🕯125)─2・D─幸運をもたらす座敷わらしは貧困ゆえに「口減らし」で殺された子供達であった。~No.269 

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 座敷わらしは、日本の妖怪であって、小悪魔や悪霊でもなければ天使やキューピッドでもない。
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 座敷わらしとは、主に東北地方に伝承が残る子どもの姿をした妖怪で、古い家や屋敷に住み、家に幸運をもたらすと信じられている。
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 2024年6月10日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【じつは残酷な伝承】座敷わらしの正体は「口減らし」で殺された子供⁉︎ なぜ幸運をもたらすのか?
 腰から下が血まみれで「負わりょ負わりょ」と泣く水子『好色一代女』井原西鶴 巻6 国立国会図書館
 圧殺されて、家の中に埋葬された子供の霊といわれる座敷わらし。昔は口減らし(間引き)のために、石臼で押し殺した嬰児を、土間や台所の下に埋める風習があったという。『鬼滅の刃』に登場し、幼少の頃に捨てられたという嘴平伊之助も、猪に育てられなければ、鬼と化していたのかもしれない。無残さを抱え持つ座敷わらしの実像とは、果たして?
■住み着くだけで繁栄を保証?
 その昔、ある人が、橋のほとりで見慣れぬ2人の少女に出会った。子供ながらも、どこか物悲しげな風情が漂っていたようである。奇妙に思って「どこからきたの?」と問いかけると、「山口の孫左衛門のところから来た」という。それから程なく、孫左衛門の家の主従20数人が、皆、茸(キノコ)の毒にあたって死に絶えた…とのことであった。
 冒頭からいきなり奇妙な一文を記したが、これは『遠野物語』に登場する座敷わらしにまつわる物語の一節である。『遠野物語』とはいうまでもなく、民俗学者柳田國男が著した、岩手県遠野地方に伝わる伝承などをまとめた説話集。その18話に記されているのが、このお話なのだ。
 遠野辺りでは、旧家の奥座敷に座敷わらしが住み着くことが、至極当たり前のように捉えられていたようである。多くは女の子あるいは男の子であるが、稀に大人、それも夫婦で住み着く場合もあるとか。夫婦喧嘩の末、片方が家を出て隣家に住み着いた後、片割れが隣家の繁栄ぶりを妬んで家に火を点けた…などの物騒な話(柳田國男著『石神問答』より)も伝えられている。
 いずれにしても、大方は、座敷わらしが住み着くことで、その家の繁栄が約束されたものと思われていたようだ。冒頭の孫左衛門の家には家人が20人以上もいたというから、相当な長者だったのだろう。その裕福な家の何が気に入らなかったのかわからないが、座敷わらしが立ち去ったことで、一気に没落してしまったのだ。となれば、座敷わらしとは福の神であると同時に、厄病神としての性格をも併せ持っていたことになる。何とも扱いに苦慮する厄介な存在といわざるを得ないのだ。
■眼に余るほど口減らしが横行したのは強姦や不義の密通のせい?
 それにしても、自身では何も手を下さずして住み着いた家の栄枯盛衰を左右するというのは、一体どのような神なのであろうか? 実は、これを「圧殺されて家の中に埋葬された子供の霊」とみなすのが、柳田國男に情報を提供したことでも知られる民俗学者佐々木喜善である。
 同氏によれば、もともとこの辺りでは、口減らし(間引き)のために、石臼で押し殺した嬰児(えいじ)を、土間や台所の下に埋める風習があったという。こうした子供の霊が度々出没して家人を驚かせてしまったことが、座敷わらし騒動の発端だろうというのだ。
 確かに、明治時代に至るまで、生まれたばかりの嬰児を殺すことは、現代人が想像するよりもはるかに多く、日常的に行われていたようである。理由は、不義の密通や強姦などによるものもあったかもしれないが、多くは、飢饉などを起因とする口減らしが目的であった。有効な避妊法や堕胎(人口中絶)の術が見当たらなかった当時としては、生まれた直後に殺す以外、手立てがなかったのである。
 その方法は、手っ取り早く口を手で塞ぐことが多かったようだが、それ以外の方法として、濡れ紙を口に当てたり、踏み殺したりする他、前述のように重たい石臼を載せて押し殺すという荒っぽい方法が取られたようである。元禄3(1690)年には「棄児禁止の布令」が、明和4(1767)年には「間引き禁止令」が発令されているが、それこそが目に余るほど口減らしが横行していたことの証である。
 ちなみに、当時の死産は10~15パーセント、5歳までの死亡率に至っては20~25パーゼントにも達していたとみられている。あまりにも死亡率が高かったこともあってか、7歳になるまでは人とはみなされず、「神の領域に属するもの」と認識されていたようである。そのため、幼児が亡くなることを「神に返す」と言い表していたとか。裏を返せば、幼児は人としてみなされないわけだから、殺害したとしても、罪の意識は現代人が想像するよりも遥かに低かったと考えられるのだ。
■福の神への転生を願う人々の思い
 それにしても、なぜ殺されたはずの嬰児の霊が、住み着いた家の繁栄を保証するというのだろうか? これは何とも謎である。せっかくこの世に生を受けて出生したものの、いきなり殺されてしまったわけだから、恨みを募らせ祟っても良さそうなものである。それにもかかわらず、正反対とも言える福をもたらすというのは、一体どういう理由からなのだろうか?
