🕯166)─1─日本民族は死を見詰めながら相互補完共生共存で生きてきた。〜No.349No.350 

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   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 金儲けや利益追求を生き甲斐とするグローバル的現代日本人から、ローカル的な海洋民的気質や民族的気概が急速に消滅し始めている。
 その証拠が、くだらないヒューマニズム、人権、道徳による相互依存の甘えと依存の蔓延である。
 それの証拠が、2019年の年金不足による「老後資金2,000万円必要」問題である。
 本来、日本民族日本人には甘え体質も依存意識も存在しなかっし、日本の社会・世間は甘えや依存を認めないし許さない非情・冷淡・冷酷な社会であった。
 現代日本に蔓延している甘えや依存の本質は、宿主(しゅくしゅ)を餌として内から食い尽くして殺す自滅的寄生である。
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 2019年7月4日号 週刊文春「臆病者のための楽しい人生100年計画 橘玲
 老後の資金問題を消滅させる方法は?
 ……
 現役世代の数が減りつづけ高齢者が増えていくのだから、いずれ年金制度が行き詰まるころは誰もが(うすうす)気づいている。
 これはきわめて困難な問題で、『年金で生きていけないのはおかしい』とか『国民に謝罪しろ』とか騒いでいてもなんの役にも立たない。
 社会的に解決できない問題は、個人的に解決するしかない。それは、老後を安心して暮らせるだけの資金を持つことだ。
 これは1+1=2のような当たり前の話で、1990年代から(私を含め)多くのひとが指摘してきた。それから20年たってようやくこの単純な事実を政府が認めたということに、今回の騒動の意味があるのだろう。
 ……
 〝生涯現役〟は地獄か
 65歳から10年間、年収200万円の仕事をしたとしよう。これで計2,000万円の追加の老後資金が手に入る。
 この単純な計算でわかるように、『老後問題』というのは、『老後が長すぎる』という問題なのだから、働くことで老後を短くすれば『問題』そのものが消滅してしまう。
 私はずっと、『生涯現役』『生涯共働き』が最強の人生設計だといってきたが、ほとんどの中高年のサラリーマンはものすごく嫌な顔をする。このひとたちにとって仕事(会社)は苦役で、定年は『解放』なのだ。だから、『これからは生涯現役社会ですよ』といわれると、『懲役5年だと思ったのに無期懲なんですか役』と絶望する」
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 日本民族日本人は、乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族であって、純血の優秀民族では断じてない。
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 2019年7月4日号 週刊文春「文春図書館 私の読書日記 瀬戸健
 『死』と『絶滅』からビジネスを考える
 私はたまにこんな想像をします。80歳くらいになって引退し、すべてやりたいことを成し遂げて、窓の外を眺めている。『楽しかった』と思いながら、ときに涙しながら酒を飲んでいる。引退して人生を終わっていく場面を想像するのです。そういう『終わり』を想像することで『今』を大切にすることができると思うからです。終わりを迎えるときに悔やむことがないだろうか。そう考えて、日々を過ごしているのです。
 『「死」とは何か』(シェリー・ケーガン 文響社 1,850円+税)は、イェール大学で20年以上教えられている『死』をテーマにした講義をもとにした一冊です。あらゆる角度から『死』が論じられているので、読んでいくうちに著者の考えに同感したり、反発しながら、自分の死生観がはっきり見えてくるような本でした。
 私の活力の源泉は『死』かもしれません。人にとって活力の源泉は違うと思いますが、死があるからこそこの瞬間の大切さに気づける。『死』があるから、生きている時間を感じられる。よって『死』は決して悪いものではないのです。
 締め切りがあるから仕事がはかどるように、『生』のパフォーマンスを上げるために『死』から考えてみることは有効です。
 ……
 『最高の戦略教科書 孫子』(守屋淳 日本経済新聞出版社 1,800円+税)です。
 『孫子』は2500年ものあいだ読み継がれている、言わずと知れた戦略論の名著です。本書は『孫子』を現代でも応用可能なようにわかりやすく解説したものです。経営に役立つ言葉がたくさんありましたが、非常に有名な『彼を知り己を知れば百戦殆(あやう)からず』という言葉はやはり至言(しげん)です。
 私はいつも『現状をどれくらい認識しているか』を、その人自身の力を測る重要なポイントにしています。現状を知らなかったら正しい処置ができません。逆に現状を正確に知ることさえできれば、やるべきことは自ずと見えてきます。経営も正しく現状を認識することができれば、正しい行動につながります。
 ただ人間には、自分に都合の悪いことほど現状認識が正しくできないという性質があります。こんな実験があるそうです。残酷な映像と前向きな映像、それぞれ何秒間で認識できるかというものです。残酷な映像のほうが認識するまでに倍以上の時間がかかるそうです。人間にはやはりネガティブなもの、苦しいことから目を背けたくなる本能があるのでしょう。
 まずは、そういう特性を知ることです。自分も含めて、苦しいことからはどうしても逃げたくなる。でも、自分を変えなければいけないときに逃げてはいけません。弊社の会議でも『できるだけ嫌なことから順番に話そう』と言っています。そうして『難しいことからやろう』と言います。イヤなことから逃げたくなるのが人間の特性だからこそ、努めてそれに逆らうように仕向ける必要があるのです。
 地球が生まれて1,000億以上の種が生まれましたが、その中で生き残ったのは1億だけだといいます。つまり99.9%は滅びている。同じように、会社も99.98%が倒産しているというデータがあります。
 生物も会社も『かなわず滅びる』というのが自然であって、残ること自体がある意味で『奇跡』ある。その前提でものごとをとらえなければいけません。
 よって、起こり得るあらゆる事態を想定しなければいけません。放(ほう)っておいたら勝手に生き残れるわけではないのです。
 『わけあって絶望しました。』(丸山貴史 ダイヤモンド社 1,000円+税)は、さまざまな理由で地球から消えていった生物の『絶滅原因』をわかりやすくユーモアに紹介する動物図鑑です。私はこれを自分たちの状況と重ね合わせてながら興味深く読みました。
 本書の冒頭にはこうなります。『大きな絶滅の後には、大進化をとげる生き物がいるのです』『恐竜が絶滅したおかげで、鳥類や哺乳類は爆発的に進化しました。大絶滅をのりこえた生き物の中から、つぎの世代の動物があらわれたのです』。
 これを経営に置き換えるとこんな教訓が見えてきます。過去を捨てていくことで次に進める。古いものを否定することで新しい勢力が生まれる、ということです。思い出すのは、コダック富士フイルムです。成功体験にこだわって変化が追いつかなかったコダック。一方、自分たちの技術を生かしつつ、時代に合わせて『ピボット』できた富士フイルム。どちらが生き残ったかはご存知のとおりです。
 成功をおさめた人は会社の中で出世していきます。過去の成功を恃(たの)む人がどんどん権限を持っていくわけです。すると、現状維持をよしとする会社になっていく。しかし、時代はつねに変わっていきます。本来はその流れに合わせて新しいものを取り入れないといけない。過去の経験を否定してでも、世の中の現状に合わせて変化していかなければいけない。すると成功は変化の障害になってしまう。この本を読んで、成功体験が仇(あだ)になる理由がよくわかりました。
 本書には『絶滅しそうでしていない』例も出てきます。絶滅しなかった理由は意外にも『たまたま』が多い。さまざまな憂き目にあいながらも、なんとかしのいでいれば生き残るというケースもけっこう多い。
 人生も経営も『パラグライダー』のようなものだと思います。経営環境によって予期せぬ事態が起きたりすると急に風が吹いてくるものです。風に流され、右に曲がったり左に曲がったりしながら、最終的にはゴールに行く。ゴールを目指すのは当たり前です。台風だって、嵐だってあるでしょう。そういったなかでも、ゴールを見失わないことが大切です。常に無風という事はないのです。
 まさに私の会社も190億円の赤字という嵐のなかにいます。さまざまな方に迷惑をかけているのですが、そんな逆境にあっても私には『こっちに行けば大丈夫』という道がハッキリと見えています。私はライザップほど人をしあわせにできる商品・サービスはない、という自信があるからです。自社のサービスに惚れ込んでいる。躊躇なく『絶対やったほうがいいですよ!』と言えます。
 社員たちは『お客さまの期待を上回る感動を提供し続けなさい』とつねに言っています。グループ会社のみなさんにも伝えることは同じです。業種や業界が違っていても、『お客さまの求めていること』を実現できれば確実に必要とされ、生き残れることができる。社会が生かしてくれるはずです。お客さまに対して『結果にコミット』できていれば、何も恐れることはない。私は確信しています」
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 戦争と戦闘とは違う。
 戦闘を考えて平和は成立しない。
 戦争を考えるから平和が成立する。
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 西洋キリスト教文明圏での根源書物は『聖書』である。
 中華文明圏での根源書物は『論語』ではなく『孫子』である。
 中華世界を動かしている根本原理は、中国の儒教道教でもなければインドの仏教でもなく中国の兵法、軍略、戦略戦術である。
 人類の永遠のベストセラーは、『聖書』と『孫子』である。
 現代日本人には、両方とも理解できない。
 『論語』は実現不可能な理想世界を語り、『孫子』は日々の現実社会を説く。
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 日本文明は、日本天皇の『古事記』・『日本書紀』と日本文化の『万葉集』・『古今和歌集』と仏教の諸経典を根源書物とした。
 明治維新から太平洋戦争敗北まで日本を支配したのは、西洋近代思想における植民地拡大の帝国主義ではなく、徳目による儒教特に教条的中華儒教であった。
 国家神道の実態は、皇室神道神社神道ではなく中華儒教であった。
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 原始時代における日本民族日本人の祖先は、約4万年前に、大風や大波で転覆するような荒削りの小舟で、手で漕ぎながら海原に乗り出し、海流に流されながら日本列島に流れ着いた南方系海洋民である。
 主要な航路は、東シナ海日本海であった。
 日本海は、日本人の海とも言える日本海であって韓国が主張する朝鮮人の海「東海」ではない。
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 船乗りは、舟底一枚下は地獄と言う絶望的現実から逃げ出せない為に、自己責任・自力救済で生きていた。
 海で生きる者には、甘え体質や依存意識など存在しない。
 他人に甘え、神に依存する事は、そく死であった。
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 日本の民族文化とは、花鳥風月+虫の音及び苔と良い菌による1/fゆらぎとマイナス・イオンである。
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 日本民族の「死」を見詰め「死」を忘れず「死」を感じ受け入れると言う事は、限られた「生」を肯定する事で、今この時の「命」を大事に「命」を生ききる「生命の讃歌」である。
 日本民族日本人の、「死の覚悟」とは「生きる覚悟」の事であり、「死の美学」とは「生の美学」であり、「滅びの美学」とは「生まれ出ずる美学」である。
 日本民族が宗教として信仰したのは、「成(な)る」でもなく「在(あ)る」でもなく「産まれる」である。
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 古代の海洋民は、渡り鳥を追って大海原を航海した。
 海洋民は、勇気ある冒険家でもないし不屈な開拓者でもなし挫けない挑戦者でもなく、単に、住み着ける土地を求めて島から島へと彷徨うように移動した漂流者に過ぎない。
 全ては、食べて生きる為であった。
 そこにあるのは、太陽と星の空、風と雨、そして海である。
 宗教・信仰はあっても、哲学・思想・主義主張は存在しない。
 生きられるかどうかは、必然ではなく、勢い・偶然・幸運のみであった。
 舟が沈まず進むかどうかは、運・縁・チャンスを掴むか掴まないかであった。
 舟が沈むと言う事は、乗っている全員が確実に溺れ死ぬという事で、奇跡が起きて助かる事は絶対にない。
 それが、海の掟である。
