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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
世界が見る日本の実像。
日本は信用され、日本人は愛されている、とは嘘である。
現代の日本人と昔の日本人は、別人に近い日本人である。
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2019年8月16・23日号 週刊朝日「ニッポン スッポン ポン NEO
北原みのり
ドイツ人の『なぜ』の尋問
『「なぜ日本では#MeTooが盛り上がらないのだろう」と取材を始めたら、「わりと盛り上がっている」と途中で取材方向が変わったので、話を聞きたい』
そう言って先日、ドイツ週刊誌『シュピーゲル』の取材を受けた。ヨーロッパ最大の発行部数を誇る週刊誌が、なぜ日本の#MeTooを?と不思議だったが、取材に来たライターによれば、『日本人は優しく、サービスは素晴らしく、街は清潔で、治安も良い。それなのに性差別はすさまじい。娘への強姦を続ける父親への無罪判決など、女性の人権が軽視されているのでは』とのことで、つまり日本の性差別はニュースとして価値があり、そこでの#MeTooもまたニュースなのだということだった。
彼女は私に『なぜ』『なぜ』『なぜ』を連発した。
『なぜ、日本では児童ポルノ(アニメのポルノのことだった)が流通しているのですか?』
『二次元での表現は合法です。表現の自由です』
『なぜですか?』
『わかりません』
『日本では、性教育がほとんどないと聞きました。なぜですか?』
『わかりません』
もちろんドイツにだって性差別は根深くある。それでも例えば大臣が『セクハラ罪という罪はない』と発言した後も大臣で居続けられるなど、フツーに考えられないことなのだという。
うらやましい。そもそも日本ではセクハラが人権問題として捉えられず、軽く扱われているのかも。そう言うと、『#MeToo=人権だけど?なぜ?』と驚かれた。
次第に、『セクハラ罪という罪』を抱えた国の民として尋問されているような気分になってきた。彼女検事のような顔で聞く。
『なぜ、日本の女性は怒らないんですか?』
『怒っています』
『なぜ、それが大きな流れにならないんですか』
『わかりません』
ドイツでは性暴力や性的同意について子どもの頃に学校で教わるという。性暴力被害者の多くは『自分に何が起きたのかわからない』という思いをする。被害者の沈黙で加害者は守られている。幼い頃から『同意がない行為は暴力』という教育を行うことで、性暴力を可視化し、告発しやすい社会をつくるのだ。日本ではピルについて教えるのも騒動が起きます、と言うと、もちろん『なぜ』と聞かれた。
約2時間の尋問。私は首を垂れ、うなだれた囚人のごとくこう答えた。これが多分ん、本件の真実です。
この国には、女性に人権がないんです。男にも少ししか人権がないんです。だから、きっとこんな状況なんです。
しかし鬼検事は尋問の手を緩めずに最後の『なぜ』を放つ。『なぜ、人権がない?』
それにはこう答えた。
『だから声をあげているんです8月11日のフラワーデモには沖縄と京都も加わった。全国で女性たちが性暴力と闘おうとしている。こんなふうに、私たちの声が変えられていくしかないんです』
さすがに『なぜ』はもうなかった。」
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日本に女性軽視、女性蔑視、女性虐待などの性差別が蔓延し深刻化したのは、奈良時代の仏教「修行の障り」、江戸時代の儒教「男尊女卑」、明治時代のキリスト教「家父長主義」、敗戦後のマルクス主義(共産主義)などの諸毒が原因であった。
その諸毒が、日本を回復不能な状態へと追い込みつつある。
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日本民族日本人は、見境ない乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族である。
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女性蔑視・女性軽視の権化とも言える国家・組織が存在する、国家としては中国共産党政府・北朝鮮労働党政府であり、宗教であればキリスト教・イスラム教・ユダヤ教である。
中国共産党だは、女性は最高権力を保有し行使する党首・主席にはなれない。
バチカン=ローマ・カトリック教会では、女性は如何に敬虔な聖職であっても枢機卿になれないし教皇にもなれない。
イスラム教やユダヤ教には、女性の律法学者や宗教指導者はいない。
儒教においても、女性の儒学者はいない。
仏教には尼僧がいるし、神道には女神主がいる。
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日本では、一般犯罪は減る傾向にあるが、個人・集団の強姦などの性暴力犯罪や異性殺人などの凶悪犯罪が増え始めている。
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現代日本の凶悪化凶暴化する性差別は、現代日本人が自分で作り出している深刻な現象であって、日本民族日本人が持っている特有・固有の病的性癖ではない。
原因は、過去ではなく現在に存在する。
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現代日本は、父親・男性優先のオス論理で動いている。
昔の日本は、母親・女性優位のメス論理で動いていた。
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日本では、男は人間として傲慢不遜な亭主関白あるいはバカ亭主であったが、女性は全ての人間の上に鎮座する山の神であった。
つまり、日本社会は女性のカカァ天下である。
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日本の文化とは、母親が我が子を抱きしめ包み込むような女性的である。
日本の「おもてなし」とは、母性であり女性の心遣い気遣いである。
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縄文人は、命の神秘と永遠の命を躍動的に表現するべく、見える化の為に使ったのが縄文模様である。
縄文模様は、蛇の蛇行であり、それは古代エジプトに通じている。
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縄文時代は、女性を神聖化し敬い崇めていた。
その証拠が、土偶である。
女性は、命の危険を冒して子供を産み、夜泣きや駄駄を捏ねて愚図など手に負えない子供をあやして育てる、など屈強・頑強な男ではできない事がやり遂げるからである。
縄文人は、命を生み育てる女性の神秘から、大地母神・産土神など女性を想わせる神々を崇拝した。
日が昇り・日が沈みそして又日が昇るから霊魂・魂の永遠を信じ、それを可能にしているのが女性の力と信じた。
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日本の最高神は、天皇家・皇室の祖先神である天照大神(伊勢神宮の祭神)である。
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日本人の信じる宗教観は、密教の胎蔵教・胎蔵界と金剛経・金剛界との両部・両界並立である。
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現代の日本人は、女性や子供、病人や障害者など弱者に対して非情と言えるほどに薄情であり、冷淡である。
如何に困っていても、関わり合いたくないとして見て見ぬ振りして立ち去か、邪魔だと嫌悪し苛立ちの冷たい目を向けて立ち去る。
日本を支配しているのは、他人をあてにしない・他人に依存しない・他人を頼らないという自己責任・自力救済の原則である。
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日本の権利は、死んだ、殺された被害者ではなく生きている加害者に重きが置かれている。
それが、日本における命重視の人権である。
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1945年8月9日から9月5日まで、満州・南樺太・北朝鮮などでソ連軍・ロシア人主義者、中国人暴徒、朝鮮人暴徒による数十万人の日本人(主に女性や子供)虐殺は歴史から抹消されている。
現代日本人は、虐殺されて日本人は唾棄すべき軍国主義者・ファシスト・国粋主義者・民族主義者であったとして生きて存在していたこと自体も完全に否定されている。
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💄27)─1─戦国時代~江戸幕府。武将たちを陰で支える女性の秘められた戦い。〜No.56
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2019年9月8日号 サンデー毎日「今週の新刊
読んでたどる歴史 本郷和人
『将軍家康の女影武者』 近藤龍春 著
武将たちを陰で支える女性の秘められた戦い
経済的に十分な余裕があり、しかも一夫多妻が許されている。そういう状況であれば、男子たる者、華やかに閨房(けいぼう)を営みそうなものである。ところが戦国大名や織豊期の大名などを見てみると、夫人の数は思いのほか多くない。キリスト教徒でないにもかかわず、明智光秀や石田三成のように、一夫一妻ということもある。武将たちが戦乱による血のたぎりに任せて女性を求める、という攻撃的なイメージは誤りで、そういう時代だからこそ家庭を大切にし、そこに安らぎや癒やしを求めるものなのだろうか。
ただし天下人ともなると話は別で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は多くの妻妾(さいしょう)を蓄えた。わかりやすいのは秀吉で、とにもかくにもお姫様。出自へのコンプレックス丸出しで、織田家など武家名門のお姫様を好んだ。これに対して家康は一ひねりが必要。若い時分は子のある未亡人。中高年になると、逆に若い娘を近づけるようになる。未亡人の方は徳川家繁栄の礎となる子どもを確実に産んでくれそうな女性、という解釈で良さそうだ。一方で年を取るにつれ、自らが失った若さの価値が、彼の中で高まるのだろうか。
本書は56歳(人生50年の時代の56)の家康が側室に迎えた、於奈津の方の活躍を描く。没落した家に生まれた彼女は、ふとした契機で家康の目にとまり、その知力と胆力で寵愛(ちょうあい)を勝ち得ていく。家康は於奈津を関ヶ原の戦いや大坂の陣に帯同し、その意見に耳を傾けた。彼女は一身を敵兵の標的として、影武者の働きも示した。
戦いのない世を作るため、逆説的な言い方だが、女性も果敢に戦っていたのだな、と思い知る。『男』が強調される戦いの世での、『女性』の重みを知らしめる一冊になっている」
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武士は、主君の許可を得て、上役や同輩の娘か姉妹を家同士の絆として妻に娶っている以上、妻に暴力を振るって傷を負わせ泣かし、家庭不和をもたらす事はできなかった。
武士の妻にとっては、主君や親の命令で好きでもない男の元に嫁いだが、跡取りの子供を産めば役目は済んだとしてそれ以上の肉体関係を嫌悪し、愛してもいない亭主には外で女遊びでもする様に家から追い出した。
男は、女遊びの小遣いを貰えれば喜んで出かけたが、金をケチって安く遊び商売女から性病をうつされ早死にする事が多かった。
