⚔56)─2─戦国大名は琉球を中継地とした海洋交通路を利用して海外進出していた。~No.240No.241 

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 琉球王国琉球人は、異族の明国・中国人より同族の日本・日本人に親近感を持っていた。
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 2023年10月18日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「ヨーロッパで“もっともたくさん絵に描かれた戦国大名”「Coninck van BVNGO」の正体
 鹿毛 敏夫名古屋学院大学国際文化学部教授
 16世紀に日本に群雄割拠した戦国大名。野心あふれる彼らは日本国内では飽きたらず、世界各地へ海外進出していた。
 外国の人々にとって戦国大名はどんな存在だったのか。
 ヨーロッパには戦国大名たちを描いた絵画が遺っている。そのなかで、もっともたくさんその姿を残す戦国大名がいる。その名を「Coninck van BVNGO」と表記された戦国大名の正体とは?
 *本記事は、鹿毛敏夫『世界史の中の戦国大名』(10月19日発売)から抜粋・編集したものです。
 ヨーロッパにもっとも影響を与えた戦国大名
 16世紀は、人類史上はじめて「世界史」と呼べるような地球的規模での人間のダイナミックな関係が生まれた世紀である。地球をそれぞれ逆まわりしてアジアで出会ったイベリア半島両国(ポルトガルとスペイン)の活動により、ユーラシアの東の端にある日本の状況も、さまざまな手法を使って彼らの本国に伝えられた。
 では、16世紀の日本社会をリードした「戦国大名」の存在はヨーロッパにどのように伝えられ、また、その戦国後期の日本社会はヨーロッパの人びとからどう認識されたのであろうか。
 例えば、織田信長が巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに与えた安土城とその城下を描いた屏風は、その後、ローマ教皇グレゴリウス一三世に献上された。
 しかし、私がこれまでに行ったヨーロッパにおける戦国大名関連の文献・絵画・版画等の史料調査で、最も多くの遺物を確認できたのは、天下統一に貢献した織田信長豊臣秀吉徳川家康、あるいは武田信玄毛利元就等の、日本史上で著名かつ評価の高い人物ではない。
 王冠をかぶった戦国大名
 実は、16世紀のヨーロッパ史との関わりにおいて最も多くの影響をおよぼした戦国大名は、「Coninck van BVNGO」(豊後王)等と表記される九州の大名大友義鎮(宗麟)である。
 大友義鎮(宗麟)
 ドイツ南部のバイエルン州に、ポンメルスフェルデンという人口2000人あまりの小さな町がある。18世紀初頭、マインツ選帝侯でバンベルク司教のロタール・フランツ・フォン・シェーンボルンは、この町にヴァイセンシュタイン城を造営し、その宮廷内を多くの絵画で飾った。シェーンボルン伯爵コレクションと称されるその絵画群のなかに、17世紀フランドルの画家アンソニー・ヴァン・ダイクが描いた作品がある。
 「ザビエルを歓迎する大友義鎮(ヴァン・ダイク画)
 作品のテーマは、二人の人物の出会いである。そのうち、画面左側の白いアルバを着た髭の人物はフランシスコ・ザビエルであり、彼は身をかがめて両手を広げ、壇上の面会者を敬意のまなざしで見上げている。一方、画面右側の王冠の人物は、壇上から歩み寄り、右手を差し出してザビエルを迎え入れるかのように歓迎している。
 美術史家の木村三郎氏は、1719年の美術館収蔵作品目録のなかでザビエルの面会者を「Kaiser von Japonien」(日本の王)としていることや、壇上の王が立ち上がってザビエルを「強い情念を抱きつつ迎えている」ことが、フェルナン・メンデス・ピント『東洋遍歴記』の「座っていた場所から5、6歩踏み出してきて彼を迎えた」と記す「豊後大名が、ザビエル師に示した敬意」の記事に一致することなどから、「当該作品は、ザビエルを歓迎する大友宗麟を描いたもの」と結論している(木村三郎「ヴァン・ダイク作、通称《日本の王に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル》について」)。
 大友義鎮を描いた絵画史料は、他のヨーロッパ諸国でも複数確認できる。
 【続きの「日本初紹介!ルーベンスの弟子が描いた戦国大名・大友義鎮の「驚きの姿」」では、ベルギーで発見され、日本では未紹介の大友義鎮の絵画史料を紹介します。】
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 一国の「王」として、東南アジア、南アジア、そしてヨーロッパへと「グローバル」に活動範囲を拡大していた戦国大名たち。その姿は世界の人々にどうとらえられていたのか?世界史のコンテクストに立つと初めて見えてくる戦国大名の新たな貌(かお)!鹿毛敏夫『世界史の中の戦国大名』は10月19日発売です!
