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死罪とは、江戸時代に庶民に科されていた6種類ある死刑のうちの一つで、斬首により命を絶ち、死骸を試し斬りにする斬首刑の刑罰のこと。付加刑として財産が没収され、死体の埋葬や弔いも許されなかった。罪状が重い場合は市中引き回しが付加されることもあった。
概要
盗賊(強盗)、追い剥ぎ、詐欺などの犯罪に科された刑罰である。強盗ではなく窃盗の場合でも、十両盗めば死罪と公事方御定書には規定されている。また、十両以下の窃盗でも累犯で窃盗の前科が2度ある場合、3度目には金額に関わらず自動的に死罪となった。しかし、窃盗でも昼間のスリと空き巣は、被害者自身が物の管理ができていなかったことを理由に、死罪が適用されなかった。
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2024年3月20日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「なぜ日本人は「道ばたの財布」を交番に届けるのか…「海外より礼節を重んじるから」ではない歴史的な理由
© PRESIDENT Online
外国人旅行客は「日本では落とした財布が交番に届くことが多い」と聞くと驚くという。こうした日本人の倫理観はどのように形成されたのか。仏教研究家の瓜生中さんは「日本人は歴史的に他社と共同で生活するムラ社会を築いてきた。その結果、個人の観念が希薄になり、社会秩序を保つ倫理観の高さを備えた」という――。
※本稿は、瓜生中『教養としての「日本人論」』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
なぜ日本人はお辞儀をするのか
若いサラリーマンが街中で携帯電話をかけながらぺこぺこお辞儀をしている姿をよく見かける。考えてみれば不思議な光景で、恐らく電話をしながらお辞儀をするのは日本人ぐらいのものだろう。ことほど左様に日本人は老いも若きもよくお辞儀をする。そこで、日本人は礼儀正しい民族であるということを自他ともに認めている。
このように、日本人がよくお辞儀をするのは神に対する態度のあらわれで、古くから培われてきたものである。神社の神前には「二拝二拍手一拝」という看板が掲げられている。言うまでもなく神前では2回平身低頭して、2回拍手を打ち、最後に1拝する。
これは神に対して最大限の恭敬の意を示す所作であるが、それが人間にも適用されているのである。神に対しては「二拝二拍手一拝」のように最大限の礼を尽くすが、人間の場合には長幼や親疎などによってお辞儀も使い分けられている。
例えば師や先輩、利害関係において優位に立っている人に対しては深々と頭を下げて鄭重に対応するが、友達や親族に対しては頭の下げ幅は小さくなり、ごく親しい相手には会釈程度で済ますこともある。
座布団を勧められてもすぐには応じない
また、近年は椅子に坐る生活が一般化しているが、日本には畳の文化があり、畳の上に坐る生活が長きにわたって続いてきた。他家を訪れたときには座布団を勧められても2、3回は固辞してから坐るのが礼儀とされてきた。これも日本独自の文化ということができるだろう。
もちろん、海外にも挨拶をする文化はある。しかし、とりわけ、欧米人は長幼の序や身分関係を重んじないことから、年少の者や下位の者が年長者や上位者に殊更に深々と頭を下げる習慣は見られない。ただし、抱擁や握手、接吻といった日本人には見られない習慣がある。
また、インドには五体投地という頭から足までひれ伏して神に恭敬の意を捧げる風習があり、日本にも仏教を通じて伝わり、寺院の法要などでは今もこれに近いことが行われている。しかし、それはあくまでも宗教的な儀礼であって、対人間に関してはそのようなことが行われているわけではない。
なぜ日本人は落とし物の財布を交番に届けるのか
日本人は拾った財布を交番に届ける。このことは落とし物がほとんど出てこない国に住んでいる外国人にとって驚くべきことらしい。そして、結果的に日本人の美徳の一つに挙げられている。
しかし、落とし物を届けるのは、果たして礼節を守る日本人の倫理観に基づくものなのであろうか。
日本人が落とし物を交番などに届けるのは、これまで長きにわたって暮らしてきた生活環境によるのではないだろうか。日本人は古くからムラ単位の狭い世界で生活してきた。ムラの住人はすべて血縁か顔馴染みで、どこの誰がどこに住んで何をしているかがすべて分かっていた。
ムラは農作業を共同で行う強固な集合体で、強い団結力を備え、ムラの掟によって整然とした秩序が保たれてきた。ムラの寄り合いや共同作業に欠席したり、他人のものを盗んだりすると、どこの誰の仕業かがすぐに分かってしまい、罪を犯した者は相応の罰を受けなければならなかった。