 人は、海の上だけでは生きられない。
 海を見詰めると言う事は、死を忘れる事なく今の命を生きる事である。
 舟上での人生設計は自己責任と自助努力で、裸一貫、年齢に関係なく、動ける限り命が尽きるまで現役として働く事である。
 舟上の処世訓として、玉虫色的妥協、事勿れ主義、問題先送り、責任転嫁、誤魔化し、言い逃れは一切許されない。
 舟で生き残る為には、全員が全ての仕事を知りながら、自分に与えられた仕事を好き嫌いを言わずにこなさなければならない。
 助かる為には昼も夜も関係なかった。
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 日本列島は、甚大な被害をもたらす怖ろしい自然災害が多発する危険地帯であり、災害に備えず気を抜いていると死ぬ危険性が高い過酷な住環境であった。
 縄文時代。鹿児島や熊本などの火山が大噴火を繰り返し、火砕流は九州を埋め尽くして多くの生物の命を奪い、火山灰は西日本一帯に積もり食べ物を失った多くの生物が飢えた。
 当時の住人であった縄文人は、こうした大噴火に巻き込まれて命を失ったが、不思議にも日本列島から逃げ出さず住み続けた。
 原始時代や古代において、世界各地で高度な文明や優れた文化を生み出した住民が遺跡だけ残して忽然と消えてたという不思議が神話・伝説として残っている。
 人類史の不思議として、縄文人は地獄の様な日本列島を見捨てず住み続けた。
 縄文人が日本文明や日本文化の基礎を築き、その流れが現代日本の隅々に広く染み込む流れている。
 それが、日本民族日本人が大事にしてきた祖先神・氏神の人神崇拝である。
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 日本文明は、長江文明の後継文明であって、黄河文明の亜流文明ではない。
 日本文化は、朝鮮文化とは関係ない。
 日本民族日本人は、水系揚子江流域民(現・山岳少数民族)の主要な子孫であって、草原系黄河流域民(現・漢族系中国人、朝鮮人)とは血筋的な縁は薄い。
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 草原の民である中国や朝鮮の生き方は、大陸・大地を移動できる限りでの遊牧・狩猟と陸稲・麦の農耕である。
 それ故に、富を生み出す土地や水源をめぐる血で血を洗う争奪戦は尽きない。
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 中国大陸や朝鮮半島での生存競争や権力闘争で敗れた敗者や弱者が難民となり、弥生系渡来人として日本列島に逃げ込んだ。
 弥生系渡来人は、各地で縄文人と乱婚し新たな混血の雑種民族=弥生人を生み出すや、争いがなかった平和な日本列島は弥生の大乱に突入して殺し合いを始めた。
 日本列島に、中国大陸や朝鮮半島という外敵が出現した。
 混血の雑種民族となって生まれた倭人の間に、海の外から価値観が違う他人が侵略してくるという恐怖・脅威が駆け巡った。
 外敵の侵略から日本列島を守る為に、各地の諸王や豪族達は話し合いによる曖昧な妥協で統一国家を建設する事にした。
 それが、邪馬台国であり、ヤマト王権であった。
 ヤマト王権は、女性神天照大神の血筋・血統を引く特別な一家系の人間のみを大王=天皇に祭り上げ、その特殊な血筋・血統の正統性を守る為に他家を排除する世襲とした。
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 昔の日本民族日本人が、現代の日本国民日本人・日本市民日本人・日本国籍取得者日本人とは限らない。
 帰化系日本人は日本民族日本人であるが、渡来系日本人は日本民族日本人ではない。
 帰化系と渡来系との違いは、日本天皇への忠誠心と日本国への愛国心である。
 日本民族日本人は、女性神天照大神天皇家・皇室の祖先神)を日本の最高神として崇め、伊勢神宮などに祀った。
 天皇・皇族・皇室の正統性は、天照大神の血筋・血統につながる直系子孫の事である。
 日本の深層は、女性・母性であって、男性・父性ではない。
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⚔29)─2─主殺しの明智光秀は領民から名君として慕われ御霊・神として祀られていた。〜No.111 

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 御霊神社(ごりょうじんじゃ)
 ~明智光秀を祀る神社~
  場  所:
 京都府福知山市西中ノ町238
 御祭神:宇賀御霊大神、明智光秀
 創祀年:宝永元年(1704)
 御霊神社は明智光秀ゆかりの神社として知られている。主神が五穀豊穣・商売繁盛の神である宇賀(宇迦)御霊大神で、宝永元年(1704)福知山藩主である朽木稙昌の代に明智光秀の霊を合祀したといわれる。この神社には光秀の書いた古文書が三つあるそうで、いずれも市指定文化財となっている。光秀は領国内で善政を敷いたといわれており、福知山でも領民に慕われていたということでこの神社に祀られたのでしょうか。
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 2019年6月3日 産経新聞「【歴史の転換点から】「本能寺の変」の真相に迫る(1)明智光秀は「祟り神」だった
 西側から「鬼のモニュメント」(成田亨製作)をのぞむ。先頭の鬼が指し示す先に京の都がある=京都府福知山市大江町(関厚夫撮影)
 世界はいま、歴史の転換点を迎えている。令和への御代替わりはその象徴であろう。過去、こうした一大エポックはどのようなかたちであらわれ、先人たちはどう対応してきたのか。その営みに現代からの光をあてながら考えてみたい。「混沌」の観さえある近未来を生きるためのヒントを見つけるために。まずは空前絶後の謀反劇「本能寺の変」である。(編集委員 関厚夫)
 「変」が起きたのは437年前のちょうどいまごろ-天正10(1582)年6月2日(旧暦。新暦では21日とされる)の未明、舞台は京の都だった。
 謀反の主は言わずと知れた明智光秀。なぜ彼は「主殺し」を敢行したのか-。その答えについては、光秀個人が抱いていた天下への野心説や織田信長に対する怨恨(えんこん)・遺恨説、室町幕府最後の将軍・足利義昭あるいは朝廷による黒幕説に、秀吉や徳川家康、さらにはイエズス会が陰で糸を引いていた-などとする奇説・珍説の類が加わり、百家争鳴かつ玉石混交の観がある。
 本稿では、一時は光秀の「盟友」だった細川幽斎(藤孝)や彼の嫡男で光秀の娘、玉(後のガラシャ)を妻として迎えた忠興(ただおき)の視点から信長-光秀の主従関係と光秀の内面をひもとき、「変」の真相に迫りたい。そこでまずは光秀の「素性」についてである。
 出生と前半生は謎
 光秀の名は、彼が30代も後半になって以降、ぽつぽつと信頼のできる史料に登場するが、それ以前の経歴については不明である。明智家は美濃国岐阜県南部)守護の名族・土岐氏の庶流とされるが、光秀についてはいまだその父親の名前、また出生年さえ諸説あってはっきりとしない。
 信長の家臣としては新参の部類ながら光秀は、後世から「近畿管領」「近畿方面軍司令官」と称されるほどとりたてられた。信長は「変」に斃(たお)れるまで、日本全国統一への道をまっしぐらに進んでおり、イエズス会宣教師、ルイス・フロイスの報告書によると、その視線の先には「シナ」があったという。
 「変」には成功した。が、そのわずか11日後、光秀は「中国大返し」をやってのけた羽柴(豊臣)秀吉との山崎の戦いで完敗を喫する。再起を図って逃れる途中、落ち武者狩りの手によって致命傷を負い、自刃-。以来、彼は歴史を書き換えようとしていた主君を裏切り、だまし討ちにした「日本史上の大悪人」とみなされるようになった。
光秀は「大河」の主人公にふさわしい「麒麟」だった?
 来年のNHK大河ドラマ麒麟がくる」は光秀が主人公だという。その彼に「公」という敬称を付け、「準備会時代」を含め、約10年前から大河ドラマの実現を呼びかけていた地方がある。光秀が死を迎えるまでの約3年間にわたって統治した旧丹波国京都府中部と兵庫県東部)の亀岡市福知山市(ともに京都府)である。
 「自らが治めた亀山城亀岡市)、福知山城では、治水事業や城下の地税免除等の良政を行い、領民から慕われた名君であり、生涯側室を取ることのなかった愛妻家でもありました」-。現在は当初の倍近い12府市町で構成され、「大河ドラマ麒麟がくる』推進協議会」と名称を変更した同会の趣意書には光秀はそんな「名君」として記されている。
 JR亀岡駅2階にある観光案内所をのぞいてみよう。すでに「光秀コーナー」が設けられ、関連書籍が並んでいる。亀岡市が作成した観光案内「明智光秀マップ」は初刷りの1000部の底が尽き、修正版の増刷を手配中だという。一方、福知山市は「麒麟がくる」の放映決定に前後して市長公室秘書広報課にシティプロモーション係を新設。全国にアピールするため、「知られざる明智光秀プロジェクト」をはじめ、さまざまなイベントやPR活動を展開している。
 天正10年6月1日夜、「敵は本能寺にあり」の思いを秘して光秀が1万数千人の軍勢を発した亀山城。現在この城跡地は、宗教法人「大本」が神苑として整備した「天恩郷」となっている。「光秀時代」を現代に伝える唯一の遺構である石垣が一部残されており、一般観光客も申請すれば見学できる。広報担当者によると、「見学者は、いま徐々に増えているといった感じですが、大河ドラマ麒麟がくる』の放映が迫る今冬ころから、その数はさらに増えていくものと思われます」という。
 神か、はたまた鬼か
 JR福知山駅から北北東へ700メートルほどの市街地に光秀を事実上の主神としてまつった神社がある。地元では「ごりょうさん」と言われて親しまれているそうだが、正式な名称は御霊(ごりょう)神社。「御霊とは非業の死を遂げた人の霊のこと。奈良時代末から平安時代にしばしば疫病が流行、それを御霊の祟(たた)りであるとしてその怨霊を鎮めるために祀(まつ)ったのが御霊神社である」(日本大百科全書)という。
 福知山にこの御霊神社が建てられたのは「本能寺の変」から約120年後の宝永2(1705)年。前宮司の岡部一稔さん(83)によると、創建について記された「明智日向守祠堂記」には「福知山の人々は百年にわたって光秀公から受けた厚い恩を忘れてきた。この地が火事や洪水など次々と災いに見舞われるのは、中傷によって太宰府に左遷され、失意のまま客死した菅原道真公の魂が雷と化して都を襲ったように光秀公の魂の祟りであろう。ゆえに堂を建て、光秀公をお祀りする」などと記されている。つまり、光秀は“祟り神”なのだ。
 国文学と民俗学の巨星、折口信夫は「かみ」と「おに」は同義と考えたという。また平安京時代には「御霊」は「鬼」とも目されていた。光秀もまた、「神」や「御霊」、そして「鬼」をまとっている。
 御霊神社からさらに北北東に約20キロ。旧丹波と旧丹後の国境にあり、「鬼伝説」で有名な大江山に3体の鬼を配した「モニュメント」が建てられている。
 棟梁(とうりょう)だろうか、1体の鬼が南東の方角を指さし、その先にある京の都をめざすかのように歩みを進めている。筋骨隆々で金棒を右手にする別の1体は、顔をやや後方に向けながらこの棟梁についてゆこうとしているようにみえる。そして少し小柄な3体目の鬼は、この2体から距離を置き、苦悶(くもん)ともいえる表情をみせながら、大きく体をゆがめている。
 制作したのは彫刻家、成田亨。「アルカイック・スマイル」(古式微笑)を浮かべた初代ウルトラマンやさまざまな怪獣たちをデザインしたことでしられる。彼がこの鬼たちを創造したさい、その頭のどこかに、「変」を決行するために夜を徹して行軍する光秀とその家来の姿があったのではないだろうか。
 その光秀たちが本能寺を目指して越えた、京と丹波の国境にある老ノ坂峠には別名がある。やはり「大江山」という。源頼光酒呑童子を退治するという「鬼伝説」はもともと、こちらが発祥なのだという。
 437年前、光秀は領国・丹波の北方にある大江山を背に亀山城を発し、もう一つの大江山を越えたとき、主君・信長の首を狙う鬼と化した。
 なぜか。
その理由をわれわれに伝えているのが、前述の細川幽斎と忠興である。=(2)へ続く
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 6月4日 産経新聞「【歴史の転換点から】「本能寺の変」の真相に迫る(2)信長を神明が罰した
 明智光秀の居城の一つ、福知山城の天守閣(1986年の再建)=京都府福知山市(関厚夫撮影)
 「本能寺の変」の当日-天正10(1582)年6月2日(旧暦)、明智光秀美濃国岐阜県南部)のある城主にあてた書状の写しが江戸時代前期の歴史書武家事紀』に収載されている。
 信長の悪逆と光秀の遺恨
 「父子悪逆天下之妨討果候」
 その冒頭の一文である。「父子」とは織田信長とその長男、信忠のこと。光秀率いる1万数千の軍勢によって信長は京都・本能寺で、勇猛で知られた信忠は二条城で自害する。この2人の悪逆(あくぎゃく)は天下の妨げ(害毒)であるから討ち果たした-と主張しているのだ。
 また『別本川太閤記』には、同じころ、当時、備中国岡山県西部)・高松城を攻囲中の羽柴(豊臣)秀吉と対陣していた毛利家の重鎮、小早川隆景(たかかげ)に光秀があてたものの、ついに届かなかったとされる密書の写しが掲載されている。その真偽については研究の諸大家のなかでも意見が割れているのだが、以下のような文言がある。
