⚔31)─2─唐入り。乱取りで日本に連れて来られた朝鮮人達。〜No.130No.131No.132No.133 

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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、豊臣秀吉によって日本人を奴隷として売買する事を禁止された為に、代わりに朝鮮人奴隷として売り買いした。
 東南アジアの諸国は、戦闘能力の高い武士を傭兵として望んでいた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、主君をなくした武士を傭兵として東南アジアなどに輸出した。
 白人にとって、日本人や朝鮮人は人間以下の獣であった。
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 2019年7月19日 産経新聞iRONNA
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 「唐入り」朝鮮人奴隷の波乱人生
 征明の足がかりとして秀吉が起こした「文禄・慶長の役」。日本軍も多大な犠牲を余儀なくされたが、戦果を挙げた武将は生け捕りにした朝鮮人を奴隷として連行した。多くは厳しい労役に苦しめられた一方、日本で一定の地位を得た者もいたという。波乱に満ちた朝鮮人奴隷の真実に迫る。
 「朝鮮出兵」波乱に満ちた生け捕り奴隷の人生
 『渡邊大門』 2019/07/19
 渡邊大門(歴史学者
 文禄・慶長の役では、多数の朝鮮人が日本に連行あるいは売買された。その事実は、数多くの史料で確認することができる。以下、さまざまな事例を挙げておこう。
 朝鮮人が売買された状況は、『朝鮮日々記』という史料で確認できる。『朝鮮日々記』を書いたのは、臼杵城主の太田一吉に仕える医僧で、臼杵・安養寺の僧、慶念である。慶念は慶長の役に従軍し、戦争を記録するとともに、望郷の念などをときに狂歌を交えながら書き綴った。
 同史料には慶長2(1597)年6月から同3年2月までが記録されており、朝鮮出兵における悲惨な状況を記した貴重な史料である。豊臣秀吉や諸大名などの権力者でなく、市井の人が朝鮮出兵をどう捉えていたかを示す珍しい内容を含んでいる。
 慶長2年11月、日本軍は攻防の拠点とするため、蔚山(ウルサン)に城を築くことになった。このとき大量に動員されたのが、日本から徴発された人々であった。彼らは昼夜を問わず、築城工事に動員され、その疲労は極限に達していた。
 動員された日本人は、ときに朝鮮人ゲリラから襲撃を受けることもあり、心休まることがなかったであろう。また、労働をさぼったり、持ち場を逃げ出した者は、首を斬られ辻に晒されたり、首枷(くびかせ)をかけられて焼印をされることもあった。動員された日本人にとっても、朝鮮出兵は悲劇だったのである。
 こうした状況下、ついに人買商人の姿が『朝鮮日々記』にあらわれる。次に、書かれている内容を示すことにしよう。
 「日本からさまざまな商人たちが朝鮮にやって来たが、その中に人商いをする者も来ていた。奥陣のあとをついて歩いて、老若男女を買うと、首に縄を括りつけて一ヵ所に集めた。人買商人は買った朝鮮人を先に追い立て、歩けなくなると後から杖で追い立てて走らせる様子は、さながら阿防羅刹(地獄の鬼)が罪人を攻める様子を思い浮かべる。」
 人買商人は、常に軍勢の後ろからついていって、日本軍の雑兵から生け捕りにした朝鮮人を二束三文で買いたたいたのであろう。買った朝鮮人には、逃亡しないように首に縄を括りつけ、後ろから追い立てるようにして、彼らを誘導したのである。
 その後、朝鮮人奴隷は、港から船で日本へ運ばれ、ある者は日本で転売され、またある者はポルトガルの商人らに転売されたと考えられる。それは、単なる商品にすぎなかった。さながら慶念が言うように、地獄絵図であった。
 同様の記述は、『朝鮮日々記』の別の箇所にも見ることができる。慶念は朝鮮人の女性たちが集められ、人買商人に引き渡している様子を狂歌にし、次のように文章を継いでいる。
 「人買商人はかくの如く奴隷を買い集め、たとえば猿の首に縄を括って歩くように、奴隷に牛馬を引かせたり、荷物を持たせたりして責める様子は、実に痛ましい光景である。」
 彼ら奴隷は牛馬のように、さまざまな肉体労働に従事させられた。それは、男女の区別もなかったようである。また、『延陵世鑑』という書物がある。同書は延岡藩の侍医を務めた白瀬永年の手になるもので、19世紀に成立したものである。そこにもほぼ同様の記述がある。
 「高橋勢が往来するごとに、朝鮮から老若男女を問わず、生け捕られて奴隷となった。その数は、何百人いたかわからない。そのような中にも、幸運な女性は妻妾となり、男は主人から許可を得て妻子をもうけ、生活する者があった。長生きした者は、慶安(1648~1652年)、承応(1652~1655年)まで存命で、その子孫は今も多い。」
 この記録は文禄・慶長の役から300年近く経過して成立したが、内容はおおむね史実として認めてよいであろう。生け捕りされた男女のうち、結婚して家族を持つことができた者は、極めて幸運だったようである。なぜなら、奴隷は家畜に等しい存在だったからである。
 朝鮮半島から奴隷を連行したのは、人買商人の専売特許ではない。それは、現地で戦った日本の武将も同じであった。
 戦国史家の藤木久志氏は、そうした例の一つとして、薩摩の武将・大島忠泰を取り上げている(『雑兵たちの戦場―中世の傭兵と奴隷狩り―』朝日新聞社)。大島氏は薩摩の名門・高城氏の流れをくむ東郷氏の庶流で、島津氏に従って朝鮮出兵に従軍した。
 そのときの様子は、『高麗御供船中日記』、『大嶋久左衛門忠泰高麗道記』、『大嶋久左衛門忠泰従高麗之文写』といった史料に記されている。その中には、忠泰が国許の妻に送った書状がある。以下、内容を解説しておこう。
 慶長の役に出陣した忠泰は、約30万という朝鮮軍を相手にして、相当な苦戦を強いられたようである。それでも島津軍は、3万余の敵の首を討ち取った。問題はここからである。忠泰の仲間たちは、殺害した敵の懐から金品を奪ったというのである。まさしく戦利品であった。
 しかし、忠泰には恥ずかしさもあったのか、馬を失ったにもかかわらず、敵の死骸から古着すら剥ぎ取れなかったという。それでも武功の証として、倒した敵の鼻を削ぐことは忘れなかったようである。当時、首は持ち運ぶのに不便だったので、代わりに鼻を削いで軍功の証としていた。
 問題はそれだけに止まらなかった。忠泰には、角右衛門という家来がいた。ちょうど彼が日本に帰国するので、国許に朝鮮人奴隷を「お土産」として届けたと書状に書いている。奴隷は複数いたようで、そのうちの一人を娘に与えるように、と書状にある。
 ちなみに忠泰も子供を召し使っていたが、病気で困っていたようである。また、別の家来に対しても、下女を買い求めて送ると記している。ただし、忠泰は食料に事欠くほど金がなかったので、この場合は「下女を買った」のではなく、生け捕りにしたと考えられる。
 このように朝鮮に出兵した武将たちの中には、「お土産」として朝鮮人奴隷を日本の家族に贈っていたことが分かるのである。普通に書いているところを見ると、それは戦場でごく自然なことであったかのような印象を受ける。
 ここまで捕らえられた朝鮮人奴隷について述べてきたが、言うまでもなく日本人も朝鮮軍に生け捕りにされていた。歴史学者の中村栄孝氏は、その中で福田勘介の供述を取り上げて、興味深い分析を加えている(「朝鮮軍の捕虜になった福田勘介の供述」『日本史の研究』61輯)。以下、中村氏の研究に基づき、勘介の供述を確認しておこう。
 慶長2年10月、一人の日本人が朝鮮軍の捕虜となったことが報告されている(『宣祖実録』)。その人物こそが、勘介その人である。では、勘介はいかなる人物なのであろうか。勘介自身の供述によると、勘介は加藤清正配下の部将であり、百余人の兵を率いて、全羅道に向かっていたという。
 朝鮮出兵中の同年7月に忠清道で捕虜となり、尋問を受けたのである。しかし、別の史料によって、清正軍に勘介が加わっていたというものが見受けられないので、供述が嘘である可能性があると指摘されている。
 このように朝鮮軍の捕虜となった者(部隊長クラスの者)は、「降倭将」と呼ばれた。「降倭将」は、鳥銃(=火縄銃)の使用法を朝鮮人に教授していたようである。のちに触れるが、沙也可もその一人である。勘介は自ら火縄銃の操作に秀でていることをアピールしているので、ほかの「降倭将」と同様の地位を得ようとしたのであろう。
 中村氏が指摘するように、勘介の供述は的確に重要なことを述べており、内容も十分に信用できるという。その重要な供述として、日本軍がどのような理由によって、朝鮮人を日本に連行したかが記されている。
 普通に考えると、日本軍による朝鮮出兵は、占領を目的としたと考えるべきであろう。当初、秀吉が構想した通り、やがては天皇、公家、大名らを移す計画もあった。しかし、慶長の役での目的は、決して占領だけにあるとは言えなかったようである。
 基本的に老若男女にかかわらず、歩くことができる朝鮮人は日本に連行した。生け捕りされた朝鮮人の中には、貴族や官僚クラスの者もいたという。逆に、歩けない者はお荷物になり、また役に立たないことが想定されたのか、殺害される者が多かった。
 生け捕りにされた者が、人買商人によって船に乗せられ、日本に送られたことはこれまで述べた通りである。勘介はその目的を明確に述べている。その供述内容を箇条書きに整理すると、次のようになろう。
 ①朝鮮人奴隷に日本の農地を耕作させる。
 ②日本の農民は、朝鮮出兵に徴用する。
 ③①②を繰り返すことにより、最終的に明への攻撃態勢を整える。
 つまり、日本の農地耕作は朝鮮人にやらせて、朝鮮での戦争には日本の農民を従軍させるということになろう。生け捕った朝鮮人を日本軍に編入するのは、常識的に考えてかなりの困難が伴う。それならば生け捕った朝鮮人には耕作をさせ、日本人を兵として徴用した方が合理的である。こうしたことを繰り返し、やがて日本人の多くが朝鮮に出兵し、農村での労働不足を解消するとともに、「明」への臨戦態勢が整うことになる。
 ここまで合理的に説明すると、いささかの不信感が拭えないところもある。しかし、周知の通り、文禄・慶長の役の軍役などの多くの負担は、各大名に押し付けられることになり、さらにそれは農民へと転嫁された事実がある。
 それゆえ年貢や徴兵などの負担に耐え切れない農民は、耕作地を放棄して逃亡した。そうなると、必然的に耕作地は荒れ果て、農作物の収穫量が著しく減少することになる。朝鮮人の生け捕りと日本への連行は、単に奴隷売買として金銭的なものを得るだけではなく、現実的な目的があったのである。
 日本に連行された朝鮮人は、何も普通の人ばかりではない。教養や学識の豊かな士大夫なども日本に連行されており、彼らの中には儒学などの学問により、のちに大名に仕えてそれなりの地位を築いた人もいる。また、官僚クラスの両班(ヤンバン)の中にも、大名の家臣として抜擢された者が存在する。ほかには陶工が有名であり、そうした特殊技能によって、一定の地位を築いた者もあった。
 日本に連行された朝鮮人といえば、悲惨な人々が多かったのかもしれないが、まさしくその人生は実にさまざまであった。次に、いくつかの事例を取り上げることにしよう。
 日本で農業に貢献した朝鮮人は、美作国南条郡一宮村岡山県津山市東一宮)に存在した。『史学雑誌』8編11号には、同村の中島氏所蔵文書が紹介されている。年次の付されていない書状であるが、中島家譜代の家来と称する弥三郎、弥吉、伊助、重兵衛が連署して、中島弥生左衛門、三郎左衛門に宛てたものである。次に、その内容を示しておこう。
 「私の五代前の先祖は、朝鮮国松村の出身でございます。文禄年中に日本が朝鮮に攻め込んだ際、先祖は中島孫左衛門様の陣中に人質となり、二十四歳にして日本に渡海した。助命のことを孫左衛門が仰せになり、先祖は弥三郎と名を改め、中島家譜代の家来になりました。生涯にわたり養育してくださり、妻子なども扶助していただき、嫡子・彦兵衛と私に至るまで四代にわたり相続し、一類や分家も家が繁盛していることは、すべて中島家の御恩であることを今もって忘れることはできません。私の子孫代々まで申し伝え、決して忘れることはございません。」
 中島孫左衛門は、備前・美作の大名、宇喜多秀家の配下の者である。文禄・慶長の役のとき、孫左衛門尉は秀家に従って朝鮮に渡海した。その際、弥三郎らの先祖は、孫左衛門に生け捕りにされ、日本に連行されたのである。
 『美作一宮郷土の歩み』によると、慶長3年、中島孫左衛門尉は松県城で劉安、劉秘父子を捕らえ、日本に連行したという。ここでは、慶長の役のことになっており、先祖の名前もはっきりと書かれている。
 先の書状の続きを読むと、弥三郎らが中島家に宛てた理由が分かってくる。その後、彼らは百姓になって、中島家に献身的に仕えた。また、年末年始やお盆などの行事にも、挨拶を欠かさなかったようである。
 以下の内容は省略するが、結論を端的に言えば、以後、彼らは中島家を疎略にすることなく、奉仕し続けることを誓約したということになろう。万が一、中島家に背くようなことがあれば、どのような処罰を受けても恨むことはない、と最後に締め括られている。
 『美作一宮郷土の歩み』によると、捕虜の中には朝鮮に帰国する者もあったが、劉秘は日本に残って中島氏の家来になったという。そして、彼ら連行された朝鮮人が、一宮村で荒地を開墾したと記されている。それは、今も「唐人開き」と呼ばれているとのことである。
 その後、その子孫は大いに繁栄し、松県にちなんで松村を姓としたというのである。その中には津山藩主・森氏に仕えた者もあった。寛政年間に至ると、松村氏は持高が十石の本百姓高持に加えられ、子孫も繁栄したという。
 以上の記述によると、朝鮮から連行された弥三郎の子孫は高い農業技術を持ち、地域の発展に貢献したといえよう。はっきりとは書かれていないが、東一宮村には多くの朝鮮人が入植し、集住していた可能性が高いといえる。
 次回は、日本に定住した朝鮮人をもう少し紹介することにしよう。
 ※主要参考文献 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房
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💍6)─5─日本国内外に暗躍する男系皇室消滅を企む陰謀論。~No.30No.31 ⑤ 

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・    
 反天皇反日陰謀論者とは、昭和天皇には戦争責任や戦争犯罪があると主張する人間あり、天皇や皇族に謝罪を強要する人間の事である。
 暗躍する反天皇反日陰謀論者は、キリスト教原理主義者と共産主義者マルクス主義者)である。
 そして、男女平等・男女同権のジェンダー・フリーは陰謀者の巣窟である。
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 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義者テロリストは、昭和天皇と皇族を殺すべくつけ狙っていた。
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 歴代天皇日本民族は、加害者ではなく被害者である。
 日本人には、善い日本人いたが悪い日本人もいた。
 昭和天皇は、戦争を嫌い平和を望み、困っている人を助ける人道貢献を求めた。
 東条英機松岡洋右松井石根A級戦犯達は、天皇の臣下として、歴史に残る人道貢献を行った。
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 天皇家・皇室を守護できるかどうかは、特殊な血筋・血統を正統とした特別な男系による一家系の世襲を維持できるかにかかっている。
 日本民族日本人は、2000年以上の時空を越えて守り続けてきた。
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 日本民族は、性悪説の民ではなく性善説の民である。
 その伝統的性善説とは、人を安易に信用せず疑ってかかれ、つまり「人を見たら泥棒と思え」、「人が親身になって言う事は眉唾・嘘として聞け」であり、その上で相手を信頼すると言う事である。
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 特殊な血筋・血統を正統とする万世一系男系天皇家・皇室とは、世界で日常的に発生する虐殺を起こさない為の安全装置であり、中華のような血に餓えた独裁者を出さない為の安全蓋でもあった。
 人が信用できなかった祖先は、安全装置・安全蓋・安全弁として神聖不可侵の世襲制天皇制度を創った。
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 日本天皇日本民族日本人は、金儲けの日本人によって殺され絶滅させられた在来種の日本産トキににている。
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 2019年7月14日 msnニュース KYODO 共同通信社武部勤氏「日本は天皇の国」 北海道自民候補応援で共産批判
