🏞65)─3─江戸時代の日本は欧州諸国以上の経済大国だった。本当に強かった日本。~No.274No.275 

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 江戸経済は、幕府や諸大名の支配者経済ではなく豪商らによる庶民の被支配者経済であった。
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 日本は、輝かしいグローバルでもないし豊かな中央・都市でもなく、うらぶれたローカルであり貧しい地方・田舎であった。
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 江戸時代の日本の庶民は貧しかったが、同時代の、欧州の民衆の貧しさより幾分かは良かった。
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 徳川幕府は、鎖国令で人と人の直接交流を避け、物と金の間接交流として経済と文化を宗教・政治・軍事と切り離していた。
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 日本は、世界の7大帝国の一つであった。
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 2023年6月10日 イザ ZAKZAK「本当に強かった日本
 江戸時代、実は欧州諸国以上の「経済大国」だった GDPは日本の154億ドルに対し英国107億ドル、オランダ40億ドル…米国は5億ドル
 日本史や世界史を見ても、日本が世界でどのような位置を占めていたかということは、なかなか出てこない。大航海時代、日本の戦国時代には、西洋と日本との交易が盛んになる。
 英国の歴史学者、チャールズ・マクファーレン(1799―1858年)の著書『日本1852』によると、「年間300トンにもなる金、銀、銅がポルトガル人に持ち出されている。あふれる金銀でマカオの町は、ソロモン王時代のエルサレムの様相」というほどの繁栄を見せた。
 つまり、マカオの繁栄は、日本と中国の間の貿易によりマカオにもたらされた日本の金銀によっていたのである。戦国から江戸初期にかけての日本は、中国の絹織物などを豊富な金銀で輸入しており、ポルトガルなどの商人は、明と日本の貿易の仲介をすることで巨大な富を築いていた。
 同書によると、オランダ東インド会社バタヴィア総督の1744年の資料に「日本からの金銀の持ち出しは年間84万英ポンド(83万両)にも上り、1680年に金の持ち出しが禁止されるまでに数千万英ポンドに相当する金が持ち出されている。
 ポルトガル人は、1年で58万英ポンドに相当する銀を持ち出していた」と記されている。高品質の銅のインゴットは、オランダ商人の主要な購入品目の一つとなっており、銅の輸出は1800年以降まで続いている。日本からの金銀の流出は、元禄から徳川吉宗の時代にかけて、中国輸入品目の多くが国産化されることにより減少する。
OECD経済協力開発機構)の「The World Economy Historical Statistics」というリポートでは、戦国時代や江戸時代の世界各国のGDP(国内総生産)が推計されている。
 1701年というと、忠臣蔵の「松の廊下の刃傷」が起こった年で、元禄の繁栄の最中であるが、この1700年の日本と欧米各国のGDPを比較すると、日本は154億ドル、英国は107億ドル、オランダは40億ドル、スペインは75億ドル、ポルトガルは16億ドル、移民まもない米国は5億ドルとなっている。
 つまり、この頃の欧米各国の経済規模は、元禄日本より小さかったわけである。この時に日本よりGDPが大きかったのは、康熙・雍正帝時代の強い中国、アウランジィーブ皇帝の強国インド、ベルサイユを建設した絶頂期のフランスだけである。
 江戸日本の経済力は、吉宗の頃までは、欧州諸国よりも大きかった。江戸幕府前半時代は、武力、経済力ともに欧州諸国を上回っていたわけで、これが平穏な国際関係の基礎であったといえよう。
 幕末も近づく1820年には、日本は207億ドル、英国は362億ドル、オランダは43億ドル、スペインは123億ドル、ポルトガルは30億ドル、独立後30年の米国は125億ドルと推定されている。
 欧州では、1800年頃から産業革命が各国に浸透し始め、英国、ドイツなどは、急速に経済成長し、日本のGDPを追い越すようになる。
 しかし、1820年の文政江戸文化が爛熟(らんじゅく)する徳川家斉の治世の頃でも、日本の経済力は欧州各国に比較し見劣りするものではなかった。黒船30年前には、米国経済より日本経済の方が大きかったのである。
 英国経済の原動力だった英国東インド会社は、単なる貿易会社ではなく国王から交戦権を特許され、軍隊を持つ会社であった。1698年にコルカタ周辺3村の徴税権を買い取り拠点をつくると、その軍事力でベンガル24郡の徴税権を戦い取る。
 ムガール帝国末期の皇帝は末期の室町将軍家のようで、インドは戦国時代のごとく乱れ、英国東インド会社戦国大名のようにインドを統一していく。1858年、ムガール最後の皇帝の軍を破り廃位させると、英国王は東インド会社から統治権を取り上げて直接統治する。英領インドは150年かけて完成された民間会社の作品なのである。
