🌏36)─2─明治時代、最高学府の頭脳に取り憑き日本哲学を洗脳したマルクス主義。~No.107 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 マルクス主義には穏健な面と過激な面の二面性があり、日本は明治後期から殺人鬼的人民暴力革命を正義とする悪しきマルクス主義共産主義)に汚染され始めた。
 1847(弘化4)年 マルクスエンゲルスは、プロレタリア革命を広める為に共産主義者同盟の綱領を起草し、「共産党宣言」を行った。
 明治43(1910)年 大逆事件
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 日本は、数万年前の旧石器時代縄文時代から原始的マルクス主義、数千年前の弥生時代古墳時代から天皇マルクス主義で動いていた。
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 戦前も戦後も日本を動かしているのは、超エリート層と言われる超難関校出の高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達である。
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 明治後期・大正期・昭和前期の政治、外交、経済、軍事、報道を動かしていたのは、超難関校出の帝国大学・陸軍大学・海軍大学などを高得点で卒業した政治エリート(革新官僚)、軍人エリート(幕僚軍人)、進歩インテリ(西洋礼讃文化人)であった。
 日本の戦争を計画し実行したのは、マルクス主義エリートであった。
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 日本人無政府主義者テロリストは、明治天皇裕仁皇太子(後の昭和天皇)を暗殺する為に付け狙っていた。
 日本人共産主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺するべく付け狙っていた。
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 戦前の日本は、天皇に対する不敬罪と国家への治安維持法共産主義者無政府主義者不当逮捕し、思想弾圧と宗教弾圧をおこなった。
 ソ連コミンテルン・国際的共産主義勢力は、日本人共産主義者に32年テーゼを送りつけた。
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 2024年6月11日7:03 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「日本」という国はどこへいくのか…明治時代、この国の頭脳が取り憑かれた「世界的名著」

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 明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。
 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。

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 【画像】日本でもっとも有名な哲学者がたどり着いた「圧巻の視点」
 マルクス主義の登場
 日本の哲学の歴史のなかでは、すでに見たように、西田幾多郎や、西田のあと京大の哲学講座を引きついだ田辺元、さらに彼らに学んだ三木清西谷啓治らが大きな役割を演じた。彼らはしばしば京都学派ということばで呼ばれる。その思想上の一つの特色として、彼らの多くが「無」について語ったことが挙げられる。西田はあらゆる存在の根底に「絶対無」を考えたし、田辺も「絶対無」や「無即愛」について語っている。しかしそれは、彼らが現実に目を向けなかったということではまったくない。京都学派の特徴の一つとして、現実の社会や国家、歴史への関心を挙げることができる。
 その点で大きな役割を果たしたのは、三木清や戸坂潤ら、西田や田辺から教えを受けた若い研究者たちであった。彼らは、哲学は実践を離れた単なる観想であってはならず、生活に根ざし、実践に結びついたものでなければならないと考え、マルクス主義の思想に共感を示していった。そして観念的な思索に傾きがちな西田や田辺の哲学を批判した。それを承けて彼らもまた現実の社会のなかにあるさまざまな問題について論じるようになっていった。西田や田辺、そして彼らの弟子たちが、そうした関心に基づいて、社会や国家、歴史について何を、またどのように論じたのかを本講で見てみたい。
