🎑39)─2・B─モンスターペアレントは江戸時代に学べ。無礼な子は学ぶ資格ナシ。〜No.97 

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 2024年6月16日 MicrosoftStartニュース ダイヤモンド・オンライン「モンスターペアレントは江戸時代に学べ!「親の過干渉禁止」「無礼な子は学ぶ資格ナシ」寺子屋の教えが現代人に必要なワケ
 寺子屋の様子を描いた『文学万代の宝』には、子どもたちの生き生きとした姿がある 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 学校の教育方針や、子ども同士のトラブルに過度に口出しする「モンスターペアレント」が問題視されて久しい。教員に反抗的な態度を取ったり、授業を抜け出して徘徊したりする生徒の問題も同様だ。だが「江戸時代の寺子屋」の指導内容を振り返ってみると、そうした振る舞いを良しとしない、厳しくも親子のためになる教えが含まれていた。これらを知ると、現代の教育をより良くするヒントが得られるはずだ。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)
 全国に6万〜12万カ所も!?
 江戸時代の教育を支えた「寺子屋
 江戸時代末期から明治初期にかけて、日本各地に「手習所」という民間の学校があった。いわゆる「寺子屋」である。寺子屋が普及したことによって日本人の識字率が高まり、幕末に来日した外国人が教育水準に驚いたという記録も残る。
 この寺子屋の教育を「昔の話でしょ」と侮ってはいけない。寺子屋の成り立ちや方針を知れば、現代の教育をより良くするヒントが得られるはずだ。
 寺子屋は、そもそも寺院が庶民の子どもを預かって教育したことに由来する。寺には「○○山」といった「山号」(さんごう)が付いているため、入学を「登山」、退学を「下山」といった。全ての寺子屋が実際の山中にあったわけではないが、身分に関わりなく誰もが「登山」できた。
 『稚六芸の内 書数』歌川国貞画。(右)算盤、(左)往来を学ぶ子ども 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 爆発的に増えたのは19世紀だった。元号でいうと文化・文政・天保嘉永にあたる。その背景には、この時代になると文書による契約が社会の基本原則として定着し、庶民といえども読み書きや算用を習得しなければ不利益をこうむるため、教育熱が高まりを見せたことがあった(※)。
 ※歴史学者の高橋敏著『江戸の教育力』(ちくま新書)参照。
 どれだけの寺子屋があったか、正確な数は不明だ。しかし、1883(明治16)年に文部省がまとめた調査報告『日本教育史資料』(『我が国庶民教育と矢吹学舎』に所収/国立国会図書館)は、約1万5000カ所と記している。都道府県別では長野1341カ所、山口1307カ所、岡山1033カ所がベスト3で、東京・愛知・大阪を上回っている。
 ただし、この調査には漏れがあり、その数倍はあっただろうと示唆する研究者は少なくない。
 その根拠として前出の高橋敏は、1834(天保5)年の時点で全国の各村に1〜2カ所の寺子屋が存在したはずであり、かつ同時期の村数が延べ6万3562村だったことを指摘している。つまり、日本全国における寺子屋の総数は、実際には6万3000弱〜12万台後半だった可能性がある。
 寺子屋で学ぶ子どもたちの年齢は、おおむね6〜15歳。現在の小学生と中学生に相当する。小学校は全国に国公立・私立含め約2万2000校、中学校は同約1万1000校(首都圏版お受験インデックスより)だから、寺子屋の方がはるかに多かったといえよう。
 では、寺子屋では具体的に何を教えていたのか。授業料はいくらだったのか。現代人が寺子屋から学べることとは――。次ページ以降で、さらに詳しく解説しよう。
 僧侶に医師・役人・武士まで教壇に!
 寺子屋「充実の教師陣」
 寺子屋の教師は「師匠」と呼ばれた。そもそもの興りが寺院だったことから当初の師匠は僧侶だったが、19世紀に入ると医師、町や村の役人、浪人(仕える主君がいない武士)など、さまざまだった。
 江戸周辺に限っていえば、女性教師もいた。1873(明治6)年に東京府が発行した『開学明細書』によると、手習所の経営者1000人のうち85人が女性である(※)。
 ※歴史学者の大石学著『江戸の教育力』(東京学芸大学出版会)参照。
 夫に先立たれた女性が開業(1810/文化10年の随筆『飛鳥川』より)するケースや、稀に江戸城大奥の祐筆(ゆうひつ/文書や記録を執筆する役職)だった女性が退職後、上野国桐生(群馬県桐生市)で寺子屋を経営した例もある。
 授業は全員が同じ講義を聞く一斉方式ではなく、クラス分けもなかった。6〜15歳の生徒が同じ部屋に集い、各々のレベルに合わせて個別指導を受けた。
 初級の幼い生徒が学ぶのは読み書き、つまり基礎だ。教材としたのは人名・地名などで、人名の教科書は日本人の名字の起源が「源平藤橘」(げんぺいとうきつ)に由来することから、『源平』といわれた。
 地名のテキストは庶民の生活の場である村や郡の名前が記された『村名』(むらな)、『郡名』(こおりな)、廃藩置県が行われる前の旧国名(66国)などを網羅した『国尽』(くにづくし)だった。
