🎑108)─9・L─戦前の漫画と日本画は軍国プロパガンダに利用された。~No.243 

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 2024年2月16日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「意外と知らない、戦時中の「漫画」の実態…プロパガンダ大国日本が描いた「虚勢・痩せ我慢・負け惜しみ」
 漫画を通してみる世界
 『太平洋漫画読本』(大日本赤誠会出版局、1941年6月20日発行)より
 筆者は2024年2月、パブリブ社より『鬼畜米英漫画全集』を出版した。「鬼畜米英」に「漫画」と、中々異様なタイトルに驚かれる方もいるかもしれない。と言っても、これはあくまで過去の漫画についての本であり、2024年現代のアメリカ合衆国・イギリスについて攻撃する本ではない。
 【写真】漫画の「暗黒時代」とは…?
 現代の日本において、漫画、まんが、マンガ、MANGA……という表記を見るとき、私たちは何を思うだろうか。
 恐らく最初に、そのストーリーや形式(ギャグ、恋愛、バトル、広報etc)はどうあれ、まず面白く、気負いせず、難しい学習などなしに娯楽や手っ取り早く読めるものとして認識する人が、多数を占めるだろう。
 書店や配信サイトに行けば、「燃え」であれ「萌え」であれ、いろいろな漫画が所狭しと並び日々更新されているのを見ることもできる。まさに日本は漫画大国である。
 しかし、日本の漫画はかつて、政治に強く関連付けられ、強く統制され、戦争の道具としてすら利用されていた時代があった。
 「日本はアメリカと戦争をしていた」
 『朝日新聞』1937年7月23日10面より。ディズニーのキャラクター、ミッキーマウスを題材にした子ども向け鉄道旅行企画「ミッキーマウス・トレーン」の紹介。戦前の子どもたちもミッキーに親しんでいた。
 「鬼畜米英」――。
 この言葉を目にする時、人々はどのような思いを惹き起こすのだろうか。
 現代においては、歴史に関心のある人々は別として、大多数の人々にとっては一つの悪趣味な言葉として記憶されているか、あるいは忘却されているのかもしれない。太平洋戦争中、特に戦況が悪化した戦争末期において、日本は国を挙げての神がかり的な米英憎悪に邁進し、「鬼畜米英」を始めとする数々の反米・反英・反アングロサクソン的スローガンに囲まれながら、多くの人々が日常生活を送っていた。
 筆者の幼少期(1990年代後半から2000年代)、「『かつて日本はアメリカと戦争をしていた』ことを最近の若者は知らない」という言説が、若者の無知を憂うような文脈で出回っていたのを覚えている。
 果たして本当にそうなのか、そうだとして「知らない問題」の本質とは何か、本題ではないのでここでは詳しくは掘り返さない。ともかく現代の社会において、普段我々の目にする様々な文化風俗は、「アメリカ合衆国」なる存在・勢力やそれ発の資本etcと密接であり、無論かつて戦争していた雰囲気などは当然感じられないし、今後も戦争が勃発するようには思えない……あくまで今現在は。
 明治維新以降、「文明開化」「和洋折衷」という言葉で表されるように、日清戦争不平等条約の改正、日英同盟日露戦争などを経つつ、日本はアメリカ・イギリスを始めとする西洋諸国の影響を多大に受けてきた。日英同盟のような外交的な便宜はもちろんのこと、民間における文化交流やアメリカへの移民も盛んであった。
 「戦後」と呼ばれる時代に生きる我々にとってそうであるように、戦前の人々も、米英発の文化や表現に親しんでいた。1930年代以降、徐々に国際社会で孤立し、また社会的に閉塞を強める中でも、雑誌では盛んにハリウッド映画のスチルやスターのゴシップが伝えられ、繁華街ではジャズバンドが本場顔負けの演奏を行いそれらのレコードも多数発売され、子どもたちはミッキーマウスやポパイやジグス(親爺教育)といったキャラクターまたはその海賊版に親しんでいた。