家を支配したのは、女性であって男性ではない。
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江戸時代では、子供を産める女性は大事にされた。
江戸・京・大坂は、男性が多く女性が少なかった為に女性が特に大事にされた。
その証拠が、三下り半である。
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江戸時代の町には、遊郭や岡場所など女遊びをするいかがわしい悪所が必ずあった。
つまり、性風俗は乱れていた。
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商家では、家業は息子に継がせても、家財は娘に引き渡し養子を取ったて守った。
息子が産ませた子どもが、本当に息子のかどうかはわからず、妻が別の男の子を産んだのかも知れない。
娘が産んだ子は、父親が誰であれ、確実に自分の孫である。
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日本の最高神は、天皇家・皇室の祖先神である女性神の天照大神である。
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縄文人は、命を賭けて子供を産み育てる女性の底知れない神秘を大地母神・産土神として崇めていた。
その証拠が、縄文時代の土偶である。
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日本民族日本人・琉球人・アイヌ人は、縄文人のDNA・Y染色体を受け継いでいる。
縄文人のDNA・Y染色体は、朝鮮人では極少数の人々が持っているが、漢族系中国人にはない。
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日本に非人道的な女性蔑視、女性軽視、女性愚弄が根付き性差別が酷くしたのは、男尊女卑を絶対真理とする儒教の毒が日本全国に蔓延し、日本人を道徳で拘束した江戸初期からである。
そして、明治の文明開化によってキリスト教の宗教的家父長主義が近代教育として普及した事で決定的となった。
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明治政府は、儒教(朱子学)で近代社会を建設する為に、明治天皇の名で「教育勅語」を発布し、無宗教無信仰の「国家神道」を広めた。
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合戦続きの戦国時代。大名や武士は、殺し合いの戦場から生きて帰宅したとき、殺伐とした心を癒やす為に家族や夫婦の安らぎを求めた。
日本の男性にとって最も気が滅入り億劫で関わりたくなかったのが、女性の嫉妬やヒステリーであった。
日本の男性が家にいるより仕事場やゴルフ場などの趣味の場に行きたがるのは、女房・女性がいる家では休めず息苦しいと思い込んでいるからである。
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日本民族日本人は、女性好きと女性恐怖の二面性を持っている。
人を呪い殺し祟り・厄をもたらすのは、男ではなく女であった。
魔物の主流は、西洋や中華では男性であったが、日本では女性であった。
それ故に、女性に暴力を振るい虐待し死傷させると呪われる・祟られると怖れて「弱い者イジメは男の恥」との自縄自縛で身を守った。
日本男性が、西洋の男性に比べて仕事優先で女性・家族に冷たいのはこの為である。
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日本のモノ作りは、男が女から仕事場・作業場に逃げたからである。
日本の職人芸・凄技は、日本人男性の女性からの逃避行で生まれた。
仕事場・作業場を女人禁制として女性を遠ざけたのも、女性差別・女性蔑視ではなく、男性の避難場所を確保する為であった。
その為に、あれこれと苦し紛れの見苦しいまでの女人禁制の理由を並べたてた。
女性が入り込むと、立ち入ると神聖さが穢される、とはバカげたくだらない言い訳である。
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縄文人の子孫である日本民族日本人・琉球人・アイヌ人は、雑多な人々・異民族と乱婚を繰り返してきた混血の雑種民族である。
その残滓が、全国で今も盛んに行われている夜祭り、宵宮・宵祭りであり、今は犯罪として禁止され姿を消した夜這い(よばい)である。
それは、不倫でもなければ不貞でもなかったし、性犯罪でもなかった。
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🕯140)─1─日本人の道徳律は儒教の武士道ではなく仏教が説く地獄の恐怖であった。~No.299 ㉙
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昔の日本人と現代の日本人は、別人と言っても間違いないほどに違う日本人である。
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死後に落ちる地獄に恐怖を抱く悪人は、他人から褒められ感謝され認められたいという気持ちはなかった。
つまり、世間を気にしても他人を気にせず、他人からの承認願望もなかった。
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2019年2月7日 週刊新潮「生き抜くヒント! 五木寛之
地獄はどこへいったのか
人を善人と悪人に分けるというのは、すこぶる乱暴な考え方である。
善い人、悪い人、ぐらいは、まあ、普通の感覚だろう。若い娘さんを欺して、何百人と風俗の店に送り込んだという大学生たちのニュースをきいて、世の中には悪い連中もいるもんだと思ったりするのは、世間一般の判断であるにちがいない。
『都会には悪い人たちも一杯いるんですからね。気をつけなきゃだめよ』
などと、地方から上京する娘さんに心配そうに念を押す母親の顔が目に浮かぶ。
しかし、善人と悪人、という対比はどことなくむずかしい。自分を100パーセント善人であると断言できる人が、はたしているのだろうか。
といって、『オレは悪人だ』などと堂々と大見得を切られても困る。小悪党ぐらいは世間にごまんといるが、本格的な大悪人、となるとそうざらにはいないような気がするのだ。
法然、親鸞など、いわゆる鎌倉仏教の祖師(そし)たちが『悪人正機(あくにんしょうき)』をとなえたことで、大きなセンセーショナルを巻きおこした時代があった。
当時の世の中の人びとの大半は、自分は悪人であるという思いを心に抱いていたようだ。
そして善人と自称するためには、相当な資格が必要だった。
まず財力である。造像起塔(ぞうぞうきとう)などといって、大きな寺や塔などを建て、沢山の仏像をつくって贈与する。数々の聖典を書写(しょしゃ)されて立派に装幀(そうてい)し、何百巻となく寺院におさめたりもする。莫大な布施をするのは当然だ。
また仏門に入って修行するのも大事な善行だ。家族、親戚から僧侶がでると、一族にまで御利益があると考えられたりもした。
さらに戒律を守ることも善人の条件である。僧侶にはめったやたらと沢山の戒や律が課せられるが、一般人も五戒など最低限の守るべき行為がある。
最大の悪
しかぢ世間の人びとに、酒は飲むな、嘘はつくな、などといったところで、そうはいかない。結局、善人の条件である善行を積むことは常人には不可能である。となれば、悪人に分別されるしかない。
生きて妻子を養っていくためには、嘘もつく。殺生もする。道ならぬ恋もする。ましてや末法の世の中とされている時代である。
殺生というのは、最大の悪と考えられていた。しかし、なにも魚や鳥獣をとるだけが殺生ではない。篤農といわれても、稲は人に食われんと実をつけるのか。果実も野菜も命あることには変わりはない。
むしろ最も殺生に縁のあるのは、武者(むさ)といわれた職業的戦闘集団である。武士が尊敬されるようになる以前のこと。彼らはことあるごとに傭兵として活躍した。要するに人を殺すことを仕事とするプロたちである。
そういう時代に、オレは善人だ、と自信をもって言える立場の人たちは、ごくまれであったにちがいない。たとえ高貴な身分であったとしても党利党略の渦の中で生きている。
『悪人も救われる』
『いや、悪人こそが、仏のすくいの対象なのだ』
というメッセージは、まさに旱天の慈雨として感じられたにちがいない。
では、一体なぜ人びとはそれほど悪人であることを怖れたのか。身もふたもない言い方をすれば、それはだれもが皆、地獄に落ちることを心配していたからだろう。
ピカピカの悪人
地獄、極楽、などという。あまり極楽、地獄とはいわない。当時の人びとにとっても、極楽というイメージは、それほど魅力的ではなかったのであるまいか。
暑さ寒さがない、妙(たえ)なる音楽が流れている、美麗な宮殿があり、美しい花が咲き乱れている。なんの心配もない幸せな世界。苦しい労働もなく、心やすらかに仏の道を学ぶ。
しかし、そこでは酒も飲めないし、博奕も打てない。貧乏もないかわりに金もうけもない。下品な冗談を言いあって大笑いするのもはばかられる。どうも、なあ、というのが庶民の本音だっただろう。
もう一方の地獄となれば、そのイメージは強力だ。悪人はそこへ落とされて言語を絶する苦しみを受ける。その様子は難しい書物を読まずとも、寺の坊さんが絵解きでいやというほど教えてくれる。市場や道端で大道芸人がくりひろげる地獄の有様は、身の毛もよだち凄酸さだ。
『極楽にはいけなくてもいいが、地獄にだけは絶対に落ちたくない』
というのが当時の庶民の切なる願いだったのだろう。
しかし、現実には、自分は悪人であると自覚して生きている。そうであれば当然地獄行きは必定だ。生きて地獄、死んで地獄、こいつはたまらねえ、というのが当時の人びとの本音だったにちがいない。夜も寝られないほど地獄のイメージがリアルにのしかかっていたのである。
さて、ひるがえって現代の私たちはどうか。自分自身のことをふり返ってみると、これはまごうことなきピカピカの悪人である。格好つけているわけではなく、本当に心からそう思う。
問題は地獄だ。死ねば宇宙のゴミになるかもしれない、と思ったりもするが、地獄に落ちるという実感がない。
いまの時代の問題点は、だれもが地獄を考えず、感じないところにあるのではないだろうか」
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地獄で苦しんでいる亡者は、自分の祖父母、父母、兄弟姉妹、夫、妻、子あるいは孫などの身内・家族であった。
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大伴旅人「吾妹子(わがもこ)が見し 鞆(とも)の浦の むろの木 常世(とこよ)にあれど 見し人ぞなき」
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地獄には、醜(みに)くいばかりで美など存在しなかった。
地獄は、貧富の格差がない完全なる平等の絶望的苦痛しか存在しない。
だが、その地獄にこそ個人差、人間力、生命力があった。
死を見詰めて絶望し、死を身近に肌身で感じながら、死と共に生きる。
死は地獄であった。
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8月24日 朝日新聞「読書
『「宿命」を生きる若者たち 格差と幸福をつなぐもの』 土井隆義〈著〉
現在の若者層では、貧困率は上昇し、『努力しても報われない』という意識は高まり、『生きていれば良いことがあると思う』という意識は低下している。しかし同時に、特に若者の幸福感や生活満足度は上昇している。これはなぜか?