 「光秀こと、近年信長に対し、憤りを懐き、遺恨黙止(もだし)難く、今月二日、本能寺において信長父子を誅し、素懐を達し候」
 これらの「書状」をつなぎ、「本能寺の変」の前後における光秀の言動と心理を照射する資料がある。一時は光秀の「盟友」ともいえる存在だった細川幽斎(藤孝)を祖とする旧熊本藩主細川家に伝わる『細川家記(綿考輯録=めんこうしゅうろく)』と『永源師檀紀年録』である。
 幽斎は天文3(1534)年、室町幕府将軍の側近・御部屋衆の三淵家に生まれ、後年、細川氏を継いだ。12代将軍、足利義晴落胤(おとしだね)とも伝えられる。名は「藤孝」といい、後述するように本能寺の変を機にもとどり(髪を頭頂部に束ねたもの)を切り、「幽斎」と号する。
 貴種・幽斎と中間(ちゅうげん)・光秀-交差する運命
 その幽斎は2歳年下の13代将軍、足利義輝(よしてる)の側近中の側近である御供衆(おともしゅう)に抜擢され、義輝が暗殺された後は「最後の将軍」となる足利義昭の擁立に尽力。幽斎が光秀と知り合ったのは、将軍になれないまま義昭が越前国福井県北部)・朝倉義景のもとに身を寄せた永禄9(1566)年前後とみられる。義昭に仕えるようになった光秀は幽斎の指揮下(「中間」という説も)にあったとされる。
 信長によって義昭が追放された天正元年以降、幽斎は信長に仕える。光秀はその2年前、義昭と信長の双方の家臣を兼ねるという変則的な主従関係を解消して信長に“専従”。その後、光秀が織田家でめきめきと頭角を現すなか、幽斎も信長にその文武両道にわたる能力を高く買われ、丹後国京都府北部)を任されるものの、彼は「近畿方面軍司令官」である光秀の指揮下に組み入れられる。
 天正6年、光秀の娘、玉(後のガラシャ)と幽斎の嫡男、忠興との婚姻が結ばれる。幽斎と光秀は苦楽や風雅の道をともにした長年の戦友であり、縁戚でもあったが、微妙な部分を内包する関係だったといえる。
 光秀の手を借りて神明が信長を罰す-史料は語る
 「自分は信長公の深いご恩を受けた身であるから落髪して多年の恩を謝す。その方は光秀とは聟(むこ)と舅(しゅうと)の間柄だから、彼に与(くみ)するか否かは心のままにせよ」
 本能寺の変の翌日、丹後・宮津城に京都からの飛報がもたらされた。幽斎は天を仰いで悲嘆した後、忠興にそう告げた。忠興は涙ながらに父・幽斎の決意に同意し、ともに落髪した。
 おそらくその日のうちのことだろう。光秀の家臣、沼田光友が宮津城を訪れ、光秀の言葉を伝えた。
 「信長はわれに度々面目を失わせ、わがままの振舞いばかりであることから、父子ともに討亡し、鬱積を晴らしました。つきましては軍勢を引き連れて早々に御上洛を。今後は何事も念には念を入れて協議しましょう。また幸いにも摂津国大阪府北西部と兵庫県南東部)には主がおりませんから、ご領有ください」
 激怒した忠興は沼田を殺そうとしたが、幽斎は「使者に罪はない」として光秀のもとに送り返した。すると光秀から書状が届けられた。そこには「落髪したことに一時は立腹したがいまは納得した」「摂津国以外に若狭国福井県南西部)が所望ならば割り当てよう」「この不慮の一件は忠興たちを取り立てたいがためのこと。50日から100日の間に近国を固め、後は忠興たちに引き渡す」などと記されていた。
 以上、『細川家記』の記述である。が、同書もタネ本にしたとみられる『永源師檀紀年録』には、最終的に謀反の首謀者・光秀に見切りをつけるという判断は同じながら、次のような興味深い話を収載している。
 「近年、織田家は権を誇り、おごり高ぶって他を軽侮しており、その対象は光秀だけでなく、諸将みな同じである。かつ日蓮宗を信じて他の諸寺や諸社を焼却した事例は数え切れない。たとえ戦火でその地を焦土と化しても、後には再建してこれを敬すのが武門の習いだが、かの公(信長のこと)にそんな気持ちは決まったくない。悪逆無道比類を絶し、人望はない。ゆえにいま、光秀の手を借りて神明が罰したのだ」
 幽斎の次男、興元の発言である。彼はさらに「われらは織田家に深恩があるわけではない」と続け、友好関係にあった光秀にすみやかに援軍を送るよう主張した。これに対して忠興は「一理はあるが、代々の領地を失い、身の置き所がなかったわれわれが丹後を領有するようになったのは織田家の恩である」と反論。それまで黙って聞いていた幽斎は「忠興に理がある」と決したという。
 「変」への予兆
 また、小異はあるが、『細川家記』『永源師檀紀年録』ともに、「変」の数年前、幽斎と光秀の間にこんなやりとりがあったことを記している。
 「信長公の悪逆は日蓮宗に帰依後、日に増長している。貴殿はそれを改めさせようと思い、心を砕いている。不可能ではないだろう。しかし、凡衆に抜きんでた者は讒言(ざんげん)に傷つけられ、林から抜きでた木は風によって折られる。よくご思案あれ」
 幽斎がこう忠告すると、光秀は「肝に銘じましょう」と感謝した-。
 さらに『永源師檀紀年録』によると、「変」の数週間前、光秀は家臣の引き抜き問題などをとがめられ、信長と小姓の森蘭丸から計2度にわたって額を打たれて出血し、醜い傷跡が残った。それを見た幽斎は明智家の屋敷に出向き、数時間にわたって光秀を「説諭」。また「変」の約1週間前には、「心知らぬ人は何とも言わば言え 身をも惜しまじ名をも惜しまじ」と詠み、沈思する主人の様子を心配した光秀の家臣に「教諭」を頼み込まれ、幽斎は「信長公に恨みをもってはならない」と光秀に説いたという。
 信長と日蓮宗との関係を一例として、両書にはふに落ちない記述が散見されるのは確かだ。しかし、これらの話が大意において真実を伝えているならば、浮かび上がってくるのは、信長に忠言が容れられないばかりか理不尽に体面を汚される光秀の姿である。
 そこから生まれた怨恨(えんこん)が光秀に本能寺の変を決意させたのだろうか。また、幽斎は光秀の逆心に気付いていたのか。次回、旧熊本藩主細川家18代当主であり、第79代内閣総理大臣を務めた細川護煕さん(81)とともに考えてみたい。(編集委員 関厚夫)=(3)に続く
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 6月5日 産経新聞「【歴史の転換点から】「本能寺の変」の真相に迫る(3)細川護熙氏「歴代当主は信長の恩感じてた」
 「本能寺の変」や信長・光秀・幽斎について語る細川護熙さん=東京都品川区(古厩正樹撮影)
 細川護熙さん(81)。第79代内閣総理大臣であり、細川幽斎(藤孝)を祖とする旧熊本藩主細川家の第18代当主である。その細川さんに、4世紀半の時を超えた“時代の証言者”として、「本能寺の変」とともに織田信長明智光秀、そして幽斎について縦横に語ってもらった。(聞き手 編集委員・関厚夫)
 光秀と幽斎については、出会った当初は肝胆相(かんたんあい)照らす仲といいますか、上下関係はなかったと思います。でも、ともに室町幕府の最後の将軍となる足利義昭に仕えているうちに光秀は幽斎の麾下(きか)に入るのですね。光秀にしてみると物足りなかったのでしょう。足利将軍家や細川家のもとを飛び出すかっこうで、猛烈な勢いで台頭してきていた信長に仕官します。そしてとんとん拍子で取り立てられるようになり、後年、幽斎が信長の家臣になってしばらくすると今度は幽斎が光秀の麾下に入ることになり、立場が逆転します。
 本能寺の変のさい、出生年不明とされる光秀が50代半ばだったとすると、幽斎より5~6歳年長にあたります。そこに両者の出自や教養、武将としての能力などを比較・勘案しますと、「変」が起こるまでは「盟友」の側面もある一方、光秀と幽斎という2人の関係にはなかなか微妙なところもあったと推察されます。
 信長は「多年の恩人」か「悪逆無道」か-究極の決断
 本能寺の変後、光秀から応援要請を受けたとき、幽斎は「自分は信長公のご恩を深く受けているので、落髪して多年の恩を謝す」と宣言し、即座に光秀と絶縁します。その判断にいたった理由については種々の史料をひもといてもよくわからないところがあります。ただ、長男の忠興に対して「その方は光秀とは聟(むこ)と舅(しゅうと)の間柄なのだから彼に与(くみ)すべきか否かは心のままにせよ」と述べたのは、「忠興が光秀に与することはない」とわかっていたうえでの発言でしょう。
 『永源師檀紀年録』によりますと、このとき、幽斎の次男、興元(おきもと)は「信長の悪逆無道は比類を絶している。それゆえ、光秀の手を借りて神明が織田家を罰したのだ」として光秀への加勢を主張した(※1)といいます。史実かどうかは別としてこの発言は正論だと考えています。
 私は信長のことは好きですが、「悪逆無道」は言い過ぎにしても、信長にはたいへん乱暴なところがあったことは確かです。ですので当時、幽斎は本当に難しい決断を迫られていたと思います。私が幽斎ならば、諸情勢や手持ちの情報を照らし合わせながら相当迷ったことでしょう。
 『細川家記』や『永源師檀紀年録』には、信長の「増長」に諌言(かんげん)を重ねる光秀に対して幽斎が心配のあまり、「あまり目立つことはしないほうがよい」と忠告したり、光秀が信長に対して怨恨(えんこん)や鬱屈した気持ちを抱いているのではないか、と幽斎自身も感じ、光秀の家来からも同様の理由から「教諭」するよう頼み込まれたため、何度か光秀と話をする-といった逸話が記載されています(※2)。
 個人的にはこうしたことはあっただろうと考えています。しかし、光秀が「親身な幽斎はおれの心をわかってくれている。だから信長を討っても味方してくれるはずだ」と考えたのならば、それは誤りです。幽斎は「上様(信長)を恨みに思ってはならないし、万が一にもおかしなことを考えるな。取り返しのつかないことになるぞ」ということを暗に知らしめるために光秀に再三面会を求めているわけですから…。本能寺の変を知って幽斎もまた、「光秀に裏切られた」と感じたことだったでしょう
 細川家歴代に共通する信長への思い
 十数年前でしたか、細川家の菩提(ぼだい)寺だった泰勝寺跡(熊本市中央区)に建てられているご祠堂を点検したことがありました。歴代の先祖の位牌(いはい)がまつられており、「よほどのことがないかぎり、開扉してはならない」と父から伝えられていたのですが、当時は台風被害で雨漏りがしていたようでしたので…。ということで、扉を開けたところ、正面、その真ん中に信長の木像が鎮座していました。先祖の位牌よりも信長像を中心にしてまつられているのです。歴代の当主たちがいかに信長の恩を深く感じていたか…。本当に驚きました。
 ちなみに忠興は信長の小姓に取り立てられ、非常にかわいがられました。彼の初陣をたたえる信長直筆の書状が残されていますし、細川家の家紋「九曜(くよう)紋」は忠興が信長から拝領したものです。『細川家記』によりますと、信長の小刀の柄(つか)にあしらわれた九曜(1つの大円を8つの小円が囲んでいる形)の意匠をみた忠興が「これはすてきだ」と思って紋にして着物に縫い付けていたら信長に「よく似合っておる。今からそれをお前の家紋にせよ」と言われたということです。
 また幽斎は室町幕府第12代将軍、足利義晴落胤(おとしだね)だった-と伝えられるほど、足利将軍家にゆかりがありました。その幽斎が擁した足利義昭を信長は征夷大将軍にし、最後は追放したものの、武家の棟梁(とうりょう)としては難のあった義昭を精一杯支えていた時期もありました。こうしたことが積み重なって、幽斎や忠興だけでなく後々の当主たちも、菩提寺のご祠堂の真ん中にまつるとともに、「信長公に対しては足を向けて寝られない」という共通した思いを抱いていたのではないでしょうか。
 「本能寺の変」から何を学ぶべきか
 『西郷南洲手抄言志録』。西郷隆盛が江戸時代後期を代表する儒学者佐藤一斎の著作を抜き書きしたものですが、そこにこんな言葉があります。
 「政(まつりごと)を為すの著眼(ちゃくがん=着眼)は情の一字に在り。情に循(したご)うて以て情を治む、これを王道と謂(い)う」
 つまり、トップに立つ者には情がないとだめだということです。信長には、特にその晩年期にはそうした情が感じられないような話がたくさんあります。情に偏りすぎても困るけれども、「情に従ってもって情を治める」。中国の伝説の皇帝である堯・舜の政治や「三国志」で有名な劉備にしてもみんなやはり情があります。情というものが根底にないと、人はついてこないのです。
 また本能寺の変の前後に関しては、現代的なことばでいえば、信長という一人の天才に牽引された「織田政権」の安全保障、ひらたくいえば信長の身辺警護の点で明らかに問題がありました。最小限の軍勢で京都入りし、防御施設も貧弱、光秀以外の織田家の軍団長たちはみな地方に遠征しているか、遠征直前で、「いざ」というときに短時間で京に駆けつけられる援軍がいない…。信長は「いまどき自分に刃向かうものがいるわけない」と頭からたかをくくっていたのでしょう。油断があり、おごりもあったということです。
 逆に光秀にとっては千載一遇ともいえるチャンスでした。私見を述べますと、光秀については「変」を起こすだけの十分な理由-広い意味での怨恨-があったと考えています。
=(4)に続く)
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 6月6日 産経新聞「【歴史の転換点から】「本能寺の変」の真相に迫る(4)細川護熙氏、光秀の大河「成功を祈る」
 細川護熙さん=2007年9月、神奈川県湯河原町の不東庵