 一九一七年のロシア革命、そして一九二二年のソ連邦の成立は世界歴史のなかで大きな意味をもつ出来事であったが、それと並行してマルクス主義の思想もまた多くの人々の注目を集めた。日本でも『貧乏物語』(一九一七年)などを通して社会問題に深い関心を寄せていた河上肇が次第にマルクス主義に接近し、個人雑誌『社会問題研究』(弘文堂書房、一九一九―一九三〇年)を刊行してその研究と普及に努めたりした。
 日本の哲学者も熱に浮かされた
 一八八三年のマルクス(Karl Marx, 1818-1883)の死以後、マルクス主義の哲学が語られるときに典拠とされてきたのは、多くの場合『反デューリング論』(一八七八年)や『フォイエルバッハ論』(一八八八年)などエンゲルス(Friedrich Engels, 1820-1895)の著作であった。マルクス自身の哲学的な著作が遺稿のなかから公にされたのは、ちょうど一九二〇年代から三〇年代にかけての時期であった。エンゲルスとの共著『ドイツ・イデオロギー』の第一巻第一章「フォイエルバッハ」が刊行されたのは一九二六年であり、『経済学・哲学草稿』がはじめて公にされたのは一九三二年のことであった。マルクス自身の思想を示すものとして、その公開は大きな注目を集めた。
 日本においてマルクス主義の哲学への関心が高まりを見せたのも、ちょうどこの時期においてであった。その中心にいたのが三木清であった。三木はヨーロッパ留学から帰国したのち、第三高等学校の講師を務めるかたわら、経済学部教授であった河上肇を中心として開かれていた研究会(マルクスの『経済学批判』などをテクストにしたので「経済学批判会」と呼ばれた)に参加したりしたが、この頃からフォイエルバッハの思想や唯物史観の研究に着手したと考えられる。三木は一九二七年に法政大学教授に就任し東京に移ったが、それ以後、矢継ぎ早にその研究の成果を、「人間学マルクス的形態」や「マルクス主義唯物論」、「プラグマチズムとマルキシズムの哲学」などの論文を通して発表し、論壇の寵児になっていった。
 三木のこのようなマルクス主義の哲学的な基礎づけの試みは、彼の周りにいた人々に大きな影響を及ぼした。その影響をもっとも強く受けた一人が戸坂潤であった。京都時代にすでに唯物論の研究を始めていたが、三木清が一九三〇年に当時非合法化されていた日本共産党への資金援助容疑で検挙され、法政大学教授の職を辞した翌年に法政大学の講師となり、活動の場を東京に移した。そこで岡邦雄や三枝博音らと唯物論研究会を組織し、『唯物論研究』を発刊して、わが国における唯物論研究を中心的に担い、同時に多彩な評論活動を展開していった。
 さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
 藤田正勝
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 『日本マルクス主義文献』と大正・昭和初期のマルクス・ブーム
 はじめに
 久保誠二郎
 この報告で取り上げる『日本マルクス主義文献』は、戦前の大原社会問題研究所で1929年に作成され、大正から昭和にかけての1919年~1927年までの範囲でマルクス主義文献を採録する文献目録である i。この時期の日本は言うまでもなく戦前の思想統制下にあり、マルクス主義文献の刊行は自由ではなかった。検閲による伏字、発禁処分、また執筆者や活動家の検挙も大規模に行われた。戦争の激化と敗戦に向けて、日本のマルクス主義は言論においても運動においても国家権力による過酷な弾圧のもとで窒息させられていくこと
になる。
 しかし、既に指摘されているように、こうしたイメージで戦前のすべてを塗りつぶすことはまったくできない。梅田俊英氏の研究によれば、「戦前の出版は国家権力によって厳しく規制されていた。しかし、戦前の一定時期においては相当広範に反政府、反国家、反社会体制の言論が成立しえた」としている。発達を遂げていくマスコミにたいして、検閲する側の事務官の決定的な人手不足が事前検閲をいわば機能不全に陥らせていたという。状況が大きく変わるのは1933年以後であり、戦時体制に向かいつつ出版統制が徹底されていくと指摘しているii
 『日本マルクス主義文献』に記録された数多くのマルクス主義文献のタイトルは、こうした見方を裏付けるものといえる。採録されたマルクス主義文献のタイトル数は―我々の作成した復刻版iiiにおいて―実に約900点にのぼるiv。採録から漏れた文献もかなりあると思われ、また採録期間に該当しない1930年代初めにもマルクス主義文献が数多く刊行されたことを考えれば、この当時にはまさにマルクス主義文献の一大ブームが存在した。
 従来、この時期のマルクス主義文献の隆盛には言及があるものの、実際に何の文献が刊行されていたのかについては、必ずしも十分な資料があったわけではない。この点で研究史における空隙を埋める資料的価値がこの『日本マルクス主義文献』にはあるだろう。