 1941年12月8日を境に人々の精神が全て切り替わったわけではないのだ。このように深く親しんでいたアメリカやイギリスへの視線はいつ・どのように変わっていったのか。戦前の多くの資料からその具体的な様相を、あるいは庶民を取り巻いていた空気を読み取ることは中々難しい。しかし、それを視覚的に強く伝えてくれるメディアが存在する。「漫画」である。
 戦前から漫画大国だった日本
 『東京パック』1905年4月、創刊号。北沢楽天が中心となり創刊した風刺雑誌。大判でカラーの漫画雑誌は好評だった。表紙は北沢楽天『露帝噬臍の悔』。日露戦争の戦況悪化で悔やむロシア皇帝
 日本の「漫画」は、手塚治虫石ノ森章太郎、あるいは有名なトキワ荘に暮らした面々によって戦後急に築き上げらたものではない。漫画も戦前から、江戸時代以前の戯画表現を引き継ぎつつ、海外と密接な交流を行いつつ発展してきた分野である。
 無論、現代の漫画とは手法やストーリーの展開の仕方などは大いに異なる点もあるが、通底しているものは変わらないし、近藤日出造横山隆一らのように戦前戦後を通して変わらず活躍した漫画家も多い。
 戦前、漫画は愛称や蔑称として「ポンチ絵」と呼ばれたが、このポンチはイギリスの著名な風刺雑誌『Punch』(パンチ)に由来する(1862年には、横浜居留地でイギリス人ワーグマンが『ジャパン・パンチ』を創刊)。明治維新後、早くも1870年代から、『絵新聞日本地』(「えしんぶんにっぽんち」と読み、ポンチとかけている)や、『團團珍聞』(まるまるちんぶん)といった風刺専門誌が登場し、政府による表現規制や弾圧にもめげずに漫画表現の幅をさらに発展させていった。
 個々人の漫画家の例を挙げれば、明治・大正・昭和の戦前を通し漫画を描き続け漫画界の長老でもあった北沢楽天は1890年代にオーストラリア出身の漫画家F・A・ナンキベルに師事して海外の最新風刺画技術を学び後に『東京パック』を創刊したし、それに続き一時代を築いた岡本一平も海外を旅して多くの芸術家と交流した(彼の息子が、世界的芸術家となった岡本太郎である)。「のらくろ」で著名な田河水泡も、海外の前衛的な芸術運動(ダダイズム未来派など)に影響を受けた「MAVO」(マヴォ)に参加しており、1929年には早くもロボットを題材にした漫画「人造人間」を描いている。
 日本が国際的に孤立していく1930年代に至っても、前述のように欧米のアニメや漫画は日本に流入し影響を与え続けていた。このことは多くの漫画家自身が自覚していたはずであったが、それでも閉塞を強めていく社会で「時流」「時局」なるものに抗うことはできなかった。
 1930年代後半、日中戦争が拡大して日・米英関係も悪化し、日本国内でも国民精神総動員運動などにより統制が強まっていくにつれ、漫画の表現の幅も加速度的に狭まっていった。
 そのような中でも、横山隆一は戦前・戦後を通す人気キャラクター「フクちゃん」を生み出したし、大正デモクラシーやプロレタリア運動の空気を記憶している漫画家たちは依然挑戦を続けていたが、次第に弾圧とそれによる「転向」も発生していった。
 総力戦体制が敷かれていく中で、あらゆる芸術も戦争に利用され、漫画も巻き込まれていく。1940年、それまで存在した「新漫画派集団」などの漫画家団体は、漫画家らにより自発的に「新日本漫画家協会」に再編され、その後大政翼賛会の強い影響下で『漫画』誌(副題は「見る時局雑誌」)を刊行した。そしてそこではルーズベルトチャーチルら敵国の指導者が徹底的に悪魔化されて描かれた。
 「哀れな敵」から「鬼畜米英」へ
 「ほうれん草の威力は銀幕の中だけさ……」。『アサヒグラフ』(朝日新聞社)1942年1月7日より、加藤悦郎「なげきのポパイ」。お馴染みのほうれん草ではなく、「無敵海軍」と書かれた缶を持つが……。水兵であるポパイは、敵軍の戯画的象徴として盛んに利用された。
 ハワイ真珠湾攻撃マレー半島への上陸に始まる太平洋戦争開戦後、東南アジアにおける緒戦の中で、連合国軍は敗退を重ねた。
 当初、漫画家たちは、日本の快進撃に抗えない、無力で哀れな存在として、敵兵や敵国を描いた。「アメリカは民主主義国家であり、労働意欲も低く、遠からず厭戦機運により連合国は敗北する」という希望的な観測も盛んに描かれた。真珠湾で撃沈した戦艦ネタや、東南アジアの攻略で大量に生じた捕虜ネタなど、一種余裕を感じさせる漫画も数多く描かれている。