落とし物を届けなかったりすればどこの誰がネコババしたのかはすぐに判明したのである。たとえば、落とし物を我が物にして逃走したりすればたちまち生活の糧を失うことになる。だから、人によっては不承不承、持ち主に返したのである。
ムラ社会の秩序を保つための倫理観
一方で室町時代には名主を中心にムラの有力者で田畑や用水、入会地の管理などムラの重要事項を「村掟」として定める「惣村」が出現した。彼らは一致団結して自治的なムラの運営をしたのである。そして、大名など権力者の不正や横暴に対しては一揆を結んで結束を固め、不満が募ると蜂起して自らの要求を通そうとした。
このような農民の動きを警戒した徳川幕府は、農民の宗教的心情から衣食住に至るまで広い範囲で強固な規制を敷いたのである。そして、惣村に見られる強固な団結力を利用して農村の支配を強化したのである。その典型的な例が「五人組の制」で、村人を五戸一組にまとめて相互に監視させ、貢納などに関して連帯責任を負わせたのである。
もともと日本の社会は個人という観念が希薄な集団である。そして、その集団はムラのような狭い社会で、内部の人間はみな顔見知りで所在が分かっている。そのことがムラの秩序を保つ上での倫理観を形成したと考えられる。だから、その組織が崩れれば倫理観も崩れて秩序を失うことになる。
「個人」が特定されなければ闇バイトにも手を染める
戦後は都市に人口が集中して地方は過疎化が進んでいる。近年は「限界集落」という言葉が示すように、全国の集落(ムラ)は崩壊寸前か、すでに多くの集落が消滅している。都市部を中心に核家族化が進み、単身世帯も急増している。2020年の国勢調査で全世帯に占める単身世帯の割合は約38パーセント、1位の東京都は約50.2パーセントが単身世帯で、1980年と比べると約20パーセント増加している。
都会では隣組的な交流もほとんど見られず、隣人と会話を交わしたこともなく、顔も分からないというケースがほとんどだ。多くの人々は「隣は何をする人ぞ」で日々を暮らしているのである。それに加えてネット社会の進展で不特定多数の人同士の交流は盛んであるが、多くの人がハンドルネームを使い、所在も分からず顔も見えない交流が広く行われている。
ビジネスでは、今でも名刺を交換する文化は残り、お互いに相手の会社の住所は知っているが、相手の住まいは知らないことがほとんどである。そんな状況の中、ネットを媒介としていわゆる「闇バイト」と称する違法な仕事を紹介され、それに応募して特殊詐欺や強盗という凶悪犯罪に手を染める若者も増えている。
外部からの圧力がなくなれば倫理観も減退していくのが人間の本性であるが、その点「礼節を守る」日本人も例外ではない。
世の中が乱れると犯罪に手を染める人が増える
元弘3年(1333)、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇がいわゆる「建武の新政」を行い世の中の構造は180度転換した。これに伴って世の中は大いに乱れた。このとき、後醍醐天皇の御所があった二条富小路近くの鴨川の河原に「二条河原落書」として知られるものが掲げられた。この落書は市民の何ものかが書いたものだが、当時の混乱した状況を如実に伝えている。
冒頭で「此比(ごろ)都ニハヤル物、夜討、強盗、謀綸旨(にせりんじ)」といい、社会の乱れに乗じて夜討や強盗などの凶悪犯罪が多発したと言っている。また、「綸旨」とは天皇の意向を伝える命令文であるが、そのニセモノが横行しているというのである。世の中の乱れに応じて人心も大いに乱れると、人々は平気でウソをついて凶悪犯罪に手を染める者もいる。
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人情噺
落語 芝浜のあらすじ 江戸時代財布をネコババしたら
2023年7月22日
落語 芝浜
腕前はいいのだけど、酒ばかり飲んで何日も仕事に行っていない魚屋の勝五郎
女房は暮れも押し迫って正月を迎える金もないからと朝から勝五郎をたたき起こし、家を追い出して仕事に行かせた。
しかし芝の河岸に着くとまだ誰もいない。すると時を知らせる鐘が聴こえてきた。どうやら女房に一刻(二時間ほど)早く起こされたらしい。
しかたがないので浜辺で顔を洗ったりしていると、波打ち際に革の財布を見つける。
中を見てみると小判がザクザク五十両。勝五郎は慌ててそれを懐に入れると急いで家に戻ってきた。
芝浜小判
女房:
「おまえさん早いね。仕事はどうしたの」
勝五郎:
「そんなもん、もうやめだこの金があれば働かなくても楽が出来る祝い酒と行こうじゃねえか」
と長屋の飲み仲間を呼んでドンちゃん騒ぎ、そのまま酔いつぶれて寝てしまった。
あくる朝、女房に
女房:
「おまえさん仕事に行っておくれよ」
勝五郎:
「なに言ってんだ?昨日の五十両があるだろう?」
女房:
