💍2)─1─天皇陛下万歳に込めた日本民族日本人の期待。~No.2No.3 ① 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
 世界の常識は日本を非常識で、日本の常識は世界の非常識である。
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 産経新聞iRONNA
 上皇后さまのお見舞いのため、皇居に入られる天皇、皇后両陛下=2019年9月、皇居・半蔵門(代表撮影)
 「生きた神話」
 日本は世界で一番歴史の長い、世界最古の君主国である。太陽の女神(=天照大神アマテラスオオミカミ)の子孫が祭祀王(プリースト・キング)となり、その家長が皇室をつないできた。その歴史が、連綿と21世紀まで続いている。これこそ、まさに「生きた神話」といえる。
 そんな国が有色人国家とは、白人国家には内心、許し難いのかもしれない。それでも未開のジャングルに原住民族として生きているなら、「保護しよう」となる。ところが、G8サミット(主要8カ国首脳会議)に唯一、非白人国家として参加を続けている世界屈指の主要国なのだ。
 世界史で、敗戦国の国家元首が、敗戦後もそのまま元首を続けた例はない。あり得ない。戦勝国や民衆に断罪されるか、事前に亡命するか、戦勝国に対して「国と国民は譲り渡すので、自分と家族と、できれば親族の命を助けてほしい」と命乞いをするのが定石だった。ところが、昭和天皇はまったく違う対応をされた。
 1945年9月27日、GHQ(連合国総司令部)最高司令官、マッカーサー元帥は、昭和天皇を自分のもとに呼びつけた。マッカーサー元帥はソファに座ったまま、昭和天皇が直立不動で国際儀礼のあいさつをされるのを聞いていた。次の瞬間、驚くべきお言葉が続いたと伝えられている。
 「戦争の責任はすべて私にあります。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。あなたにお委せします。しかしながら、罪なき国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」
 マッカーサー元帥は驚いて立ち上がり、昭和天皇を丁寧に椅子に座らせた。真のジェントルマンの姿に心を打たれ、最後は玄関まで見送ったという。
 昭和天皇は戦後、日本中を大した警備もつけずにご巡幸された。国民の中に入って、敗戦の中で必死に生きる国民を励まされた。圧巻は、広島を訪れられた光景だ。大群衆が、昭和天皇歓喜して迎えた。8年半のご巡幸で、石ひとつ投げられることはなかった。
 天皇陛下とそれを支える国民あっての日本なのだ。「国体」とは、君民一体の天皇国・日本である。私が親しかった作家の三島由紀夫氏は、守るべきものは何かと『文化防衛論』で訴えた。それは『国体』であり、畢竟(ひっきょう=帰結として)、それは天皇陛下である。
 神話が天皇陛下のご存在によって、21世紀まで連綿と生き続ける奇跡の国・日本。弥栄(いやさか)あれ。その貴い国柄を、天皇陛下とその国柄を守らんと散華された日本の父祖の名誉を、日本人が守らずに、誰が守ると言うのだ。(ヘンリー・S・ストークス、zakzak 2015.03.27 取材・構成、藤田裕行)
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 天皇陛下に期待される「国民像」とは何か
 『高森明勅』 2019/10/22
 国民文化祭と全国障害者芸術・文化祭の開会式に臨席し、お言葉を述べられる天皇陛下と皇后さま=2019年9月16日、新潟市(佐藤徳昭撮影)
 天皇陛下皇位継承に伴う重要祭祀「大嘗祭(だいじょうさい)」に使う新米を納める行事「新穀供納(しんこくきょうのう)」=2019年10月15日、皇居・東御苑(代表撮影)
 高森明勅(皇室研究家)
  いつ頃からだろうか。国民の一部が、皇室にあれこれ無遠慮に「注文」めいたことを、並べ立てるようになったのは。それでいて、既に皇室から与えられている恩恵に、国民として感謝するわけではない。まして、自分たちが皇室に対してどのように貢献できるかなどと、真面目に考える人は少ない。
 例えば、保守系の人士(じんし)が皇室祭祀(さいし)の大切さを力説する論調は、もはや珍しくなくなった。しかし、その皇室祭祀を経済的に支える内廷費が平成8年以来、20年以上も同額のまま据え置かれた、異常な状態にある事実を知っている人は、どのくらいいるだろうか。その問題点を舌鋒鋭く追及する声を、ほとんど耳にしないのはなぜか。
 そういう光景にうんざりした気分になるのは、恐らく私一人ではないだろう。
 天皇陛下は先頃、ひたすら国民のために何のご躊躇(ちゅうちょ)もなく、最も制約が多くご不自由で孤独で、極めて責任の重い「日本国の象徴」「日本国民の象徴」としての「天皇」という地位についてくださった。その厳粛な事実だけで、私ども国民は心から感謝すべきではないか。
 「期待」とは、望ましい状態や結果をあてにして、その実現を心待ちにすること(『明鏡国語辞典』)だ。それも形を変えた「注文」の一種ではあるまいか。ならば、天皇陛下「への」期待ではなく、皇室「から」国民はどのように期待されているか、ご期待にどのようにお応えすべきか、逆に胸に手を当てて反省してみるのも有益だろう。
 例えば、天皇陛下は皇室祭祀に実にご熱心に取り組んでくださっている。歴代天皇の中でも、とりわけ祭祀にご熱心だったとされるのが上皇陛下。その上皇陛下に決して引けを取らないご精励ぶりだ。陛下は、国家の公的秩序の頂点に位置する、最も高いお立場にあられながら、祭祀に誠心誠意お取り組みになることで、常に自分より上位の存在を自覚され、へりくだった清らかなお心を、深く身に付けておられる。それは驕(おご)りや高ぶりや弛(ゆる)みとは正反対の精神だ。
 そのようなご姿勢に、私ども国民も見習わなくてよいのか。もちろん、国民一人ひとりが直接、祭祀に携わることはできないし、その必要もない。しかし、心のありようは学ぶことはできるはずだ。陛下は精魂を込めて祭祀に打ち込んでください、われわれはそっぽを向いていますから、では話にならない。千分の一、万分の一でも、そのお心構えを見習おうとする態度があるか、ないかだ。
 「天皇の祈り」についても誤解があるのではないか。天皇陛下はわれわれ国民のために祈ってくださっている。有り難い。そこにとどまっているのではないか。自分らが「皇室のために」お祈り申し上げる、という気持ちがわずかでもあるだろうか。
 天皇陛下が国民のために祈ってくださっているという場合、その内実はどのようなものか。以前、上皇后陛下が分かりやすく説明してくださっている。「陛下が…絶えずご自身の在り方を顧みられつつ、国民の叡知がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するよう祈り続けていらっしゃることが、皇室存在の意義、役割を示しているのではないかと考えます」(平成7年、お誕生日の文書回答)と。これは、国民がどれだけ無知怠慢でも天皇陛下がお祈りくださっているから、もうそれだけで大丈夫、というような呪(まじな)い的な祈りではない。全く違う。「責任」は全て国民にある。ただ、その国民の「判断」「志向」がより善きものとなるように、祈ってくださっているのだ。そこを勘違いしてはならない。
 天皇陛下は、皇太子として迎えられた最後のお誕生日の際の記者会見の中で、以下のようにお述べになった。
 「平成は、人々の生活様式や価値観が多様化した時代とも言えると思います。…今後は、この多様性を、各々が寛容の精神をもって受け入れ、お互いを高め合い、さらに発展させていくことが大切になっていくものと思います」(同31年)と。これは、かなり明らかな表現で示された、国民へのご期待だろう。
 現在、加速度的に進行しているグローバル化は、必ずしも社会にプラスの効果ばかりをもたらすとは限らない。むしろ、国内における経済格差の拡大や「移民」の増加によって、社会に深刻な分断を持ち込みかねない。そうなると、異質性を憎む非寛容な対立感情が激化する恐れがある。よほど有効な施策が講じられなければ、「国民統合」が不可逆的に困難になる可能性が見込まれる。
 言うまでもなく、これは専ら国政上の重大課題である。だから、天皇陛下や皇室の方々は一切、関与できない。まさに、国民の「叡知」と「意志」が問われるテーマだ。それに無為無策のまま、「国民統合」の確保をひたすら天皇陛下や皇室の方々に求めるような、本末転倒に陥ってはならない。このような点でも、皇室から期待される国民像とは何かを、自省すべきだろう。
 上皇陛下は「天皇陛下御在位三十年記念式典」のおことばの中で、次のように述べておられた。「象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、さらに次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています」と。誠に頭が下がる謙虚さだ。天皇陛下はこのおことばにお応えになるべく、早速、上皇陛下のお気持ちをくみ取りながら、新しいなさりようもお見せくださっている。
 天皇陛下は日本の歴史上、かつて例を見ないほど国際社会で目覚ましくご活躍いただける条件を備えておられる。特に、世界が直面する「水の問題」では既に国際的に高い評価を受けておられる。陛下の世界への偉大なご貢献を、国民は力を尽くしてお支えすべきだろう。
 天皇陛下には、どうか上皇陛下がなさったように、ご自身のお考えの通りに、新しい時代にふさわしい「新しい風」を吹かせていただきたい。健全な庶民はこぞってそれを歓迎するだろう。
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 苦しむ人々が口にした「天皇陛下万歳」に込めた本当の意味
 『八木秀次』 2019/10/22
