🎑9)─2─落語を無学で身分低い庶民が愛した理由。〜No.17 

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 庶民は、先祖代々の伝統的なお天道様(天照大神)崇拝者で、新奇で舶来の哲学・思想・主義主張をキリスト教と同様に胡散臭くそして屁理屈と嫌った。
 高学歴出身知的エリートは、そうした庶民を上から目線で見下していた。
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 儒学は、庶民を救いようのない小人と嫌悪していた。
 庶民は、儒学者が嫌いであり、武士を馬鹿にしていた。
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 日本民族日本人が信じる悪人は、犯罪者とは違う。
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 2019年8月29日号 週刊新潮「生き抜くヒント!  五木寛之
 ちょつとだけ自慢する
 人は自慢をしたがる動物である。
 おおっぴらに自慢する人間もいるし、卑下自慢というか、屈折した自慢をするタイプもいる。いずれにせよ自慢をまったくしない人は少ない。
 しかし、ぜんぜん自慢をしない相手というのも、なんとなくつきあいづらいものだ。」立派な人格の持ち主はあろうが、息がつまるような気がする。隙(すき)のない相手と向きあっていると、やはり疲れるのではないか。謙虚すぎる人物というのは、意外に人に好かれないものなのだ。
 聞いていて鼻糞をほじくりたくなるような、自慢話を、これでもかこれでもかと並べたてるのは聞き流していればすむ。厄介なのは話が屈折していて、どう相槌を打っていいのか見当がつかないような自慢である。
 先日も銀座のバーへいったことを自慢する人に会った。ホステスさんに教わった話をとくとくと喋り続けるのだ。
 『お客をいい気持ちにさせるサシスセソの話術があるんだそうだ』
 その話なら週刊誌で読んで先刻、承知である。銀座のお店ではなく、盛り場のキャバクラの話だったのではなかったか。
 『サシスセソ、だぞ。サは──』
 と、ひと一息入れて、
 『客が自慢したら、感心したように、サスガー、と首をふる』
 『シはなんです』
 『どうでもいい話でも、シラナカッター、と感心する』
 『知ってても?』
 『さもはじめて聞いたような顔でうなずくのが大事なんだそうだ』
 『スは、あれでしょ』
 と言いかけて、その後は相手にまかせる。
 『スゴーイだ。これは絶対にきく』
 『セは?』
 『うーん。セは忘れた。ソ、これが──』
 『ソロソロ?』
 『ちがう。思いきり深くうなずいて。ソダネー!これでたいていの客は舞い上がっちまうらしいよ』
 心を耕す
 使い古されたネタだが、シラナカッター、と相槌を打つわけにもいかず、苦笑してやりすごした。しかし、こういう相手には警戒心を持たずにすむのである。自慢話をする人間に悪人はいない、というのが私の持論だ。自慢するとき、人は知らず知らずのうちに気がゆるむものである。自慢のジも出せないような相手には、こちらも慎重に対応しなければならない。
 私の見たところでは、人の上に立つような人物には、わりと自慢する人が多いものだ。偉いお坊さんなどにも、素直に自慢するかたがいらして、おちらも心がなごむ感じがする。浄土真宗中興の祖とされている蓮如なども、やたらと自慢するところがあった。
 晩年、自分の足のタコを見せて、
 『昔は頼まれればどんな山奥まででも出かけていったものだ。ほら、この通り草鞋(わらじ)の跡が今も残っているだろう』
 などと皆に自慢したという。自分のことを『三国一の名号書き』ともいったそうだ。
 知識人には悪口を言われることの多い蓮如だが、北陸の人たちには蓮如さまというより蓮如さまで通っている。親鸞は絶対に親鸞さまだ。
 仏教の開祖が釈尊、ゴーダマ・ブッダ(ゴウタマともいう)であることは子供でも知っている。
 世間に伝わるオハナシでは、このお釈迦さまの言動にも結構、自慢めいたところがあって、私はそこが好きだ。
 あぜ道を歩いていると、農作業をしている農夫に問いかけられる。
 『わたしはこうしてせっせと土地を耕しているんだが、あんたは一体なにをしているんだ』
 『私は人の心を耕している』
 どうせ後世の人の作り話だろうが、ちょっとでき過ぎたエピソードのような気がしないでもない。
 ブッダは神ではなく、人であった。一個の偉大な人間であり、平均寿命が30歳にも満たなかった時代に、80歳という驚異的な長寿を生きた超高齢者でもあった。しかし、ただの至誠(しせい)の人ではなかったようだ。
 『釈迦牟尼は馬鹿に譬(たとえ)が上手なり』
 という古い川柳も、その辺を敏感に感じとった句ではあるまいか。
 人づきあいの要諦
 自分のことを考えてみると、私も自慢するタイプの人間である。ただ無邪気に自慢するのではなく、自慢話にならないように、ならないようにと自分を戒めつつも、つい自慢してしまうタイプらしい。
 ただし、私の場合は勝った自慢ではなくて、負けた自慢であるほうが多い。敗戦を外地で迎えたこと。ソ連兵に散々な目に遭わされたこと。命からがら38度線を越えたこと、などなど、引揚自慢というか、苦労した話をしていると、つい調子に乗ってしまうのだ。
 新人の頃、井伏鱒二さんと対談をさせていただいた事がある。井伏さんが引揚の話を根ほり葉ほりたずねられるので、つい調子に乗って喋りまくって、後で編集者に叱られたことがあった。
 自慢話を控えようとしている相手に、じつに上手に自慢話をさせてしまう油断のならない人もいる。話をしているあいだは、ついいい気持ちになってしまって、後で苦い思いを噛みしめるというのは、何だか手玉に取られたようで後悔することが多い。
 要は適当に自慢する、ちょっとだけ自慢するというのだ、人づきあいの要諦なのかも」
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