 自民党武部勤元幹事長は14日、北海道北見市参院選北海道選挙区の同党候補を応援する集会であいさつし「天皇、皇后両陛下が、国民の心からの歓迎を受けて令和新時代が始まった。天皇の国と言っても過言ではない日本の歴史の中で、国民に根付いている」と述べた。共産党がかつて天皇臨席の国会開会式に欠席していたことを「日本の魂を否定する」と強く批判した。
 2000年には、当時の森喜朗首相が「日本は天皇を中心とした神の国」と発言し、憲法が定める主権在民に反すると批判された。
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 2019年8月号 WiLL「地球賢聞録 36  馬渕睦夫
 女性宮家創設に秘められた謀略
 朝日の〝お墨付き〟論者
 今なぜ女性天皇待望論か
 令和の時代が始まって堰(せき)を切ったかのように、メディアを中心に女性天皇女系天皇容認論が姦(かしま)しくなりました。時事通信は、回答者の70%が女性天皇に賛成だといった世論調査の結果を報じましたが、以後、国民の70%が愛子天皇を待望しているがごとき各種報道が独り歩きしています。メディアが行う世論調査の不透明さは今に始まったことではありませんが、女性天皇問題に関する世論調査の場合も、設問の仕方によって結果が大きく異なることは必然です。
 恐らく、単純に女性天皇に賛成するか、反対ですかと聞かれれば、愛子親王に対する気づかいの感情もあって、70%が賛成と答えても不思議ではありません。しかし、例えば『現在の皇室典範の規定によって、次期天皇秋篠宮皇嗣殿下に、その次は秋篠宮の長男悠仁親王殿下に決まっています。それにもかかわず、皇室典範を改正して今上天皇の長女の愛子内親王天皇になっていただくことに賛成ですか、反対ですか』と正確に質問すれば、果たしてどれだけの回答者が賛成と答えることでしょうか。報道されている女性、女系天皇待望論は、2700年続いてきた皇室を分断破壊する工作である疑いが極めて濃いと言わざるを得ないのです。
 また、メディアに登場する多くの識者が、天皇の役割を憲法第一条に言う日本国および日本国民統合の『象徴』に限定して論じていることに、違和感を覚えます。彼らは、『象徴』としての天皇のあるべき姿にのみ関心があるように思えてなりませんが、これでは天皇の役割を正しく理解することはできないのです。このように、天皇の役割を歴史と断絶させ矮小化せんとする動きと女性宮家創設を含む女性天皇論とは、皇室の伝統を否定する共通項があります。
 天と地を繋ぐ天皇の役割
 戦後教育の結果、私たちはわが国の成り立ちについて習わなくなってしまいました。これでは、皇室を戴くわが国の理念も天皇陛下の役割もわかるはずがありません。つまり、天皇問題を論じるには、憲法に規定されている天皇条項だけでなく、古事記日本書紀に遡(さかのぼ)って論じなければならないのです。高天原から豊葦原(とよあしはら)の瑞穂の国日本に降臨される邇邇芸命(ににぎのみこと)に対して、天照大神は日本を『治(し)らす』ようにとの神勅を授けられました。これが天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅であり、『治らす』とは日本を一つに纏(まと)めるということです。この使命こそ、現行憲法第一条にいう日本国および国民党号の『象徴』のことです。従って、天皇の象徴としての役割は何も現行憲法によって初めて規定されたものではありません。天皇の役割は、2700年間変わらず、日本国を纏め日本国民を纏めることなのです。
 明治憲法においては、第一条で『大日本帝国万世一系天皇コレヲ統治ス』とありますが、『統治ス』とはいわゆる支配することではなく『治らす』の意味です。これは明治憲法を起草した井上毅の原文『治ラス所ナリ』を当時の国民に分かりやすいようにと伊藤博文が『統治ス』に修正したもので、本来の文意は『治らす』なのです。また、上皇陛下が象徴としてのあり方に常に心を砕いてきたとおっしゃったことは、何も日本国憲法下の新しい天皇の役割をどう果たすべきかに苦心してこられたいう意味ではありません。天皇の役割は邇邇芸命の降臨以来、一貫しています。2700年続く高天原の神々の大御心を、平成という時代環境の中で具体的にどういう形で表すかということに苦心されてきたというご発言と捉えるべきでしょう。
 邇邇芸命の降臨が伝えるメッセージは、天皇の具体的役割とは『天と地を繋ぐこと』であると考えられます。『天』とは高天原のことであり『地』とは地上世界のことです。この二つを繋ぐとは、高天原霊性と地上世界の物質の法則とのバランスを取って生きていくことです。この天と地を繋ぐ生き方を国民に率先して実践しておられるのが天皇陛下なのです。国家の安泰と国民の幸せを願う天皇陛下の祈りは、高天原の神々の霊性(つまり大御心)に基づいて行われています。
 女性宮家に秘められた謀略
 そもそも女性宮家創設問題の契機となったのは、天皇陛下や皇族方の公務が多すぎる一方、皇族が減っている現状に鑑(かんが)み、皇族の女性が結婚後も公務に携われるような制度を作るべきだとの理由からでした。ところが、天皇陛下や皇族の公務については、憲法上も法律上も全く根拠がないのです。国民の側の要望に沿って、様々な公益団体の名誉総裁に就任されたり、それらの行事などに臨席いただくことを公務と称しているに過ぎないのです。従って、天皇陛下や皇族方の公務を減らすには、国民の側が自制すればよいだけの話です。
 女性宮家創設は、公務の拡大や皇室予算の拡大に繋がります。さらに、女性宮家の夫は民間人ですが、ご夫妻で公務に臨まれる場合もあるでしょう。皇女に対する国民の敬愛の情が残っている間は良いとしても、次の世代になった時に、誰が当主となるのか、女性宮家だから女子なのか、男子でもよいのか等々様々な問題が生じます。次世代の女性宮家に国民として同様の敬愛の感情を持ているかどうか疑問が生じる可能性もあります。
 それにもかかわず、メディアや野党などの政治家や左派リベラルの知識人などは女性宮家創設に賛成なのです。その理由は、女性宮家がゆくゆく2700年続いたわが国の皇室制度を破壊する目的を秘めているからです。つまり、最大の狙いは将来女性宮家から天皇を輩出するという点にあります。もしそうなれば、男系男子による皇位継承の伝統が崩れ、天皇高天原の神々との直接のつながりを欠いた別の王朝に変貌してしまいます。ここに、2700年続いたわが国の伝統、つまり國体が崩壊することになるのです。皇室の安泰のためという綺麗ごとの奧に秘められた怖ろしい國体破壊工作が女性宮家創設なのです。次の女性天皇、その次は女系天皇に論理の必然として進んでゆきます。女性宮家創設問題は、わが国の有史以来の最大の国難だと言えるのです。
 男系継承であるべき理由
 神武天皇以来、126代にわたって皇位継承男系天皇によって行われてきました。歴史上、10代8人の女性天皇がおられましたが、全て男系でした。皇位が男系によって継承されてきた理由は明白です。邇邇芸命は降臨に際し、妻となるべき高天原の女神を連れてこられなかったからです。降臨後、邇邇芸命は、地の神・大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘である木花佐久夜毘売(このはなさくやびめ)と結婚され、ここに天と地が繋がれたわけです。以降、息子、孫も海の神の娘と結婚し、曽孫(ひいまご)に当たる神武天皇から今上天皇に至るまで男系による皇位継承が続いてきたのです。
 この伝統は、高天原霊性を血統という地上世界の法則に従って継承する先人の智恵によるものです。当時、遺伝学上の染色体という科学的知識がなかったにもかかわず、男系血統によるY染色体の継承(どの天皇もほぼ同じY染色体をお持ちです)を守ってきた先人の努力に深い敬意を表したいと思います。建国以来の伝統に則(のっと)った天皇だからこそ、国民はわが国の唯一無二の権威として敬愛してきました。わが国の政体は、天皇という権威と実際の権力行為を行う人々との二権分立です。歴史上いかなる世俗権力の保持者といえども、天皇の権威を越えることはできなかったのです。かくして、わが国では独裁者は現出しませんでした。
 男系天皇が断絶すれば、天皇の祈りの効力が失墜し、皇室制度が崩壊し、わが国のありようが根本的に変容することに加え、わが国が史上初めて独裁国家になってしまう危険が生じます。現在、悠仁親王さまで皇位継承順位が決まっており、男系継承以外の方策を議論する必要はありません。もっとも、男系継承の安定化策(例えば旧皇族皇籍復帰)の検討は有益でしょう。排斥すべきは、女性宮家創設を口実に男系継承を変更しようというの企(たくら)みです。政治家であれ、知識人であれ、メディアであれ、彼らの魂胆を見破り、女性宮家創設を拒否しなければなりません。」
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 天皇が持っていた権威とは、俗事の政治権力や宗教権威ではなく、俗事から離れた「菊の御威光」である。
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 日本民族日本人が信じたのは、天地創造絶対神・救世主の恩寵・奇跡・福音・隣人愛ではなく自分の祖先であったが、祖先を大事にして祀り崇拝しても崇め信仰する事はなかった。
 何故か、それは幾ら崇めて信仰し熱心に祈った所で、恩寵もなければ奇跡も起きないし、助けて貰えない、救って貰えない事を肌身で知っていたからである。
 日本民族日本人の「神観」とは、「神は尊くても無力」であると言う冷めた感想である。
 それ故に、死後の世界としての「天国」も「神の王国」での永遠の命など信じてはいなかった。
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 天皇に求められるのは、消え入りそうなか細い神秘的なカリスマであって、強力な俗世の政治・軍事・外交・経済そして宗教におけるリーダーシップではない。
 人が行う宗教は、全てが俗欲個人欲の俗事であって無私無欲の神聖ではない。
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 現代の日本人と昔の日本人は、別人と言っても間違いないほどに別人の日本人である。
 現代の日本人には、祖先や歴史や伝統に魅力を感じず、無縁と言ってもいいほどに関心も興味もない。
 ただ、人を集めて金を稼げるイベントになるかどうかだけである。
 つまり、今の日本人を全ての祖先から切り離そうとしている。
 その意味で、現代の日本人は、架空の時代劇は好きだが事実に基づいた歴史劇は嫌いである。
 祖先が命を賭けて守ってきた伝統や確信を持って信じた事は、価値のないゴミでしかない。
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 国民の感情とは、あやふやで移ろいやすく信用できない。
 国民世論は、その時々、時々刻々と変わっていく。
 昨日は賛成でも、今日は反対になり、明日には賛成でも反対もなくなる。
 付和雷同して定まらないのが、自由と民主主義の実態である。
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 反天皇主義原理主義者とは、赤い神父、赤い牧師、赤い僧侶ら聖職者や宗教関係者であった。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として売って金を稼いでいた。
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 問題は、高学歴出身知的エリートであった。
 元凶は、最高学府の大学におけるマルクス主義共産主義)教育であった。
 大学における、天皇制度打倒・皇室廃絶・日本民族改造の革命教育は大正時代から存在していた。
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 日本を破滅的戦争へと追いやったのは、レーニンであった。
 レーニンの指示に従って動いていたのが、中国共産党日本共産党であった。
 中国共産党は、日本人共産主義者は、ソ連コミンテルンから受け取った活動資金や武器を日本共産党と日本人共産主義者に渡していた。
 現代の日本国内にも、レーニンを信奉する日本人が少なからず存在する。
 大虐殺を行ったスターリン毛沢東を悪く言う日本人がいても、天皇を殺し日本を滅ぼそうとしたレーニンを悪く言う日本人はあまりいない。
 共産主義者マルクス主義者)が理想とした国とは、人種・民族・宗教を否定した平等な人民国家である。
 平等な人民国家を建設する為に、共産主義大義・革命の正義として抵抗分子・反対分子の大虐殺を行った。
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 戦前日本の政治・軍事・経済・外交を支配したのは、大学でマルクス主義共産主義)教育を受けた革新官僚・軍人官僚エリー・報道関係者達であった。
 彼らが目指したのは、戦争に敗れた後の人民による敗戦革命であった。
 彼らに抵抗したのが、昭和天皇と「君側の奸」と嫌悪された親英米派・親ユダヤ派・穏健派・非戦派の宮中グループであった。
 特に、昭和天皇は話し合いによる平和を望み、戦争は不同意であった。
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 アメリカ・GHQ・マッカーサーは、日本占領政策の為に昭和天皇を利用したが、将来、天皇制度をは廃止し皇室が消滅する方策を残した。
 それが、日本国憲法と現皇室典範である。
 その為に利用したのが、保守派・右翼・右派と革新派・左翼・左派そしてリベラル派である。
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 天皇・皇族・皇室を守ったのが、下級武士・貧しい庶民(百姓・町人)、卑しい芸能の民(歌舞伎役者、曲芸師、傀儡師ら)、差別された賤民(非人・穢多・河原乞食ら)、蔑まれていた部落民(山の民・川の民・海の民)そして帰化人であった。
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💍6)─4─愛子天皇待望論と悠仁親王廃嫡論。~No.28No.29 

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・    
 愛子天皇待望と悠仁親王廃嫡は血統・血筋・正統・男系・世襲天皇家を消滅させる陰謀論
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 万世一系男系天皇家・皇室と日本国と日本民族日本人は不分離の一体である。
 日本の歴史とは、この三者が2000年かけて織り成してきた民族の物語である。
 この原型は、縄文時代から形づくられてきた。
 そして、その源流は、揚子江流域に栄えた長江文明である。
 それ故に、揚子江以南の山岳に逃げ込んだ長江文明の子孫である少数民族に似かよった点が数多く存在する。
 それに比べて、黄河流域民の子孫である漢族系中国人や朝鮮人・韓国人とは似かよって点は少ない。
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 女系天皇誕生・女系宮家創設は、民族の物語を否定し消滅させる事を意味している。
 人類史・世界史において、ハワイ王家のように数多くの王国が滅亡し、ハワイ人のような異教徒の民の歴史が消滅させられている。
 現代日本は、それを人類の進歩、社会の近代化に「やむおえない」必要な犠牲であると語っている。
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 キリスト教朝鮮人テロリストや日本人共産主義者テロリストは、昭和天皇や皇族を殺す為につけ狙っていた。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として売って金を稼いでいた。
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 朝鮮から渡ってきた、帰化人は天皇に忠誠を誓い、渡来人は天皇への忠誠を拒否した。
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 2019年8月号 WiLL「事件の現場から『悠仁親王廃嫡論』を憂う 門田隆将
 なぜ『愛子天皇』ではいけないのですか──令和になって、そんな声をよく聞く。『愛子天皇待望論』であり、その先にある『女系天皇容認論』だ。
 それに呼応して、男系男子に限られた皇室典範を改正してまで『愛子天皇を誕生させよう』という動きが活発化している。共産党立憲民主党、そして朝日や毎日といったメディアが推し進め、そのことが一定の反響を生み始めている。私は、彼らの目的を考える時、背筋が寒くなる。彼らが目指しているのは、現在、皇嗣である秋篠宮文仁(ふみひと)親王、そして皇位継承第2位の悠仁(ひさひと)親王の『廃嫡』である。なぜ彼らはこれを目指すのか、そのことを記しておきたい。