これまでも社会学者が注目してきたこの謎に、著者は改めて取り組む。多数のデータを組み合わせて導き出した答えは、成長・発展が停滞した『高原期』の日本では、『よりよい未来』の替わりに、過去すなわち伝統、民族、生得的属性などに若者が拠(よ)り所を見いだしているということである。
こうした自らの『宿命』を受け入れて生きる若者は、貧しさや不遇な状況に追い込まれても、自己責任主義や努力主義の規範をも内面化しているため、人生への期待値そのものを下げてしまい強い反発を抱きにくい、と著者は述べる。異論もあるかもしれない。だが異論を鍛えるためにも、この分厚いブックレットは役立つことだろう。
本田由紀(東京大学教授)」
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江戸時代。物心ついた子供に、最初に教えたのは儒教的な人の道ではなく究極の恐怖でる仏教の地獄である。
身の毛が立つおぞましい地獄絵図を何度も繰り返し見せ、地獄の恐怖をトラウマとして子供の幼心に植え付け、脳裏に焼き付けた。
地獄の恐ろしさを叩き込まれ教えられた子供は、寝ても覚めても地獄が脳裏から離れず忘れられなくなり、いつ如何なる時も地獄の恐怖に怯え萎縮した。
日本民族日本人は、地獄のトラウマに心を苛まれ、耐え、堪え、辛抱し、我慢に我慢をしながら何とか生きていた。
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日本の子供たちは好奇心旺盛で、特に恐い物見たさが強かった。
地獄の絵や地獄の話は、僧侶や大人が嫌がる子供に強制したのではなく、子供たちがせがんだからである。
子供が自分の意思で、地獄絵図を見たがり、地獄の話を聞きたがった。
日本の子供は、神の国=天国や仏の国=極楽浄土より、罪を犯した死者が鬼の責め苦で苦悩でのたうつ地獄に関心が強かった。
日本の子供の身近に死があった。
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日本民族日本人は地獄と共に生きてきたが、外国人移民(主に中国人移民)が増えれば日本民族的トラウマは全て消え、地獄の恐怖から解放される。
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日本を覆う重苦しい息苦しい空気、空気圧の正体は、命の喜びではなく死への怖れである。
つまり、日本に漂う地獄・地獄絵図である。
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日本民族日本人で地獄の恐怖から救われる人間は誰もいない。
それ故に、隣人愛信仰のキリスト教と反宗教無神論のマルクス主義(共産主義)を嫌悪し毛嫌いし拒絶し排除した。
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死んだら地獄に落ちるのか極楽に昇れるかは、神仏への信仰ではなく人としての生き方であり、御仏の慈悲だけであった。
日本人は、死後の復活や永遠の命などは信じてはいなかったし、救世主や奇跡も恩寵も信じていなかった。
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稲や麦などの農作物が実を付けるのは、人に食われる為ではなく、生物・種の保存として子孫を増やす為である。
ベジタリアンも、偉そうな事を言っても、所詮は生き物を殺し食べて生きている。
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百姓が信じたのは、死後の極楽浄土と地獄という仏教や生前の鎮守様という神道であって、死を覚悟した滅私奉公の忠君忠勤という儒教ではない。
百姓が恐れたのは、生きる為とは言え、植物や動物など全ての生き物の命を殺す事を生業としている事であった。
やむを得ず殺さねばならないという後悔の念と怨霊なって祟られない為に、命を奪って生き物の魂・霊魂を御霊として供養し、神として祀った。
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血と死臭に塗れた穢れた賤民は、人殺しを生業とする武士・サムライである。
最下層身分で、究極の非人や穢多にして救われない人間が武士・サムライである。
それ故に、庶民(百姓や町人)は武士・サムライを馬鹿にしていた。
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江戸時代中期以降、武士が偉かった、武士が威張っていた、は嘘である。
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江戸時代の人口比は、百姓が8割以上で、武士とその家族が1割弱で、残りが町人・職人、僧侶・神官・巫女、賤民・部落民、芸能の民などその他であった。
それ故に、江戸時代には儒教的武士道は存在しなかった。
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儒教は、百姓や町人などあくせく働いて金を稼ぎ生活する者は教養なく救い難い小人と軽蔑し見放していた。
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武士は、金を出して御家人株を買えば誰でも成ろうと思えば成れた。
ただし、出世するにはそれなりの由緒ある家の養子に入らなければならなかった。
武士になった百姓や町人は、才能と努力で町奉行や勘定奉行や郡奉行に昇進しした。
だが、武士になると、主君に嫌われたり、役向きで失敗すると、責任逃れはできず、誰も助けてくれないず、上意として切腹を命じられ、家族は財産を没収され領外へ追放された。
武士の社会は、陰湿で、やっかみや嫉妬が渦巻き、意地悪やイジメや嫌がらせが横行していたブラック社会である。
真面な武士は、子供が15歳で元服するや30歳代で隠居を申し出て武士のブラック組織から逃げた。
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江戸文化とは、武士の質素文化ではなく、町人の趣味文化・老人の隠居文化であった。
江戸文化には、死臭がまとわりついている。
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日本人の生き方において、外国人移民(主に中国人移民)が増えれば、昔の性善説を
捨てて性悪説にならなければ生きていけなくなる。
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🎑9)─2─落語を無学で身分低い庶民が愛した理由。〜No.17
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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
庶民は、先祖代々の伝統的なお天道様(天照大神)崇拝者で、新奇で舶来の哲学・思想・主義主張をキリスト教と同様に胡散臭くそして屁理屈と嫌った。
高学歴出身知的エリートは、そうした庶民を上から目線で見下していた。
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儒学は、庶民を救いようのない小人と嫌悪していた。
庶民は、儒学者が嫌いであり、武士を馬鹿にしていた。
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日本民族日本人が信じる悪人は、犯罪者とは違う。
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2019年8月29日号 週刊新潮「生き抜くヒント! 五木寛之
ちょつとだけ自慢する
人は自慢をしたがる動物である。
おおっぴらに自慢する人間もいるし、卑下自慢というか、屈折した自慢をするタイプもいる。いずれにせよ自慢をまったくしない人は少ない。
しかし、ぜんぜん自慢をしない相手というのも、なんとなくつきあいづらいものだ。」立派な人格の持ち主はあろうが、息がつまるような気がする。隙(すき)のない相手と向きあっていると、やはり疲れるのではないか。謙虚すぎる人物というのは、意外に人に好かれないものなのだ。
聞いていて鼻糞をほじくりたくなるような、自慢話を、これでもかこれでもかと並べたてるのは聞き流していればすむ。厄介なのは話が屈折していて、どう相槌を打っていいのか見当がつかないような自慢である。
先日も銀座のバーへいったことを自慢する人に会った。ホステスさんに教わった話をとくとくと喋り続けるのだ。
『お客をいい気持ちにさせるサシスセソの話術があるんだそうだ』
その話なら週刊誌で読んで先刻、承知である。銀座のお店ではなく、盛り場のキャバクラの話だったのではなかったか。