 この報告では、報告者らが翻刻した新資料『日本マルクス主義文献』を用いて、1920年代のマルクス主義文献の刊行の様相を示すとともに、この時期のマルクス・ブームをマルクス主義文献の大衆化という視点からも捉えてみたい。
 1、1920年代のマルクス主義文献出版の隆盛
 戦前の日本におけるマルクス主義の普及は、1919年前後をひとつの画期としている。ロシア革命(1917)、米騒動(1918)、また労働運動の高揚を背景に、マルクス主義への注目が高まり、1919年に雑誌『改造』、『我等』などマルクス主義文献を掲載する重要な雑誌が相次いで現れ、1920 年代から1930 年代前半にかけて、マルクス主義文献が盛んに刊行されることになる。『日本マルクス主義文献』が採録する時期は1919年~1927年までであるから、このマルクス・ブームのおよそ前半を捉えていることになる。
 2、採録された雑誌および叢書などのシリーズもの
 『日本マルクス主義文献』が採録する雑誌の幅広さは特筆すべきものがあろう。採録
象となった雑誌類は実に77誌にのぼり、学術誌、総合雑誌、機関誌など多彩である。ただし、目録に文献 1 点のみが記載されている雑誌もあり、頻繁にマルクス主義文献が掲載された『我等』や『改造』との掲載数の差は大きい。
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 KAKEN
 戦前日本におけるマルクス主義の教養化と大衆化―その文献史的研究―
 研究課題/領域番号 24530213

 研究機関 東北大学
 研究代表者 久保 誠二郎 東北大学, 経済学研究科(研究院), 博士研究員 (80400216)
 研究期間 (年度) 2012-04-01 – 2015-03-31
 研究課題ステータス 完了 (2014年度)
 配分額 *注記
  4,030千円 (直接経費: 3,100千円、間接経費: 930千円)
  2014年度: 1,170千円 (直接経費: 900千円、間接経費: 270千円)
  2013年度: 1,170千円 (直接経費: 900千円、間接経費: 270千円)
  2012年度: 1,690千円 (直接経費: 1,300千円、間接経費: 390千円) 
 キーワード マルクス主義普及史 / マルクス経済学 / 資本論 / 共産党宣言 / 大正昭和 / 発禁 / 出版史 / マルクス主義 / 社会主義 / 検閲 / 労働学校 / 戦前 / 大正・昭和初期 / 大正・昭和
 研究成果の概要
 戦前日本におけるマルクス主義の普及を、主にその出版史から考察した。研究成果として、1800点以上にのぼるマルクス主義文献を収録する文献リストを作成するとともに、学術あるいは社会運動を背景とする啓蒙書を探索、調査して特徴づけた。加えて、一部ではあるが社会主義文献への発禁処分の実効性を『出版警察報』(内務省秘密資料)から数値で明らかにするとともに、マルクス主義の普及と検閲に関する新たな課題を得た。
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 奈良大学リポジトリ
 タイトル 日本的教養(1):教養主義をめぐって
 著者 田中 文憲 (Tanaka fuminori)
 教養部
 出版地 奈良
 出版者 奈良大学
 上位タイトル 奈良大学紀要 (Memoirs of the Nara University). Vol.42号, (2014. 03) ,p.1- 22
 識別番号 ISSN 03892204
 抄録 本稿では、大正時代に日本に入ってきた「教養」の概念がどのように受け入れられ、日本人と関わってきたが、「教養主義」を手掛りに検討した。その結果、江戸時代からあった「修養」の概念が、明治時代にはぐくまれ、やがてそれが大正時代に「教養」にとって代られたことがわかった。
 古典の読書を通じて人格の陶冶を目指すというドイツ的教養の影響を受けた日本の「教養」は旧制高校生を中心に受け入れられ、彼らのエリート意識と不可分のものになっていった。この時代の「教養主義」を担ったのはケーベルの影響を受けた阿部次郎や和辻哲郎であった。
 やがて、マルクス主義の台頭とともに「教養主義」は衰退するが、戦争が本格化し、軍部が台頭するにつれてマルクス主義が弾圧されると、もう一度復活する。これが、河合栄治郎に代表される。いわゆる昭和教養主義である。戦闘的自由主義者であった河合もやがて軍部の圧力によって大学を追放される。
 戦後、ふたたび「教養主義」は復活する。というより、戦中戦後を通じて教養書は読まれていたのである。このため、軍国主義への反発と反省から、戦前にまさるとも劣らないほど「教養主義」が盛んになった。