 男系とは、2000年の皇統の唯一ともいっていいルールだ。長子継承を基本とする英国王室との違いはここにある。これをいとも簡単に捨て去ることはなにを意味するのだろう。6月4日付の『しんぶん赤旗』で、日本共産党志位和夫委員長自ら『女系天皇』容認を打ち出した。いうまでもないが、同党は長きにわたって天皇制打倒を掲げてきた。だが、民主連合政府樹立を目指す共産党も、さすがに天皇制打倒では国民の支持は得られないと、『2004年綱領』からは『(皇室の)存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきもの』と表現を和(やわ)らげた。しかし、衣(ころも)の下からは天皇制打倒の鎧が見え続けている。そして参院選野党統一候補を擁立を目指していた立憲民主党も直後に女系天皇容認を打ち出した。
 共産党の理論的支柱で、皇室と民主主義は両立しないと主張し続けた法学者・故奥平康弘氏の言葉を紹介して彼らの目的を記したのは6月8日付の産経抄だ。
 『天皇制のそもそもの正当性根拠であるところの「萬世一系」イデオロギーを内において浸蝕(しんしょく)する』
 これは、平成16年8月号の月刊誌『世界』に奥平氏の言葉として掲載されたものだ。萬世一系の皇統さえ途絶させられれば、天皇制そのものの正当性の『根拠』は消え、内側から皇室は『浸蝕』され、解体されていくという意味である。実際、過去『8人、10代』いる女性天皇も、いずれも父親が天皇か皇太子であった男系の天皇だ。日本の歴史上、父親が天皇や皇太子ではない『女系天皇』はひとりも存在しない。
 これによって、たとえ時の権力者や独裁者が天皇家と姻戚関係を結んでも、その間に生まれた子供は天皇になれない。これが『権威』と『権力』のぶんりである。権勢を振るった平清盛であろうと、織田信長であろうと、それはできなかった。皇統が男系によって維持されてきた先人の智慧(ちえ)である。日本がこれを維持し、〝世界最古の国〟となった所以(ゆえん)もそこにある。
 まず愛子天皇を誕生させ、その後、その子供に天皇を継がせ、女系天皇を誕生させるのが、共産党立憲民主党、あるいは朝日や毎日といったメディアの目的だ。奥平氏が指摘していたように『萬世一系』が途絶えれば、やがて皇室は崩壊するだろう。天皇制打倒を長く心に秘めてきた勢力の深謀遠慮である。
 朝日や毎日は、女性・女系への道を切り開こうと懸命だ。朝日は4月23日付朝刊で〈女性・女系、立ち消えた議論〉と題して、小泉政権下の有識者会議が報告書で提案した女性・女系天皇容認を当時の有識者会議メンバー、園部逸夫・元最高裁判事の『あの時、議論を止めるべきではなかった』との言葉で紹介し、女系天皇誕生を願う記事を掲載した。
 また毎日は5月16日付夕刊で、『前近代までは確固として皇位継承原則がなかつた』という確定した学説でもない研究者のコメントを引き用した上で、〈『男系継承が古来例外なく維持されてきたことの重み・・・』。3月の参院予算委での安倍晋三首相の答弁の一部である。ぜひ、正確な歴史認識の共有の下、議論を進めたいものだ〉と主張し、女系天皇実現への願いを込めた。
 男系維持のための先人の苦労は涙ぐましい。第25代武烈天皇が後嗣(こうし)を残さずに崩御した際、越の国(現在の福井県)から応神天皇の実に5世孫を招聘(しょうへい)し、継体天皇として即位させたこともあつた。
 また江戸時代には皇統断絶を憂えた新井白石の進言で閑院宮家が創設だれ、実際に白石の死の70年後、後桃園天皇が後嗣を残さず崩御し、その閑院宮家から光格天皇が誕生して今の天皇家へと引き継がれている。
 多くの国民は、女性天皇女系天皇の違いもわかっていない。それにつけこんで世論工作が猛然とおこなわれていることに私は深く憂慮を感じる。『安定的な皇位継承』『男女平等』という名の下に、正当な皇位継承者を廃嫡にしてまで長きにわたって先人の智慧を崩すことは許されない。」
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 親日派知日派は、百済高句麗・古新羅渤海
 反日派敵日派は、統一新羅・高麗・李氏朝鮮大韓帝国
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 日本には、哲学・思想・主義主張はもちろん宗教さえなかった。
 何となく曖昧な宗教とイデオロギーしか持たない日本に、日本民族日本人が拒絶し死者を出してまで抵抗したのに、執拗に侵略してきたのが「隣人の愛」の信仰を掲げたキリスト教と人民の正義を振りかざした共産主義マルクス主義)であった。
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 真の尊王派・勤皇派は、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、身分低い芸能民(歌舞伎役者や曲芸師ら)、虐げられた賤民(非人や穢多や河原乞食ら)、差別された部落民(山の民・川の民・海の民ら)であった。
 天皇家・皇室と差別され迫害される貧しい最下層民とは繋がっている。
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 天皇家・皇室を消滅させようと悪巧みを企み陰険に行動を起こしているのが、キリスト教原理主義者と共産主義者マルクス主義者)である。
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 日本おいて、キリスト教共産主義マルクス主義)を拒否したのは貧しい最下層民であった。
 最下層民を洗脳し味方にしたのが、共産主義聖職者・共産主義宗教関係者、つまり赤い神父・赤い牧師・赤い僧侶達である。
 それを推奨したのが、天皇制度を破壊しようとしたアメリカ・GHQ内のユダヤマルクス主義者とアメリカ・キリスト教会であった。
 彼らは日本人を反天皇反日的に洗脳するべく、大学などの教育現場と新聞社・出版社、ラジオ局・テレビ局などのメディアに勢力を拡大した。
 その効果が現れだしたのが、1980年後半頃からである。
 そして決定的な証拠が、2000年頃から国民の支持を集めはじめた女系天皇擁立と女系宮家創設である。
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 現代日本人の本心では、伝統的皇室の行く末など気にはしていないし、将来なくなっても構わないと考え始めている。
 天皇制度・皇室は、国民の総意で存在し、国民が要らないと判断すれば消滅する。
 それが、日本国憲法である。
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 日本には3つの力が存在していた。
 軍事を独占する政治権力と経済を支配する宗教権威、政治・軍事・経済そして宗教などの俗事を一切持たない天皇の菊の御威光である。
 人が行う如何なる宗教も、全て神聖ではなく俗事である。
 それは、歴史が証明している。
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 日本の皇室は閉ざされた皇室として、同じ日本民族日本人でなければならない。
 天皇・皇室の正統性は、血筋・血統を同じくする万世一系男系天皇にある。
 血筋・血統の正統性は、最高神である女性神天照大神に繋がる。
 イギリスの国王は、イギリス人ではなく外国人である。
 ヨーロッパの王家は開かれた王家として、必ずしも同国人でなくても構わない。
 それ故に、近代的君主制は同系同族同家の世襲を否定する。
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 天皇制度・皇室は、ムラ共同体的日本式民主主義で成立し、民族の総意として存続してきた、民族の象徴である。
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 現代日本で、約2000年間、祖先が命を捨ててまで守り続けた世襲男系天皇家・皇室を消滅させる陰謀が進行している。
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 天皇制度が、政治制度なら選挙で血筋・血統に関係ない国民の中から選べば良い、宗教制度ならローマ教皇のように民族や国籍に関係なく聖職者の中から皇統として選べば良い。
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 日本が少子高齢化による人口激減を外国人移民(主に中国人移民)で防ぎ人口回復を目指すならば、日本民族特有の天皇制度を万民が共有できる一政治制度に編成換えする必要がある。
 即ち、日本民族日本人の自然消滅である。
 それは、在来種の日本産トキが強欲な日本人によって絶滅させられた事によく似ている。
 自然消滅する日本民族日本人を、外国人移民(主に中国人移民)に入れ替えようとしている。
 その手法は、絶滅した日本産トキを外来種の中国産朱鷺で再生しようとするのに似ている。
 見た目は、日本産トキも中国産朱鷺も同じコウノトリ目トキ科の鳥である。
 人種や民族で差別しないとは、そういう事である。
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 日本人とは、日本列島に住んでいる人間の事をいうのであって、特定の人種や民族ではない。
 日本民族日本人は、神の子孫として特別で優秀な民族ではなく、祖先を人神として祀る特殊な民族である。
 日本民族日本人は、見境のない乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族である。
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 生き物は何時かは絶滅する。
 それは、国家でも、民族でも、同じ事である。
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 ヤマト王権は、邪馬台国同様に弥生の大乱の中、無益な殺し合いを止め、話し合いで一つにまとまる為に誕生した。
 大和の国・奈良の諸豪族は、寄り集まって話し合いで、ある一家系を大王=天皇に祭り上げた。
 諸豪族は、大王=天皇の正統性を政治力・軍事力・経済力ではなく宗教力に求めた。
 日本における宗教力の源泉は、最高神である女性神天照大神を中心とした民族中心神話と天孫降臨神話による高天原神話である。
 皇室神話では、大王=天皇は女性神天照大神の血を正統に受け継ぐ者が男系の者が即位とされている。
 大王=天皇の正統性とは、女性神天照大神の血筋・血統である。
 ここに、特殊な血筋・血統を受け継ぐ特別な家系による世襲制君主が誕生した。
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 諸豪族は、大王=天皇の位を守る為に「特殊な血筋・血統を受け継ぐ特別な家系による世襲制」を神聖不可侵とした。
 こうして、日本では中華世界のような虐殺に次ぐ虐殺という「易姓革命」は起きなかった。
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 諸豪族が、争いを鎮め平和に暮らす為に、大王=天皇に求められたのは政治に口出さない物言わぬカリスマ性であって、国を導く強力なリーダーシップではなかった。
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 天皇・皇室を支えたのは、自分と自分の家の祖先を大事にするという祖先神・氏神の人神信仰である。
 皇室祭祀における祖先神・氏神の人神信仰の中心にあるのは、自分と祖先を繋ぐ、命と魂・霊魂、血と身体、遺伝子・DNA、心と精神、志と気概を大切に守り、祖先から受け継ぎ、子孫に伝えると言う事である。
 つまり、日本特有の血筋・血統による「家」信仰である。
 その皇室祭祀に必要なのが、男系継承であった。
 血の繋がらない他人、女系で血筋が変わった子孫では、家信仰は成立しない。
 家信仰は、氏子である子孫だけの信仰であり、血の繋がらない他人・他家は信仰できない。
 他人・他家が関わりを持てるのは、崇敬者か地元住民としてである。
 つまり、家信仰とは血の繋がらない他者排除の信仰である。
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 日本国憲法皇室典範は、反宗教無神論的な政教分離原則と信教の自由で、法律で天皇の正当性を抑圧支配し、歴史ある伝統的な天皇の正統性は認めてはいない。
 アメリカ・GHQ・マッカーサーは、日本占領支配の為に昭和天皇を利用すべく残したが、天皇制度と皇室を消滅させる仕掛を日本に残した。
 そうして育てられたのが、戦後の高学歴出身知的エリートである。
 反天皇反日的日本人は、その最たる存在である。
 天皇制度と皇室消滅の仕掛は、日本の無力化無能化とキリスト教化を進めたいGHQと日本の共産主義化を目指す日本人共産主義者による妥協の産物である。
 この策謀に一人孤独に戦ったのが、昭和天皇である。
 戦前の愛国心・皇国教育を受けた日本民族日本人は、GHQの言論弾圧の中で無言で昭和天皇を指示した。
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 戦後教育とは、平和・自由・人権・民主主義を広まる事を目的とした愚民化教育、洗脳教育であった。
 その最終目的は、天皇制度打倒と皇室の消滅であった。
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 1980年代から、戦後教育で高得点を取った高学歴出身知的エリートが政治家・官僚・学者・メディア関係者として表舞台に現れ、天皇制度と皇室の存続が危うくなり始めた。
 そして、男系天皇制を廃絶する女系天皇即位・女系宮家創設が国民の支持を集めはじめた。
 つまり、天皇日本国憲法・法律で決めるのが真の民主主義であると。
 現代日本には、祖先を人神として祀る家信仰は存在していない。
 その証拠に、家の中から神棚が消え始めている。
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⛩43)44)45)─1─沖縄の御嶽信仰と南方の貝文化が日本・朝鮮・アイヌに広まった。〜No.103No.104No.105No.106No.107No.108 ⑧

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 朝鮮の『三国史記』は、1145年の高麗時代に書かれた最古の歴史書である。
 日本の神話及び歴史書である、『古事記』は712(養老5)年に、『風土記』は713(養老6)年に、『日本書紀』は720(和銅5)年にそれぞれ完成した。
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 日本の最高神は、伊勢神宮に祀られている女性神天照大神である。
 女性神天照大神は、天皇家・皇室の祖先神である。
 女性神天照大神を正統な最高神としているのは、2000年近く日本民族が信じてきた日本中心神話と天孫降臨神話による高天原神話である。
 天皇・皇族・皇室の正統性は、最高神である女性神天照大神の血筋・血統である。
 皇室の世襲制の正統性も、最高神である女性神天照大神の血筋・血統である。
 天皇制度を打倒し、天皇を廃絶し、皇室を断絶する、と言う事は、そういう事である。
 そして、女系天皇即位や女系宮家創設は世襲の正統性である血筋・血統を消滅させる事を言う。
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 日本の敵は、統一新羅と唐(中国)であった。
 国防の最前線は、新羅朝鮮半島を統一してからは百済任那から半島南部の海岸線に後退し、対馬が最前線基地となった。
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 日本天皇に忠誠を誓い日本国に貢献したのは、帰化人であって、渡来人ではい。
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 古代の日本には、朝鮮半島や中国大陸から数多くの戦争避難民や環境被災民が逃げ込んできていた。
 歴代天皇は、逃げて来た難民達を分け隔てなく温かく受け入れ、関東各地に土地を与えて定住させ、自分達が信じる神を神社に祀る事を許した。
 古代の日本は、あらゆる面において柔軟で多様性に富んでいた。
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 親日派知日派百済、古新羅高句麗渤海
 反日派敵日派、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国
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 2019年7月5日号 週刊金曜日「神社の起源を問う──  岡谷公二氏に聞く
 朝鮮半島、沖縄、日本列島をつなぐ『神の森』の系譜
 ──フランスの文学と美術がご専門。なぜ神社にご関心を?