 (3から続く。細川護熙氏が祖先である幽斎と本能寺の変、信長を語っている)
 「明智光秀論」の前に言っておきたいのですが、織田信長については政(まつりごと)をつかさどるリーダーとしての偉大な資質を多々兼ね備えた人物だったと考えています。
 信長は卓越した教育者だった
 その一つは人を育てる力です。
 たとえば、信長が爪を切った後、爪を拾う役の小姓がいつまでもうろうろと何かを探している。「どうした」と尋ねたところ、その小姓は「お爪が一つどうしてもみつかりません」。それを聞いて信長は「その心がけだ、大事なのは。その心がけのない者はだめだ」とたいそうほめたといいますが、同じような話はたくさん伝えられています。
 教育者・信長に最も鍛えられたのは豊臣秀吉でしょう。たとえ殴られようが蹴られようが、秀吉は全身全霊で信長に仕え、それゆえに報われた。そう簡単に置き換えることはできませんが、2人の関係には現代人も学ぶところがあると思います。
 これは『太閤記』に記載されている話ですが、秀吉が安土城に歳暮を携えて参上したさい、信長への進物を乗せた2列の荷車が延々と続き、先頭が安土山の山頂近くにある城門に着いてもまだ後続は山の麓のあたりに列をなしていた。そのありさまを天主閣から眺めていた信長は「あの大気者ならば支那(中国)や天竺(インド)を退治せよ、と言われてもこばみはすまい」と話し、上機嫌だったといいます。
 ここまで部下をほめることはなかなかできません。自分以上にたたえているわけですから。秀吉もさぞ感激したことでしょう。これも信長が教育者として卓越していた一例です。
 また何より信長には「息諍(そくじょう=争いをとどめること)の功」といいますか、当時の非常に混乱した世の中をごく短期間でまとめてゆくことのできた異能の持ち主でした。ただしそのためには「延暦寺焼打ち」や一向一揆に対する鎮圧の過程などでかなり乱暴なことをしたことも事実です。
 「本能寺の変」を招いた光秀の怨恨
 「信長による乱暴」という視点から光秀を見つめると、彼は本能寺の変に至るまでよく我慢していたとさえ思います。
 その理由についてはいくつも挙げることができます。異論はあるようですが、八上(やかみ)城(兵庫県丹波篠山市)攻略のさいには、和議に応じた城主を信長が処刑した結果、人質として八上城内に差し出していた自分の母が殺されたと伝えられています。また「変」の直前には、光秀にとっては家臣を通じて“縁戚”ともいえるような関係だった土佐の長宗我部(ちょうそかべ)氏について信長は光秀を無視するかっこうで征伐することを決定しています。
 また、信長は光秀の額を扇子で打ち、けがをさせたともいわれていますし、数々の屈辱に武門の面目が立たなくなったのが「光秀謀反」の主因とする説もあるようです。いずれにせよ、光秀にとって信長は、「政(まつりごと)を為すの著眼(ちゃくがん=着眼)は情の一字に在り。情に循(したご)うて以て情を治む」という前回申し上げた格言にいう「情」に欠けた政治家だったことが「変」が起きた最大の理由だったと考えています。
 まずこういった広い意味での怨恨があり、それを晴らした先に天下取りがある。そういった意味で、光秀にはまず「天下への野望があった」という説には賛成しかねます。「天に代わって信長を討つ」とする「暴君討伐説」といった見方もあるようですが、それは大義名分を掲げるための後付けの理屈みたいなものでしょうね。
 人望が戦国武将の命運を分けた
 光秀に関しましては、相当に教養があって、武将としても行政官としてもその能力は傑出していたと考えています。またあばたの女性をあえて妻としたように人情にも厚い人だったようです。
 しかしながらその教養のあまり、政治家として、また人間として、秀吉などと比べると、泥臭い根回しや強力な仲間や味方つくりについては劣っていたのではないでしょうか。だから「織田政権」下では「近畿管領」ともいうべき立場だったにもかかわらず、本能寺の変の後は畿内の一部しか固めることができませんでした。世は下克上・弱肉強食の戦国時代です。「謀反の首謀者」とはいえ、あれだけ人がついてこなかったというのはそんなところに原因があるのでしょう。
 若干身びいきになりますが、後年の関ヶ原の戦いの前哨戦で、1万5000人もの西軍が、東軍に属した細川家の本拠・丹後に攻め寄せたさい、幽斎はわずか500人の手勢で本拠の田辺城(京都府舞鶴市)に籠城し、30倍もの相手を2カ月近くにわたってくぎ付けにしました。ためにこの大軍は肝心の関ヶ原の戦いで西軍に加わることができなくなり、徳川家康率いる東軍が完勝する要因の一つとなりました。
 戦後、家康が幽斎にほうびをとらせようとすると、幽斎は再三固辞したうえでこう言ったそうです。「田辺城攻めの西軍の中にはわれらと志を通ずる者どもがおりました。拙者へのほうびの代わりに彼らの所領をご安堵ください」と。
 実際、包囲軍のなかには幽斎にとって和歌や能の弟子たちがいて、彼らの動きが鈍いために城攻めがうまく機能しなかったそうです。そういう人的なつながりの広さ、ある種の徳については光秀の場合には少し足りなかったのではないでしょうか。彼に学芸や武芸の弟子がたくさんいたとは聞きませんから。
 『麒麟がくる』とガラシャ
 来年のNHK大河ドラマ麒麟がくる』は光秀が主人公だそうですね。実は、前々から熊本県をはじめとしてゆかりの地から「大河ドラマの主人公にはぜひ光秀の娘で忠興夫人でもあった細川ガラシャ(玉)を」といった運動があり、私も協力を求められました。
 でも、ガラシャの享年は38(数え)です。その短い生涯をもって1年間という長期の放映をカバーするのは難しいし、当時のキリシタンキリスト教をどう描くべきかという、NHKならではの難問もある。なので、私は「ガラシャはハードルが高いですから光秀でおやりなさい」とアドバイスする一方、理事長を務める永青文庫(※)の評議員を務める著名な先生方と“対策会議”を開いたりしていました。そうこうしているうちに昨春、『麒麟がくる』に決まりました。してやったりです(笑)。
 ガラシャに関しては、光秀からの応援要請を幽斎・忠興父子がはねつけた後、味土野(京都府京丹後市)に幽閉されます。夫・忠興の居城があった宮津から車で約1時間半。途中、大人が手を広げたほどの幅の林道で、片側は崖です。冬には2メートルもの積雪があるそうです。
 当時、ガラシャ幽閉の地は殺害や拉致を狙う諸勢力を撃退するために砦化されており、松本清張の小説『火の縄』の題材にもなっています。果たしてそんなところまで描くことができるかどうかは別として、いまは来年の大河ドラマが成功することを祈るばかりですね(笑)。
 (聞き手 編集委員 関厚夫)
 ※=旧熊本藩主細川家に伝わった歴史史料や美術品などを保管・一般公開する公益財団法人。東京都文京区にある。
   ◇   
 今回の連載の主な引用・参考文献は次の通り(編・著者敬称略 旧字体新字体に変換している)。
 綿考輯録1、2巻(出水叢書)▽永源師檀紀年録並付録 正伝永源院蔵本(今谷明監修、阿波郷土会)▽増訂織田信長文書の研究(奥野高広著、全3巻)▽新訂信長公記太田牛一著・桑田忠親校注、新人物往来社)▽フロイス日本史(全12巻、松田毅一、川崎桃太訳、中央公論社)▽史料で読む戦国史 明智光秀藤田達生福島克彦編、八木書店)▽石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世(浅利尚民・内池英樹編、吉川弘文館)▽信長記太閤記小瀬甫庵著、国民文庫刊行会)▽明智軍記(二木謙一校注、新人物往来社)▽人物叢書 明智光秀(高柳光寿著、吉川弘文館)▽明智光秀桑田忠親著、新人物往来社)▽細川幽斎細川護貞著、中公文庫)▽細川幽斎 戦塵の中の学芸(森正人・鈴木元編、笠間書院)▽続細川幽斎の研究(土田将雄著、同)▽信長権力と朝廷(第2版 立花京子著、岩田書院)▽検証本能寺の変(谷口克広著、吉川弘文館)▽武将列伝3(海音寺潮五郎著、文春文庫)▽明智光秀の生涯と丹波福知山(小和田哲男監修、福知山市)▽ここまでわかった! 明智光秀の謎(『歴史読本』編集部編、新人物文庫)▽明智光秀本能寺の変小和田哲男著、PHP文庫)▽明智光秀 残虐と謀略(橋場日月著、祥伝社新書)▽戦国史の俗説を覆す(渡邊大門編、柏書房)▽内訟録(細川護熙著、日本経済新聞出版社)▽大日本史料総合データベース(東京大学史料編纂所)」
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🎑4)─1─現代日本から民族特有の泣き笑いが消えつつある。NHK大河ドラマ「いだてん」。~No.5 

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 2019年6月28日 朝日新聞「記者レビュー
 弱さを肯定する『大河』
 大河ドラマ『いだてん』の第一部が終わった。明治~昭和に五輪にかけた人たちの物語だ。
日の前半最終話、関東大震災後に明治神宮外苑競技場(のちの国立競技場)にできた避難所の夜を描いた場面で泣いた。
 ろうそくの灯がゆらめく薄闇(うすやみ)に、嗚咽が漏れ、鼻をすする音が響く。罹災(りさい)した浅草遊女が言う。『みんな大人だから昼間は無理して笑っているけれどさ。身内は死なれて家もなくして。つらくないわけないもんね』
 悲しみを前面に出す描写ではない。なのに涙が出たのは、阪神淡路、東日本、熊本と、私の中の震災の記憶が揺さぶられたからだろう。
 思えば、人の弱さを優しくすくいとってきた大河だった。主人公の金栗四三は五輪初出場のマラソンで気絶し、金栗と五輪に出たカリスマ・三島弥彦は、欧米人との心身の格差に直面して、心をぽっきり折られた。日本スポーツの父、嘉納治五郎は借金を重ね、語り手の古今亭志ん生は酒のために一張羅(いっちょうら)を質に入れた。彼らの生き様に、自らの惰弱さを、勝手に共振させてきた。
 弱さで笑いを誘う場面もある。だが冷笑し突き放すことはない。むしろ肯定している。そして気付く。私たちとそう変わらない人が、歴史を紡いできたことに。英雄伝が定番の大河だが、30日開始の第二部も、どうか弱いままでいて。(真野啓太)」
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 大河ドラマ「いだてん」は、歴代大河ドラマでもベストテン=テンに中る傑作である。
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 大河ドラマ「いだてん」は、最低の視聴率が続き、歴代大河ドラマの中でも最悪のとされワース=トテンに数えられている。
 つまり、現代日本人は弱さ、哀しさを受け入れ笑って寄り添う大河ドラマ「いだてん」を嫌っている。
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 日本民族日本人の笑いは、中国や朝鮮の笑いとは全然違う異質の笑いである。
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 日本民族日本人は、面白く、おかしく、楽しく、ほろりと涙を誘う笑いが好きである。
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 日本民族日本人とは、顔で笑いながら心に哀しみを秘める人々の事である。
 語らずとも察し合いながら共に生きるのが日本民族日本人である。
 言わず、語らずとも、お互いの心・心情、感情・気持ちが分かり合えるのが日本民族日本人である。
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 日本民族日本人とは、尚武の民として優秀・勇猛ではなく、弱く悲しいひ弱な人間である。
 それ故に、自分と他者を区別・差別する哲学・思想・主義主張を嫌った。
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 日本民族日本人は、幾ら努力しても、如何に苦労しても、それが成功せず報われない事は知っていたが、知っていてなおも辛抱と我慢で努力し苦労を重ねた。
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 日本民族日本人は、勢い、偶然、幸運で生きていた。
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 2019年7月4日号 週刊文春「ツチヤの口車 土屋賢二
 都合のいい偶然
 幸福になるのに必要なのは『都合のいい偶然』だ。金を稼いでいたり、内面を磨くよりも、はるかに協力に幸福をもたらすのは、何でもない小さな偶然なのだ」
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 1日で、10万人以上が炎で生きたまま焼き殺された関東大震災
 Ⅰヵ月以上、大小幾つかの余震が震災地を揺らし、全てを失い焼き出された数十万人の被災者を襲って不安と恐怖をもたらしていた。
 そんな悲惨な状況下でも「人間らしく正常に考えて行動しろ」、という傲慢な現代日本人が発する説教は酷な話であった。
 それが、朝鮮人惨殺事件である。
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 2019年7月4日号 週間分「春日太一の木曜邦画劇場 
 『小林多喜二
 政治スタンスは明確だが何せこの映画は面白い!