 2015年11月、国連本部で開かれた「水と災害に関する特別会合」で、基調講演をされる皇太子さま(当時)=ニューヨーク(AP=共同)
 「即位後朝見の儀」でお言葉を述べられる天皇陛下と皇后さま=2019年5月1日、宮殿・松の間(代表撮影)
 八木秀次(麗澤大教授)
 天皇陛下が5月1日の即位後朝見の儀で「歴代の天皇のなさりようを心にとどめ」と述べられたことには極めて重い意味がある。陛下のご覚悟がうかがえるのだ。
 「ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽(けんさん)に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します」との部分だ。極めてあっさりとした表現で、それゆえに多くの人はその意義に気付いていない。
 平成29(2017)年2月、57歳のお誕生日を前になさったご会見で天皇陛下(当時皇太子)は同じような表現をなさった。ご会見の内容は次のようなものだ。
 平成28年8月7日、陛下は、戦国時代の16世紀中ごろに後奈良天皇(第105代、在位:1526年6月9日〈大永6年4月29日〉~1557年9月27日〈弘治(こうじ)3年9月5日〉)が洪水や天候不順による飢饉(ききん)や疫病の流行に心を痛められ、苦しむ人々のために諸国の神社や寺に自ら写経した般若心経を奉納されたときの一巻を実際にご覧になった。
 陛下は、学習院大で中世・瀬戸内海の水運史を卒業論文のテーマとされ、留学先の英国オックスフォード大大学院で17~18世紀の英国テムズ川の水上交通史を研究された。関心はやがて世界の水問題へと発展し、水に関することを自らのライフワークとされるようになった。
 平成15(2003)年には第3回世界水フォーラムの名誉総裁を務められ、平成19(2007)年から平成27(2015)年までは、国連水と衛生に関する諮問委員会(UNSGAB)の名誉総裁も務められた。ご講演録『水運史から世界の水へ』(NHK出版)に詳しいが、水は少なすぎれば、干ばつや飢饉、水争い、戦争を引き起こす。
 水くみのために時間を取られ、十分な教育を受けられない子供たちも世界中には多く存在する。また、近年の台風や豪雨による大洪水や水害、また地震の際の津波のように、水は多すぎても人々を苦しめ、命を奪う。最近の豪雨は、地球温暖化による気候変動によるものでもあり、国を超えたテーマにもなっている。陛下はこうした水への関心から、洪水に苦しむ民に心を痛められた後奈良天皇の御事績に思いを馳(は)せられたのであろうと拝察する。
 陛下はこの57歳のお誕生日を前にしたご会見で、後奈良天皇が自ら写経された般若心経の奥書に「私は民の父母として、徳を行き渡らせることができず、心を痛めている」旨の思いが記されていたことを特に紹介された。
 その上で「般若心経を写経して奉納された例は、平安時代に疫病の大流行があった折の嵯峨天皇を始め、鎌倉時代後嵯峨天皇伏見天皇南北朝時代北朝後光厳天皇室町時代後花園天皇後土御門天皇後柏原天皇、そして、今お話しした後奈良天皇などが挙げられます」と歴代の天皇の名前を挙げられた。
 そして、その次に「私自身、こうした先人のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がまさになさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむ、ということを続けていきたいと思います」と述べられた。
 ここでは「こうした先人のなさりようを心にとどめ」という表現になっている。「こうした先人」とは、言うまでもなく、名前を挙げられた歴代の天皇を指す。即位後朝見の儀での「歴代の天皇のなさりようを心にとどめ」と同じ内容と考えてよいだろう。すなわち「歴代の天皇のなさりようを心にとどめ」とは、名前を挙げられた歴代の天皇と同じように、自らを「民の父母」と位置づけることを覚悟されたことを意味する。
 「民の父母」とは文字通り、国民にとって父親や母親のような存在であることを意味する。親が子供を愛おしく思い、慈しむ、自分の存在に替えてでも守りたいと思う、そんな心情を持った存在ということだ。陛下はそのことを「国民を思い、国民のために祈るとともに、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむ」存在であると述べられている。
 それをもう少しかみ砕いて言えばどんなことか。私が天皇という存在について考えるとき、必ず思い起こすのは、亡くなった作家、評論家の松本健一氏が書いた『昭和天皇伝説』(河出書房新社)という著作の最後の一節だ。次のようなものだ。
「国民のすべてが(とくに戦後は)それぞれにじぶんのことを考え、じぶんの愛する人を想い、じぶんの家の永続性を祈り、じぶんの属する集団や共同体の利益を図るときでさえなお、一人でいいから、ほんとうにたった一人でいいから、国民のことを考え、想い、祈り、図ってくれる人がいてほしい。/そのような幻の人を思い描いて、この昭和という時代のなかで、二・二六事件青年将校は『大御心にまつ』といい、戦争中の特攻隊員は『天皇陛下万歳!』と泣き苦しみながら死に、〔公害企業からはもちろん、内閣からも議会からも病院からも救ってもらえないと絶望した〕水俣病の患者は〔最後に、ほんとうに最後の光を求めるように、その自由にならない口で〕『て、ん、の、う、へい、か、ばんざい』と呻いたのではかったか。 (〔 〕内は前の文章をもとに筆者が補った)」
 天皇とは何だろうか。どういう存在だろうか。
 さまざまな議論が可能だが、多くの日本人にとって天皇とは、自分の心を救ってくれる「最後の人」なのだ。この世がどんなに苦しくても、最後は天皇が救ってくださるという思いで、日本人はこの国の歴史を歩んできた。
 松本氏は「制度的な意味で権力から切れた戦後の昭和天皇は、…『民の心を抱きとめて、いつくしむ』ことこそが天皇政治の本質であるとおもい、つとめてそのように振る舞おうとした」とも述べている。松本氏はあえて「天皇政治」という言葉を遣っている。
 ここでいう「政治」とは政治家が行使する権力行為ではない。それを超越した、いや、政治家にはできない、高次元での精神的な統治のことだ。権力政治では救われない「民の心を抱きとめて、いつくしむ」、「国民のことを考え、想い、祈り、図る」ことをいう。そのような「たった一人」の「幻の人」にしかできない高度の政治、これが「天皇政治」なのだ。
 松本氏は「幻の人」と書いたが、私たちは現に「民の父母」であろうと覚悟を決められた天皇陛下をいただいている。「幻の人」ではない現実の天皇陛下が私たちの前にはいらっしゃる。その天皇陛下による「天皇政治」がこれから本格的に始まる。」
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🌏43)─1─欧米人は開国期の日本人に醜悪を感じ嫌悪した。〜No.138No.139No.140 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 国・政府や国民は、他国より自国の発展や進歩を、他国民よりも自国民の幸せと豊かさを優先する。
 他国・他国民の為に自国・自国民を犠牲にする人間はいない。
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 日本人などは、褒められた人間ではない。
 日本人ごときは、賢くもなく、優れてもいないし、秀でてもいない、むしろ、はっきり言って世間知らずで、愚かで、馬鹿で、救いがたいほどのダメ人間である。
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 日本民族日本人は、西洋諸国からアフリカ人同様に奴隷にされた人間である。
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 2019年10月17日号 週刊文春「文春図書館
 『欧米人の見た開国期日本』 石川榮吉著 角川ソフィア文庫
 評・坪内祐三
 サッカーのワールドカップとラグビのワールドカップは大した違いないと思っていたが、実はかなり違うことを知った。
 つまり、代表の資格問題。
 ラモスやロペス、トゥーリオのようにサッカーの場合は日本国籍を有していなければ日本代表になれない。
 ところが、ラグビーの場合は3年以上日本にいればOKだ。これは素晴らしい。
 東京オリンピックが近づいて来て、ニッポン、ニッポンといううっとうしいナショナリズムの気運が高まって来ている。
 しかしワールドカップラグビーの日本代表はそういうナショナリズムを『脱構築』する。
 アホなナショナリズムはもうやめにしよう。
 ポイントは異文化理解だ。
 その点で『欧米人の見た開国期日本』は読みごたえある。
 幕末に日本によって来た欧米人に、日本人の顔に『醜悪』に見えた。慶応2(1866)年から1年間滞在したフランス海軍士官(国籍はデンマークエドアルド・スエンソンの目にもそううつった。しかし、『醜い大衆の中にも、ときとして気高く人品の良さそうなものが見出される』というのだ。
 〈これはおそらく、鎖国以前に彼らの祖先とヨーロッパ人が混血した結果であろう。大衆のあいだには、こうしてヨーロッパ人の血が流入したが、いっぽう高貴な家柄にはそうしたことがなく、血の純血が保たれてきたと思われる〉
 女性の場合は人為的な部分もあった。イギリスの秘書官ローレンス・オリファントは、『旅行者が日本人の群衆のあいだで、女性について受けた最初の印象は、最高に醜いということである』、すなわち、『眉毛のないこと、そして黒く染めた歯は、きわめていたましい不愉快な効果を生じている』と述べている。