 ここで思い起こされるのが、『記紀』に登場する蛭子のことである。国土創生の神・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が夫婦のまぐわいをした後、最初に生まれてきたのが「骨のない水蛭に似た醜い水蛭子」であった。障害を持った子ゆえに、葦舟(あしぶね)に乗せて流してしまったという。何とも無慈悲としか言えない話であるが、その流れ着いたところとされる神戸市兵庫区和田岬周辺では、いつの間にか福の神・恵比寿として祀るようになったのである(西宮神社)。
 無慈悲にも流された(つまり殺された)嬰児は不運だったとはいえ、まだ人としての感情が芽生えていなかったが故に、恨みの感情さえ抱くことがなかったからと思われていたのかもしれない。それでも「生き延びたかった」という思いだけは、嬰児といえども強かったのだろう。その思いが霊となって浮かび上がってきたと考えられなくもないのだ。
 『記紀』の時代に未知の世界からやってきた奇しき神を福の神とみなしたように、近世に到るまで、奥座敷に現れる嬰児の霊をも福の神とみなしたいとの願いが、座敷わらしの説話となって語り継がれたのではないだろうか。
 ちなみに、『鬼滅の刃』には、嬰児殺しのシーンは登場しない。臨月を迎えた継国縁壱(つぎくによりいち)の妻が、腹の子共々鬼に殺されたことぐらいか。鬼の首切りの残酷なシーンはふんだんに盛り込んだものの、さすがに嬰児にまで、直接手をかけるシーンを描くことはできなかった。いうまでもなく、現代人の感覚からすれば、それはあまりにも残酷すぎるからである。しかし、飢餓に喘いでいた江戸時代の人々にとっては、自らが生き延びるための止むに止まれぬ行為と捉えられていたのである。
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 日本民族は、貧困生活ゆえに赤児を間引きで殺し、我が手で殺した赤児を水子・仏として弔い、妖怪として怖れて身近に置き、神として敬い祀り祈った。
 乳幼児の「間引きは」と老人の「姥捨て山」は、貧しさ故に「口減らし」として家族によって殺されるという点で似ている。
 日本の宗教観では、乳幼児と老人は神に近い存在とされていた。
 反宗教無神論を自慢する現代の日本人には、民族的な度量がない。
 戦後民主主義教育の根幹であるキリスト教価値観・マルクス主義価値観・中華儒教価値観では、解釈できない。
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 日本大百科全書(ニッポニカ) 「座敷わらし」の意味・わかりやすい解説
 座敷わらし ざしきわらし
 旧家に出没するとされた子供の妖怪(ようかい)。岩手県北上盆地を中心とする東北地方に伝承される。座敷ぼっこ、蔵っこ、蔵ぼっこ、蔵わらしなどの異称もある。通常は5~10歳の幼童で、赤ら顔(白いとする地域もある)のおかっぱ頭。その名のとおり蔵にいる場合もあるが、多くは深夜豪家の奥座敷に現れ、畳の縁(へり)や床柱を伝ってすたすたと歩き回り、寝ている人の枕(まくら)をいじったりする。胸にのられると、うなされることがある。いたずらや祟(たた)り、そして化けることはせず、これがいるうちは家運は繁盛するが、出没しなくなると傾くという。したがって、出没を家の誇りとしてたいせつに扱い、世間はこれを羨望(せんぼう)する。成り上がりの家にはけっして出没しない。
 座敷わらしの由来は、水や泉と関係の深い河童(かっぱ)にあるとする伝承があり、天竜川流域山村のカワランベと同系の、農作さらに家の繁栄に因果関係をもたせたものとも考えられる。旧家の没落に因縁づけて座敷わらしの消えたことを強調するのは、その神霊的性格に畏怖(いふ)を抱くためであろう。
 このほかに、ホソテとかナガテと称して、家の土間の片隅から手だけが伸びてくるという、間引き(堕胎)した赤児と関連させる伝承もある。昔話「竜宮童子」の、海底から黄金や宝物などの財または幸福をもたらす鼻たれ小僧は、福の神ヨゲナイと同じように祖霊を水神の小僧になぞらえたものか。いずれにしろ、種々の伝承に現れる彼の性格を考えれば、家の神の零落した姿ともいえるであろう。
 [渡邊昭五]
 『佐々木喜善著『遠野のザシキワラシとオシラサマ』(1974・宝文館出版)』
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「座敷わらし」の意味・わかりやすい解説
 座敷わらし ざしきわらし