 昨今、俳優・映画製作者・芸能人たちが政治的な発言をすると、そのことがネット上などで物議をかもす──というケースが増えてきた。
 政治信条は人それぞれにあってしかるべきだし、それに伴い論争が起きるというのも、民主主義国家として健全なことだと思う。が、最近の傾向として憂うているのは、それが感情的になり過ぎているということである。政治信条に対する論争ならあくまで、そこに絞って展開されるべきものと思うのだが、すぐに人格攻撃とかに走ってしまいがちだ。それでは議論にならない。
 そうした中には──政権寄り、反政権、どちらのスタンスにしても──その発言をした俳優や製作者の作品そのものを否定するケースも多い。またその逆に、その発言を理由に礼賛する、という場面もある。
 もちろん、自らの政治的スタンスが作品に込められていることも決して少なくはない。でも、それは作品に接する上でさほど重用ではない。そう筆者は考えている。大事なのは、映画として面白いかどうか。それだけだ。いかに高尚なメッセージを込めていようとも、映画として面白くなければ、それは失格なのである。
 ……
 映画に接する時は、ご自身の政治スタンスをいったん置いて、エンターテインメントとして向き合ってほしいと思う」
   ・   ・   ・   
 西洋や中華の演劇などの芸能や絵画などの芸術は、その多くが、政治などの宣伝活動、宗教の布教活動、哲学・思想・主義主張を広める啓蒙運動が目的であった。
 全体主義共産主義ファシズム、ナチズムは、映画をプロパガンダや洗脳教育に悪用した。
 日本の芸能や芸術にも、反政治権力・反宗教権威の反骨精神が含まれていたが、西洋や中華とは異なる。
 日本に於ける芸能の民は、非人・穢多・河原乞食などの賤民であった。
   ・   ・   ・   

🎑3)─1─歪んだ正義漢。日本では大災害や大事故が発生すると必ず笑い・ユーモアへの自粛圧力が起きる。くまモン活動自粛。~No.2No.3 * 

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   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 現代日本人は、楽しく笑う事に不寛容である。 
   ・   ・   ・   
 日本人は、電車に乗る為に駆け足で階段を上ってホームに出るが、目の前で電車のドアが閉まって乗れない時、思わず笑ってしまう。
 外国人であれば、電車に悪たれをついて怒鳴り散らすか、バツが悪そうに周囲に悟られないように素知らぬ顔で立ち去るか、いずれにしても日本人みたいに笑う事は少ない。
 お化け屋敷に入っても、日本人は怖さに悲鳴を上げながら出口に急ぎ、外に出ると安堵から思わず笑ってしまう。
 外国人は怒ったり泣いたりするが、日本人のように笑う事は少ない。
 日本人は、嬉しくて笑うが、怖くても笑うし、悲しくても笑い、バツが悪いような失敗をしても笑う。
 外国人は、ヘラヘラ笑う日本人が理解できないどころか、自分が日本人に馬鹿にされていると思い込んで日本人に怒る。
 日本人の笑いと世界の笑いは、何処かが違う笑うである。
 日本人の笑いは幾種類もあって、他人を笑うより自分を笑う方が多い。
 笑う顔も、多様性に富み、幾種類も存在する。
 日本国語は、全ての笑いや全ての顔を表現できる程に語彙の数が多い。
 外国語には、それ程の語彙はなく、日本お笑いや笑顔を言い表す事ができない。
 だからといって、日本国語が優れた言語ではなく、偶然にもそれだけの語彙を作らねばならなかったというだけの事に過ぎない。
 もし、日本国語をグローバル言語にするならば外国語に訳せない語彙は捨てなければならない。
 日本国語をローカル言語として留めておくのなら、日本情緒独特の言い回しは外国人に理解されなくともそのまま放置しておけば良い。
 その逆として、日本人には欧米の笑いは理解できないし、中国や韓国の笑いも理解しにくい。
 笑いのツボは、日本国語に翻訳すると笑えず、その国の言語でなければ笑えない。
だが、目の前で扉を閉めて走り去る電車を見ながら日本人がなぜ笑うのか、当の日本人でも理解していない。
 お化け屋敷を出た時に、なぜ笑うのかも同様である。
 とにかく、日本人はよく笑う。
   ・   ・   ・   
 2016年5月19日号 週刊文春「ツチヤの口車 土屋賢二
 笑いは不謹慎か
 熊本地震のときなど、ネットでは揚げ足を取って叩き『検閲』が横行しており、わたしの家にいるようだ。それを恐れてか、災害時にはテレビ局は、お笑い番組を自粛する。お笑いは不謹慎だからというのだ。
 だが、事故や手術の失敗で死ぬ人は毎日いるし、海外では虐殺や子どもの餓死が日常茶飯事だ。そういうときお笑い番組を流しても不謹慎にならないのか。
 そもそも、なぜお笑い番組が不謹慎になるのか。人間が一番笑うテーマは、深刻な不幸なのだ。事実、コントになるのは、病院、葬式、失恋、リストラなど不幸な出来事である。人間が深刻に苦しむことがなければ、笑いは必要ないだろう。人生の根底には生、死、運命への不安が深淵のように口を開けており、人間はその前では無力だ。それに対抗するには笑いに頼るしかない。
 イギリスにいたとき『ユーモアのセンスがないと人ではない』と言わんばかりにユーモアが重視されていること驚いたが、その理由がまた意外だった。多くのイギリス人は『ユーモアがないと人生の危機を乗り越えることができないから』と答えたのだ。ユーモアがないと苦難に押しつぶされてしまうのだ。
 わたしも苦しいときに笑う。教師時代、年度末になるとあらゆることに自信を失う鬱状態になっていたが、あるとき『自信がないことにかけて自信がある』と考えて思わず笑い、乗り越えられたことがある。
 大きな手術をしたときもそうだった。数時間の麻酔からさめると、そばに手術室つきの看護師さんがいて、わたしの本のファンだと話しかけた。わたしが病院の態度が信頼できるとお礼を言うと、看護婦さんは『わたしたちは万全の態勢を整え、手術では一人の死者も出さないようにしています』と言ったので、わたしは『えっ、患者が死にそうになったら手術室の外に出すんですか』と言った。看護師さんは、わたしの冗談を聞いてもニコリともしなかったが、冗談がウケなかったことも可笑しくて、心の底にあった病気や死への不安は和らいだ。
 わたしの弟が緑内障でかなり視野が狭くなっていることも冗談にしている。『おめえは緑内障でわたしは白内障、と進む道は分かれたが、おめえもこれで心も身体も視野が狭うなった。病は心を表すもんじゃのう』と言って二人で笑う。
 わたしの親が死んだときは、悲しみで人前で涙を抑えることができなかったが、精進落としの席では冗談ばかり言って笑ったものだ。知らない人が聞いたら、葬式の直後だとは思わなかっただろうが、それでもわたしは不謹慎とは思わなかった。笑いは悲しみと両立する。それどころか悲しみに打ちひしがれないためには笑いが必要なのだ」
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 5月22日号 サンデー毎日くまモン復活『寄り添うモン』
 熊本地震発生から活動を控えていた県の『営業部長』くまモンが、3週間ぶりに姿を見せた。『くまモンに会いたい』という多くの声に応え、5月5日の子どもの日、西原村の避難所やボランティアセンターなどを慰問した。
 赤ん坊の頭をなで、お年寄りと10秒以上握手し、ボランティアたちの肩をもむ──くまモンのいたわりに『うれしい』『可愛い』と歓声があちこちで聞こえ、『こんな幸せなことはない』と80歳女性も。 
 同日午後2時からは、益城町熊本産業展示場『グランメッセ』の駐車場。待ちわびていた子どもたちに笑顔があふれ、いっしょに踊ったり記念写真の撮影に応じた。くまモンは今後も、災害の大きい地域から訪問し、被災者に寄り添うつもりだという」
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 自然災害多発地帯で生きる気弱な日本民族の活力源は、泣きそして笑って浮かれ騒ぐ事。
 昔の日本民族日本人は、苦しい時、辛い時、悲しい時、切ない時は、むしろ笑って誤魔化した。
 顔で笑って、心で泣いた。
 苦しい時ほど無理をしても笑うのが、日本民族日本人の本来の生き方である。
 特に、大人は子どもの前では虚勢を張って笑った。
 昔の日本民族日本人は、辛い時ほど皆で一緒になってよく笑った。
 貧しい町民の間で、落語、漫談、漫才、川柳、落首など滑稽な日本的笑い文化と、歌舞伎、浄瑠璃、能・能楽などしんみりした日本的涙文化が発展した。
 日本民族日本人の生き方は、泣き笑いであり、不機嫌に苛つき当たり散らす事ではない。
 現代日本には、独り善がりで、つまらなく、くだらない日本人が増え始めている。
   ・   ・   ・   
 釈尊は、「比丘(びく。修行僧)達よ、これは実に苦しみという聖なる真実です。生まれることも苦、老いることも苦、病気になることも苦、死ぬことも苦、憎む人と会う苦、愛する人と別れる苦、求めるものが得られないことも苦」と7つの苦を挙げ、それら一切の苦は突き詰めれば自己執着であると説いた。
 「生まれる苦」とは、「思い通りに生まれる事ができない」と言う意味で、金持ちの親か貧乏人の親か、地位の高い親か地位の低い親か、鬼のような親か仏のような親か、広い家を持った親か狭い家を持った親か、どこに生まれるか分からないという事である。
 人は、生まれながらにして平等ではなく、むしろ残酷なほどに不平等である。 
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 自然災害多発地帯の日本では、自然災害は平等であった。
 自然災害で全財産を失う為に、貧富の格差が広がる事は少なかった。
 日本民族日本人は、絶え間ない自然災害によって、絶えず命の危険に晒され、あくせくと築き上げた全財産を失う恐れがあるのにもかかわず、誰一人として日本列島から中国大陸や朝鮮半島に逃げ出す者がいなかった。
 なぜかその逆で、中国大陸や朝鮮半島から日本列島に渡ってくる者が絶えなかった。



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🏕14)─1─自然災害多発地帯で生きる日本民族日本人は、不安遺伝子が多く神経神経質で、臆病と小心でストレスに弱い。その対処法は。~No.25No.26 * ③

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 新約聖書ヨハネによる福音書)「私はどこから来たのか、何処へ行くのかを知っている」
   ・   ・   ・   
 人間の脳神経細胞は、30歳頃から1日に10万個が死滅し、記憶力が低下して新しい情報を覚えられなくなる。
 ただし、頭の使い方によっては神経ニューロンを増やし記憶力を維持する事ができる。
   ・   ・   ・   
 正気を保ち道理をわきまえ正常に考える者にのみに、人としての品格・品位・品性が与えられる。
 自分の愚かさを欺瞞で隠し、インターネットに隠れ匿名で正義面して他人を非難中傷する者には人としての分別は存在しない。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、絶対神に憎まれ見捨てられるように、荒れ野の如き自然災害多発地帯に撒かれた「悪い種」である。
 日本民族日本人は、絶対神から愛される事がない劣った種族である。
 日本民族日本人は、自然災害多発地帯という最悪な環境に放り出された憐れな人間である。
 絶対神は、奇跡や恩寵で日本民族日本人を自然災害から救済せず見放している。
   ・   ・   ・   
 孤独を恐れて、寄り添って泣き、慰め、癒やし、励まし合う、哀れな集団的日本民族
 何時かは死滅する定めの寂しい日本人。
   ・   ・   ・   
 日本人は、苦しい時辛い時不安な時困った時は神頼みとして、生活の中に宗教を利用するのが上手い。
 絶望に向き合う精神的勇気がない為に、神仏に丸投げして逃げ出していた。
   ・   ・   ・   
 林房雄「仏教には入山と出山という言葉がある。人に道を説くためには、まず山にはいって仏陀に問い、おのれ自身に問う時間と修業が必要である。……日本民族はいましばらく歴史の舞台から退き、入山して天に問い、おのれ自身と対話する資格と権利がある。あわてることはない」(『大東亜戦争肯定論』)
