🏞55)─1・B─大火のたびに屈せず復興、「日本の底力」は江戸時代から学べ。大火は人災。~No.236No.237No.238 

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 日本は、中華の中国や朝鮮とも違うし、西洋や中東とも違っていた。
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 2023年10月30日 YAHOO!JAPANニュース Merkmal「大火のたびに屈せず復興 「日本の底力」は江戸時代から学べ
 情報提供:Merkmal
 大火のたびに屈せず復興 「日本の底力」は江戸時代から学べ
 16回の大火災とその影響
 今回のテーマは、江戸で頻繁に起きた大火災とその対策・復興である。
 【画像】えっ…! これが江戸時代の「タクシー」です(計10枚)
 木造家屋が集中し、また炊事には竃(かまど)、照明には菜種油(なたねあぶら)、魚油(ぎょゆ。魚から採取した油)を燃やした行灯(あんどん)を使っていた。
 そのため、江戸時代は火の不始末によって火事が起きると、大惨事につながった。放火も少なくなかった。
 江戸時代約260年を通じて大火事は16回あり、死者は記録に残るだけで約16万人に及ぶ。不明者を加えれば死者はもっと多く、また、火事の回数は49回だったという説もある。
 江戸の6割を焼き尽くした明暦の大火
 なかでも語り継がれるのが、1657(明暦3)年の明暦の大火だ。同年1月18日、80日以上も雨が降らなかった乾燥した気候のなか、3か所で火事が連続して発生し、強風にあおられて燃え広がった。
 当時の消防技術は家屋を破壊して延焼を防ぐものだったが、それでは間に合わず、川や海のある地点で焼き止まるほか、打つ手がなかった。
 被災地は現在の千代田区中央区のほぼ全域、北は台東区、東は江東区、南は港区、西は新宿区まで。江戸の市街地の実に6割を焼き尽くした。死者は6万人とも、10万人ともいわれる。
 悲劇はさらに続いた。浅井了意(あさいりょうい)が著した仮名草子『むさしあぶみ』は、鎮火した後は一転して雪が降り、焼け出されて家のない庶民に凍死者が続出したと記している。
 このときに江戸城天守も焼失した。牢屋(ろうや)奉行が牢屋敷に収容していた囚人たちを逃すため、いったん解き放ち、全員が戻ってきたという逸話も残る。
 多くの教訓から進められた避難場所設置
 この苦い経験を生かし、江戸幕府はその後、防火対策に注力し、都市づくりを見直していく。それらの対策には、現在の東京に名残を伝えるものもある。
 そのひとつが、「広小路」の地名だ。住民が逃げやすいように道路を拡張し、広がった街路の数か所を「広小路」という火除地(ひよけち)としたのである。台東区にある上野広小路の名は、防災のために造成された「広い街路」に由来する。
 歌川広重の代表的浮世絵『名所江戸百景 下谷広小路』は安政年間(1854~1860年)に描かれた上野広小路だ。明暦の大火から200年後の光景だが、広い道が見える。右側の建物は呉服店で、屋号が「いとうまつざかや」とある。松坂屋上野店の前身である。
 『名所江戸百景 筋違(すじかい)内八ツ小路』も火除地だ。筋違とは複数の道が交差した地点のことで、八ツ小路は中山道をはじめとした八つの道が交わっていたが、実際には細い道を含めさらに多くの道が交差していた。現在の神田万世橋昌平橋の間に位置し、住所は千代田区外神田。中央線の線路沿いに、今も広場がある。
 東京都防災ウェブサイトによると2022年4月1日時点、大地震が発生した際には都内に約3200か所(協定施設等を含む)の避難所、約1600か所の福祉避難所が確保されており、収容人数は約320万人。江戸時代の火除地のプランが、避難所にアレンジ・拡大されて生きているといえよう。
 幕府は浅草にあった米蔵の食料を開放し、炊き出しを行った。都市の再建には家屋を建てる材木が大量に必要だったため、木材の価格高騰も抑えた。郊外の武蔵野に町人を移住させる計画もスタートし、家を失った人々が引っ越していった。