 岩手県を中心に,東北地方でいわれる妖怪の一種。赤顔の5~6歳ぐらいの幼児の姿をし,村々の旧家の奥座敷にいるとされる。子供たちが遊んでいるなかに突然現れたりするが,その姿は子供たちには見えてもおとなには見えないという伝承がある。座敷わらしが家に幸いをもたらすとか火事の前ぶれをするという伝承も多く,本来は子供を家の守護霊とする信仰が,姿を変えたものではないかといわれている。
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 いわてのてっぺん「japanの郷 にのへ」
 日本の文化を守る
 亀麿神社 かめまろじんじゃ
 [ 人物、座敷わらし、文化・伝承 ]
 座敷わらしはいる?その「気」を感じたい人に。
 その名は、亀麿。
 「座敷わらし」がいると言われているのが、ここ金田一温泉。そのいわれは、こうでした。南北朝時代足利尊氏に追われこの地まで来た万里小路藤房には、幼い子が2人いて、長男を亀麿といいました。しかし亀麿は病に倒れ、6才で世を去ります。息を引き取る時亀麿はこう言いました。「末代まで家を守る」。それ以来亀麿が守り神となり、座敷わらしとなったのです。
 亀麿が逃げたのは?
 その家とは、旧家を旅館にした「緑風荘」でした。ここに伝承は続いたのですが、平成21年に旅館が焼けてしまいます。しかし、その時、この家にいた亀麿はその時、敷地内にある亀麿神社に逃げて無事だったと言われています。さて、本当でしょうか?
 亀麿神社基本情報
 住所
 岩手県二戸市金田一字長川41
 問い合わせ先
 金田一温泉旅館組合
 問い合わせ先電話番号
 0195-27-2540
 観光所要時間
 30分
 敷地内駐車場
 無料駐車場有
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 ウィキペディア
 座敷童子ざしきわらし)は、主に岩手県に伝わる妖怪。座敷または蔵に住む神と言われ、家人に悪戯を働く、見た者には幸運が訪れる、家に富をもたらすなどの伝承がある。柳田國男の『遠野物語』や『石神問答』などでも知られ、『遠野物語』の17話・18話および『遠野物語拾遺』87話に「ザシキワラシ」または「座敷ワラシ」の表記で話が掲載されており、17話には「この神の宿りたまふ家は富貴自在なりといふことなり」「ザシキワラシは座敷童衆なり」と記述がある。近年では、座敷わらしに会える宿として岩手県の「緑風荘」「菅原別館」「わらべ」などがテレビ番組や雑誌に取り上げられることでも知られている(後述)。

 家の盛衰との関連
 最も特徴的な民間信仰として、座敷童子がいる家は栄え、座敷童子の去った家は衰退するということが挙げられる。こうした面から、座敷童子は福の神のようなもの、または家の盛衰を司る守護霊と見なされることもある。
 『遠野物語』には、座敷童子が去った家の一家が食中毒で全滅した話や、岩手県土淵村(現・遠野市)大字飯豊(いいで)の資産家で、座敷童子を子供が弓矢で射たところ、座敷童子は家を去り、家運が傾いたという話が残されている。座敷童子の去った家が没落する話は、貧乏神が去った家が裕福になるという話と関連しているとの見方もある[8]。

 風習
 座敷童子奥座敷におり、その存在が家の趨勢に関ると言われるため、これを手厚く取り扱い、毎日膳を供える家もある。小豆飯が好物といわれることから、小豆飯を毎日供える家もあり、飯が食べられていないと家が衰退する前兆だともいう。座敷童子は狐持や犬神持に類似した構造を持つが、座敷童子の住んでいることを迷惑がらず、むしろ神として保護し、周囲の人間も座敷童子のいる家に対して一種畏敬の念を持って接する点が、それらとは異なる。

 起源
 参考:上田秋成雨月物語』より「貧富論」の銭の霊
 前述の佐々木喜善は座敷童子のことを、圧殺されて家の中に埋葬された子供の霊ではないかと述べている。東北地方では間引きを「臼殺(うすごろ)」といって、口減らしのために間引く子を石臼の下敷きにして殺し、墓ではなく土間や台所などに埋める風習があったといい、こうした子供の霊が雨の日に縁側を震えながら歩いていたり、家を訪れた客を脅かしたりといった、座敷童子に似た行為が見られたともいう。特に、前述の「ノタバリコ」や「ウスツキワラシ」は座敷童子の中でも下等なものとされており、前者は内土間から這い出て座敷を這い回り、後者は臼を搗くような音をたてたりと、気味の悪い振る舞いをするといわれていることから、これらの座敷童子に、間引かれた子供の埋められた場所が土間や臼の下などであることが関連しているとの指摘もある。
 このような間引きとの関連に加え、座敷童子のいる家が旧家であることや、村の外から訪れた六部(巡礼僧)を殺害した家が後に没落するという伝承と結び付けられて語られていることがあることから、座敷童子は村落共同体の暗部の象徴との指摘もある。