『サシスセソ、だぞ。サは──』
と、ひと一息入れて、
『客が自慢したら、感心したように、サスガー、と首をふる』
『シはなんです』
『どうでもいい話でも、シラナカッター、と感心する』
『知ってても?』
『さもはじめて聞いたような顔でうなずくのが大事なんだそうだ』
『スは、あれでしょ』
と言いかけて、その後は相手にまかせる。
『スゴーイだ。これは絶対にきく』
『セは?』
『うーん。セは忘れた。ソ、これが──』
『ソロソロ?』
『ちがう。思いきり深くうなずいて。ソダネー!これでたいていの客は舞い上がっちまうらしいよ』
心を耕す
使い古されたネタだが、シラナカッター、と相槌を打つわけにもいかず、苦笑してやりすごした。しかし、こういう相手には警戒心を持たずにすむのである。自慢話をする人間に悪人はいない、というのが私の持論だ。自慢するとき、人は知らず知らずのうちに気がゆるむものである。自慢のジも出せないような相手には、こちらも慎重に対応しなければならない。
私の見たところでは、人の上に立つような人物には、わりと自慢する人が多いものだ。偉いお坊さんなどにも、素直に自慢するかたがいらして、おちらも心がなごむ感じがする。浄土真宗中興の祖とされている蓮如なども、やたらと自慢するところがあった。
晩年、自分の足のタコを見せて、
『昔は頼まれればどんな山奥まででも出かけていったものだ。ほら、この通り草鞋(わらじ)の跡が今も残っているだろう』
などと皆に自慢したという。自分のことを『三国一の名号書き』ともいったそうだ。
知識人には悪口を言われることの多い蓮如だが、北陸の人たちには蓮如さまというより蓮如さまで通っている。親鸞は絶対に親鸞さまだ。
仏教の開祖が釈尊、ゴーダマ・ブッダ(ゴウタマともいう)であることは子供でも知っている。
世間に伝わるオハナシでは、このお釈迦さまの言動にも結構、自慢めいたところがあって、私はそこが好きだ。
あぜ道を歩いていると、農作業をしている農夫に問いかけられる。
『わたしはこうしてせっせと土地を耕しているんだが、あんたは一体なにをしているんだ』
『私は人の心を耕している』
どうせ後世の人の作り話だろうが、ちょっとでき過ぎたエピソードのような気がしないでもない。
ブッダは神ではなく、人であった。一個の偉大な人間であり、平均寿命が30歳にも満たなかった時代に、80歳という驚異的な長寿を生きた超高齢者でもあった。しかし、ただの至誠(しせい)の人ではなかったようだ。
『釈迦牟尼は馬鹿に譬(たとえ)が上手なり』
という古い川柳も、その辺を敏感に感じとった句ではあるまいか。
人づきあいの要諦
自分のことを考えてみると、私も自慢するタイプの人間である。ただ無邪気に自慢するのではなく、自慢話にならないように、ならないようにと自分を戒めつつも、つい自慢してしまうタイプらしい。
ただし、私の場合は勝った自慢ではなくて、負けた自慢であるほうが多い。敗戦を外地で迎えたこと。ソ連兵に散々な目に遭わされたこと。命からがら38度線を越えたこと、などなど、引揚自慢というか、苦労した話をしていると、つい調子に乗ってしまうのだ。
新人の頃、井伏鱒二さんと対談をさせていただいた事がある。井伏さんが引揚の話を根ほり葉ほりたずねられるので、つい調子に乗って喋りまくって、後で編集者に叱られたことがあった。
自慢話を控えようとしている相手に、じつに上手に自慢話をさせてしまう油断のならない人もいる。話をしているあいだは、ついいい気持ちになってしまって、後で苦い思いを噛みしめるというのは、何だか手玉に取られたようで後悔することが多い。
要は適当に自慢する、ちょっとだけ自慢するというのだ、人づきあいの要諦なのかも」
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✨22)─1─アメリカのソ連原爆投下極秘計画。日本は実験であり、ソ連は実戦であった。〜No.93No.94No.95 ⑱
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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
原爆被害データを客観的合理的論理的に科学分析した結果の威力判定では、屋外の人体と木と紙の建物に対しては甚大な被害を与えられたが、コンクリート・石・レンガで造られた建物からなる都市に対する破壊は限定的になるというものであった。
空中爆発の原爆は灼熱の高温度と吹き下ろす爆風による被害である為に、高温度と爆風に耐えるだけの頑強な建物の奧や地下室、地下壕・地下街にいれば助かる確率は高かった。
つまり、西洋の都市部やソ連の諸都市で、ヒロシマ・ナガサキと同じ破壊力を得る為には数発の原爆を使用する必要があるとされた。
人体に対する被害では、高熱火傷によるケロイドは深刻であったが、放射線被害は長期的経過観察が必要で結論は出せなかった。
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戦争に、勝利すれば英雄だが、敗北すれば戦争犯罪者として裁かれた。
勝利者は、殺戮・虐殺しても戦争犯罪者として罰せられる事はない。
敗者は、人を助け人道貢献をしても評価される事なく処刑された。
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敗戦国である現天皇家・皇室と日本には、目には目を、歯には歯をという「同害報復の原則」に従えば、国連の常任理事国に対して不当処置の不服を申し立てる権利と、報復権・復讐権からアメリカ、イギリス、カナダそしてソ連(ロシア)、中国共産党に対して原爆を使用する権利がある。
ただし、不服申し立ても報復権・復讐権は、現平和憲法下の日本には存在せず、改憲した後に復活できる。
故に、護憲派や反天皇反日的日本人は、日本国憲法を守る事で、現・天皇家・皇室と日本が持っている不服申し立てと報復権・復讐権を封印している。
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2019年8月15日・22日号 週刊新潮「終戦後もアメリカは原爆を落とそうとしていた
アメリカにとって、日本への原爆投下は一つの通過点に過ぎなかった。トルーマン大統領は広島と長崎の被害状況を調べ、その威力を細部に至るまで把握、次に投下すべき66都市を選び出した。それはモスクワ、レニングラードなど擡頭著しいソ連の都市だった。
有馬哲夫
1945年8月6日、広島に原爆が投下された。その3日後の8月9日には長崎の上で2発目の原爆が炸裂した。私たち日本人は、これらの原爆投下を『終わり』と感じている。この残虐な兵器が使われたあとで日本が降伏し、戦争が終わったのでそう感じている。しかし、世界的視野から見ると、これはむしろ『始まり』だった。つまり、現在に至る核兵器の拡散の始まりだ。
長崎に原爆を投下したあと、アメリカ政府首脳と陸軍の幹部は何を考えていたのだろうか。日本との戦争がまもなく終わることは、沖縄戦のあたりですでに織り込み済みだった。したがって、アメリカ政府首脳は、6月頃には日本降伏後のことを具体的に考え始めていた。そのなかで最も重要なのは『ソ連とどう向き合うか』だった。原爆を広島・長崎に投下したあと、この問題について彼らはどのような形にしようとしていたのだろうか。
話を4月までさかのぼる。ハリー・トルーマン大統領は、前任者のフランクリン・ルーズヴェルト大統領とは違って、ソ連とうまくいっていなかった。彼は大統領就任の表敬にやってきたヴャチェスラフ・モロトフ外相との4月23日の会談で口角泡を飛ばす言い合いをしていた。ヤルタ協定では『ポーランドは自由選挙をして、国民に政権を選択させる』としていたのだが、ソ連はこれを一方的に破って、地方都市ルブリンに移っていたポーランド国民解放委員会に政権を握らせたからである。
我を忘れるほどの激怒には、個人的背景もあった。トルーマンは中西部ミズリー州の田舎町出身で、弁護士をしていたが大学は出ていなかった。風采が上がらず、分厚い眼鏡をかけていて、小柄なので『ピーナッツ』と呼ばれて馬鹿にされていた。
小物だからこそ扱いやすいと思ったこの地方の政治ボスであるトム・ペンダーガストに引きたてられ、彼は上院議員になり、44年の民主党大会で、カリスマ的なヘンリー・ウォレスを嫌った勢力の支持を得て、副大統領候補になることができた。そして、ルーズヴェルトの大統領当選により副大統領となり、45年4月12日のルーズヴェルトの死によって大統領に昇格するという僥倖(ぎょうこう)を得る。
しかし、彼がルーズヴェルトから引き継いだ閣僚たちの多くは、東部名門大学の出身で、大企業の経営者や大手弁護士事務所の共同経営者といった経歴を持っていた。中西部出身の学歴のないトルーマンがこういったエリートたちを苦手と思っていたことは想像に難くない。当然、彼はそれまで以上に『低く見られること、軽んじられること』を警戒し、嫌った。