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 10月18日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「意外と知られていない…「グローバル化」はいつから始まったか
 鹿毛 敏夫名古屋学院大学国際文化学部教授
 15世紀末~16世紀末の日本に群雄割拠した戦国大名たちは、東南アジアから南アジア、ヨーロッパへと海外に進出した。
 世界史のコンテクストで戦国大名をとらえなおすと、彼らの新しい貌(かお)が見えてくる。
 世界史のアプローチとして近年重要視されているのが、「グローバルヒストリ」ーの手法だ。どのような手法なのか。そもそも「グローバル」という概念はいつから生まれたのか。
 *本記事は、鹿毛敏夫『世界史の中の戦国大名』(10月19日発売)から抜粋・編集したものです。
 注目を浴びている「グローバルヒストリー」
 さて、歴史研究におけるグローバルヒストリーの手法の重要性が問われて久しい。
 従来の世界史は、世界の国民国家史や地域史の単なる寄せ集めであったり、高度な文明をもったヨーロッパがそうでない地域を支配・征服するという構図のヨーロッパ中心史観からの歴史というスタンスで叙述されてきた。そうした課題と偏見の克服という点において、地球的規模での世界の諸地域や各人間集団の相互連関を通じて新たな世界史を構築しようとする試みの意義は大きい。
 グローバルヒストリーは、現代において、世界中の学界で最も注目を浴びている歴史のとらえ方であり、とりわけ歴史学界の外部における、外交と国際政治、経済、環境など現代のグローバルな諸問題を考える動きに与えたインパクトは大きい(秋田茂「グローバルヒストリーが照射する新たな舞台」)。
 グローバルヒストリーによる歴史研究の特徴は、1. 長期の歴史的動向を問題にできること、2. 「海域アジア世界」のような広域の地域を考察の対象にできること、3. ヨーロッパ中心史観に代わる見方を模索・提示できること、4. 世界の異なる諸地域の相互の連関と影響を考察・解明できること、5. 奴隷貿易、移民、商人の通商ネットワークなど地域横断的な問題や、疾病・生態系・自然環境の変化など生態学や環境に関する問題など多様なテーマを論じることができること、にある(水島司『世界史リブレット 一二七 グローバル・ヒストリー入門』)。
 本書が目的とする「世界史の中の」戦国大名の考察・叙述において、こうした視点から歴史をとらえ直すことの意味はきわめて大きい。
 グローバル化の起源としての16世紀
 世界の一体化、グローバル化がいつから始まったのかという命題については、これまでにもさまざまな議論がなされてきた。相互に批判や反駁しあう諸説のなかで、「長期の一六世紀」にグローバル化の起源を求めるデニス・フリン説は魅力的である(デニス・フリン著、秋田茂・西村雄志編訳『グローバル化と銀』)。
 マゼラン(Gettyimages)
 スペインのカルロス一世が派遣したマゼラン艦隊は1521年にフィリピンに到達し、その後、1565年にはミゲル・ロペス・デ・レガスピがフィリピン遠征隊総司令官ならびに総督として、メキシコから太平洋を横断してセブ島に到達した。現地勢力への懐柔と戦いを繰り返しながら、レガスピは、1571年にルソン島のマニラに移動して都市を征服し、市政を敷く。
 以後、マニラは西太平洋におけるスペインの恒久的領土とされるとともに、太平洋をはさんでメキシコのアカプルコとの間に定期航路が開かれ、いわゆるガレオン船貿易が18世紀末まで継続した。
 フリン説によると、すでに16世紀の段階で、1. 東アジア・東南アジア世界とヨーロッパ世界との交易(ユーラシア大陸内陸部を通る陸上ルートと、海域アジアを通る海上ルートの双方)、2. 南北アメリカ大陸とヨーロッパ世界との交易(環大西洋ルート)、3. サハラ以南のアフリカ大陸とヨーロッパ世界との交易、が行われており、それはユーラシア大陸全体と南北アメリカ大陸、およびアフリカ大陸の一部を加えて、地球上の約3分の2の諸地域が長距離の大陸間交易でつながっていた。
 そこに、1571 年のスペイン領マニラの成立とガレオン船貿易の開始により、広大な太平洋世界をはさんでアメリカ世界と東アジア世界とが新たに結ばれることになった。
 地球上で約3分の1を占める太平洋世界が大陸間交易に組み込まれることにより、文字通り地球を一周する貿易ネットワークの原型が姿を現した、というのである。
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 16 世紀のグローバル化は、「大航海時代」のヨーロッパ勢力の拡張のみで説明できるのか?