 高橋貞子著『座敷わらしを見た人びと』によれば、座敷童子は大工や畳職人が、家の工事の際に気持ちよく仕事できなかったことに対する呪いから生じたとする話も残っており、木片を薄く剥いだ人形を柱と梁の間に挟みこむなどの呪法があったという。
 河童を正体とする説も多く、淵に住む河童が近くの家に上がりこんで悪戯をするものが座敷童子だとする話や、河童が家に住み着いて座敷童子となった話などもある。
 また、座敷童子が子供の姿なのは、仏教でいう護法童子(仏法を守る童子姿の鬼神)が童子(子供)の姿であるように、子供を神と人間を繋ぐものとする民間信仰に由来するという説、または子供の姿が神性を体現しているなどの説がある。
 柳田國男は、高僧が天から呼んだ護法童子と同様、仏教や民間巫女の守護霊が、若葉の魂の清新さを尊重する信仰へとつながり、さらに神意を人間に伝えるため家の守護霊としての座敷童子信仰へとつながったとみている。柳田以降の民俗学でも、オクナイ様との繋がりや竜宮童子など異界から訪れる童子との関連などが論じられている。
 また、民俗学者小松和彦文化人類学的視点から童子に注目し、村落における家の盛衰や富の移動の問題を取り上げ、座敷童子の属性はイズナ使いなどの動物霊としての憑き物とほとんど重複しているとし、精霊がついている家の共同体の優越性と劣等性を詳しく分析し、座敷童子を民俗社会内、特に旧家層における貧富の差と変動の説明原理としている。
 上田秋成による江戸後期の読本『雨月物語』の「貧福論」で、陸奥国(現・青森県)の武士の家に銭の霊が小さな翁で現れて「黄金の精霊」を名乗り、「お金を大事にしてくれるから嬉しくて話に来た」という話があるが、文学博士・阿部正路はこれを座敷童子の祖型ではないかと考察している。

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 座敷わらし伝統の宿
 六風荘
 亀麿神社(わらし神社)について由緒
 ◎神社について
 緑風荘と関わりのある神社が3つございます。
◆お稲荷様
◆亀麿神社
 緑風荘の中庭に祠が2つございます。
 向って左側にお稲荷様を祀る祠
 向って右側に座敷わらし「亀麿」を祀る祠がございます。
お参りの際には両方とも参拝頂ければ幸いでございます。
金田一温泉薬師神社
 正面玄関から150m(徒歩2分30秒)の小高い丘に 金田一温泉薬師神社がございます。
 若干の坂道になっておりますので足元に気を付けて参拝頂ければ幸いです。
 <薬師神社の由来>
 開湯されて間もない頃、毎日湯治に通ってくる類まれな容姿端麗な気高い女性がおりました。
 雨の日も風の日も同じ時刻に現れたので村の人は一体その女性はどこから現れてどこに帰るのか、その正体を探しましたが分かりませんでした。
 しかし、ある夜、湯元の主人の枕元にその女性が現れて
 「しばらく湯治に通ったが私はこの世のものではない。直ちに社を建てて湯の神として祀ってくれ」と言いました。
 このお告げにより裏の小山に社を建て、薬師如来を祀ったのが金田一温泉薬師神社のいわれです。
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 遠野時間
 遠野のイベント
 大出早池峯神社
 ざしきわらし祈願祭
 event開催:2024年4月29日(月)
 place場所:大出早池峯神社
 info_outlineお問い合わせ:早池峯神社 |phone電話番号:0198-64-2455
 webホームページ:なし
 お知らせ
 社殿に多数の方が昇段してのご祈祷につきましては、ご参拝の方々の健康を第一と考え、控えたいと存じますので以下の通りのご祈祷とさせていただきたくご案内申し上げます。
 基本的には座敷わらし人形をお持ちの方の里帰りのおまつりとさせていただき、予め予約制とさせていただいております。
 受付時間 午前九時~午後二時
 また、後日の祈祷も予約制となっております。
 早池峯神社へ直接ご連絡願います。
 開催地:大出早池峯神社(place周辺MAP)
 観光・交通・旅程等に関するお問い合わせ
 一般社団法人遠野市観光協会(観光案内所・売店・休憩コーナー)
 〒028-0522 岩手県遠野市新穀町5番8号 (Google map)
 営業時間|8時30分~17時30分
 定休日|年末年始
 TEL|0198-62-1333/FAX|0198-62-4244
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