 中級の教材には『五人組条目』(ごにんぐみじょうもく)を使った。これは役所から出された御触れ(法令)をまとめたもので、社会のルールを学んだ。
 そして上級になると、商業に必要な専門用語・知識が書かれた『商売往来』(往来物は教科書を指す書物)へと進んだ。農村では、農具・肥料・検地・年貢の役割を記した『百姓往来』も使用した。これらは、生計を立てていくうえで必須の実践的カリキュラムである。
 モンスターペアレントは江戸時代に学べ!「親の過干渉禁止」「無礼な子は学ぶ資格ナシ」寺子屋の教えが現代人に必要なワケ
 © ダイヤモンド・オンライン
 『商売往来』(上)と『百姓往来』(下)(2点とも国立国会図書館所蔵)
 © ダイヤモンド・オンライン
「書くこと」を通じて
 考える力を学んだ
 当時の筆記用具は筆と墨だ。習字は必修だった。
 実際、正月の授業は「書き初め」から始まった。前年の年末に師匠が見本を書いて渡し、それぞれが家で復習し、年初めの授業で書いて見せるのである。寺子屋を描いた錦絵に習字の場面が多いのは、そのためである。
 寺子屋の学習は「一貫して『書くこと』を土台に進められた」と、高橋敏はいう。書くことによって読む、さらに考える力も身についたのである。
 義務教育ではないため、途中で辞める子はいただろう。また、生徒によって成長に差もあったと思われる。それでも入学から6年も学べば、初級から上級まで進むことができたらしい。
 授業料は年数回支払い
 1回につき3000〜6000円
 寺子屋に子どもを通わせるには費用も必要だった。入学金と授業料に分かれ、入学金は銭100文。授業料を支払うタイミングは正月・3月・8月・12月の年4回。それぞれ銭100〜200文を納めたとの話が、高橋敏の著書にある。
 江戸時代の貨幣価値は時期によって異なるが、ここでは1文=30円としよう。100文で3000円、20文で6000円といったところ。授業料は月ごとの支払いや年間の一括払いではなく、数カ月おきに支払うのが多くの寺子屋の慣例だったようだ。
 この他、入学時に酒、授業料と一緒に餅などの付け届けもあった。授業料に「定価」はなく、師匠と親との人間関係によって変わり、足りなければ酒や食材など「現物」で支払ったのである。
 学習道具は机・硯(すずり)・墨と水入れ、さらに筆・雑巾・半紙など。これらは親が準備した。江戸時代の庶民には痛い出費だったろうが、母親が教育熱心なのは昔から変わらなかったと思われ、生活が苦しくても捻出した。
 なお、現在の学校と違い、必ず4月に入学しなければならないわけでもなかった。時期は自由である。6歳の6月6日に入るとよく伸びるといわれ、この日を選ぶ親が多かったという。
 また、農村の寺子屋は夏〜秋の繁忙・収穫期は休業し、子どもたちは農作業を手伝った。
 一方、前述の通り天保期には推定6〜12万の寺子屋があったため、子どもを集めるのは競争だった。特に江戸は熾烈で、1844(天保15)年に刊行された「私塾・寺子屋番付」なるランキングが現存する(国立歴史民俗博物館所蔵)。
 「優劣は論じない。ただ、父母の一助とする」との注釈付きで、つまり順位の根拠は不明だが、おそらく生徒数の多い少ないなどで人気を割り出したのではなかろうか。
 現代人が寺子屋から
 学ぶべきこととは?
 菊池貫一郎(4代・歌川広重)作画の『江戸府内絵本風俗往来』は寺子屋について、「修身の端緒を修めさせる」と記している。「道徳の基礎を学ばせる」という意味である。
 『江戸府内絵本風俗往来』の寺子屋の場面。正月の様子を描いたもので、書き初めを貼り出している 国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 寺子屋は、まず礼儀を教える場だった。師匠たちは論語にある「余力学文」―道徳を重んじ余力で学問を学ぶ―をモットーとし、「礼儀なき子は学ぶ資格なし」が鉄則だった。
 着座にはじまり、挨拶・礼・整理整頓・掃除などは、事のほか厳しかったという。親も寺子屋にそれらを求めた。 
 一方、まだ10代前後の子どもの集団ゆえ、喧嘩は日常茶飯事だった。だが、子ども同士のトラブルは師匠が仲裁し、叱るもので、親は干渉しないのがルールだった。寺子屋は親から離れ、集団生活を学ぶ場でもあったのだ。
 こうして見ると、昭和までの学校は寺子屋の信条やルールを踏襲していたことに気づく。だが昨今は、学校の教育方針や子ども同士のトラブルに干渉する「モンスターペアレント」が増え、対応に苦慮している教師も存在する。喧嘩の範疇を超えた、陰湿ないじめの問題も根強く残る。
 だからこそ、現代人が寺子屋から学べることは多いはずだ。親と学校が「適切な距離感を保つ」ことや、「礼儀なき子は学ぶ資格なし」の精神を、現代人は今一度思い出すべきだろう。
●参考文献
 『江戸の教育力』高橋敏/ちくま新書
 『江戸の教育力』大石学/東京学芸大学出版会
 『新しい江戸時代が見えてくる』大石学/吉川弘文館
 『我が国庶民教育と矢吹学舎』妹尾尋常高等小学校/国立国会図書館
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