を行なった『出定後語』 (2巻,45) を著わし,仏教界から激しい攻撃を受けたが,他方では猪飼敬所,本居宣長平田篤胤らから推称された。ほかに『律略』『諸子解』『日本春秋』『長語』『短語』『尚書考』『大学考』『論語考』の著がある。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
   ・   ・   ・   
 考える人 > 本の試し読み一覧 > 釈徹宗『天才 富永仲基 独創の町人学者』試し読み > 序 早すぎた天才
 2020年9月17日
 釈徹宗『天才 富永仲基 独創の町人学者』試し読み
 序 早すぎた天才
 著者: 釈徹宗
 「富永とみなが仲基なかもと」と聞いて、「ああ、あの人か」とすぐにピンと来る人はそう多くないでしょう。富永仲基は、江戸中期の大坂に生きた町人学者で、世界に先駆けて仏典を実証的に解読。「大乗仏教は釈迦の直説に非ず」という「大乗非仏説論」で知られ、本居宣長平田篤胤といった国学者内藤湖南山本七平といった歴史家にも絶賛されています。その反面、仏教界では長く敵視されていた時代もありました。それもそのはず、日本仏教の大勢を占める大乗仏教を「釈迦の直説に非ず」と喝破したわけですから――。
 その〝知られざる天才〟に、「大乗仏教の申し子」浄土真宗の僧侶にして宗教学者釈徹宗さんがチャレンジングに迫るのが『天才 富永仲基 独創の町人学者』です。仲基の功績や評価、独創性についてまとめたその序文「早すぎた天才」を掲載します。
 天才の条件
 富永とみなが仲基なかもとは天才である──。
 それを最初に言ったのは内藤湖こ南なんでしょう。内藤は仲基のことを「日本が生み出した第一流の天才」と評しました。
 内藤湖南は、漢学・儒学の流れを汲む東洋史研究者です。埋もれていた典籍を発掘・研究した人としても知られています。
 大正14(1925)年、内藤は「大阪の町人学者富永仲基」という講演において、仲基を稀代の天才であると紹介し、仲基の研究がどれほどすごいものであるかを述べています。この講演は、大阪毎日新聞が15000号を発行した記念に行われたものでした。今日にも伝わる名講演であり、富永仲基を大いに顕彰する内容となっています。内藤はすでに明治中頃から富永仲基についての文章を何度か発表しており、歴史に埋没しそうになっていたひとりの町人学者へ光をあてることに成功したと言えるでしょう。
 内藤湖南だけではありません。
 東洋史学者の石濱純太郎、評論家の山本七平しちへい、日本文学者の水田紀久のりひさ、宗教学者姉崎正治、哲学者の井上哲次郎、仏教学者の村上専精せんしょう、インド思想学者の中村元はじめなど、多くの人たちが富永仲基の天才性を高く評価しています。
 天才の条件とは何でしょうか。
 もちろん〝独創性〟を挙げることができるでしょう。そしてそれは〝同時期の人たちには、なかなか理解されない〟ことと表裏の関係となります。誰もがすぐに「それはそうだな」と理解できる内容や思想では、たいした独創性と言えませんから。
 さらに、〝早熟〟ということも加えてよいのではないでしょうか。つまり、多くの人が長年にわたる研鑽・努力で到達する地平へと、早い段階でやすやすと飛躍してしまう。それが天才というものでしょう。
 このような条件で考えるならば、富永仲基はまさに天才の呼称にふさわしい人物です。独創的で、長い間にわたって理解されず、早熟・早逝の人生でした。
 仲基のオリジナリティ
 富永仲基は18世紀を生きた大坂の町人であり、市し井せいの学者です。正徳5(1715)年に生まれ、31年ほどの短い生涯でした。はじめに儒教を学び、独自の手法で仏教経典を解読しました。そこで展開された加上かじょう説は今なお輝きを失っていません。他にも言語論や比較文化論などを駆使したオリジナリティの高い思想で、儒教・仏教・神道を批評しています。