モロトフと言い合いしたあと、彼はソ連に『目に物を見せてくれよう』と思った。そうでもしなければ、閣僚たちに適当にあしらわれ、自分のような『棚から牡丹餅』大統領は終わりだと考えた。
このことは原爆投下の決定にもつながっていく。これまで原爆は、広島や長崎でそうしたように、一般市民のいる大都市に無警告で投下されることを、他の選択肢の検討もなく決定されたと考えられてきた。しかし私が『原爆 私たちは何も知らなかった』(新潮新書)で明らかにしたように、アメリカ国立第2公文書館は、そうではなかったことを示している。
原爆投下はソ連対策
①アメリカ政権幹部は、
②原爆を無人島に投下する
③軍事目標に投下する
一般市民の多くいる大都市に投下する、
という3つの選択肢を検討し、それとは別に
(A)警告したのちに投下する
(B)無警告で投下する
という2つの選択肢を検討していた。
原爆開発に関わった科学者の大多数は①を推した。アメリカ陸軍幹部は②と(A)の組み合わせを大統領に勧めた。とくに陸軍の制服組トップであるジョージ・マーシャル参謀長は、爆撃ですでに無力化した軍事的拠点に警告して投下することを提案した。これなら、無差別大量殺戮にはならず、ぎりぎり戦争犯罪にならないと考えたからだ。
しかし、原爆と原子力の利用について重要事項を審議する『暫定委員会』で、③と(B)の組み合わせにするという結論が出た。わざわざ最も人的被害が出る使い方を選んだのだ。
その理由を原爆開発に関わった物理学者レオ・シラードが暴露している。暫定委員会でこの決定がなされる3日前、彼はジェイムズ・バーンズと会ったのだが、そのときのことをこう日記に帰している。
『バーンズは戦後のロシアの振る舞いについて懸念していた。ロシア軍はルーマニアとハンガリーに入り込んでいて、これらの国々から撤退するように説得するのは難しいと彼は思っていた。そして、アメリカの軍事力を印象づければ、そして原爆の威力を見せつければ、扱いやすくなると思っていた』
バーンズは暫定委員会に大統領の代理人として出席していた人物で、7月3日に国務長官となり、ポツダム会談の主要人物となっていく。大統領代理として暫定委員会に出ていたのだから、これはトルーマンの考えと思っていいだろう。
このことは日本人にとって、とくに広島、長崎の原爆犠牲者にとって重大な意味がある。つまり、アメリカが最も残酷な原爆の使い方をしたのは、ソ連に強烈なインパクトを与えて、『扱いやすくする』ためだったということだ。
これは、原爆投下を『100万人ものアメリカ兵の命を救うため』、あるいは『戦争終結を早めるため』としているアメリカ政府の公式見解を根底から覆すものだ。つまり、原爆は、『真珠湾でだまし討ちをした日本にきつい罰を与える』(トルーマンの口癖)というより、ソ連に『目に物を見せ』、『扱いやすくする』ために無辜(むこ)の市民たちの上に投下されたということだ。
そもそも、これも前掲書で書いたことだが、原爆投下と日本の降伏とは関係がない。だから韓国人が『原爆投下が朝鮮人を解放した』と思い込んでいるのは大間違いだ。
昭和天皇の御聖断は、ポツダム宣言を受諾しても国体の維持が可能であるというスイスやスウェーデンからの情報を得てなされたものだ。国体の維持がの確証がなされなければ、いくら焼け跡に原爆を落としても(それも3都市くらいしか候補地は残っていなかったが)天皇の御聖断とそれによる終戦はなかった。
さて、本題に返って、広島・長崎に原爆投下したあと、アメリカ政府幹部と陸軍幹部が具体的に何を計画していたのかを示す歴史資料を紹介しよう。タイトルは『(原爆、その)保有・蓄積・軍事的特徴』(Stockpile,Storage,Military,Characterisics)で、日本が降伏したあとも、224発を目標に原発製造を続け、それらを使ってソ連と満州の主要都市を壊滅させる計画が記されている。この文書については、すでにオタワ大学名誉教授のミッシェル・チョッスドヴィスキーが論文で一部触れているが、私は日本人の視点から見ていきたい。
『ソ満』原爆投下計画
計画書は原爆による広島の被害状況の分析から始まっている。この革命的兵器の威力を正確に把握しなければ、ソ連の主要都市を無力化するためにそれぞれ何発必要なのかわからないからだ。そして、分析の結果、原爆はそれほど威力がないと驚くべき結論が出る。それは、以下の数値が如実に表している。
爆心地から 被害を受けたの距離(フィート) 建物の率
0~6,000(約1.8キロ) 100%
6,000~8,000(約2.4キロ) 69%
8,000~10,000(約3キロ) 56%
12,000~1,400(約4.3キロ) 12%
14,000~16,000(約4.9キロ) 3%
つまり、爆心地から半径1.8キロ以内の建物にはすべて被害を与えられることができるが、半径3キロを超えると約半数しか被害を与えることができないということだ。もちろん建物といっても、木と紙でできている一般の民家と原爆ドームのように一部鉄骨、レンガ造りのものは違う。ソ連の都市をターゲットにするならば、レンガや石造りの建物をどのくらい破壊したかを調べなければならない。その結果が以下の数値だ。
爆心地からの距離(フィート) 建物数 部分的破損 全壊
0~1,000 10 1 1
1,000~2,000 13 1 0
2,000~3,000 5 0 0
3,000~4,000 7 0 0
4,000~5,000 3 0 0
5,000~6,000 10 1 1
これを見ると、爆心地周辺でさえ、建物10棟のうち部分的損傷が1、全壊が1でしかない。不思議なことに、およそ2キロ離れたところで部分的破損と全壊が1ずつあるのだが、もともと構造上脆弱だったのではないかと疑われる。
ここからわかることは、原爆は屋外にいる人間に対してはともかく、建物に対してはそんなに威力がないということだ。これではソ連の都市に多かったレンガや石造りの建物の場合、爆心地周辺であってもあまり破壊できない。
この事実は無警告投下というトルーマンの決定がいかに罪深いかを物語っている。つまり、警告さえしていれば、そして一般市民に避難する時間さえ与えていれば、爆心地近くでっても、ほとんどの人々は死なずにすんだということだ。事実、例の調査は、木造であっても家屋の中なら死傷率が極めて低くなることを示している。 野心に燃えるマンハッタン計画の責任者レズリー・グローヴスとその部下は、もちろんこの結果をそのまま受け止めなかった。45年9月26日のグローヴス宛報告書で彼の部下は次のように述べている。
『都市機能を奪うためにすべてを破壊する必要はない。全壊したエリアは考えられていたよりもはるかに小さかったが、広島はもはや都市として存在していない。広島ではコンクリートビルの外観こそは無傷だったが、ガラスは割れ、内装はすっかり焼け落ちていた。建物を再建することはできるが、かなりの期間、使用不能になる。長崎の原爆はコンクリート建築物にもっと被害を与えたと報告されている』
つまり、建物を破壊することはそれほどできないが、都市機能を奪うことはできるという論理だ。そうであるなら、ソ連の都市に対しても原爆はまだ有効性をもっているということになる。
そこでグローヴスたちは、ソ連の都市についてのあらゆる情報資料をかき集め、かの国から戦争能力を奪うため、無力化する必要のある都市を66選び出した。そして、その中から15を最重要目標都市に指定した。
さらに市街地の面積を調べ、原爆が何発必要かを割り出した。一発で無力化できる範囲は爆心地から半径7,000フィートと計算されていたが、重要軍事施設や工場がある場合は数発追加した。文書にある表の中から上位5都市だけ紹介しよう。
都市名 市街地面積 原爆必要数
モスクワ 110平方マイル 6
レニングラード 40平方マイル 6
タシュケント 28平方マイル 6
バクー 7平方マイル 2
ノボシビルスク 22平方マイル 6
驚くのは、これらのソ連の都市のほかに、満州の都市も21入っていたことだ。リストアップには日本の資料が使われていた。同じく上位5都市のみ挙げる。
都市名 市街地面積 原爆必要数
奉天(瀋陽) 101平方マイル 1
大連 58平方マイル 1
長春 310平方マイル 1
南京 169平方マイル 1
安東 117平方マイル 2
満州の都市がリストに入っているのは、当時ソ連に占領されていたことと、日本が建てた工業施設が残っていたことが理由だ。他に中国共産党軍がいたこともあるが、別の報告書では彼らは都市に住んでいないと指摘していた。 このほか、必要に迫られれば、キール運河(ドイツ)、ダーダネルス海峡(トルコ)、スエズ運河(エジプト)も爆撃することにしていた。
計画が潰えた理由
これれの目的を果たすために必要な原爆の数は最少で59発、最多で224発と見積もられた。最少では不足する可能性が大きいので、最多の方の224発が生産目標となった。