 アメリカ駐日総領事ハリスの書記官兼通訳だったヒュースケンは下田で盂蘭盆会(うらぼんえ)を見たが、祈っているのは女ばかりだった。彼の『観察はさらに進み、神社であろうと寺であろうと、礼拝の場所に集まるのはつねに女』だった。著者はその事例を東京巣鴨の『とげ抜き地蔵』(『お婆ちゃんの原宿』)と結び付けて考える。『女性が男よりも信心深いということもあるかも知れないが、礼拝の場が信仰にかこつけて、女性たちの平素(へいそ)の男の抑圧からの逃避と社交の場となっていたのではあるまいか』。
 飲食の問題となるとその差は激しい。ハリスは1857年6月の日記に、『ここ2ヶ月以上も小麦粉・パン・バター・ラード・ベーコン・ハム・オリーブ油など、あらゆる種類の洋食材を切らし、米と魚と貧弱な鶏とで食生活を続けている』と書いている。
 一方、やはり長崎のオランダ商館に勤務していたフィッセルは、『生焼けのビフテキのできるあの生の鰹』すなわち鰹のタタキが『格別においしい』と述べている。」
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 欧米人から見た時、日本人女性は醜かった。
 日本人女性は眉毛を剃り歯を黒く染め、アイヌ人女性は顔に入れ墨をいれ、琉球人は手に入れ墨を彫った。
 縄文人の子孫は、女性の体に入れ墨を入れる事が美しいと信じていた。
 ルネッサンス期のビーナス像を女性の最高の美だと確信する欧米人の美観からすれば、日本の美は醜悪で悍ましく破壊的であった。
 大和撫子や手弱女は、ナショナリズムとして作られた新しい日本人女性の理想像に過ぎない。
 江戸時代で飛ぶように売れた美人画は、芸者や遊女・花魁などの商売女・娼婦・売春婦である。 
 西洋で美術品として価値の高い美人画は、女王、王妃、令嬢など支配階級・上流階級の高貴な女性・娘・少女である。
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 開国期。日本を訪れていた欧米人は、キリスト教優位宗教観と宗教的白人至上主義から、日本人を下等で劣等な猿と見下していた。
 世界は、日本人を人間ではな家畜同様の獣と蔑視していた。
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 欧米諸国は、日本に対して植民地拡大という高度なゲームを仕掛け、日本を如何に占領し、日本人をどう奴隷にして使役するかしか考えていなかった。
 キリスト教会は、キリスト教諸国の非キリスト教諸国への侵略を祝福していた。
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 欧米列強が日本に来たのは、日本を開国させ近代化する為ではなく、幕府・佐幕派と朝廷・倒幕派に大量の武器を売って内戦を起こさせ、日本を戦乱の中で崩壊させる為であった。
 つまり、清国におけるアヘン戦争ではなく、多数派に対して少数派を反乱させて滅亡させたムガル帝国ビルマ王国の再演であった。
 そして、利益を得る為に少数派を手懐け、少数派に権力と富を与え多数派を暴力と貧困で支配させる。
 その為に利用されたのが、宗教と哲学・思想・主義主張であった。
 宗教がキリスト教であり、哲学・思想・主義主張がマルクス主義共産主義)であった。
 特定の宗教や特殊な哲学・思想・主義主張を本に「一人が万民の為に、万民が一人の為に」を真顔で語る人間は、疑うべきである。
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🎑38)─1─江戸時代は識字率が高かったのはウソである。歪なナショナリズム。〜No.94 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 江戸時代の日本人は、教養や知識など多方面で、西洋人や中国人はもちろん朝鮮人にも劣っていた。
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 日本人などは、褒められた人間ではない。
 日本人ごときは、賢くもなく、優れてもいないし、秀でてもいない、むしろ、はっきり言って世間知らずで、愚かで、馬鹿で、救いがたいほどのダメ人間である。
 読み書き算盤ができたのは少数で、大半はできず、仕事のみに明け暮れ無学文盲として生涯を終えている。
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 キリスト教世界では、大半の信者が日曜ミサを受ける為に教会に集まり、神父・牧師から「隣人愛の福音」を受けて知識を広め、教養を深め、知能を高めた。
 キリスト教世界の人々は、知的であった。
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 日本の歴史には、数多くのウソや捏造・歪曲・改竄が存在し、真実が少ない。
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 2019年10月17日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 【近世篇】
 『高識字率』の幻想
 1986年、当時の中曽根康弘首相の発言が国際問題となり、首相がアメリカ国民に対して釈明するという事件がありまいた。
 中曽根さんは自民党の全国研修会で講演した際、『(日本は)相当インテリジェントなソサエティーになってきておる。(略)アメリカには、黒人とかプエルトリコとかメキシコとか、そういうのが相当おって、平均的にみたら非常にまだ低い』と発言しました(『中央公論』1986年11月号)。
 この講演の別の箇所では『徳川時代は教育が奇跡的に進んでいて、識字率が約50%。その頃のヨーロッパの国々はせいぜい2、30%』とも発言していました。
 総理大臣の発言ですから、その影響は、とても大きかったと思います。江戸時代はリテラシー識字率)がものすごく高かったという思い込みが、日本人の中に生じてしまいました。いまでも『江戸時代の日本人は、世界で一番字が読めたんやで』という人が結構います。
 寺子屋はいつできた?
 江戸時代には藩校や寺子屋がたくさんあって、読み書きを教えたという話しはこの連載でも紹介しました。
 しかし、藩校などがいつできたかというデータをみると、急増するのが寛政年間、つまり1789年以降です。ちょうどフランス革命が起きて、19世紀に入る頃です。
 それ以前には藩校は80にも足りないぐらいでしょう。それが明治維新までに140校ほどが新設されています。藩校としては熊本藩時習館福岡藩修猷館(しゅうゆうかん)、薩摩藩造士館などがよく知られていますね。1830年以降、それまで40校程度だった私塾も1,000校まで増加します。寺子屋に至っては300校程度だったものが1万校近くも急増します。しかしこれらは明治維新からわずか3、40年前のことです。
 江戸時代には庶民も寺子屋で読み書きそろばんを教わっていたといっれも、実は江戸時代もかなり後期の話です。江戸時代の初期には、村や町では庄屋や町役人など武士の下で現地の行政を担う人たちが、読み書きできて程度でした。
 ヨーロッパの識字率
 角知行さんの『日本の就学率は世界一だったのか』によると、1850年の非識字率は北欧が10%。つまり9割の人が字を読めました。スコットランドプロイセンが20%以下。イングランドは中位グループで、30%から50%ですから読めた人は7割から5割です。
 これに対して日本の数字は、1965年に発表されたロナルド・ドーアさんの研究では、明治維新時点で男性の43%が修学、つまり読み書きができたと推計しています。これが中曽根発言の日本の識字率の元ネタだったのかもしれません。
 ところがヨーロッパの数字は女性を含めたもので、日本は女性の修学率10%(ドーア推計)を入れると、全体の識字率は3割を切ってしまいます。
 また近年の研究では、明治維新後に行われた政府の調査を利用して、義務教育以前の、日本人の読み書き能力を紹介したものもあります。
 それによれば、滋賀県では男性の9割(女性の5割)が自分の名前をサインできたのに対して、鹿児島県では6割の男子、9割の女子がサインできなかったといいます。
 軍による徴兵にあたっての調査(男性限定)では、仙台や三重県の津などのエリアでは非識字率は低いものの、沖縄や四国などでは半数以上の男性が読み書きができなかったという結果でした。女性はもっと低かったことでしょう。
 江戸や京都、栄えている地方都市の男性を中心に、字が読める人はそこそこいて、ヨーロッパにはそれほど遅れていたわけではないと思います。しかし世界のなかでも優れていた、というのは言い過ぎやで、というのが現在の研究者の認識です。
 もっとも、ヨーロッパの識字率のデータも1850年ですから、産業革命ネーションステート国民国家)化が進み、近代的な教育がかなり普及してきたころの話です。
 欧米では産業革命が始まると国家や地方自治体が小学校を作りました。工場には均質な労働者が必要だからです。
 それまでは、簡単にいえば、『人生=仕事=教育』でした。
 たとえば鍛冶屋(かじや)になりたい人は鍛冶屋のおやじのところへ徒弟修業に行って仕事を覚えるわけです。それが教育であり、人生であり、仕事だったのです。
 ところが機械を使った工場ができると、誰でも機械を操作できなければならないので、工場のマニュアルが読めるようにと学校ができます。
 学校では、すぐに工場で働けるような均質な労働力を作りはじめるのです。ディヴィド・ヴィンセントさんは『マス・リテラシーの時代』で、『ヨーロッパ社会の労働貧民層の子どもは、生活(ライフ)を通じた学びから人生(ライフ)に備える学びへ転換する必要があった』と述べています。
 産業革命によって、近代的な学校が完成するわけですね。
 いっぽう、江戸時代の日本は、まだ産業革命以前です。商家へ丁稚奉公に行き、読み書きそろばんを番頭さんから仕事のなかで教わるといった、人生=仕事=教育という世界に日本はあったのです。