 「教養主義」が没落するのは、高度経済成長の後である。日本人が豊かになり、大学進学率が高まり、みんなが中流意識を持つようになると「教養」は敬遠され、即物的な楽しみが求められるようになった。
 最終的に「教養主義」を崩壊させたのは、海外からの要求を受け入れ、バブルを発生させ、消費に走ったわれわれ日本人自身である。現在、教養は地に堕ちたままである。「教養」は復権されねばならない。それが時代の要請である。
 キーワード 修養 ドイツ的教養 教養主義
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 ウィキペディア
 マルクス経済学(英: Marxian economics)は、カール・マルクスの主著『資本論』において展開された、諸カテゴリー及び方法論に依拠した体系である。
 マルクスは、アダム・スミスデヴィッド・リカードらのいわゆるイギリス古典派経済学の諸成果、殊にその労働価値説を批判的に継承し、「剰余価値」概念を確立するとともに、その剰余価値論によって資本の本質を分析し、同時に古典派経済学の視界を越えて、資本主義の歴史的性格をその内的構成から解明しようとした。
 「マルクス経済学」「マルクス主義経済学」という用語は、ルドルフ・ヒルファディングの『金融資本論』序文(1909年)で登場したといわれる。

 歴史観
 歴史観では、ヘーゲル弁証法フォイエルバッハ唯物論を採り入れた唯物史観を唱え、下部構造(経済的要因、つまり生産力と生産関係の矛盾)が上部構造(政治体制など)を変化させる動因とした。資本主義の矛盾は、その延命のための帝国主義第三世界への搾取の激化(従属理論)、政府と金融が独占資本と協調して危機を管理する国家独占資本主義などを生むとした。現在(第一次世界大戦以降)の資本主義は国家独占資本主義であると規定される。
 最終的に資本主義はその内在する矛盾によって社会主義革命を誘発し、労働者階級のプロレタリア独裁を経て階級のない共産主義に必然的に至ると考えた。現実には資本主義が未発達または発達途上段階の旧ソ連、中国、ベトナムラオスなどで社会主義革命が起きている。
 日本でのマルクス経済学
 日本では、マルクス経済学の学派は、大きく分けて次の4つである。
 正統派(現在は講座派の流れをくむものが多い)
 宇野学派 - 資本主義経済が次第に陳腐化し自ら社会主義革命の条件を準備するという歴史の弁証法を採用するマルクス主義の立場に対して、宇野弘蔵は経済の好不況の循環メカニズムを学問的に解明するのに止める純粋経済学の立場を提唱した。
 市民社会派(レギュラシオン派)
 マルクス数理経済学
 日本では、経済学は長く「近代経済学」と「マルクス経済学」に分かれ、歴史的にはマルクス経済学の影響が強いという側面があった。
 早稲田大学慶應義塾大学東京商科大学ではマルクス派が主流とならなかった一方で、東京・京都の旧帝国大学の経済学部ではマルクス派が多数派となった。戦前の東京・京都帝大経済学部は、マルクス派、皇国経済学派、リベラル派の三つ巴であったが、戦後になって右翼系の経済学者が戦争責任を負わされる形で大学を追放されることとなり、その後任に左翼系のマルクス派が主流となる人事が実行された。
 日本の経済学界では戦後しばらく講座派、労農派らによるマルクス経済学が主流で、終戦直後の傾斜生産方式による戦後復興は、マルクス経済学者有沢広巳の発案である。
 冷戦終結後の日本は、社会主義国の崩壊の影響で大学でマルクス経済学を学ぶ学生が激減し、旧帝国大系の経済学部で近代経済学へ移行がみられた。マルクス経済学側でも「社会経済学」「政治経済学」と名称を変えて退潮を阻止しようと試みている。2022年時点で「マルクス経済学」の名称は、慶應義塾大学大阪市立大学にある。
 日本の経済史の分野においては、経済の有機的類型化の把握手法と経済体制の発展と矛盾の弁証法的記述において、研究が続けられている。
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 しんぶん赤旗  日本共産党
 「学問の自由守れ」貫く
 滝川事件と「赤旗(せっき)」
 弾圧に反対 運動を鼓舞
 (写真)滝川事件を報じる当時の「赤旗(せっき)」
 戦前の京都大学・滝川事件のころから、天皇制政府は、「学問の自由」の弾圧を強化しました。非合法だった日本共産党は当時の機関紙「赤旗(せっき)」で、学問研究の自由を守れと訴え、学生たちに影響を与えていました。
 時の政府は、京大の滝川幸辰(ゆきとき)教授の学説を「マルクス主義的」と決めつけ、1933年5月26日に休職命令を発令しました。「赤旗」は同日付で、「進歩的教授の罷免に反対して 天皇制の強化する 文化反動を撃退せよ!」という記事を出し、弾圧に反対しました。