   ・   ・   ・   
 日本の心は、物事を白黒や勝敗や優劣など二者択一でハッキリさせない曖昧さにある。
 自力と他力を融合する、「自他一如」である。
 あるがまま、あるがまま。
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 日本人は、大陸や海洋を逃げ回りながら日本列島に逃げてきた為に、ストレスを起こす不安遺伝子量が多い。
 ストレスをもたらす不安を解消する為に、身体を動かし、人や動物と接して楽しみ、好きな事に拘って、好きなモノを作っていた。
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 宮崎駿「雑木林の中を大水が流れると、ゴミがいっぱい来るが、その後は植物が明らかに元気になる。水はゴミだけではなく色々な物をものをもたらしている。そういう見方で、自然や災害の事も考えなければいけない」
 自然界は、人間の淺知恵では知り得ない奥深さが存在する。
 日本の複雑な自然は、恵むと災害という死と再生の繰り返しである。
 日本の鬱蒼とした山林の奥深くには、得体の知れない闇が広がっている。
 日本神道は、絶えず闇と光が交錯する時空に神を見出す。
 日本の神々は、ハッキリとした考えを持って人に高尚な説教をせず、何を考えているのか読み取る事ができず、自然の光と闇の中にたたずんでいる。
 日本民族日本人は、死と再生の自然から目を逸らさず、逃げる事なく光と闇に対峙していた。
 日本の自然とはそうした自然であり、日本の神々とはそうした神々である。
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 日本列島に最初に渡ってきたのは人間は、4万年前と言われている。   
   ・   ・   ・   
☆柳の様に「しなやか」な日本民族日本人 
 日本は、幾たびも外敵に侵略されたが、一度たりとも、占領されて植民地になった事はない。
 日本民族は、一度たりとも、征服者である異民族の奴隷となった事はない。
 日本人は、外圧に屈し、祖先が命を賭け寝食を忘れて開墾した土地を、寸土でも奪われた事はなく、租界として献上した事もない。
 涙もろい日本人の心は、ひ弱にみえても、柳の様に、強風が吹こうとも容易く折れない「しなやかさ」があった。
 日本人の本性は、一元的な画一された絶対的価値観による「堅固」ではなく、多種多様な相対的価値観による曖昧な「柔軟」である。
 日本は、世界一自然災害の多い地帯である。
 日本人は、気が弱いだけに「思いやり」を持って「人の絆」を大事にし、柔軟に対処して災いを福に変え、生き残り、起ち上がってきた。
 弱い日本人の貴重な財産は、思いやりを持った「優しさ」である。
 日本神道は、全ての祖先を平等に氏神として祀っていた。
 災害で亡くなった人々を神として平等にムラの神社に祀り、生き残ったムラ人全員で心から冥福を祈った。
 優しい日本人の本質は、柳の様な「柔軟」である。柳の枝は、折れずらく、切れずらかった。
 日本人は、風に揺られる柳の枝である。故に、決して挫けないし、絶望して諦めなかった。
 どんな悲惨な状況にあっても、お互いに「思いやり」を持って逃げ出さずに踏ん張って復興してきた。それも、以前よりも全てにおいて進歩させて。
 事に当たって、臨機応変に対応していた。その変幻自在は、水に似ていた。
 日本の支えと日本人の心の拠り所は、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を中心とした日本神話にある。
 土着した日本人にとって、神の裔である歴代天皇の祈りほどありがたいものはなかった。
 日本人は、恵み多い太陽の光の下で、緑豊かな大地と栄養豊かな清き水を愛する。自然こそが、神道的信仰の「まごころ」の源泉であった。
 故に、災害多い自然に対して、「したたか」となって、逃げる事なく前向きに向き合ってきた。
   ・   ・   ・   
 時間と空間を超越した「希望」がなければ、ひ弱な人間は生きてはいけない。
 精神的弱者である人間は、自力ではどうにもできない不幸や悲哀や苦悩や絶望に追い詰められたとき、一条の光として「希望」を胸に抱いき心の支えとして生き抜こうとした。
 希望を失ったとき人間は人間として死に、希望を持たない動物のように欲望のままに生きて何も考えずに死ぬだけである。
 人間は、自分に何かが足りない欠けているという不安から、それを満たそうという希望から文明と神話を作り、それを補いたいという思いから文化と宗教を生み出した。
 人の進化は、渇望感による不幸や不安や不満によって前に進んできた。
 つまり、ハングリー精神が「希望」である。
 現実に満足した、ハングリー精神のない所には「希望」はない。
 そして、不安や恐怖を克服し豊かになり満ち足りたと感じた幸福感を得たとき、人は堕落し、民族は衰退した。
 エミール・シオラン「民族の凋落は、集団の正気が頂点に達した時に一致する」(『涙と聖者』)
 サルトル「希望だけが、未来を創る事ができる」
 アポリネール「夜よ来い、時よ鳴れ。日々は流れゆき、私は残る」(詩『ミラボー橋』)
 私という自己の命は、過去と現実の絶望を抱きしめながら未来の為に「希望」と共に残る。    ・   ・   ・   
☆混血で雑種民族である日本人の祖先とは。
 日本中心の天皇心神話を共有する排他的閉鎖的自閉的日本民族か?
 最初の生命体である、単細胞生物のシラノバクテリか?
 最初の人類である、類人猿の親戚であるアフリカのトゥーマイ猿人か?
 全てが宇宙で一つしかない命であり、全ての遺伝子は途切れることなく続いている。
 日本人とは、いったい誰か?
 日本の常識を持った日本人は、間違っても、絶対神が自らを模してチリや土から日本人を創造したとは思わないし、信じない。
 また、多神教の相対神話には、天地創造絶対神の話は存在しない。
 日本神話に基づく由緒ある神社にも、そんな絶対神の伝承は皆無である。
 昔からある古い民話や寓話にも、絶対価値観を押し付ける様な絶対善的なおとぎ話はない。同様に、絶対救われないという絶対悪の絶望的な物語もない。
 あるのは、気候変動や自然災害の少ない大陸で誕生した、一神教ユダヤ教キリスト教イスラム教などの普遍宗教世界のみである。
 天皇心神話の神道は、民族中心宗教として普遍宗教とは異質な閉鎖宗教であり、水と油の様に共通点はあまりない。
 2000年以上の時空をかけて、逃げ出せない閉鎖的空間の狭い島国で独自に発展させてきた民族中心宗教・神道は、開放的空間の大陸で生まれた普遍宗教・キリスト教から、神憑り的呪文による自然崇拝の邪教であると弾劾された。
 絶対神の真理を信仰するキリスト教会は、正しい心を持った善人を悪の道に導く邪悪なカルト・悪魔教であると断定し、「神の名」によって抹殺すべき対象であるとした。
 明治に入り。時の権力者は、キリスト教の宗教侵略から神の裔である天皇の神格を守る為に、天皇を現人神とする話を意図的にこしらえた。
 天皇を現人神とする神話は、明治になって急きょ創作された作り話であり、目的は日本固有の祖先神・氏神信仰を宗教侵略から守る為の精神的防波堤であった。
 キリスト教徒や反宗教無神論マルクス主義者らは、日本の精神を破壊する為に、天皇の神格性を否定し、2000年間続いてきた神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)制度を廃止しようとしている。 
 トインビー「宗教を抜きにしては、民族の歴史は成立しない」
 国木田独歩「宗教心なき人間は、最も劣等なる人間である」
 ハンチントン「人類の歴史における主要な文明は、世界の主要な宗教とかなり密接に結びついている。そして、民族性と言語が共通していても宗教が違う人びとはたがいに殺しあう」
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☆「緑と水と光」に包まれた、風光明媚な、閉鎖空間である島宇宙・日本列島。
 島宇宙という、閉鎖的空間の安全・安定・安心を保障する多神教神道は、国内外の八百万の神々を上下なく等しく祀った。
 各地の神社は、尽きる事なき多種多様な価値観で、戦いや争いや諍いを避け、恨みや憎しみや妬みを鎮め、柔軟に物事を見据えて善悪・正邪をはっきりと二分する事なく、なるべく遺恨を残さない様に曖昧に中道で治まる事を願って、天皇の神霊に祈り続けた。
 荒れ狂って災難をもたらす荒魂の自然神を鎮め、穏やかで恵みをもたらす和魂を持ったもとの自然神に立ち戻る様に祈った。 
 悪しき心や卑しい心や歪んだ心を持った心醜い日本人が、反省し感謝する穏やかに浄められた美しい心を持った日本人に立ち返る事を祈った。
 日本の信仰心とは、絶対神の前で跪き罪を告白し悔い改めて生まれ変わるのではなく、祖先神の前でうな垂れて自分のいたらなさを自覚し恥じ入り反省して前に進む事である。
 絶対神の「罪」基準は、自分の外に不寛容な絶対善を求める外向的である。
 祖先神の「恥」基準は、自分の内に曖昧な相対美を求める内向的である。
   ・   ・   ・   
 島国の日本文明は、利益の為に手を加えて自然を破壊せず、私欲の為に人を騙して奪い殺さず、全てのモノと「補完共生」を心がけて助け合いながら生きる事をめざしていた。
 逃げられない閉鎖された狭い自然環境ゆえに、自己犠牲と相互譲歩を美徳とし、相互補完を目的として共生と共有と共育を大事にした。
 ムラの和を乱す個の我が儘・我欲を穏やかに鎮めて浄め、わずかしかない資源を個人利益に為に独占する事なく公平に分け合った。
 神道は、独占しようとする物欲的卑しさを神に対する「罪」ではなく、人の和を乱す「恥」とした。
 地域の協調性を守る為に、「恥」を持って戒めとした。
 資源豊富な大陸とは違って全てにおいて不足している列島では、今ある物で「事足れり」と納得するしかなかったし、不足を嘆かず貧しさを満足する心の豊かさを養った。
 昔の日本人は、欧米人や中国人・朝鮮人と比べて生活は貧しかったが、心・精神は卑屈ではなかった。
   ・   ・   ・   
 信仰心篤き日本人は、山岳の高い峯を神々しく敬い、森と河川と海を愛おしんで共に生きていた。
 日本民族日本人は、自然の中で自然と共に生き、自然の中で自然に死んで行った。
 絶海の孤島に住む閉じ籠もった日本人は、心ゆたかになる「緑・水・光」の自然の静寂の中で、譲り合いながら穏やかに、穢れなき無垢な心をいとおしく育んできた。
 神道の人生観では、人や自然を「あるがまま」に受け入れ、頼って信じきり、人の怒りや憎しみや恨みを心からの和で水に流した。
 人智ではどうにもならない幾多の天災などの、立ち直りが不可能に近い絶望的苦難には、仕方がないと諦めて「忍」の一字で堪えた。
 明日の為に今この時を大事にし、ふて腐れて自暴自棄にならず、無力に落ち込んで萎縮せず、とにかく我慢して踏ん張り、明日のお天道様を信じて立ち上がって前に進む様に諭した。
 人に対しては、騙されても、裏切られても、命があれば何とかなると割り切り、「お人好し」にも自分にも悪い所があったと納得し、自己逃避として相手に責任を擦り付ける事はしなかった。
 決して恨み辛みを残さず、過ぎ去った事はくよくよ思い煩わず、綺麗さっぱりと忘れて前に踏み出した。
 思い煩わない様に、後ろを振り向いて考えず、目の前にある事のみに集中し、一心不乱にへとへとになるまで働き続けた。
 日本人は、逃げ出せない閉鎖空間に生活する為に、働ける事に感謝する、休む事を知らない仕事中毒である。
 働くとは、他人の為、地域の為、社会の為に身を粉にして尽くしきる事である。
 仕事とは、自分の為、家族の為に金を稼ぎ一家を養う事である。
 公的な働きと私的な仕事をこなしてこそ、人間は一人前の人と認められると信じていた。
 現代日本では、人との絆はもちろん、祖先と子孫と自分をつなぐ、公的な働きが軽視されている。
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 逃げ出せない島宇宙島国根性とは、和と忍と忘却であり、良くも悪くも物事を清濁に関係なく大らかに受け入れ、明日を信じ希望と夢と期待を持って生きる事であった。
 神道とは、民族のみの救世主を待望する奇跡の宗教ではない。
 その信仰とは、民族の救世主によって苦難から無条件に救済を願うものでもない。