 岡谷 私は『専門』というのが嫌いでして、大学ではフランス語やフランス美術を教えていましたが、20代から全国の島めぐりをしていました。最初は伊豆七島。それから約60年が経ちますが、北海道以外、列島にあるすべての島をめぐり歩きしました。
 御嶽との出会い
 ──タヒチに見せられた画家ポール・ゴーギャンのようにですか。
 岡谷 そう。作品と生き方に傾倒していたゴーギャンがきっかけです。1961年(昭和36年)に当時まだ米軍政下にあった沖縄に初めて渡航しました。パスポートが必要で、鹿児島からほぼ一昼夜かけて那覇に着いた。それから最南端の島、波照間島(はてるまじま)で御嶽に出会ったのです。
 御嶽というのは、沖縄の島々のどこの村にも必ず一つはある聖地のことです。聖地といっても、あるのは深い森だけ。クバ(檳椰{びろう})やヤラブなどの南方系の木々に覆われています。そこに神が祀られている。奧に『イベ』『イビ』と呼ばれる神聖な場所があって、そこには『ノロ』あるいは『司(つかさ)』と呼ばれる神女しか入れません。男はダメです。社殿のようなものはなく、小さな祠(ほこら)がある場所もありますが、それすらないところが多い。その森の木を伐ることも、枝を折ることも許されません。
 私は偶然、禁を犯して御嶽の奧に入ってしまった。不思議な場所でした。その何もない豊かさに心が満たされ、むしろ何もない所に強い宗教的な意思を感じて深い感銘を受けました。それで御嶽に見せられ、各地の御嶽をめぐりました。そして自然に神社の成り立ちへと関心が移っていったのです。
 私が最も足繁く通っているのは宮古島です。民俗学者谷川健一氏が創始した『宮古島の神と森を考える会』の副会長を仰せつかっており、毎年11月に会合があるのですが、もう20回以上訪れています。宮古島では全島でほぼ900ヵ所の御嶽の所在や立地、祭神、祭祀などの記録が残っています。
 柳田・折口説の矛盾
 ──90歳になられるということですが、そのフットワークと旺盛な探究心に敬服いたします。では、その御嶽が神社の原型なのでしょうか。
 岡谷 100年近く前に民俗学者柳田国男が、御嶽は古神道の面影を残しているとし、弟子の折口信夫も『神道の一分派か、むしろ原始形式』として、それが現在の定説になっています。しかし私は少し違う、その説には矛盾があると思っています。
 確かに、古代の列島本土の神社には、御嶽と同じように社殿がありませんでした。『万葉集』で『社』を『もり』と読ませていることからもわかります。古来、社殿のなかった神社としては奈良県桜井市の大神(おおかみ)神社、奈良市春日大社などが知られていますし、現在でも若狭(福井県大島半島の『ニソの杜(もり)』とか、社殿のない神社や聖地は各地にたくさんあります。
 神社に社殿がいつから設けられたかは、実は正確にはわかっていません。文献では『日本書紀』の斉明天皇の条、659年に〈出雲国造(いずものくにづくり)〉に〈神の宮〉を造られたとの記述があります。ただ、それより100年以上前(6世紀半ば)の仏教伝来後、寺院が各地に建てられ、それにならって神社にも社殿が建てられていったという説が有力のようです。外から客が来た時に見栄えがいいように、一種の見栄で建てたのかもしれません。
 柳田・折口説の矛盾というのは、沖縄の歴史と関わりがあります。沖縄のあちこちに村落ができたのは12世紀から13世紀ごろで、その頃に鉄と稲も入ってきます。沖縄はそれ以前、漁労と採集による『貝塚時代』が長く続きました。列島本土からの渡来も12世紀以降だとされています。『鉄と稲』が入って村ができなければ御嶽は始まりませんから、御嶽の誕生もそのころであったろうと思われます。だとすれば、本土と同じように社殿がなければおかしいし、『神女』ではなくて男の神職でなければおかしい。つまり、本土の人たちが沖縄に古神道を持ち込んだのではないということです。
 ただ、列島本土も社殿ができる前は神職は女性でした。社殿ができてから男が取って代わった。また、先に述べたように、社殿がなくて森自体が聖地であったことも、御嶽と神社は共通しています。さらには、御嶽も神社も先祖の墓であるということです。これは単に偶然ではありません。今は神社には社殿と男の神主、御嶽は森だけで祭りをするのは女性です。

 済州島に残る『堂』は神木にも注連縄を張って聖地を作ります
 済州島に残る『堂』
 ──御嶽と神社ないし神道は何らかの関係があるが、別のルーツがあるのではないかということですね。
 岡谷 そうです。のちに韓国最大で最南の済州(チェジュ)島に行ったことがその疑問を解く大きなきっかけになりました。16年ほど前、ハングルを少々習ってから成田空港を発ちました。約2時間で着き、沖縄よりも近い。以来、済州島にはもう7、8回通っています。
 朝鮮半島と日本列島にはともに、神が天から降りてくる『天孫降臨』の建国神話がありますが、済州島の神は地中から現れます。山の麓から3人の神が現れ、浜に流れ着いた日本の王女3人と結婚し、島を三つに分けて建国したという創世神話が『高麗史』に記されています。済州島と日本との関係を示していて、実に興味深いものです
 その済州島に『堂』と書いて『タン』と読む聖地があります。欅(けやき)や榎(えのき)を神木(しんぼく)にした小さな森で、島全体に250ヵ所以上ある。その聖地を取り仕切っているのは女性です。しかも、作り方は少し違いますが、マツリの時は神主の家の周りに注連縄(しめなわ)を張りめぐらせて結界を作る。神木にも注連縄を張って聖域を作り、中へみだりに入れません。日本と同じです。
 ──まさに柳田の言う『古神道の面影』そのもののようです。それは済州島だけにあるものですか?
 岡谷 いや、こうしたタンはかつて、済州島だけでなく半島の全体にありました。しかし、古代の新羅や高麗(こま)では仏教を国教にし、その後の李朝500年(1392年~1910年)では仏教に代わって儒教を国教にしました。その過程で『堂』信仰は迷信治され排除され、衰えてしまった。その後の日本統治下では『セマウル(新しい村)運動』という農村振興策があり、1970年代の朴正熙(パクチョンヒ)大統領下でもセマウル運動が展開され、『堂』信仰は弾圧されて姿をけしてゆくのです。今や半島本土ではほとんどなくなった。
 しかし、ムーダンと呼ばれる巫女の舞や済州島の風の神の祭り『ヨンドンクツ』(迎燈祭)は習俗として現在も残っています。この祭りは北九州の祭りによく似ています。
 
 貝の道に沿って『神の森』も広がっています
 『貝の道』と文化圏
 また、『貝の道』があります。弥生時代(紀元前10世紀頃から紀元後3世紀頃まで)の北九州や山陰、瀬戸内海沿岸の遺跡から出土した貝が、琉球以南のサンゴ礁海域でしかとれないゴホウラ、イモガイであることが九州大学医学部の永井昌文教授の調査(1969年)でわかりました。弥生以前、つまり縄文時代から、この貝の道に沿って行き来があったということです。
 8世紀以降はヤコウガイも加わります。奄美以南の海域に棲む大きな巻貝で、奈良の正倉院にはヤコウガイを用いた螺鈿(らでん=らでん)製品が何点も存在しています。
 ──縄文時代と言えば1万年ほど前。はるか遠い太古から交流があったというのは驚きですね。
 岡谷 貝の道はまた、朝鮮半島にも繋がっていました。たとえば、新羅の都である慶州の古墳からはイモガイ製の馬具が次々と発見されています。これらのイモガイは古代、九州の豪族を介して半島に運ばれた琉球産の貝である可能性がきわめて高いと見られています。つまり、古代から『貝の文化圏』が存在し、当然ながら貝だけが運ばれるのではなく人も運ばれ、祖先を祀るという習俗も伝わっていきます。実際、貝の道に沿って『神の森』も広がっています。
 薩摩の『モイドン』、九州西部の『ヤボサ(ヤブサ)』。モイドンの『モイ』は森という意味で、『ドン』は『西郷どん』などという『殿』『様』という意味。つまり、モイドンは『森様』という村落の聖地です。ヤボサも広く分布していますが、祭祀は大国主命(おおくにぬしのみこと)や大己貴命(おおなむちのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)など出雲系が圧倒的に多いのです。そして、琉球には『藪佐(やぶさ)』という地名が多い。
 『堂』が沖縄の御嶽、日本列島の神道、神社のルーツだとは断言できませんが、しかし、とても関係が深いことは確かです。
 ──貝の道が『神の道』でもあった可能性があるということですね。
 スサノオ新羅出身か
 ──スサノオの話が出てきましたが、スサノオヤマタノオロチ退治の神話で知られる日本の神とされています。しかし、『日本書紀』には『新羅にいた』と書かれていますね。
 岡谷 そう。『日本書紀』巻一『神代(上)』に、息子の五十猛(いそたける)とともに新羅国の『曾尸茂梨(ソシモリ)』にいて出雲国に来たと記されています。ソシモリとは『王都』すなわち新羅の都・慶州とされていますが、慶尚南道(けいしょうなんど)の牛頭山(ごずさん)との説もあります。『日本書紀』で新羅国の名が初めて見えるのがこの記述で、まさに神代の時代から新羅と日本とは深い関係にあるわけです。日本では、仏教が伝えられた百済との関係が濃いように思われがちですが、文献では新羅の方が500年ほど早く出てくる。新羅にもっと関心を持つべきですね。
 実際、朝鮮半島の東南部にあった新羅は距離的にも列島に近く、海流に乗って北九州や日本海沿岸の地域に渡来できます。敦賀半島福井県)の敦賀市には『白木』という地名があり、そこには『白城(しらき)神社』がありますし『信露貴彦(しろきひこ)神社』もある。今庄(いまじょう)にはその名のとおり『新羅神社』があります。
 ──素戔嗚尊は日本の神ではなく、実は新羅の神だった?
 古代出雲研究者の水野祐(2000年没)は、『スサノオ』の本名は『スサヲ』あるいは『スソウ』で、いずれも古朝鮮語の『巫(ふ)』を意味すると言いました。『巫』は『かんなぎ』とも読みますが、神を祀り、神に仕える人のこと。『巫女』というに『巫』は女性で、男性は『覡(げき)』と言います。水野は『スサノヲノミコトは巫覡(ふげき)の神』であり、新羅の王号の一つ『次々雄(ススング)』と素戔嗚は同義なので、素戔嗚は新羅の神であることは確実だとしています。江戸時代の学者・籐貞幹(とうていかん)もまた素戔嗚を新羅の王だとしていますね。
 鉄の先進地、近江と出雲
 ──それで、かどうか。列島各地には素戔嗚を祭神とした神社や新羅系の神社が多いですね。
 岡谷 素戔嗚を祭神としている神社は全国各地にありますし、全国に400社ほどあるといわれる白鬚(しらひげ)神社も新羅系渡来人が祀った神社であることが定説になっています。『白鬚』といのは古代からの名前ではなく、『比良神』『比良明神』と言われていた記録があり、『ヒラ』は『シラ』であり、新羅の最初の国号が『斯盧』と書いて『シラ』ないし『シロ』です。琵琶湖の湖の中に、三尾山(みおさん)を背にして厳島神社と似た白鬚神社の大鳥居が立っていますが、ここは琵琶湖周辺の最古の神社とされっています。近江(滋賀県)は古代から磁鉄鉱の産地として知られ、『続(しょく)日本紀』にも703年の記述をはじめ、『近江の鉄』の記述がいくつもあります。琵琶湖の西岸は最も早く鉄資源の開発された地域でした。現在でも『たたら跡』として、多くの製鉄遺跡が残っています。
 その採鉄・製鉄技術をもたらしたのが日本海から越前国福井県)に入り、山一つ越えて近江に来た新羅系渡来人だとされています。琵琶湖東岸には、百済寺など百済系の寺院がありますが、神社は新羅伽耶(かや)系が圧倒的に多い。琵琶湖南西の山の中腹に、天台寺門宗の総本山として知られる三井寺園城寺{おんじょうじ})がありますが、ここにはかつて新羅神社、新羅明神と呼ばれた『新羅善神堂』があり、北の隅には『新羅の森』と呼ばれる巨木の生い茂る森があります。
 また、琵琶湖の北側には周囲6キロメートルの小さな湖、余呉(よご)湖がありますが、ここには『日本書紀』の垂仁天皇(実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半ごろの人物)の時代に渡来したと記されている新羅の王子『天日槍(あめのひぼこ)』を祀る『新羅崎(しらぎざき)神社』があります。
 ──新羅との関係の深さは、ただならにものがあるようですね。
 岡谷 素戔嗚もまた『鉄』と関係がありますね。先ほどの『日本書紀』の記述の続きでは、出雲国に来た素戔嗚は『簸川({ひのかわ}現在の斐伊川{ひいかわ})』にある『鳥上(とりかみ)の峯(たけ)に到(いた)る』とあります。『鳥上の峯』というのは現在の鳥取県島根県との県境にある船通山(せんつうざん)とされていますが、このあたりは古くから砂鉄の産地です。素戔嗚はその鉄を求めて半島から渡来し、おそらく砂鉄技術者を多数引き連れて川を遡(さかのぼ)り、鉱山を確保したということでしょう。素戔嗚がヤマタノオロチを退治し、蛇の体内から『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』を取り出したという伝説は象徴的です。このように出雲は早くから新羅伽耶の人々が入り込み、鉄産業、須恵器(すえき)、医薬など先進技術の根拠地だったと思われます。
 出雲には、927年完成の『延喜式(えんぎしき)』神名帳に『韓国伊太氐(からくにいたて)神社』が6社載っています。この『韓国伊太氐』という名称の神社は出雲にしかありません。現在もいくつか残っている韓国伊太氐神社の祭神は明証されていませんが、五十猛つまり素戔嗚の子だとされています。ところが、『出雲国風土記』にはその名がどこにも見えません。ある時期から、新羅の影響を消そうとしたのではないかと思われます。実際、『続日本紀』を見ても、新羅がよく書かれているのは天武天皇(在位673年~686年)の前後だけで、あとは蕃国視(ばんこくし)、つまり野蛮な国だとされる記述が多いのです。
 ──『日本書紀』の執筆者には百済からの渡来人が多くいます。
 白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)で百済・倭連合軍は新羅・唐連合軍に敗れました。その時、百済人が大挙して列島に渡来し、たくさんの人が朝廷に入りました。その人たちの中に『記紀』の書き手がいました。当時の漢文の知識は倭国の人より百済人の方がずっと上でしたから。実際、『日本書紀』には『百済本記』の記述の引用が見られます。
 当時の百済人や倭国にとって新羅は敵で、それも打ち負かされた相手でしたから、当然よくは思っていないでしょう。新羅を『蕃国視』しているのはそのためだと思われます。『記紀』はそうした背景を割り引いて読む必要がある。記述をそのまま信じるわけにはいきません。

 伊勢神宮朝鮮半島と関係があると考えられます
 伊勢神宮と韓神山
 ──最後に伊勢神宮のことを伺いますが、こここそが全国8万社近くの神社を包括する宗教法人神社本庁が『本宗(ほんそう)』と仰ぐ、まさに列島の神社の中心地です。ですが、伊勢神宮もまた朝鮮渡来の人と関係があるようですね。
 岡谷 そうです。伊勢神宮朝鮮半島と関係があると考えられます。伊勢神宮の近くに五十鈴川が流れていますが、その五十鈴川に沿って『韓神山(からかみやま)』があります。ここは神宮の神官である禰宜(ねぎ)を代々務めた荒木田家の墓地だっっところで、かつては大きな古墳がありましたが、大正時代の初めの河川改修工事で破壊されてしまったということです。今も山には『韓神社』の小さな社があり、近くの森の中には国津御祖(くにつみおや)神社と大土御祖(おおつちみおや)神社がある。神宮の禰宜の墓があった山がなぜ『韓神山』と呼ばれるのか、祖先を意味する『御祖』の名に冠した神社がなぜ近くにあるのでしょう。私は3年くらい前にここを訪れ、韓神社を守っている地元の方の話を聞きましたが、詳しい話を聞くことはできませんでした。
 そもそも『神宮』という名称自体が、朝鮮半島に現存する最古の歴史書である『三国史記』の新羅本紀に出てきます。485年『春2月』の条に〈神宮を奈乙に置く。奈乙は始祖の初めて生たる処成〉とあって、これが文献による『神宮』の初見になります。このことは作家の金達寿(キムタルス)さんらが指摘しているところです。伊勢神宮の体制が整備されたのは7世紀半ばすぎ、天武天皇の頃とされています。
 ──太古から『貝の道』を通じて琉球と列島、半島の間で交流があったということですが、では神社の起源はいつごろなのでしょう。
 岡谷 700年始めに完成した『記紀』には、伊勢神宮や奈良の大神(おおみわ)神社などの記述が出てきますから、それよりかなり前から神社は存在していたと思われます。神域の近くに古墳つまり墓のある神社がおびただしい数に上っていることから、神社の起源は古墳時代、さらにその前の弥生時代縄文時代にまで遡る可能性もあるでしょう。
 ──『嫌韓』の風潮と日韓の政治的対立が取り沙汰される昨今です。大学で長く教鞭をとられていましたが、若い人たちに古代の神社の話をされましたか?