 『江戸時代は一般の庶民にも高い文化があったんやで』という考えは、『高識字率』だけでなく、別の幻想も生み出しています。『江戸しぐさ』がその典型です。
 『江戸しぐさ』のまぼろし
 狭い道ですれ違うさいに、お互いに片方の肩を引いて通りやすくする『肩引き』。あるいは雨の日に、お互いに傘を外側に傾けてすり抜ける『傘かしげ』。舟(電車)で人が乗ってきたら、椅子に座っている人たちがこぶしひとつ分腰を浮かせて席を詰める『こぶし腰浮かせ』・・・。こういった『マナー』を以前耳にしたことのある人もいるでしょう。
 2005年に公共広告機構(AC)が、地下鉄構内やテレビCMでこれらの『江戸しぐさ』を公共マナーのキャンペーンに使い、広く社会に広めました。
 メディアも好意的に紹介し、2012年には、一部の中学校の公民の教科書にまで『江戸しぐさ』が掲載されます。
 『江戸しぐさ』を推進する人たちによれば、これらは、江戸時代に商人たちが生み出してた所作、知恵だとされていました。
 実はこの『江戸しぐさ』には、まったく事実上の根拠がありません。原田実さんの『江戸しぐさの正体』に、1980年代にあるひとりの作者によって生み出され、その後協力者たちによって次第に広がっていくさまが丹念に述べられています。『江戸しぐさ』は、新しく捏造された『伝統』だったわけです。
 同書の出版んおち、『江戸しぐさ』の名前は、表向きには急速に姿を消していきました。教科書も現在掲載を取りやめています。
 しかしいまもマナー講習や教育現場などで、この『江戸しぐさ』は『昔の人が編み出した、素晴らしい生活のエチケットやで』と、根強く説かれているのが現状です。
 『武士道』が、明治時代に創られた『伝統』であったのと同様です。フィクションと史実をしっかり分ける大切さを改めて思い知らされます」
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  江戸時代はおろか日本は全般において、自己責任、自力救済、自己努力が鉄則で、薄情であった。
 生きるも死ぬも本人の責任として、誰も助けなかった。
 捨てる神はいても、拾う神などいなかった。
 相互扶助、助け合い、相身互い、お互い様は、限定的な狭い範囲での事で、日本社会特有の事ではなかった。
 自分が助かる為『』なら他人を押し退ける、助かるのが一人となったら他人を殴り倒してでも自分が名乗り出る、「他人より自分」「他人など関係ない」「他人を蹴落とす」それが日本的な処世術である。
 そうした日本的な生き方を洗脳し作り変えたのが、キリスト教価値観を取り入れた戦後教育である。
 日本人が好む時代劇も、昔の古武士的価値観ではなく現代の紳士淑女的価値観に近くで書かれている。
   ・   ・   ・  
 戦前の修身教育は、皇国史観や忠君愛国に繋がる仁徳天皇光明皇后楠木正成二宮尊徳などであった。
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 日本には、キリスト教的な自己犠牲のボランティアは存在しなかった。
   ・   ・   ・   
 日本人などは、褒められた人間ではない。
 日本人ごときは、賢くもなく、優れてもいないし、秀でてもいない、むしろ、はっきり言って世間知らずで、愚かで、馬鹿で、救いがたいほどのダメ人間である。
 読み書き算盤ができたのは少数で、大半はできず、仕事のみに明け暮れ無学文盲として生涯を終えている。
   ・   ・   ・   
 キリスト教世界では、大半の信者が日曜ミサを受ける為に教会に集まり、神父・牧師から「隣人愛の福音」を受けて知識を広め、教養を深め、知能を高めた。
 キリスト教世界の人々は、知的であった。
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🎃25)─1─対馬の寺。日本人による仏像盗難事件。~No.56No.57 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
 日本人の間に広がる反宗教無神論
 金儲けの為なら、宗教施設から金目の物を盗む日本人達。
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 現代の日本人と昔の日本人とは違う。
 人は、時代によって、誰と付き合うかで変わっていく。
 人は変わる。
 悪人と付き合うと悪人になり、善人と付き合うと善人になる。
 類は友を呼ぶ。
 インターネットの出会い系サイトで、似たような人間が出会い集まりやすくなった。
 個の乏しい日本人は、友人に染まり易く、その傾向は善人より悪人により強い。
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 2019年10月18日 読売新聞オンライン「対馬の寺から仏像盗んだ疑い、販売目的か…3人を逮捕
 長崎県警は17日、同県対馬市の寺から県指定有形文化財の仏像を盗んだとして、神戸市長田区、飲食店従業員の男(58)ら3人を窃盗などの疑いで逮捕した。容疑を認めているという。
 他に逮捕されたのは、土木作業員の男(42)(神戸市東灘区)、無職の男(61)(兵庫県三田市)の両容疑者。発表によると、3人は共謀し、同日午前11時18分頃、対馬市峰町佐賀の円通寺本堂の窓ガラスを破って侵入し、「銅造薬師如来坐像」(高さ約60センチ)を盗んだ疑い。寺の住職(43)が犯行を目撃し、110番したため、仏像は近くの路上に放置して逃げたという。
 男らは「仏像を盗んだのは間違いない」と供述しており、県警は販売目的の窃盗事件とみて調べている。
 同市では2012年10月、韓国人窃盗団による仏像盗難事件が発生。韓国内に持ち込まれた2体のうち1体は現在も返還されていない。」
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🎑109)─2─世界で中国映画に負け続ける日本映画。中国映画に奪われるウルトラマンやゴジラ。〜No.245 * 

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 日本人が思い考え期待・希望するような行動を取ってくれるのは日本民族日本人だけで、文化・伝統・宗教・価値観などが全く違う外国人は日本人が予想しない行動をとる。
 日本民族日本人と外国人は、同じ人間であっても、全く別の感情と思考を持った人間である。
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 全ての産業に於いて、いつ終熄するか分からない人口激減時代を生き残るには縮小する国内市場ではなく拡大する海外市場しかない。
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 言葉の壁。
 昔の映画は、外国人ではなく日本人に見せる為に、日本国語表現にこだわって製作されていたが、外国人は喜び感動して観た。
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 2016年12月号 ウェッジ「日本を元気にするコンテンツ総合戦略『公費60億円』の行方  ヒロ・マスダ
 設立から5年経過も成果なし 官製映画会社の〝惨状〟
 3年後からの投資回収を謳い、60億円の投資決定を受けたにもかかわず、公開はおろか、撮影に至った作品が1本も存在しない。映画企画開発会社の信じがたい実態とは──。
 近年、クールジャパン政策が叫ばれている。日本のコンテンツの海外展開分野においても、これまで数百億円の税金や財政投融資など公的資金が注がれている。コンテンツ政策におけるクールジャパンの目的は、単に日本コンテンツの輸出額を増やすだけでなく、ソフトパワーによる観光振興などのインバウンド獲得を狙う『クールジャパン効果』も重要な目的になっている。
 しかし、巨額の公的資金支出にもかかわず、公的資金の意思決定や成果の評価は著しく客観性に乏しい。本来、クールジャパン効果とは客観的な外部評価が基準であるべきだが、税金を使う側である当事者の主観的な内部評価が基準となっている。この思い込みが、国民財産の毀損と無駄遣いの温床になっている。その顕著な例が2011年に『日本を元気にするコンテンツ総合戦略』のもと設立された株式会社All Nippon Entertainment Works(ANEW)である。
 ANEWは、日本のIP(知的財産)を用いてハリウッド映画を作ることで、日本のコンテンツの海外展開を図り、その利益を日本国内に広く還流することで日本のエンタテインメント産業を再生するという目的で設立された。官民ファンドである産業革新機構から100%、60億円の出資を受け設立された映画企画開発会社である。
 また、ANEWの設立には監督官庁経済産業省も企画から深く関わっており、設立後に職員を出向させるだけでなく、クールジャパン官民有識者会議、首相官邸コンテンツ強化専門調査会、国会経済産業委員会でANEWの取り組みを推進してきた。
 16年10月27日で会社設立から丸5年が経過したが、これまで7作品の開発を発表しているものの、これらの映画が公開され配当を得るどころか、撮影に至った作品すら1本も存在していない。また、官報に掲載されている決算公示によれば、15年12月31日時点までの損失は14億円4,517万円に上り、何ら成果のないまま毎年赤字を垂れ流している経営状態が続いている。
 映画制作の専門性を持たない産革と監督官庁経産省はどのようにして60億円もの公金投資を決めたのだろうか?ANEW設立時、代表取締役は産革の執行役員が務め、社外取締役執行役員と共にプロジェクトチームでANEWを設計したその部下、鑑査役員も産革役員という構成であった。当然、株式も100%産革である。