■内藤克彦(ないとう・かつひこ) 歴史探求家。1953年、東京都生まれ。東京大学大学院工学部物理工学専門課程修了。環境省地球総合環境政策局環境影響審査室長、水・大気環境局自動車環境対策課長、東京都港区副区長などを経て、京都大学大学院経済学研究科特任教授。個人的に歴史研究を深めている。著書に『展望次世代自動車』(化学工業日報社)、『五感で楽しむまちづくり』(学陽書房)など多数。
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 2023年6月8日 イザ ZAKZAK「本当に強かった日本
 識字率は欧州以上、世界一の水準だった江戸時代の庶民教育 男女や階層問わず勉強する子供たちに来日外国人が驚き
 江戸時代の教育というと、寛政9(1797)年に設置された幕府直轄の「昌平坂学問所」をはじめ、幕末には全国で約250の藩校があった。明治維新時に版籍奉還した大名が約270であったので、ほとんどすべての藩に藩校があったということになる。このほかに私塾もある。
 幕府が教育熱心になるのは、将軍、徳川綱吉の頃からである。綱吉は、自ら幕臣・大名たちに論語を講ずるなど学問を重視し、それまでの戦国の殺伐とした武断的な武家社会の体質を文治主義的な体質に変えたのである。
 江戸後期の文化14(1817)年から、昌平坂学問所では、幕臣子弟が一定の年齢になると素読吟味(学力試験)が行われた。これは武家の教育であるが、庶民の教育はどうであったろうか。幕末日本を訪れた多くの欧米人は、江戸日本の高い教育水準について記録を残している。
 英国の初代駐日公使、ラザフォード・オールコックの著書『大君の都』には、「日本では教育はおそらく、ヨーロッパの大半の国々が自慢できる以上に、よくいきわたっている」とある。
 英外交官の秘書、ローレンス・オリファントの著書『エルギン卿遣日使節録』には、「子供たちが男女を問わず、またすべての階層を通じて必ず初等学校に送られ、そこで読み書きを学び、また自国の歴史に関するいくらかの知識を与えられる」と、当時の子どもたちがみな勉強しているのに驚いたと記されている。
 さらに、ロシア海軍軍人、ヴァシーリー・ゴロウニン著『日本幽囚記』には、「日本の国民教育については、全体として一国民を他国民と比較すれば、日本人は天下を通じて最も教育の進んだ国民である。日本には読み書き出来ない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もいない」とある。
 英国の歴史学者、チャールズ・マクファーレンの著書『日本1852』には、「世界で最も教育が行き届き、どんな貧民でも読むことはできる」とある。時代劇に登場する瓦版(かわらばん)も庶民の識字率が高いからこそ成り立つ。
 ちなみに、幕末には全国に約1万5000の寺子屋があったと言われている。寺子屋といっても、例えば、京都の自景堂は600人の生徒を抱える大規模なものであった。現在、小学校が約2万校あるが、当時人口が3000万人程度であったことを考えると、今の小学校並みの存在感であろう。江戸日本の教育は来日外国人を驚かすのに十分の水準であったといえる。
 江戸日本で教育が行き渡っていたことは、出版物の多いことにも表れている。江戸では天保期には800軒の貸本屋が組合をつくるほど読書人口が多かった。戦国時代の宣教師の報告や、前出の『日本1852』にも見られるように、日本は欧米以外では珍しく女性の地位が高い国で、これに対応して女性の識字率も高い。
 江戸時代は、商家、農家の習い事が盛んであった。現在の「各種お稽古ごと」の原型は江戸時代にある。特に女性の場合、読み書きはもちろん、歌舞音曲の素養があることが、良い奉公先に採用される条件であり、良い奉公先に勤務して行儀作法を習うと、良いところに嫁入りできる可能性が広がるのである。
 英社会学者、ロナルド・ドーア著『Education in Tokugawa Japan』では、江戸など大都市庶民の識字率を70―80%と推定しているが、欧州については、良い文献がない。
 ドイツの歴史家、ロルフ・エンゲルジングによると、1800年頃の欧州都市の男性識字率は50%程度という。この頃から欧米中心都市で識字率の急速な上昇があったようで、識字率の都市間格差が大きい。
 例えば、ロシア諸都市の識字率は低い(=Schooling, literacy and numeracy in 19th century Europe)。前出のゴロウニンから見れば日本は驚異的であったであろう。
■内藤克彦(ないとう・かつひこ) 歴史探求家。1953年、東京都生まれ。東京大学大学院工学部物理工学専門課程修了。環境省地球総合環境政策局環境影響審査室長、水・大気環境局自動車環境対策課長、東京都港区副区長などを経て、京都大学大学院経済学研究科特任教授。個人的に歴史研究を深めている。著書に『展望次世代自動車』(化学工業日報社)、『五感で楽しむまちづくり』(学陽書房)など多数。
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