 岡谷 いや、していません。日本の伝統などと言われますが、こうした半島と列島の歴史をもっと多くの人に知ってもらいたいですね。実は30年近く通った跡見学園女子大学は埼玉県の新座市にあります。そこは古代に『新羅郡』だったところです。
 ──奇縁ですね。興味深い話をありがとうございました。」
   ・   ・   ・   
 最初に日本や朝鮮に上陸した文化や宗教は、南方系海洋民の子孫である縄文人が南から船に乗ってもたらしたものである。
 その源流は、神聖な宗教は女性、俗世の政治・軍事は男性という役割を分担していた揚子江流域にあった水稲作漁労の長江文明にあった。
 男尊女卑を原則とする黄河流域で栄えた麦・陸稲作狩猟の黄河文明とは違う。
 日本神道の大本も、長江文明にあった祭祀である。
 天孫降臨神話など日本神話の多くが、長江文明揚子江流域神話に由来している。
 祖先神・氏神の人神信仰も、長江文明の土着民信仰であった。
 長江文明は、現代の漢族系中国人とは無関係であり、むしろ南支山岳地帯で細々と生活する貧しい少数民族に繋がっている。
   ・   ・   ・   
 ヤマト王権は、女性神天照大神の血筋・血統を引く特別な一家系の人間のみを大王=天皇に祭り上げ、その特殊な血筋・血統の正統性を守る為に他家を排除する為に世襲とした。
   ・   ・   ・   
 女性が司る神聖の宗教と男性が行う俗世の政治・軍事は、対等な地位にあり、お互いが補完し合う並立共存体制であった。
 その代表例が、邪馬台国卑弥呼である。
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 現代の韓国でも、日本からもたらされたモノは数多く存在し、日本所縁のモノを排除したら残るモノは少ない。
 それに比べて、朝鮮発祥のモノで日本に根付いたモノはほんの僅かでしかない。
 日本が、朝鮮半島所縁の物で珍重したのは高額で取引されていた高麗人参と高麗青磁・高麗白磁などの陶磁器であった。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人、琉球人、アイヌ人は、同じ縄文人の子孫である。
 縄文人は、日本列島を中心に、南は沖縄、北は北方領土4島・千島列島・樺太、西は朝鮮半島南部に広く住み、日本海を主要航路として船で往来していた。
 ただし、日本民族日本人だけは、新たに逃げて来た渡来系弥生人難民との乱婚を繰り返して縄文人の血が薄れている。
 日本民族日本人・琉球人(沖縄県人)・アイヌ人は、ある意味では同じ民族である。
・・・
 弥生系渡来人は、黄河流域民の侵略戦に敗れて朝鮮半島南部に逃げて来た揚子江流域民と土着の縄文系住民と雑婚し混血した子孫つまり、弥生系倭族である。
 弥生系倭族は、北から侵略してきた黄河流域民に敗れ弥生系帰化人として日本に逃げ込み、縄文人と乱婚し混血して倭人となった。
 弥生系倭族は、黄河流域民の子孫である現代の朝鮮人・韓国人とは無関係である。
 弥生系渡来人は、琉球人やアイヌ人とは乱婚で混血しなかった。
 同じ混血の雑種民族である日本民族日本人と琉球人・アイヌ人の違いは、乱婚の回数による。
 縄文人が、弥生系渡来人(倭族)と争う事なく同化できたのは血筋を同じくする同系同族であったからであり、中国人や朝鮮人と同化せず異化のまま乱婚せず交わらなかったのは別の血筋だったからである。
 血筋の違いは、日本民族日本人・琉球人・アイヌ人と中国人・朝鮮人・韓国人との感情、思考、行動、言動を見比べれば明らかである。
   ・   ・   ・   
 朝鮮半島所縁の出雲神話は、混血の弥生系倭族に由来する。
 スサノオ神話は、黄河流域民の話ではなく弥生系倭族の話である。
 古朝鮮時代の百済と古新羅は、弥生系倭族の血筋との繋がりを濃かった。
 同じ新羅と言っても、倭族混血の古新羅黄河流域民混血の統一新羅では違う。
 古新羅の建国には、倭人が関わり重要な役割を担っていた。
   ・   ・   ・   
 倭族が多く住んでいたのは、朝鮮半島南部の任那諸王国(金官加耶{かや}=伽耶金氏)であった。
 任那は製鉄業が盛んで、優れた職人が多くいた。
 任那新羅によって滅ぼされ、任那人は日本に逃げて帰化人となり、逃げられなかった任那人は新羅人と混血して消滅した。
 日本に逃げてきた任那人は、倭人日本民族日本人)と混血して消えた。
 逃げて来た任那帰化人の御蔭で、日本で製鉄業が盛んとなり、鉄製の武具甲冑や刀・槍などの強度が増して軍事力を強めていった。
   ・   ・   ・   
 百済は、新羅・唐連合軍に攻められて滅亡し、王侯貴族や軍人や学者など一部の百済人は日本に逃げ帰化人となり、残った百済人の多くが虐殺された、生き残った者は儒教による地域差別で下賤の身に落とされた。
 高句麗新羅・唐連合軍に攻め滅ぼされ、一部の高句麗人は日本・関東に逃げて帰化し、多くの者は満州に逃げ、逃げきれなかった者は虐殺された。
 一部の新羅人が、日本・関東などに移住して渡来人となった。
 百済人も任那人も、縄文人の血を濃く受け継いでいた。
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 新羅朝鮮半島を統一した後、王国内では激しい主導権争いが起き、権力闘争に敗れた一部の新羅人が日本に逃げ込み渡来人となった。
 統一新羅人は、古新羅人とは違って縄文人よりも黄河流域民の血の方が濃かった。
 新羅系渡来人は、日本天皇に対して反乱や騒乱を起こしていた。
 統一新羅の水軍や海賊は、北九州から北陸までの沿岸を襲い虐殺と略奪を繰り返し荒らし回っていた。
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💖4)─1─諸外国は観戦武官や新聞記者を日本に派遣して日清戦争を観察していた。~No.10No.11No.12No.13 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本軍は、降伏した清国軍兵士捕虜を収容所に保護し、負傷している清国軍兵士捕虜は治療し、看護した。
 清国軍(中国軍)は、日本軍兵士の捕虜を取らず、奇的に惨殺した。
   ・   ・   ・   
 日本の歴史には、殺し合いは少なく、血や死体も少ない。
 中国や朝鮮の歴史は、殺し合いが多く、血と死体を語らないと何も話せない。
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 漢族系中国人は、土着性の強い農耕民で、土地の固執して戦う。
 日本民族日本人は、半農半漁民で、遊牧民的気質を持ち土地に固執せず命を守る為に逃げ、窮地に追い込まれ逃げられないと諦めた時に戦った。
 日本民族日本人の祖先である縄文人は、東シナ海日本海を行き来した船乗りであった。
   ・   ・   ・   
 中華世界では虐殺を繰り返したのは、農耕民族の漢族系中国人であって遊牧民族の非漢族ではなかった。
 何故なら、人口比が違うからである。
 農耕民族は、雑草のように爆発的に人口を増加させると、住んでいる土地は農耕地が少く開墾できない土地も少ない為に他人から奪うしかなく、奪っても取り返されない為には相手とその家族・親族を皆殺しにするしかなかった。
 遊牧民族は、人数が少ない為に、占領した土地の住民を殺したら支配地での労働者や納税者が減ってしまう為に抵抗しない相手は殺さなかった。
   ・   ・   ・   
 2019年7月11日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 憎悪は消えた
 スウィフトのガリバー旅行記にも出てくる不思議の国、日本を開国させた米国はそれが随分自慢だった。
 博覧会には日本を必ず招き、その精緻(せいち)な工芸品や匠の技を新聞は我がことのように誇らし気に伝えた。
 『日本は奇異だけれど支那の気持ち悪い奇異とは全く違う』という当時の女流評論家マリエット・ホーンの言葉がそんな気分をよく示している。
 しかし、米国の温かい眼差しは日清戦争で突然のように消えてなくなった。
 この戦争では支那定遠鎮遠というドイツ製新鋭戦艦2隻を持つのに対し日本はサイズも艦艇の数もその半分もなかった。陸軍も似たような陣容だった。
 いざ戦いが始まって世界は驚愕した。巨艦定遠を擁する支那北洋艦隊は舳先から相手艦の横腹に突っ込む衝角戦で挑んだ。
 ギリシャの昔からの開戦の形だが、縦陣で臨んだ日本海軍は敵艦隊の右に回り込み、端から1艦ずつ沈めていった。
 支那艦が迫れば彼らの間を縫いながら副砲を浴びせかける。やがて定遠が火災を起こし、北洋艦隊は大敗した。提督、丁汝昌(ていじょしょう)は生阿片を呷(あお)って自決した。
 海戦の手際以上に世界を驚かせたのは日本軍の陸戦での戦いぶりだった。
 勝てば敵兵も敵側の民間人も殺し、略奪し、女は犯すのが旧約聖書の昔から陸上戦の形だった。
 現に支那人は生擒(せいきん)した日本兵の目を抉り、舌を切り、手足をばらして殺した。
 しかし日本軍はそんな支那兵ですら降(くだ)れば殺さなかった。報復の殺戮も略奪も強姦もなかった。
 英のアジア専門家ヘンリー・ノーマン卿は『日本人は素晴らしい知性を持った勇敢で誇り高い民族』と高貴な戦い方を絶賛した。
 サラ・ペイン米海軍大学フェローは自身の『日清戦争』の中で『その評価があったからこそ英国は日本を同盟相手(1902年の日英同盟)にふさわしいと見做(な)した』と書いている。
 しかし米国の受け止め方は違った。昨日まで愛すべき奇異な東洋の小国と思っていたのが、実は強力な戦力を秘めるだけでなく知的で慈悲を知る民と知った。
 そのどれも米国人は持ち合わせていなかった。
 米国は平民の国だ。貴族がエリス島に来ても、身分とついでにノブレス・オブリージュも捨てさせた。慈悲の心とか人の範となる振舞とかはこの新天地ではむしろ障害ですらあった。
 だから黒人奴隷を鞭打っても心に痛みはなかった。シャイアンの居留地サンドクリークに金鉱が見つかると男の戦士の留守に居留地を襲って女子供を皆殺しにした。頭の皮を剝ぎ、耳を切り取り、陰部を抉って鞍頭に飾るのをむしろ誇らしいと考えていた。
 日本人と180度違う自分を見つけると、それに激しい憎悪になった。
 セオドア・ルーズベルトは日本を滅ぼすべき敵とみなし、以降、歴代大統領は日本を倒すことに精力を傾注する。まず日支を離反させるために支那人留学生を山と入れ、彼らに日貨不買をやらせた。
 米公使ポール・ラインシュが5・4運動の指揮をとったことが何よりの証だ。
 日英同盟ワシントン会議で廃棄させ、フランクリン・ルーズベルト蒋介石に対日戦争を仕掛けさせ同時に米国は石油を断った。
 アパッチとチェロキーを戦わせ、バイソンを絶滅して糧道を断つ。それをそっくり真似て弱った日本に原爆で止めを刺した。
 戦後、米国は優雅で強い日本人を将来も封印するためにあの憲法を押し付けた。戦力の放棄ともう一つ、国家賠償法だ。
 国に薬害だ、差別だ、被爆だと因縁つけてカネをたかれと朝日新聞に騒がせる。おかげで『平和を愛するさもしい日本人』がやたら増えてきた。
 ここにきてトランプが日米安保破棄を言い出した。
 9条を崇めて勝手に丸腰になったのはお前の勝手。嫌なら武装しろ、粗野ながら実に意味深い。
 日本人はもはや優雅ではなくなった。その親近感からの直言だとしたらそれはそれでちょっと悲しい」
   ・   ・   ・   
 総力戦である第一次世界大戦までの戦争は、国家間戦争であっても、民衆出身兵士が幾千人死のうとも貴族的なゲームであり、王侯貴族が戦死する事は少なかった。
 敵軍の捕虜となった王侯貴族は、身代金を払い帰国した。
 敵軍の捕虜となる事は、恥ではなく名誉な事で、帰国すれば英雄として讃えられた。
 捕虜となった、王侯貴族は手厚く保護されたが、民衆兵士は人間以下に扱われ治療もされず放置されて死んでいった。
 西欧列強の軍隊は、白人のみを人間としたが、日本人・中国人・インド人ら非白人は人間とは認めなかった。
   ・   ・   ・   
 日露戦争までの国家間戦争では、第三国の軍部は観戦武官を、戦争をする両国の現地軍司令部に派遣し、戦闘状況を観察し、戦争終了後に詳細な報告書を作成した。
 世界中の報道機関も、話題を呼びそうな戦争には特派員を戦場に派遣し、逐次、戦場レポートを報道していた。
 その意味で、小国の日本が大国の清国(中国)やロシアと戦う戦争には関心が高く、数多くの観戦武官や特派員が派遣されていた。
 日本軍も支那軍も、国際世論を意識し、戦場を歩き回る白人に対しては特権を与えて優遇していた。
 特に、日本は、不平等条約改正問題があり、近代国家である事を国際社会に知らしめる必要があって、国際法戦時国際法の専門家を前線の軍司令部に派遣していた。
 その為に、日本軍は、武士道精神で卑怯な事を一切しない世界一紳士的な軍隊であり、負けるかも知れない大軍に対して勇猛果敢に挑み掛かる最強の軍隊であった。
   ・   ・   ・   
 武士道精神や大和魂など戦う事を美学とする昔の日本人と、武器を捨て降伏こそ正しいと確信する非暴力無抵抗主義の現代日本人は、別人である。
 特に、第九条の護憲派日本人は、見た目の姿形が日本人であっても中身が全然違う日本人である。
 つまり、張りぼての中身がない空虚な日本人である。
   ・   ・   ・   
 国家・民族が、敬愛・尊敬されるのと愛されるのとは全然違う。
 現代日本は、敬愛や尊敬ではなく愛される事だけを望んでいる。
 ネズミや蛇などの動物はもちろん石や雑草でも、人から愛して貰える。
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 現代日本人は、愛されたい、好かれたい、褒められたい、励まされたい、と言った異常な承認渇望症に取り憑かれている。