 さらにANEWを監督する立場の経産省も職員を出向させていた。国民財産の運用がこうした専門性に乏しく、ガバナンスも効きにくい体制の中で行われ、『クールジャパンらしいさの追求』という主観的な内部評価を基準の中だけで60億円もの公的資金を注ぐ決定をしたのである。この件に関し経産省に情報公開請求を行うも、こうした官民ファンド等の株式会社を経由した公的資金に関する公文書は存在しない、もしくはすべて不開示となっており、国民に対し情報公開が行われない制度になっている。
 産革には客観的、中立性を保つための社内組織・産業革新委員会が存在しているが、ANEWへの投資決定を見る限り、この組織が客観性と独立性を持っているようにはうかがえない。これについては、14年の産革投資先の鑑査未実施に対する改善要求に関わった財務省職員も『ANEWのような自分で自分に出資するような投資は通常公的ファンド運用のルール違反にあたる』との見解を語る。
 ANEWの5年間の事業評価についても客観性を欠いている。経産省は『産業活力の再生及び産業活動の革新に関する特別措置法』に基づき『産業革新機構の業務の実績評価』を行っている。これによると、経産省は投資実行後も各投資先企業についての財務情報、回収見込み額、出資に係る退出(EXIT)方針、投資決定時等における将来見通しからの乖離等の精査していることになっている。
 国会で行われてた『経営は順調』の答弁
 しかしこの間、同メディア・コンテンツ課課長、大臣官房審議官は、ANEWについて『映画が実際に作られ、配当により3年で投資回収が始まる』とあたかも経営が順調であるかの旨の報告を国会等で答弁している。
 しかし、映画の専門性に基づく客観的な外部評価を基準にする場合、ANEWの『ハリウッド映画化』の発表は映画会社製作成立の根拠には値しない。『ハリウッド映画』の定義とは、厳密にはビッグ6と呼ばれるユニバーサル、ウォルト・ディズニー・カンパニー、ワーナー・ブラザーズ、20世紀FOX、ソニー・ピクチャーズ・エンタテイメント、パラマウントのハリウッドメジャースタジオ製作の映画を意味する。
 これらの映画会社には製作費に充てる資本があり、映画を適切な形で売り出すための事前のマーケティングプラン、世界に売るための配給網、また投資を一定の期間内に回収するために2、3年先の公開日も決定している。
 一方、ANEWが自社リリースで発表する『ハリウッド映画化』はこれと似て非なるものである。『日本IPでこんな映画企画開発をやります』という自社発表は、原作の映画化権を持つ者なら誰もが発表できるものであり、投資家に対して実際に映画が作られる保証をするものではない。
 しかし、経産省の内部評価基準では、『順調な経営』と評価し、設立から3年で公金投資の回収ができると勘違いしている。こうした経産省の『虚偽的』な経営報告の答弁もあってか、ANEWは14年11月28日に資本金及び資本金合わせ11億円の追加投資を受けている。すでにそのほとんどが非効率な映画企画開発を行う赤字経営によって消えている。
 ANEWの企画理念は『グローバルモデルによるイノベーションによりニッポンのエンタテインメントが生まれ変わる』だ。経産省もANEWの『社会的ニーズへの対応』『大きな成長と公的資金投資回収の高い蓋然性』『新しいビジネスモデルを確立する革新性』を認め推進した。
 しかし、映画産業で日本を豊かにしたいのであれば、世界のエンタテインメント資本、投資家、映画産業プロに作用する客観的な評価を基準に考えなければならない。主観的な理念など、評価に値しないものである。
 映画製作における真の『イノベーション』とは、秀でたタレント人材や映画テクノロジーによる創作面の効率性の向上である。官民癒着で公金を引き出すために使われた『ニッポンのイノベーション』であれば、日本再生の切り札どころか自らの持続的経営の将来見通しすら破たんした今の結果は、始まる前から分かっていた当然の結果だといえる。
 映画産業で存在感高める中国
 日本政府は日本IPに由来のある、もしくは日本に関係のあるハリウッド映画のプロデューサーや監督に対するクールジャパン表彰をロサンゼルス日本総領事館で行っている。13年には日本の玩具をモチーフにした映画『トランスフォーマー』のプロデューサーも受賞した。しかし、14年に公開された『トランスフォーマー』第4作は中国共同製作で製作され、ワールドプレミアイベントをロケ地の香港で行い、中国人俳優が主演し、中国の銀行や電気製品などのプロダクトプレイスメント(映画のなかで企業のロゴや製品を自然なかたちで出す広告手法)。
 映画におけるクールジャパン効果とは、一般客の普通の感覚で映画を鑑賞したときにどう感じるかという客観性を基準に考えるべきで、この場合、中国共同製作の『トランスフォーマー』を見た一般の観客がこの作品からクールジャパン的印象を強く感じ、それが日本へのインバウンド効果に繋がると考えるのは的外れだと言える。
 世界の映画産業においてはハリウッドだけでなく、中国の存在感も増してきている。ハリウッド版『ゴジラ』を製作したレジェンダリー・ピィチャーズの親会社は、今や中国企業である。『ゴジラ2』はレジェンダリー・エンターテイメントを買収した大連万達グループが青島にオープンされる総工費約80億ドル(約8,000億円)の世界最先端の施設で撮影されることも決定している。また同社はソニー・ピクチャーズとの提携も発表している。ANEWが発表している海外パートナー企業にも中国からの巨額出資を受けている映画会社が含まれる。
 映画産業自体も変化しており、技術革新によるインターネットの定額配信サービス、ビデオ・オン・デマンドサービスの普及に伴い消費者行動も変化し、かつて映画でしかかけられなかった高額予算をTVドラマにかけられるようになった。これと同時にハリウッド俳優、監督らもTV産業に活躍の場を移している。
 このように世界の映画産業を取り巻く環境も国際競争も劇的に変化している。一方、日本が公金投資に対する客観性についての学習を遂げるまで、世界は決して待ってくれない。
 日本がクリエイティブ産業で食べていくということは、日本に投資を獲得し、また産業を支える現場に質のいい産業雇用創出をすることが重要である。ソフトパワーによるインバウンド効果を得たいなら、まずこの国でインバウンド効果を生むいいコンテンツが生まれる環境がなければそもそも達成できない。
 ANEWが夢見る『いつか、ハリウッドの誰かが叶えてくれる』では解決しない問題である。残念ながら多額の公的資金が散財される『クールジャパン』は産業の未来にいない人たち、また成果がなくとも困らない人たちの主観的な内部評価を基準に実行されている。この分野で本当に日本を豊かにするには日本の公的資金相手の商売ではなく、世界市場相手の商売であることを認識する必要がある。
 日本のクリエイティブ産業の発展に対し無責任な人たちが無責任な未来設計するような製政策は次世代のためにも許してはならない」
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 11月28日 産経ニュース「「映画産業でアベノミクス実現を!」 日本映画の海外展開に政府本腰 検討会議議長の萩生田光一官房副長官
 邦画の海外展開に関する会議の初会合であいさつする萩生田官房副長官(左から2人目)=28日午後、首相官邸
 政府は28日、邦画の海外展開に関する検討会議の初会合を首相官邸で開いた。拡大する中国市場などに対し、政府を挙げて売り込みを後押しする構えだ。会議には外務省や文化庁のほか、大手映画会社の幹部も参加した。
 検討会議議長の萩生田光一官房副長官はあいさつで「13億人の巨大市場を抱える中国と手を携えていくことは重要なテーマ。映画産業でアベノミクスを実現し国際文化交流に弾みをつける」と意気込みを語った。
 今年、大ヒットした「シン・ゴジラ」や「君の名は。」が海外でも配給され高い人気を誇るが、国内の映画興行収入は近年、2千億円程度と横ばい状態。一方、中国の興行収入は2012年に日本を抜いて世界2位となり、15年には日本の約4倍の8160億円にまで拡大している。
 東映岡田裕介会長は会合後、記者団に「中国での上映には政府の許可が必要で三重四重の手間がかかった。政府間で交渉を進めてもらえば(規制緩和が)前進する」と期待した。」
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 2018年3月16日 産経ニュース「円谷プロ、“中華ウルトラマン”映画を提訴 中国の制作会社を上海で
 九谷焼ウルトラマンのフィギュア(写真は本文と関係ありません)
 「ウルトラマン」が登場する映画を無許可で作り上映したとして、映像制作会社の円谷プロダクション(東京)が中国の制作会社を相手に著作権侵害の訴えを上海の裁判所で起こしていたことが15日、分かった。
 円谷プロによると、映画は広東省の会社が制作し、昨年10月から1カ月余り中国全土で上映された。円谷プロは上映前、映画の宣伝が著作権を侵害しているとして中国で提訴。いったん取り下げた上で、今年2月に映画の上映を対象として改めて訴えを起こし、3月に受理されたという。
 円谷プロは「当社の権利を守り抜くため闘っていく」としている。」
・・・

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🕯101)─2─日本の祖先の魂・霊魂は子孫の身近に留まって見守っている。~No.220  ⑳

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 映画・スペック「生と死を峻別する事に意味はない。
 他者が認ずれば死者とて生命を持ち、
 他者が認ずる事なければ生者とて死者の如し」
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 2019年10月13日号 サンデー毎日「支社は行き続ける・・・
 宗教学が読み解く『死の向こう側』の世界   島薗進