 この記事は「天皇制政府は、大学の残る進歩的教授のすべてを一掃し反動的ブルジョア科学を強化」するものだと指摘。労働者に科学者とともに立ち上がるよう呼びかけました。
 この記事を書いたのは、当時、「赤旗」編集局員だった風早八十二(やそじ)氏です。戦後、49年の総選挙では日本共産党公認で当選(1期)しました。
 風早氏は33年6月1日付でも「大町勇吉」の筆名で、「滝川教授の追出しに反対して 政治的無権利の強化と闘え!」と書いています。
 戦後、弁護士として活躍した風早氏は、滝川事件が日本軍国主義による「戦争と政治反動のファッショ的強化の一環として生まれたものにほかならない」(『追想 末川博』)と述懐しています。
 「赤旗」はさらに、滝川事件に抗議して東京大学で2000人がデモをしたことなどを報道(同6月26日付)。学問の自由を守る論陣をはり、運動を鼓舞しました。
 「学問の自由」を守り、そのために活動する姿勢は、当時からの日本共産党と「赤旗」の一貫した姿勢です。
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 BESTT!MES
 リベラルは「隠れマルクス主義者」です。「偽装された左翼」と言ってもいいでしょう。
 日本人にリベラリズムは必要ない②
 田中 英道
 2017.04.28
 ナショナリズムの勝利というべきアメリカのトランプ現象、そこには「リベラリズム」の後退があった。新刊『日本人にリベラリズムは必要ない。』を上梓した、田中英道氏が昨今の世界情勢を読み解くキーワード「リベラル」を、その語義から解きほぐす。
 リベラルは「隠れマルクス主義」だ
 プロレタリアート革命は不可能であるという事実から、左翼という言葉のとれた、または左翼という言葉を意識的にはずしたリベラルは、同時に、自らの思想からマルクス主義という立場を隠し始めました。なぜならマルクス主義は、不可能が証明されたプロレタリアート革命を理論に含んでいるために矛盾を起こすからです。
 また、「自分自身はマルクス主義ではない」と思っているリベラルは、それを知らずに、あたかもやさしく、中立であるかのように振舞っているリベラルという言葉にごまかされて自称しているだけのことに過ぎません。
 リベラルは「隠れマルクス主義者」です。「偽装された左翼」と言ってもいいでしょう。ソ連崩壊で明らかになったように、事実上不可能となったプロレタリアート革命に代替する革命の方法をリベラルは模索しました。その模索の結果として何が出てきたかと言えば、たとえば「フェミニズム(男女同権論、女権拡張論)」がそうですし、「ジェンダー・フリー(社会的性別からの解放)がそうですし、「カルチュラル・スタディーズ(多種多様な文化的行動を主に権力との関係から研究する学問および政治的批判・運動)」や「多文化主義(異なる文化を持つ集団は対等な立場で扱われなければならないとする思想および政策)」などがそうです。
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 20世紀を動かし、革命と戦争による虐殺を繰り返したのが、マルキシズムボルシェビキファシズム、ナチズムであり、優生思想による差別主義と反ユダヤ主義であった。
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 日本を占領支配したGHQには2つの派があり、反ソ反共産主義保守グループと親ソ・親共産主義、リベラル派ニューディーラーグループである。
 前者についた敗戦利得者が、エセ保守、戦後の右翼・右派である。
 後者についた敗戦利得者が、リベラル左派である。
 両者とも護憲派である。
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 共産主義は血に飢えたイデオロギーで、共産党が支配する国家・地域では虐殺が起き、共産主義大義の為に戦争を引き起こしていた。
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共産主義によるウクライナ飢饉。
2017-09-26
☭18」─1・A─レーニンが起こしたウクライナ飢饉。800万人~1,450万人が餓死した。ホロドモール。1921年。~No.53・ @ 
2021-09-02
☭18」─1・B─ロシア革命の成功で歴史から抹消されたボルガ川流域での餓死者約500万人。1921年。~No.53 
2021-08-27
☭18」─2─スターリンの5ヵ年計画とウクライナ飢饉。犠牲者約600万人。~No.54 
2022-04-21
☭18」─3─ロシア人共産主義者によるウクライナヴィーンヌィツャ大虐殺。1937年・38年。~No.55 
2021-08-28