まだ、ロケットも誘導ミサイルも開発中だったので、運搬手段としてはB-29爆撃機が考えられていた。その航続距離は9,000キロなので、ソ連と満州全域を爆撃するために出撃基地が10ヵ所必要だった。注目すべきは、ブレーメン(ドイツ)、フォッジア(イタリア)、クレタ(ギリシャ)と続く基地のリストの中に沖縄と占守(シュムシュ)島が含まれていたことだ。
千島列島は、すでにソ連に占領されていたので、この文書でMデイと呼ばれている米ソ開戦のときは、先制攻撃し、奪取するつもりだったことがわかる。
一見したところ、さまざまなデータを踏まえた、よく練られた計画のように思われる。机上のものとはいえ、実現可能にみえる。
最大の問題はアメリカの原爆の製造能力だった。アメリカは45年の末までに原発を9春製造し、そのうち7発が使用可能だった。もちろん、どんどんペースアップしていくことは可能だったが、224発以上作り、それをすべて実戦配備するには何年かかるかわからなかった。これこそが、原発という切り札を持ちながらモロトフを屈服させることができない理由だった。
45年9月11日、国務長官バーンズは、当時の新聞の表現では『原爆を腰にさげて』勇躍ロンドン外相会議に向かった。ところが、彼を待ち構えていたのは『扱いやすくなった』どころか、一歩たりとも引こうとしないモロトフだった。ルーマニアとハンガリーからのソ連軍の撤退を求めても、それに応じるどころか逆に傀儡政権の承認を要求したうえ、日本の占領に加えるように強く求めてきた。受け身に回ったバーンズは、これらを拒否するのがせいぜいだった。
このモロトフの強硬姿勢にはいろいろな要因が働いているのだが、そのなかで多きかったのが、アメリカに送り込んだスパイからの原爆についての情報だった。私が読んだ45年7月2日のヴェノナ文書(ソ連の暗号電報を解読したもの)の中では、原爆開発のためにアメリカに渡っていたクラウス・フックス(ドイツ人ながら当時はイギリス国籍)が43年8月27日以降定期的にソ連のエージェントにアメリカの原爆開発の状況を報告していた。
他にもソ連のスパイは原爆製造の現場には複数いたので、アメリカが原爆を独占保有していても、製造能力と実戦配備の問題などからソ連に対し戦略的に決定的優位に立っているわけではないころをモロトフは知っていたと考えていいだろう。このあともバーンズはモロトフ相手に外交上の敗北を重ねていく。
しして、アメリカが224発の原爆を完成させ、実戦配備する前の49年8月29日、ソ連は原爆の実験に成功してしまった。こうして、今日に至るまでの核軍拡競争が始まり、唯一の被爆国・日本もその一方の傘下にいる」
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日本への原爆投下実験は、共産主義陣営のソ連と自由・民主主義陣営のアメリカ・イギリスとの冷戦の前哨戦で、必然として実行された。
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ルーズベルト、トルーマン、チャーチル、スターリン、ド・ゴール、毛沢東など歴史に名を残した世界的国家指導者は、戦争に勝利すの為に大量破壊兵器・大量殺傷兵器である原爆生産を命じていた。
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ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下実験は、アメリカのソ連に対する政治的決断である為に日本は阻止できなかった。
アメリカの原爆開発計画に於いて、原爆の実戦での破壊力と人体への影響を調べる事が優先され、昭和天皇と日本の降伏申請は後回しにされた。
原爆が投下された広島・長崎の市民は、人体実験のモルモットであった。
その証拠は、日本を占領したアメリカ軍と医師や科学者は、原爆による火傷や放射能被害のデータ収集を行い被災者への治療はせず、死ぬに任せて放置した。
アメリカは、ソ連が原爆を完成させるや、原爆よりも破壊力にある水爆開発を本格化した。
核兵器の軍拡は必然であった。
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昭和天皇は、如何に戦争に勝利する為とはいえ無条件に何をしてもいいわけではないとして、原爆は非人道的大量殺戮兵器であるとして猛反対し、東条英機首相や杉山元参謀長らに研究・開発・製造を即時中止するように厳命した。
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日本敗戦の原因の一つが、陸軍と海軍の対立で、多くの戦死者・犠牲者は陸軍と海軍の非協力にあった。
日本の原爆開発は、陸軍と海軍が別々に予算と物資の取り合い、情報の共有もせず、相手に知らせず、独自で行っていた。
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原爆の可能性は誰でも知っていたし、科学に興味がある子供ですら児童向け科学雑誌で日本も極秘で原爆の研究が進められている事は薄々知っていた。
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戦前の日本は、最先端の科学技術が理解できなかつた分けでもなく、科学技術を疎かにしたが故に負けたけでもない。
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現代日本の反戦平和市民運動や反原爆反原発運動は、人類の歴史を知らない、戦争を知らない、平和を知らない、現実から目を逸らした乳幼児のままごと遊びにすぎない。
世界は、強者必勝・弱者必敗という弱肉強食の原理で動いている。
その象徴的国が、ソ連や中国共産党政府などの共産主義諸国であった。
現代日本の反戦平和市民団体や反原爆反原発運動内の反米・反天皇・反日派は、ソ連や中国共産党からの金銭的支援を受けていた。
その証拠に、同盟国・アメリカの核兵器に猛反対しても、仮想敵国・ソ連や中国共産党などの核兵器に反対しないどころか黙認していた。
彼らの多くが、高学歴出身知的エリートである。
ソ連・共産主義陣営は、大学などの教育機関やメディア関係にスパイや協力者を忍び込ませた。
その為に、大学やメディアは反米親ソ親中国共産党傾向が強い。
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アメリカの核兵器は、日本を核の傘に入れ、ソ連・ロシア、中国に照準を合わせている。
ソ連・ロシア、中国共産党政府の核兵器は、アメリカ、日本に照準を合わせている。
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戦争とは、A級戦犯・東條英機が証言したように、「相手がいる事で、当方が戦争をする、戦争をしないを決められるものではない」である。
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白人キリスト教徒が、非白人非キリスト教徒の日本人を人間とみなさず見下すのは中世時代から変わらない事実である。
何故なら、彼らは日本人をアフリカ人同様に奴隷として売買して金儲けをしていたからである。
キリスト教系朝鮮人テロリストと日本人共産主義者テロリストは、昭和天皇と皇族を殺すべくつけ狙っていた。
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「昭和天皇や政府・軍部が国體護持に固執せず早く降伏していれば原爆の悲劇は回避できた」と、主張する日本人には、歴史を、太平洋戦争を語る資格はない。
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🏞84)─1─尊号一件事件。松平定信の大政委任論・王臣論。〜No.356No.357
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2019年8月1日号 週刊文春「出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
〔近世篇〕
明治維新を用意した『大政委任論』
幕末維新のとき、徳川将軍から天皇への『大政奉還』がありましたね。将軍は朝廷から『大政』を預かっている。だから返還するんやで、ということですが、このもとの考え方を持ち出したのが誰かというと、実は寛政の改革の実行者、松平定信でした。
松平定信が老中のときに『尊号一件』という大きな事件が起きました。今回はこの事件を詳しく見ていきましょう。
父親を太上天皇にしたい
1779年、後桃園天皇が亡くなります。後継ぎを決めていなかったので、閑院宮典仁親王の子供が急遽、光格天皇として即位します。
その10年後の89年、光格天皇は武家伝奏という自分の幕府担当秘書を通じて、京都所司代に実父典仁親王に太上天皇(上皇)の称号を与える宣下({せんげ}天皇の命令の公布)を認めてほしいと要望します。