 漫画に描かれる敵兵たちの姿はどこか間が抜けており、同情心すら感じられる漫画も存在した。一方で、漫画家達は敵国アメリカを描くとき、頻繁に高層ビルや大量の車といった「物量」も描いている。戦前に見たアメリカのイメージは完全に抜け切ることは無かったのだ。
 漫画は、写真やプロパガンダ映画などと並び、戦争を都合よく伝える大きな手段となっていた。物理的な検閲を必要とせず、描きたいものを取捨選択しユーモラスに自由自在に対象を描きかえられる分、写真や映画よりもさらに都合が良かったともいえる。そして、職を必要とし、また必ずしも社会的地位が高いわけではなかった漫画家たちも、戦争を利用した向きが無かったとは言えないだろう。
 戦時中にはさらに漫画家団体の統制が進み、1943年には北沢楽天を会長とする「日本漫画奉公会」が結成され、当時名前を知られていたほとんどの漫画家が関与した。横山隆一を始め、数多くの漫画家が戦地に渡り宣撫活動にも従事している。
 しかし、ミッドウェイ海戦ソロモン諸島での戦いを境に、日本軍は次第に劣勢となっていく。1944年に入り日本本土への空爆なども始まり、多くの国民にとって、アメリカ・イギリスら連合国軍は遠い戦地の存在ではなく、眼前の敵となった。さらに、戦地で連合国軍が行ったとされる残虐行為(遺体の損壊や病院船への攻撃など)が報じられ、国はプロパガンダの材料としてそれらの報道をまとめてメディアに活用させるなどし、一気にアメリカ・イギリスの悪魔化が進んでいった。
 戦争末期の、紙質も悪化しつつ刊行されていた雑誌には、もはやアメリカ・イギリスを世界から消し去り、そこで生まれた文化全てが過ちであったかのような記事が載り続けた。そして漫画もそれに追随していった。その極まった形である『主婦之友』(1944年12月号)では、アメリカの市民生活まで徹底的に罵倒する記事の隅に、毎ページ「アメリカ兵をぶち殺せ」などというスローガンが踊り続けた。そしてかつて戦時下ながらささやかな日常生活を描いていた杉浦幸雄の連載漫画「ハナ子さん」もデマのような米英憎悪を垂れ流す内容となっていた。漫画も、鬼畜米英一色となったのだ。
 漫画の暗黒時代
 1945年8月15日、敗戦。それは軍事、あるいは工業力や人的資源のみによって導かれた敗戦だったのだろうか。角川源義は、角川文庫の発刊宣言といえる「角川文庫発刊に際して」(1949年5月3日)において、こう始めている。
 「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した」
 今から戦前・戦時中の多くの文化や出来事を知り尽くし咀嚼することは中々難しいが、「漫画」という、ややユーモラスな様式・内容で示された戦中日本の「文化力」を見ていると、彼の言葉は猶更重く感じられるのではないだろうか。
 何ら断絶がないはずの漫画史において、「北沢楽天岡本一平」「のらくろ」などが象徴的に取り上げられる戦前と、「手塚治虫」「トキワ荘」などの昭和中期以降の伝説的な漫画史は、幾度となく語られる。
 しかし戦時中の漫画については、暗黒時代と言わんがばかりに、取り上げられることは少ない。戦時中の漫画からも、学べることは数多くあるのではないか。戦争とは何か。プロパガンダとは何か。表現規制のみならず表現統制とは何か。民族や文化や「国体」といった大きく曖昧でどうとでも操作できてしまう力に捻じ曲げられ、正確かつ合理的な判断が行えず、憎悪によって踊らされそして憎悪で「生活」出来てしまう社会とはどんなものなのか。漫画は強く、それらも視覚化してくれる。
 是非、拙著『鬼畜米英漫画全集』をお読みいただき、日本の漫画・コンテンツ史、日米交流史の裏面についても興味を持っていただければ幸いである。また、既刊の拙著『戦前不敬発言大全』『戦前反戦発言大全』も、当時の言論の表裏を示すものとして、是非あわせてお読みいただきたい。
 髙井 ホアン(作家・ライター)
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