 現在、逝去する約9カ月前に刊行された『出定後語しゅつじょうごご』と、約6カ月前に刊行された『翁おきなの文ふみ』、そして『楽律考がくりつこう』という未刊行の書の清書本が現存しています。
 それらの著作によってわかるのは、仲基のオリジナリティあふれる方法論や思想です。詳しくは後述しますが、次の五つを押さえておいてください。
 1. 「加上」
 思想や主張は、それに先行して成立していた思想や主張を足がかりにして、さらに先行思想を超克しようとする。その際には、新たな要素が付加される。それが仲基の加上説です。つまり、そこにはなんらかの上書き・加工・改変・バージョンアップがなされているとするのです。
 2.「異い部ぶ名字みょうじ難なん必ひつ和わ会かい(異部の名字は必ずしも和会し難がたし)」
 同じ系統の思想や信仰であっても、学派が異なると用語の意味や使い方に相違が生じ、所説も変わる、そのつじつまを無理に合わせようとすると論理に歪みが生じる、とする立場です。
 3.「三物五類」
 言語や思想の変遷に関するいくつかの原則です。三物とは、(1)言に人あり、(2)言に世あり、(3)言に類ありの三つを指します。(1)は学派によって相違するということ。(2)は時代によって相違するということ。(3)は言語の相違転用のパターンを五つに分類したもので、〝張〟〝泛はん〟〝磯き〟〝反〟〝転〟を挙げています。これが「五類」です。
 4.「国有俗(国に俗あり)」
 思想や信仰には文化風土や国民性が背景にあることを指摘したものです。仲基は「くせ」とも表現しています。言葉には三物五類の諸条件があって、思想や教えが分かれる。さらに、国ごとに民俗・文化・風土の傾向があって、そのために説かれる思想・教えが異なっていく、ということです。
 5.「誠の道」
 どの文化圏や宗教においても共有されているもので、人がなすべき善を実践していく道を指します。「道の道」とも表現しており、〝人が道として歩むべき真実の道〟だと仲基は考えました。
 1から4は、いずれも現代の人文学研究において前提となるべき態度であると言えるでしょう。しかし、十八世紀の日本に、このような方法論を独自に構築していた人物がいたのです。
 大乗非仏説論
 さて、富永仲基と言えば「大乗非仏説論」の先駆者として知られています。「大乗非仏説論」とは、大乗仏教の経典は釈迦が説いた教えではないとする説です。江戸時代の半ばにおいて、仏教の思想体系を根底から揺さぶる立論を、世界に先駆けて世に出した人物が富永仲基です。しかも、それを独力で成し遂げたのですから、内藤湖南をはじめ、数多くの人たちが〝天才〟と評するのも無理はありません。
 実は大乗仏教が釈迦の説いた教えではないという議論は、インドでも古くから論じられてきたことです。本文中でも触れていますが、たとえば紀元4~5世紀において、無む着じゃくと世せ親しんが『大乗だいじょう荘しょう厳ごん経きょう論ろん』でこの問題に応答しています。
 ただ、仏典を思想史的に解明するという方法論をとったのは、やはり富永仲基が世界で初めてだと言えます。
 仲基が蒔いた種は、その後、国学者たちの仏教批判を生み出し、近代における大乗非仏説論争の源流となりました。哲学者の井上円了えんりょうや宗教学者姉崎正治真宗僧侶の村上専精らによる近代知性と仏教学の展開によって、大乗非仏説問題は今日においてもしばしば俎上に載せられています。そして、今日の議論を通して考察しても、仲基の立論は色あせるものではありません。仲基の眼力がいかにすごかったかがわかります。
 仲基は加上説によって、「阿あ含ごん」→「般若はんにゃ」→「法華ほっけ」→「華け厳ごん」→「大集だいじつ・涅ね槃はん」→「頓とん部ぶ楞りょう伽が」→「秘ひ密みつ曼まん陀だ羅ら」といった仏教思想の展開を推論しました。