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 観戦武官とは、第三国の戦争を観戦するために派遣される武官。 この制度の起源は明らかではないが、傭兵ではない、国家による軍隊が必要であること、士官学校国際法などの制度の成立が不可欠であることから、およそ19世紀半ばごろに確立されたものと思われる。
 日本では、1870年に普仏戦争大山巌が観戦している。また、1898年の米西戦争では秋山真之海軍大尉(後に中将。海軍戦術、『坂の上の雲』で有名)・柴五郎陸軍少佐(後の大将。義和団の乱では北京籠城戦を戦い抜く)が観戦武官として派遣された。
 日露戦争の際には日露両国に対して欧米諸国から多数の観戦武官派遣の申し入れがあり、日本はイギリス、アメリカ合衆国ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国、スペイン、イタリア、スイス、ノルウェー及びスウェーデンスウェーデンノルウェー連合解消の時期と重なる)、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン帝国といった13の国々から70人以上の武官を迎えたと記録されている(en:Military attachés and observers in the Russo-Japanese War 参照)。その内、先に日英同盟を結んだイギリスからの派遣が最多の33人となっている。特にイギリスのハミルトン陸軍中将(後の第一次世界大戦ガリポリの戦いで地中海遠征軍を指揮)、ペケナム海軍大佐(後に大将。朝日に乗艦しての報告はフィッシャー提督の目に留まり、ドレッドノートの設計に取り入れられた)、アメリカのマッカーサー陸軍少将(後に中将。マッカーサーGHQ最高司令官の父)、ドイツのホフマン陸軍大尉(第一次世界大戦では第8軍の参謀としてタンネンベルクの戦いを勝利に導く)など後の歴史に影響を与えた軍人も多かった。
 第一次世界大戦では、イギリスの巡洋戦艦クイーン・メリーに乗艦して観戦していた下村忠助海軍中佐がユトランド沖海戦で戦死している。
 観戦武官制度は、第一次大戦後、自動車・航空機などの輸送手段の発達によって戦域が拡大し、1人の士官が戦闘を見ることが不可能になったため、自然に消滅した。
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💖11)─1─マルタ島の偉業。日本欧州派遣艦隊は地中海の守護神である。~No.46 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 世界は、非白人非キリスト教国・日本の戦争勝利への貢献と人道に対する貢献を認めて、5大国の一員として国際連盟常任理事国に就任する事を要請した。
   ・   ・   ・   
 中国共産党政府は、如何なる些細な世界貢献もした事がないのに、国連から台湾を追い出して常任理事国の椅子を強奪した。
 国連は、非人道的犯罪行為を繰り返す中国共産党政府の「人道に対する罪」を糾弾しないどころか、非人道的犯罪行為を黙認(承認・追認)している。
 国連の権威とはその程度であり、国連憲章は意味を成さないお飾りに過ぎない。
   ・   ・   ・   
 国際連盟常任理事国入りした日本の方が、中国共産党よりも遙かに平和と人道に多大なる貢献をした、誇るべき素晴らしい国であった。
 ただし、褒められるべき日本人は当時の日本軍将兵であって、集団的自衛権を否定する現代の平和志向の日本人ではない。
   ・   ・   ・   
 当時の世界は、宗教的白人至上主義が支配していた。
 日本は人種差別撤廃の主張ではなく集団的自衛権の発動が認められた。
   ・   ・   ・   
 日本海軍は戦争貢献をした。
 日本陸軍は人道貢献をした。
 日本皇室は日本赤十字社と協力して国際貢献をした。
 軍国日本は、悪い事もしたが良い事も沢山してきた。
   ・   ・   ・   
 日本軍人は、例外なく靖国神社の祭神として祀られている。
 人道貢献・戦争貢献・国際貢献を遂行中に戦死した日本軍将兵は、靖国神社の軍神として祀られた。
 靖国神社は、戦争美化の宗教施設ではなく、戦争貢献・人道貢献・国際貢献で戦死した戦死者を顕彰する宗教施設である。
 それが、靖国神社の心・志・精神であった。
   ・   ・   ・   
 日本は、人道貢献と戦争貢献が認められて国際連盟常任理事国に就任した。
 戦争貢献とは、地中海・インド洋などでの活躍で連合国の早期勝利に貢献した事である。
 人道貢献とは、ポーランド人戦争難民孤児・ロシア人戦争避難学童・ユダヤ人及び白系ロシア人戦争難民の救出・保護・輸送、パリにおける重度戦傷者の治療・看病、敵軍ドイツ軍兵士捕虜に対する人道的配慮などである。
 日本軍将兵は、祖国を遠く離れら異国の土地で、人道貢献の為に自己犠牲を惜しまなかった。
 国際貢献及び人道貢献は、日本天皇・皇室が切望した事であり、全てに直接・間接で皇族が関与していた。
   ・   ・   ・  
 2018年7月号 歴史街道第一次大戦終結から100年
 〝地中海の守護神〟と称された日本海
 〝地中海の守護神〟──第一次世界大戦において、日本からはるか遠く離れたマルタに派遣され、世界各国から称賛された男たちがいた。
 日本海軍の第2特務艦隊である。その中には、若き日のあの名将もいた。
 井上和彦
 日本海軍、地中海へ
 ……
 1914年(大正3年)6月28日、『サラエボ事件』を発端に、翌7月28日、第一次世界大戦が勃発した。
 連合国側には、大英帝国、フランス、ロシア帝国イタリア王国大日本帝国、そしてアメリカなど多くの国々が参加し、対する中央同盟国側にはドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国オスマン帝国ブルガリア王国が立った。
 日英同盟に基づいて参戦した日本は、ドイツの植民地であったマリアナ諸島パラオなどを占領、さらに青島(チンタオ)でドイツ軍と戦った。そして1917年(大正6年)1月、イギリスの要請に基づいて、地中海などへの艦隊派遣を決定する。その任務は、ドイツとオーストリア=ハンガリー帝国の潜水艦から連合国の輸送船を守るというものであった。
 編成された3つの特務艦隊のうち、地中海に派遣されたのが、佐藤皐蔵(こうぞう)少将率いる『第2特務艦隊』である。
 第2特務艦隊は、当初、巡洋艦『明石』を旗艦とし、松下良蔵中佐が司令を務める第10駆逐隊の駆逐艦『梅』『楠』『桂』『楓』、横地錠二中佐を司令とする第11駆逐隊の駆逐艦『松』『榊(さかき)』『杉』『柏(かしわ)』の計9隻で編成されていた。
 この第二特務艦隊に課せられた任務は、マルタ島を根拠地として、英国海軍および連合国海軍と連携しながら、地中海におけるオーストリア=ハンガリー帝国およびドイツ帝国の潜水艦Uボートの攻撃から船舶を護衛し、被害を受けた船舶の乗員の救助を行うというものであった。つまり、〝エスコート〟(船舶護衛)と〝レスキュー〟(海難救助)だったのである。
 当時、地中海にはドイツとオーストリア合わせて約40隻もの潜水艦が展開していたとみられ、甚大な被害が出ていた。
 1916年(大正5年)の下半期だけで250隻以上もの船舶が潜水艦による攻撃の犠牲になっており、その被害は増える一方であった。
 世界海難史上に輝く偉業
 1917年2月、佐世保などから出港した第2特務艦隊は、その二ヶ月後の4月13日にマルタへ到着し、グランド・ハーバーに入港した。
 第2特務艦隊の護衛ルートは、マルタを拠点に、エジプトのアレクサンドリア、南フランスのマルセイユギリシャのサロニカ、イタリア南部のタラントなど、地中海の港を結ぶ広範囲の航路であった。
 4月24日、第2特務艦隊に英輸送船トランシルバニア号の護衛任務が与えられた。
 駆逐艦『松』と『榊』は、トランシルバニア号を護衛してマルセイユに入り、その地でトランシルバニア号がアレクサンドリアに届けるための陸兵と武器を積載。
 5月3日、『松』と『榊』は再びトランシルバニア号を護送して、マルセイユを出港した。
 だが翌午前10時20分、イタリアのサボナ沖で、敵潜水艦の放った一本がトランシルバニア号の左舷後方に命中した。
 『松』と『榊』は、トランシルバニア号のもとに駆けつけ、ただちに救助活動を開始した。『榊』は敵潜水艦を索敵し、『松』はトランシルバニア号に横付けになって乗員の救助にあたったのである。
 雷撃を受けて、パニックに陥ったトランシルバニア号の兵士達は、われ先にと、横付けした『松』の甲板に次々と移乗した。
 こうしてトランシルバニア号の甲板にいた兵士らの約半数が『松』の甲板に乗り移ったそのちき、さらにもう一発の魚雷がトランシルバニア号に命中したのである。
 だが救助活動は続行された。
 この救助活動の末、800名を超える乗員を救助した『松』は、すみやかにトランシルバニア号を離れ、今度はそのまま敵潜水艦に対する攻撃を開始。代わりに、それまで敵潜水艦への索敵と攻撃を行っていた『榊』が、すかさずトランシルバニア号の左舷に横付けし、残りの乗員の救助にあたった。
 これは、イギリスをはじめ各国海軍では考えられないことであったという。ひとたび被雷(ひらい)した船に横付けして救助活動を行なえば、その艦も敵潜水艦のターゲットになるからである。だが日本海軍は、そんなリスクをものともせず、人命救助のために命をかけて救助活動を実施した。
 『松』と『榊』は、その後も救助活動を続け、イタリア駆逐艦などの協力を得て、トランシルバニア号の乗員3,266人のうち、約3,000人を救助したのである。
 二発の魚雷に直撃されたトランシルバニア号は沈没したが、敵の攻撃にさらされながら沈没したが、敵の攻撃にさらされながら沈没する船舶から、その乗員のほとんどを救助したという海難救助の例は他になく、世界海事史上に燦然(さんぜん)と輝く偉業でった。
 『松』と『榊』の乗員は、救助活動をしただけでなく、溺者(できしゃ)に自らの食糧や衣料をも差し出して手厚く看護した。
 そして救助を終えた両艦は、イタリアのサボナの港に救助者を送り届けたが、休息のために上陸した日本海将兵は、人々から『英雄』として大歓迎を受けたという。
 感動的な救助活動の噂が、すでにサボナの港町に広まったのだ。
 5月6日、『松』と『榊』がサボナからマルタに向けて出港しようとしたとき、救助されたイギリス軍兵士や市民らが港に詰めかけ、威風堂々と出港してゆく二隻の日本艦に、感謝の言葉を投げ手を振って別れを惜(お)しんだという。
 『松』の乗組員だった片岡覚太郎中尉は、その感動の様子をこう記している。
 ≪港口の鎮(し)まらぬ前にと、6時半水先案内人(パイロット)が乗る。7時に榊がまず出て、松も次いで出港、海岸には救助された英国の陸兵が黒山のように集まって別れを惜しむ。陸の方を見ると、海岸の通、山際(やまぎわ)の高い道、二階、三階の窓、縁側(ヴェランダ)、悉(ことごと)く人をもって満たされ、帽を振り、手巾(ハンカチ)を振り、心なき子供まで手を挙げて出港に景気を添える≫(『日本海軍地中海遠征記』)
 かつて世界最強のロシアのバルチック艦隊を撃ち破って世界中を驚かせた日本海軍が、今度は地中海での見事な救助活動で、世界の人々に再び感動を与えたのだった。 
 この地中海における日本海軍の武勇とその偉業に英国内は沸(わ)き立ち、当時海軍大臣で後に首相となるウィンストン・チャーチルから、マルタの特務艦隊司令部に感謝の電報が届けられた。
 またイギリス国王ジョージ五世は、その人命救助の功績をたたえ、駆逐艦『松』『榊』の横地錠二中佐以下の士官7人、下士官20人に、勲章を授与したのである。
 さらに驚くべきは、封鎖大臣ロバート・セシルが日本海軍の偉業と功績をイギリス下院で報告するや、議場は歓呼(かんこ)と拍手に包まれ、着せずして日本語で『バンザイ』が唱和されたという。
 魚雷の盾になってまで・・・
 1917年5月29日、武勲艦『松』『榊』に、イギリス病院船と商船を、マルタ島からクレタ島へ護衛する任務が与えられた。
 両艦がこの病院船を無事クレタ島に送り届けるや、引き続きこの船を、ギリシャのサロニカまで護衛してほしいとの要請があった。そしてそのミッションをこなしてマルタへ帰還する途上で、武勲艦の『榊』を悲劇が襲った。
 6月11日、アンチキセラ海峡で、『榊』が敵潜水艦に魚雷攻撃を受けたのだ。その結果、前部火薬庫が大爆発を起こして、艦橋から前部艦体が吹き飛ばされてしまったのである。
 この攻撃で、艦橋にいた艦長の上原太一中佐、機関長の竹垣純信中佐のほか、准士官2名、下士官28名、水兵ら27名の合計59名が戦死し、重軽傷者は16名に上った。
 地中海で活動した日本艦隊は、洋上にて敵潜水艦を発見するや、勇猛果敢に爆雷攻撃を行ない、敵の魚雷を受けて航行不能になった輸送船を、敵潜水艦と交戦しながら、自ら魚雷の盾となってまで守り通した。
 日本海軍は、他国の海軍艦艇には真似(まね)できない〝挺身(ていしん)護送〟を行ったのである。
 各国海軍は、自らを犠牲にしてまで輸送船を守り抜く日本海軍の勇敢な護衛の姿にいたく感銘を受け、畏敬の念を抱いたという。
 こうして日本艦隊は、1918年(大正7年)11月までに、実に348回の出撃を行い、788隻の輸送船や病院船などを護送し、兵員70万人の輸送を助けた。そして敵潜水艦の攻撃を受けて海に投げ出された、連合国の兵士や看護婦ら約7,000人を救助したのである。
 日本の第2特務艦隊は、その見事な護衛ぶりから、いつしか〝地中海の守護神〟と呼ばれるようになった。輸送船の船長の中には、日本艦隊の護衛がなければ出港しないとまで言い出す者もあつたというから、その信頼の高さをうかがい知ることができよう。
 第2特務艦隊には護衛の依頼が殺到し、その結果、司令官・佐藤少将は各国から勲章を授与される栄誉に浴したのだった。