お父さんは閑院宮であって天皇にはなっていなかったので、当時の『禁中並公家諸法度』に記された席順では、天皇の次ぎに大臣たち、その次に天皇のお父さん(親王)という順番になってしまいます。光格天皇としては、なんとかお父さん孝行したいで、というわけです。
ところが松平定信はスジを重んじる学者肌ですから、『そんなの大義名分が乱れるやないか。天皇になったことのない親王が、太上天皇になるなんてあかんで』と一言のもとに否定します。
しかし光格天皇は諦めません。91年に関白が鷹司輔平から一条輝良に交代すると、天皇の周りを賛成派の公家たちで固めました。
そして尊号(上皇号)宣下を断行すると」幕府に通告します。
これに対して松平定信は『幕府の言うことを天皇が聞かないのは、天皇の秘書たちがサボっているからや』と、幕府の意思をちゃんと知らしめないとあかんと考えます。
それで上皇号宣下賛成派であった武家伝奏、正親町公明と天皇の秘書長(議奏)の中山愛親を江戸に召喚して厳しく査問したうえ、謹慎などの処罰を下してしまいます。
この処罰が議論になりました。
当時の慣習としては、朝廷の官位を持つ公家を幕府が処罰するときには、幕府がまず朝廷に通告し、朝廷が『お前はクビ』と事前に官位を解いて(解官{げかん})から幕府が処分していました。朝廷の体面に傷をつけないための段取りですね。
ところが松平定信は、まず理屈が先に立ちます。
『ちょっと待て。大名を処罰するときには朝廷の手続きなんか取ってへんで。なんで公家だけ例外なんや』と言い出したのです。
公家とは別に、武家も例えば大納言の尾張(愛知)徳川家や、中納言の水戸徳川家をはじめ、参議の加賀(石川)前田家など大名たちも官位を持っています。松平定信も従四位下越中守などになっています。
そういった武家の処分のときは、わざわざ朝廷に解官の手続きを取ってもらっていません。幕府が直接処分していました。
松平定信は賢い人であるがゆえに、そのスジの違いが許せません。
『理屈で考えたら、これまで延々とやってきた現状のほうが間違っているんや』ということになります。
この辺りは朝鮮通信使問題で理屈にこだわった新井白石に似ています。
実際、松平定信は朝鮮通信使に関しても『通信使は朝鮮ではそれほど高い身分ではないのに、日本の御三家が接待しているのは礼に反する』と、新井白石と同様の議論をしているのです。
そしてそれまで将軍代替わりのたび11回に渡って行われていた通信使の江戸入りを止めて、対馬で国書を交換(易地聘礼{へいれい})するよう命じています。
このため12回目の通信使は延期を重ね、実現したのは20年後の1811年で、これが最後の朝鮮通信使となりました。
松平定信には新井白石や本居宣長に影響された朝鮮軽視観があり、それを易地聘礼に具体化されたことで、近代日本の対朝鮮外交の枠組みをつくる結果になったともいわれています。
尊号問題に戻ると、処分に関して自身の意見の裏付けに松平定信が持ち出したのが『王臣論』です。
王臣論という理屈
93年に幕府が朝廷に示した文書では、『武家も公家も天皇の臣下(王臣)であり、王臣に対して賞罰を加えるのが将軍の仕事やで。公家だけに特別扱いしたら公家と武家を差別することになり、天皇に対してかえって不敬やで』と述べています。
ここで持ち出されたのが『大政委任論』です。そもそも将軍は日本を統治する『大政』を天皇から委任されているのだという理屈です。
これは一見すると、幕府に都合がいいわけです。幕府は天皇から全権委任されている、だからオールマイティなのだ、何でもできるんやというわけですから。
松平定信は政治家であると同時に学者としても一流、弁舌さわやかに説明するので、幕府の官僚はこの王臣論と大政委任論に染まりました。
でも翻(ひるがえ)って考えれば、委任されているということは、委任元の朝廷のほうが、権威は上です。
ここから尊王の思想が出てくるし、やがては建前だけでは済まなくなってきます。
例えば、1806~7年にロシア船が蝦夷地を襲撃したとき、それまではやったことがないのに、京都所司代から朝廷に報告をさせています。
一回報告をしてしまったら朝廷に報告するのが先例になり、朝廷は幕府の対外政策に口を挟む権利をほぼ自動的に得てしまったのです。
大政奉還への道を開く
松平定信が後世に与えた影響は、寛政の改革よりも、実はこの尊号一件事件のほうが大きいのではないかと思います。
尊号一件事件で松平定信の大政委任論が幕府に浸透したことによって、後の明治維新における大政奉還に繋がっていく一つのきっかけができました。
始めに大政委任がなければ、それを奉還(返還)するという理屈も成り立ちませんからね。
武力で権力を握った徳川家康やそのブレーンだった金地院崇伝はおそらく考えもしなかった理屈です。
徳川政権が長く続き、幕府が武断政治から文治政治に転換したことによって、儒学が人々のなかにどんどん浸透していきました。
幕府の政治家たちも大義名分とか理屈を考えるようになり、定信のような賢い人が自らの政策の裏付けのためにスジを正しきれない理論を持ち出すようになります。
儒者の中井竹山は1789年に『早茅危言(そうぼうきげん)』を書き、優れた政治を行う幕府に朝廷が政権を委任したのだと主張しています。
水戸藩の学者藤田幽谷は91年の『正名論』で、幕府が朝廷を尊(たつと)べば諸大名が幕府を尊び、秩序が保たれると論じています。両書とも定信の求めに応じて書かれたものです。
こうしたブレーンたちの建言をもとにして、定信の理屈は形作られたのでしょう。しかしその理屈はやがて独り歩きをしはじめます。大政委任論といい朝鮮外交といい、それが明治維新につながることは、松平定信はおそらく夢にも思わず亡くなったことでしょう」
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天皇制度は、日本民族固有の歴史・伝統・文化・宗教・慣習に基づく前例のスジ論で守られている。
それが、最高神である女性神・天照大神からの血筋・血統、皇統を唯一の正統とする特別な男系の一族による世襲制度である。
つまり、神の裔である。
前例のスジ論の根底には、縄文時代まで繋がっている所が存在する。
スジ論は、問答無用の理屈である。
・ ・ ・
松平定信が扱った尊号一件、朝鮮通信使問題、ロシア軍船の北方領土・蝦夷地襲撃事件は、全て現代日本が抱えている問題に通じている。
が、現代の高学歴出身知的エリートの能力・歴史力では解決不能に近い問題ばかりである。
そもそも、歴史が嫌いな現代日本人には理解できない歴史的事実である。
リベラル派、革新派、進歩派、一部の保守派、人権派、良心派、常識派などにそれが言える。
特に、天皇制度反対の反天皇反日的日本人は言うに及ばずである。
現代日本人は、祖先が創り守ってきた前例の「スジ論」が理解できない。
その最たる例が、女系天皇擁立・女系宮家創設である。
彼らに今自分の限定された範囲での現代を理解しても、祖先の過去が理解できないし、子孫の未来などは想像すらできない。
・ ・ ・
日本には、俗事の政治権力と宗教権威、神聖の天皇の御威光が存在していた。
天皇は、如何なる権利を持たないカリスマを帯びたリーダーであった。
将軍は、リーダーシップを発揮して政治・軍事・外交を行うトップであった。
・ ・ ・
ウィキペディア
尊号一件(そんごういっけん)とは、日本の江戸時代後期に起きた京都の朝廷と江戸の幕府との間に発生した、閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する紛議事件である。尊号事件ともいう。
概要
第119代光格天皇は典仁親王の子であったが、後桃園天皇が崩御したときに皇子がいなかったためにその養子となって即位したことにより、父よりも位が上になってしまった。しかも禁中並公家諸法度における親王の序列が摂関家よりも下であり、天皇の父が臣下である摂関家を目上としなければならないことに対しても天皇は不満を抱いた。だが、禁中並公家諸法度は江戸幕府にとっては初代徳川家康が定めた祖法であり、その改正は幕府そのものの尊厳を傷つけるものとして拒絶してくることは目に見えて明らかであった。そこで光格天皇は実父典仁親王に対して太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうとした。
経過
1788年(天明8年)に公家の中山愛親らが幕府に通達すると、老中松平定信は皇位についていない人間に皇号を贈るのは先例のない事態として反対する。朝廷では徳川時代以前の古例を持ち出し、朱子学を正当とする定信と対抗し、朝幕間の学問的論争に発展する。1791年(寛政3年)12月、天皇は「群議」を開き、参議以上40名の公卿のうち35名の賛意を得て尊号宣下の強行を決定する。
収束