 ただひたすら、死んだ祖先を神とし祀り、身近に生きているが如くかしずき賑やかに祭った。神となった祖先の思いを、子々孫々に伝える事を神聖な使命とした。
 生まれ持った原罪は存在しないがゆえに、絶対神の前でへりくだって罪を悔い改めるという、悔悟の信仰は存在しない。
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☆自然の脅威に対する「無力感」と「絶望感」そして依存する「安心感」
 天災の絶える事がない島国では、いくら神に祈ったとこで、自然災害が無くならないし減りもしなかった。
 ゆえに、普遍宗教の様な奇跡をもたらす神性を持った教祖はいないし、教祖が絶対神の啓示で記した教典や聖典や聖書の類もない。
 日常生活での穏やかな決まり事やゆるやかな約束事はあったが、信仰における絶対不可侵の教義や命を捨てても守るべき厳格な律法・戒律はなかった。
 祖先神の血を引く子孫である氏子と神の特性・職能を敬う崇敬者はいたが、絶対神への敬虔で盲信的信者やテロを行う狂信的信徒はいなかった。
 島国には、大陸で頻発した様な、流血を伴う不寛容な宗教弾圧や殲滅を伴った排他的な宗教戦争もなかった。
 神道は、戦闘的な世界宗教の常識を逸脱した、死と血を忌み嫌うひ弱な民族中心宗教である。
 大陸の大砂漠を旅する者が、飲み水を無くし、喉の渇きに苦しみながら絶対神に救いを求めて歩き続けたとする。幸運にも天候が変わって雨が降り、あるいは地形の変化でオアシスや川に辿り着いた時、死にかけていた人は単純に「絶対神の奇跡」「唯一神の救い・愛」として感動して信仰に目覚めた。
 大陸の信仰とは、不運な我が身のみの救済を求める個人信仰である。そこには、仲間や集団は関係ないし、祖先や子孫へのつながりも持たない。
 重要なのは、生きている自分と絶対神との個人的な契約関係であった。
 島の信仰には、そうした単調な自然条件がない為に、人智を越えた絶対神の奇跡や御技を当てにするところは薄い。
 よって、防備(城塞)都市的個人信仰ではなく無防備村的集団信仰となる。
 同じ様に、神道ユダヤ教は、水と油の様に全く異なる特性を持った宗教である。類似点が数多くあっても、正反対の宗教である事には変わりがない。
 砂漠・オアシスの民・ユダヤ民族と森・小川の民・日本民族とは、共通点の少ない異質な民族である。
 遊牧のユダヤ民族にとっての神の恩寵とは、こんこんと湧き出る泉と周辺の草である。
 農耕の日本民族にとっての神の恵みとは、せせらぎの小川とその流域の森林である。
 現代の日ユ同祖論は、個人益の為にユダヤ人国際資本に媚び諂うという、富の分け前を得たいという利己的なえげつない戯れごとに過ぎない。
 寛容で相対主義神道は、血と死を嫌う、おとぎ話的民族中心神話を愛していた。
 不寛容で絶対主義のユダヤ教は、絶対神との個人契約で、異教徒異民族を血と炎で根絶やしにする凄惨な英雄物語である「旧約聖書」を信仰した。
 自然を守る為に植林して森を育て水の清浄に努めたのは、民族中心宗教・神道のみである。その中心にあるのが、「神の裔」という万世一系男系天皇神話(最高神は、女性神)である。
 人は、自然の一部で有り、自然の恩恵で生かされているに過ぎない。
 大陸の城塞都市宗教は、鬱蒼とした森林を悪魔や魔女や盗賊の巣窟として嫌悪し、薄暗い自然環境を人の為に切り開き開放・破壊する事で誕生した。
   ・   ・   ・   
 自然災害の多発地帯では、計画を立て、目標を定めて、それに邁進しても予想した結果を得る事は限らない。
 単調ではない環境においては、状況の変化に合わせ、ひたむきで健気に働いていた。
 複雑な自然ゆえに、いつ災害に合うか分からない仲間として、犠牲的精神で触れ合った。
   ・   ・   ・  
 ユダヤ教キリスト教イスラム教などの大陸的普遍宗教での最高神は、全知全能の創造主であり「父」の様な畏怖すべき男性神である。
 「父」なる絶対神は、信仰を契約した者のみに奇跡や御技で救済し、その魂を永遠に不滅のものとして天国で保護した。
 信仰を持たない者には、怒りを持って滅ぼし、その魂を地獄に落としてけっして救済しなかった。
 絶対神は、厳格な神として、生前も、生きる今も、死後も、全ての時間と空間を支配していた。
 そして、生きている者を大事にし、死んだ者には関心を示さず、生まれていない者にも興味がなかった。
 狩猟牧畜社会では、逞しい男性が外に出て家族の為に食べる動物を捕獲するからである。そして、農業や酪農などの肉体的重労働は、男性の所有物である女性や教養のない下層階級や卑しい奴隷の天罰とされた。
 大陸では、汗水たらして働く事を苦役として最も嫌い、苦労は全て奴隷に押し付けた。
 泥に塗れて重労働する事は、絶対神から与えられた天罰であると信じられていた。
 神の国・天国に召された「正しい人」は、善人であるがゆえに苦労して働く事はなく、父なる神と共に食べきれないほどの御馳走に包まれて、平穏にしてすこやかに過ごすと信じられていた。
 大陸社会では、絶対神に愛された神聖な身分・階級・階層は、下層の貧困階級以上の祝福を受けていた。
 差別や格差は、社会秩序を維持する為に不可欠な要素であった。
 厳格な性差別的家父長制度から、女性は男性の所有物とされた。故に、女性の権利をことさらに言い立てるレディーファーストやジェンダーフリーは、男性優位のキリスト教世界で生まれた。
 人類史の常識として、権利の主張は、それがないところで発生する。
 信仰の対象である聖母マリアは、処女でありながら神の子イエス・キリストを生んだが、主神ではない。
 同様に、大陸の各神話でも女神は脇役か、男神の引き立て役に過ぎなかあった。
 ヨーロッパのギリシャローマ神話北欧神話でも、アジアの中国神話や朝鮮神話さえも、雄々しく活躍するのは男性神のみで、女性神は付け足しに過ぎない。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、死ぬのが怖い民族であり、死んでからも家族の側に寄り添っていたいと願う寂しがり屋の民族である。
 寿命が来たら肉体が朽ちて滅びるのは仕方がないと諦めるし、霊魂が再生・輪廻転生・生まれ変わるの為に死後の世界に戻るのも仕方がないと諦めたが、自分の念いは愛する家族の側に寄り添っていたいと切に願っていた。
 日本人の死後の世界とは、家族の側ではなく、はるか遠くにある神の国・天国・極楽・浄土ではなかった。
 日本人は、死ぬと、今いる世界から別の世界に「避る(さる)」だけだと安易に考えていた。
 生き残った遺族は、死にたくなかったのに死なねばならなかったという思いで荒れ狂っている死者の「荒御魂」を、家族の身近に引き留めておく為に落ち着かせるべく「忘れる」事なく供養した。
 現世への未練や生への妄念を浄化し、善悪・正邪を超越して、無我の境地に至った「和御魂(にぎみたま)」を、人並み外れた神威を持つ存在とみなし、家族を守る祖先神・氏神として家の中や地域の神社に祀った。
 家族は、最愛なる故人を身近に感じて安心していた。
 日本民族の死とは、故人の念いが、その場を「去る」のではなく、その場に「留まる」事であった。
 日本の神社とは、祖先神・氏神信仰であった。
 現代の一部の日本人は、御霊の神社崇拝を否定し、人神の神社拝礼を拒否している。
 中国人も、韓国人・朝鮮人も、戦前から祖先神・氏神信仰としての神社参拝に反対している。
 本居宣長「尋常なあらず何事によらず優れたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を神とはいう」
   ・   ・   ・   
 自然災害で生き残る為に重要なのは、逃げない、隠れない事であり、間違いや勘違いであっても自分で考えて動く事である。
 自然災害は刻一刻と休む事なく変化して、今おこなう対処・対応が良いと思っても次の瞬間ではとんでもない間違いかもしれないし、間違ったと思う事が正しかったりと、これが正しい唯一の方法という手立ては存在しない。
 自然災害における被害を完全には食い止められない以上、被害を最小限に止め、犠牲を少なくする事が重要である。
 自然災害の対処は、全てが後手に回る。
 後手の回る以上は、失敗を恐れず攻撃的に対処するしかない。
 重要なのは、自然災害は必ず又起きると覚悟して、前向きに考え失敗を教訓として次に生かす事である。
 日本民族が自然災害多発地帯の日本列島で生きて来られたのは、災害という現実から目を逸らさず、消極的にならず、事なかれ的に先送りしなかった事である。
 昔の前例主義は、現代の責任逃れの卑しい前例主義とは本質が全く異なる。
 自然災害では、「事なかれ」や「長いものには巻かれろ」は無意味どころか有害である。


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⛩39)─3─嫌(いや)なまれびと。〜No.91No.92No.93 *

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本における来訪者・マレビト崇拝は、弱者の生き残り戦略である。
   ・   ・   ・   
 世界から奇異に見られている、日本の個性なき同質性・同一性・画一性・単一性はマレビト崇拝から生まれた。
   ・   ・   ・   
 2019年5月2日・9日ゴールディンウィーク特大号 週刊新潮「変見自在  高山正之
 嫌なまれびと
 ……
 あちらの社会ではどうしても部族内の婚姻が多くなる。近親婚の弊害が出やすいから旅人がくれば新しい血を入れようとする。
 日本人が優れていることは世界が知っている。そんな旅人が新しい血を入れてくれる現金もくれる。家族にとってこれ以上の慶事はなかったはずだ。
 米政府がアラバマ州で黒人の梅毒患者を40年間泳がせて感染拡大を観察した。『タスキギーの人体実験』と言われ、クリントンが謝罪したが、そのデータに『一つの家庭の5人の兄弟を調べたら父親がすべて違った』というのがあった。
 妻は夫とは別に4人の男と子を生(な)した。流行り病があっても遺伝子が別々なら誰かは生き残る。
 様々なDNAを仕込めば種族を滅亡から救われると生存本能が教えている。
 不倫は正しい。……。
 日本にも旅人を『まれびと』としてもてなす風習がある。妻を提供したというような説話もある。
 そういうもてなしは本能に加え、日本人の優しさと好奇心によるものと言われる。遠い都で起きた政変も旅人が運んでくる。赤穂浪士討ち入りも瞬く間に広まったと史書は伝えている。
 まれびとが異人ならもっと本能も好奇心も疼いたことだろう。
 ザビエルが聞きかじりの地動説を語ると日本人はイエスなどそっちのけで宇宙の話を知りたがった。
 彼は辟易し『学者をよこしてくれ』とマカオに書簡を出している。
 『ハリス伝』には下田の村おさがうち揃って『白人女の陰裂は横に裂けているのか』とハリスに尋ねる話が載っている。
 異国からのまれびとの中には隣の朝鮮の民も含まれていた。
 彼らは室町時代にやってきた。貧相な品を朝貢し紙漉(かみす)きや水車の仕組みを教えろと言ってきた。日本人の好奇心をくすぐる相手ではなかったが親切に教えてやった。
 江戸時代には徳川将軍の代替わりの祝いを口実に物見遊山にやってきた。
 供応に出した茶器や置物、果ては布団まで盗んでいったが、日本側はきちんとまれびとと扱いを続けた。
 折口信夫は、日本人はまれびとを『現世に幸福をもたらすため来臨した常世神』と見ていたという。好奇心とDNAの次元で語れない信仰と見るべきだと。
 だからこそ、さあ五輪だ、みんな英語を話そう、もてなそうと国民が一斉に走り出す現象も理解できる。
 ただ折口は生殖とは無関係のLGBT人だった。養子にした青年との友情は釈迢空(しゃくちょうくう)の名で多く詠っている。生殖本能から離れ過ぎた観念に見えなくもない。
 実際、日本人のまれびと観は簡単にうつろう。
 朝鮮使節も最後は対馬での易地聘札とし、もうこっちに来るなと追い払っている。
 今、また隣が喧(やかま)しい。もてなしてもいいけれど前例に倣(なら)って選択も考えたい」
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 閉鎖空間での近親婚は、遺伝子の異常をきたし、種を絶滅させる危険性があった。
 種の絶滅を防ぐためには、外来の異なった遺伝子を取り入れるしかなかった。