 終戦後、残存するドイツ潜水艦Uボートが戦利品として戦勝国に分配され、日本海軍は数隻のUボートを半年かけて日本に回航した。その任務に就(つ)いた士官の1人が、誰あろう第2特務艦隊所属の駆逐艦『楓』の航海長・山口多聞大尉(大正7年12月昇進)──後のミッドウェー海戦で武名を轟(とどろ)かせせる、第二航空戦隊司令長官・山口多聞提督でった。
 山口多聞提督の自筆による『藻塩草(もしおぐさ)』に、このUボート回航のときの心情がこう記されている。
 
 旧独潜水艦に乗り組みて地中海を引揚ぐるに際し
 去年の夏目指し求めしあだ船に今翻(ひるがえ)る日の大御旗

 そして山口多聞大尉は、駆逐艦『楓』の航海長として地中海に向かうときの高ぶる心情を、こう記していたのである。

 地中海出征に当たりて覚悟を決める
 武士の矢猛心の雄々しさは散るを求める花にぞありかる

 英連邦戦没者墓地の一等地
 『榊』の59名の戦死者は、クレタ島の英海軍墓地に仮埋葬された後、一周忌にあたる1918年6月11日に、マルタ島のカルカーラにある〝Commonwealth War Graves〟(英連邦戦没者墓地)に埋葬された。
 英連邦戦没者墓地の入り口には、『旧日本海軍戦没者墓地 1914−1918 Japanese War Graves』という黒い石板が掲げられている。
 この厳(おごそ)かな墓苑(ぼえん)には、様々な形状をなした墓石や墓標が並び、ところどころに戦没者を悼(いた)む赤いポピーの花輪が捧げられている。そしてオリーブなど地中海地方独特の木々が風に揺られて擦(す)れる葉音が、この墓地を訪れる参拝者を賑やかに迎えてくれる。
 この地を訪れた私は、視界に入る墓石の一つ一つに心を込めて目礼し、鎮魂を祈りつつ墓地の奥へ進んだ。
 石板が案内する旧日本海軍戦没者墓地は、この英連邦戦没者墓地の一等地にあった。
 〝大日本帝国第2特務艦隊戦死者之墓〟
 ひときわ大きな四角錐(しかくすい)の墓石に刻まれたその文字が目に飛び込んできた時、私には胸に迫るものがあった。
 桜を象(かたど)った装飾金具がはめ込まれた石柱が墓石を取り囲み、質素ではあるが、どの墓石よりも威厳がある。そして石碑の側面には、乗艦していた艦艇名と共に、78名の戦没者の官職氏名と戦没年月日を刻んだ銅板がはめ込まれていた。この墓石は、第二次世界大戦でドイツ軍の爆撃による被害と老朽化のため、1973年(昭和48年)に原形通りに再現して建立されたものだという。
 私は、聳(そび)え建つ墓石に靖國神社の御神酒を注(そそ)ぎ、墓参した者全員で国歌『君が代』と『海行かば』を奉唱(ほうしょう)した後、深く頭(こうべ)を垂れて、七十八柱英霊に感謝と鎮魂の誠を捧げたのだった。
 忘れられた日本近現代史の栄光の記憶──地中海で大活動した大日本帝国海軍第二特務艦隊──これによって日本は世界の五大国に列せられ、欧米列強諸国と肩を並べる一等国となったのである。
 2018年(平成30年)、今年は、第二特務艦隊が大活躍した第一次世界大戦の、終戦100年かつ戦勝100年という記念すべき年である」
   ・   ・   ・   
 2014年8月3日 msn産経ニュース「【鼓動】「地中海で戦ったこと忘れないで」甦る日本艦隊への評価 地中海の小国マルタ 第一次大戦開戦100年
 第一次大戦中、日本の艦隊が本拠地としていたマルタ・ヴァレッタの港(内藤泰朗撮影)
 地中海に浮かぶ小島マルタで第一次世界大戦中、英国の同盟国として参戦した日本海軍の功績を評価する動きが広がっている。忘れ去られた史実に光を当てようという試みだ。第一次大戦の開戦からちょうど百年となるのに合わせ、現地を訪れて日本人の足跡を探った。(マルタ 内藤泰朗、写真も)
 戦利品はUボート
 マルタの港に停泊する日本海軍の艦船。敵から接収した潜水艦Uボートの甲板に並ぶ水兵たち。マルタの首都バレッタにある国立戦争博物館には、そんなモノクロ写真が展示されていた。「1917〜19年のマルタにおける日本帝国海軍」と題するコーナーができたのは数年前のことだという。
 英国はドイツとの戦況が悪化する中、日英同盟を結んでいた日本に地中海への艦隊派遣を要請した。17年3月に駆逐艦8隻を派遣し、6月には先遣隊がマルタに到着した。
 英国は当時、同盟国でありながら影響力拡大を図る日本を警戒し、不信感を解いてはいなかった。しかし、博物館にあった解説は、「日本艦隊の艦船数は最大時には17隻に達し、日本の海上支援の意義を否定する英国の見方は今日までになくなった。日本は大戦で重要な役割を果たした」と評価していた。
 「誇らしい物語」
 18年春には、ドイツが欧州の西部戦線で大攻勢を開始し、英軍は中東などに展開する部隊を大量輸送する必要が出てきた。日本の艦隊は、788隻の連合国側の輸送船や病院船を護送し兵員70万人を輸送。敵のUボートと35回交戦し、駆逐艦「榊」が魚雷攻撃を受けて大破し、艦長ら59人が死亡するなどの犠牲も出た。
 一方で日本艦隊は、Uボートの攻撃を受けた船から7千人以上を救出。人々に感謝され、戦後はUボート7隻を戦利品として日本まで運んだという。
 「日本艦隊の働きがなければ、英国は苦境に追い込まれていたかもしれない。そうした史実が知られていないのはおかしいと思い、コーナーをつくった。日本が地中海で果たした役割を忘れてはいけない」。国立戦争博物館のデボノ学芸員(35)が強調した。
 第一次大戦に関連する小説を多数出版している英国出身の作家、C・W・ニコル氏は、編集に当たった「日本海軍地中海遠征記」(片岡覚太郎著)で、艦隊の地中海派遣は「日本人だれもが誇らしく思っていい物語だ」と記している。
 薄れる存在感
 日本人水兵たちが眠る旧日本海軍戦没者墓地は、バレッタの港を望む小高い丘にある「英国軍墓地」の一角にあった。
 白い慰霊塔には66人の名前が刻まれ、清掃も行き届いていた。第二次大戦の爆撃で破壊されたが、戦後に再建され、今も多くの日本人が訪れるという。昭和天皇も皇太子時代の21年に訪問された。
 第一次大戦戦勝国となった日本はその後、孤立の道を歩んで米国と衝突。第二次大戦では、かつて共に戦った英国やマルタとたもとを分かち、敵同士となった。
 父親の代から在マルタ日本名誉総領事を務めるミフスッド氏(70)は、墓地や日本ゆかりの場所を案内しながら、マルタで日本の存在感が薄れ、中国が電力エネルギーや港湾分野に投資して急速に影響力を拡大していると明かした。
 「日本と歴史的なつながりがあるマルタに、もう少し足を運んでほしい」。名誉総領事の日本人に向けたメッセージだ。
    ◇
 マルタ共和国
 「地中海のへそ」と呼ばれる南欧の小国。人口約42万人。総面積は、淡路島の半分に当たる316平方キロ。地中海貿易で繁栄しイスラム帝国支配下に置かれたが、16世紀に聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)の所領に。18世紀末にはナポレオン軍が一時占領。19世紀初頭に英領となったが、1964年に独立。英連邦と欧州連合(EU)に加盟。宗教はカトリックが中心。」
   ・   ・   ・   
 2017年5月28日 産経ニュース「【G7安倍晋三首相、島国マルタ訪問 日本の現職首相で初 旧日本海軍戦没者墓地も慰霊 
 会談に臨むマルタのムスカット首相(左)と安倍首相=27日、バレッタ(代表撮影・共同)
 【タオルミナ(イタリア南部)=田北真樹子】イタリアで開かれていた先進7カ国(G7)首脳会議に出席していた安倍晋三首相は27日深夜(日本時間28日午前)、会議閉幕後に地中海の島国マルタを訪問した。日本の現職首相による同国訪問は初めて。首相は、首都バレッタにある首相府でムスカット首相と約50分間会談し、東・南シナ海で海洋進出を強める中国を念頭に、海洋における法の支配の徹底に向けて連携することを確認した。
 ミサイル・核開発を強行する北朝鮮についても意見交換し、さらなる挑発行為には、厳しい措置を含む新たな国連安全保障理事会決議を採択することが重要との認識で一致した。
 マルタは今年前半のEU(欧州連合)議長国。ムスカット氏は「日EUの経済連携協定(EPA)の早期合意を目指す」と述べた。
 首脳会談に先立ち、安倍首相は第1次大戦中に死亡した日本人戦没者の慰霊のため、旧日本海軍戦没者墓地で献花し、黙祷をささげた。
 安倍首相は約4時間のマルタ滞在後、政府専用機で帰国の途についた。」
   ・   ・   ・   
 2017年9月号 正論「シリーズ対談 日本はあたたか〜い
 井上和彦×C・W・ニコル
 ……
 C・W・ニコル氏 ……第一次世界大戦のときの日本海軍のお話がありかしたが、ドイツ海軍の潜水艦Uボートの魚雷によって私の祖父の弟が亡くなっています。地中海が『Uボートの池』と恐れられていた時代です。それほど恐れられていた『海の安全』を守ってくれたのは日本海軍でした。
 ……
 捕鯨と海軍、日英の絆
 ……
 見事な日本海軍のスピリット
 ……
 ニコル氏 ……第一次世界大戦は1914年に始まるですが、Uボートがイギリスにとって大変な脅威だったことはすでに述べました。戦列艦『HMSアブーキア』が魚雷の被害を受けたときも巡洋艦『HMSクレッシー』や防護巡洋艦『HMSホーク』などが救助に駆けつけるのですが、その救助中にまたUボートにやられてしまうんです。そこで英国海軍は被害の拡大を避けるためにUボートに沈められても『助けには行くな』と命令したほどの衝撃だったのです。
 井上氏 当時、地中海では英国だけで96隻の船舶を沈められているんですよね。でもそれに親族が乗っておられたとは・・・。
 ニコル氏 はい。水は冷たく海に放り出されると助からないんですよ。それにあの当時はライフジャケットやライフボートなどは全然足りなかったですしね。
 そうした危険な海を日本の特務艦隊が護衛し、75万人の兵隊を無事に守るわけです。貨物船だと767隻。このうち623隻が英国の船でした。小さな艦隊でしたが日本が果たした役割は大きく私は戦争の結果を変えたとさえ思っています。
 特筆すべきは日本海軍の駆逐艦『松』と『榊(さかき)』でした。護衛した大型客船『トランシルヴァニア』が魚雷にやられてしまうんですが、沈み始めた『トランシルヴァニア』からロープなどを使って800人を救助するのです。そこに魚雷が再び命中します。
 ライフボートには40人が乗っていましたが爆発で人間の体がばらばらに吹き飛ばされます。その状況下でも『松』と『榊』の乗員による命がけの救助活動によって結局、2,964人もの兵隊の命を助け、66人の看護婦や36人のクルーを助けたのである。ここで私が強調したいのは日本海軍の行動は英国海軍の命令を無視して行われたことだったんです。
 井上氏 こうした献身的な救助活動をつづけた日本海軍の第二特務艦隊は最終的に地中海で洋上から7,000人もの人々を救助し、70万人を超える連合国の兵士らを無事に目的地に送り届けたことを考えると、確かにニコルさんが言われるように、日本海軍の船団護衛任務は大陸での戦局を変えるほどの活躍だったといえますね。
 ニコル氏 そう、さきのトランシルヴァニア号の救助では、『榊』と『松』が3,000人近くを助けた報が英国に届くと、国会では『日本の艦隊は地中海で戦っている!』と称賛され、英国の国会議員によって日本語で万歳三唱が起こったほどでした。
 井上氏 感動的な話ですよね。ニコルさんは『特務艦隊』の中で、マルタ島のカルカーラにある英連邦戦没者墓地内の日本海戦没者墓地で日本酒と梅干しなどをお供えし、そのとき、〈この男たちは、故郷からかくも遠く離れて亡くなった。連合軍の勝利に多大な貢献をした。それなのに、ほとんど忘れ去られていた。第二次大戦のために、彼らの物語は歴史にうずめられてしまったのだ。涙が浮かんできた。〉と書かれていますよね。当時、『松』の乗員だった片岡覚太郎中尉(最終肩書は中将)の手記も感動的です。やはりこうした埋もれた史実と感動秘話をもっと現代の日本人は知るべきだと思います。
 いまの日本人はあまりにもこうした歴史を知らなさすぎますね。
 ニコル氏 前に、片岡さんの息子さんにお目に掛かる機会を得ましたが、第一次世界大戦での日本の活動といえば多くの人がドイツ帝国の東アジアの拠点、青島を日本とイギリス連合軍が攻略した話しか知らないんですよね。
 でも実際はそれだけじゃないんです。マルタはもちろんですが、マルタ以外に日本海軍は南アフリカニュージーランド、オーストラリア、カナダの西海岸に至るまで守ってくれていました。歴史に埋もれたままの話は実はまだまだ沢山あるんですよ。
 まだまだ埋もれる戦時の秘話
 ニコル氏 青島攻略戦の前の話ですが、ドイツの巡洋艦『エムデン』があちこちで工作活動をしていましたが、これをオーストラリアと組んで追いかけたのも日本海軍でした。エムデンの捕虜はシンガポールに連れて行かれ、インド兵の監視下に置かれるのですが、逆に捕虜のドイツ人に『お前達は戦争にかり出される』『お前達はいずれ塹壕の中で泥のなかで殺される』などと篭絡(ろうらく)されて、インド兵が暴動を起こしてしまいます。それで女性や子供を含めた23人の英国人とマレー人が殺されてしまうんです。そのときもシンガポールを守るために派遣され、暴動を抑えたのは日本海軍でした。
 カナダの西海岸では規模の小さなカナダ海軍にあれほどの長い海岸線は守れないから、と日本の軍艦、巡洋艦、2隻が入って守ったんですよ。
 井上氏 どれも知られていない話ですね。
 ニコル氏 それから南アフリカ日本海軍が守っていました。ニュージーランドではオーストラリアからの兵隊を船を日本海軍が護衛していたんです。
 井上氏 そういえばかつて安倍晋三総理が、当時のオーストラリアのアボット首相と第一次世界大戦時における日豪両国の協力関係の話で共鳴されていたようですが、まさにこれは日本海軍の特務艦隊がオーストラリア、ニュージーランドの部隊をインド洋まで護衛した時の話でしたね。
 ニコル氏 実は日本海軍の艦船がメルボルンに入港しようとしたら、撃たれたことがあったそうです。大事には至らなかったそうですが、当時のオーストラリアは白豪主義による人種差別が根強かった。日本にはそうした仕打ちがあったんですね。日本海軍は怒ってロンドンに訴えますが、それでオーストラリアと日本との関係が政治的に気まずくなったこともあったそうです。