☭18」─4─第二次世界大戦ウクライナ蜂起軍。ナチス・ドイツのバビ・ヤール虐殺。~No.56 ⑭  
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ロシア人共産主義者ニコライエフスク虐殺事件。
2017-09-27
☭19」─1─共産主義大義・人民の正義による2,000万人大粛清。1936年。ソルジェニーツィンニコライエフスク虐殺事件。~No.57・ @ 
2020-05-18
☭19」─2─ニコライエフスク虐殺事件処理と日露の友好。~No.58No.59No.60No.61・ ⑮ 
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スターリン共産主義勢力の陰謀。 
2017-09-28
☭20」─1─対ソ極秘外交文書。ソ連の対日参戦、日本共産主義化計画・天皇制度廃絶陰謀。1945年~No.62No.63No.64・ @ ⑯ 
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 人類史上最悪なイデオロギー虐殺者は、中国共産党毛沢東であった。
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 転向共産主義者や隠れマルクス主義者が敗戦利得者である。
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 共産主義の5%支配理論。
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 有能な共産党員教師が3人いれば、日本の学校イデオロギー支配できる。
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 ローマ教皇バチカンカトリック教会は、絶対神と救世主キリストへの信仰を宗教破壊者であるマルクス主義共産主義から守る為に、ソ連・国際的共産主義勢力と戦う日本天皇と日本国を支持していた。
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 レーニンは、世界人民革命戦略から、中国共産党日本共産党など極東アジア共産主義者に対して、日本とアメリカを戦争させ世界戦争に拡大し、西洋列強の富と力の源であるアジアの植民地を解放するように示唆した。
 つまり、軍国日本が戦った日中戦争や太平洋戦争はレーニンが仕組んだ謀略であった。
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 大正12(1923)年9月1日 関東大震災
 9月16日 甘粕事件。白色テロ
 12月27日 虎ノ門事件。無政府主義者の難波大助は皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)を狙撃したが暗殺に失敗した。
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 大正13(1924)年1月5日 朝鮮人テロリスト集団の義烈団による二重橋爆弾事件。
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 昭和6(1931)年9月18日 満州事変。
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 昭和7(1932)年1月8日 桜田門事件。上海系朝鮮人テロリストによる昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件。
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 1月28日(~5月) 第一次上海事変勃発。
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 5月 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し「32年テーゼ=日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
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 スターリン日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
 イギリス、イタリア、ベルギーなど西洋諸国の各国の共産党は、自国の王室を人民の敵とは認めず、それ故に一度も「王室打倒」とは叫ばなかったし、ソ連・国際共産主義勢力も命じなかったし求めなかった。
 ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党共産主義者にも同様の文言を送った。
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 昭和8(1933)年頃から、日本人の共産主義者社会主義者から大量の転向が続出し、日本共産党治安維持法による弾圧で壊滅状態に追い込まれ、過激分子は地下に潜って反天皇反民族反日運動を続けた。
 転向を拒否した日本共産党幹部は、逮捕されて収監されるか、中国に亡命しソ連アメリカの支援を受けた。
 転向社会主義者や隠れ共産主義者で高学歴者は、エリートとして官公庁に就職し、戦後は敗戦利得者としてユダヤ系ニューディーラーの支援を受けGHQの日本占領政策に協力し、20万人以上の公職追放後は官公庁の高級官僚や民間企業の幹部に就任し政治や経済を動かした。
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 日本人共産主義者を庇っていたのが、敵日の中国共産党人民解放軍(現代の中国軍)であった。
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2022-01-10
☂目次:─9─日本共産党の皇室テロ事件と破壊活動防止法。2021年衆議院選挙。~No.1 * 
2018-07-21
☂02:─1─不破哲三共産党前議長講演概要。共産党は人民の勝利として天皇制度廃絶を訴えていた。~No.2No.3No.4・ @ 
2019-01-18
☂02:─2─日本共産党党是「日米安全保障条約廃棄」と「天皇制度廃絶」。共産主義の5%支配理論。~No.5・ @ 
2022-06-21
☂02:─3─日本共産党共産主義者の死に至る4つの病と6つのウソ。~No.6No.7 
   ・   ・   ・   
2018-08-29
☂03:─1─反天皇反日的日本人がなぜこんなに多いのか。原因は米国産「WGIP」にある。~No.8・ @ 
2023-01-04
☂03:─2─日教組日本共産党団塊世代を洗脳して反米親ソ、反天皇反民族の闘士に育てた。~No.9No.10 
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2019-05-15
☂04:─1─日本共産党幹部志賀義雄「(昭和)天皇は戦犯第一号だ!」。戦争犯罪人追及人民大会。1945年12月8日。〜No.11No.12No.13・ 
2019-08-09
☂04:─2─日本が原爆投下実験前に降伏できなかった訳。スターリンの陰謀。〜No.14No.15No.16・ 
2019-08-10
☂04:─3─日中戦争と日米戦争はロシア共産党の陰謀であった。〜No.17・ 
2022-03-04
☂04:─4─歴史の闇に葬られた戦後の新生日本共産党の不都合な事実。〜No.18 
2022-04-19
☂04:─5─敗戦混乱期の日本共産党と在日本朝鮮人連盟は一体化であった。〜No.19 
2022-05-04
☂04:─6─徴用工未払い賃金問題は在日本朝鮮人連盟が関係していた。〜No.20 
2022-05-05
☂04:─7─在日本朝鮮人連盟は朝鮮人徴用工の未払い賃金を日本共産党と山分けした。〜No.21 
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2022-01-11
☂05:─1─昭和天皇の側近と陸軍親ソ派は天皇共産主義国家建設を目指した。〜No.22 
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2019-08-23
☂:06:─1─日本共産党は、武力革命派と洗脳教育強化派に分裂した。〜No.23・ 
2022-06-12
☂:06:─2─朝鮮戦争時、ソ連軍による北海道侵略の企みと日本共産党武力革命派。〜No.24 
2022-12-31
☂:06:─3─日本共産党武装闘争路線と朝鮮戦争ソ連中国共産党の陰謀であった。昭和25年。〜No.25 
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2022-01-25
☂07:─1─共産思想と昭和21年の10月闘争、昭和22年のゼネスト敗北。~No.26 
2022-03-26
☂07:─2─戦後日本の新聞・雑誌・出版・ラジオは共産主義に乗っ取られ左傾化した。~No27 
2023-09-17
☂07:─3─民主主義を破壊しようとする「第4権力」=テレビ・新聞の誘導に乗るな。~No.28No.29 
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