この事態を憂慮したのは前関白で典仁親王の実弟(天皇からみて叔父)でもある鷹司輔平であった。輔平はこのままでは朝廷と幕府の全面対決を招いて兄・典仁親王の身にも危険が及ぶと考え、定信に事の次第を告げて尊号を断念する代わりに典仁親王の待遇改善を求めた。定信は大政委任論を根拠に天皇に代わって幕府が公家を処分できると主張して中山愛親・正親町公明らの公家に処分を下し、また九州で活動していた勤皇家の高山彦九郎を処罰した。勤皇派の水戸徳川家が定信に賛成すると、輔平と後桜町上皇の説得を受けて天皇も渋々尊号一件から手を引いた。定信も典仁親王に1,000石の加増をする等の待遇改善策を行うことで尊号の代償とした。
だが「皇位についていない人間に皇号を贈る例」は後高倉院や後崇光院という先例が存在している。むろん碩学の定信も承知のことであり、これについては「承久の乱や正平の一統(南北朝の戦い)という非常事態が生んだ産物で太平の世に挙げる先例ではない」と述べている。つまり、単なる先例遵守によるものではない。定信は寛政の改革によって幕藩体制の再建を進めていく中で、その思想的根幹である朱子学を保護して「寛政異学の禁」や「処士横断の禁」を打ち出していた。朱子学は儒教の中でも大義名分や主君への「忠」、「君臣の別」を重んじる学派であり、特に日本では本来儒教が徳目として最も重んじていた「孝」以上に重要視された。この問題は言うなれば「忠」と「孝」の衝突であり、陽明学や古学、尊王論などの反朱子学的な(反幕藩体制につながりかねない)動きを抑圧する ために強硬策を採ったことも考えられるのである。
また、同時期に11代将軍徳川家斉は、実父の一橋治済に対して「大御所」の尊号を贈ろうとしていたが、定信は朝廷に対して尊号を拒否している手前、将軍に対しても同様に拒否をせざるをえなくなった。定信にとって一橋治済は、御三卿のひとりとして将軍位を狙える立場にあった自分を、白河藩へと放逐した政敵であり、治済が大御所として権力を掌握することに危機感を抱いていた。定信としては一橋治済の大御所就任を阻止するためにも、典仁親王への太上天皇宣下を拒否すべき立場であった。しかしこれにより家斉の不興を買った定信は、後に失脚することとなる。
更に天明の京都大火後の内裏再建の際に、財政問題などを理由とする定信の反対論を押し切る形で朝廷が古式に則った内裏再建を行い、結果として幕府が莫大な出費をすることになったことも、定信の朝廷に対する不信感を強める一因になったと言われている。
その後
尊号一件については、早くから勅使として江戸に下った中山愛親が江戸城の将軍の前で堂々たる抗議をしたという伝説が生まれ、『中山東下記』『中山伝記』といった小説が密かに書かれている(共に事件よりあまり隔たらない時期の成立と見られる)。寛政異学の禁などで思想統制を行った松平定信だが、庶民の間での風聞には無関心であり、これについては何ら統制を行わなかった。
松平定信の失脚後も尊号の件は認めなかったものの、光格天皇の姪にあたる閑院宮宣子女王を天皇の猶子にする件や禁裏(譲位後は院御所)から閑院宮家に経済支援を行う件に関しては江戸幕府は条件を付けながらも基本的には光格天皇(上皇)の意向をほぼ認めており、天皇も譲位直前に徳川家斉に対して御衣とともに幕府が多くの神事や公事の再建に協力してくれたことを感謝する書状を送っている(『山科忠言卿伝奏記 四』文化14年3月15日条)など、光格天皇と江戸幕府の関係は良好なものであったという。
典仁親王は明治天皇の直接の祖先にあたる(明治天皇は典仁親王の玄孫)ということで、1884年(明治17年)に慶光天皇(慶光院とも)の諡号と太上天皇の称号が贈られている。また中山愛親にも同年従一位が贈られている。
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大政委任論(たいせいいにんろん)は、江戸幕府が国内支配の正当化のために主張した理論で、将軍は天皇より大政(国政)を委任されてその職任として日本国を統治している、とするものである。
内容
江戸時代初期の禁中並公家諸法度(第1条)よりその萌芽は見られるとする橋本政宣の説]もあるが、それを理論化したのは14歳で将軍に就いた徳川家斉を補佐する老中・松平定信であったとされている。定信は天明8年(1788年)8月、家斉に対して「御心得之箇条」(『有所不為斎雑録』第三集所収)の中で「六十余州は禁廷より御預り」したものであるから「将軍と被為成天下を御治被遊候は、御職分に御座候」と説き、若い将軍に武家の棟梁としての自覚を促すとともに、将軍は朝廷から預かった日本六十余州を統治することがその職任であり、その職任を果たすことが朝廷に対する最大の崇敬であるとした。
定信は、当時台頭しつつあった尊王論を牽制するために、天皇(朝廷)自身が大政を将軍(幕府)に委任したものであるから、一度委任した以上は天皇といえども将軍の職任である大政には口出しすることは許されないという姿勢を示したものであり、さらに武家も公家も同じ天皇の国家である日本に住む「王臣」であるという論法から、将軍すなわち幕府は武家や庶民に対する処分と同様に公家に対しても処分の権限を持つと唱え、尊号一件に際して公家の処罰を強行した。
もっとも、「大政委任」の考えは定信のような要人や学者の間で唱えられることはあっても、江戸幕府として正式に認めたものではなかった。公式の朝幕関係の場でこの大政委任論が確認されたのは、文久3年(1863年)3月7日に京都御所に参内した将軍・徳川家茂が孝明天皇に対して、直接政務委任の勅命への謝辞を述べた時であったとされている。ただし、孝明天皇は家茂の義兄で、かつ江戸幕府との関係を重視する立場(佐幕主義)であったため、この時点では直ちに影響を与えるものは無かった。
影響
しかし裏を返せば、幕府の権限は全て本来は天皇が有していたものであり、幕府はそれを委任されたものに過ぎないという論理も成立してしまい、天皇が幕府の上位に立つものと解する余地を与えることになった。さらに、本来朝廷が担っていた国家統治に対する責任を幕府が全面的に引き受けることを意味することになり、19世紀に入って国内における経済・社会問題や外国船の来航など内外の問題が深刻化すると、幕府がその政治的責任を問われることとなった。
やがて、黒船来航以後に深刻化した国内の混乱を収拾しきれなくなった末、将軍徳川慶喜による大政委任の返上、すなわち大政奉還の宣言によって幕府政治は終焉に向かうこととなった。
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💎36)─1─諸外国元首からの退位された両陛下に対する感謝の言葉。~No.172No.173No.174・ * ㉛
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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2019年4月30日13:13 産経新聞「トランプ大統領「両陛下に感謝」と声明
米ホワイトハウスでのイベントで話すトランプ大統領(AP)
【ピッツバーグ(米ペンシルベニア州)=黒瀬悦成】トランプ米大統領は29日、天皇陛下の譲位に関する声明を発表し、「米国民を代表して天皇、皇后両陛下に心からの感謝を表明する」と述べた。
トランプ氏は「平成の世が終わり、新しい世代が即位しようとしている現在、日本との密接な関係は米国にとって極めて重要だ」との認識を表明した。
その上で、天皇陛下がこれまでに米国の大統領5人を日本に迎えたと指摘。陛下が在位した東西冷戦終結期から現在にかけて、日米関係は世界の懸案に対処していく上で死活的に重要だったと強調した。
また、自らもメラニア夫人と一緒に2017年に訪日し、両陛下と面会したとし、「新しい時代になっても米国の偉大な同盟国である日本とのパートナーシップと協力の伝統を続けていきたい」と訴えた。」
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4月30日18:20 産経新聞「プーチン露大統領、天皇陛下に感謝のメッセージ
ロシアのプーチン大統領(共同)
【モスクワ=小野田雄一】ロシアのプーチン大統領は30日、譲位される天皇陛下に感謝を表明し、多幸を願うメッセージを発表した。露大統領府のサイトに掲載された。
プーチン氏は「あなたが治世中に露日関係に心を砕かれ、両国関係がめざましい発展を遂げたことに心から感謝を表明する。健康や多幸、長命を願っている」としている。」
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5月1日20:11 産経新聞「エリザベス女王、天皇陛下と上皇さまに個人的な言葉送る
【ロンドン=板東和正】英王室広報は1日、エリザベス女王が新たに即位した天皇陛下と上皇さまに向けて個人的な言葉を送ったと明かした。内容は明らかにされていない。」
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