 別の遺伝子を取り入れる為に行われたのが、旅する遺伝子つまりマレビトである。
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 日本民族日本人は、政争や戦争などの競争に負けて日本列島へ朝鮮半島や中国大陸から逃げて来た敗北者で、閉鎖された列島で生き残る為には種を異にする新たな遺伝子を取り入れる必要があったが、・負け犬・負け組な為に半島や大陸を侵略して若い男女を強奪する勇気がなかった為に、新たに逃げてくる人々を我慢強く待ち続けた。
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 ローマ帝国がまだ植民地都市であった時代のローマ人は、人口を増やし都市を発展する為に周辺の都市国家や諸部族を攻撃して若く美しい女性を奪ってきて、強姦して子どもを生ませた。
 そうした人口増加と国家発展は、地球上で行われていた古代の常識であった。
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⛩39)─4─移民時代。外国人に対するマレビト思想の弊害。〜No.94No.95No.96 * ⑥

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本人の中には、国歌「君が代」や国旗「日の丸」は嫌いだが、外国の国歌や国旗が好きな者がいる。
 一部の学校や幼稚園・保育園で、日本を憎むように子供達が教えられている。
 外国人移民・難民が増えれば、そうした人間が日本に溢れてくる。
 いつの日か、「君が代」は国歌でなくなり、「日の丸」も国旗でなくなる。
 それが、グローバルであり、多様性である。
 世界を覆い尽くそうとしている時代の潮流によって、ローカルな日本民族日本人の消滅の時がやって来る。
 日本国内に広がり高まる怨嗟の声で、国歌「君が代」と国旗「日の丸」が消える。
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 某元首相「日本は日本人だけの日本ではない」
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 日本国内で、各国の大使館や領事館以外で、学校や地域で「日の丸」以外の他国の国旗が乱立し、「君が代」以外の他国の国歌が高らかに歌われる。
 そんな時代が、近い将来、日本に訪れようとしている。
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 2019年2月号 WiLL「マッカーサーとゴーンはそっくり 高山正之/大高未貴
 ……
 マレビト思想
 高山 でも、外国人というのはいかがなものかと思った。彼らは別に偉くもなんともない。日本人は妙に礼賛したがる。
 それも結構昔からある。日清戦争勃発前夜、日本海軍はフランスの造船技師者、ルイ=エミール・ベルタンに海防艦の建艦を頼んだ。中国は8,000トン級の戦艦定遠(ていえん)・鎮遠を持っている。
 日本はその半分の海防艦をつくるのがやっとで明治天皇が宮中歳費を出し、官僚は給料の一割を差し出し、民間もカネを出した。それでベルタンにすべてを託した。
 ところが、彼は4,000トン級の海防艦四隻を建造し、それに主砲として30センチ砲を一基載せるという設計図を引いた。言ってみれば、子供の三輪車にバズーカ砲を載せるようなもの。でかすぎた。
 大高 バランスが取れない。
 高山 そう。実際に撃つと15分間、船が動揺して、何もできない。しかも、四隻のうち二隻はそのバカでかい砲を後ろ向きにつけるという。
 大高 どうやって撃てばいいんですかね。
 高山 さすがに明治政府も『これはおかしい』と彼との契約を打ち切ったけれど、すでに三隻は着工していた。一隻をキャンセルした。撃てない主砲。しかも一隻はその主砲が後ろ向きで、日本はこれに国の運命を託することになった。ベルタンは石もて追われてもおかしくなかったけれど日本人は心優しい。三隻には日本三景にちなみ『松島』『厳島』『橋立』と名づけた。表向きは三隻しか発注していないように装い、ベルタンには陛下からの勲章も出して、ベルタンの無能をたたえている。
 実際に日本は中国と雌雄(しゆう)を決する黄海での北洋艦隊との戦いのとき、こんな中途半端な船が旗艦にならざるを得なかった。
 もしこれで日本が中国に負けていたら、バカ技師のせいとしか言いようがない。
 大高 どうして、そんな無能な技師に頼んだのでしょうか。
 高山 折口信夫の思想に『マレビト(稀人・客人)』というのがある。旅人が来たら、大事にもてなすことが日本の精神的基調にはあると。つまり、今の言葉で言えば『ホスピタリティ(おもてなし)』だ。
 日本人は特に白人に対してホスピタリティが強く出る。妙なホスピタリティのために、ゴーンみたいな人間の性格を見抜けなくされてしまう。その実態は凡庸な経営者だよ。それなのに、日本人はチヤホヤ持ち上げてしまった。
 大高 リストラせず、V字回復していたら、その評価に見合うんでしょうけど。
 高山 マッカーサーを今でも信奉するのと同じような変な意識が、ゴーンに対しても働いているように見えるな。
 大高 なかなか西洋コンプレックスから抜けきれないですね。
 高山 ……日本人は外国人に対する『マレビト』思想をいい加減やめた方がいい。
 大高 日本の美徳がアダになり、つい甘やかして、そこから付け込まれてしまう。
 高山 ベルダンのときもそうだけど無能なら無能と事実を言えばいい。
 ……
 高山 そういう意味で『マレビト』によって、構造改革ができたのは確かだ。ソニーハワード・ストリンガー)やオリンパスマイケル・ウッドフォード)にしても、『マレビト』社長は全部失敗に終わった。今は武田薬品が外人社長のせいで潰されようとしている。そろそろ目を覚ますときだよ。
 大高 でも、安倍政権は入管法を改正して、労働移民をどんどん増やそうとしています。すでに九州の学校では9割が中国人になっているとか。大量の中国人が日本の学校に入る可能性があります。
 国歌斉唱だって『君が代』のあとに『進め!進め!』など中国の国歌『義勇軍行進曲』が流されて悪夢です。 
 高山 それはまずいですね。
 大高 日本は真の自国の歴史を子供たちに教えていません。中韓プロパガンダをインプットされた生徒たちが日本に大挙して押し寄せてきたときに、果たして、どこまで太刀打ちできるのか・・・。
 こんな惨状にもかかわず、将来、霞ヶ関に入るような有名私立学校では、極左集団がつくった『学び舎』の歴史教科書が採用されています。
 高山 外国人を労働者として入れるとして、日本側も選ぶ権利がある。中国・韓国は、すでに多く流入しているから、打ち止めにすべきだ。タイやインドネシアベトナム、台湾などから人を入れればいい。そういう選択ができるようにすべきだね。
 大高 韓国では、2018年、3万人以上が国籍を捨てているとか。日本に押し寄せる可能性があります。
 高山 それこそ入管がすべてき仕事だよ。今でも健康保険を使いまわしているだろう。留学生もその中に含まれるそうだ。アメリカは留学生が働くことを禁止している。
 ハッキリとした線引きをしなきゃおかしいんだけど、まだまったく決まっていない。 
 大高 細目は年末に決めるとか。
 高山 安倍首相のことだから、何かウラがあるかもしれない。日韓合意のときも、最初は非難囂々(ひなんごうごう)だったけど、結果的には良かった。韓国と今度こそ縁を切る口実ができた。それを考えると今回も結果的には不良外国人を締め出す厳しい入管ルールが決まるんじゃないかと期待する向きもある。日本に来る者はみだりに家族を呼べないし、健保も日本とは別にするとか。通名を認めないとか。
 あの法案に反対する議員に在日系が多いのは、そのあたりを恐れてのことだはないのか。
 大高 移民時代では必要なことです」
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 マレビトには、いいマレビトもいれば、悪いマレビトもいる。
 いいマレビトは、南の海から渡ってくる事が多い。
 悪いマレビトは、西の半島や大陸から海を超えてくる事が多かった。
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 日本民族日本人が待ち望んだマレビトとは、西方浄土にある釈迦の国・天竺から南の海を渡ってくる尊き偉大なマレビトであって、儒教の国・中国や朝鮮ではなかった。
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 マレビトとは、何とも言えない有難い神や仏であって、屁理屈を並べる賢い儒学者や道学者ではない。
 日本民族日本人にとって中国人も朝鮮人は、マレビトではなく、役に立つ帰化人か害悪をなす渡来人であった。
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 日本に馴染むのは日本民族日本人のルーツから言えば、南方海洋民的な台湾人・フィリピン人・ベトナム人など東南アジアの人々であって、西方大陸民的な中国人や朝鮮人ではない。
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 日本は、古代からアジアの安全な避難地であった。
 日本天皇は、人道的見地から、人道貢献として、中国や朝鮮か逃げてきた大量の難民・逃亡者・亡命者を温かく受け入れ、差別・迫害せず、分け隔てなく、土地を与え生計を立てられるように配慮してきた。
 だが、朝鮮系渡来人達は度々反天皇反日の反乱を起こしていた。
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 南からやって来た中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、異教徒非白人の教養なき野蛮人・日本人を奴隷として売り飛ばして大金を稼いでいた。
 中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人の日本人奴隷交易に協力したのが、利に聡い中国人である。
 白人からすれば、日本人はしょせん下等人種・劣等民族に過ぎない。
 それ故に、歴史的証拠があっても、日本人奴隷交易は人道的罪とされていない。
 では何故、アフリカ人奴隷交易が罪として認められたのか。
 それは、アフリカ人がキリスト教に改宗し、西洋語を公用語とし、西洋価値観を受け入れ、西洋人の風に生活しているからである。
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 日本人の深層には、無意識のうちに長年の儒教教育で中国に対する憧憬が作られている。
 儒教洗脳教育に毒された教養ある日本人は、中国人になる為に日本人である事を否定し、日本を中国人に進呈し、日本を中国の属国にしようとしてきた。
 つまり、日本の朝鮮化である。
 その為の最悪な障害が、日本天皇・皇室、天皇制度であった。
 古代から、日本と中国・朝鮮は対立関係にあった。
 儒教で洗脳された日本人が、日本を中国の支配下に置くべ、中国・朝鮮との友好関係を維持しようとした。
 日清戦争は、日中並立派と中国主日本従派との対立として勃発した。
 日本民族日本人が、中国に対して恐れたのは、中国人による日本侵略・占領と日本民族の根絶やしである。
 中国の意図は、中国の古典書や伝奇小説を熟読し深読みすれば子供でも分かる事である。
 現代中国。中国共産党の一帯一路構想やAIIBは領土拡大の古典的侵略政策そのものである。
 中国共産党は、反日敵日であった。
 日本は、古代から明治に至るまで、天皇の名において中国・朝鮮との国交を断絶し、公的交流を遮断し、正式には人と人との交流を認めてはいなかった。
 中国共産党・中国軍は、日本を中国人の土地にするべく密かに大量の中国人を移民として送り込んでいる。
 中国共産党の本当の狙いは、日本に対する復讐・報復であり、日本を徹底的に叩き潰し永久的に中国に逆らえないように大改造する事である。
 現代日本の高学歴出身知的エリートは、中国共産党の隠れた意図の基で増産されている。



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