 そうしたなかで、白人のある婦人が8歳の男の子を連れ、菊の花を手にもって日本海軍を港に出迎えたことがあったそうです。菊の花はわざわざ自宅の庭から摘んだものだったそうです。日本に申し訳ないと心を痛めたオーストラリア人もいたわけです。日本海軍艦艇の艦長はその話を聞き、たいそう感激して母子を鑑のなかに招待したそうです。8歳の男の子に『大砲でもエンジンでも見せてあげる』と聞いたら男の子は『エンジンを見たい』と答え、それでエンジンを見せたそうですが、その男の子は大きくなって英国、カナダへ渡り、カナダで有名なエンジニアになりました。
 井上氏 感動的なエピソードですね。そんな話があるんですか。
 ニコル氏 あります。日本人には我慢ならない理不尽な話だったと思いますよ。だってオーストラリアの兵隊を守るために自分たちの命をかけて護衛しているのに、その恩恵を受けるオーストラリアの人から大砲を撃たれるのですから・・・。でもそのご婦人の行為はそのような険悪な雰囲気を一変させたそうで、人間の優しさが歴史を変えた出来事といっていい話です。このような歴史のなかに埋もれた話はまだまだ沢山あるのです。
 アファンの森のハプニング
 井上氏 ニコルさんは平成7年(1995)に日本に帰化されたわけですが、日本人になって嬉しかったことは何かありますか。
 ニコル氏 天皇陛下がわれわれの森にいらしてくれたことです。ちょうど森づくりに取り組んで30年目でした。……
 生物の多様性がスゴイ
 井上氏 最後にニコルさんにとって、日本のここが好きというお話をお聞かせ下さい。
 ニコル氏 私はナチュラリストですからその観点でいえば、日本ほどすごい国はなかなかないです。北には流氷があって南にはサンゴ礁がある。こういう島国はほかにありません。森林面積率も国土の67%と高いのですが、そこに植生する木の種類がはるかにヨーロッパより多いのです。
 英国にもともとあった樹木というのは30種類くらいですが、縄文時代の日本の樹木は1,300から1,500と言われています。つまり生物の多様性がすごいということです。この島国にこれほどの人間が暮らしているのに熊も2種類生きているでしょう。英国では1000年前に絶滅していますよ。海にも同じことがいえます。ものすごく面白く楽しい国なのです。
 そもそも私の森づくりは、こうした豊かさで素晴らしい生態系をもっている日本の森が高度経済成長期以降、摘み取られていくことを憂慮して始まったものです。樹齢400年以上のナラやブナ、トチなどの大木が一瞬にして切り倒され、スギやカラマツの人工林になってしまう。その人工林も、またもや経済的な理由で放置され、今や荒れ果てていく光景を目の当たりにし、美しかった本来の日本の森に戻したいという気持ちが高まっていたころに、故郷ウェールズにあった荒れ果てた森をみごとによみがえらせたことを知って決意したものです。アファンの森というのはウェールズにある森林公園になぞらえネーミングで、ウェールズ語で『風の通るところ』という意味です。
 日本には素晴らしい自然、豊かな生態系に加えてなおかつ言論の自由があって宗教の自由があって旅の自由があります。それから、もう戦争を70年もしていない。本当に平和な国ですし、私の感覚でも日本に住んで、嫌な目に遭ったことが全くない。嫌な思いを味わっても面と向かって話せば、だいたい友達になれる。本当にあたたかいのです」
   ・   ・   ・   
 英連邦の一員であったオーストラリアやニュージーランドにとって、日本は日清戦争で勝利して以来の仮想敵国であったが、対抗するだけの海軍力がなく、日英同盟で本国イギリスの同盟国であった為に、表面では友好な態度を示していた。
 ドイツ帝国は、海軍力を増強してイギリスの海外植民地を脅かし、太平洋島嶼植民地に艦隊を派遣した。
 オーストラリアとニュージーランドは、太平洋の海洋安全保障の為に、面従腹背的な欺瞞で日本海軍を利用した。
 日本海軍は、イギリスに対する集団的自衛権として、律儀にオーストラリアの裏庭ともう言うべき赤道以北のミクロネシアの安全を確保するべく軍艦を派遣した。
   ・   ・   ・   




 第一世界大戦後。日本海軍は集団的自衛権として連合軍に協力したが、さらなる国際貢献の美名で艦艇削減という屈辱を強要された。
 日本海軍は、日本政府はもとより、助けた連合国からも裏切られた。
 そして、日本は日英同盟解消としてイギリスに裏切られた。
 日本は、何時の時代でも、集団的自衛権を持つて国際社会に貢献しても、イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどの西洋諸国に裏切れていた。
 連合国兵士を守る為に戦死した日本海将兵の御霊は靖国神社に祀られたが、やはり、その志は見事に裏切られた。 
 靖国神社は、哀れである。
   ・   ・   ・  
 日本は、当初欧州戦線に参加する意志はなかったが、日露戦争で助けてくれた同盟国イギリスの要請を受けて参戦を決断した。
 恩義には答えるのが、当時の日本であった。
 日本の参戦は、集団的自衛権の発動であった。
   ・   ・   ・   
 世界で地位を築き権利を手に入れる為には、味方・友軍の為に犠牲を出す必要があった。
 犠牲を出さず権利と地位を要求する者・国は、最低の卑怯者として軽蔑され排除された。
 日本が国家として認められ、朝鮮が国家として認められなかったのは、この為である。
 つまり、国力(軍事力・経済力)と広大な領地や数多い人口ではなく、ただ1つ「信用」である。
   ・   ・   ・   
 昔の日本は、自分の命よりも相手への「誠意」を最優先にして、自分の命を捨ててまで相手への「信用」を守ろうとした。
 昔の日本が手にした国際的信用や地位は、軍事力で奪い取ったわけではなく、経済力でカネで買ったわけではなく、「誠意」と「信用」で与えられたものである。
 つまり、世界第2位の経済大国を理由にして国連の常任理事国入りしようとした、心のさもしい現代日本とは違ったのである。
 昔の日本人は「誠意」と「信用」で責任を持って行動していたが、現代の日本は金の力で責任を拒否して行動している。
 世界が愛し信用したのは、昔の日本であって現代の日本ではない。
   ・   ・   ・   
 現代日本で安保法制(戦闘に参加できる戦争法制)や集団的自衛権に反対するリベラル派・革新派・エセ保守派には、国際社会における「誠意」も「信用」も否定しかなぐり捨てる日本人である。
 イラン・イラク戦争時の彼らの非人道的薄情な行動を忘れるべきではない。
 だが、彼らは弁舌爽やかで聴衆を魅了して支持者を増やした。
 現代日本は、今や、そうした国に成り下がっている。
   ・   ・   ・   
 権利は、犠牲によって与えられる。
 それが、集団的自衛権である。
   ・   ・   ・   
 集団的自衛権を認めない日本人に、武士・サムライの子孫を名乗る資格はない。
 百姓でさえ隣村の事には気を遣っていたから、集団的自衛権を否定する日本人は百姓の子孫でもない。
 武士・サムライは、動かず正論・理屈・屁理屈を並べ立て事は、みっともない恥ずべき事だとして最も嫌った。
 百姓は、命を捨てても助けに駆けつけない者は卑怯者として村八分にした。
   ・   ・   ・   
 非白人キリスト教国家である日本が、五大国の一員となして白人国家クラブであるの国際連盟常任理事国になれたのは、勝利した連合国に参加したからではなく、集団的自衛権を発動して連合国の勝利に貢献したからである。
 連合軍に参戦した事が常任理事国入りできたのであれば、人口が多い中国(北京政権)がなってもおかしくはなかった。
   ・   ・   ・   
 日本が世界的地位を高めた事に危機感を抱いたのがアメリカであった。
 日本にはアメリカに対しては友好だけであったが、アメリカの日本に対する感情は憎悪・嫌悪であった。
 アメリカの対日政策が強硬になっていったのはこの頃からである。
 アメリカ国内での排日運動が激しく広がったのもこの頃からである。
 アメリカは、日本の「信用」を破壊しようとした。
   ・   ・   ・   
 ドイツが反日派になったのは、集団的自衛権を発動して敵国イギリスに味方して、日本軍が青島を占領しドイツ船舶を攻撃したからである。
 ドイツは、日本の近代化に協力したのに敵になって攻撃した事を「恩知らず」と憎悪した。
 人種差別主義のヒトラーやナチ党は、保守派・国防軍軍需産業の支持を得る為に反日政策を採用した。
 国際ファシストにとって、軍国日本は敵であった。
   ・   ・   ・   
 日本皇室とイギリス王家は、友好的な関係にある。
 昭和天皇とジョージ五世の関係は、師弟のような関係に近かった。
   ・   ・   ・  
 ヒトラーフランクリン・ルーズベルト反日派であったが、チャーチル反日派ではなかった。 
   ・   ・   ・

   
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🎑42)42)44)─1─グローバルな大陸言語はローカルな島言語を消滅させる。日本国語は滅びる島言語である。〜No.102No.103No.104No.105No.106 ⑪ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2019年7月14日号 サンデー毎日校閲至極 大坂校閲・水上由布
 国? 地域? チームでいこう!
 言語は生活のすべてに関わり、意思疎通できる相手には親しみも覚える。それが事態を複雑にする。言葉は重いからこそ歴史上、国家は侵略した国の言葉を支配し、された側は自分たちの言葉を守る」
   ・   ・   ・   
 武士は、自分が発した言葉に責任を持ち、もし言った事に違えて相手に迷惑を掛けたら切腹して謝罪した。
 それが、言霊と武士道である。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、昔の日本人ほど言霊を信じていないし日本国語に対する愛着もない。
 それ故に、平気で嘘をつくし、誤魔化すし、詭弁を弄して恥じない。
 その傾向は、高学歴出身知的エリートに多い。
 日本から、日本人から、信(信用・信頼)が急速に消え始めている。
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 ユダヤ人達は、絶望的ホロコーストにあっても笑顔を忘れず、ユーモア、ジョークを飛ばし合って笑いながら耐え、そして生き抜いた。
 その生き方は、日本民族日本人とは正反対の生き方で、むしろ中国人や朝鮮人に近い。
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 2019年7月14日号 サンデー毎日五木寛之のボケない名言 
 喪失と悲嘆の記憶が力となる   ──島薗進
 悲しい歌を共にうたうこと
 グリーフケアという言葉も、ようやく私たちの身近なものになってきつつあるようだ。
 長年、グリーフケアの重要さを説き続けてきた宗教学の第一人者、島薗進さんの『ともに悲嘆を生きる グリーフケアの歴史と文化』(朝日選書982)は、ハッとするような新鮮な指摘が随所に見られてとても刺激的だった。
 その第6章に、悲しみを分かち合う『うた』という文章がある。小学唱歌や童謡が今なおうたわれていることに触れながら、世界各国の〈悲しい歌〉の喪失と復活について語った部分は、ことに興味深く感じられた。
 人は悲嘆のさなかで、なぜ悲しい歌を口ずさむのだろうか。敗戦後の極寒の時代を、私自身、たしかに悲しい歌を歌うことで耐えてきた。引き揚げ船の中で、はじめて聞いた『リンゴの唄』に奇妙な違和感をおぼえた記憶がある。
 しかし、1970年あたりを節目にして、望郷やナショナリズムの色をたたえた悲哀の感情が、次第に変化していく。数々の大災害と地方の喪失は、幻想の悲しみをリアルに乗り越えはじめた。
 アニメーション映画『この世界の片隅に』には、かつての唱歌『故郷』にはない悲しみと怒りの反映があった、と著者は言う。
 北原白秋西条八十、そして野口雨情などの残したものを振り返りつつ、新しい『悲しみの歌』の登場を待ち続けているのは私だけだろうか」
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 太平洋島嶼にあったハワイ語ミクロネシア諸語、オセアニア諸語やカリブ海島嶼にあった島言語は、今は話されていないか、下層階級の貧困家庭で使われている卑しい言語である。
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 現代の日本国語は、明治時代に作られた新しい造語である。
 本当の日本語は、日本列島、沖縄、北方領土4島に数百若しくは千数百とあった方言・訛りと船乗り・僧侶などの職業語などの総称で、地域言語としての多様性を持っていた。
 癖の強い、薩摩弁の人間と津軽弁の人間が話し合っても意味が通じなかった。
 ようは、バラバラで幾ら話し合っても通じず、通じないから相手の言わんとする所を忖度するしかなかった。
 言わなくても相手の目を見れば分かり合えるという、日本民族特有の無言での以心伝心が生まれた。
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 外国人移民(主に中国人移民)が急増すれば、歴史の浅く個性の乏しい日本国語は外国人の言語につられて変貌していく。
 事実、日本国語は時代時代によって変わってきた。
 江戸時代の言語、明治の言語、昭和初期の言語、敗戦後の言語、バブル経済以降の言語、全てとはいわないが微妙な点で異なっている。
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