 簡単に説明すると、最初は釈迦の直説じきせつ(直接説いた教え)から始まったものが、文字化されずに口伝だったので、いろいろ加上や分派があって、阿含経典群が成立。そこから空くうを主張する般若経典や『法華経』(今で言うところの初期大乗経典群)、そして『大集経』や『涅槃経』(中期大乗経典群)や『楞伽経』(禅宗を指します)、最終的に密教経典群(後期大乗経典)が生まれたと考えたのです。これは、おおよそ現代の研究結果と符合しています。
 他にも、「大乗仏典にも異なる系統がある」といった慧眼や、宗教聖典の権威性に足をすくわれることなく読みこんでいく姿勢や、荒唐無稽な話を単に揶揄するのではなく文化という側面からアプローチするところなど、注目すべき点はいくつもあります。
 近代になって再発見
 仲基を天才と評した内藤湖南は、彼の方法論に注目しました。
 学問上の研究方法に論理的基礎を置いたということが既に日本人の頭としては非常にえらいことであります。その外に宗教・道徳に国民性の区別があり、時代相の区別があると、あらゆる点に注目して居ります。これが我々の非常に尊敬する所以ゆえんであって、恐らく日本が生み出した第一流の天才の一人であると言っても差支さしつかえないと思うのであります。(講演「大阪の町人学者富永仲基」)
 確かに仲基は、西洋近代の学術方法論を学んだわけでもないのに、独自の工夫で同様の方法論を編み出したのですから驚嘆すべきことでしょう。
 このことは、その後、湖南門下の東洋学者で重視されるようになります。たとえば武内義雄支那学研究法』(岩波書店、1949年)では、仲基の「加上」法運用がいかに効果的であるかが語られています。
 他に東洋史学者の石濱純太郎は、仲基の伝記を書き、仲基はすべてから解放された独創性をもつと絶賛しています。
 あるいは、評論家・山本七平は「現代の日本で、仲基の思想を根本から否定する日本人はおそらくいないであろう」(『日本人とは何か。』下巻、PHP文庫、1992年)として、仲基の自由な思想展開を讃えています。
 宗教学者姉崎正治は26歳の時、『仏教聖典史論』(1899年)において、仲基の仏典批判とクリスチャン・パウルの聖書批判とを東西宗教書批判の二大先駆書として、「此の如き数千年の葛藤中に処し、特に歴史的感覚に乏しき東洋に出で、明朗なる判断、鋭利なる批判力を具そなえて、之これに兼ねるに該博の学識を以もってし、仏典に歴史的批評を与えたる富永仲基氏の如きは、詢まことに泥中の蓮たらずんばあらず」と評しています。
 哲学者の井上哲次郎も『日本陽明学派之哲学』(1900年)で、『出定後語』を「仏書の批評として頗すこぶる注意すべきもの」と述べています。
 そして仏教学者・村上専精は『大乗仏説論批判』(1903年)の「第三章 近世日本に於ける大乗仏説論」において「富永仲基氏の大乗仏説論」を論じています。
 他にも数多くの人々が仲基に注目しており、ここではとても書ききれません。
 著作を概観する
 仲基の魅力を知るには、どうしてもその著作を読まねばなりません。中でも主著である『出定後語』を読むことが必要でしょう。しかし、上下2巻の分量があり、けっこう難解なのです。たとえば、江戸時代の学僧や国学者の多くは、単なる仏教批判書として扱ってしまいました。しかも、かなりの誤読を含んでいます。『出定後語』は、今日の仏教学の研究結果を踏まえなければ、誤読する可能性は高いと思います。
 本書では、かなり抄訳・意訳することで、特別な知識なしでも読めるように、できる限り工夫しています。
 さらに、死の半年前に上梓した『翁の文』で語られた「誠の道」「道の道」とは何なのか。これについても『翁の文』を概観することで考えてみたいと思います。なにしろこの「誠の道」については、これまで多くの論者が酷評してきた部分なのです。
 また、『楽律考』の内容も紹介します。これまであまり知られていない仲基の一面を知ることができると思います。
 それでは、ご一緒に富永仲基の思想をひもといてみましょう。
 (つづきは本書でお楽しみください)
   ・   ・   ・   
天才 富永仲基 独創の町人学者 (新潮新書)