 多くの犠牲者を出した東日本大震災を経た今、日本人の死生観は変わったのだろうか。映画やアニメの世界では霊魂の存在を扱う作品があふれ、『死後の世界』は世の大関心事とも映る。宗教学者島薗進氏が『死の向こう側』の現在を縦横に綴る。
 科学的知識が普及して、学校では世界のは物理的現象から成り立っていると教えられる。このような現代世界では『死後の生命』『死後の世界』を信じる人はどんどん減っていくのではないか。あるいはそう考える人も多いのではないかと思うが、必ずしもそうはなっていない。
 世界全体を見渡せば、イスラム教徒の人口が増加し続けている。そのイスラムにおいては、死後の救いを信じることは必須である。終末の日がくるとアラーによる最後の審判があり、信仰をもって正しく生きた者は天国に復活する。そうでなければ地獄へ落ちる。コーランクルアーン)には天国や地獄についてかなり具象的(ぐしょうてき)な叙述(じょじゅつ)もなされている。美酒・美食で性的にも満たされ、快楽があって苦痛がない天国、燃えさかる炎に包まれ苦痛に満ちた地獄が描かれている。
 西洋キリスト教世界や日本など東アジアでは、多数の住民が死後の至福の世界と苦痛に満ちた地獄をリアリティーをもって信じていたのは、近代化以前の時代だった。東アジアでは儒教的教養の広まりによって、近代科学に先だって来世信仰の抑制が始まっていた。19世紀以降、近代科学に基づく学校教育が普及し、天国・地獄のような死後世界の実在は信じにくくなっていく。
 ただし、原理主義的なキリスト教徒の間では、今も死後世界の実在が強く信じられている。たとえば、米国ではそのような信仰をもつキリスト教徒が今も一定の割合を占める。
 伝統的な来世観を捉え返す
 では、それ以外の人々はどうか。欧米諸国でアンケートを実施すると、『死後の魂の存続』については肯定的な答えがかなりの割合を占める。では、死後の魂はどこにあるのか。これはあまり明確ではない。『神のみもとに帰る』といった表現があり、その神は空間上のどこかに指定できるような場所にいるわけではないという受け止め方もある。この場合、『死後の生命』『死後の世界』はやや漠然としたものになっているが、まったくないというわけではないことになる。また、地獄にあたるような懲罰的な来世という像はたいへん影が薄くなっている。
 近代以前の日本では、阿弥陀仏の浄土である西方極楽浄土に往生するという信仰が有力だった。だが、近代の浄土教、たとえば浄土宗や浄土真宗ではこれをどう捉えるか。日本では江戸時代から心のなかに阿弥陀仏があり、また浄土があるといった考え方があり、現代では浄土は空間上に指定できるどこかではなく、異なる次元に『ある』といった表象が広がった。
 それはまた、『死後』という特定の時間において『往生』するというのではなく、阿弥陀仏への信仰が成り立つ『とき』において、そこに浄土が生成しているといった考え方ともつながっている。この場合も『死後の生命』『死後の世界』はやや漠然としたものになりつつ、主観的体験的な真実を反映した何かとして表象されることになる。
 死者が近くにいるという感覚
 ところが、死後のゆくえについて日本の大人に気楽に答えてもらうと『天国』という答えが返ってくることが多いという。たとえば、身近な人が死んだとき、大人は子どもに『おばあちゃん、天国からみんなのこと見ているよ』などと言ったりする。この場合の『天国』は、むしろ日本の農山漁村のような伝統社会の他界観に近いのではないだろうか。
 お盆には迎え火をたいて死者を他界から迎え、盆が終わると送り出す。この場合、他界には山にあったり、『草葉の陰』だったり、あるいは海の向こう側だったりする。地下のようでもあるが、地上の空間と隣り合った『幽界』のようでもある。これを言葉で説明しようとするととまどうが、季節の行事として自然に他界の死者と交流を行っているのだ。
 こうした民俗的な他界観は現代の都市住民には縁が薄いものだろうか。身近などこかに死者がいて、さまざまな機会に現実世界に現れるという感覚は、現代世界では失われたのだろうか。そうとも言えない。実際、死者に向かって手を合わせ、心のなかで言葉をかけるという人も多い。それは仏壇やお墓を前にして行われることだ。祈り念ずる場所に死者が現前するという経験もそれほど珍しいことではない。
 災害や事故事件、戦地・爆撃被災地などでは、犠牲者となった死者に祈る場が設けられる。その場に死者が現前すると感じる人も多い。そこは新たな聖地の様相を呈し、何ほどかの世を超えた何かが出現するのだ。
 『千の風になって』の死後生
 このように考えると、日本では2006年ごろから広く知られるようになった『千の風になって』という歌が、なぜ多くの人に親しまれているのかも理解しやすくなるだろう。
 
 私のお墓の前で 泣かないでください
 そこに私はいません 眠ってなんかいません
 千の風
 千の風になって
 あの大きな空を 吹きわたっています
 秋には光になって 畑にふりそそぐ
 冬はダイヤのように きらめく雪になる
 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
 夜は星になって あなたを見守る
 (ASRAC 出 190827─901)

 この歌では、死者は『空(そら)』にいるが、親しい生者(『あなた』)のすぐ近くにもいる。『天国にいる』というのと、あまり違いがないとも言えるだろう。日本人にとってあまり違和感がない歌詞ではないだろうか。ただ、従来の民俗的他界観では生活空間に近い山や草葉の陰や海の彼方や幽界だったものが、『天』にも通じる『空』になっている。少し遠く、かつ個人的になり、自由になったようでもある。
 実際、この歌はドイツから移住してドイツで亡くなった親のことを思う友だちのために、米国の女性が作ったものだと聞いたことがある。移動の自由が著しく拡充した現代世界で、しかし死者は身近にいるという感覚は必ずしも日本や東アジアの文化特有のものではなく、世界的にも広がってきているのかもしれない。
 日本では仏壇やお墓で死者と交流すると先述した通り、家庭に死者の写真が置いてある例は多く、それは仏壇とは限らない。日本人だけのことではない。写真や形見の物体を通して死者との交わりを経験するという事態は、世界的に広がっていると見てよいだろう。
 死者はある意味で実在する
 こうした経験に注目すると、死者はある意味で実在すると言ってもよいのではないか。『ある意味で』というのは、人が死んでもその死者と生者との交わり、絆は存続するというような意味においてだ。年齢を積んでいくと、自分が親しく交わった人たちが死んでいく。祖父母が亡くなり、父母やおじおばが亡くなり、師や先輩が亡くなっていく。きょうだいや子どもが先に死んでしまった大人や高齢者にとっても同様である。生き残っている人にとっては、先に逝った人たちとの交わりや絆は今も生きている。年齢が高いほど、人は死者たちとともに生きている側面が多くなっていく。
 これを単に、『死者は記憶のなかで生きている』というのでは、真実を尽くしていないように感じられる。親や師から受けた影響はからだや心のなかにさまざまに生き残っていて、それが感じられたり、それに応答したりする経験も珍しくないだろう。同様に精神的な意味での指導者が自分の『心のなかに生きている』と感じている人も少なくない。たとえば、イエス・キリスト親鸞聖人の言葉が心に鮮明に刻まれている人にとって、特定の死者が今もリアルに生きているという言い方に違和感はないのではないだろいか。
 少し前の日本では、祖先から子孫へのいのちを受け渡していくという感じかたが強かった。世代を超えてのいのちの共存が信じられていたと言える。しかし、現代では特定の家・親族や地縁に関わる共同性は弱まっている。しかし、さまざまな縁でつながっている人たちを通して広がる結びつき、絆を通して死後の生が表象される傾向が強くなってきている。
 生き残った人々とともに生きる
 生者は死んでも、生き残った人々とともに生きていく。このことのリアリティーを印象深く語った人のひとりに内村鑑三がいる。内村鑑三は『後世への最大遺物』のなかで、『志を後世に遺(のこ)す』という考え方を提示している。お金や事業や思想を遺して死んでいくこともできるかもしれんしが、どんな人にでもできることではない。どんな人にでもできることは、良き生を送ろうとし、それを後世に遺していくことだという。これは諸宗教が教える来世をのみこみにくいと感じている現代人にも受け入れられやすい『死後の生命』の考え方かもしれない。
 現代人に受け入れられやすいもう一つの『死後の生命』考え方は生まれ変わりということだろう。インドから広まった輪廻転生の信仰は、現代では仏教などインド起源の宗教の枠を超えて世界に広がっているようだ。ただ、伝統的な六道輪廻では、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの生まれ変わりの可能性があると信じられていたが、現代の輪廻転生観ではもっぱら人間として生まれ変わるという考え方が強まっている。
 また、今の人生のあり方は生まれる前に自分が選び取ったものだと考え方も広まっている。苦難を経験するのは、他者によって背負わされたのではなく、自らが魂の成長のために選び取ったのだという。また、この世でたまたま出会った人と深い相互理解ができるようになるのは、前世にすでに出会っているなどの縁があったからだと説かれることもある。
 こうした考え方の特徴は、この世の血縁や家族関係が軽くなっていることだ。生まれ変わりを繰り返している魂は孤独であり、孤独な魂が長い時間を繰り返し人間として生まれて、次第に魂を高めていくと考えると、この世での親子の縁は自(おの)ずから軽いものとなる。また、魂が向上していくと最後にはこの世の物質的次元を超えていくという考え方にもつながる。これはかつてグノーシス主義の思想系譜に見られた考え方と親和性がある。家族だけでけでなく、この世の人間関係そのものを束縛と感じるような考え方にも通じている。
 いのちのふりさとへ帰る