 橋の建設と火事からの避難経路の確立
 橋の建設も進んだ。河川は火をそれ以上先に延焼させない役目を果たしたが、同時に人々が逃げる際の妨げにもなったため、橋を架けて逃げ道をつくったのである。そうして架橋されたのが、隅田川の両国橋である。
 両国橋の建設を進めたのは、保科正之だった。正之は2代将軍・徳川秀忠のご落胤(らくいん)だった人物で、3代将軍・家光の異母弟としても知られる。明暦の大火が起きたのは家光没後で、ときの将軍は4代・家綱だったが、正之は家綱の後見という重職を担って江戸の復興を主導した。家光時代から信任あつかった宿老・酒井忠勝も、両国橋の架橋を提言したひとりである。
 江戸はもともと、千住大橋の他に隅田川に橋を架けていなかった。橋があれば敵が侵入しやすいため、防衛という視点から建設を禁止していたのである。
 だが、すでに太平の時代に移り、江戸が攻撃にさらされる危険は薄かった。幕府は方針を転換し、新大橋(1693〈元禄6〉年)、永代橋(1698〈同11〉年)と、新たな橋を築いていく。『東京市史稿橋梁篇』(1939〈昭和14〉年、東京市役所編纂)は新大橋について、
 「今一ツ中央に大橋興立(こうりゅう。建設すること)ナラハ、大ひ成る世の扶(たす)け」
 と記している。
 結果としてこれらの橋が隅田川の向こう岸の市街化を進め、本所・深川などの下町が発展し、江戸の中心地の人口密度を下げることにもつながっていく。
 町人の積極的な参加
 防火対策について、もうひとつ触れよう。
 JR神田駅の近くに「神田八丁堀跡」の解説板がある。これは、明暦の大火の後、防火のために築かれた八丁(約870m)の土手があった場所だ、1691年(元禄4)年に完成した。
 千代田区文化財ウェブサイトによると、
 「町人たちが自ら費用を負担して堀を開削した」
 とある。防火対策が庶民にまで浸透していたことをうかがわせる。なお、神田八丁堀は1950(昭和25)年に埋め立てられ、今は存在しない。
 これはすなわち、明暦の大火を機に、江戸の町が官民共同の復興事業によって、変貌していったことを意味していよう。災害が起きるたびに改善が行われ、街が様変わりしていくのは、江戸時代も現代も変わらない。
 歴史学者・土木工学者の竹村公太郎は著書『広重の浮世絵と地形で読み解く江戸の秘密』(集英社)で、こう述べている。
 「オフィスビルや住宅が密集している現在の東京は、その過密ぶりで、明暦の大火が起きる直前の江戸の姿と、とても似ている」
 いつ来てもおかしくないといわれる首都直下型大地震と、それに伴う対策・復興の原点を、江戸時代はわれわれに語りかけている。
●参考文献
・広重の浮世絵と地形で読み解く江戸の秘密 竹村公太郎(集英社
・家康の都市計画 谷口榮(宝島社)
・歴史都市防災論文集 Vol.9 江戸の火災とその避難路に関する研究(立命館学術成果リポジトリ
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 現代日本の防災と復興の原点は、江戸時代の徳川幕府の政策にあり、被災地の現場で主役として活躍したのは武士ではなく庶民であった。
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 日本民族の性格や素質・気質を育てたのは、数万年前の旧石器時代縄文時代からの伝統的和食と数千年前の弥生時代古墳時代からの破壊的自然災害であった。
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 5月24日 MicrosoftStartニュース AERA dot.「養老孟司「日本社会の根本は『天災』が変えてきた」 35年先の未来を読み解く
 養老孟司(ようろう・たけし)/1937年生まれ。近著に『ものがわかるということ』(祥伝社
 © AERA dot. 提供
 1988年5月の創刊から、AERAは今号で35周年を迎えた。35年前と現在では、社会も人々の生活も大きく変わった。これから先、35年先の未来には何が待ち受けるのか。解剖学者・東京大学名誉教授・養老孟司さんが語る。AERA 2023年5月29日号から。