 当時、一国の「王」として、東南アジア、南アジア、ヨーロッパへと活動範囲を拡大していた戦国大名たちは世界でどうとらえられていたのか?
 詳しくは、鹿毛敏夫『世界史の中の戦国大名』(10月19日発売)でお楽しみください!
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 10月21日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「戦国大名の「これまで知られなかった顔」を発見した「歴史学の新たな手法」
 鹿毛 敏夫
 © GettyImages
 「戦国大名」とはどんなイメージだろうか。
 領地をめぐる戦に明け暮れていた姿を想像する人も多いだろう。「日本史」の授業や、歴史ドラマによって出来上がったイメージだ。
 しかし、それは戦国大名の活動の一部にすぎない
 歴史学の「新たな手法」を使えば、戦国大名の「これまで知られなかった顔」が見えてくる。
 *本記事は、鹿毛敏夫『世界史の中の戦国大名』(10月19日発売)から抜粋・編集したものです。
 歴史学における「急務」
 戦国大名は、決して国内の国盗り合戦に終始したのでなく、「領国」の為政者として多様な外交チャンネルの締結を模索しながら、対外的な活動を繰り広げていた。
 そうした意味で、この時代を歴史的に評価するには、日本史の文脈と世界史の文脈を人間集団間の関係性を強く意識しながら相対的に結び付けていく営みが大切である。
 近年、世界史と日本史の統合が急務と言われるようになっている。
 かつての大学の史学科にありがちな「日・東・西」(日本史・東洋史西洋史)の枠組みに不必要に縛られることなく、各専門分野の研究者が、あえて不得意な非専門分野に入り込み、慣れない史料と格闘するなか、自己の専門分野の研究成果を相対化させることで、より客観的な歴史科学のあり方が見えてくるだろう。
 現代国民国家の歴史としての「内向きの日本史」「各国の世界史」ではなく、人間集団間の関係性や相関性をより強く意識した相対的論理思考で、日本史の文脈と世界史の文脈を結び付けていく作業が大切である(羽田正『新しい世界史へ―地球市民のための構想』)。
 日本史・アジア史・西洋史等の歴史空間軸を同時代史的にとらえ、かつ、文献史学・考古学・分析化学等の学問軸を横断する学際的研究を進めていくことで、これからの世界にとって有益な相対化された歴史研究の成果が生まれるものと期待される。
 「世界史の中」の戦国大名が見せるこの新たな歴史像は、時代を個別国家の枠組みを超えてとらえ、従来の国民国家史を相対化して考えていく新しい歴史学の手法につながるものと考えたい。
 戦国大名と呼ばれる日本列島内の地域社会の為政者は、列島の外の世界に向けてどのような活動をし、またその活動が周辺諸国にいかなる影響をおよぼしていたのか。そして、16世紀における彼らの動きは、その後の近世・近代日本社会の動向にどう結び付いていったのか。
 「世界史の中」での戦国大名は、きっと読者の皆さんがよく知っている「日本史の中」の戦国大名とは異なる別の姿を見せるはず。まずは第1章、かつてあの足利義満が国交樹立のためにひれ伏したことのある強大な明王朝を相手に、表裏を使い分けた計略を凝らしながら精一杯の背伸びをして外交交渉に挑む戦国大名たちのようすから紹介していくことにしよう。
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 一国の「王」として、東南アジア、南アジア、そしてヨーロッパへと「グローバル」に活動範囲を拡大していた戦国大名たち。その姿は世界の人々にどうとらえられていたのか?世界史のコンテクストに立つと戦国大名の新たな姿が見えてくる!
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