 他方、家族の縁を再確認しようとすることにもなる『死後の生命』の考え方が、新たに注目されるようになってきてもいるすでに他界した死者が生者に会いにきて、あの世での再会などについて語るという『お迎え』の経験に注目するものだ。このような『死後の生命』『死後の世界』の観念は、伝統的な民俗的来世観を継承するものだ。だが、死にゆく者のケアやグリーフケアが広がる時代になって、新たに関心を集めている。『お迎え』の経験が広く見られることに改めて気づき、それが安らかな死に、また死者とのリアルな交わりに通じると捉えられている。
 『お迎え』現象は臨死体験とも似ている。科学的合理的世界観を好む人に対しても、『死後の生命』『死後の世界』が存在するかのような経験が、人間性の一つの側面であることをともに認めようではないかと訴える力をもった事柄である。
 『お迎え』の経験と相通じるように思われるもう一つの考え方は、『いのちの源に帰る』という考え方だ。死を前にした人が聴くのを好む歌の一つが唱歌『故郷(ふりさと)』である。『うさぎ追いしかの山』で始まる歌だが、3番の『志を果たして いつの日にか帰らん』を、死んでいのちの源に帰ることと感じ取る人が増えているという。『故郷に帰る』歌や望郷の歌は、また自らを生み出した母の懐へ、さらには大いなる大地へ帰るという表象にも通じている。1960年ごろ、死を間近にした詩人の高見順は、『帰る旅』と題して、次のように歌っている(『詩集 死の淵より』抜粋、1964年)

 この旅は
 自然へ帰る旅である
 帰るところのある旅だから
 楽しくなくてはならないのだ・・・
 大地へ帰る死を悲しんではいけない
 肉体とともに精神も 
 わが家へ帰るのである
 ともすれば悲しみがちだった精神も
 おだやかに地下で眠れるのである
                
                 」
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人とは、死者・祖先の魂・霊魂と寄り添って共に生きる民であった。
   ・   ・   ・   
 世界では、祖先は神の国・天国か亡者の国・地獄の何れかに存在して身近には存在せず、身近で細部まで存在するのは絶対神の手・御心である。
 身近に存在する魂・霊魂は、それが祖先でも滅ぼすべき悪魔に魅入られた悪霊・亡霊・幽霊であった。
   ・   ・   ・   
 世界の宗教は、絶対神との信仰契約で確実な恩寵・奇跡を受ける。
 日本の宗教は、祖先との絆・繋がりで成功保証のないあやふやな御利益を受ける。
   ・   ・   ・   
 日本の死後の世界では、罪穢れた亡者が責め苦を受ける地獄はあっても、安穏とできる神の国・天国や仏の国・極楽浄土はない。
   ・   ・   ・   

🎑28)29)─1─皇室所縁の古い伝統文化には音楽療法的要素があった。自然観察と詠。〜No.70No.71No.72No.73  

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 世界の常識からすれば、人災の大火や天災の地震や台風で甚大な被害が出て多くの人が死亡しても、被災地で生き残った日本民族日本人達がお互いに喜び笑い合っている事が理解できなかった。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、水であり静であった。
 漢族系中国人や朝鮮人は、油であり動であった。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、賢くもなく、優れてもいないし、秀でてもいない。
 日本民族日本人に必然など存在せず、あったのは偶然と幸運、勢いと活力だけである。
 日本民族日本人は、音のない無音状態に不安を感じ、音のある騒音状態に安心する。
   ・   ・   ・   
 2019年10月20日号 サンデー毎日「芸術の秋は耳で〝効く〟
 ココロとカラダを癒やす 音楽療法
 『懐メロ』の3大反応
 不安や不眠を解消する
 『愛の周波数』とは
 『健康法』と聞くと、まずは食事制限やハードな運動を思い浮かべる向きが多いだろう。だが、歌を歌ったり、音楽を聴くだけで、さまざまな効果が期待できるという。世界的にも難聴や認知症のリスク要因になるといわれる昨今、ますます『耳』は侮れない。
 歌や音楽、小鳥のさえずりや小川のせせらぎといった心地よい音に疲れた心を慰めてもらう──誰しも、こんな経験があるのではないか。単なる『気のせい』とは限らない。実際、耳から伝わった音は心身の健康に寄与しているらしいのだ。
 音楽を利用して心身の治療や健康増進を図るものというのが『音楽療法』への一般的なイメージだが、医療の現場ではどのように取り入れられているのだろう。
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 *{一般社団法人・日本音楽療法学名誉理事長兼聖徳大名誉教授、村井靖児氏}
 一方で、こうした『歌う』音楽療法に対し、『聴く』音楽療法もある。
 そもそも、聴覚は心身の健康と直結している。JCHO東京新宿メディカルセンター耳鼻咽喉科診療部長の石井正則医師が語る。
 『最近、海外の有名な医学誌に「難聴が認知症のリスク要因として群を抜いて高い」という論文が出て、人と関わるストレスよりも、他人とコミュニケーションが取れなくなることが認知症リスクを高めるのです』
 加齢による難聴は、早ければ40代で始まる。その原因は主に耳の血流の減少だ。
 『耳に細かい血管が多数あり、大量の血液が流れているため、生活習慣病などで滞ると聴覚に影響が出やすくなるのです』(石井氏)
 『楽聖』の曲が副交感神経に作用
 石井氏が『脳に〝効く〟音』として挙げるのは、何も音楽だけに限らない。
 『まず、落語。頭の中で別世界を作り出すから脳が喜ぶ。お経も脳をリラックスさせてくれます。意味なんかわからなくても、目を閉じてひたすら聴いているだけで、あの低い声や独特のリズムが効用をもたらすのです』(同)
 さらには、『モーツァルトと健康効果』を研究している人物もいる。埼玉医科大短大名誉教授で理学博士の和合治久氏(比較免疫生物学・免疫音楽医療学)だ。
 もともと生物科学の視点から免疫機能を研究していた和合氏は、未病のうち体調を戻すことが健康寿命の延伸(えんしん)につながると考え、有効な手段を模索していた。その過程で出会ったのが、音の刺激で自律神経のバランスを取るという手法。
 そもそも血液の流れなどを調節する自律神経には『交感神経』と『副交感神経』とがある。緊張やストレスのある状態や寝不足が続くと、交感神経が優位となり血流が悪くなるなどするが、副交感神経を優位にすれば、それは解消される。そこで、副交感神経を刺激するツールとして──さらに言えば音の高低(特定の周波数)に着目したのだ。
 『聴覚情報は四六時中、寝ていている間も脳を刺激しています。そして生き物は人間から昆虫まですべて、音と行動が関係する。怒ったり悲しんだりした時は低い音を、嬉しい時は高い音を出すといように、喜怒哀楽と音の高低はリンクする。つまり、低い音を聴くと落ち着くのです』(和合氏)
 人体に有用な周波数を探求した和合氏がたどりついたのは、『トマティス理論』だった。フランス医学者アルフレッド・トマティスが1957年に提唱したこの理論は、『周波数と人体の部分ごとの反応には相関関係がある』とするもの。
 脳内で副交感神経が集中している中脳・橋(きょう)・延髄に影響する周波数は、トマティス理論によると、およそ4,000~4,600Hz。ピアノのもっとも高い音(約4,200Hz)を超える高い音が、脳に直接作用するというのは。
 注目の528Hz=『愛の周波数』
 実際、和合氏は何人もの人に、この周波数を含む曲を聴かせる調査を行った。副交感神経優位で見られる生体反応が確認できたという。
 これらの『体にいい』周波数の音は、楽曲や自然音として聴くことで『揺らぎ』と『倍音』が発生するため、音叉(おんさ)のような単音よりも、さらに効果が高まるそうだ。
 『複数の音が同時に鳴る時、音同士がぶつかって生まれる、より高い周波数が「倍音」です。高い周波数はより高次の脳に波及します。「揺らぎ」は、波や風のそよぎのように「規則的なものと不規則なものが定期的に繰り返す」こと。虫や風、川の音には、この「揺らぎ」が豊富なのです』(同)
 中でも和合氏が勤めるのは、モーツァルトの楽曲だ。
 『モーツァルトの曲は和音が多く、特に倍音が発生しやすい。「モーツァルトを聴くと便秘が治る」と言うと怪しげに聞こえるかもしれませんが、要はストレスに対抗して交感神経が優位になることで起きる体の不調を、特定の周波数で副交感神経を刺激し、自律神経のバランスを取るわけです。ただし、音に対する反応性は個人差があり、すぐに効果を実感できる人もいれば、そうでない人もいるので、根気よく続けることが大事になります』(同)
 他にも538Hzの周波数は、服部の消火器に分布する副交感神経を活性化するという。
 この528Hzを含む音楽や自然音を聴くことで『体調不良や精神的な不安、不眠などが好転する』と評判を呼んだことから、『愛の周波数』ともいわれている。有名タレントらが愛聴していることでも人気だ。
 だが、528Hzが現代の音階でどこに当たるかを説明するのは難しい。現在用いられている音階に、この高さの音は含まれていないからだ。強いて言えば、高い『ド』(528Hz)に近い。
 現在使われている『ドレミファソラシド』という1オクターブ8音階の周波数は、1939年に国際的に決められた『ラ=440Hz』という基準をもとにしている。一方、528Hzはそれより昔、クラッシック音楽全盛期に使われていた『ソルフェジオ音階』と呼ばれる音階に含まれる周波数なのだ。
 『最大の価値』は手軽なところに