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 長い歴史を見ると、日本の社会を根本から動かしてきたものは、天災ではないか。最近、そう考えるようになりました。
 たとえば今から100年前、1923年の関東大震災の後、大正デモクラシーの雰囲気が消え、田中義一の軍事内閣が成立しています。さらに遡れば、1853年のペリー来航の翌年以降、東南海地震と首都直下地震が併発する「安政の大地震」が起こります。平安時代源平合戦後、武家政治に転換しますが、ここでも地震がありました。鴨長明の「方丈記」に東南海で大地震が起こり、京都でも地震が半年続いたと書かれています。
 一般には黒船来航が明治維新に進む契機とされ、地震はほとんど表には出てきません。ですが、僕は災害により、その後何年にもわたり人々の日常生活が大きく変わったことが、社会を変容させたと考えています。
 では、今後起こるだろう社会を変えうるほどの大災害は何かというと、南海トラフ地震でしょう。ある専門家は2038年と予測しています。もし安政のように、首都圏直下型地震も同時に起これば、あるいは富士山噴火も起これば、多くの人々の日常生活が変わらざるを得なくなります。
 防災面での対策は各所で進んでいます。しかし、その後、人々の生活や社会をどう再構築するかという議論は、ほとんど聞いたことがありません。
 効率化で進んだ首都圏への一極集中は、天災時は最悪です。物流が断たれ、人々の食料とエネルギーの確保が困難になります。復興には莫大な資金が必要です。がれきなど大量に出る「災害ごみ」の処理も問題です。
 僕は日本の地域は比較的小さく分割し、自給自足に近い暮らしをするようになると予想しています。内田樹さんがかつて「廃県置藩(はいけんちはん)」と言ったように、藩ぐらいの単位です。これは現実的に動かせる社会でもあります。現代社会では見失いがちな自分の役割がはっきりします。他人も役割を果たしてくれないと困るという状況にたやすくなるし、したがって人と仲良くせざるを得ない。
■答えのない問題が残る
 おそらく問題は、それが国際的に許容されるかどうかでしょう。アメリカに支援を要請するか、中国が日本を買うか、そういう未来もあるかもしれません。
 ただ、現代社会はすでに人間にとって生きやすい環境ではなくなっていると思います。日本では少子高齢化が進み人口減少が続いていますが、これは先進国に共通した特徴です。生きづらさゆえでしょう。
 条件をもとにシミュレーションして結果を予測し、それに従って効率的に動くという近代化以降の考えは、軍事と経済には向いています。軍事と経済が加速した結果を、私たちはすでに見ているでしょう。あとに残るのは、答えのない、解決できない問題ばかりです。
 不幸なことに、人間にもそう考える癖がついてしまった。それがそもそもおかしかったのではないか。若者の死因に占める自殺の割合の高さを見るにつけ、そう思います。
 この20、30年の日本の状況を、経済では「失われた」といっていますが、確かにGDPは増えていません。実質賃金は上がっておらず、その負荷を国民が背負っている。けれども、エネルギーという視点で考えれば、この20年日本はエネルギーの増加を止めていたんです。自然を破壊してこれ以上の発展を望まなかったともいえます。それは、日本人が無意識に選択したことかもしれません。
 35年後ですか? 嫌な未来を考えればきりがありませんが、僕は未来を前向きにとらえています。生きているとはどういうことか、人生とはなんだ。昔ならヒマな学生が考えていたようなことを、大真面目に大人が考えなければならない時代になる。そして、そういう日常こそが、人間を決めるのだと思います。
 (構成/編集部・井上有紀子)
 ※AERA 2023年5月29日号
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