「五十両って何さ?しょうがないねえ、夢でもみたんだね」
金を拾った夢を見るなんて情けねえ、唖然とする勝五郎、それからは酒をやめ身を粉にして働くようになった。元々腕はいい勝五郎、3年経つ頃には、小さいながらも表通りに店を構えるまでになる。
そして大晦日のこと
芝浜除夜の鐘
女房:
「ねえ、おまえさん、ちょっと話があるんだけど、私の話が終わるまで怒らないで聞いてくれるかい?」
勝五郎
「なんだい改まって。なんだかわからないが約束しようじゃないか」
そこで女房は3年前の五十両の件を切り出した。
五十両、本当に拾ってきたと。大家さんに相談したら勝五郎のためにならないから夢だということにしてごまかせという助言に従ったこと。
五十両は落とし主が見つからなかったので、こちらに戻ってきたがそれを言うと真面目に働きだした勝五郎が元に戻ってしまうのではないかと思い言い出せなかったこと。
聞き終わって最初は怒った勝五郎だったが、女房の心遣いに感謝の言葉を口にする。喜んだ女房は3年ぶりに「好きなお酒を飲んでほしい」と勝五郎にすすめるが、勝五郎は杯を口まで持っていくと
勝五郎:
「やめとこう。また夢になるといけねえ」
落語 芝浜
勝五郎の商売について
芝浜魚
勝五郎が表通りに店を構えるまでは天秤棒の両端に商品を下げて売り歩く棒手振り(ぼてふり)という形態で魚を売り歩いていたと思われます。
魚に限らず棒手振りのような行商人の扱う品物は草履、野菜、油など多種多様で地方から出てきて、元手の少ない人間が始めるにはもっとも簡単にはじめられる商売でした。
3年で表通りに店を構えられたということは勝五郎の魚の目利きや包丁の腕前は確かだったといえそうです。
落語 芝浜余談
勝五郎が拾った財布について
江戸時代、落し物を拾ったら拾った人がまずその周辺に拾ったことを記した立て札を立て、落とし主が現れなければ町奉行に届け、奉行所でそれを公開することになっていました。
落とし主が現れると拾った人に報労金が支払われるのは現代と変わりませんでしたが現代の約一割と比べると江戸時代の比率は非常に高く50パーセントだったといわれます。
落とし主が現れなければ半年で拾った人のものになり、それは現代とそれほど変わりませんでした
ちなみにネコババすると現代では遺失物横領罪で「一年以下の懲役、または十万円以下の罰金、もしくは科料」となりますが、江戸時代では十両盗めば死刑と決まっていたので、窃盗ではないとはいえ定吉の妻の言う「首が飛ぶ」というのも大げさな話ではなかったといえそうです。
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いづつやの文化記号
2011.04.12
江戸おもしろ話! もし道端で小判入りの財布を拾ったら?
つい先だってとりあげた‘江戸時代の貨幣展’(拙ブログ4/5)で小判の話をしたので、今回は小判を拾った男たちのショートストーリーを佐藤雅美著‘縮尻鏡三郎 捨てる神より拾う鬼’(文春文庫 2010年10月)から。
8つの話からなるこの本の第3話がタイトルになっている。装画を描いているのは贔屓の村上豊。小判入りの財布を拾う話はこれではなく第7話の‘過ぎたるは猶及ばざるが如し’。縮尻鏡三郎シリーズは以前NHK金曜時代劇でドラマ化(主演は中村雅俊)されたので、ご存知の方もいるかと思われるが、これは第5弾。昨年5月には6弾の‘老いらくの恋’がでた。
7話は読み終えたあとタイトルがなるほどねと、合点がいくほどよくできた事件物。話は小判入り財布を4人の大工が拾ったところからはじまる。どんな顛末が待っているかは読んでのお楽しみ!で、ここでは江戸における拾い物事情について少々。
小判が12枚入った財布を道端で拾った大工4人はすぐに商家の小僧とか手代が集まってきたので猫ばばするわけにもいかない。だから、近くの自身番屋(交番兼区役所)に届ける。番屋ではこれを受けとり、‘金子の落し物あり。心当たりの者は届け出られたし’と書かれた立て札を脇に三日間出しておく。これを三日晒しという。
三日間告知して、落とし主が現れたとする。その場合、拾い主と落とし主とで折半する。今は拾った者は10%の謝礼しか受け取れないが、この頃は落とした者にも不念(不注意)があるということで半分の謝礼をはずまなければならなかった。落とし主が現れなかったら6ヶ月後にそっくり拾った者のものになる。これが‘御定書’で決められたルール。
おもしろいのは立て札には中に入っていた金子の額とか財布の形や柄についてはいっさい書かないこと。これは‘わたしが落とし主です’という、やたらな者の顔出しを防ぐため。でも、‘わたしのものだと思うのだが’と番屋に顔をだすやつが結構でてくる。いつの世にも図々しく恥知らずな者はいる。
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