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 『歌う』にしろ『聴く』にしろ、どのような体内メカニズムで効果が得られているかという医学的根拠は明らかになっていない。だが、音楽療法が有意に効果を示した研究結果は数多(あまた)あり、音楽に触れることで心身の状態が好転したという人は確かにいる」
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 日本民族日本人は、数万年前の縄文時代から音楽療法的環境で生きそして死んで行った。
 そこには、科学的な必然もなく、宗教的な救世主(メシヤ)の奇跡や神の御業・恩寵も存在しない。
 存在するのは、たまたまの偶然と幸運、一心に思い込む勢いと心の奥底から突き上げてくる活力だけである。
 仲間はいても敵はいなかった。
 その証拠に、弥生人は殺し合っていたが、縄文人は殺し合う事をしなかった。
 縄文の文化や生き方を正統に受け継いでいるのが、天皇家の皇室祭祀である。
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 縄文とは、耳を澄ます、気を落ち着かせ、心を鎮め、穏やかに過ごす事である。
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 万世一系男系天皇・皇室が、音楽療法的環境=古文化を保護し、絶えず新しい時代の息吹きを吹き込みながら後世に伝えてきた。
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 キリスト教共産主義マルクス主義)は、天皇・皇室に所縁のあるもの全てを根絶するべく、天皇・皇室に関連する伝統、文化、宗教、風習、歴史、芸能、日本国語その他多くのモノを完全否定し、破壊し、消滅させようとしてきた。
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 現代日本から、急速に、天皇畏敬と民族主義の源泉である伝統的日本民族文化が破壊され消えつつある。
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 日本民族日本人が、大災害で甚大な被害を被っても大人しく列に並んで配給を受け取り、もし配給品が自分の番でなくなって激昂せず、暴動・騒乱や強奪・略奪を起こさず、奪い合う為の暴行や殺人も起こさず、ましてや不当に人よりも多く貰う為に暴力で人を押し退けるような様な事もしなかったのは、縄文時代からの音楽療法的自然環境=古文化で生きてきたからである。
 だが、現代日本では、古い伝統的民族文化は廃れ、音楽療法的自然環境は破壊され、理と情をわきまえ大人しく従順だった日本人は、個の強欲と自由で醜悪へと変貌し始めている。
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 日本のローカルな神々と世界のグローバルなゴッドとは、違う。
 グローバルなゴッドは、天地創造の不可能がない絶対神である。
 ローカルな神々の神力は、霊験や御利益を示しても奇跡や恩寵を与える力はない、つまり無力である。
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 音楽療法とは、日本では自然であり、西洋ではクラッシックである。
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 日本民族日本人は、花鳥風月と虫の音の自然を愛し、四季折々の山・川・海そして平地と共に生き、自然環境に負荷を掛けない範囲、毀損しない範囲で得られる最大限の恵みで生活していた。
 日本の伝統的民族文化とは、花鳥風月+虫の音及び苔と良い菌のローカル文化で、それは縄文時代から受け継がれた地域文化であった。
 日本列島の自然環境には、花鳥風月+虫と水の音、苔と良い菌が生成する空気などが生み出す1/fゆらぎやマイナス・イオンが充満している。
 日本民族日本人は、自然の1/fゆらぎやマイナス・イオンを五感で体の中に取り込み第六感で熟成させ、心を鎮め、精神を正常に保ち、感情を穏やかにし、争いや諍いなどをを極力避け、まあまあなあなあの曖昧で平穏な日々を過ごしていた。
 日本人と中国人・朝鮮人とは違うのである。
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 日本民族日本人が空気を音として読みながら自然を観察したのは、日本列島が自然災害多発地帯であったからである。
 命の危険をもたらす様な無慈悲な自然災害が多発しようとも、日本民族日本人は朝鮮半島や中国大陸に逃げ出さず日本列島に住み続けた。
 歴史的事実として、西日本を壊滅させ、そこに住んでいた住人を大量に殺すような大噴火が縄文時代に幾度も発生していた。
 自然観察で自然を読むとは、発生する自然災害を察知して逃げると言う事である。
 日本民族日本人の生き方は、「逃げる」であって「戦う」や「挑む」ではなかった。
 日本的「逃げる」で大事にされたのが、相手を「信じきる」、相手との約束は「守りきる」事である。
 故に、日本の民族文化とは御霊・和魂による四季の文化と怨霊・荒魂による災害の文化の明暗を併せ持つを両輪文化である。
 両輪文化は、日本民族日本人の固有文化で、中国や朝鮮の文化とは無関係で、中国人や朝鮮人では理解できない。
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 空気を読み風を理解するのは、土を耕す農耕民でも、大地を移動する遊牧民でもなく、海で生きる漁労民である。
 日本民族日本人は、土着した漁労民の子孫である。
 人との争いは挑み戦い切り開いて生きる、である。
 自然の脅威には逃げるしか助かる道はない。
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 災害の文化は、ローカルなムラ文化であってグローバルな城塞都市文化ではない。
 ムラ文化である為に、ムラ人に対して、生死・運命を共にする事を誓う一致団結・全体一致・一味同心を不文律とし、自己、個・個性を殺して団結する事を強制した。
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 日本の自然災害多発地帯と中国・朝鮮などの大陸世界の戦争・紛争・暴動多発地帯とでは、性・慰安は根本から異なる。
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 自然災害多発地帯を生きる智恵は、日本民族固有の神話・民話・伝承に詰まっている。
 その源泉は、縄文時代にある。
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 日本を生きる智恵は、世界・大陸の大地の上を自由に吹き抜ける風ではなく、狭く閉ざされた日本列島の土の中に埋もれている。
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 船乗りが持っているべき必須の条件は、空気を感じ、風を読む事である。
 そして、ポジティブで、ストレスに強くパニックにならない事である。
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 埋もれた自然災害の生きた知恵を掘り出し明らかにするには、文系的現実思考と理系的論理的思考の総合力が必要である。
 日本民族日本人の思考は、文系的現実思考と理系的論理思考のバランスを保っていた。
 現代日本人の思考は、アンバランスで何方かの一方に偏っているか、両方とも希薄か消失している。
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 日本の音楽療法とは、自然観察の「詠」である。
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 日本民族日本人が自然観察で用いた「詠」とは、和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・落首などであった。
 日本の伝統的民族文化とは、簡潔に凝縮された形式美の「詠」である。
 山奥の鹿の声、森林の中の鶯のさえずり、草むらの虫の音、小川のせせらぎ、葉っぱを揺らす微風(そよかぜ)の音などを詠によみ、言語化し、文字化し、そして深層風景として心に留める。
 上は天皇から下は庶民・賤民・部落民まで、昔の日本民族日本人は全員が「詠心」を持ち、それが読み書きという識字率を上げていた。
 詠は、言霊である。
 詠を保護し、詠に力を与えているのが、天皇・皇室である。
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 詠は、現代日本で流行っている歌=カラオケではないし、中華の漢詩でも西洋のポエム(詩歌)でもない。
 カラオケの歌は、歌手や特定のプロ詩人が制約なく自由に創作し、それを聞いた消費者が金を払い歌手をまねて歌った。
 韻を踏んだ漢詩は教養高き読書人が、思いの丈のポエムは職業詩人が、それぞれ詩作し、それを時の権力者や権威者が評価して後世に残した。
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 現代の日本人が創るのはカラオケ用の歌であって、伝統的民族文化の詠ではない。
 伝統的民族文化の詠は、年始に天皇の御前で催される「歌会始」である。
 歌会始で詠われるのは、現代のカラオケではなく、中華の漢詩や西洋のポエムもない。
 伝統的民族文化の詠は、自然の観察と自分の内観を文系的現実思考と理系的論理思考で文字化・見える化する行為である。
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